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異世界料理道  作者: EDA
第八十二章 群像演舞~九ノ巻~
1423/1686

    暴食の徒(三)

2023.11/22 更新分 1/1

 その日、彼は眠れぬ夜を過ごすことになった。

 屋台の食事で得た喜びと、ヤミル=スンの冷たい笑顔から得た悲しみが、ぐちゃぐちゃに入り乱れて心の中を駆け巡っているような心地であったのだ。


 どうしてあの食事は、こんなにも彼の心を震わせるのか。

 どうしてヤミル=スンの笑顔は、こんなにも彼の心を沈ませるのか。

 彼には、何もわからない。ただ、常にはない喜びと悲しみが心を蹂躙するのを、必死に耐えるばかりであった。


 そして、翌日――彼は朝から泣きわめくことになってしまった。

 どうしても、乱された心がもとに戻らないのだ。こんなに激しく心をかき乱されたのは、まだ彼我の区別もついていなかった赤子の頃以来であるはずであった。


「うるせえぞ! 馬鹿でかい声で泣いてんじゃねえよ!」


「いよいよおかしくなっちまったのか? いい加減にしねえと、本気で叩ッ斬るぞ!」


 ディガ=スンやドッド=スンが大声でわめきながら、彼の身を蹴り飛ばしてくる。

 しかしそれでは、悲しい気持ちがつのるばかりであった。


「ミダは……もういっぺん、あの食事を食べたいんだよ……?」


 あの食事を口にすれば、喜びの思いで悲しみの思いを和らげられるかもしれない。

 そんな風に考えた彼は、よたよたと集落を出ていこうとしたが――その眼前に、テイ=スンが立ちはだかった。


「お待ちください。銅貨も持たずに町まで下りても、何も食することはかないません」


「だったら……銅貨が欲しいんだよ……?」


「今月の銅貨は、昨日でつかいきってしまいました。どうか、あきらめてください」


 彼はその場にくずおれて、また泣き伏すことになった。

 そこにひたひたと近づいてきたのは――ヤミル=スンである。


「ひどい騒ぎね。いったい何事なのかしら?」


 テイ=スンが事情を説明すると、ヤミル=スンは冷たい目でディガ=スンやドッド=スンを見回した。


「それであなたたちが、ミダに乱暴をしたわけね。ミダが本気で逆らったらあなたたちに勝ち目はないでしょうに、よくもそのような真似ができるものね」


「へん! こいつが俺たちに逆らえるわけねえだろ!」


「そうかしら? ギーズだって追い詰めればギバに噛みつくというし……あなたたちは、ミギィ=スンを見習えるほどの力を持っているのかしら?」


 ヤミル=スンのそんなひと言で、ディガ=スンたちは震えあがることになった。


「な、なんでいきなり、ミギィ=スンが出てくるんだよ? あんなやつ、関係ねえだろ!」


「本当に関係がないと思っているなら、おめでたい限りね。あなたたちはミギィ=スンの呪縛から逃れるために、あいつの真似をしているだけじゃない」


 そう言って、ヤミル=スンは唇を吊り上げた。

 彼を悲しい気持ちにさせる、冷たい笑みである。


「そんなに暴れたいなら、別の獲物をあてがってあげるわよ。だから、ミダにかまうのはおよしなさい。敵と味方の区別もなく暴れるようだったら……それこそ、ミギィ=スンと同じ運命を辿ることになるわよ?」


「はん! 俺たちはギバなんて狩らねえからな! あいつみてえに森で野垂れ死ぬことはねえよ!」


 ディガ=スンは、顔を歪めて哄笑をほとばしらせた。

 またそうやって、苦悶と悲しみを吹き飛ばそうとしているのだ。


 何もかもが、彼を悲しい心地にさせていく。

 そして、ディガ=スンとドッド=スンがどこへともなく立ち去ると――ヤミル=スンは、ほとんど聞こえないぐらいの声で囁いた。


「やっぱりあいつらは、もう駄目みたいね。……可哀想だけど、わたしと同じ運命を辿ってもらうしかないわ」


 彼が涙に濡れた目を向けると、ヤミル=スンは冷たい笑みで心を隠した。


「ミダ。あなたはそんなに、昨日のギバ料理を口にしたいのかしら?」


「うん……ミダは、あの美味しい食事をおなかいっぱい食べたいんだよ……?」


「そう。それじゃあ……あと数日だけ、我慢なさい。その若衆を、このスンの集落に連れてきてあげるから」


 ヤミル=スンは、昨日よりもさらに冷たい顔で笑っていた。

 つまり――それだけ大きな苦悶を抱えてしまっているのだ。


「わかったら、あなたも家にお戻りなさい。テイ=スンはちょっとわたしと話があるから、森に入るのはその後でね」


 ヤミル=スンとテイ=スンも立ち去って、その場には彼だけが残された。

 彼は重い足を引きずって、家を目指す。そうして戸板に手をかけると、何か小さな声が聞こえてきた。


「大丈夫……あなたは、大丈夫よ……」


 それは、オウラ=スンの声であった。

 いつもの虚ろな声ではない。どこか、懐かしい――彼の気持ちを温かくしてくれる声だ。


 彼は戸板に指をかけて、少しだけ開いた隙間から家の中を覗き込んだ。

 広間の真ん中で、オウラ=スンが座している。そしてその手が、ツヴァイ=スンの小さな身体をぎゅっと抱きすくめていた。


「スンの人間は、みんな力を失ってしまったけれど……あなただけは、大丈夫……あなただったら、きっと幸福な行く末を迎えることができるわ……いつか、平和な世がきたら……あなたが、みんなを導いてあげてね……」


 オウラ=スンは、とても優しい眼差しになっていた。

 そしてツヴァイ=スンは赤ん坊みたいにまぶたを閉ざして、母親の胸に取りすがっている。その小さな顔もまた、とても安らいでいた。


 それで彼は、理解できた。

 オウラ=スンもまた、普段は大きな苦悶と悲しみにとらわれているが――今はツヴァイ=スンのために力を振り絞って、優しい言葉を投げかけているのだ。

 その温もりが、ツヴァイ=スンに力を与えている。だからツヴァイ=スンはこの集落でただひとり、まぶしい輝きを保っているのである。


 彼はそっと戸板を閉めて、家から離れた。

 しかし、向かうべき場所はない。どこに行っても、そこには苦悶と悲しみしかなかったし――そして彼には、優しい言葉を投げかけてくれる母親も存在しなかった。


 彼の母親は、彼が生まれてすぐに魂を返してしまったのだ。

 それに、ヤミル=スンにもディガ=スンにもドッド=スンにも、母親はいない。それらの母親がみんな魂を返したからこそ、オウラ=スンは5番目の伴侶としてズーロ=スンと婚儀を挙げることになったのである。


 彼は手近な木にもたれて、座り込んだ。

 そして、一刻も早くあの屋台の料理を食べたい、と――ひとり涙を流すことになったのだった。


                  ◇


 ヤミル=スンの約束が実現したのは、それから数日後のことであった。

 あの黒い髪と瞳をした若衆が、スンの集落にやってきたのだ。


 それに気づいた彼は、また我を忘れて若衆のもとに駆け寄ってしまった。

 すると、そばにいた女衆が木の棒を足もとに投げつけてきて、派手に転ぶことになってしまった。


 それは、若衆とともに屋台で働いていた女衆であった。

 そして、若衆のもとには別の女衆が覆いかぶさっていた。

 さらに、年をくった女衆が彼を怒鳴りつけてきた。


「晩餐は日が沈んでからだよ! それまでは大人しくしておきな!」


 ツヴァイ=スンの他に彼を怒鳴りつけるような女衆と出会ったのは、それが初めてのことであった。

 というよりも――彼は余所の女衆と口をきいたこともなかったのだ。祝宴などでは眷族の女衆を招くこともあったが、そういった人々は決して彼に近づいてこようとしなかったのだった。


 彼を怒鳴りつけたのは、ずいぶんと体格のいい女衆である。スンの集落に、これほど体格のいい女衆は存在しなかった。

 彼を転ばせたのは、やたらと肉づきのいい女衆である。とろんと眠たげな目つきであるが、とてもとげのある視線で彼をねめつけている。

 そして、若衆に覆いかぶさっていたのは、黒い髪をした小柄な女衆だ。その女衆も、力強い眼差しで彼のことを見据えていた。


 このように毅然とした女衆の一団を眼前に迎えるのは、初めてのことである。

 それに比べれば、黒髪の若衆のほうがよほど優しげであるように感じられた。


「だいたい、こんな日も高いうちから、あんたはいったい何をやってるのさ!? 狩人だったら、森でギバを追ってる頃合いだろう?」


 年をくった女衆が、そのようにまくしたててきた。

 余所の人間とギバ狩りについて語ることは、禁止されている。だが――彼は何だか背中がむずむずとして、黙っていることができなかった。


「今日のお仕事は終わったんだよ……ミダは、でっかいギバを捕まえたんだよ……?」


「ふうん? そうなのかい? それじゃあそのギバはどこにやっちまったのさ?」


「ヤミルの家に吊るしてきたんだよ……ほら、嘘じゃないんだよ……?」


 彼が得物の棍棒を差し出すと、そこにこびりついた血や毛を目にした女衆がとたんに表情をやわらげた。


「狩人の仕事は立派に果たしたんだね。だったらきちんと美味しい食事を食べさせてあげるから、家で大人しく待ってな。肉は、これから焼くところなんだからさ」


 そのように語りながら、女衆は彼の腕を優しく叩いてきた。

 その優しい力加減に、彼はつい「うへへぇ」と笑ってしまう。

 彼がこのように笑うのは、いったい何年ぶりのことであったか――彼には、思い出すこともできなかった。


 彼はその喜びに背中を押されたような心地で、若衆のほうを振り返る。

 黒い髪と瞳をした、町の人間なのに森辺の装束を纏った若衆――間違いなく、あの日に屋台で働いていた人物である。


「……本当に来てくれたんだね……ヤミルが言ってたのは嘘じゃなかったんだね……」


「……どうも、おひさしぶりですね」


「嬉しいなあ……ミダに美味しいものを食べさせてくれるんだね……?」


「はい。そして明日からも美味しい料理が食べられるように、スン家の方々にその作り方を教えている最中だったのですよ?」


 黒髪の若衆は、とても真剣な眼差しをしていた。

 その身はとても痩せ細っていて、森辺の女衆よりもうんと弱そうであったのに――しかし、その心には驚くほどの力があふれかえっているように感じられた。


 この若衆はこんなにも強い力を持っているから、あんなにも素晴らしい食事を作ることができるのだろうか。

 そんな風に考えると、彼の心には喜びとも何ともつかない感情がわきあがってやまなかったのだった。


                  ◇


 そして、その夜――

 彼はツヴァイ=スンとオウラ=スンと3人きりで、若衆たちが作った晩餐を食することになった。

 他の家人たちは、祭祀堂で過ごしている。今日は家長会議という日で、あちこちからさまざまな人間が押しかけているため、その相手をしているのだ。


 しかしそのようなことよりも、彼は眼前の食事に心を奪われていた。

 そこには、素晴らしい香りを発する料理が山積みにされていたのだ。その香りを嗅いでいるだけで、彼は我を失ってしまいそうだった。


「これが、美味なるギバ料理というものであるのね……町の人間がギバの料理を買いつけるだなんて、いまだに信じられないのだけれど……でも確かに、この香りには心をひかれてならないわ」


 オウラ=スンが感情の定まらない面持ちでそのようにつぶやくと、ツヴァイ=スンはいつもの調子で「フン!」と鼻を鳴らした。


「なんでもいいから、まずは味を確かめるべきじゃない? 本当にそんなもんで商売ができるとしたら、こいつは森辺の一大事なんだからネ!」


「ええ、そうね……それじゃあ、いただきましょう」


 オウラ=スンが食前の文言を唱え、彼とツヴァイ=スンがそれを繰り返した。

 そうして、そちらの食事を口にした彼は――まさしく、数日前と同じ喜びを授かることになった。


 これまで味わったこともない喜びの塊が、口から腹まで流れ込んでいく。

 しかも今日は、その食事が山ほど準備されているのだ。それらの食事を次から次へと口の中に放り込んでいくと、喜びの思いが絶え間なく彼の全身を駆け巡った。


 屋台で売られていたのと同じ料理も、もっと噛みごたえのある肉焼きも、香ばしく焼きあげられたあばら肉も、妙に透き通った汁物料理も、何もかもが美味しくてたまらない。そして彼が思うさま食べ続けても、食事の山はまだまだ残されていたのだった。


「これは、本当に……驚くべき味であるようね」


 やがてオウラ=スンが、感心しきった様子でそのようにつぶやいた。


「キミュスやカロンに比べると、ギバの肉はとても臭みが強いはずなのに……その臭みだけが消されて、肉の味だけが残されているように感じられるわ」


「……フン。この焼きポイタンとかいうやつだけは、ずいぶん奇妙なシロモノだけどネ」


 そんな風に応じたツヴァイ=スンが、じろりと彼をにらみつけてきた。


「アンタも肉ばかり食べてないで、こいつを片付けなヨ。ヤミルはわざわざアンタのために、普段の倍ぐらいの食事を準備させたって話なんだからサ」


 ツヴァイ=スンが指し示すのは、丸くて平たい生地の山である。屋台ではよく見かける食べ物であったが、それを森辺で目にするのは初めてのことであった。

 彼がそれを口にしてみると、まさしく屋台で使われているものと同じような味と噛みごたえである。であればそれは、肉とともに食することで大きな喜びをもたらしてくれるはずであった。


「……ミダ。町で屋台の料理なんかを口にしたことがあるのは、アンタだけのはずだよネ。こいつは本当に、町の連中が作る食事よりも上等な出来栄えなのかい?」


 ツヴァイ=スンが真剣な眼差しでそのように問うてきたので、彼は口の中身を呑み込んでから「うん……」と答えてみせた。


「こんなに美味しい食事は、他に食べたことがないんだよ……? だからミダは、ずっとこの食事を食べたかったんだよ……?」


「フン……だとすると、こいつはいよいよのっぴきならない事態だネ」


 ツヴァイ=スンの言葉に、オウラ=スンは不思議そうな顔をした。


「のっぴきならないというのは、どういうことかしら? ギバの食事で銅貨を稼げるのなら、それはありがたいことでしょう? 分家の女衆は、これらの食事の作り方を学んだという話なのだから……」


「ナニ言ってんのサ。この集落じゃ、数日にいっぺんしかギバを収獲できないんだヨ? しかも、縄張り争いに負けた、痩せっぽちのギバばかりじゃないのサ。あんなギバで、こんな立派な食事が作れるもんなのかネ」


 そう言って、ツヴァイ=スンはますます真剣そうな眼差しになった。


「それで、ファの家のアスタってのはルウ家の連中と商売をしてるって話なんだからネ。このままいったら、スン家よりルウ家のほうが豊かになっちまうヨ? もしもそんな話になったら……いよいよスン家も、おしまいになっちまうサ」


「ああ……だからヤミルたちも、ずっと慌ただしい感じだったのかしらね」


 オウラ=スンは小さく息をついてから、ツヴァイ=スンの頭にそっと手をのばした。

 いきなり頭を撫でられたツヴァイ=スンは、「ナニすんのさ!」と顔を赤くする。これまでオウラ=スンは、人前で娘の頭を撫でたりはしなかったのだ。


「スン家に危機が迫っているなら、きっとヤミルが何とかしてくれるわ。だからあなたも、そんなに張り詰めないで……今は、食事を楽しみましょう」


「フン! ずいぶん呑気な言い草だネ! ルウの連中が力をつけたら、アタシたちもただじゃすまないんだヨ?」


「それでもしも、スンが族長筋としての立場を追われてしまったら……わたしたちも、秘密を持たずに生きていくことができるようになるのじゃないかしら?」


 オウラ=スンは、囁くような声音でそう言った。

 おそらくは、寝所のザッツ=スンの耳をはばかっているのだ。

 ただ――オウラ=スンの瞳は、かつてなかったほどに安らいだ光をたたえていた。


「とにかく、あなたはまだ12歳なのだから……難しい話は、大人たちにまかせておけばいいの。まだ幼いあなたやミダは、何がどうなろうと幸福な行く末を迎えられるはずよ」


「……なんだか今日は、ずいぶん様子が違うじゃないのサ」


 ツヴァイ=スンがもじもじと身を揺すりながら言い返すと、オウラ=スンはふわりと微笑んだ。

 オウラ=スンが笑顔を見せるというのは――何年ぶりかもわからないほどである。


「わたしは何だか、とても安らいだ心地なの。もしかしたら、ミダがとても幸せそうにしているからかもしれないわね。……とにかく、今日ぐらいは何も考えずに食事を楽しんでもいいのじゃないかしら?」


「……フン。それで寝首をかかれることになったって、アタシは知らないからネ」


 ツヴァイ=スンはまだ納得がいっていない様子であったが、彼もまたオウラ=スンに負けないぐらい安らいだ心地であった。

 彼は美味なる食事のおかげで、最初から幸せな気分であったのだが――今この場には、なんの悲しみも苦悶も感じられないのだ。彼がそのような感覚に見舞われるのは、この世に生を受けてから初めてのことであったのだった。


 もしもこの場に、他の家族もいたならば――そしてその家族たちも、悲しみや苦悶を忘れて楽しそうにしていたならば――いったいどれだけ幸福な心地であっただろうか。

 父たるズーロ=スン、姉たるヤミル=スン、兄たるディガ=スンとドッド=スン、家人たるテイ=スンが、笑顔でこれらの料理を食している姿を想像すると、彼の目から涙がこぼれ落ちてしまった。


「あんたはいきなり、何を泣いてんのサ!」


 ツヴァイ=スンが小さな手で、彼の腕を引っぱたいてくる。

 それでも彼は幸福な気分のまま、晩餐の時間を過ごすことがかなったのだった。


                 ◇


 そうしてさらに夜は深まり、彼は幸福な気分で眠りに落ちることになった。

 このような心地で眠りを迎えるのも、やはり生まれて初めてのことである。いつもはすぐに消えてしまう腹の中の温もりが、いつまでも彼を幸福な気分にひたらせてくれた。


 しかし――そんな幸福な時間は、何刻も続かなかった。

 彼が眠りに落ちてすぐ、玄関の戸板が荒っぽく叩かれることになったのだ。


 その後に起きた出来事は、まったく彼には理解できなかった。

 戸板の外には、凄まじい怒りの思いをたたえた余所の氏族の男衆がずらりと立ち並んでおり――その足もとには、腕を縛られたテイ=スンとディガ=スンとドッド=スンがうずくまっていたのだ。さらに、何故だかびしょ濡れの姿であるヤミル=スンも、怖い顔をした男衆に左右をはさまれていた。


 いつの間にか家に戻っていたズーロ=スンがその男衆たちと言葉を交わしていたが、彼にはその内容がさっぱりわからなかった。

 ただ――どうやらディガ=スンたちが、何か悪いことをしてしまったようである。それで余所の氏族の男衆たちは、こんなにも怒っているのだ。


 そうしてズーロ=スンがにやにや笑いながら言葉を返すごとに、いっそう怒りの思いが激しく渦巻いていく。

 それらの思いが、本物の炎を噴きあげそうなぐらい燃えさかったとき――端のほうに控えていた黒髪の若衆が、声を張り上げた。


「待ってください! いにしえの掟を重んずるならば、スン家にはまず真っ先に贖わなくてはならない罪があるのではないのですか!?」


 黒髪の若衆は、怒っていないようであった。

 ただ、誰よりも真剣な眼差しをしている。そしてその黒い瞳には、他の男衆にも負けないぐらいの力強い光が灯されていた。


 それからまたいくつかの言葉が交わされて、その場の人間は食糧庫に向かうことになった。

 そして、そちらの扉が開かれると――いつの間にか集まっていた分家の者たちが悲嘆の声をほとばしらせたのだった。


「お許しください……」

「わたしたちは、禁忌を犯しました……」

「禁忌を犯して、森の恵みを荒らしてしまいました……」


 悲嘆のうめきの隙間から、そんな言葉が聞こえていた。

 そういえば――森で野菜や果実を収穫していることは、絶対の秘密という話であったのだ。


 その秘密が暴かれてしまったので、みんな悲嘆に暮れているのだろう。

 しかし彼は、これっぽっちも悲しい気持ちではなかった。

 悲嘆の声が響きわたり、涙がこぼされるごとに、むしろ悲しみや苦悶の思いが薄らいでいくように感じられたのである。


 世界を覆い尽くしていた悲しみと苦悶が、じわじわと消え去っていく。

 そして彼は、ヤミル=スンが微笑をこぼすのを見た。

 それもまた、悲しみと苦悶から解放された笑顔であった。

 だから彼は、いっそう安らいだ気持ちでその場にたたずむことがかなったのだった。


                ◇


 彼の悲しみは、その翌朝にやってくることになった。

 スン本家の家人は大罪人であると断じられて、氏を奪われることになったのである。


 氏などは、彼にとってどうでもいいことだ。

 しかし、氏をなくすというのは、スンの人間でなくなるという意味であり――彼らはみんな異なる場所で暮らすことになるのだと言い渡されたのだった。


 ヤミル=スンもテイ=スンも、ツヴァイ=スンもオウラ=スンも、ディガ=スンもドッド=スンも、ズーロ=スンもザッツ=スンも、みんな家族としての縁を切られてしまうのである。

 もう2度と、家族で晩餐を囲むこともできなくなってしまうのだ。

 彼は昨晩、初めてそんな幸福な姿を想像することができたというのに――そして、世界からはようやく苦悶と悲しみの思いが消えてなくなったというのに――彼は一夜で、すべて失ってしまったのだった。


 だから彼は、泣き伏した。

 どれだけ泣いても、悲しい思いが消えることはなかった。昨日までの悲しみはすべて消えたのに、新しい悲しみが心の隅々にまで駆け巡ったのだった。


「あーもう、いい加減にしてくれよ! こっちの耳がおかしくなっちまうじゃねーか!」


 余所の氏族の若衆がそんな風にわめいていたが、彼にはどうすることもできなかった。

 すると――温かい指先が、彼の腕に触れてきた。それは、同じ部屋に閉じ込められていたオウラ=スン――いや、氏を奪われたオウラであった。


「もう泣かないで、ミダ……わたしたちは、生きることを許されたのだから……これからは、別々の場所で心正しく生きていきましょう」


 オウラの声は、とても優しかった。

 苦悶や悲しみから解放された彼女は、本来の優しい心を取り戻すことができたのだ。


 しかし、そんなオウラとも離ればなれにならなくてはならない。

 それで彼がいっそうの泣き声をほとばしらせると、オウラは困ったように微笑みながら彼の腕を抱え込んできた。


「あなたなら、きっと大丈夫……たとえ別々の場所で暮らすことになっても、わたしはあなたの幸福な行く末を祈っているわ」


 その優しい言葉を聞いた瞬間――得も言われぬ感覚が、彼の心をわしづかみにした。

 オウラの言葉と温もりが、ゆっくりと彼の心を満たしていく。

 それは――とても懐かしい感覚であった。


「あれは……オウラだったんだよ……?」


「うん、なあに? あれって、なんのことかしら?」


「ミダは……赤ちゃんのときにも、誰かに抱いてもらったんだよ……?」


 オウラは優しく微笑みながら、不思議そうに小首を傾げた。


「よくわからないけれど……確かにわたしもツヴァイが生まれるまでは、あなたの面倒を見ていたわ。まだ子を生していなかったから、乳をあげることはできなかったけれど……いつまでも泣きやまないあなたを、こうしてあやしていたものね」


 そう言って、オウラはくすりと笑い声をこぼした。


「そういえば、あなたに乳をあげていた女衆が病魔で魂を返した後は、ポイタンの煮汁を吸わせていたのだけれど……あなたは、とても不満そうだったわ。あの頃から、あなたは美味なる食事を求める気持ちが強かったのね」


 やはり、あの温もりの正体はオウラであったのだ。

 オウラはツヴァイばかりでなく、彼にも優しい言葉と温もりを届けてくれていたのである。

 そんな風に考えると、彼の目からはまた新たな涙がこぼれ落ちてしまったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 久しぶりに心理的にハードな話が続くなあと思ったらきちんと希望に繋がってて良かった。
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