黒き高潔の雛鳥 (四)
2023.11/7 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
試食の祝宴を終えたのちも、ピリヴィシュロは幸福な心地であった。
気づけば、ジェノスに到着してからもう10日以上が過ぎている。それが信じられないぐらい、日々はあっという間に過ぎ去っていた。
しかしゲルドの使節団は、赤の月の中旬から下旬までジェノスに留まる予定でいる。すでに交易の品は受け渡しているし、商談だってそうまで長引くことはなかろうが、アルヴァッハは雨季の野菜というものを味わうために長逗留することを決めていたのだ。今はまだ茶の月の中旬であるので、ピリヴィシュロたちはあとひと月以上もジェノスでの暮らしを楽しめるわけであった。
ただ、アルヴァッハたちはピリヴィシュロほど呑気に過ごしてはいなかった。藩主たる祖父も語っていた通り、アルヴァッハたちは遊楽のためにおもむいたわけではないのだ。しかも今回は南の王都やダーム公爵家やバナーム侯爵家との交易まで絡んでいるため、どれだけの品を取り引きするか決定するだけでも入念な話し合いが必要であったのだった。
ピリヴィシュロも名目上は使節団の一員であるが、さすがにそんな重要な商談の場に立ち会うことはできない。というよりも、商談に加わっているのはアルヴァッハとナナクエムのみで、他の団員たちは街道沿いの荒野で野営をして、ゲルドに帰る日を待ちわびているのである。
その中で、副団長という立場にある人物が、ピリヴィシュロのお目付け役を担うことになった。
アルヴァッハたちが商談に励んでいる間は、その人物がピリヴィシュロの面倒を見てくれるのだ。アルヴァッハは、藩主たる祖父にピリヴィシュロの安全は必ず守ると誓っていたので、ひときわ腕の立つ人物をお目付け役に選んだようであった。
「……ピリヴィシュロ様、西の言葉、巧みです。小官、見習う、必要です」
ピリヴィシュロとふたりきりになった際、副団長はそのように語っていた。
腕は立つが、きわめて柔和な人柄であるのだ。ゲルドの民としては小柄なほうであり、その顔立ちもジギの民のように繊細であった。
「いえ。はつおん、あなたのほうが、たくみです」
「ですが、言葉、数、ピリヴィシュロ様、勝利です。小官、感服です」
そのように語る彼は決して貴人におもねるような人柄ではなかったため、ピリヴィシュロは心から誇らしく思うことができた。
そうしてさらに日が過ぎて――ピリヴィシュロの楽しい思い出は、さらに積み重ねられていった。
試食の祝宴の5日後にはファの家の晩餐に招待され、さらにその翌日には『麗風の会』なる大規模な茶会が開かれることになったのだ。
それらの催しを通じて、ピリヴィシュロはまたコタ=ルウやオディフィアと親交を深めることができた。さらにファの家の晩餐では、アイム=フォウという新たな幼子と邂逅することになったのだ。
アイム=フォウもまた、魅力的な存在であった。彼はアイ=ファがきわめて親しくしているサリス・ラン=フォウという女性の子息であり、とてもやわらかで温かな空気を持っていた。こちらも笑顔を誘発されかねないという意味においては、彼がもっとも危険な存在であったかもしれなかった。
ともあれ、日を重ねるごとに楽しい気持ちはつのっていくばかりである。
そこでひとつの事件が起きたのは、『麗風の会』の数日後――ぽっかりと空いた中休みのように、平穏な日々が訪れた矢先のことであった。
◇
その日もピリヴィシュロは、使節団の副団長とともにジェノス城の客間でくつろいでいた。
商談のほうはいよいよ大詰めで、アルヴァッハたちはティカトラスやアラウトやポルアースたちのもとにおもむいている。こういった時間、ピリヴィシュロはアルヴァッハに心配をかけないように、なるべく客間で過ごすようにしていたが――この日は中天から、心の躍るお誘いを受けていた。
「間もなく、中天です。移動、開始です」
「はい。よろしくおねがいします」
本日は、エウリフィアから中天の軽食に誘われていたのだ。
商談に励んでいるアルヴァッハたちは、そのままアラウトたちと軽食をとるらしい。そちらは宿場町から取り寄せたギバ料理を食するようだが、今日ばかりは羨望を覚えずに済んだ。
ジェノス城を出て、トトスの車に乗り、指定されていた小宮を目指す。
西の貴婦人というものは、ただ食事をとるためだけにわざわざ小宮に向かうことも多いらしい。ずいぶん風変わりな習わしであるが、もちろんピリヴィシュロが不満に思うことはなかった。
「ああ、ピリヴィシュロ殿。お待ちしておりましたわ」
白い石造りの小宮、白鳥宮にて、エウリフィアとオディフィアが待ち受けていた。
屋外に屋根つきの座席が設えられており、その向こう側には美しい花の咲き乱れる庭園が広がっている。それを背景にしたオディフィアの愛くるしさが、またピリヴィシュロの胸を高鳴らせた。
「さあ、どうぞお座りになって。ええと、そちらのあなたは――」
「小官、こちら、結構です」
副団長は、ピリヴィシュロの座席の斜め後方にそっと控える。そちらに向かって、エウリフィアはたおやかに微笑みかけた。
「でも今日は、あなたの分まで軽食を準備してしまったの。よろしければ、こちらの席に如何かしら?」
「いえ。小官、貴人ならぬ身です」
「ええ。西にも格式張った習わしがあるので、他の方々の目があるときは、わたくしもうかうかとお誘いできないのだけれど……でも、今日は誰の目をはばかる必要もないでしょう? ここには、わたくしとオディフィアしかいないのだから」
と、エウリフィアはいっそうやわらかく微笑みながら、ピリヴィシュロに向きなおってきた。
「でも、こちらの御方はピリヴィシュロ殿の従者というお立場なのですものね。あとの判断は、ピリヴィシュロ殿におまかせいたしますわ」
ピリヴィシュロはいくぶん迷ったが、それでもすぐに決断することができた。
「あなた、こちら、ちゃくせき、おねがいします」
「……小官、失礼、ありませんか?」
「はい。エウリフィア、きづかい、うけいれいたい、おもいます」
副団長は感謝の形に指先を組み合わせて一礼し、ピリヴィシュロの隣の椅子に腰を下ろした。
エウリフィアは満足そうに微笑みながら、侍女へと声をかける。
「それでは、お茶と軽食をお願いね。おふたりにも喜んでいただけたら、幸いですわ」
「はい」とそちらに応じながら、ピリヴィシュロはオディフィアに心をひかれてならなかった。いつも明るい眼差しをしているオディフィアが、ひときわ星のように瞳をきらめかせていたのだ。それは、つい先日の『麗風の会』で見せていた姿と遜色ないぐらいであった。
「……オディフィア、きげん、うるわしい、さいわいです」
ピリヴィシュロがそのように呼びかけてみると、オディフィアは同じ眼差しのまま「うん」とうなずいた。
「きょう、トゥール=ディンのおかしなの。だから、すごくうれしい」
「トゥール=ディン? トゥール=ディン、きていますか?」
「いえ。わたくしたちは3日に1度、トゥール=ディンから特別に菓子を買いつけているのですわ」
その風聞は、ピリヴィシュロもアルヴァッハから聞き及んでいた。
「りかいです。でも……トゥール=ディン、とくべつなかし、きちょうです」
「ええ。ですから今日は特別に、ピリヴィシュロ殿とお付きの御方の分まで準備していただいたのですわ」
エウリフィアが笑顔でそのように答えたとき、侍女が盆を手に近づいてきた。
4枚の皿が並べられて、オディフィアの瞳をいっそうきらめかせる。そしてピリヴィシュロも、思わず身を乗り出すことになった。
一見は、普通の焼き菓子である。
まあ、ゲルドでは決して普通ではないのだが――ピリヴィシュロもこの半月ほどで、ジェノスの菓子に見慣れることができた。フワノという食材を使って焼き菓子をこしらえるのが、ジェノスにおいては一般的であるようなのだ。
こちらの菓子は、丸く平たい2枚の生地で、具材がはさみこまれている。生地は暗い灰褐色をしているので、バナームの黒いフワノが使われているのだろうと思われた。
「これは、以前に出されたどらやきという菓子に似ているようだけれど……いったいどのような細工が施されているのでしょうね」
そのように語るエウリフィアのかたわらで、オディフィアはうずうずと身を揺すっている。ただし、そんな幼い仕草を見せるときでも、その小さな面は静謐だ。
「では、いただきましょう。みなさんも、どうぞお召し上がりになって」
エウリフィアがそのように告げると、オディフィアは誰よりも早く突き匙をつかみ取った。
その愛くるしい姿に心を和ませながら、ピリヴィシュロも突き匙を手にする。それを菓子の生地に押し当てると、さしたる抵抗もなく切り分けることができた。
生地と生地の間からは、黄色と白色と黒褐色の色合いが覗いている。
それを口に運んでみると――得も言われぬ甘さが舌の上に跳ね回った。
最初に感じたのは、アールという食材の甘みである。
ピリヴィシュロはジェノスに到着してから、もう何度となくその美味しさを味わわされている。ルウの集落や試食の祝宴で出されたガトーアールに、城下町の晩餐会で出されたモンブランケーキ――このやわらかさは、モンブランケーキと同一のものであった。甘くて香ばしいアールにさまざまな加工を施して、クリームというものに仕上げているのだ。
さらにそこには、生クリームというものも使われていた。黄色い具材がアールのクリームで、白色が生クリームであったのだ。
しかしその生クリームにも、果実の風味が加えられている。これはゲルドがジェノスにもたらしら、マホタリの風味だ。ゲルドの食材であるマホタリと、メライアの食材であるアールが、まるで最初から仲のよい友人のように温かな調和を為していた。
そこにどっしりと絡みついているのが、黒褐色の具材――ブレの実のあんこである。あんこの作り方はゲルドにも伝えられていたし、ルウ家においてはそれを活用したダイフクモチという菓子も出されていたので、ピリヴィシュロにとってもすでにお馴染みの存在だ。しかしそれが2種のクリームや黒フワノの生地と結合することで、まったく見知らぬ美味しさを完成させていたのだった。
「ああ……トゥール=ディンはやっぱり、さまざまな果実を掛け合わせることに注力しているようね。でも、マホタリとアールの組み合わせがこんなに心地好いだなんて……やっぱり、驚かされてしまうわ」
うっとりと目を細めながら、エウリフィアはそう言った。
そしてオディフィアは大切そうに菓子を噛みながら、それ以上に幸福そうに瞳を輝かせている。
いっぽう副団長は、自分の口もとを手で隠していた。
『これは……驚くべき味わいです。わたしはかつて、このような菓子を味わった覚えがありません』
「はい。ですが、ひがしのことば、なっています」
ピリヴィシュロがそのように伝えると、副団長はほんの少しだけ眉を下げた。
『無作法で申し訳ありません。ですが、西の言葉では何も語れそうにありませんし……かといって、口をつぐんでいることもできなかったのです』
「……そちら、まるで、おじぎみです」
ピリヴィシュロは温かい気持ちでそのように答えつつ、エウリフィアのほうに向きなおった。
「こちら、ふくだんちょう、おどろき、おおきく、こきょうのことば、でてしまいました。ぶさほう、おわびします」
「いえ、とんでもない。……そういえば、あなたは祝宴や晩餐会などにも出席されていなかったのですものね。もしも初めてトゥール=ディンの菓子を口にしたのなら、驚くのが当然ですわ」
副団長はわずかに身じろぎながら、ピリヴィシュロのほうに向きなおってきた。
『こちらの貴婦人のお言葉は聞き取れるのですが、やはり自分の思いを西の言葉で語ることはできそうにありません。非常に申し訳ないのですが……東の言葉で語らせていただいてもよろしいでしょうか?』
「はい。かたりたい、なんですか?」
『我々使節団の団員は、毎日宿場町の屋台で森辺のギバ料理や菓子を買い求めています。よって、トゥール=ディン殿の菓子というものも決して初めて口にするわけではないのですが、それとも比較にならない味わいであるように感じられてしまうのです』
「……ふくだんちょう、ふだん、しゅくばまち、やたい、かよっています。よって、トゥール=ディンのかし、はじめて、ありません。ですが、こちらのかし、できばえ、やたいいじょう、おどろいています」
ピリヴィシュロがそのように告げると、エウリフィアは「ああ」と口もとをほころばせた。
「なるほど、そういうことでしたのね。屋台の菓子というのは売り値をおさえるために、使える食材が限られてしまうというお話であるのです。それに、朝からたくさんの菓子を準備しなければならないため、手間をかけるにも限度があるというお話でしたわ」
『なるほど……そういうことですか。では、これこそがトゥール=ディン殿の真の実力ということなのですね。小官は、心から感服いたしました』
「……トゥール=ディン、しんのじつりょく、こころから、かんぷくした、いっています」
ピリヴィシュロの言葉に、オディフィアは静謐な面持ちのまま目をぱちくりとさせた。
「ピリヴィシュロさま、フェルメスさまみたい」
「え……あ、つうやく、かんしてですか?」
「うん。アルヴァッハさまがいっぱいしゃべると、フェルメスさまがにしのことばでおしえてくれるから。……やっぱりピリヴィシュロさま、にしのことば、じょうずだとおもう」
思わぬ賛辞をいただいて、ピリヴィシュロは顔を赤くすることになった。
「ふくだんちょう、むずかしいことば、つかっていないので、つうやく、よういですが……オディフィアのことば、うれしい、おもいます」
オディフィアもまた嬉しそうに灰色の瞳をきらめかせながら、「うん」とうなずいた。
エウリフィアは優しく微笑みながら、オディフィアのやわらかそうな髪を撫でる。
「オディフィアも、すっかりピリヴィシュロ殿と打ち解けたようね。今日はピリヴィシュロ殿とゆっくり語らえて、嬉しいでしょう?」
「うん。うれしい。ピリヴィシュロさま、すてきだから」
さきほど以上に想定外の言葉が飛び出して、ピリヴィシュロは泡を食うことになった。
「わ、われ、すてき、ありません。ひさい、じゃくはいものです」
「でも、オディフィアよりむずかしいことばをしってるし……すごく、やさしいから。なんだか、ゼイ=ディンみたいなの」
ゼイ=ディンとは、トゥール=ディンの父親である。
あのように立派な殿方と比べられては、ピリヴィシュロも困惑するばかりであった。
「ピリヴィシュロ殿はまだ若年であられるのにとても落ち着いておられるから、ゼイ=ディンを思い出させるのかもしれませんわね」
「うん。やさしいのも、そっくり」
「と、とんでもありません」と、ピリヴィシュロはいっそう顔を赤らめることになった。
「ゼイ=ディン、りっぱです。われ、りっぱ、ありません。それに……オディフィア、よほど、りっぱ、おもいます。オディフィア、にしのたみですが、ひがしのさほう、かんぺきです」
「ひがしのさほう?」
「はい。ひがしのたみ、ひょうじょう、うごかす、きんきです。オディフィア、いつも、ひょうじょう、せいひつで、われ、みならいたい、おもっていました」
ピリヴィシュロがそのように告げた瞬間――オディフィアの瞳が、ふっと暗く陰った。
オディフィアがそのような眼差しを見せるのは、初めてのことである。ピリヴィシュロが大きな惑乱に見舞われると、優しく微笑んだエウリフィアが取りなしてきた。
「ピリヴィシュロ殿にそうまで言っていただけるのは、光栄な限りですわ。さあどうぞ、菓子のほうも召し上がってね。お茶のおかわりは如何かしら?」
「は、はい。ですが……」
「そういえば、またダカルマス殿下が大がかりな催しを計画しているようですわ。料理や菓子の準備を命じられる方々は大変な苦労なのでしょうけれど、それを享受できるわたくしたちは楽しいばかりですわね」
エウリフィアのたおやかな言葉と微笑みが、その場の空気を支配した。
おそらく――彼女はこの空気で、オディフィアを守っているのだ。この空気を破ってオディフィアに語りかけるのはとても無作法なことであるのだと、いまだ6歳であるピリヴィシュロにもそれがひしひしと伝わってきたのだった。
(でも、どうして……? ぼくがなにか、いけないことをいってしまったの?)
オディフィアは暗く打ち沈んだ眼差しのまま、菓子をついばんでいる。
その面は静謐なままであったが、彼女が悲しみに暮れていることは明白である。そんなオディフィアの姿を見せつけられたピリヴィシュロは、胸が破けるような痛みを抱え込むことになってしまったのだった。
◇
「われ、しったい、おかしました」
その日の夕刻である。
商談から戻ったアルヴァッハたちにピリヴィシュロがそのように報告すると、たいそううろんげな眼差しが返されてきた。
「失態、何事であろうか? 説明、必要である」
ピリヴィシュロはまだ胸に大きな痛みを宿したまま、日中の出来事を事細かく説明してみせた。
しかし、アルヴァッハもナナクエムもいぶかしげに目を光らせるばかりである。
「詳細、聞いても、不明である。其方、如何様であるか?」
アルヴァッハに強い眼光を向けられた副団長は、『はい』と背筋をのばした。
『ピリヴィシュロ様のご報告に、付け加えることはないかと思われます。それまで和やかに語らっておられたオディフィア姫が、ふいに気を落としてしまわれたのです』
「……理由、不明であるか?」
『はい。ピリヴィシュロ様は、オディフィア姫が東の作法に照らしあわせても完璧だと称されていました。東の民を忌避するような御方であれば、それで気を悪くされることもありえるのでしょうが……オディフィア姫にそのような気配を感ずることもありませんでした』
「うむ。オディフィア、友好的である。東の民、忌避する気配、皆無である。……よって、謎、深まるばかりである」
「はい。われ、どうするべきでしょう? このまま、できません」
ピリヴィシュロは懸命に表情を抑えながら、アルヴァッハに取りすがった。
アルヴァッハはしばし黙考したのち、「うむ」と首肯する。
「我、捨て置けぬ、同様である。仔細、問い質す他、あるまい」
「待たれよ。オディフィア、問い詰める、算段であろうか? 相手、幼子である」
ナナクエムがすかさずたしなめると、アルヴァッハは「否」と重々しく応じた。
「オディフィア、幼子であるが、道理、わきまえている。理由なく、気、落とすこと、あるまい。こちら、非礼、あったなら、謝罪、必要である」
「うむ。しかし……」
「まず、エウリフィアである。エウリフィア、事情、わきまえている、察せられる。ピリヴィシュロ、支度を」
「はい」と大きくうなずいて、ピリヴィシュロはアルヴァッハとともに客間を出た。
扉の外には、ジェノスの武官と小姓が控えている。アルヴァッハがエウリフィアに面談したいという旨を伝えると、小姓は小走りで立ち去っていった。
しばらくして、小姓は年配の侍女とともに舞い戻ってくる。その侍女が恭しげに一礼してから、アルヴァッハとピリヴィシュロをエウリフィアのもとまで導いてくれた。
ジェノス城のずいぶん奥まった場所にある部屋である。
扉の前には、2名の武官が立ちはだかっている。その片方が、扉を開けると――白くてふわふわとした塊が、いきなりピリヴィシュロに飛びついてきた。
「ピリヴィシュロさま、いらっしゃい! やっとあえたねー!」
このいきなりの歓待に、ピリヴィシュロは心から仰天することになった。
ピリヴィシュロの腰にひっついているのは、真っ白な装束を纏ったごく幼い女児である。年の頃は3、4歳で、小さな顔いっぱいにおひさまのような笑みをたたえていた。
「こら、トルフィア。目上の御方に対して失礼でしょう。……申し訳ありません、ピリヴィシュロ殿」
部屋の奥からしずしずと近づいてきたエウリフィアが、その女児を両手で抱きあげた。
髪や瞳の色も、屈託がなくて朗らかな表情も、とてもよく似通っている。トルフィアと呼ばれた女児は反省の色もなく、笑顔でエウリフィアの身を抱きすくめた。
「これはトルフィアといって、わたくしたちの第二息女ですの。やっと4歳になったのですけれど、まだまだ幼くて……とうてい社交の場には連れ出せないのですわ」
オディフィアに妹がいるという話は、ピリヴィシュロも伝え聞いていた。しかしそれがこのようにやんちゃな姫君だとは、まったく想像が及んでいなかった。
「さあ、こちらにどうぞ。あらためて、ようこそいらっしゃいました、アルヴァッハ殿にピリヴィシュロ殿。ご足労をおかけして、まことに申し訳ございません」
昼に見たときと同じように、エウリフィアはたおやかに微笑んでいた。
さらにその場には、メルフリードまでもが控えている。メルフリードは無言のまま、目礼をしてきた。
「オディフィアがご心配をおかけしてしまって、そちらに関してもお詫びを申し上げますわ。でも……何もピリヴィシュロ殿に非のあるお話ではないので、どうぞお気になさらないでください」
「オディフィア、ピリヴィシュロ、会話のさなか、気、落とした、聞いている。何か、非礼、あったのでは?」
「いえ。決してそのようなことはございませんの。あくまでこちらの事情ですので、心配はご無用ですわ」
そのように語るエウリフィアのかたわらで、メルフリードも無言でうなずいている。
どちらも、ピリヴィシュロを責めるような気配はない。しかし、それでピリヴィシュロの痛みが消えるわけはなかった。
「でも、われ、げんいん、あるはずです。われ、しゃざい、ひつようです」
「いえ。ピリヴィシュロ殿には、何の責任もないお話であるのです」
エウリフィアの笑顔に、変わりはない。
やはり彼女は、この笑顔でオディフィアを守っているのだ。
そして――彼女にそんな振る舞いを強いているのは、ピリヴィシュロであるはずであった。
「でも、われ、ほうち、ふかのうです。われ、オディフィア、ただしいきずな、もとめています」
「ええ。ですから……」
「このまま、ただしいきずな、かのうですか? それなら、われ、もどります。でも、オディフィア、かなしいままなら……われ、がまん、ふかのうです。われ、オディフィア、げんき、とりもどすこと、いちばん、ねがっています」
エウリフィアは、迷うように視線をさまよわせて――最後に、アルヴァッハを見つめた。
「……アルヴァッハ殿は、どのようにお考えでしょうか?」
「我、心情、ピリヴィシュロ、同一である。オディフィア、ピリヴィシュロ、それぞれ、立場あるので、正しき絆、深めるべきである」
「でも……オディフィアはまだ8歳、ピリヴィシュロ殿も6歳という齢なのですよね」
「はい。ですが、ことし、7さいです」
ピリヴィシュロがそのように言いつのると、エウリフィアはまた微笑んだ。
ただ、これまでとは異なる微笑みである。それは貴族ではなく、母親としての表情であるように感じられた。
「でも、幼いことに変わりはありませんわ。でしたら……貴族や貴人としてのお立場ではなく、幼き子供の友人同士として絆を深めていただくことは望めますでしょうか?」
「……すいません。りかい、むずかしいです」
「子供とは、親や家族に秘密を持つものです。ゲルドの貴人というお立場では、アルヴァッハ殿を始めとする皆様に秘密を持つことは許されないでしょうけれど……ひとりの友人として、オディフィアの秘密を分かち合うことは可能でしょうか?」
ピリヴィシュロは唇を噛みながら、アルヴァッハの長身を見上げた。
アルヴァッハは、じっとエウリフィアの笑顔を見据えている。
「その言葉、従えば……オディフィア、気、晴れようか?」
「ええ、おそらくは」
「では、ピリヴィシュロ、友として、オディフィア、絆、深めるべきである」
アルヴァッハの大きな手の平が、ピリヴィシュロの頭にのせられた。
「ピリヴィシュロ、友として、オディフィア、語らうがいい。事後、報告、無用である」
「はい! ありがとうございます!」
エウリフィアはひとつうなずくと、幼き姫君の身をメルフリードに託した。
そうしてエウリフィアは横手の扉に消えていき、トルフィアは父親の顔を仰ぎ見る。
「ねえさま、げんきになる?」
「うむ。きっとな」
メルフリードが無表情に応じると、トルフィアは笑顔でその胸もとに顔をうずめた。
そんなトルフィアの頭を撫でながら、メルフリードはピリヴィシュロたちに向きなおってくる。
「こちらは、オディフィアの寝所であるのです。オディフィアが気をふさいでしまったと聞き及び、わたしもこちらでエウリフィアから事情を聞いていたさなかでありました」
「うむ。エウリフィア、取り計らい、異論、なかろうか?」
「はい。わたしもこの場はジェノス侯爵家の人間ではなく、オディフィアの父として振る舞いたく思います」
メルフリードも、そうそう表情を動かすことはない。しかし、オディフィアよりも冴えざえと光る灰色の瞳には、とても人間らしい温かな光が灯されていた。
しばらくして、エウリフィアが隣の部屋から戻ってくる。そしてそこには、乳母と思しき老女が同行していた。
「お待たせいたしました。オディフィアにも事情を伝えておきましたので、どうぞ存分にお語らいください」
「はい。ありがとうございます」
ピリヴィシュロは感謝の礼を捧げてから、ひとりでそちらの部屋に踏み込んだ。
部屋は、薄暗い。もう夕刻で、城中に明るい光が灯されているというのに、こちらは窓から差し込む頼りない夕陽だけが目の頼りであったのだ。
その薄暗がりの最果てに、巨大な寝台が設えられており――そこに、頭から毛布をかぶったオディフィアがちょこんと座していた。
まるで寒いかのように、毛布を首の下でかきあわせている。
そして、その目が赤く泣きはらされていることに気づいたピリヴィシュロは、また胸を破られるような痛みを抱くことになった。
「オディフィア……もうしわけありません。しゃざい、もうしあげます」
「ううん……」と、オディフィアは小さく首を振った。
「ピリヴィシュロさまは、わるくない。わるいのは、オディフィアだから……しんぱいかけて、ごめんなさい」
「オディフィア、わるくありません。せきにん、われです。われ、なにか、いけないこと、いったのでしょう?」
「ううん。ピリヴィシュロさまは、わるくないの」
そのように繰り返してから、オディフィアは不安そうにピリヴィシュロを見つめてきた。
「ピリヴィシュロさまは……ひみつを、まもってくれるの?」
「はい。エウリフィア、やくそく、しました。おじぎみ、ゆるし、くれました。ひみつ、かならず、まもります。やくそく、ぜったいです」
ピリヴィシュロがどのように言葉を重ねても、オディフィアの表情は動かない。
ただその灰色の瞳には、判別も難しいぐらいさまざまな感情が渦巻いていた。
「オディフィア……かめんしょうなの」
「はい? かめんしょう、なんですか?」
「びょうきのなまえ。だから、かおがうごかないの」
ピリヴィシュロは、思わぬ告白に立ちすくむことになった。
仮面症――その病魔は、ゲルドにもわずかに存在が伝えられていたのである。
「か、かめんしょう、いのち、かかわります。オディフィア、いのち、きけんですか?」
「ううん。オディフィアのびょうまはかるいから、いのちはだいじょうぶっていわれた。でも……かおがうごかないの」
確かに仮面症というのは、仮面をかぶったように表情が動かせなくなるのだと聞き及んでいる。よって、表情を動かすことを禁忌とするシムでは、発覚が遅れることが多いのだ、と――ピリヴィシュロが目にした医術書には、そのように書き記されていた。
「そう……だったのですね。でも……オディフィア、どうして、とつぜん、げんき、なくしましたか? われ、かめんしょう、そうぞう、なかったので、してき、していません」
ピリヴィシュロがそのように語ると、オディフィアは灰色の瞳に涙をにじませた。
「オディフィアは、ピリヴィシュロさまとなかよくなれて、すごくうれしかったの。でも……ピリヴィシュロさまは、オディフィアのかおがうごかないから、すごいっておもってたんでしょ?」
「は、はい。ですが……」
「でもそれは、オディフィアがりっぱだからじゃないの。ただのびょうきなの。オディフィアは、なんにもすごくないの」
にじんだ涙が大きなしずくとなって、オディフィアのなめらかな頬に伝っていく。
ピリヴィシュロは寝台に駆け寄って、オディフィアのもとにひざまずいた。
「たしかに、オディフィア、すごい、おもっていました。ひがしのさほう、かんぺき、おもっていました。でも、オディフィア、このましい、おもう、それだけ、ありません。オディフィア、かめんしょうでも、われ、きもち、かわりません」
「でも……オディフィアは、すごくないよ?」
「すごい、ひつよう、ありません。オディフィア、にしのたみですから、ひがしのさほう、かんけい、ありません。オディフィア、みりょく、べつ、そんざいです。われ、いちばん、このましい、おもう、ひとみ、かがやきです。こころ、うごき、うつす、ひとみです。われ、オディフィア、こころ、うつくしい、おもいます。だから、このましい、おもいます」
懸命に言いつのりながら、ピリヴィシュロは自分の顔中をまさぐった。
「われ、このような、すがたです。どこか、このましい、ありますか?」
「え……? うん。くろいひとみも、あかいかみも、すてきだとおもう」
「では、われ、ひとみ、くろくなかったら、かち、ありませんか? かみ、あかくなかったら、どうですか? それで、かち、なくなるなら、われ、ざんねんです」
オディフィアあ、ぱちぱちと目をしばたいた。
すべての涙が流されて、本来の輝きが瞳に宿される。その美しさに心を満たされながら、ピリヴィシュロはさらに言いつのった。
「はなし、おなじです。かお、うごかない、みりょく、ひとつでしたが、あくまで、ひとつです。そして、オディフィア、もっと、おおきい、みりょく、もっています。だから、かなしみ、ふようです。われ、オディフィア、あかるいひとみ、いちばん、このましい、おもっています」
「うん……トゥール=ディンも、おんなじふうにいってくれたの」
「とうぜんです。しぜん、せつりです」
「……せつり、よくわかんない」
灰色の瞳を明るく輝かせながら、オディフィアは小首を傾げた。
やはりその顔は静謐そのものであったが、笑っているも同然である。東の民は、こうして顔を動かさぬままに心を通じ合わせるのだった。
「オディフィア、すてき、いってもらえて、われ、うれしかったです。だから、われ、つたえます。オディフィア、すてきです。ひとみ、かがやき、すてきです」
ピリヴィシュロはオディフィアの身にふれないように気をつけながら毛布をつかみ、それで涙をぬぐってあげた。
オディフィアは、「ありがとう」とピリヴィシュロを見つめてくる。
灰色の、星のようなきらめきだ。
ピリヴィシュロは嘘偽りなく、この美しい瞳の輝きに魅了されたのだった。
「……われ、ひみつ、かならず、まもります」
ピリヴィシュロは、誓約の形に指先を組み合わせた。
「オディフィア、このかたち、かのうですか?」
オディフィアはまたぱちぱちと目を瞬かせてから、小さな指先で懸命に誓約の形を作ってくれた。
ピリヴィシュロは、真っ直ぐのばした人差し指の先端で、オディフィアの同じ場所に軽く触れ合わせる。
「ピリヴィシュロ=ゲル=ドルムフタン、オディフィア、ともとして、やくそく、まもること、ちかいます」
誓約の印を解除すると、オディフィアは「ありがとう」と繰り返した。
そして、毛布をかぶった小さな身体を、もじもじと揺らす。
「……オディフィアとピリヴィシュロさま、おともだち?」
「はい。ともです。オディフィア、ゆるし、もらえるなら」
「……オディフィア、きぞくのおともだち、はじめてなの」
そのように語るオディフィアの目に、新たな涙が浮かべられる。
しかし、その瞳の輝きが曇らされることはなかった。
「ピリヴィシュロさまとおともだちになれて、すごくうれしい。これからも、なかよくしてね?」
ピリヴィシュロは口もとがほころびそうになるのを必死にこらえながら、「はい」とうなずいた。
事ここに至っては、東の作法を脇に置いてでも笑顔を届けたい気持ちであったが ――しかしピリヴィシュロもオディフィアと同じように、瞳の輝きだけで今の喜びを伝えたいと願ったのだ。
ピリヴィシュロの気持ちは、正しく伝えられているだろうか。
その答えを知るのは、オディフィア本人のみであるが――ただ、その灰色の瞳は涙でいっそうのきらめきをたたえつつ、ピリヴィシュロの心を深く満たしてくれたのだった。