第二話 南の姫君(上)
2023.10/13 更新分 1/1
太陽神の復活祭の最初の祝日たる『暁の日』を目前に控えた、紫の月の19日――その日もデルシェアは、屋敷の厨で奮闘していた。
「そうそう! かれーで使う香草は形が残ると食感が悪くなっちゃうから、入念にすり潰してね! 目が痛くなったら休憩をはさんでいいから、絶対に妥協のないように!」
その作業を受け持っていた若い料理番は、涙目になりながら「はいっ!」と応じる。彼らはシムの香草を扱うようになってからまだ日が浅いため、その刺激的な香りに目や鼻を痛めてしまうことも多いのだ。しかしそんな苦難の先には、またとない成果が待っているのだった。
「キミュスの骨の出汁も、いい感じだね! その調子で、灰汁取りは入念に! それで仕上がりがまったく違ってくるからね!」
「はい! かしこまりました!」
「そっちは? ああ、肉を挽いてるんだね。カロンの肉を挽くときは――」
そんな風に言いかけて、デルシェアは慌てて姿勢を正すことになった。
「あ、ごめんなさい! 手もとしか見てなかったから、気づかなかったよ!」
「はて? 何も謝罪の必要はないかと思われますが」
そのように答えたのは、屋敷の料理長である。彼こそが、デルシェアにとっては調理の師匠に他ならなかった。
「今この時間は姫君が指南役であり、我々が学ぶ立場であるのです。どうぞわたしにも指南をお願いいたします」
「あー、うん。それはそうなんだけど、やっぱりお師匠に偉そうな口を叩くのは、ちょっぴり気がひけちゃうかな!」
「かといって、指南が甘ければわたしだけ習得が遅れてしまいます。どうか姫君は、持ち前の苛烈さで指南をお願いいたします」
「もー! 苛烈はちょっと言い過ぎじゃない?」
「それは失礼いたしました」と、料理長は穏やかに笑う。
その優しげな笑顔に、デルシェアも「あはは」と笑ってしまった。
デルシェアが初めて厨に立ったのは、まだ10歳にもならない頃だ。美食家たる父の血を受け継いで美味なる料理に魅了されたデルシェアは、自分でもそれを手掛けたいという強烈な欲求に見舞われてしまったのである。
そんなデルシェアの面倒を見てくれたのが、この料理長であった。当時は副料理長であった彼が、デルシェアのお守りを任されたのだ。フワノのこね方も肉の焼き方も野菜の切り方も、調理の基本はすべて彼から学ぶことになった。
それからすぐに、彼は料理長の座を授かることになったが――彼はその後も、デルシェアの面倒を余人に押しつけようとはしなかった。
「姫君には、大変な才覚がおありであるかと存じます。よろしければ、今後もわたしに指南役をお任せくださいませんでしょうか?」
彼は自ら、デルシェアの父たるダカルマスにそう進言してくれたのだった。
そうしてデルシェアは13歳になった頃、初めて晩餐会の調理を任されることになった。デルシェアが家族以外の人間に料理を供したのは、それが初めての経験であった。
デルシェアが任されたのは、汁物料理と菓子である。ダカルマスは客人たちにそれを秘したまま料理を振る舞い、晩餐会ののちに真実を打ち明け――そうしてデルシェアは、思いも寄らないほどの賛辞を授かることになったのだった。
客人たちは、心から感嘆しているように見えた。何も知らぬまま料理や菓子を口にしたために、掛け値なしの驚きに見舞われることになったのだろう。あの夜の喜びは、今でもデルシェアの胸にくっきりと残されていた。
「美味なる料理からもたらされる喜びは、余人と分かち合ってこそであるからな! それを忘れずに、今後も励みなさい!」
父は、そんな言葉でデルシェアを激励してくれた。
それから、3年ほどの歳月が過ぎ去って――今もなお、デルシェアは調理に励んでいる。この復活祭を終えたならば17歳の齢となるが、いまだに婚儀の相手も探さず、ひたすら調理に明け暮れているのだ。こんな自由を許してくれる両親には、感謝の思いしかなかった。
(あまつさえ、ジェノスの留学も許してくれたんだもんね。その成果を、たっぷり見せてあげないと!)
デルシェアは、つい3日前にジェノスから戻った身であった。半年にも及ぶ長期滞在を終えて、ひと月をかけて南の王都まで戻ってきたのだ。
しかしデルシェアは、復活祭を終えたらまたジェノスに向かう予定になっている。デルシェアが滞在していた期間、邪神教団の襲撃に見舞われたジェノスは深刻な食材不足に陥り、情勢もきわめて不安定であったため、こちらが望むだけの成果をあげることがかなわなかったのだ。
しかしそれでも、デルシェアはジェノスで多くのことを学んだ。
現在も、それらのすべてを屋敷の料理番たちに伝えるべく奮闘しているわけであった。
「我々は王子殿下のもたらしてくださった情報によって、さまざまなジェノス料理の調理法を学ぶことがかないましたが……やはり、書面だけでは料理の正しい形を把握することがかなわなかったのです」
再会の折、料理長はそのように語っていた。
まあ、それが当然の話であるのだろう。ジェノス料理というのは目新しい食材を多用している上に、書面では細かな調理法を伝えることも難しいのだ。デルシェアは3日にわたって指南役を務めていたが、まだまだ伝えるべきことが山積みにされていた。
「姫君のおかげで、我々は目の前の霧が晴らされたような心地でございます。それにしても……わずか半年でこれだけの成果をあげられるとは、まことに驚くべき話でありますな」
「そんな大した話じゃないよ! 肝心の森辺には、ろくに出向けなかったんだからさ! かえすがえすも、邪神教団が憎たらしいね!」
「いえいえ。これだけでも、大変な成果でありましょう。かえすがえすも、ジェノスというのは食文化の発達している土地であるのですな」
「うん! あっちには、わたしなんか及びもつかない料理人がゴロゴロしてるからねー!」
デルシェアがそのように答えると、料理長はいくぶん真剣な眼差しになった。
「ですが、もはや姫君は南の王都においても屈指の料理人でありましょう。そんな姫君でも太刀打ちできないような料理人が数多く存在するというのは……いささかならず、信じ難い話でありますな」
「でも、それが真実だからね! ただ……それはもちろん、わたしがまだ新しい食材を使いこなせてないからだと思うよ」
料理長に呼応して、デルシェアも心の深い部分を吐露してみせた。
「わたしが1年や2年かけて、新しい食材をしっかり使いこなせるようになったら……たいていの相手は、追い抜けると思う。それでも追い抜けそうにないのは……森辺の料理人に限っても、5、6人はいるかな」
アスタ、レイナ=ルウ、マイム、トゥール=ディン、マルフィラ=ナハム――こちらの5名は、当確だ。1年や2年が過ぎたならば、その者たちはデルシェア以上に成長しているのではないかと思われた。
未知数であるのは、ユン=スドラやレイ=マトゥアやリミ=ルウといった面々である。ユン=スドラやレイ=マトゥアという料理人は独自性というものが希薄であり、アスタの料理の再現という意味において絶大なる腕を持っていたのだ。
いっぽうリミ=ルウというのは、文字通り未知数であった。菓子作りの手腕に関してはトゥール=ディンに迫る勢いであるし、デルシェアが幼かった頃よりもよほど優秀であることに疑いはなかったが――どうも彼女には、他の料理人のような気概が感じられないのである。
もちろんリミ=ルウも、真剣な心持ちで調理に取り組んでいるのだろう。そうでなければ、あの幼さであれだけの力をつけられるわけがないのだ。
しかし彼女は、不特定多数の人間を相手取ることに興味が薄いのではないかと思われた。目に見える場所にいる、手の届く相手に美味なる料理や菓子を届けたい――そんな熱情がひしひしと感じられてならないのである。
(だからつまり、リミ=ルウ様はいわゆる料理人じゃなくて……家の厨を守るかまど番っていう気質なのかもしれない)
しかしまた、彼女はいまだ10歳であるのだ。よくよく考えれば、そのような幼子が料理人としての気概を持っているほうがおかしいのである。
それに、すべての人間が料理人としての気概を抱く必要はない。そもそも他の面々とて、もとは屋台で料理を売るだけの身分に過ぎなかったのだ。それを城下町にまで呼びつけているのは貴族の側の思惑であり、決して彼らが望んだ結果ではなかったのだった。
(だから、もしかすると……リミ=ルウ様はまだ幼いから、森辺のかまど番の本質ってものが際立って見えるってことなのかな)
デルシェアがそのように思案していると、料理長が感じ入ったように息をついた。
「それでも5、6名は、それほどに有望な料理人が存在するのですな。しかもそれは、森辺の集落という場所に限った話なのでしょう?」
「うん! 城下町にもすごい料理人はたーくさんいるし、それに……ゲルドのプラティカ様なんかは、わたしにとって一番の好敵手かな!」
「やはり、驚きを禁じ得ません。わたしにとっては姫君こそが、10年にひとりの逸材であらせられるのですからね」
「あはは! それはほめすぎだってばー!」
そのとき、副料理長が「姫様」と呼びかけてきた。
「もう半刻もしましたならば、今宵の晩餐会の下準備を始めなければなりません。ジェノス料理の指南に関しては、現在着手している分で差し止めても支障はありませんでしょうか?」
「うん、もちろん! 大事な晩餐会を二の次にしたら、さすがに父様に叱られちゃうからね!」
「では、そのように手配いたします。……本音を言えば、このまま夜まで指南していただきたいところなのですが」
そんな言葉と屈託のない笑みを残して、副料理長は下がっていった。
誰もが、ジェノス料理の習得に意欲を燃やしているのだ。こちらの屋敷の厨には、ジェノスの数々の厨にも負けない熱気が渦を巻いていた。
(でも……森辺の料理人が働く厨は、それ以上の熱気だったよなぁ)
そんな風に考えると、デルシェアの胸に甘い痛みのような感覚がもたらされた。
それは異郷への思いであったのに――何だかまるで、望郷の思いであるように思えてならなかったのだった。
◇
それから、数刻後――晩餐会は、無事に開催された。
この時間は、デルシェアも屋敷の家人として客人をもてなす立場である。王子たる父の第一息女としては、決してその立場も二の次にはできなかった。
デルシェアが大急ぎで身を清めて、宴衣装を着込んで大広間に出向いてみると、そちらはすでに大勢の客人で賑わっている。本日は立食の形式であったため、晩餐会の名を借りた祝宴のようなものであった。
「ああ、デルシェア。ようやくゆっくり話をできるね。長旅の疲れも出ていないようで、何よりだ」
そのように声をかけてきたのは、父の兄のひとりである第三王子である。外務官長という立派な肩書きを持つ、きわめて柔和な物腰の人物であった。
「ご無沙汰しております、伯父君様。まあ、3日前にも謁見の間で帰還のご挨拶を差し上げたばかりですけれどね」
「あのように格式張った場では、ろくに言葉も交わせなかったからね。デルシェアも、さぞかし窮屈な思いだっただろう」
「あはは。思ったよりもお小言が少なかったので、ほっとしましたわ」
父の兄弟たちの中でも、こちらの第三王子は先祖返りの第五王子と並んでもっとも気安い間柄であった。父たるダカルマスは外務官補佐さながらの仕事を果たしているため、つきあいが深いという面もあるのだろう。本日も、彼を中心にして参席者の顔ぶれが選ばれていた。
「実はデルシェアにも紹介したい御仁がおられるのだけど……ああ、ちょうどいい。ダカルマスが挨拶をしているところなので、わたしたちもお邪魔しようか」
そのように語る第三王子とともに、デルシェアは大広間を横断した。
父は楽しげに笑いながら、客人たちと談笑している。ちょっと意外であったのは、それが西の民の一団であることであった。
「失礼いたします。ダカルマスよ、いい機会なのでご息女もご紹介してさしあげたら如何かな?」
「おお、デルシェア! 今日はご苦労であったな! みなさん、こちらが不肖の娘たるデルシェアであります!」
「初めまして」と、デルシェアはつつましく貴婦人の礼をしてみせた。
西の客人の総元締めと思しき男性が、「ほうほう!」と父に負けない大声を張り上げる。
「これは実に愛くるしい! それに、きわめて力のある眼差しですな! さすがはダカルマス殿下のご息女です!」
どうもその人物は、貴族ならぬ身分であるようであった。
まず、その顔や手の先が存分に日に焼けてしまっている。東の民ほどではないものの、焼きすぎたフワノのような色合いだ。それに、指などはがっしりとして節くれ立っているし、褐色の髭は手入れもされずにのび放題であるし――身につけているものだけは上等であったが、そうでなければ山賊と見まごう風体であった。
「こちらの御方はな、西の王都の船団の船長を務めておられるのだ!」
「西の王都の? それじゃあ、もしかして――」
「左様! 悪名高きティカトラス殿の配下でありますな!」
船長たるその人物は豪快に笑いながら、お仲間の腕を引っ張った。
こちらはひょろりとした体格の、穏やかそうな若者だ。ただしこちらも、船長に負けないぐらい日に焼けていた。
「それでこちらが、ティカトラス殿のご子息となります! まあ、俺にとっては部下のひとりですが!」
「まあ」と、デルシェアは目を丸くすることになった。
「初めまして。デルシェアと申します。ジェノスでは、お父君やご家族にもお世話になりましたわ」
「父はまた、デギオンやヴィケッツォをお供にして遊び歩いているようですね。船乗りの俺よりも腰が軽いのですから、驚きです」
いくぶん骨張っていて面長の顔立ちは、いくぶん父親に似ているだろうか。
しかし、デギオンやヴィケッツォにはまったく似ていない。やたらと肌が浅黒い他は、どこにでもいそうな西の民であった。
「あの、デギオン様やヴィケッツォ様というのは――」
「名目上は、俺の弟妹ということになりますね。まあ、全員母親が異なっていますので、あまり意味のない序列ですけれど」
ティカトラスというのは正妻を持たず、何人もの側妻を抱えているという話であったのだ。その子供の何名かが船団の関係者であるという話も、デルシェアは確かに本人から聞き及んでいた。
「きっと父は、ジェノスでも大変な騒ぎようであったでしょう? 姫君に、何か失礼はありませんでしたか?」
「あ、はい。わたしはべつだん……」
「ははは! さすがの大将も、王族の姫君にはちょっかいを出せなかったか!」
船長は豪快な笑い声をあげてから、自分の頭をぴしゃりと叩いた。
「いや、礼儀がなってなくて申し訳ありませんな! 本当に俺たちみたいな人間が参じてよかったんでしょうかね?」
「もちろんです! 今後はティカトラス殿とも、いっそう懇意にさせていただかなくてはなりませんからな! わたしもご本人とお会いできる日が楽しみでなりません!」
父たるダカルマスは、快活な笑顔でそのように応じていた。
さすがに彼らを王城に招くことは難しかったので、屋敷の晩餐会に招待したのだろう。最初の驚きを乗り越えると、デルシェアの中にもむくむくと好奇心がわきおこってきた。
「みなさんは、こちらの使節団が持ち帰ったミソを引き取りにこられたのですよね? ずいぶん早いご到着でしたので、ちょっとびっくりしてしまいました」
「我々は、それ以上の驚きでありましたよ! いつもの調子で船をつけたら、ジャガルの王城にミソなる荷物を預けているのでそれを引き取るべしなどという伝言が残されていたのですからな!」
そう言って、船長は髭の隙間から白い歯をこぼした。
「それで、あのミソというのは何なんです? 食材だとは聞いているのですが、その名前にも木箱からこぼれる香りにも、まったく覚えがありませんでしたな!」
「ええ。本日の晩餐会でもミソの料理をお出ししますので、どうぞご賞味くださいね」
「おお、それは楽しみだ! ダカルマス殿下の美食家としてのご高名は、我々もかねてより聞き及んでいましたからな! そこに姫君がひと役買っておられたというのは、なかなかの驚きでありましたが!」
そんな風に言ってから、船長は肘で若者の脇腹をつついた。
「まあ、こっちにも公爵家の血をひく船乗りがおりますがね! これも何かの縁ですので、どうぞ仲良くしてやってください!」
「はは。爵位継承権も持たない俺と王族の姫君を横に並べるのは失礼ですよ、船長」
そのとき、壁際に控えていた侍女が鈴の音を響かせた。
「お待たせいたしました。料理が到着しましたので、どうぞ存分にご堪能ください」
デルシェアたちの作りあげた料理が運ばれて、人々に歓声をあげさせた。
ジェノスの城や貴族の屋敷では望むべくもない賑わいだ。復活祭を目前にして、人々は浮かれに浮かれているようであった。
「今日は大事な取り引き相手を、多数招待しているのでね。わたしはちょっと、席を外させていただくよ」
第三王子はデルシェアに耳打ちして、さりげなく遠ざかっていった。
デルシェアがその場にたたずんでいると、弟や妹たちがもつれあいながら突撃してくる。彼らこそ、人目もはばからずにはしゃいでしまっていた。
「姉様! 今日はどんな料理を作ってくれたの?」
「馬鹿ね! 先に聞いたら、楽しみが減るでしょ! まずは食べてみないと!」
「ねえさまも、いっしょにたべよう?」
16歳のデルシェアが一番の年長者であるのだから、弟妹たちはみんな幼子だ。さしものデルシェアも、この場では年長者らしく振る舞うしかなかった。
「みんな、これはお客様を招いた晩餐会なんだから、つつましくなさい。わたしよりも、まずはお客様にご挨拶でしょう?」
「いやいや! 我々のことは、おかまいなく! みなさんお元気で何よりでありますな!」
ようやく西の客人たちの姿に気づいた弟妹たちは、きょとんとそちらを振り返る。13歳の第二息女と、10歳の第一子息と、6歳の第二子息だ。まだ3歳の第三息女は、母親のもとに留まっているのだろうと思われた。
「こちらはみなさん、王子殿下のお子たちでありましょうかな? いやいや、どなたもお元気であられる!」
「いやいや、お恥ずかしい! ほら、お前たちもご挨拶をなさい!」
父にうながされて、弟妹たちもそれぞれ名前と立場を名乗った。
船長は第二息女を見ながら「ほほう?」と目を丸くする。
「そちらが、妹君であられるのですか。なるほど、いわゆる先祖返りというやつでありますな」
上の妹は3歳も年少でありながら、デルシェアよりもうんと背が高いのだ。母もいわゆる先祖返りだったが、兄弟でその血を受け継いでいるのは彼女だけであった。
しかし中身は、あくまで13歳である。ひと通りの挨拶を済ませると、妹はあらためてデルシェアの腕を引っ張ってきた。
「それじゃあ、姉様も一緒にいただきましょう? 姉様が屋敷に戻ってきて、初めての晩餐会ですものね!」
「もう、しょうがないなあ」と、デルシェアもつい笑ってしまった。
デルシェアがジェノスに滞在していたのは半年ほどであったが、往復の道のりを加えれば8ヶ月間の別離であったのだ。昨日も一昨日も夜は弟妹たちと過ごしていたのだが、まだまだ興奮は冷めやらぬようであった。
(この子たちは、みんな甘えん坊だからなぁ)
しかし、大事な家族たちにこれだけの情愛をぶつけられて、嬉しくないはずがない。デルシェアは弟妹たちに引っ張られながら、父や西の客人たちとともに手近な卓を目指すことになった。
「ああ、ちょうどよかった。こちらが、ミソを使った料理ですわ」
「ほうほう! これは物珍しい料理ですな! ミソというのは、いったいどのように使われているのでしょう?」
「ミソは、調味液の材料として使われています。お口に合えば、幸いですわ」
それは、カロンの胸肉のミソ煮込みであった。アスタの考案した『ミソ仕立てのギバの角煮』を手本にした料理である。
ギバとカロンでは肉の質が大きく異なるので、調味液の配合にはさんざん頭を悩ませることになった。それにかつての試食会では《南の大樹亭》のナウディスも見事な煮込み料理を出していたので、そちらも参考にしている。まだまだ改善の余地はあるのであろうが、現段階ではまずまず納得のいく出来栄えであった。
そちらの料理を口にした客人たちは、誰もが驚嘆の表情を浮かべる。
しかし、それよりも早く弟妹たちが「おいしー!」と騒ぎたてた。
「ミソの料理なら何度も口にしているけれど、こんなに美味しい料理は初めてだわ!」
「うん! すごく美味しいね! 甘いし、とってもいい香りがするよ!」
「これ、だいすき! デルシェアねえさまは、やっぱりすごいね!」
弟妹たちに真っ直ぐな感情をぶつけられて、デルシェアも心から嬉しい心地であった。
すると客人たちも、口々に賞賛の言葉を届けてくる。
「いや、本当に驚きましたな! これは想像以上でありました!」
「ええ! 南の王都ではいつも食事を楽しみにしていますが、これほど美味なる料理を口にしたのは初めてです!」
「……こちらの料理も、デルシェア姫がお作りになられたのですか?」
そのように問うてきたのは、ティカトラスの子息たる若者である。
デルシェアは、笑顔で「ええ」と答えてみせた。
「まあ、実際に手掛けたのは屋敷の料理番たちですけれど……わたしがジェノスで学んだ知識をもとに、作りあげていただきました。何か不備があったなら、それはすべてわたしの責任となりますね」
「不備など、どこにも見当たりません。これほど見事な料理を口にしたのは、俺も初めてのことです」
そう言って、若者は顔中をほころばせた。
やはり、父親にはあまり似ていないようだが――南の民に負けないぐらい屈託のないところは、父親の血筋であるのかもしれなかった。
「確かにこれは、素晴らしい出来栄えであるな! カロンの肉に合わせて、しっかり味が練り上げられているようだ!」
と、父たるダカルマスがそのように言いたてたので、デルシェアはひそかに背筋をのばしてしまった。
「ギバとカロンではあまりに趣が異なるため、ジェノスで口にしたギバ料理と比較することはかなわないが……しかし決して見劣りするような出来栄えではない! これは美味であるぞ、デルシェアよ!」
「ありがとうございます」と笑顔を返しながら、デルシェアは心が深く満たされていくのを感じた。
やはりデルシェアにとっては、父の言葉こそがもっとも重く響くのだ。父ほど確かな舌を持った人間はそうそう存在しないし――父もまた、ジェノスの素晴らしい料理人たちの腕を知る人間なのである。こちらの料理にジェノスで学んだ成果がしっかり表れているかどうか、それをもっとも正しく判別できるのは父であるはずであった。
「……デルシェア姫は、半年にもわたってジェノスに留学されていたそうですね」
と、ティカトラスの子息がまた語りかけてきた。
「王族たる身で半年も異国に留まるというのは、驚くべき話です。俺の父とも、たいそう気が合ったのではないですか?」
「ええまあ……そうかもしれませんね」
デルシェアがいくぶん言葉を濁すと、若者は「はは」と朗らかに笑った。
「それよりも、父の奔放なふるまいに腹を立ててしまいましたか? それでしたら、俺からもお詫びを申し上げます」
「いえ、わたしが迷惑をこうむったわけではないのです。ただ……ジェノスの方々は、いささかご苦労をされていたようですわね」
「格式を重んじれば重んじるほど、父の行いは目についてしまうでしょうからね。ご迷惑をかけてしまった方々には、申し訳ない限りです」
そう言って、若者は白い歯をこぼした。たいそう日に焼けているためか、いっそう歯の白さが際立つようである。
「家においてはよき父なのですが、きっと余所のお城やお屋敷では迷惑な客人なのでしょう。でも父は、自由な魂を持つ方々を心より敬愛していますので、きっとデルシェア姫に対しても混じり気のない敬愛を捧げていることでしょう」
「ああ……それは少し、わかるような気もします」
デルシェアはそのように答えたが、それは自分についての話ではなかった。ティカトラスは、やたらと森辺の民に執着しており――それは、美麗なる外見と清廉なる内面の両方に心を奪われた結果なのではないかと考えていたのだ。
(そうでなくっても、森辺には魅力的なお人がそろってるもんね)
そんな風に考えると、デルシェアの胸に黒い髪と瞳をした若き料理人の面影が浮かびあがり――またどこか甘い痛みのようなものがもたらされた。
デルシェアは慌てて頭を振って、その感覚を追い散らす。デルシェアは、そんな私心を打ち払ってジェノスで学ぶのだと誓った身であったのだった。
「……どうかされましたか、デルシェア姫?」
「いえ、なんでもありませんわ。何にせよ、ティカトラス様というのは愉快なお人ですわよね」
「ああ。それがもっとも端的に父の人柄を表す言葉であるかもしれませんね」
若者は屈託なく笑い、デルシェアもそれにならうことができた。
それからしばらくは、西の客人や弟妹たちとともに卓を巡る。半分ほどの卓を巡ったところで、第三王子と再会することになった。
「やあ、デルシェア。まだみなさんとご一緒だったのだね。話が弾んでいるのなら、何よりだ」
「ええ。船乗りの方々というのはお話が面白くて、妹たちもすっかり夢中になってしまいました」
「そうかそうか。ところで、ひとつ確認させてもらいたいのだが……今日の料理は、君の取り仕切りで準備されたものであるのかな?」
デルシェアは小首を傾げつつ、「ええ」と応じてみせた。
「今日はわたしがジェノスで学んできた成果をお披露目しようという眼目だったので、おおよその料理はわたしが指示を出すことになりましたわ」
「おおよそというと? 君の管理が及ばない料理は、どれぐらい存在するのかな?」
「ちょっとした副菜や飲み物などは、料理長が引き受けてくださいました。……伯父君様は、どうしてそのような話を気にされるのかしら?」
「いや、君の力量というものを確認しておきたくてね。そういう話なら、安心して任せられるかな」
「安心?」と、デルシェアは小首を傾げてみせる。
第三王子は、ゆったりとした面持ちで微笑んだ。
「急な話で悪いのだけれども、明後日の晩餐会の準備をお願いしたいのだよ。どうか引き受けてもらえないだろうか?」
「あら、それはいっこうにかまいませんけれど……でも、明後日は王城で復活祭の前祝いでしょう? いちおうわたしもそちらの参席者なのですから、自由に動けるのは夕刻までになってしまいますわ」
「いや。その前祝いの準備をお願いしたいのだよ」
デルシェアは、思わず言葉を失うことになった。
王城における復活祭の前祝いというのは、王族だけが集う神聖な儀式の場であるのだ。そちらで出される料理に関しては、デルシェアの師匠たる料理長が引き受ける約束になっていたのだった。
「ど、どうしてわたしが、そのような大役を? そもそもそれは、料理長が引き受けたお話ですし……」
「そのあたりのことはダカルマスに説明しておくので、のちほど料理長と一緒に話を聞いてもらえるかな? そうしたら、君にも料理長にも納得してもらえると思うのだよね」
そのように語る第三王子は、やわらかい微笑みをたたえたままであり――そしてその瞳には、デルシェアを力づけようとしているような光が灯されていたのだった。




