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異世界料理道  作者: EDA
第八十二章 群像演舞~九ノ巻~
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第六話 家族の肖像

2023.11/3 更新分 1/1

 ヴィケッツォは小高い丘の上に座し、ひとり眼下の海を見つめていた。

 海は、果てしなく広がっている。西の王都に大きな恵みをもたらす、西竜海である。


 それはまた、ヴィケッツォの本当の故郷でもあった。

 ヴィケッツォは、ダーム公爵家のティカトラスの娘として育てられていたが――ヴィケッツォが生まれたのは、西竜海である。異国の人間との間に子を生してしまった母親は、故郷の地で子を生み落とすことが許されず、船の上でヴィケッツォを生んだという話であったのだ。


 ヴィケッツォの母親は、西竜海を母とする竜神の民である。

 それがこのダームという地でティカトラスと巡りあい、子を授かることになってしまったのだ。


 母はそれでも竜神の民として生きるために、ヴィケッツォをティカトラスの手に託して、故郷に帰っていった。

 そして――ヴィケッツォが3歳になった年に、魂を返してしまったのだ。


 だからヴィケッツォは、母親の顔を知らない。

 母親はヴィケッツォを手放した後も年に1度はダームを訪れており、ティカトラスもそのたびに赤子のヴィケッツォを連れて面会におもむいていたようだが、1歳や2歳の頃の記憶などまったく残されていなかった。そうして3歳になった年には、顔も覚えていない母親の死を知らされることになったわけであった。


 しかしまた、母親の顔を覚えていようともいなくとも、ヴィケッツォはあくまでもダームの民である。

 ティカトラスの屋敷で育てられたヴィケッツォは、すでに10歳になっていた。

 ヴィケッツォはこの地で10年も過ごしながら、それでもなお自分の居場所を見いだせずにいたのだった。


 ヴィケッツォは西方神の洗礼を受けているのだから、まぎれもなく西の民だ。母親の故郷はヴィケッツォを受け入れず、ティカトラスの故郷はヴィケッツォを受け入れてくれたのだから、本来は西方神の子として心正しく生きていくべきであるのだろう。


 しかしヴィケッツォは、気持ちが定まらない。

 自分は本当に、ダームの民として生きていくべきであるのか――ティカトラスの子として生きていくべきであるのか――そんな疑念に心をふさがれてしまっているのだった。


「ヴィケッツォ……またここにいたのだな」


 と――ふいに背後から、声をかけられた。

 4歳年長の異母兄、デギオンである。ヴィケッツォの横合いには、背の高い彼の影が落とされていた。


「屋敷からでも、海は見えよう……どうしてお前は、いつもこのような場所まで足をのばすのだ?」


「……べつだん、深い理由はありません」


「理由がないことはなかろう……そんなに俺たちとともに過ごすことを、厭うているのか?」


 ヴィケッツォは返事をしかねて、一心に海を見つめた。

 するとデギオンが、ヴィケッツォのかたわらに腰をおろしてくる。ヴィケッツォとしては、あまりありがたくない成り行きであった。


「ヴィケッツォよ……家族はみんな、お前のことを心配している……そんな風に言われても、お前には迷惑なだけであろうか?」


「…………」


「お前は剣術の習得に、とても熱心だ……それに最近は、東の民から毒の扱いまで学んでいるそうだな……お前がそこまで力を求めているのは……いずれ屋敷を出ていこうと心を定めているためであるのか?」


 寡黙なデギオンがこんなにも言葉を連ねるのは、常にないことである。

 それで根負けしたヴィケッツォが、横目で異母兄のほうをうかがうと――デギオンは、真っ直ぐヴィケッツォの横顔を見つめていた。


 肉の薄い、陰気な顔つきだ。

 ごつごつと骨ばった顔立ちで、眼窩がひどく落ちくぼんでいるのが、いっそう陰気な印象を強めている。これで14歳とは思えぬほどであろう。

 しかし、その落ちくぼんだ目には、とても心配そうな光が宿されている。彼はきわめて厳格な気性であるが、家族と見なした相手にはとても情が深いのだ。


「ヴィケッツォよ……俺もお前も、同じ立場だ……しかし、俺とお前では、ひどく心持ちが違っている……同じ兄妹でどうしてこれほどに心持ちが違っているのかと、俺はずっと思い悩んでいたのだが……それはやっぱり、お前が母親を亡くしてしまったからなのだろうか?」


「…………」


「今さら言うまでもないことだが、父たるティカトラスはいささかならず特異な人柄をしている……正妻を娶らず、側妻ばかりを何人も召し抱え……しかもそれらをすべて同じ屋敷に住まわせるなど、なかなか普通の話ではないのだろう……世間の人間が色狂いと揶揄するのも、しかたない一面はあるのだろうと思う」


「…………」


「しかし俺たちは、今日まで幸福に過ごしてきた……父はすべての伴侶と子供に分け隔てなく愛情を注いでくれたので、俺たちの側には何の不満もなかったのだ……だから、世間の者たちが何と言おうとも、まったく気にならなかったのだが……しかし、お前は立場が違っている……お前は母親とともに過ごすことができなかったため、この生活を苦痛に感じてしまうのではないだろうか?」


 ヴィケッツォは深く息をついてから、答えた。


「……わたしは決して、あなたがたを疎んでいるわけではありません」


「それは、俺もわかっている……しかし、兄たる俺をあなた呼ばわりするというのは……やはり、家族と見なしていない証左なのではないだろうか?」


「…………」


「俺は決して、お前を責めているわけではない……むしろ、申し訳なく思っているのだ……俺たちはお前のことも家族として分け隔てなく扱ってきたつもりだが、それでもお前が孤立感を深めてしまったのなら……それは、俺たちの責任であろうからな」


 そのような言葉を並べても、デギオンの骨張った顔はほとんど変化しない。

 ただその目は、いよいよ心配げな光を帯びていた。


「それに、俺たちのことは疎んでいなくとも……父を疎む気持ちは存在するのではないだろうか?」


「…………」


「やはり、そうなのか……お前もそろそろ年頃になってきたから、世間の声というものがいっそう心に重くのしかかってくるのではないかと案じていたのだ」


 そう言って、デギオンはほとんどすりきれている眉をわずかに下げた。


「ただ、どうかわかってやってほしい……父は同時に複数の女人を愛することのできる、そういう性根に生まれついてしまったのだ……それはもちろん他の誰にも真似のできない所業であるし、俺も見習おうなどとは決して思わないが……それは、父の器量が大きすぎて、凡夫には想像もつかないということであるのだ……少なくとも、屋敷で暮らす全員が何の不満も抱いていないのだから……それは、父が側妻と子供たちのすべてに等しく愛情を注いでいるという証であろう?」


「……ええ。あなたがそのように語るのでしたら、きっとそうなのでしょう」


「いや、だから……お前もそのひとりであるということを、どうにかわかってもらいたいのだが……やはり、俺たちではお前の力になれないのであろうか?」


 デギオンにそうまで言われては、ヴィケッツォも胸が痛くなるばかりである。ヴィケッツォはかねてより、デギオンの誠実な人柄に敬愛を抱いていたのだ。

 しかし、彼には立派な母親がおり、自分にはいない。それでもヴィケッツォは、彼と彼の母親の幸福を心から願っているつもりであるのだが――とうてい自分が家族面をする心持ちにはなれなかったのだった。


(デギオンにこんな心配をかけてしまうぐらいだったら……やっぱりわたしが、いなくなるべきなのかもしれない)


 そうしてヴィケッツォが忸怩たる思いで口をつぐんでいると、また背後から「おおい!」という声を投げかけられてきた。


 デギオンは溜息をつき、ヴィケッツォは唇を噛みしめる。

 それは噂の主たる、ティカトラスの呑気そうな声に他ならなかった。


「やあやあ、こんなところにいたのだね! 今日も剣術の指南をお願いしているのだろう? 指南役の御仁が、さっきから君たちを探しているようであったよ!」


「はい……申し訳ありません」


 デギオンが立ち上がったので、ヴィケッツォも重い腰を上げることにした。

 ティカトラスは、のほほんとした顔で笑っている。このような日中から、祝宴の只中であるような浮かれた格好だ。

 デギオンは周囲に視線を巡らせてから、厳しい声を発した。


「父上……また供も連れずに出歩いておられたのですか? 危険な真似はおつつしみくださいと、何度も申し上げたはずです」


「ええ? この丘だって、わたしの屋敷の敷地内なのだよ? だったら何も、気を張る必要なんてないじゃないか!」


「しかしここでは、守衛の目も及びません……万が一にも賊などが侵入していたら――」


「わかったわかった! まったく、デギオンは苦労性だね! やっぱり、母親似であるのかな!」


 デギオンは気まずそうに口をつぐみ、横目でヴィケッツォのほうをうかがってきた。

 ヴィケッツォはそちらに気づかないふりをして、足を踏み出す。


「では、剣術の稽古に参りましょう。失礼いたします」


「あ、いやいや! ヴィケッツォは、ちょっとわたしにつきあってもらえるかな? 指南役の御仁には、もう話をつけているからさ!」


「え? いったい如何なるご用事でしょうか?」


「いいからいいから! とにかく、ついてきたまえ!」


 ヴィケッツォを唇を噛みながら、ティカトラスの後を追うことになった。

 しばらく歩くと、すぐに立派な屋敷が見えてくる。ティカトラスが自らの財で築いた屋敷である。この屋敷で、すべての側妻とその子供たちが暮らしているのだった。


 デギオンは心配げな視線をヴィケッツォに送りつつ、剣技の指南の場へと向かっていく。

 ヴィケッツォは、ティカトラスとともに屋敷の扉をくぐることになった。


 邸内は、しんと静まりかえっている。側妻たちはどこかに集まって、お茶でも楽しんでいるか――あるいは、晩餐の下ごしらえにでも励んでいるのだろう。つい先年、ティカトラスが侍女のひとりを新たな側妻として迎えて以来、他の側妻たちは料理や菓子作りの手ほどきを志願するようになっていたのだった。


「……いったいどこに向かわれるのですか? わたしも早く稽古に戻りたいのですが」


「いやいや! 申し訳ないけれど、そんな簡単に片付く話ではないのでね! 今日の稽古は、あきらめておくれよ!」


 ティカトラスは跳ねるような足取りで、回廊を闊歩していく。

 やがて到着したのは、ティカトラスが『創造の間』と名付けた一室であった。


 ヴィケッツォがこの場所に足を踏み入れるのは、初めてのことである。ティカトラスは絵画や彫刻の道楽に励んでいたが、ヴィケッツォは武芸にしか興味を持っていないのだ。そしてその場所は、ヴィケッツォが興味を持てないものどもであふれかえっていた。


「実は今日は、肖像画を描かせていただきたいのだよ!」


 ティカトラスの言葉に、ヴィケッツォは溜息をこらえられなかった。


「どうしてそのようなものを? わたしの肖像画など描いても、詮無きことではないですか」


「それはまあ、話せば長くなるのだけどね! とりあえず、これに着替えてもらえるかな?」


 ティカトラスは、巨大な長椅子に放り出されていた黒い塊をつかみとり、ヴィケッツォに差し出してきた。

 いかにもぞんざいな扱いであるが、それは黒く輝く生地で織りあげられた宴衣装であった。それでまた、ヴィケッツォは溜息をついてしまう。


「またこのようなものをあつらえたのですか? わたしはひと月ごとに背がのびているのですから、銀貨を無駄にするばかりです」


「うんうん! ヴィケッツォの健やかなる成長は、喜ばしい限りだね! きっとこの宴衣装も、またとなく似合うと思うよ!」


 ティカトラスは側妻たちにも宴衣装を着せて肖像画を描き、それを屋敷のあちこちに飾っているのだ。また、15歳ぐらいに達したならば、その娘たちも同じ運命を辿るわけだが――10歳の身でこのような役目を押しつけられる人間は、これまで存在しなかったはずであった。


(……とにかくこの人は、気まぐれなんだ)


 そしてこちらが拒絶しても、子供のように駄々をこねられるのみである。それでヴィケッツォは不満の思いを渦巻かせながら、腰の帯に手をかけたが――ティカトラスが笑顔でこちらを見つめていることに気づき、顔を赤くすることになった。


「……あの、そのように見られていては、召し替えもままなりません」


「うん? わたしたちは親子なんだから、何も気にする必要はないじゃないか!」


「……わたしは、気にします」


 ヴィケッツォがおもいきりにらみつけると、ティカトラスは残念そうに笑いながら背中を向けた。


「わかったよ! 年頃の娘というのは、扱いが難しいものであるからね! 準備ができたら、声をかけてくれたまえ!」


 ヴィケッツォはひとしきり頭をかきむしってから、着ているものを脱ぎ捨てた。

 ヴィケッツォは、東の民に負けないぐらい黒い肌をしている。さすがのティカトラスも東の民を側妻に迎えたりはしていないので、この屋敷でこのような姿をしているのはヴィケッツォただひとりであった。


 下帯ひとつの姿になったヴィケッツォは、宴衣装に袖を通す。

 いくぶん窮屈に感じられたが、なんとか寸法は合っているようだ。黒い生地がてらてらと照り輝き、襟や袖口には小さなひだの飾りが何重にも重ねられている。この宴衣装ひとつで、貴族ならぬ人間はひと月食べていけるのではないかと思われた。


「……召し替えが完了しました」


「おお、さすがヴィケッツォは、手早いね! うんうん! やっぱり君には、黒い宴衣装がよく似合うよ! それじゃあ、こちらの椅子に座ってくれたまえ!」


 ヴィケッツォは部屋の中央に招かれて、背もたれのない椅子に座らされた。

 すると今度は、ティカトラスの手で飾り物がつけられていく。それらはいずれも銀細工で、宴衣装よりもさらに値が張りそうな豪奢さであった。


「これでよし、と! 君はもともと姿勢がいいから、なんの手直しもいらなそうだ! あ、腕は少しだけ開き加減で、手の先は腿の上に置いておくれよ!」


 ティカトラスは嬉々として、画材を取り上げた。

 その後は、無言で画布に筆を走らせていく。その顔は朗らかな笑みをたたえたままであったが、その瞳には思いがけないほど真剣な光が灯されていた。


 貴族が何の稼ぎにもならない道楽に熱中するのは珍しくないという話であったが、ここまで熱を入れる人間はそうそういないことだろう。この部屋にも、屋敷に飾りきれない絵画や彫刻が山のように保管されていた。


 ティカトラスは、さまざまな面で尋常ならぬ人間である。複数の側妻を同じ屋敷に召し抱えて、絵画や彫刻に熱中するというだけでも普通ではないのに、彼は商人としても図抜けた才覚を持ち合わせており――なおかつ、爵位継承権を手放した身であった。


 ティカトラスは、ダーム公爵家の当主の弟である。もちろん爵位継承権は当主の子息たちのほうが上位であるが、あちらにはまだひとりの子息とふたりの息女しか存在しない。普通に考えれば、ティカトラスは爵位継承権第四位の座であるのだった。

 ティカトラスはその座を放り捨てることで、自由な人生を得た。

 爵位継承権を正式に放棄することで、正妻を迎えず複数の側妻を召し抱えることと、大陸中を自由に放浪することと、そして自らが編成した船団で自由に商売することを許されたのだ。


 そうしてティカトラスは、莫大な財産と大勢の家族を得た。

 本来であれば――ヴィケッツォも、そのひとりであるのだ。


 しかしヴィケッツォは、ずっと疑念を抱え込んでいる。

 他の家族たちのように幸福な人生を享受することができず、ずっと自分の居場所を探し続けているのだ。


 この屋敷の人間たちは、みんな優しい。デギオンもさきほど語っていた通り、母のいないヴィケッツォのことも分け隔てなく家族として扱ってくれた。

 彼らの幸福そうな姿を見ていれば、ティカトラスに非がないことも理解できる。

 ただ――ヴィケッツォは、この場に調和しない存在であった。どれだけ優しく丁寧に扱われようとも、カロンの群れにまぎれこんだギャマのような心持ちであったのだった。


(わたしはいつか……海賊にでも身を落とすのかもしれないな)


 そうして西竜海に魂を返すことこそが、自分にとって唯一の正しい道なのではないか――ヴィケッツォは、そんな妄念からどうしても脱することがかなわなかったのだった。


 ヴィケッツォの母は、海に魂を返した。

 ヴィケッツォが同じ運命を望むのは、許されないことなのだろうか。竜神の民に同胞として認められず、この大陸アムスホルンに放逐されたヴィケッツォは、母と同じ場所で眠ることも許されないのだろうか。そんな風に考えると、ヴィケッツォの胸は荒波のようにざわめいてやまなかった。


「……ヴィケッツォとデギオンは、武芸の習得に熱心だよね」


 と――長らく無言であったティカトラスが、ふいにそんなつぶやきをもらした。


「指南役の御仁も、たいそう感心していたよ。君たちだったら、王都の歴史に名を残す剣士になれるかもしれない……そんな感慨をこぼしていたんだ」


「…………」


「でもわたしは、君たちが闘技会などで活躍するよりも……わたしの護衛役として、一緒に大陸を巡ってほしいんだ。親子水入らずで旅をできたら、そんな喜びにまさるものはないからね」


 ヴィケッツォは、答える言葉を持ち合わせていなかった。

 そしてティカトラスも、それ以降は口をきこうとしなかった。


 時間は、静かに流れ過ぎていく。

 一刻が経ち、二刻が経ち、窓の外の太陽がどんどん傾いていっても、ティカトラスは休憩すら取ろうとしなかった。

 ただ座っているだけのヴィケッツォも、じわじわと疲弊が溜まっていく。口もきかずにただ座しているというのは、ほとんど拷問のようなものであった。


 しかし、ティカトラスよりも先に音をあげるのは我慢がならなかったため、ヴィケッツォは必死に耐えてみせた。

 そうして窓からの日差しは朱色に染まっていき、ついには薄暮が降りてきて――いい加減に燭台が必要なのではないかという刻限に至ったとき、ティカトラスはようやく「よし!」と筆を置いたのだった。


「とりあえず、完成だ! いやあ、どうしても今日中に仕上げたかったので、ヴィケッツォにも無理をさせてしまったね! でもそのおかげで、素晴らしい肖像画が完成したよ!」


「……そうですか」と感情を殺した声で答えつつ、ヴィケッツォは強張った膝に力を込めて立ち上がった。

 ずっと同じ姿勢でいたために、全身の関節が軋んでいる。それに何より、尻が痛くてならなかった。


「では、これで失礼します。召し替えをしますので、あちらを向いていただけますか?」


「その前に、まずはこれを見ておくれよ! わたしの、渾身の力作だよ!」


 ティカトラスはへろへろの顔で笑いながら、画布を台座ごとヴィケッツォのほうに向けてきた。

 そこに描かれていた肖像画に、ヴィケッツォは思わず息を呑んでしまう。


 それは確かに、ヴィケッツォとよく似た女人の姿であったが――しかし、もっと年を重ねた妙齢の娘の姿であったのだ。

 その身に纏っているのはヴィケッツォと同じ意匠の宴衣装だが、すらりと背が高く、大人びた顔立ちをしており、艶やかな黒髪を腰まで垂らしている。そして、ヴィケッツォが目を奪われるほど凛々しい面立ちをしていた。


「これは……いったい、何なのですか?」


「これはね、君の母親の肖像画だよ」


 ティカトラスの言葉に、ヴィケッツォは思わずよろめいてしまった。


「わたしの……母親……これが……?」


「うん。実に美しい姿だろう? わたしの心に刻みつけられた姿と、今の君の姿を重ね合わせて、ようやく描きあげることができたんだ。これは誰に見せたって、彼女の美しさが過不足なく描かれていると納得してもらえるはずだよ」


 ティカトラスはゆったりと笑いながら、ヴィケッツォのほうに近づいてきた。

 そして、ヴィケッツォの隣に立って、同じものを見つめる。


「君の母親は、勇猛にして美麗なる船乗りだった。黒き竜神の民には海賊に身を落とす人間も少なくなかったが、彼女は決して道を踏み外すことなく、海に生きて海に魂を返したんだ。その魂は、彼女の容姿よりも美しい……というか、容姿の美しさなんて、魂の美しさの一面に過ぎないのだろうと思うよ」


 言葉を失ったヴィケッツォのかたわらで、ティカトラスはそのように言いつのった。


「だけど彼女は、若くして魂を返してしまった。だからわたしは、いつか君にも母親の美しさを見せてあげたいと願っていたのだけれども……わたしの心に残された面影だけでは、不十分だった。どうしても満足のいく絵を仕上げることができなかったので、今日という日を待つことになったんだよ」


「今日……今日が、何……?」


「今日はね、君が10歳になる生誕の日だったんだ。10歳まで成長すれば君にも母親の面影が強く浮かんでくるだろうと信じて、わたしはこの日を心待ちにしていたのだよ」


 そう言って、ティカトラスはにこりと微笑んだ。


「もちろん君は西方神の子なのだから、年明けと同時に齢を重ねている。でもね、黒き竜神の民は東の民と同じように、生誕の日に齢を重ねる習わしだったんだ。だから、船の上で生み落とされた君の生誕の日を、きちんと覚えておくことにしたんだよ」


「…………」


「君のおかげで、ようやく彼女の肖像画を完成させることができた。他の伴侶たちも、この肖像画の完成を心待ちにしていたんだよ。彼女を側妻として迎えることはできなかったけれど、彼女は……君の母親なのだからね。君と同様に、わたしたちにとっては大切な家族のひとりなんだ」


 気づけばヴィケッツォは、涙をこぼしてしまっていた。

 ティカトラスは床に膝をつき、指先で涙をぬぐってくれる。そのとぼけた顔には、常にない優しい笑みがたたえられていた。


「これまで、寂しい思いをさせてしまったね。これからは彼女とともに、この屋敷で安らかな生を送ってほしい。きっと彼女も、母なる海とともに見守ってくれているからさ」


 ヴィケッツォはティカトラスの首に取りすがり、声をあげて泣いてしまった。

 この10年間で、このような真似に及んだのは初めてのことである。


 人前でこのような醜態をさらすのは、我慢がならない。

 しかし、そんな我慢を押し流すほどの激情が、ヴィケッツォを衝き動かしていた。

 そうしてヴィケッツォは母親の肖像画とともに、ようやく自分の居場所を見出すことがかなったのだった。

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