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異世界料理道  作者: EDA
第八十二章 群像演舞~九ノ巻~
1421/1686

第八話 暴食の徒(一)

2023,11/20 更新分 1/1

・今回は、群像演舞が全4話、本編の新章が全3話の予定です。

 彼がこの世に生まれ落ちた頃、世界は苦悶と悲しみに満ちていた。

 いまだ彼我の区別も曖昧であった彼にとって、それは自分自身が苦悶と悲しみの塊であるような心地であった。


 世界は、冷たく強張っている。

 無理に動いたら、端からぽろぽろと崩れそうなほどである。そんな不安と心もとなさが、彼にいっそうの苦悶と悲しみをもたらしてやまなかった。


 そんな彼にとって唯一の安らぎは、何かを口にしているときであった。

 温かくてやわらかいものを口もとにあてがわれると、温かくて甘やかな存在が体内に流れ込んでくる。その時間だけ、彼は冷たく強張った苦悶と悲しみを忘れることができた。


 しかし、そんな安楽な時間は長く続かない。

 それで彼が泣きわめくと、温かい何かが彼をくるんだ。そして何か心地好い音色が響き、彼の心を少しだけ慰めてくれた。


 だけどやっぱり、不安が消えるわけではない。

 彼は世界そのものであり、世界は彼そのものであるのだ。この世界が苦悶と悲しみに満ちている限り、本当の安らぎというものはありえないのだった。


 どうして世界は、こんなにも冷たく強張っているのか。

 それが悲しくて、彼はしょっちゅう泣きわめいていた。それはつまり、世界そのものが泣いているということであった。


 しばらくすると、温かくて甘やかな存在を口にすることもできなくなってしまった。

 その代わりに、何か似たものが口の中に流し込まれる。それではとうてい満足できなかったが、しかし何も口にしないでいるよりは、よほど安楽なのだろうと思われた。


 ――ゴメンナサイネ。モウココニハチチヲヤレルニンゲンガイナクナッテシマッタノ。


 そんな音色が響いたが、彼には意味がわからなかった。

 しかしその音色は、とても優しげな響きを帯びており――だから彼も、少しだけ心を安らがせることができた。


 ――ドウカゲンキニソダッテネ。タマシイヲカエシテシマッタアナタノハハオヤモ、アナタノコウフクナユクスエヲイノッテイルハズヨ。


 そんな優しい音色とともに、彼の身は温かな何かにくるまれた。

 彼は悲しみの中にほんの少しの温もりを見出しながら、眠りに落ちるのが常であった。


 そうして時間が過ぎていくと、世界がじわじわと変質し始めた。

 うすぼんやりとした光と影の重なりであった世界に、色彩が宿り始めたのだ。

 そしてその色彩が、少しずつ世界に輪郭を与えていく。それでようやく、彼と世界は別々のものに分かたれていき――彼は、「自分」というちっぽけな存在を見出すことになったのだった。


「あなたの名前は、ミダよ。早く大きくなってね、ミダ=スン」


 これまでよりも明瞭さを増した音色が、そんな風に響きわたった。

 それこそが他者の声であり、彼をくるんでいたのは他者の腕であったのだ。


「あなたが大きくなる頃には……きっと、平和な世になっているわ。あなたは幸福な人生を歩んでね、ミダ=スン」


 温かい腕をした誰かが、そんな風に語っている。

 その誰かもまた、大きな苦悶と悲しみの塊であるようだったが――それでもその手と言葉の温もりは、彼の悲しみをほんの少しだけ慰めてくれた。


                ◇


 それからしばらくして、彼はひとりで動くことができるようになった。

 もはや世界は、くっきりと形を成している。この世にはさまざまなものが存在して、彼もまたその存在のひとつであるということが、ようやく認識できた。


 だが――それでもなお、曖昧な部分は残されている。

 彼と世界は別々の存在であったが、しかし同じ苦悶と悲しみでできあがっているのだ。彼がどれだけ自由に動き回っても、根っこの部分はどこかでしっかり繋がっているのだろうと思われた。


 だから彼は、いつでも悲しい気持ちであった。

 それを忘れられるのは、やっぱり何かを口にしているときだけであった。

 食べ物を口にしていると、身体の内側が温かくなっていく。その温もりが、彼の心のよすがであった。ひとりで立って歩けるようになると、もう誰も彼のことを抱きあげてくれなくなったので、いっそう何かを食べることで自分を癒やすしかなかった。


 世界は、苦悶と悲しみに満ちている。

 彼の家族も、苦悶と悲しみの塊であった。

 唯一、そんな悲しみと無縁であるのは――2歳年少の妹、ツヴァイ=スンぐらいであろうか。彼の身体がずいぶん大きくなって、ようやく家族の顔と名前が一致するようになった頃、彼女はこの世に生まれ落ちたのだ。


 赤子のツヴァイ=スンはしょっちゅうぎゃんぎゃんと泣いていたが、あまり悲しいようには見えなかった。それよりも、他の家族たちのほうがよほど苦悶と悲しみで満たされているように思えた。


「うるせえなあ! そんなうるせえやつは、外に追い出してくれよ!」


 そんな風に文句をつけるのは、いつも長兄のディガ=スンであった。

 ディガ=スンもまた、苦悶と悲しみの塊であるのだ。ディガ=スンはそれを慰めるために、大声を出したり暴れたりするのだろう。次兄のドッド=スンも同じようなもので、ふたりの兄たちはしょっちゅう彼にも乱暴を働いていた。


 身を叩かれれば痛いので、そのときは彼も泣きわめくことになる。

 ただそれは、悲しい気持ちをぶつけられて、いっそう悲しい気持ちになっているだけなのかもしれなかった。彼に乱暴を働くときの兄たちはいつもげらげら笑っていたが、その身には苦悶と悲しみがあふれかえっていたのだった。


 そして彼にはもうひとり、ヤミル=スンという姉も存在したのだが――彼女こそ、苦悶の塊であるように思えてならなかった。

 姉はいつも、うっすらと微笑んでいる。しかしそれは、泣いているも同然であった。姉はこの家でもっとも強く大きな存在であるように感じられるのだが、そのぶん誰よりも大きな苦悶と悲しみを抱え込んでいるのかもしれなかった。


 父たるズーロ=スンはいつもにやにや笑っていたが、やはり苦悶と悲しみの塊であった。

 家人たるテイ=スンはいつも落ち着いた面持ちであったが、やはり苦悶と悲しみの塊であった。

 その娘でありツヴァイ=スンの母であるオウラ=スンはいつもひっそりとした面持ちであったが、やはり苦悶と悲しみの塊であった。


 けっきょく世界は、苦悶と悲しみに満たされているのだ。

 どれだけ大きく成長しようとも、彼と世界の在りようには何の変化もなく――むしろ日を重ねるごとに、苦悶と悲しみの気配が増していくようであった。


 そうして彼がますます大きく育ち、妹のツヴァイ=スンも自由に走り回れるようになった頃、テイ=スンが普段よりも大きな苦悶と悲しみの気配を撒き散らしながら語りかけてきた。


「お前もついに5歳となったな、ミダ=スンよ。これでお前も、ひとりの家人として見なされるため……これより、先代家長ザッツ=スンにお目通りを願う」


 先代家長ザッツ=スン――その名前を耳にしたとき、彼の身には得も言われぬ悪寒が走り抜けた。

 彼がもっと幼かった頃は、ザッツ=スンも同じ場所で暮らしていたように思う。しかし彼はあまりに幼かったため、ザッツ=スンの存在を正しく認識することができなかったのだ。そうして彼が理解を深める前に、ザッツ=スンは病魔に倒れて寝所に引きこもってしまったのだった。


 それ以来、彼はザッツ=スンの姿を見ていない。

 ザッツ=スンの寝所には決して近づいてはいけないと、テイ=スンやオウラ=スンにたしなめられていたからだ。それからもう、ずいぶん長きの日が過ぎているはずであった。


 テイ=スンに連れられて、彼はザッツ=スンの寝所に向かう。

 テイ=スンの手で戸板が開かれると、何か饐えたような異臭がした。

 そして、異臭と薄暗がりの向こうに――何か黒い奇妙なものがうずくまっていた。


「……ザッツ=スン。末弟ミダ=スンをお連れしました」


 テイ=スンは音もなく歩を進め、その黒い存在を抱え起こした。

 それは――無惨にやつれ果てた、ザッツ=スンであった。


 かつては誰よりも力強い姿をしていたザッツ=スンが、骨と皮ばかりの痩せ細った姿になってしまっている。さらに髪の毛もほとんど抜け落ちて、肌は立ち枯れた樹木のように水気がなくてささくれだっていた。


 ただ――その黒い瞳だけは、爛々と輝いている。

 悲しみの気配はない。苦悶の気配は感じられる。しかし、それよりもまざまざと燃やされているのは、怒りと憎悪の炎であった。


「なんだ、これは……これが、スンの人間であるというのか……?」


 ザッツ=スンは、地の底から響きわたるような声音を振り絞った。

 その双眸には、いっそうの怒りと憎悪が燃えさかっている。


「こんなものは、生かしておく価値もない……やはり我の血を正しく受け継いでいるのは、ヤミルだけだ……あやつに婿をあてがって、新たな族長に育てあげるのだ……」


「はい。必ずや、ヤミル=スンに相応しい男衆を見つけてみせましょう」


 感情の欠落した声で、テイ=スンはそのように答えていた。

 ザッツ=スンの身は寝具に横たえられて、彼はテイ=スンとともに寝所を出る。

 そうして無人の広間に戻ってから、テイ=スンは床に膝をつき、彼の顔を覗き込んできた。


「お前も、ザッツ=スンに認められることができなかった。……しかしそれは、幸いな話であるのかもしれん。今後は兄たちとともに立派な人間を志して、姉を支えてやるのだぞ」


 テイ=スンはそのように語っていたが、本当にそんなことを望んでいるのかはまったくわからなかった。

 それで彼は、また大きな苦悶と悲しみに心をふさがれることになったのだった。


                 ◇


 その後も彼の生活には、大きな変化も訪れなかった。

 苦悶と悲しみに満ちた世界で、ただ茫漠と生きるだけの日々である。


 彼はひたすら、食事を求めた。

 どんどん濃密になりまさっていく苦悶と悲しみの中で、彼は食事に安らぎを求めるしかなかった。


 日を重ねるごとに、人々の心は荒んでいっている。

 テイ=スンやオウラ=スンはますます暗い面持ちになっていき、ディガ=スンやドッド=スンはますます乱暴になっていった。ズーロ=スンはすべての苦悶から目を背けて怠惰に過ごし、ヤミル=スンは――いっそう冷たく心を閉ざしてしまったようであった。


 そんな中、ひとりで元気だったのは、妹のツヴァイ=スンである。

 彼女は何故だか、悲しみに暮れていなかった。彼女はいつも苛立っていたが、兄たちのような乱暴を働くこともない。兄たちの乱暴は悲しみを癒やす手管であるのだろうから、悲しみに暮れていない彼女はそのような真似をする理由がなかったのだ。


 しかしそれでも、彼女は苛立っている。

 その苛立ちは、悲しみではなく怒りに起因しており――そういう意味では、ほんの少しだけザッツ=スンに似ているのかもしれなかった。


 しかし、ツヴァイ=スンとザッツ=スンでは、根本が違っているように感じられる。

 真っ黒な暗闇のようであるザッツ=スンに対して、ツヴァイ=スンはばちばちと弾ける火花のようであったのだ。ザッツ=スンも炎のように情念を燃やしていたが、ツヴァイ=スンのような明るさや眩さは望むべくもなかったのだった。


「どうしてこの集落の連中は、みんなして辛気臭い顔をしてるんだろうネ! やることがないなら、銅貨の1枚でも稼いでこいってんだヨ!」


 ツヴァイ=スンはいつも、そんな怒声を張り上げていた。

 どうやら彼女は、銅貨というものに執心しているようであるのだ。彼にはさっぱり、理解の及ばない話であった。


「ツヴァイは……どうして銅貨が好きなんだよ……?」


 ある日、彼がそのように問いかけると、ツヴァイ=スンは大きな目を半分まぶたに隠しながら「はあ?」と尖った声をあげた。


「ひさかたぶりに口を開いたかと思ったら、ずいぶん突拍子もないことを言い出すもんだネ! この世で一番大事なのは銅貨なんだから、それをありがたがるのは当たり前のこったろ!」


「……どうして銅貨が大事なんだよ……? ミダは……食べ物のほうが大事なんだよ……?」


「だから、その食べ物を買うのにだって、銅貨が必要だろうサ! アンタ、すべての食べ物が森でとれるとでも思ってるのかい?」


 と、ツヴァイ=スンはそこで声をひそめた。


「……っと、いつ眷族の連中が顔を出すかもわかんないから、用心しないといけないネ。よく聞きなヨ、ウスノロ。アタシたちは力をためるために森から食べ物を頂戴してるけど、森に生えてるのは野菜や果実だけなんだヨ。時々はマヌケなギバが罠にかかることもあるけど、そんなのはごくたまにのことだしネ。だから、肉や塩や果実酒なんかは、どうしたって町で買わなきゃいけないのサ。銅貨がなかったら、アンタがそんなぶくぶく太ることもできなかったってことだヨ」


「銅貨がないと……野菜と果実しか食べられないんだよ……?」


「だから、そう言ってるじゃないのサ。アンタもひもじい思いをしたくなかったら、せいぜい銅貨を大事にするこったネ!」


 当時のツヴァイ=スンは、5歳や6歳になったばかりの年頃である。しかし彼女は姉のヤミル=スンの次ぐらいに賢くて口が回るようであった。


 ただ――ぼんやりと生きている彼に、彼女の言葉は難解に過ぎた。彼は銅貨や食べ物がどこからやってくるのかもあまり理解していなかったので、ただ漠然と銅貨のありがたさというものを噛みしめることしかできなかったのだった。


 そんな彼の生活に多少の変化が生じたのは、彼が10歳になった頃であった。

 森辺の習わしに従って、彼に男衆としての装束が与えられたその日、ディガ=スンが顔を歪めて笑いながらこのように告げてきたのだ。


「これでこいつも、立派な男衆ってこったな。それじゃあ明日から、さっそく働いてもらおうぜ。これだけ身体がでかかったら、ギバを運ぶのだって楽勝だろうさ」


 その頃のディガ=スンは15歳で、ギバの牙と角でできた立派な首飾りをさげるようになっていた。

 それよりも1歳年少であるドッド=スンは、陰気な声で「そうだな」と同意する。


「こいつの取り柄は馬鹿力だけなんだから、荷運びをさせるにはうってつけだ。明日からは、お前がテイ=スンと一緒に森に入れよ」


 すると、ディガ=スンより2歳年長であるヤミル=スンが冷たく微笑みながら声をあげた。


「あなたたちはまたそうやって、面倒な仕事をミダに押しつけようというつもりであるのね。それとも、もしかして……いまだにギバが怖いのかしら?」


「な、何を言ってやがるんだよ! 罠にかかったギバなんざ、おっかないわけねえだろう!」


「どうかしらね。あなたたちは、すでに息絶えたギバを運ぶときだって、いつもおっかなびっくりであるように見えるもの」


 ヤミル=スンが咽喉で笑うと、ディガ=スンは怒りで顔を真っ赤にして、ドッド=スンはふてくされたように目を伏せた。

 しかし誰がどのように振る舞っても、その根底に流れるのは苦悶と悲しみの気配である。それから逃げるために、彼も声をあげることにした。


「ミダは、なんでもするんだよ……? だから、喧嘩しないでほしいんだよ……?」


「あなたは従順ね、ミダ。それが愚かな兄たちを、いっそうつけあがらせるのじゃないかしら」


 そんな言葉を言い残して、ヤミル=スンはふいっと立ち去ってしまった。

 するとふたりの兄たちは、安心したように息をつく。年を重ねるごとに、兄たちはヤミル=スンの持つ力に恐れ入るようになったようであった。


 そして、翌日――彼はテイ=スンとともに、初めて森に入ることになった。

 他に同行しているのは、いずれも分家の男衆である。それらはみんな、テイ=スンと同じように虚ろな空気を纏っていた。


「……集落の近辺は女衆が森の恵みを収穫し尽くしているため、ギバが寄ってくることもない。我々はそれよりも奥深くにまで足を踏み入れるので、生きたギバと出くわす危険もなくはないのだ。まあそれでも、ギバが好む実りを優先して収穫しているため、滅多にそのような事態には至らないのだが……くれぐれも、用心だけは忘れぬことだ」


 テイ=スンはそのように説明してくれたが、彼にはあまり理解できなかった。

 他の男衆も、さして用心している気配はない。集落で過ごしているときと同様の、力ない姿だ。それもすべては、世界が苦悶と悲しみに閉ざされているがゆえであった。


「それにしても、10歳の幼子を連れて森に入ることになろうとはな。このような話は……ギバ狩りを果たしていた頃には、考えられなかったことだ」


 テイ=スンのそんなつぶやきが、いっそう彼を混乱させた。


「ミダたちは……ギバを運ぶんじゃないんだよ……?」


「ギバが罠にかかっていれば、それを持ち帰る。しかしそんなものは、せいぜい数日に1度のことだ。ギバとてわざわざ実りの少ない場所に踏み込んではこなかろうからな」


 そのように語りながら、テイ=スンはどんどん歩を進めていった。

 以前はとても大きく感じられたテイ=スンであるが、自分が大きくなるにつれてその姿が小さく見えるようになっている。それでも他の男衆よりは、よほど力強い姿であったが――ただテイ=スンは強い力を持っているがゆえに、他の男衆よりも大きな苦悶と悲しみを抱いているように思えてならなかった。


「うむ……? どうやら今日は、数日に1度の機会であったようだな」


 テイ=スンがそんなつぶやきをもらしたのは、ずいぶん長い時間を歩いたのちのことであった。

 彼などはすっかり息が切れて、全身が汗に濡れてしまっている。それでいっそうやるかたない心地を抱えながら、テイ=スンの視線を追ってみると――見覚えのある存在が、木に吊り下げられていた。


 黒褐色の、毛の塊――ギバである。

 その姿に、彼は落胆の息をついた。彼はギバよりも、カロンやキミュスという獣の肉のほうが好ましいと思っていたのだ。しかしギバを手にしてしまったら、しばらくはその肉を口にしなければならないのだった。


「おそらくこやつは縄張り争いに負けて、このような場所まで追いやられることになったのであろうな。痩せこけているし、角も折れてしまっている。……これでは、大した糧にもならなそうだ」


 感情の欠落した声でつぶやきながら、テイ=スンはギバのほうに近づいていった。

 すると、ギバの身が弱々しく震えを帯びる。テイ=スンは背中の側に回り込んでから、そのずんぐりとした身に手の平をあてた。


「こやつは、ずいぶん弱っているようだ。……これならば、生きたまま持ち帰っても危険はあるまい」


 テイ=スンの指示で、まずはギバの四肢がグリギの棒にくくりつけられた。

 そののちに、ギバを吊っていた縄が切られる。そちらの縄には新たな細工が施されて、地面に隠されることになった。


「では、こちらのギバはわたしとミダ=スンで集落に運ぶ。あとの収穫は、任せたぞ」


 他の男衆らは返事もしないで、森の奥に分け入っていく。

 彼はテイ=スンとともにグリギの棒を担ぎあげて、集落に戻ることになった。


 こちらのギバは大した大きさでもなかったので、ふたりがかりならばさしたる重荷でもない。ただ、行き道だけで息の切れていた彼は、これまでの生活で指折りの苦労を覚えることになった。


「これが……ギバ狩り……なんだよ……?」


 彼が懸命に声を振り絞ると、先に立って進むテイ=スンは「いや」と低く応じた。


「もちろん、罠にかかったギバを持ち帰るのも、ギバ狩りの仕事のひとつではあるが……しかしこれは、ギバ狩りではない。木に実る果実を収穫しているようなものだ」


「それじゃあ……いつギバを狩るんだよ……?」


「……そうか。お前はまだ10歳なので、そういった説明も受けていないのだな」


 やはり感情の感じられない声音で、テイ=スンはそのように言い捨てた。


「しかし、お前がそれを知るのは見習い狩人となる13歳になってからでいい。今は誰とも、ギバ狩りについて語らぬことだ。とりわけ眷族の者たちの前では、迂闊なことを口にするのではないぞ」


 彼は、「うん……」と答えるしかなかった。

 そもそも彼は、眷族の人間と口をきいたことがないのだ。あれを喋るなこれを喋るなと難しい注文をつけられたため、うかうかと口を開くこともできないのである。眷族の人間などは滅多にやってこないのだから、最初から口をきかなければ何も面倒なことはなかった。


 それに――眷族の人間というのは、彼とまったく異なる存在であった。

 眷族の人間は、なんの苦悶も悲しみも背負っていないようであるのだ。この世界は苦悶と悲しみでできあがっているはずであるのに、眷族の人々はそれにもまったく気づいていない様子で――彼にとっては、空を飛ぶ鳥のようにつかみどころのない存在であったのだった。


 どうして自分たちばかりが苦悶と悲しみの底に沈んでいるのだろうと、そんな風に考えるとますます悲しい気持ちになってしまう。

 だから彼は何も考えず、ただ食事をして温かい心地を求めるばかりであった。


 そうして長い時間をかけて、ふたりは集落に帰りついた。

 すでに太陽は、西に傾きかけている。広場には誰の姿もなく、しんと静まりかえっていた。


 テイ=スンは無言のまま、集落の広場を横切っていく。向かう先は、ヤミル=スンの住まう家である。ヤミル=スンはつい先頃から、そちらの家でひとりで過ごすようになっていた。


「あら、テイ=スン。わたしの家にギバを運んでくれたということは……ひさびさに、生け捕りにできたというわけね?」


 家から出てきたヤミル=スンは、普段以上に冷たい笑みを浮かべていた。


「まったく、ありがたい限りだわ。それじゃあ、こちらに吊るしてもらえるかしら?」


 ヤミル=スンの導きで、テイ=スンと彼は家の中に踏み入った。

 彼がヤミル=スンの家に踏み入るのは、これが初めてのことである。

 こちらはつい先年まで分家の家人が暮らしていた家であるので、何もおかしなことはなかったが――ただ一点、他の家と異なる箇所があった。広間の真ん中の板が剥がされて、土の地面が剥き出しになっていたのである。


 そしてその場所に、何か奇妙なものが垂れている。金属の環をいくつも繋ぎ合わせて、縄のように仕上げたもの――たしか、鎖と呼ばれる器具である。その鎖が、薄闇に隠された天井からだらりと吊り下げられていたのだった。


 テイ=スンは中央の地面の上にギバを下ろすと、鎖の先端を後ろ足に結んでから、グリギの棒と縄を外した。

 そして、鎖のもう一方の先端が繋がれた得体の知れない器具を操作すると、じゃらじゃらと硬い音をたてながらギバの身が浮き上がっていく。その高さが人の背丈ぐらいまで達すると、テイ=スンは無言のまま身を起こした。


「ご苦労様。それじゃあ、また明日の朝にお願いね」


「はい」と一礼して、テイ=スンは家を出た。

 そうして彼がまごまごしていると、ヤミル=スンが冷ややかな眼差しを向けてくる。


「何をしているのかしら? あなたは仕事を果たしたのだから、ゆっくり身を休めなさいな」


「うん……このギバは、どうするんだよ……?」


「これは、特別な儀式に使うの。心配しなくても、明日の晩餐では口にできるわよ」


「とくべつなぎしき……?」


「……あなたは、儀式に興味があるのかしら?」


 ヤミル=スンは唇を吊り上げて、妖しく笑った。


「だったら、今日の晩餐の後にでもいらっしゃいな。まあ、何も楽しいことはないでしょうけれどね」


 ヤミル=スンの笑顔が怖かったため、彼はのろのろと逃げ出すことになった。

 表では、テイ=スンがひとり立ち尽くしている。その顔には、やはり何の感情もたたえられていなかった。


「テイ=スン……あの……あの……」


「……ヤミル=スンのことは、気にせずともよい。ヤミル=スンは次代の族長として強く生きていくために、いにしえの儀式を復活させたのだ」


 そう言って、テイ=スンはきびすを返した。


「日も暮れかけてきたので、今日の仕事はここまでとする。わたしは分家の者たちの様子を見てくるので、お前は家に戻るといい」


                ◇


 その夜、彼は普段よりも一心に食事をたいらげることになった。

 その勢いに、ツヴァイ=スンが怒りの声をあげたほどである。


「アンタは何をがっついてるのサ! そんなに食事が大事なんだったら、ちっとはじっくり味わうことを覚えなヨ!」


「まあ、いいじゃない……きっとミダも、初めて森に入って疲れているのよ……」


 オウラ=スンが、力ない面持ちでツヴァイ=スンをたしなめる。

 すると、ドッド=スンを相手に騒いでいたディガ=スンも声をあげた。


「本当に、見苦しいったらねえよな! こんなやつと一緒にいると、こっちの食事までまずくなっちまうぜ! 次に空き家ができたら、俺がそっちに移らせてもらうからな!」


「なんだよ。次は、俺の番だろ。お前は長兄なんだから、家に居残れよ」


 果実酒の土瓶を握りしめたドッド=スンが、すかさず文句を言いたてる。酒が入ると、ドッド=スンは誰よりも強気になるのだ。

 ズーロ=スンもまたにやにやと笑いながら果実酒を楽しんでおり、テイ=スンは黙々と食事を進めている。そんな家人たちの様子を眺め回してから、ツヴァイ=スンは溜息をついた。


「アンタたちがそんなだから、ヤミルも嫌気がさしたんだろうネ! アンタたちは、先代家長を怖がってるだけなんだろうけどサ!」


 その言葉に、ふたりの兄たちと父は同時に身をすくめた。


「ば、馬鹿、お前。そんなでかい声で、滅多なことを言うんじゃねえよ」


「フン! 声がでかかったら、何だってのサ? どうしてアンタたちは、寝たきりで歩くこともできない老いぼれをそんなに怖がってるんだかネ!」


「ば、馬鹿! 本当にやめろって!」


 ディガ=スンが悲鳴まじりの声をあげると、ツヴァイ=スンは「フン!」と汁物料理をすすった。


 そうして鉄鍋が空になると、テイ=スンとオウラ=スンとツヴァイ=スンはさっさと寝所に引っ込んでしまう。残る3名は、酒盛りだ。ディガ=スンなどは酒を口にしていないのに、酩酊しているかのように騒いでいた。

 それもまた、苦悶や悲しみをまぎらわせるための行いであるのだろう。

 彼は腹の中に溜め込んだ温もりで、なんとか苦悶と悲しみをやりすごし――そして、家を出ることにした。


「うん? ミダ、手前はどこに行く気だよ?」


「うん……ヤミルの家なんだよ……?」


「ヤミルの家? はん! 手前なんざが乗り込んだって、追い返されるだけだろうぜ!」


 そんな言葉を背中で聞きながら、彼は家を出た。

 小さな燭台の火を頼りに、ヤミル=スンの家を目指す。夕刻には怖くなって逃げ出してしまったが、今は食事のおかげで多少ながら力を得ることができたのだ。ヤミル=スンが、どうしてあんな顔で笑っていたのか――彼はそれが無性に気になってしまっていたのだった。


 集落は、夕刻よりもさらに静まりかえっている。

 すべての家人が死に絶えてしまったかのような静けさだ。

 この暗闇こそが世界を覆う苦悶と悲しみそのもので、彼の手にした燭台の明かりだけがそれをわずかに退けているような――そんな心もとなさで、彼はヤミル=スンの家を目指した。


「ヤミル……開けてほしいんだよ……?」


 彼は戸板を叩きながらそのように呼びかけたが、返事はなかった。

 彼は小首を傾げつつ、そろそろと戸板を開き――そして、恐るべき光景を見た。


 広間の真ん中に、ヤミル=スンが立ち尽くしている。

 そして彼女は、一糸まとわぬ裸身であり――頭上に吊り上げられたギバの首からしたたる血でもって、褐色の裸身をべったり濡らしていたのだった。


「あら……本当に来てしまったのね……」


 ヤミル=スンが彼のほうを振り返り、にたりと笑った。

 夕刻に見せたのと同じ、妖しい笑みだ。その美麗なる顔も、ギバの血で真っ赤に染まっていた。


 彼は燭台を取り落とし、ぺたりと土間にへたりこんでしまう。

 それを見下ろしながら、ヤミル=スンはくつくつと咽喉で笑った。


「ずいぶん仰天しているようね……これが、特別な儀式よ……森の象徴であるギバの血を浴びることで、森の力をこの身に取り入れているの……」


「…………」


「黒き森で暮らしていた時代、わたしたちの祖は黒猿の血でこの儀式に臨んでいたらしいのだけれど……このモルガの森に移り住んで以来、すっかり廃れてしまったようなのよね……どうしてこんなに素晴らしい儀式を取りやめてしまったのかしら……」


「…………」


「死んだギバでは血の流れも悪いから、生け捕りにしてくれてありがたかったわ……どうもありがとうね、ミダ……」


 そこでヤミル=スンは、愉快そうに含み笑いをした。


「あなたは何を泣いているのよ……? そんなにわたしの姿が恐ろしいのかしら……?」


 いつしか彼の顔は、滂沱たる涙で濡れていたのだ。

 彼は土間の地面に爪を立てながら、懸命に言葉を振り絞った。


「ヤミル……そんなことは、やめてほしいんだよ……?」


「あら、どうして……? 何がお気に召さなかったのかしら……?」


「だって、ヤミルは……すごく苦しそうなんだよ……? いつもよりも、もっといっぱい……いっぱいいっぱい、苦しそうなんだよ……?」


 そしてヤミル=スンは、とても悲しそうにも見えた。

 全身にしたたるギバの血が、彼女の涙であるように思えてしまったのだ。

 しかしヤミル=スンは、いっそう唇を吊り上げて冷たく笑った。


「だからこそ、わたしには力が必要であるのよ……まあ、ザッツ=スンに見限られたあなたには、わたしの気持ちなんてわからないのでしょうね……」


 確かに彼には、ヤミル=スンの気持ちなどこれっぽっちもわからなかった。

 わかるのは、彼女の抱えている苦悶と悲しみの大きさだけだ。

 もしかしたら、この世界に渦巻く苦悶と悲しみの半分ぐらいは、彼女が一身に引き受けているのかもしれなかった。

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