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異世界料理道  作者: EDA
第八十二章 群像演舞~九ノ巻~
1422/1686

    暴食の徒(二)

2023.11/21 更新分 1/1

 それから彼は、いっそう食事に救いを求めるようになった。

 ヤミル=スンや他の家族や分家の人々が背負った苦悶や悲しみのことを思うとやりきれなくて、ひとときの温もりを求めずにはいられなくなってしまったのだ。


 それにつれて、彼の身体はどんどん大きくなっていった。

 気づけば集落でもっとも背が高くなり、身の幅などは大人の男衆の倍ぐらいにふくれあがってしまった。顔や首にもぱんぱんに肉が張り詰めて、表情を動かすことも首を傾げることも困難になるほどであった。


 それでも彼は、食べ続けた。ギバだろうとカロンだろうと、とにかく目の前に出されたものをすべて腹の中に押し込んだ。兄や妹たちにどれだけ罵倒されようとも、手を止めることはできなかった。


「アンタは人の5倍ぐらい食べてるんだから、5倍は働きな! じゃなきゃ、生きてる価値もないヨ!」


 ツヴァイ=スンがそのように騒いでいたので、彼は懸命に働くことにした。

 荷運びや薪割りなど、力が必要な仕事はのきなみ受け持った。この頃には、大人のギバでもひとりで担げるようになっていた。そうすると、兄妹の中でツヴァイ=スンだけは文句を言わなくなったのだった。


「……よくよく考えると、ディガやドッドは最初から人の半分も働いてないしネ。アイツらのほうが、よっぽど無駄飯喰らいか」


 ツヴァイ=スンにそのように言われると、彼はとても嬉しい心地だった。

 それから2年ほどが過ぎて、彼が12歳になった年――初めて、宿場町という場所に連れていかれることになった。

 目的は、やはり荷運びである。食材や果実酒や薬などを町で買いつけて、それを集落に持ち帰るのだ。町は遠いので歩くだけでひと苦労であったが、森からギバを持ち帰るよりはまだ安楽であるように思えた。


 それに同行してくれたのは、テイ=スンと数名の女衆である。

 買い出しというのはもともと女衆の仕事であったようだが、テイ=スンは宿場町の様子をうかがうために毎回同行しているという話であったのだ。彼にしてみても、家人のテイ=スンが一緒にいてくれるのは喜ばしい限りであった。


 そうして宿場町に下りた彼は――そこにまったく別なる世界を見出した。

 町の人間たちによって作りあげられた、まったく見知らぬ世界である。それは、苦悶と悲しみに閉ざされたスンの集落しか知らなかった彼にとって、衝撃以外の何ものでもなかった。


 そこには、さまざまな思いが渦巻いている。

 苦悶や悲しみの思いも存在するのかもしれないが、それを上回る雑多な思いで世界が満たされていたのだ。


 そこで暮らす人々は、とてもか弱く見えてしまう。大きな図体をした大人でも、幼子のように弱々しく見えるのだ。

 しかしそれは、腕力についての話であった。身体はとても弱々しいのに、その内側にはとてつもない脈動が感じられる。人で満たされた街道などは、雨季で水かさの増した川の激流さながらであった。


 ひとりひとりの力というものは、森辺の民のほうがまさっていることだろう。スンの眷族であるザザやドムの家人などは、たったひとりでも炎のような激しさを宿しているのだ。

 しかし町の人間というのは、数からして違っていた。ひとつひとつは小さな火でも、それが寄り集まることで乱舞する炎のような激しさであったのだ。それは彼が初めて体験する、数百や数千という人間の織り成す熱気と活力であった。


「……では、わたしたちはキミュスの肉と薬を買ってまいります」


 そのように告げた女衆が、街道に足を踏み入れていく。

 その姿は、ぼんやりとした影のようにはかなかった。きっと腕力であれば町の人間よりまさっているのであろうに、彼女たちの内側には何の力も宿されていなかった。


「わたしたちは、果実酒だ。ミダ=スン、はぐれないように気をつけるのだぞ」


 そのように語るテイ=スンとともに、彼も街道に足を踏み入れた。

 すると、町の人々は顔をしかめて彼らを避けていく。何か、刺すような視線があちこちから届けられてきた。


「……町の人間は、森辺の民を忌避しているのだ。お前はただでさえ目立つのだから、決して騒ぎを起こすのではないぞ」


「うん……」と応じながら、彼は思わずテイ=スンの狩人の衣の端を握りしめてしまった。

 テイ=スンはうろんげに眉をひそめつつ、小さく息をつく。


「まあ、12歳の若さでは致し方ないのかもしれんが……お前もスンの男衆としての誇りを忘れるのではないぞ」


 そんな風に語るとき、テイ=スンの言葉はいっそう虚ろに響いた。

 テイ=スンは誇りという言葉を忌み嫌っているようであるのに、しょっちゅうその言葉を口にするのだ。それは何だか、自らの身を棒で叩いているように思えてしまい――いつも彼を悲しい心地にさせてやまなかった。


 やがて酒屋という場所に辿り着いたならば、果実酒を買いつける。

 テイ=スンが何枚かの白銅貨を差し出して酒樽を所望すると、酒屋の男は「豪気なこったね」と口もとをねじ曲げた。


 持参したグリギの棒に酒樽をくくりつけたならば、テイ=スンとふたりで担ぎあげる。このていどの重さであれば彼ひとりで担げそうなところであったが、集落までの道のりを思えば無理をすることはできなかった。


 そうして来た道を引き返していると――一陣の風が、得も言われぬ香りを届けてきた。

 彼が思わず足を止めると、テイ=スンがいぶかしげに振り返ってくる。


「どうしたのだ? いきなり足を止めては、危ないではないか」


「うん……なんだかすごく、いい匂いがしたんだよ……?」


「いい匂い?」と、テイ=スンは視線を巡らせた。


「ああ……あれは、屋台の軽食というものだ。町の人間は、ああいったもので昼の食事を済ませているらしい」


「うん……すごくいい匂いなんだよ……?」


 テイ=スンは首をねじ曲げて、彼の顔をじっと見つめてきた。


「……お前がそのように瞳を輝かせるのは、常にないことだな。そんなにも、この匂いに心をひかれているのか?」


「うん……どんな食べ物なのか、すごく気になるんだよ……?」


 テイ=スンはしばらく彼の顔を見つめてから、匂いのあがっている方向に歩を進めた。

 たちまち人々が道をあけたため、屋台というものが眼前にさらされる。そこには鉄の板が敷かれて、肉や野菜がじゅうじゅうと焼かれていた。


「失礼する。そちらは、どういった食べ物であろうか?」


 テイ=スンがそのように呼びかけると、屋台の男はぎょっとした様子で身を引いた。


「へ、へい。これは、キミュスの胸肉とアリアとプラを、ペペやミャームーで焼きあげたもんですが……」


「アリアとプラ、ペペとミャームーか……いずれも、集落にはない食材だな」


 テイ=スンは、囁くような声音でそう言った。


「そちらの値段は、如何ほどであろうか?」


「へ、へい。こいつは、赤銅貨2枚ですが……」


「赤銅貨2枚……果実酒の土瓶、2本分か」


 テイ=スンは小さく息をついてから、懐をまさぐった。


「では、それをひとつ、所望したい」


「へ、へい……少々お待ちを……」


 男は焼きあげた具材を端に寄せると、それを平たい生地で包み込み、差し出してきた。

 銅貨と引き換えにそれを受け取ったテイ=スンは、そのまま彼に差し出してくる。


「初めての宿場町であったので、ねぎらいの褒美だ。族長らにはわたしから許しをもらうので、食するがいい」


「うん……ありがとうだよ……?」


 彼は震える指先で、それを受け取った。

 そして、それを口に運ぶと――これまで感じたことのない喜びが、口から腹の中に流れ込んでいった。


 家ではおおよそ汁物料理が出されるため、焼いた肉や野菜を口にするのはひさびさのことである。

 しかし、それだけでは理由のつかない喜びが、彼の心を支配していた。たったひと口で食べ終えてしまう小さな食べ物が、彼にまたとない安らぎをもたらしたのである。彼は、暗い沼の底から地上に引きずり出されたような心地であった。


「満足したか? では、戻るぞ」


 ふたりは酒樽を担ぎなおして、屋台から離れた。

 しかし、彼の心はわきたったままである。それで彼は、目の前を歩くテイ=スンの背中に言葉を投げかけずにはいられなかった。


「テイ=スン……ミダはすごく、幸せな気分なんだよ……?」


「……幸せな気分、か。お前の口からそのような言葉を聞くのは、初めてのことだな」


「うん……ミダは今まで、幸せな気分っていうのが、よくわからなかったんだよ……? でもたぶん、これが幸せな気分なんだよ……?」


「……それは、何よりであったな」


 テイ=スンは前を向いているので、どのような顔をしているのかもわからない。

 ただ――彼は、無性に懐かしかった。彼がまだ赤子であった時分は、テイ=スンもこういった声をもっと出していたように思うのだ。


 やがて人混みを抜けると、そこにはすでに荷物を抱えた女衆らが待ちかまえていた。

 テイ=スンが無言のまま歩を進めていくと、女衆らも黙ってついてくる。しかし彼は、黙っていられなかった。


「あのね……ミダは、幸せな気分なんだよ……? 屋台の食事っていうのが、ミダを幸せな気分にしてくれたんだよ……?」


「はあ……そうですか」


 女衆の声は、沈んだままである。

 すると、テイ=スンが前を向いたまま呼びかけてきた。


「ミダ=スンよ。食事で幸福な気分を授かれるというのは、おそらくお前だけであるのだ。他の人間には、なかなか理解が及ぶまい」


「うん……みんなは食事をしても、幸せじゃないんだよ……?」


「うむ。わたしたちが、食事で安らぎを得ることはない。わたしたちの安らぎは……もっと見果てぬ先にあるのだ」


 そのように語るテイ=スンは、いつも通りの虚ろな声音であった。

 それで彼も、口をつぐむことになったが――腹の中には、まだ温もりの余韻が残されていた。


                 ◇


「……今後もミダ=スンに、屋台で食事をする許しをいただけないでしょうか?」


 その日の晩餐の場において、テイ=スンがそのように言い出した。

 すると、家長のズーロ=スンよりも早くディガ=スンが「あん?」と声をあげる。


「屋台で食事なんざ、銅貨の無駄だろ。どうしてそんな役立たずに、そんな褒美を与えなきゃいけねえんだよ?」


「ミダ=スンは、役立たずではありません。人の倍……いや、3倍は働いていることでしょう。あるていどの褒美は必要であるかと思います」


 テイ=スンはディガ=スンが13歳になったぐらいから、丁寧な言葉で接するようになっていた。ディガ=スンは納得いった様子もなく、「ふん!」と鼻を鳴らす。


「そいつは人の5倍も食ってるんだから、3倍の働きでも足りてねえだろ。そんな役立たずを甘やかす理由はねえな」


「フン。ずいぶん偉そうな口を叩くもんだネ。それじゃあ人の半分も働かないアンタたちは、何なのさ?」


 ツヴァイ=スンがとげとげしい声をあげると、ディガ=スンはうるさそうにそちらを振り返った。


「俺たちには、狩人の修練があるんだよ。狩人にとっては、それが仕事だろ」


「へえ。アンタは女の尻を追っかけるばかりで、そっちのアンタは酒をかっくらうばかりじゃないのサ。今日だって、果実酒を買うのにいくらつかったと思ってるのサ?」


「さ、酒を飲むのはドッドだろ。俺は関係ねえや」


「アンタは勝手に銅貨を持ち出して、女衆に贈る飾り物を買わせてたでショ。アタシがそれに気づかないとでも思ってんの?」


 と、ツヴァイ=スンはいっそう険しい目つきになった。


「しかも、自分で宿場町に下りる意気地はないってんだから、呆れたもんだヨ。そんな根性で、よくもまあ狩人づらできるもんだネ」


「な、なんだと、手前! その細っこい首をねじ切ってやろうか!?」


「やれるもんなら、やってみなヨ! アタシのほうが町の人間よりおっかないって思い知らせてやるヨ!」


 すると、ズーロ=スンが「騒ぐでない……」とのんびり声をあげた。


「テイ=スンがそのように申すからには、それ相応の道理があるのであろう……そういえば、最近ではツヴァイが銅貨の管理をしておるそうだな……」


「フン! コイツらの好きにさせてたら、報奨金なんてすぐに底をついちまうだろうからネ!」


「であれば、ツヴァイはどのように思うのだ……? テイ=スンの言葉に、道理を感じるのであろうかな……?」


 ツヴァイ=スンは、また「フン!」と盛大に鼻を鳴らした。


「少なくとも、果実酒や飾り物なんざより、よっぽど実になるんじゃないのかネ! 少なくとも、ものを食べりゃあ血肉になるんだからサ!」


「へん! こいつがこれ以上ぶくぶく太ったって、どうにもならねえだろ! うかうかしてると、床が抜けちまうぜ?」


「控えるがよい、ディガよ……そもそもスン本家の家人たるものが、銅貨の1枚や2枚で目くじらを立てるものではない……我々は、森辺で一番の豊かさを誇っているのだからな……」


 ズーロ=スンはにやにやと笑いながら、果実酒を口にした。

 そうして彼はひと言も発しないまま、宿場町の屋台で食事をする許しを与えられたのだった。


「食べた分は、きっちり働いて返すんだヨ! さもなきゃ、銅貨なんて1枚たりとも渡さないからネ!」


 晩餐ののち、わざわざ彼の寝所にまで乗り込んできたツヴァイ=スンは、そのように言いたてていた。


「うん……ミダは頑張って、働くんだよ……それに、やっと銅貨の大切さがわかったんだよ……?」


「フン! それがきっと、アンタとアイツらの最大の違いなんだろうネ!」


 ツヴァイ=スンは傲然と腕を組みながら、そのように言い放った。


「アイツらは銅貨をつかってさんざん楽しみながら、銅貨のありがたみをこれっぽっちも理解してないんだヨ! アンタはその楽しさを力にかえて、めいっぱい働きな! じゃなきゃ、銅貨を出す甲斐もないんだからネ!」


「うん……ミダは、頑張るんだよ……?」


 ツヴァイ=スンの元気な声と、今後も屋台で食事をしてもいいという言葉が、彼の心をとても温かくしてくれた。それで彼はひさかたぶりに、苦悶や悲しみを忘れて眠りにつくことがかなったのだった。


                  ◇


 翌日から、彼はいっそう懸命に働くようになった。

 仕事を怠けたら、せっかくの許しも取り消されてしまうかもしれないのだ。そんな悲しい話は他になかったので、彼はとにかく懸命に働くしかなかった。


 森に入ったら誰よりもたくさんの薪や野菜や果実を運び、ギバが罠にかかっていたらひとりでそれを担ぎあげる。そのギバが生きていたらヤミル=スンの家に運ばなくてはならないため、そのときばかりは悲しい気持ちになってやまなかったが――そんな悲しみは、食べて忘れるしかなかった。


 ただし、宿場町に下りるのは数日に1度のことである。早くて5日、ひどいときには10日に1度のことであるのだ。それはどうやら、森からギバを持ち帰れるかどうかにかかっているようであった。


「ギバの肉が尽きたならば、キミュスやカロンといった肉を買うしかないからな。健やかな身を保つためには、何かしらの肉が必要であるのだ」


 テイ=スンは、そんな風に言っていた。

 であれば、ギバが罠にかかっていませんようにと祈りたくなるところであったが――それは、間違った考えであるらしい。ツヴァイ=スンいわく、あまりにギバが足りないようだと、集落の銅貨も尽きてしまう恐れがあるようであるのだ。


「貴族から支払われる報奨金なんて、ちっぽけなモンなんだからネ! もし何ヶ月もギバがとれなかったら、集落の人間はみんな干上がっちまうだろうサ! そんなことも知らん顔で果実酒だの飾り物だのを買いつけてるアイツらは、頭が腐ってるんだヨ!」


 ツヴァイ=スンのそんな言葉が、彼の間違った考えを正してくれた。

 それに――町に下りる回数がどうであろうと、つかえる銅貨には限りがあるのだ。彼が屋台でつかうことを許されたのはひと月に赤銅貨10枚であったので、そんなたびたび町に下りていたらすぐに尽きてしまうのだった。


 ともあれ、町で口にする屋台の食事というのは、彼にとって大きな安らぎであった。

 森でとれる野菜や果実では、屋台の食事と似たものは作れないようであるのだ。ましてやギバ肉など使おうものなら、臭い食事しか出来上がらないのだった。


 ただ――同じギバ肉でも、あまり臭くない食事というものも存在する。

 ヤミル=スンが儀式で使ったギバなどは、ずいぶん臭みが少ないようであるのだ。ただ、そのようなことを気にしているのは、集落で彼ただひとりであるようであった。


 集落の人々は、相変わらず深い苦悶と悲しみにとらわれている。

 世界が苦悶と悲しみに満ちあふれているのだから、当然のことだ。彼自身、その苦悶と悲しみを少しでもまぎらわせるために屋台の食事を求めているに過ぎなかった。


 宿場町に下りる日は、朝から安らいだ心地でいられる。今日はどのような食事に巡りあえるかと考えるだけで、苦悶と悲しみを忘れることができるのだ。

 だが――その安らぎが破られたとき、彼はかつてなかったほどの激情にとらわれることになってしまった。

 屋台の食事が森辺の晩餐よりもひどい出来であったとき、彼は目の前が真っ白になって――気づくと、屋台を壊してしまっていた。まるで記憶には残されていなかったが、彼が屋台を持ち上げて、それを地面に叩きつけたのだそうだ。


 しかし彼はそれよりも、大きな苦悶と悲しみにとらわれていた。

 せっかくの銅貨を、無駄につかってしまったのだ。屋台の食事を楽しみにしていた気持ちがそのまま苦悶と悲しみに変じて、彼の心をぎゅうぎゅうと押し潰してきたのだった。


「やっぱり正しいのは、俺たちだったな! こんなやつに勝手な真似を許すから、こんな騒ぎになるんだよ!」


 彼が初めて騒ぎを起こしてしまった日の夜、ディガ=スンは勝ち誇った顔でそう言っていた。

 彼は悲しみに暮れるばかりで、返す言葉もない。すると、テイ=スンが虚ろな声音で言葉を返した。


「ですが、町で騒ぎを起こそうとも、トゥラン伯爵家の人間が後始末をするだけのことです。べつだん、気にかける必要はないでしょう」


「へえ! 町では暴れ放題ってことかよ? そいつはずいぶん、豪気な話だな!」


「ええ。つい先日もドッド=スンが町の人間と諍いを起こしましたが、何も咎められることはありませんでした。……そうですね、ドッド=スン?」


 果実酒の土瓶を掲げたドッド=スンは「ふん」と鼻を鳴らすだけで、何も答えようとしなかった。


「どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだネ! こっちの損になるような騒ぎを起こしたら、ただじゃおかないからネ!」


 ツヴァイ=スンはそんな風に言い捨てて、さっさと広間を出ていってしまった。

 それでもやっぱり、彼は悲しみに暮れるばかりである。どうして世界は、こんなにも苦悶と悲しみに満ちているのか――どうして眷族の人間や町の人々は、こんな思いと無縁でいられるのか――彼にはこの世界の仕組みが、まったく理解できていなかった。


 そうして、また日は過ぎ去って、彼はついに13歳となった。

 森辺において、13歳の男衆は見習い狩人というものに任命される。ひときわ大きなギバの毛皮で狩人の衣が作られたが、それでも彼の大きな身体を半分も包むことはできなかった。


「ミダ=スンも、ついに見習い狩人ですね。今後もたゆみなく、スン家のためにお働きください」


 その日から、テイ=スンは彼にも丁寧な言葉を使うようになってしまった。

 彼は悲しい気持ちであったが、もともと抱えている悲しみに多少の重さが上乗せされただけであるので、文句を言う気持ちにはなれなかった。


 それ以外には、なんの変化もない。彼はひたすら家のために働き、食事だけに安らぎを求めていた。新しい空き家ができたのでディガ=スンやドッド=スンはそちらで過ごすようになり、晩餐の場はずいぶん静かになっていたが――もともと言葉の少ない彼にとっては、それも些末な話であった。


 彼の身に大きな変化がもたらされたのは、それから1年後のことである。

 14歳となった彼が、テイ=スンとともに宿場町に下りたとき――得も言われぬ香りが鼻を撫でてきたのだ。


 それを知覚すると同時に、彼は街道を駆けだしていた。

 理由は、あまり判然としない。ただその芳しい香りが、彼に我を失わせたのだ。悲しみではない感情に我を失うというのは、彼にとっても初めての体験であった。


 その香りは、宿場町に入ってすぐの屋台から撒き散らされていた。

 全力でその場に駆けつけた彼は、倒れかかる身体を屋台で支えることになった。


「……何をしてるの……?」


 彼がそのように問いかけると、足もとから「ひいっ」という弱々しい声があげられた。彼の接近に驚いた誰かが、その場に尻もちをついていたのだ。

 しかし彼は、屋台の向こう側を一心に見つめていた。


 そこで働いていたのは、黒い髪と黒い瞳をした若衆である。

 ただ、何故だか森辺の民のような格好をしており――その隣には、まぎれもなく森辺の女衆が控えている。しかしそれも、彼にとってはどうでもいいことであった。


「すごくいい匂い……ねえ、何をしてるの……?」


 彼がそのように言葉を重ねても、返事はない。そうすると、いっそう抑えようのない思いが彼の肉体を支配し始めた。


「ねえ……ミダはお腹が空いてきちゃったよ……すごくいい匂いだね……?」


 みしみしと、奇妙な音がした。

 彼がつかんでいた屋台の柱が、軋んでいたのだ。すると、ぽかんとしていた若衆が怒って声をあげた。


「な――何をするんですか! 屋台を壊すつもりですか、あなたは!?」


 もちろん彼は、屋台を壊すつもりなどなかった。ただこの香りの正体が知りたくて知りたくてしかたがなかったのだ。

 しかし、心が乱れてしまって、いつも以上に頭が回らない。

 そうして彼と若衆が覚束ない調子で言葉を交わしていると、置き去りにしてしまったテイ=スンがようやく追いついてきた。それで彼は、その屋台で売られていた食事を口にすることがかなったのだった。


 それは普段から彼が屋台で買い求めている食事と、大差のない見かけをしていた。

 しかし、香りがまったく違っている。ひとつひとつは知っている香りであるようなのに、それがひとつにまとまることでまったく異なる香りに変じていたのだ。


 それを口にした瞬間――彼は、かつてないほどの衝撃に見舞われた。

 初めて屋台で食事を口にしたときとも比較にならない喜びが、口から腹へと流れ込んできたのである。


 彼は、一心不乱にそれを食べた。

 赤銅貨10枚をつかって5つも食べてしまったが、まったく満足できなかった。

 しかし、銅貨がなければどうすることもできない。それで彼は喜びに満たされた心に新たな悲しみを宿しながら、道を引き返すことになったのだった。


 とぼとぼと道を歩きながら、彼はふっと思い当たる。

 彼とテイ=スンは買い出しのために町までやってきたのに、何も買わないまま道を引き返しているのだ。


「テイ=スン……まだ何も買ってないんだよ……?」


「はい。買い出しは、また後日に致しましょう。今は一刻も早く、この事実をヤミル=スンにお伝えしなければなりません」


「……このじじつ……?」


「さきほどの屋台にいたのは、ルウの長姉です。ルウの家人が町の人間とともに、商売をしていたのです。これは、ただごとではありません」


 彼にはさっぱりわけがわからなかったが、テイ=スンが集落に戻るというのであればそれに従うしかなかった。

 そうして集落に到着したならば、真っ直ぐヤミル=スンの家に向かう。ヤミル=スンは薄暗い家の中で、ひとりけだるげに座していた。


「ルウの長姉が、町の人間と商売ですって……? もしかしたら、それはディガがファの家やルウの集落で見かけたっていう若衆のことなのかしら?」


「その若衆は森辺の装束を纏っていたので、おそらくそうなのでしょう」


 テイ=スンが虚ろな声音でそのように答えると、ヤミル=スンは冷たい視線を彼に向けてきた。


「ディガたちがルウの集落まで乗り込んだときには、あなたも引っ張り出されていたのよねぇ? それは、同じ若衆だったのかしら?」


「うん……? ミダは、覚えてないんだよ……?」


 そんな風に答えてから、彼はひとつの事実に思いあたった。


「でも……あの夜も、すごくいい匂いがしたんだよ……? 今日は、それよりもいい匂いだったんだよ……?」


「ふん。かといって、まさかギバを使った食事を売っているわけではないのでしょうけれどね」


 ヤミル=スンがそのように言っていたので、彼は「ううん……」と答えた。


「さっきの食事は、ギバの肉だったんだよ……? でも、ちっとも臭くなくて……すごく美味しかったんだよ……?」


「ギバの肉が、美味しかった? ……それは、確かな話なのかしら?」


「うん……色んな味がしたけど、あれはギバの肉だったんだよ……? でも、すごくすごく美味しかったんだよ……?」


 ヤミル=スンは「へえ」と唇を吊り上げた。

 彼を悲しい気持ちにさせる、妖しい笑い方である。


「それは、聞き捨てならないわね。スン以外の集落では、ギバの肉なんて有り余っているはずなんだから……それで商売ができるとしたら、とんでもない額の銅貨を手にできるはずよ」


 ヤミル=スンは、何かとても悲しいことを思いついてしまったようであった。

 それで、かつてないほどの温もりと喜びを授かった彼も、たちまち大きな苦悶と悲しみに心をふさがれてしまったのだった。

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