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異世界料理道  作者: EDA
第七章 母なる森のもとに
141/1675

凶星①青の月15日~託宣~

2014.12/22 更新分 1/1

 青の月の15日。

 決して平穏には終わらなかったその日も、始まり方は前日と変わらなかった。


 とはいえ、戒厳態勢にある森辺である。日の出とともに目を覚ました俺たちが洗い物を掲げて戸板を開けると、そこに立ちはだかっているのは、一晩中ファの家を警護してくれていたドム家の男衆たちだった。


 その数は、4名。

 彼らはファの家の四方に火を焚いて、交代で眠りをとりながら、凶賊の襲撃に備えていてくれたのだ。


「おはようございます。晩餐の片付けをさせていただきますね」


 ギバの頭骨をかぶった4名の男衆たちは、無言のままうなずき返してくる。


 昨晩は、屋台の残り物で恐縮だが、『ミャームー焼き』を振る舞わせていただいた。が、質実剛健な森辺の民の中でも特に勇猛さで知られる北の一族の男衆である。その面からは相変わらず、ドム家の名を汚したザッツ=スンらに対する怒りを潜めた岩のような無表情しか見出すことはできなかった。


 4名の内の1名が家に居残り、3名は俺たちと水場に向かう。

 ザッツ=スンに襲撃され、テイ=スンを取り逃がすことになってしまった彼らは、己の誇りを回復させるために、こうしてファの家を自主的に警護してくれているのである。


 以前のようにルウの集落のお世話になれば、彼らがこのように人手を割く必要もなかったのだが。できるだけ自分の家で生活したい、とアイ=ファが願い出たとき、ドムの家長は至極すんなりと了承してくれた。


 たぶん、ザッツ=スンがファの家を襲う公算は低くないと考え、なおかつ、自分たちの手で凶賊どもに報いを与えたい、という思いも強いのだろう。何と彼らは、俺たちが宿場町に下りている間も、こうしてファの家を警護してくれているのだ。おかげさまで、俺たちは留守中に火をつけられたり毒を仕込まれたりする心配をすることもなく、町の商売に励むことができている。


 洗い物が片付いたら、刀の手入れや食糧庫の管理、それにポイタンの煮込み作業も済ませて、薪と香草の採取のために森に向かう。常に屈強の男衆がかたわらにある、という他は、何もかもがいつもの通りだ。


 が、その採取の作業においては、ドムの男衆にも手を借りて、早急に済ませてしまう必要があった。

 普段よりも1時間ばかりも早く家を出て、ルウの集落に向かわなくてはならないからだ。


 普段のように二手に分かれて宿場町に下りていたら、そのぶん警護の人手も必要になってしまう。それに、ファの家から宿場町に向かう道筋には渓谷および恐怖の吊り橋が存在するため、万が一にもそこで待ち伏せされてしまったら危険であろう、という判断が下されたのだった。


 そんなわけで、ルウの集落まではドムの男衆らに警護され、ヴィナ=ルウたちと合流したのちは、ルド=ルウらに警護されつつ、宿場町を目指す。


 俺たちにとってはこの道中がもっとも危険な時間帯だと思われるが、その日もこれといった奇禍に見舞われることもなく宿場町に到着し――俺たちの仕事は、今日もまた始まった。


             ◇


「……カミュアたちは、無事に集落を通過したんですよね?」


 朝一番のラッシュを終えて、まかないの『ミャームー焼き』を食しながら、俺はあらためてヴィナ=ルウに問うてみた。


 雑木林の木陰である。俺たちのかたわらにはルド=ルウが立ち、同じものを口に運びながら、街道の北方向に鋭い視線を飛ばしている。


 少し離れた場所ではシン=ルウとラウ=レイが背後からの襲撃に備え、屋台のほうではアイ=ファが街道の南側からやってくる通行人やお客たちに探査の目を向けている。この目をくぐって不審な人間が俺たちの屋台に近づくことは、まず不可能であろう。


 そんな彼らの邪魔にならぬよう、ヴィナ=ルウも少し抑えめの声で応じてくれる。


「うん、朝から大騒ぎだったわねぇ……まぁ、人間たちは静かなものだったけどぉ……」


「ん? どういう意味ですか?」


「荷物を引いていたトトスが騒いで大変だったのよぉ……まあ、こっちの男衆たちが怖い顔をして見送っていたから、それを怖がってたんだろうけどねぇ……」


 なるほど、トトスか。

 それはまあそれだけ大がかりな商団なのだから、荷を引くのに人間だけでは手が足りないだろう。

 しかし、20名を超える都の人間たちが、何頭ものトトスとともに列をなして森辺の集落を闊歩している図が、どうしても上手く想像できない。


「トトスは10頭ぐらいいたかしらぁ……リミとか小さな子どもたちは、珍しがってはしゃいでいたけどねぇ……」


「それは確かに壮観かもしれませんね。できれば俺も見てみたかったです」


 しかし、彼らは今日俺たちが使用した南側のルートを辿って森辺に入り、そのまま集落を南下していったはずである。ファの家はルウの集落よりも北側に居をかまえているため、その姿を見る機会は得られなかったのだ。


「あんなの別に面白いもんじゃねーよ。都の人間が我が物顔で森辺の道を歩いていくんだからな。どっちかっていうと不愉快な光景だろ」


 監視の役をしっかりと果たしつつ、ルド=ルウがそんな風に口をはさんでくる。


「あれ? ルド=ルウも見物してたのかい? ずいぶん早起きだったんだね」


「んー? 俺が見たのは子どもの頃だよ。見物してた男衆ってのは、寝ずの番をしてた連中だろ」


「ああ、そうか。何年か前にも同じことがあったんだっけ」


 そしてそのときは、ギバに襲われて全滅するという最悪の結果に終わったのだ。

 切り開かれた集落の道を進むだけならまだしも、やはりトトスを引いて森の奥深くに踏み込むなどというのは、とてつもなくリスクをともなう蛮行なのだろう。


 何はともあれ、賽は投げられてしまった。

 日の出とともにジェノスを出立し、ルウの集落まではおよそ40~50分、そこから南下してサウティの集落まではおよそ2時間――今頃は、森の道なき道を突き進んでいる頃合いであるはずだ。


 そのままモルガの山に沿って南から東へと進んでいき、半日をかけて森を抜けるのだ。なんとも果てしない道のりである。

 そしてこれは、往復でふた月もかかる長い旅の始まりでしかない。


(往復でふた月、片道でひと月ってことは、いったいどれぐらいの距離なんだろう)


 街道に出たら、トトスを馬車馬のように使うのか、それともあくまで自分たちの足で歩くのか、そのようなことすら知らないのだから、正確な距離などはつかみようもない。


 だけど、もしも徒歩であるとしたら、そのスピードはせいぜい時速5キロていどであろう。

 夜明けから日没まで歩いたとしても、せいぜい12時間ていど。1日に進める距離は、5×12で60キロメートルだ。


 それが30日なら、1800キロメートル。

 まったくもって、ぴんとこない。


 だけど――たしか、東京から石垣島までで2000キロぐらいだったような気がする。


 西の王国においては最も東側に位置するというジェノスからでも、東の王国シムまでにはそれほどの隔たりが存在するのか。

 島国育ちの俺には今ひとつ実感の持ちにくい距離感覚である。


「スンの連中はどこに現れんのかな。森の中を歩いてる都の連中を襲うのか、ルウの集落か、スンの集落か、この宿場町か……こうなったらもうどこでもいいから、とっとと現れてほしいもんだぜ」


 そんなルド=ルウの言葉を最後に、俺たちは休憩を終えることにした。

 ローテーションして、俺はララ=ルウとともに『ギバ・バーガー』を、ヴィナ=ルウはシーラ=ルウとともに『ミャームー焼き』を担当する。


「うーん、やっぱりお客が少ないねー。何だかやり甲斐がなくなってきちゃったなー」


 と、ララ=ルウは少し不機嫌そうなお顔になってしまっていた。

 別にそこまで極端に売れ行きが落ちたわけではない。

 ただ、活気に乏しいのだ。


 南や東のお客さんは、ほとんど変わらぬペースで買いに来てくれている。西の民のお客さんだって、完全にいなくなってしまったわけではない。


 しかし、目の前の通りの交通量は明らかに減ってしまっている。

 用のない人間はこの露天区域の北端に近づかないよう気をつけている、というのが露骨に体感できるのである。

 だけどこれは、正しい姿だ。凶賊どもに襲われる可能性が1パーセントでもあるのならば、用心するに越したことはないと思う。


 そして、屋台から北に10メートルほど進んだあたりには、今日も6名の衛兵が退屈そうに立ちつくしている。

 何もかもが、昨日と同じ通りの情景だ。


「まあ、1日も早くこの騒ぎが収まるのを願うしかないね。今は、こんな状況でも店に来てくれるお客さんを精一杯、大事にしよう」


「えー? だってあたしらはアスタみたいに町の人間と口をきくわけじゃないし、大事にするもへったくれもないんじゃない?」


「そんなことはないよ。口をきくだけが交流じゃないさ。それに、興味がある相手なら口をきいてもいいんだよ?」


「町で興味のある人間なんていないもん」


 ララ=ルウはぷいっと顔をそむけてしまう。

 そのタイミングで、ドーラ父娘がご来店してくれた。


「やあ。今日は2つずつ頼むよ」


「ありがとうございます! 『ギバ・バーガー』と『ミャームー焼き』を2つずつでよろしいですか?」


「うん。鍋屋も布屋もおっかながっちまってるから、俺たちが持っていってやろうと思ってね」


 ターラの手をぎゅっと握りしめたまま、それでも親父さんの顔には普段通りの明るさと朗らかさが戻っていた。

 今この瞬間にザッツ=スンたちが現れてしまったら――などという不安感をかきたてられつつも、やっぱり、とても嬉しく思えてしまう。


 俺はふたりに笑顔を返しながら、退屈そうにしているヴィナ=ルウに「そちらも2つお願いします」と呼びかけた。


 屋台と屋台の間に立ちはだかったアイ=ファは、無言にして不動。


「……そういえば、あんたたちはみんな家族なんだって?」


 と、ドーラの親父さんが銅貨を差しだしつつ、ララ=ルウにそんな言葉を投げかけてきた。


「は?」と首を傾げるララ=ルウに、親父さんはごく自然に笑いかける。


「あの色っぽい姐さんだとか、黄色っぽい髪をした若い衆なんかは兄弟なんだろう? ターラからそう聞いたんだけど、違うのかい?」


「え? あ、いや、ヴィナ姉とかルドのこと? そりゃあみんな兄弟だけど……だから何?」


「何ってことはないけど、言われてみると確かに雰囲気が似てるなと思ってさ。あの黒っぽい髪をした娘さんは兄弟じゃないのかな?」


「……シーラ=ルウは、分家だけど」


「分家?」


「彼女は従兄弟だそうですよ。森辺にそういう言葉はないらしいですが」


 俺が補足してあげると、親父さんは「なるほどねえ」とまた笑みをこぼした。


 ララ=ルウは、警戒心もあらわにじーっと親父さんの笑顔をにらみつけている。が、ついにはターラにまで「ねえねえ、リミ=ルウは町に来ないの?」と呼びかけられ、ララ=ルウはついに爆発してしまった。


「こんな危なっかしい時期にリミみたいにちっちゃい子が来れるわけないじゃん! さっきから、あんたたちはいったい何なのさ!?」


 親父さんとターラはふたりしてきょとんとしてしまった。

 さすがに森辺の民とはいえ若干12歳の女衆であるララ=ルウでは、ふたりを怯えさせることはできないらしい。

 いや――それとも、このふたりの森辺の民に対する免疫力が上回ってきた、ということなのだろうか。


「何か気を悪くさせちまったかい? だったら、謝るよ。別にあんたを怒らせるつもりじゃなかったんだ。……おい、ターラ」


「うん。……おねえさん、ごめんなさい」


 ターラにぴょこりと頭を下げられて、ララ=ルウは絶句してしまう。

 そうこうしている間に、注文の料理は完成した。


「お待ちどうさまでした。……あ、ヴィナ=ルウ、ありがとうございます。お代はもう受け取ってますので」


 しゃなりしゃなりと2名分の『ミャームー焼き』を携えてきたヴィナ=ルウが、営業用と思われる淡いスマイルを親父さんたちに投げかける。


 親父さんは「ありがとう」と言い、こちらはきわめて温かみのある笑顔を返した。


「それじゃあこの後も気をつけてな。一刻も早く罪人どもが捕まるよう、祈ってるよ」


「ばいばい、アスタおにいちゃん! おねえちゃんたちも、ありがとう!」


 体格差の激しい父娘の背中を見送りつつ、ヴィナ=ルウはララ=ルウのヴェールに包まれた頭をつんとつついた。


「たまぁにああいう西の民がいるから、調子を狂わされちゃうのよねぇ……でも、仕事中に大きな声を出しては駄目よぉ、ララ……?」


「わかってるよ! うっさいな!」


「……あ」と、ヴィナ=ルウがフェードアウトする。

 皮のマントを着た一団がドーラ父娘と入れ替えで姿を現したからだ。


「いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます」


 東の民の商団《銀の壺》、今日はフルメンバーでのご来店だ。

 ひとりだけフードを外したシュミラルが、何故か無言でじっと俺の顔を見つめてくる。


「えーと、今日も5個ずつでよろしいでしょうか?」


「はい」


 小さくうなずき、またおし黙る。

 何だろう。気のせいなのかもしれないが、とても切なげな目つきをしているように感じられてしまう。


「……どうかされましたか、シュミラル?」


「いえ。……ただ、話、聞きました」


「話?」


「南の民の宿、アスタの料理、食べられる話です」


「ああ、《南の大樹亭》のことですか?」


 無言。

 切なそうな目つき。


 ここまでくれば、さしもの俺にも察しがついてきた。


「え、えーとですね、《南の大樹亭》のご主人は、南と西の混血であらせられるのですね。それで、この屋台の評判を聞きつけて、晩餐のための料理を卸してくれないかという仕事を持ちかけてくださったのですが……」


「晩餐、アスタの料理、食べられる、幸福です」


「あ、ありがとうございます。でも、こればっかりは宿屋のご主人の意向があってのお話ですので……」


「宿屋の主人、西の民、駄目ですか?」


「は、はい?」


「《玄翁亭》の主人、西の民です。アスタ、西の民、憎いですか?」


「そ、そんなことはありません。この屋台にだって西の民のお客さんはいらっしゃいますし。俺としては、西の民と森辺の民がよりよい関係を築けることを願っています」


 シュミラルは、ほんの少しだけ身を乗り出してきた。


「《玄翁亭》の主人、同じこと、願ってます。《玄翁亭》、晩餐、駄目ですか?」


「そ、それはシュミラルたちが使っている宿屋の名前ですよね? もちろん、そちらでも仕事をさせていただけるなら、願ったり叶ったりですが……」


「私、話します。《玄翁亭》の主人、きっと喜びます。……私たち、幸福です」


「それが実現すれば、俺も嬉しいです。いつも素晴らしい話ばかりを持ちかけてくださって、シュミラルには感謝しています」


 シュミラルは身を引いて、今度は少しだけうつむくような仕草を見せた。


「……取り乱しました。恥ずかしいです」


 今ので取り乱したことになってしまうのか。

 だったら俺なんて朝から晩まで取り乱しているようなものだ。


「だけど、少し時間をくださいませんか? 何と言っても、今はこういう時期ですので、俺も身動きが取れないのです。あまり好き勝手に宿場町をうろつける立場でもありませんし……」


「大丈夫です。災厄、終わります」


「え?」


「同胞、占星師、います。森辺、厄災の凶星、消える、言いました」


「占星師――占いですか? それが当たれば、本当に嬉しいですね」


 そういえば、東の王国シムは、魔法の国、呪術の国などとも呼ばれているのだ。占星師ぐらいいたって不思議ではないかもしれない。


「必ず消えます。厄災、去ります。星の動き、絶対です」


「そうですか。では、青の月が終わるまでに罪人が捕まれば、ぜひその宿のご主人とお話を――」


 シュミラルは、俺の言葉をさえぎるように首を横に振った。

 この沈着すぎるぐらい沈着な若者には珍しい性急な素振りだ。


「違います。凶星、消えます。――今日、消えます」


「今日?」


「今日です。厄災の凶星、今日、消滅します」


 そして、シュミラルは再び身を乗り出してきた。


「アスタ、注意、お願いします。強い星、消える時、周囲の星、巻き込みます。たくさんの運命、曲がります。……弱い星、災厄の消滅、巻き込まれます」


 そのときに感じた感覚を、どのように表現したらいいだろう。

 西洋で言うところの、自分の墓の上を誰かが歩いている。とでもいうような……えもいわれぬ悪寒がゆるゆると背筋を這いのぼり、熱い鉄鍋を目の前にしながら、俺は思わずぶるりと身体を震わせてしまった。


「……《玄翁亭》の主人、話します。厄災、去ったらお願いします」


 最後は俺をいたわるように目を細め、そうしてシュミラルは同胞たちとともに立ち去っていく。


「相変わらずわけわかんないね」とララ=ルウは笑っていたが、俺には笑えなかった。


 何だかむやみに胸騒ぎがしてしまう。

 厄災の凶星が、消滅する。大勢の人間の運命を巻き込んで――

 それは、なんと不吉な予言の言葉であっただろう。

 ザッツ=スンという存在をそこに当てはめてしまうと物凄くしっくりきてしまうところが、また恐しい。


(そりゃあ森の中でひっそり死なれてしまうよりは、きっちり捕まえることができたほうが望ましいけど……)


 その際に、こちらに甚大な被害が出てしまう、ということなのだろうか。

 長年寝たきりであったというザッツ=スンに、それほどの膂力が残っているのだろうか。


 自分には理解の及ばない占いの結果であるにも関わらず、俺はどんどん不安感をかきたてられてしまう。


「……あ、トトスだ」と、そこでララ=ルウがいかにもどうでも良さそうな声でつぶやいた。

 確かにトトスを連れた東の民が、単独で北の方角に抜けていくところだった。


「トトスって不味そうだよね。だから食べられもせずに、ああやって人間に働かされてるのかなあ?」


「どうだろうね。俺の故郷では、トトスに似た鳥もまあそれなりに食べられてはいたけど」


 いつも通りに元気で不敵なララ=ルウと言葉を交わすと、少しだけ胸中の不安が薄らぐような気がした。


 ララ=ルウに限らずルウ家の女衆たちはザッツ=スンの襲撃を恐れる気配もなく堂々としているので、実に心強い。やっぱり俺などとは肚の座り方が違うのだろう。


「ララ=ルウも、商団の人たちが集落を通りすぎていく様子を見物していたのかい?」


「うん。ちょうど水場での仕事を済ませて、外に出てたときだったからね。何だか感じの悪い連中ばっかりだったよ。シムの民みたいに、みーんな顔を隠してた」


「ふうん。まあ旅人ってのはそういうものなのかもね。前回の商団よりはまだ少人数だったんだっけ」


「知らない。そんな昔のこと、覚えてないよ。あたしなんかはまだ2歳だったし」


「え? 前回の商団が森辺を通ったのって、そんな昔の話だったの?」


 ちょっと驚いて俺が反問してしまうと、ララ=ルウは「うん」と、うなずいた。


「シン=ルウの上の弟が生まれた年だから、ちょうど10年前だね。それならあたしは2歳でしょ。そんなの覚えてるわけないじゃん」


「そうか……なるほどねえ……」


 何だろう。

 何かが心に引っかかっていた。


 べつだん、それが何年前の出来事であろうと、俺には関係がない。

 関係がないはずであるのに――また胸がざわついてきてしまう。


 10年前に、大きな商団が森辺の集落を通過した。

 しかし、森辺の民の先導が不十分であったのか、備えが足りていなかったのか、その全員がギバに襲われて生命を落とすことになった。


 森の中で、何十人もの人間が生命を落としたのだ。

 森辺の民ならぬ、西の民が。


(それじゃあ、もしかして……)


 綿毛のような違和感が、ふわふわと何かの形を描いていく。

 こんな違和感を抱いたのは、これが初めてのことではない。

 ほんのつい一昨日にも、俺はこのような感覚を味わわされていたはずだ。


 だけど、あのときにはまだザッツ=スンはジーン家に捕らわれていた。

 そんなこととは関係なく、俺はただガズラン=ルティムとカミュア=ヨシュの邂逅に心を揺らされ、そこからカミュア=ヨシュがルウの集落にやってきた20日以上も前のことを連想して――


(そうだ。あのときもたしか、カミュアが商団の話をしていた……いや、ドンダ=ルウのほうだったかな? とにかく、あのときも言っていたんだ。それは、10年も前の話だと……)


 そのようなことは、すっかり忘れていた。

 あのときの俺には、それが何年前の話であろうと関わりがなかったからだ。

 それは、今でも変わらない。変わらないと思っていた。5年前であろうと10年前であろうと、そのようなことは、どうでもいいではないか?


 ただ――あの頃と今とでは、異なる点がひとつだけある。


 それは、10年前にこのジェノスで不慮の死を遂げた人物がいる、ということを、まったく関係ない道筋から俺が伝え聞いていた、ということだ。


 ミラノ=マスの親友にして、妻の兄でもあったという、その人物。

 名も知れぬその人物が生命を落としたのも、たしか10年前であったはずなのである。


(もしかしたら――その人も商団のメンバーだったのか?)


 しかし、その人物は森辺の民に殺されたのだと、ミラノ=マスは語っていた。その手にギバの牙と角の首飾りを握りしめていたのがその証拠である、と。


(それで、その人はたしか、崖の下で死んでいたんだよな……)


 よく考えたら、この宿場町に崖など存在しない。転落して生命を落とすほどの断崖が存在するのは――俺が知る限りでは、モルガの森の中だ。


 それじゃあやっぱり、ミラノ=マスの親友は商団の一員であり、森の中で死んだのか。


 それも、ギバではなく森辺の民に襲われて。


(10年前――ザッツ=スンが家長の座を退いたのも、ちょうど10年前だった。何にせよ、そんな無法な真似をしでかすとしたら、ズーロ=スンじゃなくザッツ=スンのほうなんだろう。もしもすでに病を得ていたなら、自分自身が動くんじゃなく、他の誰かに命じたのかもしれないけど)


 まさか、その「誰か」がテイ=スンだったのだろうか。

 ピースがかちかちと嵌っていき、見たくもない絵がどんどんあらわになっていく。


 しかし、ピースはまだ足りない。

 これではまだ、ザッシュマの商団が襲われる可能性がいよいよ現実味をおびてきた、というだけのことだ。


 それは別に、驚くほどの新事実でもない。

 たとえ可能性が1割であろうと9割であろうと、重要なのは、本当に実現するかどうかである。カミュアの側に油断などはないだろうから、確率の変動など大して意味はないはずだ。


 だから――何かが、足りていない。

 俺の中の違和感が、どうしても消失してくれない。


「……ちょっと、大丈夫なの、アスタ?」


 と、いきなりララ=ルウに脇腹をつつかれて、俺は心底からびっくりしてしまった。


「お客だよ。具合が悪いなら、あたしが作ろうか?」


「い、いや、大丈夫だよ。少々お待ちくださいませ……」と、言いかけて、俺はさらに驚かされることになった。


 屋台の前でにこにこと微笑んでいたのは、なんとレイト少年だったのである。


「あ、あれ? 君はジェノスに居残ったのかい、レイト?」


「はい。今回の仕事は危険だということで留守番を命じられてしまいました。ひどいですよね。2ヶ月間もひとりぼっちです」


 無邪気に笑い、可愛らしく小首を傾げながら、「だから今日は、ひとり分だけお願いします」と、レイト少年は赤銅貨を2枚差し出してきた。


「毎度ありがとう。……でも、君はどうやって暮らしているの? もしかしたら、もともとジェノスの生まれだったのかな?」


「そうですよ。ただし、家族も家も何もないですけど」


 亜麻色の髪をした少年は、同じ笑顔のまま、そう言った。


「母は僕を産み落とすと同時に亡くなってしまったので、縁を辿って《キミュスの尻尾亭》に住まわせていただいていたんです。それで2年ほど前にお客として現れたカミュアと出会い、弟子入りさせてもらったわけですね」


「へえ! それじゃあ君は、ミラノ=マスの養子ってこと?」


「いえ。あくまでも善意で家に置いていただけただけです。今ではカミュアの身内になったので、銅貨を払って宿泊させてもらっている身ですよ」


 俺が想像していた以上に、それは過酷な幼年時代であった。

 だからこの少年は、こんな大人びた雰囲気をかもしだすようになってしまったのだろうか。


「ミラノ=マスには大変よくしていただけたんですけどね。僕はもっと色々な世界を見て回りたかったから、風来坊のカミュアのそばにいたいなと思うようになったんです。……カミュアと一緒に過ごしていれば、嫌でもひとりで生きていく力も身につけることができるでしょうし」


「そうか。……だけど、2ヶ月もひとりじゃ大変だね?」


「そんなことはありませんよ。僕はもともとひとりでしたから」


 そしてレイト少年は、虫も殺さぬ笑顔をたたえたまま、言った。


「僕の父は大きな商団の団長だったんです。それが10年前に不幸な事故で生命を落とすことになり、母もその後を追うように亡くなってしまったそうです。……生まれたばかりの僕には、何の記憶も残っていないんですが」


 俺は、作ったばかりの『ギバ・バーガー』を鉄鍋の中に落としてしまいそうになった。

 その顔を、レイト少年は茶色い瞳でじっと見つめ返してくる。


「やっぱりご存知ではなかったのですか。でも別にカミュアに口止めされていたわけでもないし、かまいませんよね」


「レイト……それじゃあ、ミラノ=マスの親友っていうのは……」


「はい。ミラノ=マスの奥方の兄、という方ですね? 僕の父親にとっては、商売上の相棒にあたる存在であったそうです。……ミラノ=マスはきっと、奥方と僕の母親の姿を重ねて、不憫に思ってくれたのでしょう。本当に、実の娘さんとわけへだてなく僕のことも可愛がってくれました」


「…………」


「そのような顔をなさらないでください。僕にはもともと親がいなかったので、親をなくす気持ちというのは全然わからないんです」


 いっそう無邪気に笑いながら、レイト少年は俺の手から『ギバ・バーガー』を取り上げた。


「それでは失礼いたします。明日からも毎日買わせていただきますね」


 レイト少年の小さな姿が、通りの向こうに消えていく。


 その背中を半ば呆然と見送りながら、俺は頭の中で最後のピースがかちりと嵌る音を聞いた気がした。


 カミュアは――10年前の商団が全滅した事件の犯人が森辺の民であるかもしれない、ということを最初から知っていたのだ。


 その上で、今回の計画を立てたのだ。


 だからこそ、レイト少年を同行させなかったのかもしれない。

 レイト少年に、父親と同じ末路を辿らせるわけにはいかない、と――


(いや、だけど、10年前と今じゃ状況が違う。10年前の事件がスン家の仕業だったとしても、今そんな無法な真似ができるのはザッツ=スンとテイ=スンだけなんだ。たったふたりで、4人の狩人と5人の《守護人》に守られた商団を襲えるわけがない――襲ったところで、返り討ちに合うだけなんだから……)


 ついにパズルは完成してしまったが、俺の結論は変わらなかった。

 それなのに、不安な胸のざわめきがまったく収まってくれようとしない。


 そうして俺は1日中そんな不安感を抱えたまま働くことになり――時間は、ことさらゆっくりと過ぎ去っていったのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 東京から北京が2100kmだから、その手前くらい?遠い...。 てか石垣島もめちゃくちゃ遠いんですね。
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