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異世界料理道  作者: EDA
第八十二章 群像演舞~九ノ巻~
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     黒き高潔の雛鳥 (三)

2023.11/6 更新分 1/1

 ルウの家で美味なるギバ料理を堪能し、さまざまな人々と喜びの思いを分かち合ったのち、ピリヴィシュロたちはあらためてジェノス城を目指すことになった。


 本来であれば、何を置いても一番に駆けつけるべき場所である。それでナナクエムはしきりに溜息をこぼしているのであろうが、アスタたちと幸福な時間を過ごすことのできたピリヴィシュロはひそかに喜びの思いを噛みしめながら、英断を下したアルヴァッハに感謝の念を抱いていた。


「僕たちはつい昨日ジェノスに到着し、ダーム公爵家の方々は10日ほど前に到着されておりました。ダーム公爵家の方々については、使節団の方々から聞き及んでおられますでしょうか?」


 ジェノス城に向かう車の中で、バナーム侯爵家のアラウトがそのように問うてきた。彼は料理番のカルスという人物だけをルウの集落に残し、武官のサイという人物とともに同行を願ってきたのだ。そのアラウトの姿を光の強い目で見返しながら、アルヴァッハは「うむ」と応じた。


「ダーム公爵家、当主の弟、ティカトラス。商才、あふれる、豪胆な人物、聞き及んでいる」


「はい。まさしくその通りの御方となります。そして、貴族としてはいささかならず奔放な気性をされておりますため、何かとご不快な思いをさせてしまう可能性もあるかと思うのですが……どうか寛大なお心でご容赦をいただけたら、ありがたく存じます」


「うむ。ダーム公爵家、格式、高いため、ジェノスの面々、苦労、甚大である、聞いている。ティカトラス、たとえ、失礼、あろうとも、ジェノスの面々、責める理由、皆無であるので、心配、無用である」


「ありがとうございます。バナームの人間である僕がこのように差し出がましい言葉を口にするいわれはないのですが、ゲルドとジェノスの絆に何かあったら取り返しがつかないかと思い……つい余計な口を叩いてしまいました」


 そのように語るアラウトは、心から心配そうな面持ちをしている。そんな心配を抱えているからこそ、彼は同行を求めてきたのであろうと思われた。


(このひとは、すごくしんせつなひとなんだ)


 ピリヴィシュロは、そのように判じていた。

 西の貴族は表情と内心の異なる人間も少なくはないので警戒をするようにと言い渡されていたが、少なくともこのアラウトという若者に関しては内心を疑う必要もないようであった。


(それにやっぱり、もりべのひとたちは……みんな、すてきなひとだった)


 彼らこそ、内心を疑う気持ちにはなれない。それどころか、自分のほうこそ清廉なる森辺の民に失望されないようにと、そんな思いを抱かされるぐらいであった。


 ピリヴィシュロがそんな感慨を抱いている間に、トトスの車が動きを止める。

 それで表に出てみると、驚くほど巨大な建物が眼前に立ちはだかっていた。


 ゲルドではまずお目にかかれないような、背の高い建物である。しかもそのすべてが石造りで、足もとも一面が石畳であるのだ。よほど立派な石切場が近所にない限り、このように立派な城を築くことはできないはずであった。


(すごいや。ジェノスこうしゃくけっていうのは、ゲルドのはんしゅよりくらいのひくいきぞくなのに……こんなにりっぱなおしろをもってるんだ)


 ピリヴィシュロはいっそう胸を高鳴らせながら、アルヴァッハたちとともにジェノス城へと踏み込むことになった。

 長い石段をのぼり、巨大な城門をくぐり、広々とした回廊を抜けて、城の奥深くへと進んでいく。そうして最初に案内されたのは――浴堂であった。


 装束を脱いで扉をくぐると、浴堂は白い蒸気で満たされている。それで思わず『うわあ』と感嘆の声をあげてしまったピリヴィシュロは、慌てて西の言葉に切り替えた。


「よくどう、りっぱです。……でも、どうして、いきなり、よくどうですか?」


「ジェノス、到着した人間、身、清める、習わしである。城、清潔、保つため、および、旅の疲れ、癒やす、もてなしである」


 小姓の手を借りず、自らの手で身体をぬぐいながら、アルヴァッハはそう言った。

 身を清めているのは、アルヴァッハとピリヴィシュロとナナクエムのみだ。御者の武官はジェノスの貴族の前に出ないので、身を清める必要がないのだという話であった。


 浴堂などを使うのはひと月ぶりであったため、ピリヴィシュロは心地好いばかりである。道中は、せいぜい濡らした手ぬぐいで身体をぬぐうていどであったのだ。南に下るにつれて温暖な気候となり、汗を浮かべる機会も増えていたので、いっそうの心地好さであった。


 そうして表に出てみると、武官が新しい装束を準備してくれている。旅塵にまみれた姿で西の貴族と相対するのは失礼である、ということであろう。何もかもが、ピリヴィシュロにとっては新鮮なばかりであった。


 まっさらな下帯をしめて、袖なしの胴衣を纏い、数々の飾り物を装着する。そうして身なりを整えたならば、今度こそ謁見の間へと導かれた。

 前後をはさむのは、白い装束を纏ったジェノスの武官たちだ。こちらでもゲルドの民をむやみに恐れる気配はなかったが、さすかにいくぶんは緊張している様子であった。


「おお、アルヴァッハ殿にナナクエム殿。ご到着をお待ちしておりました」


 謁見の間で待っていたのは、壮年の貴族――ジェノス侯爵家の当主マルスタインである。事前に聞いていた通り、ゆったりとした表情と雰囲気を持つ人物であった。


 さらにその場には、もう2名の人間も控えていた。こちらの使節団の責任者である武官と、灰色の目をした西の若い貴族である。そのいかにも冷徹そうな面立ちから、当主の第一子息であるメルフリードであろうと察せられた。


「このたびは、アルヴァッハ殿の甥御にあたるピリヴィシュロ殿もご同行されたそうですな。はじめまして、ピリヴィシュロ殿。わたしがジェノス侯爵家の当主、マルスタインと申します」


 マルスタインの茶色い目が、ピリヴィシュロに向けられてくる。

 とても朗らかな笑顔であるが――これも事前に聞いていた通り、あまり内心がわからない。決して邪なものは感じないが、西の貴族の大半はそうして内心を隠すのが常であるという話であったのだ。

 ピリヴィシュロが礼を返して名乗りをあげると、マルスタインは満足そうにうなずいた。


「遠路はるばる、お疲れ様でした。どうかこちらのジェノス城では、存分におくつろぎください。何か必要なものがありましたらすぐに取り寄せますので、ご遠慮なくお申しつけください」


 マルスタインは幼いピリヴィシュロのことも、大人のように扱ってくれている。

 ただ――それはきっと、貴族としての礼節および配慮であるのだろう。森辺の民は、幼子は幼子として扱いながら、ひとりの人間として見くびることなく接しようという真心があふれかえっていた。ピリヴィシュロにとって、そちらのほうが好ましく思えてしまうのはどうしようもない話であった。


 そうしてしばしアルヴァッハたちが遅参の謝罪をしていると、新たな小姓が謁見の間にやってきた。

 小姓は目を伏せながらマルスタインのもとに参じ、何事かを小声で伝える。マルスタインは鷹揚な笑みを崩すことなく、アルヴァッハに向きなおった。


「メルフリードの伴侶たるエウリフィアと、その子たるオディフィアがご挨拶をさせていただきたいそうです。ゲルドの方々にご了承をいただけますでしょうか?」


「うむ。無論である」


 アルヴァッハの返事に応じて、新たな2名がやってきた。

 まだ若い西の貴婦人と、ピリヴィシュロよりも幼く見える姫君である。その幼き姫君の姿を目にした瞬間、ピリヴィシュロはわけもなく胸を高鳴らせてしまった。


「おひさしぶりです、ゲルドの皆様。ご無事に到着なされて、何よりでしたわ」


「うむ。エウリフィア、オディフィア、息災、何よりである」


 その名と素性は、もちろんピリヴィシュロも事前に聞き及んでいた。

 しかしそれでも、驚嘆の思いが消え去らない。オディフィアという幼き姫君の姿が、むやみにピリヴィシュロの胸を騒がせたのだ。


 たしか彼女は、ピリヴィシュロよりもひとつ年長である。しかしそうとは思えないほど、彼女は幼げで小さかった。

 まあ、身体が小さいのは西の民であるためなのだろう。メルフリードはまだしも、マルスタインやエウリフィアやさきほどのアラウトなども、ゲルドの民に比べればずいぶん小柄な部類であった。


 しかし――それほど幼く見えながら、オディフィアは立派な貴婦人に見えてならなかった。

 立派な装束や綺麗にくしけずられた髪などは、べつだん彼女の手柄ではないだろう。それよりも、そのたたずまいや静謐なる表情が貴婦人の名に相応しいのだ。


 彼女は父親にそっくりの、灰色の瞳をしている。その瞳は明るくきらめいているが、顔のほうは静謐そのものだ。西の民は表情を崩すことも禁忌ではないはずなのに、彼女はゲルドのいかなる貴婦人にも負けないぐらい静謐な表情を保っていた。


「それでそちらが、アルヴァッハ殿の甥御たるピリヴィシュロ殿ですのね。これはオディフィアにも挨拶をさせるべきかと思い、慌てて駆けつけた次第ですわ」


 やわらかな笑いを含んだ声で、エウリフィアはそう言った。こちらはマルスタインと異なり、まったく内心を隠している様子もない。ただ、匂いたつような気品がいくぶん内面をぼかしているような風情であった。


「さあ、オディフィアもご挨拶なさい。失礼のないようにね」


 母親にうながされたオディフィアは「うん」とうなずいてから、半歩だけ進み出て、装束の裾を小さな手でつまんだ。


「はじめまして、ピリヴィシュロさま。ジェノスこうしゃくけの、オディフィアです」


 それは思いも寄らないほど、舌足らずで甘やかな声音であった。

 しかし、それでいっそうピリヴィシュロの胸は高鳴ってしまう。こんなに立派な貴婦人でありながら、声だけが妙にあどけないというのが愛くるしくてならなかったのだ。


「わ、われ、アルヴァッハ、あねのこ、ピリヴィシュロ=ゲル=ドルムフタンです」


 ピリヴィシュロがそのように告げると、オディフィアは小鳥が何かをついばむような仕草で小さく一礼した。

 その表情はやっぱり静謐そのもので、ただ灰色の瞳だけがきらきらと輝いている。その瞳の輝きだけで、ピリヴィシュロを歓迎してくれているのだと信ずることができた。


「このように年の近いお客人を迎えるのは初めてのことですので、オディフィアも大変喜んでおりますの。どうぞ仲良くしてくださってね、ピリヴィシュロ殿」


「は、はい。こちらこそ、おねがいします」


 ピリヴィシュロも懸命に表情を引き締めていたが、きっと頬は赤くなってしまっていることだろう。完璧な作法を身につけたオディフィアに比べれば、ピリヴィシュロなどは幼子そのものであった。


 そしてピリヴィシュロの脳裏に、ふっとコタ=ルウの面影が蘇る。

 彼は森辺の民として、存分に表情を崩していたが――その笑顔は魅力的で、深い青色をした瞳はオディフィアに負けないぐらいきらきらと輝いていた。


 ゲルドを出立する前、ピリヴィシュロと年齢が近いと聞かされていたのは、コタ=ルウとオディフィアの両名である。

 その両名が心から好ましく思える相手であった喜びが、あらためてピリヴィシュロの胸を満たしてくれたようであった。


                ◇


 それからしばらくは、慌ただしく日々が過ぎていった。

 ジェノスに到着した日はジェノス城で歓待の晩餐会、その翌日は森辺の民を小宮に招いての晩餐会、さらにその2日後はルウの集落におもむいての晩餐会と、ピリヴィシュロは彩りにあふれかえった日々を送ることがかなったのだ。


 それでピリヴィシュロは、実にさまざまな相手と出会うことができた。ポルアースやリフレイアやルイドロスといったジェノスの貴族に、西の王都の外交官であるフェルメスやオーグ、ダーム公爵家のティカトラスやデギオンやヴィケッツォ――さらに、ルウ家の一家などである。

 それらの人々は、いずれも事前に伝え聞いていた風評から大きく外れることのない人柄をしていた。ティカトラスというのはピリヴィシュロの予想よりもさらに奔放な人柄であるように感じられたが、それでも不快に思うほどではなかった。


 そしてそれらの晩餐会で、ピリヴィシュロはコタ=ルウやオディフィアとも交流を深めることができた。それでそちらの両名が好ましい人間だという思いをますます深めることがかなったのである。


 コタ=ルウは間もなく4歳になるという話であったが、そうとは思えないほど聡明で賢い人間であった。そしてそれ以上に、優しくて朗らかな気性をしていた。どこか大人びているような気配を漂わせつつ、それでもやっぱり幼子らしいあどけなさにあふれかえっていたのだ。


 いっぽう、オディフィアは――最初の印象よりもずいぶん無邪気な人柄であることが判明した。城下町の晩餐会でトゥール=ディンという森辺の少女と相対したときなどは、それこそ餌をせがむ雛鳥のようにはしゃいでいたのだ。

 ただし、そんな際でも彼女はいっさい表情を動かすことがなく、ただ瞳のきらめきだけで喜びの思いをあらわにしていた。そんなオディフィアの立ち居振る舞いも、ピリヴィシュロには好ましい限りであった。


 そしてさらにルウ家の晩餐会の2日後には、ついに南の王都の使節団が到着した。

 ジャガルの第六王子ダカルマス、その第一息女デルシェア、使節団の団長ロブロス、戦士長のフォルタ――アルヴァッハやこちらの使節団の責任者から伝え聞いていたそれらの人々を、ピリヴィシュロも眼前に迎えることになったのだ。


 しかしそちらも、ピリヴィシュロを不安な心地にさせたりはしなかった。

 ダカルマスやデルシェアこそ、内心を隠そうという気配が皆無であったのだ。ロブロスやフォルタなどは懸命に私心を律しているように見受けられたが、それはきっと礼節を守るためであるのだろう。であればそれは、むしろ東の民に似た立ち居振る舞いなのではないかと思われた。


 それよりも目につくのは、やはりダカルマスやデルシェアである。

 彼らは、きわめて賑やかな人間であった。森辺のギバ料理を口にする際などは子供のようなはしゃぎようで、誰よりも大きな声を響かせていたのだ。

 しかし、ピリヴィシュロが不快に思うような場面はなかった。

 彼らは仇国たるジャガルの王族であるというのに、その人柄はひたすら純真で無邪気であったのだ。


 南の民は誰もが暴虐で、私欲のためならどんな乱暴も辞さないのだと聞き及んでいた。

 しかし実際に相対した南の王族は、まるで幼子のような無邪気さであったのだ。これにはピリヴィシュロも、小さからぬ驚きを得ることになった。


(……だからきっとおじさまたちも、ジャガルのしょくざいをかいつけようっておもったんだ)


 ゲルドは東と南の領土争いに関わっていない身となるが、それでもれっきとした東の民である。本来であれば、南の王族と同じ食卓につくことも、南の食材を買いつけることも許されないはずであった。

 もしも南の使節団の面々が風評の通りの人柄であったなら、アルヴァッハたちも考えをあらためていたことだろう。南の王族はひたすら無邪気であり、使節団の関係者は東の民のごとき静謐な振る舞いを心がけていたのだから、これなら忌避する理由もなかったのだろうと思われた。


『ジャガルにおいては、むしろゲルドの民こそが暴虐なる一族であると伝えられている。さらに、東の民は冷血で、人の心を持っていないのだという風聞が流されていると聞く。それはおそらく……領土争いで戦意を高めるために、相手こそが非道な存在であると信ずる必要があるのだろう』


 夜の寝所でこっそりそんな話を伝えてくれたのは、ナナクエムであった。


『もちろん我々とて東の民であるのだから、南の民と友になることは許されない。しかし……ゲルドは領土争いと無縁の地である。戦意を高める必要も、虚像を真実と思い込む必要もないのだから、我が目で見たものを信じ、心のままに振る舞うべきであろう』


 ピリヴィシュロは、心からナナクエムの言葉に賛同することができた。

 友になることはできなくとも、無理に憎む必要はない。それはピリヴィシュロにとっても、至極自然な話であるように思えたのだった。


 そしてその後はしばらくジェノス城で過ごす日々が続き、やがて試食の祝宴というものを迎えることになった。

 ゲルドや南の王都からもたらされた食材でもって、ファの家のアスタが宴料理を準備することになったのだ。


 それは、200名もの人間が一堂に会する、盛大な祝宴であった。

 ゲルドにおいても、それだけの参席者を集める祝宴はそうありえない。少なくとも、ピリヴィシュロにとっては初めて体験する規模の祝宴である。異国でそのような祝宴に参ずることになり、ピリヴィシュロはまた大きく胸を高鳴らせることになった。


 なおかつ、その内の40名ほどは森辺の民であるという。

 アスタやアイ=ファを筆頭に、ピリヴィシュロがかつて顔をあわせた相手もたくさんやってくるのだ。ピリヴィシュロは、それで余計に胸を弾ませることになったのだった。


「ただし、ピリヴィシュロ、最年少である。くれぐれも、粗相、ないように、身、つつしむべきである」


 アルヴァッハはそのように語っていたし、ピリヴィシュロももちろん覚悟の上であった。

 どうやらジェノスにおいても、そうまで幼い人間が祝宴に参ずることはないようであるのだ。ただひとり、オディフィアだけは侯爵家の第一子息の第一息女という高い身分から、参席を許されているようであった。


「ピリヴィシュロ、ゲルドの藩主、第一息女の第一子息である。よって、立場、オディフィア、負けていない。貴公子として、正しき振る舞い、願っている」


「はい。ただしきふるまい、ちかいます。ゲルド、なまえ、けがさないこと、やくそくします」


 ピリヴィシュロがそのように答えると、アルヴァッハは優しい眼差しで頭を撫でてくれた。


 そうして、いざ祝宴の当日である。

 初めて体験するジェノスの祝宴は――豪華絢爛のひと言に尽きた。

 ジェノス城ではなく小宮であるのに、ゲルドの如何なる場所よりも広大な大広間である。その広大なる空間が昼間のように明るく照らされて、豪奢な宴衣装を纏った人々で埋め尽くされるのだ。


 さらに室内には、楽団の手によって妙なる音楽が鳴らされている。

 そして、アスタたちがこしらえた宴料理の芳香であふれかえっているのだ。

 それはまるで、夢のような情景であった。


「……ピリヴィシュロ、平静、保てようか?」


 ダカルマスが開会の挨拶をしている間、ナナクエムがこっそり呼びかけてきた。

 ピリヴィシュロは高鳴る胸をおさえながら、「はい」とうなずいてみせる。


「しんぞう、あばれていますが、もんだい、ありません。われ、ただしきふるまい、こころがけます」


「うむ。其方、今日まで、不備なく、過ごせている。本日、同じ振る舞い、期待している」


 そのように語るナナクエムもピリヴィシュロも、ティカトラスが準備した宴衣装を纏っている。それは東の王都の様式であったため、まったく馴染みのない装束であったが、ピリヴィシュロの胸を高鳴らせる一因にはなっているのだろうと思われた。


 ダカルマスの言いつけで挨拶をさせられているアスタやそのかたわらに控えたアイ=ファも、貴族に負けない豪奢な姿である。それもまた、ティカトラスが準備したものであるらしい。アスタは黒、アイ=ファは真紅で、目の覚めるような鮮やかさであった。


「それでは、参りましょう! みなさんも、ご準備はよろしいでしょうかな?」


 やがてダカルマスの号令で、予定されていた人間が集められた。

 ダカルマスとデルシェアとフォルタ、アスタとアイ=ファ、ポルアースとメリム、アラウトとカルスとサイ、フェルメスとジェムド――そして、アルヴァッハとナナクエム、プラティカとピリヴィシュロである。ダカルマスは、このような大人数で料理の卓を巡りたいと主張していたのだった。


 ピリヴィシュロのかたわらに控えたプラティカも、宴衣装の姿だ。彼女はずいぶん気恥ずかしそうにしていたが、女性らしい宴衣装がとてもよく似合っていた。そして、アイ=ファとともに金褐色の髪をおろすと、いっそう姉妹のように似た印象になるようであった。


 そうして一行は、数々の宴料理を口にして――心からの喜びを授かることになった。

 アスタの準備した宴料理は、いずれも素晴らしい出来栄えであった。中にはずいぶん見慣れない料理も含まれていたが、それも楽しいばかりである。美食家であるダカルマスは時おり心からは満足していないという素振りを見せていたが、ピリヴィシュロには何の不満もない出来栄えであった。


 アルヴァッハも、満足そうに宴料理を食している。そしてダカルマスに願われた際には東の言葉で感想を伝え、外交官のフェルメスがそれを通訳することになった。

 一部の人間はアルヴァッハの長広舌に呆れている様子であったが、これはゲルドの屋敷でもたびたび見せていた姿である。ピリヴィシュロとしては、それをすらすらと通訳できるフェルメスの能力に舌を巻くばかりであった。


(すごいや。ぼくもあれぐらいにしのことばをあつかえるように、がんばろう)


 フェルメスというのは、ジェノスで出会った人間の中でもっとも内心をうかがいにくい人物である。

 きっと悪い人間ではないのだろうが、どこか幼いピリヴィシュロでは判じきれない一面を隠し持っているように感じられる。ただ、このような若さで東の言葉を完璧に体得できている一点は、尊敬するしかなかった。


 そうして半刻ばかりもかけてアスタの宴料理を食べて回ったら、次はトゥール=ディンの準備した菓子の卓である。

 アスタとアイ=ファはその場に置き去りにされて、残る面々で菓子の卓を目指す。そちらにはトゥール=ディンとともにオディフィアも控えていたので、ピリヴィシュロはすぐさま胸を高鳴らせることになった。


 トゥール=ディンがかたわらにいるため、オディフィアは灰色の瞳を星のようにきらめかせている。その輝きが、ピリヴィシュロの胸を温かく満たしてくれるのだ。この頃には、静謐な表情よりもむしろ瞳の輝きこそがピリヴィシュロを魅了していた。


「お待たせいたしましたな、トゥール=ディン殿! 存分に味わわさせていただきますぞ!」


「は、はい。どうぞよろしくお願いいたします」


 トゥール=ディンはいくぶん緊張の面持ちであったが、それでも懸命に背筋をのばしている。彼女はいまだ、13歳という若年であるのだ。プラティカよりも年少の身でこのような手腕を持っているとは、驚くべき話であった。


 そしてそちらに準備されていた数々の菓子も、決して彼女の名声を汚すことはなかった。

 ガトーショコラ、ガトーラマンパ、ガトーアール――そして、凝り豆プリンなる菓子である。彼女はアスタと同じように、わずか5日ていどで凝り豆という新たな食材を見事に使いこなしてみせたのだった。


「ピリヴィシュロさま、どれがおいしい?」


 と、オディフィアがふいにそんな言葉を投げかけてきた。

 彼女は挨拶の場面以外では、口調まであどけなくなってしまうのだ。しかしそれも、彼女の愛くるしさを増大させるだけのことであった。


「は、はい。すべてです。すべて、びみ、おもいます」


「うん。オディフィアも、そうおもう」


 こくりとうなずいたオディフィアは、いっそう嬉しそうに灰色の瞳をきらめかせた。


「じゅんばん、つけられない。ピリヴィシュロさまも、いっしょ?」


「はい。じゅんばん、むずかしいです。ガトーショコラ、ガトーラマンパ、ガトーアール、こごりまめプリン、すべて、ことなる、すばらしさです」


 ピリヴィシュロがそのように答えると、オディフィアはほんの少しだけ目を見開いた。そんな仕草も、彼女にしては珍しいぐらいである。


「……ピリヴィシュロさま、ことば、すごくじょうず」


「い、いえ。にしのことば、まだ、しゅうれん、さなかです」


「ううん。かしのなまえ、すごくじょうず。なんだか、アスタみたい」


 その言葉で、ピリヴィシュロも思い当たった。どうも西の人々は、アスタの故郷の言葉――というよりも、アスタの故郷の異国語というものが発音しにくいようであるのだ。


「はい。もりべのかし、および、りょうり、なまえ、はつおん、よういです。むしろ、にしのことば、むずかしい、おもいます。たぶん、ひがしのたみ、アスタのいこくご、はつおん、しやすい、おもいます」


「そっか。……トゥール=ディンのおかしのなまえ、じょうずにしゃべることができて、うらやましい」


 オディフィアは、しゅんとしてしまう。

 なんだか、親を見失ったランドルの兎めいた風情である。それでピリヴィシュロは、大いに胸を痛めることになった。


「か、かし、じゅうよう、なまえでなく、あじです。オディフィア、かしのあじ、りかい、ふかいのですから、ざんねんがる、ひつよう、かいむです」


「……よくわかんない」


「す、すみません。にしのことば、むずかしいです」


 ピリヴィシュロが謝罪の形に指先を組み合わせようとすると、オディフィアは「ううん」と首を横に振った。

 それからピリヴィシュロを見つめた瞳には、明るい輝きが戻されている。


「ことば、むずかしかったけど、ピリヴィシュロさま、やさしいの、わかった。しんぱいさせて、ごめんなさい。それと、ありがとう」


「い、いえ。オディフィア、けねん、はれたなら、うれしいです」


 オディフィアは、「うん」とうなずいた。

 表情はまったく動いていないのに、まるで満面に笑みをたたえているかのようだ。

 すると、デルシェアたちの相手をしていたトゥール=ディンが、ふっとこちらに向きなおってきた。


「ずっとお相手をできずに、申し訳ありません。オディフィアたちは、なんのお話をしていたのですか?」


「トゥール=ディンの、おかしのおはなし」


 オディフィアが瞳をきらめかせながらそのように答えると、トゥール=ディンも幸せそうに微笑んだ。

 それでピリヴィシュロも、彼女たちの喜びをこっそり分けてもらうことがかなったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] うーん、オディフィアの表情硬化は、いつトゥール=ディンのお菓子の魔法で解けるのか期待してるけど、ゲルドの民からみたら、今の状態は良人に適してるのか・・・悩ましいなぁ。
[良い点] ほのぼの(^^) 可愛ええ( ´ ▽ ` )
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