茜さす少女(四)
2023.10/12 更新分 1/1
それから、2年近くの日が過ぎ去って――ララ=ルウは15歳となり、シン=ルウは18歳となった。
今年の内には、さらにひとつずつ齢を重ねることになる。シン=ルウはもちろん、ララ=ルウももはや子供という年齢ではない。婚儀を挙げられる齢に達した以上、一人前という扱いになるはずであった。
もともとララ=ルウは、15歳になると同時にシン=ルウと婚儀を挙げるつもりでいた。
しかしそれから数ヶ月が経った現在も、婚儀を挙げていない。それどころか、婚儀はいずれ数年後に――という、内密の約定を交わすことになってしまったのだ。
それはすべて、ララ=ルウの側の都合である。
この2年近くで、ララ=ルウは町における仕事に大きなやりがいを見出しており――それを途中で放り出すことはできないという心境に至ってしまったのだ。
ただそれは、明確な形のある仕事ではなかった。
屋台の商売を滞りなく継続しながら、町の人々と確かな交流を深めていく――言葉にすれば、そういう内容になる。美味なる料理を作りあげたり、屋台でお客の相手をしたり、帳簿をつけて銅貨を管理したり――と、そういった仕事を円滑に回すための取り仕切り役である。言ってみれば、それは手ではなく頭を使う仕事であるのかもしれなかった。
それに、町の人々と確かな交流を深めるというのも、口で言うほど簡単な話ではない。宿場町やダレイムの民であれば放っておいても交流が深まっていきそうなところであったが、城下町の貴族が相手となると、また勝手が違ってくるのである。そちらは顔をあわせる機会もごく限られている上に、石塀の外とはまったく異なる習わしや取り決めの中で生きているのだ。ただ漫然と過ごしていても、絆が深まるとはとうてい思えなかった。
「でもよー、だったら終わりはどこにあるんだよ? まさか、すべての貴族と仲良くなるまでなんて言わねーよなー?」
とある日に、ルド=ルウからそんな疑問をぶつけられることになった。
それでララ=ルウは、大いに悩みぬき――それで、自分なりの答えを見つけることができた。
ララ=ルウが成し遂げたいのは、道筋を作ることだ。
たとえ自分が婚儀を挙げて、なかなか森辺の外に出られない身となっても、商売や交流が円滑に進められるように――ララ=ルウは、その道筋を作りあげたいと願っていたのだった。
そのきっかけとなったのは、シーラ=ルウの存在である。
以前のシーラ=ルウは、レイナ=ルウと同じぐらいの重責を担っていた。レイナ=ルウと一緒に新しい料理を考案し、屋台での商売に励み、時には城下町まで出向いていたのだ。
ダルム=ルウと婚儀を挙げたのちも、シーラ=ルウは同じだけの仕事を果たしていた。
しかし、子供を授かったならば、すべての仕事から退くしかなかった。それで、レイナ=ルウを筆頭とする女衆たちがシーラ=ルウの仕事を引き継ぐことになったのだ。
今のところ、それで大きな問題は見られない。
調理の面ではレイナ=ルウが、銅貨の管理に関してはツヴァイ=ルティムが、それぞれ重責を担ってくれている。
しかしいつかは、誰もが退くことになるのである。とりわけレイナ=ルウなどは今年で20歳になるのだから、そろそろ婚儀をせっつかれる頃合いであった。
まあ、レイナ=ルウの後にはリミ=ルウやマイムが控えているし、ツヴァイ=ルティムも数多くの女衆を鍛えあげてくれている。このまま放っておいたとしても、そうそう屋台の商売が行き詰まることはないのだろうと思われた。
しかしまた――リミ=ルウやマイムも、いつかは退く身なのである。
個人の力を頼っていたら、いつかは絶対に行き詰まる。そんな思いが、ララ=ルウに小さからぬ不安感を与えたのだった。
「つまりララ=ルウは、屋台の商売を滞りなく進めるためのシステムを構築したいんだろうね」
アスタなどは、そのように言っていた。
ララ=ルウが「しすてむ?」と小首を傾げると、「ごめんごめん」と笑っていたものである。
「それは俺の故郷の異国語で、こっちの言葉になおすと……うーん、なんていうんだろう。制度とか取り決めとか、そういうニュアンスになるのかなぁ」
「……にゅあんす?」
「わー、ごめんごめん! ……まあ、俺がそういう言葉をつい持ち出しちゃうぐらい、ララ=ルウは込み入ったことを考えてるんだと思うよ」
「そんな大した話じゃないけど……やっぱり、屋台の商売を始めたのはアスタだからさ。あたしが見習うとしたら、アスタしかいないと思うんだよ」
「ララ=ルウにそんな風に言ってもらえるのは、光栄な限りだよ。まあ、ララ=ルウは昔っから視野が広いと思ってたけどさ」
そんな風に言いながら、アスタは少し遠い眼差しをした。
「でも、たぶん……俺も同じようなことを考えてたと思うよ。それこそ、ルウ家のみんなに色んな仕事を割り振ってたのは、俺がいなくなっても屋台の商売を続けられるようにっていう思いからだったしね」
「え? 何それ! アスタはどこかに行っちゃうつもりだったの?」
「違う違う。俺はどういう理屈でこの地に飛ばされてきたかもわからないから、またわけのわからない力で別の場所に飛ばされちゃうんじゃないかって……そんな心配を抱えてたんだよ」
ララ=ルウは思わず息を呑んでしまったが、アスタは朗らかに笑っていた。
「まあおかげさまで、そんな不安は乗り越えることができたけどさ。でも、基本の考えに変わりはないよ。実際問題、俺は熱を出したり何だりで屋台を開けなくなる事態に何度も陥ってたからさ。そんなときでも、ルウのみんなやユン=スドラやトゥール=ディンたちが頑張ってくれたから、俺がいない日でも商売を続けることができたんだ。ララ=ルウが考えてるのも、つまりはそういうことなんだろう?」
「うん。きっとそうだと思う。誰がぬけても、商売を続けられるように……それこそ、自分の子や孫たちも問題なく働けるような場を整えてあげたいんだよね」
「素晴らしい考えだね。心の底から、そう思うよ」
アスタの眼差しに深い共感の思いを見て取ったララ=ルウは、自分のほうこそ胸が熱くなるような誇らしさを抱くことができた。
あのアスタが、これほどの深い共感を示してくれているのである。これほど光栄な話は、そうそう他にないはずであった。
「だからやっぱり、それは制度とか取り決めとかって話になるのかな。たとえば生鮮肉や腸詰肉を売る商売なんかは、もうけっこうしっかり道筋ができてるだろう? これは子や孫の世代になっても、問題なく引き継いでもらえると思うんだよね」
「うん。でも、屋台の商売ってのは、もっと入り組んでるもんね」
「そうそう。ただ料理を作ったり売ったりするだけじゃなく、人員の手配とか材料費の計算とかが複合的に絡んでくるからね。ルウ家も今では4つの屋台を受け持ってるんだから、そのあたりの仕事に道筋をつけるだけでもひと苦労さ。新しい料理を考案するたびにまた食材費の計算も必要になるから、その時点で生鮮肉や腸詰肉の商売よりも苦労がかさむしね」
アスタとそのような話をしていると、ララ=ルウは胸が弾んでならなかった。アスタは実にさまざまな意味で、ララ=ルウに新しい世界を見せてくれたのだ。それは、初めてルド=ルウに連れられて高い木の上から森辺の様相を見渡したときのような昂揚であった。
「俺もできるだけみんなが自力で商売をできるように、あれこれ手ほどきしてるんだけどね。でも、トゥール=ディンに続こうっていうかまど番がなかなか出てこないんだよなぁ」
「あはは! ユン=スドラもマルフィラ=ナハムも、アスタにべったりだもんねー! 自力で屋台を出そうだなんて、あと数年は考えないんじゃないの?」
きっとアスタの下につくというのは、この上ない喜びであるのだろう。ララ=ルウとて最初の頃はそうしてアスタの仕事を手伝っていたのだから、それがどれだけ満ち足りた時間であったかは存分にわきまえているつもりである。
しかしララ=ルウも彼女たちと同じようにアスタから学びつつ、横に立つ楽しさや誇らしさというものも知ってしまった。いつかはきっとユン=スドラたちも、こんな誇らしさを噛みしめることになるのだろうと思われた。
「ただ、もうひとつのほうはどうなんだろうって、自分でも首をひねってるんだよねー」
「もうひとつっていうと、貴族を筆頭とする町の人たちとの交流に関してかな?」
「うん。屋台の商売なんかはどんなにややこしくても、いつかは道筋を立てられそうじゃん? でも、人との交流っていうのは……何か取り決めが必要な話でもなさそうだしさ」
「そうだねぇ。それはまあ……とりあえず、背中で語るしかないのかなぁ」
「背中で語る? どういう意味?」
「みんなの手本になれるように、率先して頑張るってことさ。確かに城下町でのララ=ルウはオーグだとかロブロスだとかを相手取って、見事に社交をしてるように見えるからね」
「うーん。でもけっきょく、あたしもそういうお人らとおしゃべりを楽しんでるだけなんだよねー。そんなのを見習おうなんて考える人間がいるのかなー?」
「ララ=ルウだって自分からそんな行動に出たんだから、いないとは限らないさ。まずは、他の族長筋の面々と意見交換してみたらどうだろう?」
「他の族長筋? ザザとかサウティとか?」
「うん。スフィラ=ザザやミル・フェイ=サウティだったら、ララ=ルウの考えや行動に感心すると思うんだよね。そうやってこっちの陣容を整えていく内に、新しい流れが生まれたりするんじゃないのかな」
やはりこちらは、終わりの見えない仕事のようである。
しかしそのぶん、ララ=ルウは大きなやりがいを感じ――そうしていっそう、まだ婚儀を挙げるわけにはいかないという心境に至ってしまったのだった。
(ほんと、自分でも呆れるようなワガママっぷりだよなぁ。こんなの、シン=ルウがよく許してくれたもんだよ)
そんな風に考えると、ララ=ルウの胸が熱く疼いた。
「俺は、ララ=ルウの正しさを信じている。ララ=ルウがそうしたいと願ったのなら、それが正しい道であるのだ」
シン=ルウはそう言って、ララ=ルウの思いを受け止めてくれたのだ。
泣きじゃくるララ=ルウの身を抱きすくめて、とても優しい声音で「いつか婚儀を挙げよう」と言ってくれたのである。あの夜のことを思うと、ララ=ルウは今でも胸がしめつけられるような心地であった。
◇
そうしてさらに月日は過ぎ去って――いよいよ収穫祭の日が近づいてきた。
シン=ルウたちに新たな氏が与えられる、運命の日である。
その日の数日前、ララ=ルウは父たるドンダ=ルウの前で深く頭を垂れることになった。
「家長ドンダ。家人ララ=ルウから、お願いしたい儀があります」
「……なんだ、その口のきき方は? 俺をからかってやがるのか?」
「からかってなんかいません。……ジザ兄やレイナ姉だって、家長には敬意を払ってるでしょう?」
「それはあいつらの好きでやってることだ。貴様にそんな口を叩かれたら、からかわれてるとしか思えねえな」
ララ=ルウは頭をかきながら、身を起こすことになった。
「それじゃあ、普通にしゃべらせてもらうけど……あたしは、真剣なの。そのつもりで聞いてもらえる?」
「……それは、内容による」と、ドンダ=ルウはそっぽを向いてしまった。
そのかたわらで、ミーア・レイ=ルウは優しく笑ってくれている。両親の他に家人の姿はなく、サティ・レイ=ルウも今は寝所でルディ=ルウに乳をあげていた。
「いいから、話してごらんよ。きちんと道理の通る話だったら、家長だってむやみにはねのけたりはしないさ」
「うん。……実は、収穫祭についてなんだけど……新しい氏を束ねるシン=ルウには、祝福の衣と刀が与えられるんでしょ? その役目を、あたしに受け持たせてくれない?」
「…………」
「勇者の祝福なんかはきちんと序列に従うし、求婚の舞もちゃんと踊るよ。でも、その役目だけは……どうしても、あたしが受け持ちたいの。序列で言ったら、レイナ姉なんだろうけど……どうか、お願いします」
ララ=ルウが再び頭を垂れると、ドンダ=ルウが重々しく息をつく気配が伝わってきた。
いっぽう、ミーア・レイ=ルウはくすくすと笑っている。
「ララ。あんたが言いたかったのは、そんな話なのかい?」
「うん。だって、大事な話でしょ? これは数十年ぶりのお祝いなんだから、できるだけ正しい形で儀式を進めるべきなんだろうし……」
「その正しい形っていうのが、あたしたちにもよくわからないんだよねぇ。だってこれは、ルウがモルガの森に来てから初めての儀式なんだしさ」
そう言って、ミーア・レイ=ルウはまた笑い声をこぼした。
「それでもって、それより古い話を知るのは最長老のジバだけだけど……ジバだって、そんな儀式を見届けたことはないんだよ。何せ、黒き森ってやつを失ったとき、ジバはまだ5歳やそこらだったんだからさ。儀式に相応しいのは本家で一番年をくった未婚の女衆ってことにしてるけど、それだって実際はどうだかわからないのさ」
「それじゃあ……許してもらえるの?」
ララ=ルウがおそるおそる顔を上げると、ドンダ=ルウはまだそっぽを向いたままであった。ただ心なし、その横顔は安らいでいるようである。
「ふふ。あんたがあまりに思い詰めてるもんだから、今すぐシン=ルウと婚儀を挙げたいとか言い出すんじゃないかって、家長も戦々恐々だったんだろうね」
「……やかましいぞ」
「そんな話を先延ばしにしたって、いつかは嫁に出ちまうのにさ。まったく男親ってのは、意外に意気地がないもんだよ」
「やかましいと言ってるだろうが!」
ドンダ=ルウが地鳴りのごとき咆哮をあげると、遠いところからほやあほやあと赤子の泣き声が聞こえてきた。
「ああもう、ルディを驚かせてどうするんだい。可愛い孫に嫌われちまったら、それこそ一大事だよ?」
ドンダ=ルウはのそりと身を起こし、寝所のほうに足を向けた。
それでララ=ルウは、慌てて声をあげる。
「あ、あの、それで儀式の話は……」
「好きにしろ」と言い捨てて、ドンダ=ルウは立ち去った。
その大きな後ろ姿を見送ってから、ミーア・レイ=ルウは笑顔でララ=ルウに向きなおってくる。
「ドンダがそんな話を断るわけがないだろう? ドンダはもう、子供たちが可愛くってしかたないんだからさ」
「うん、それはわかってるつもりだけど……でもやっぱり、家長や族長には立場ってやつがあるじゃん」
「今回は、その立場で思い悩むほどのことじゃなかったってことだね。あんたは思うぞんぶん、シン=ルウを祝福してやりな」
「わかった。ありがとう」
そんな一幕を経て――ララ=ルウは、収穫祭を迎えることになった。
その日は太陽がのぼる前から、目が覚めてしまう。ララ=ルウとしては、胸の高鳴りに起こされたような心地であった。
今日はシン=ルウにとって、人生でもっともめでたき日であるのだ。
そしてララ=ルウにとっては、シン=ルウとの別れの日となる。
もちろん新たな集落を切り開くのは数日がかりの話であるので、シン=ルウたちもそれまではルウの集落で寝起きすることになるわけであるが――しかし、ララ=ルウにとっては同じことであった。
同じルウの人間であったシン=ルウが、異なる氏族の人間となるのだ。たとえそれがルウの眷族であっても、シン=ルウ自身の名から取られた氏であっても、シン=ルウが自分と異なる氏を抱くことになろうなどとは去年になるまで想像もつかない事態であったのだった。
(でも……そんなの、どうってことない。いつか婚儀を挙げたら、また同じ氏になれるんだ)
そんな思いを抱きながら、ララ=ルウはゆっくりと身を起こした。
すると、隣で眠っていたリミ=ルウが「むー」と身じろぎをする。やがてそのまぶたも、のろのろと開かれた。
「ララ、おはよー……まだ暗いみたいだけど、もう朝なのー?」
「どうだろうね。急ぐことはないから、ゆっくり寝てなよ」
ララ=ルウが頭を撫でてやると、リミ=ルウは「うん……」とまぶたを閉ざした。
反対側のレイナ=ルウは、こちらのやりとりに気づいた様子もなくすうすうと寝入っている。そちらを起こさないように気をつけながら、ララ=ルウはそっと寝所を忍び出た。
家の中は、静まりかえっている。
太陽があがっていないので、どこもかしこも薄暗がりだ。足音を忍ばせて広間を踏み越えたララ=ルウは、土間で眠る猟犬や子犬たちの寝顔を眺めてから、閂を外して家の外に出た。
家の外も、薄暗い。
黄昏刻ともまた異なる雰囲気だ。世界は青みがかった灰色に包まれて、森や大地も安らかに眠っているかのようであった。
ララ=ルウは大きくのびをして、清涼な空気をめいっぱい吸い込む。
そうして腕をおろしながら、薄暗い広場に視線を巡らせると――遠いところで、人影が動いた。
静まりかけていたララ=ルウの心臓が、びくんと躍動する。
その躍動に背中を押されたような心地で、ララ=ルウは足を踏み出した。
その人影は、シン=ルウの家の近くに立っていたのだ。
そうしてララ=ルウが胸を高鳴らせながら近づいていくと――果たして、それはシン=ルウであった。
「……おはよう。さすがに今日は、気が張ってるのかな?」
ララ=ルウが平静に努めた声で呼びかけると、シン=ルウは一拍おいてから「うむ」と首肯した。
「やはり、ララ=ルウだったか。そうだろうとは思っていたが……見間違いでなくて、よかった」
「えー? 狩人だったらこれぐらいの薄暗さは、どうってことないんじゃないの?」
「うむ。しかし……ララ=ルウも、常とは異なる姿であったからな」
そのように言われて、ララ=ルウもようやく思いあたった。ララ=ルウは髪も結わずに、家の外に出てしまったのだ。
「あはは。なるべく森辺の習わしを守ろうって誓ったのに、さっそく破っちゃったよ。みっともない姿を見せちゃって、ごめんね」
「みっともなくはない。宴衣装ならぬ姿で髪をほどいているのは、とても新鮮だ」
シン=ルウは優しく目を細めながら、そう言った。
ララ=ルウは、つい頬を熱くしてしまう。
「……いよいよこの日が来ちゃったね」
「うむ。まるで実感がわかないな」
「あはは。7ヶ月も時間があったのに、まだ心の準備ができてないの?」
「うむ。きっとどれだけの準備をしても、足りることはないのだろうと思う」
普段通りの、穏やかな問答である。
それがいささか物足りないような――それと同時に、嬉しいような――やっぱりララ=ルウは、複雑な心地であった。
「……よかったら、日がのぼるのを座って待たないか?」
「うん、いいよ」
ララ=ルウはシン=ルウとともに歩を進めて、一本の木の前で腰を下ろした。
その梢を見上げながら、シン=ルウがふっと笑う。
「ララ=ルウは覚えていないかもしれないが……昔、この木にのぼって叱られたことがあったのだ」
「え? まさかそれって、あたしがルドに背負われたときのこと? わー、あれってこの木だったんだ?」
ララ=ルウがそのように答えると、シン=ルウは切れ長の目をぱちくりとさせた。
「ララ=ルウは、覚えているのか? あれはずいぶん、ララ=ルウが幼かった頃の話なのだが……」
「幼いって言っても、3歳にはなってたでしょ? シン=ルウは6歳で、ルドは5歳だよね。5歳の幼子が3歳の幼子を背負ってこんな木をのぼったら、そりゃあ叱られるさ」
「驚いた。そこまでしっかり覚えていたのだな」
「覚えてるよ。大事な思い出だもん」
ララ=ルウは立てた膝の上で腕を組み、そこに下顎をのせながらシン=ルウの顔を見つめた。
「すごいすごいって、みんなではしゃいでたよね。ま、シン=ルウたちにとっては見慣れた光景だったんだろうけどさ」
「見慣れていたというほどではない。俺たちも、ようやく天辺までのぼれるようになったところであったのだ。だから、ララ=ルウを連れていくのも心配だった」
「うん。シン=ルウはすごく心配そうな顔だったね。だから逆に、あたしは安心できたんだよ。何があっても、シン=ルウが何とかしてくれるだろうってさ」
「俺にそんな力はなかったが……しかし、ララ=ルウにそんな風に思ってもらえたことは、誇らしく思う」
シン=ルウは、いっそう優しげに目を細める。
そんな笑い方は、幼子の頃からまったく変わっていなかった。
「……あれから、色々あったよね」
「うむ」
「ルドと3人で棒切れを振り回したり、ギーズの屍骸を見つけて大騒ぎしたり……森の端で転んだときは、シン=ルウが背負ってくれたっけ」
「うむ。まだおたがいに、幼子の身であったしな」
「どんどん大きくなるにつれて、遊ぶ時間は減っていっちゃったけど……あたしはそんなに、寂しくなかったよ。広場に出れば、たいていはシン=ルウの姿を見つけられたしね」
「うむ。……それもあと数日限りになってしまうのだな」
「あはは。でも、シュミラル=リリンを見習うんでしょ?」
「うむ。シュミラル=リリンは行商のたびに、半年も森辺を離れるのだからな。それに比べれば、どうということもあるまい。……あ、いや、決して寂しくないと言っているわけではないのだが――」
「そんな話は、7ヶ月前に終わってるでしょ」
ララ=ルウが笑うと、シン=ルウもほっとしたように笑ってくれた。
「それで、何年間も婚儀を我慢するあたしたちは、他の人間には味わえないような幸福を手にできる、だったっけ?」
シン=ルウは優しい微笑みをたたえたまま、「うむ」とうなずいた。
間もなく19歳となるシン=ルウは、とても精悍な顔立ちになっている。だけどやっぱりその瞳に灯されるのは、幼子の頃から変わらない穏やかな光であった。
「……あの夜にさ、シン=ルウが新しい氏を授かると、婚儀を挙げてもシン・ルウって呼ばないといけないから……それが残念だとかいう話をしたよね」
「うむ。最初に言い出したのは、俺のほうだったな」
「そうそう。でも、あたしはちょっと、心持ちが変わってきたみたい」
「ふむ」と応じた後は、シン=ルウも穏やかな面持ちのままララ=ルウの言葉を待ってくれた。
その優しさを思うさま噛みしめてから、ララ=ルウは言葉を重ねる。
「今は、シン=ルウと同じ氏を授かれる日が楽しみでならないよ。あたしがララ・ルウ=シンになったら……魂を返すまで、シンの名を氏として抱くことができるんだもんね」
シン=ルウは静かな声で、「そうだな」と言った。
その切れ長の目から涙がこぼれたりはしないし、ララ=ルウも泣いたりはしない。きっとすべての儀式を見届けた後は、どうしようもなく涙をこぼしてしまうのだろうが――今は心安らかに、このやわらかい時間の中にひたっていたかった。
そうしてふたりは東の空に茜さすまで、ひたすらおたがいの姿を見つめ続け――そして、今日という特別な日をともに乗り越えることになったのだった。




