門出の日⑦~新生の儀~
2023.9/24 更新分 1/1
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女衆の舞が終わってから半刻ばかりは、余興の力比べで盛り上がることになった。
俺はダン=ルティムたちの敷物に舞い戻り、宴料理をいただきながらひたすら観戦である。ただしダン=ルティムやディック=ドムのもとにも続々と挑戦の声が届けられたため、彼らも早々に腰を上げることになった。
「俺は昼間の力比べで、すっかり満足しているのだがな! まあ、挑まれたからには応じる他あるまいよ!」
そうして敷物に残されたのは、俺とリミ=ルウ、ラー=ルティムとモルン・ルティム=ドム、ツヴァイ=ルティムとオウラ=ルティムという、なかなか風変わりな顔ぶれである。ただ、こちらの敷物にもさまざまな人々が挨拶に出向いてくれたので、ずっと賑やかなままであった。
今日は全氏族の人間が集結しているため、力比べの場もたいそうな熱気をおびている。まあ、バードゥ=フォウやデイ=ラヴィッツやベイムの家長などは折り目正しく観戦に徹しているようであったが、ラッツやヴェラやダナなどの若き家長はルウの血族に負けない勢いで勝負を挑んでいたし、ライエルファム=スドラやダリ=サウティなどはあちこちから勝負を挑まれて腰を上げざるを得なかったようであった。
それに今回は闘技の取っ組み合いばかりでなく、袋剣も持ち出されていた。この時間に備えて、森辺中の袋剣がかき集められたようであるのだ。これもまた、すべての氏族が寄り集まった結果であった。
そうして袋剣が持ち出されると、いっそうの活気が渦を巻いていく。元来、余興の力比べでは闘技の勇者や勇士は参加しないという習わしであったのだが、袋剣の勝負ならば例外であろうということで、ガズラン=ルティムまで引っ張り出されることになったのだ。そこでも頑なに参加を拒んだのは、ディグド=ルウただひとりであった。
「俺の刀は、ギバを斬るためのものだ。人を相手にした勝負に、さほど意味は見いだせんな」
ディグド=ルウは、そのように言い張っていたという。
それに彼は、身体の各所に古傷を抱えた身であるのだ。他の狩人たちよりは、我が身をいたわらなくてはならないという面も存在するのかもしれなかった。
ともあれ、勝負の場は大変な盛り上がりようである。
荒っぽい話が苦手である俺も、その熱気と無縁ではいられなかった。とりわけ袋剣の勝負というのは目新しさも相まって、心を奪われるものである。剣技であれば、ドンダ=ルウやダン=ルティムはどれぐらい強いのか――同じく、ジザ=ルウやガズラン=ルティム、シン=ルウやルド=ルウなどはどうなのか、好奇心をかきたてられてならなかった。
そんな中で無類の強さを見せたのは、アイ=ファである。
もとより身軽さを武器にしているアイ=ファは、闘技よりも剣技のほうが得手なぐらいであるのだ。体重でまさる相手を投げ飛ばす必要もなく、ただ剣先を当てるだけで勝負はつくのだから、アイ=ファにとっては願ってもない条件であった。
「しかし、剣の勝負とて身軽さだけで勝てるものではない。あのアイ=ファは、恐るべき力を持った狩人であるな」
ラー=ルティムからそのような言葉をいただいた俺は、心から誇らしく思うことができた。
アイ=ファは自ら勝負を挑んだりはしないし、ルウの血族が誇るトップ4――ドンダ=ルウとダン=ルティム、ジザ=ルウとガズラン=ルティムもそれは同様である。よって、そちらの5名はいずれの勝負でも対戦する機会はなかったが、アイ=ファはそれ以外の相手にのきなみ勝利していた。ルウの血族でも余所からの客人でも、アイ=ファに太刀打ちできる人間は皆無であった。
「何よ、もう! これだったら、アイ=ファが兵士たちの指南役を引き受けるべきじゃないの?」
レム=ドムはとても悔しそうにそう言っていたが、その黒い瞳にはどこか陶然たる輝きも宿されていた。
あらためて、アイ=ファの強さに魅了されたのだろうか。そしてそれは、レム=ドムひとりの話ではなかったし――実のところ、俺も同様であった。袋剣を自在に操って、並み居る狩人たちをばったばったと打ち倒していくアイ=ファの姿は、誰よりも鮮烈で、力強く、そして美しかったのだ。
(鋼の模擬刀を使うジェノスの闘技会は、ちょっとひやひやしちゃうけど……袋剣なら、安心して見てられるもんな)
もちろん袋剣というのは細長い板をくくって革の袋をかぶせた代物であるのだから、竹刀と同等の破壊力を持っていることだろう。それでおもいきり身を打たれたならば、青痣ぐらいはできるはずであった。
しかし、アイ=ファが袋剣の痛撃を受けることは、一度としてなかった。それどころか、おおよそは相手の身を打つこともなく、寸止めで勝利をおさめることができたのだ。それがまた、アイ=ファの優美さに拍車をかけるわけであった。
ルド=ルウにラウ=レイ、ジィ=マァムにディム=ルティム、ラッツの家長にダナの家長――歴戦の狩人たちがアイ=ファに勝負を挑んでは、敗れ去っていく。もちろんアイ=ファのほうも全力を尽くしていたし、おまけに上衣と脚衣を纏っているため、その端麗なる面はいつしか樽の水をかぶったように汗でしとどに濡れていた。
そうしていい加減、余興の力比べも終わる頃合いかと思われたとき――シン=ルウが、アイ=ファの前に進み出た。
「アイ=ファよ。俺も挑ませてもらいたい」
周囲の人々は、これまで以上の喝采をあげていた。シン=ルウは闘技の勝負をアイ=ファに挑まなかったため、この夜はこれが初めての対戦であったのだ。
もっとも、闘技に関しては結果が見えていた。シン=ルウはかつてルド=ルウやラウ=レイとともにファの家まで足を運び、ともに修練を積んでいたのだ。その頃からシン=ルウたちは、アイ=ファにもライエルファム=スドラにもまったく歯が立たなかったのだった。ルド=ルウは本日もアイ=ファに敗れていたし、シン=ルウはまだルド=ルウにかなわないと言っていたので、それならばアイ=ファにもかなう道理はなかった。
しかし、剣技であれば、どうなのであろうか。
あまり参考にはならないかもしれないが、シン=ルウはジェノスの闘技会で剣王の座を授かった身なのである。シン=ルウもそれほど体格に恵まれているわけではないため、闘技よりは剣技のほうが向いているはずであった。
(できることなら、シン=ルウに勝たせてあげたいような気がするけど……かといって、アイ=ファだって手心を加えることなんてできないしな)
そんな真似をするのは、何よりシン=ルウの誇りや覚悟を踏みにじる行いであろう。狩人でも剣士でもない俺でも、それぐらいの道理はわきまえているつもりであった。
そんな中、アイ=ファとシン=ルウの勝負が開始される。
シン=ルウは最初から、凄まじい勢いでアイ=ファに躍りかかった。
やはりシン=ルウは、俊敏だ。しかもただ素早いばかりでなく、森辺の狩人としての迫力に満ちている。また、闘技会では重い甲冑を纏っていたため、あの頃とは比較にもならないような勢いであった。
そうして次々と繰り出される斬撃を、アイ=ファは的確に跳ね返していく。そちらこそ、無駄な力はまったく使わない優美さだ。アイ=ファを前にすると、シン=ルウでさえ雄々しく勇猛に見えてならなかった。
アイ=ファもシン=ルウも半刻以上にわたって勝負を続けていたので、疲労の極みにあるはずである。しかし、そうとは思えないほど、ふたりの勝負は過熱した。
シン=ルウがわずかに手をゆるめると、その隙を逃さずにアイ=ファも袋剣を振りかざす。それは空気も乱さぬ流麗な太刀筋であったが、シン=ルウもまた尋常ならざる反射神経と俊敏さで回避してみせた。
ふたりの勝負は、いつまでも終わらない。
その間に、周囲の狩人たちはひと組ずつ袋剣を手放していき――ついに、ルド=ルウやラウ=レイが汗だくの姿でへたりこむと、勝負の場にはアイ=ファとシン=ルウだけが残された。
220名からの森辺の民が、一心にふたりの勝負を見守っている。
そして、もともとあげられていた歓声が、どんどん熱を帯びていった。
おおよそは、シン=ルウを応援する声である。
しかしその隙間から、アイ=ファの名を呼ぶ声も響きわたった。ルウの血族のおおよそはシン=ルウを応援し、余所の氏族のおおよそはアイ=ファを応援しているようであった。
「ふたりとも、がんばれー!」
と、俺のかたわらではリミ=ルウがそのように声を張り上げていた。
きっと、そういう人間も少なくはないのだろう。もちろん俺も、そのひとりであった。
それでもなお、ふたりの勝負は終わらない。
まるで、ふたつの炎がせめぎあい、渦を巻いているかのようである。怒号のような大歓声の中で、ふたりはいつまでも刀を振るい続けた。
そして、最初に動きが鈍り始めたのは――アイ=ファのほうであった。
袋剣を扱う手もとによどみは見られないが、足もとがいくぶんふらついている。そして、シン=ルウが呼吸を整えるために攻撃の手をゆるめても、反撃できなくなってしまっていた。
アイ=ファに負けないぐらい汗だくの姿になったシン=ルウは、裂帛の気合で袋剣を振りかざす。
その斬撃を袋剣で受け止めたアイ=ファは、ついにその勢いに圧されて姿勢を崩した。
さらにシン=ルウが攻撃を重ねると、力なくたたらを踏んで――ついに、転倒してしまう。
シン=ルウは獲物に襲いかかる狼のように、袋剣を振りおろした。
アイ=ファは手負いの山猫めいた迫力で、身をよじる。斬撃が頭をかすめたのか、金褐色の髪がほどけて流星の尾のようにたなびいた。
アイ=ファは地面の上を転がり、シン=ルウがそれを追いかける。
そうしてシン=ルウが再び袋剣を振りおろすと同時に、アイ=ファもまた信じ難い勢いで袋剣を突きあげた。
両者の袋剣が、凄まじい勢いで激突し――そしてそのまま、ふたりはそれぞれ地面に倒れ込んだ。
ふたりは同時に起き上がり、恐るべき執念で袋剣を構えなおす。
だが、ふたりの袋剣は真ん中でへし折れて、革の袋がだらんと垂れ下がっていた。竹のようによくしなる袋剣が、ついに寿命を迎えてしまったのだ。
「そこまで! ……余興の力比べで、これ以上勝負を続ける意味はなかろう」
ドンダ=ルウの重々しい声が響きわたると、ふたりは同時に膝をついた。
あらためて、地響きのような歓声が響きわたる。
そんな中、シン=ルウのもとにはルド=ルウが、アイ=ファのもとにはレム=ドムが駆けつけた。
そうして肩を貸されたふたりが立ち上がると、今度は拍手が打ち鳴らされる。
半ば呆然としていた俺もそれでようやく我に返って、手を叩くことになった。
「夜もずいぶん深まった! しばしの休憩をはさんだのち、新たな氏を授ける儀式を執り行う! それまでに、残された宴料理をたいらげるがいい!」
割れんばかりの拍手と歓声に負けない勢いで、ドンダ=ルウの声が響きわたる。
そして俺は、リミ=ルウとともにアイ=ファを出迎えることになった。
「アイ=ファ、すごかったねー! アイ=ファもシン=ルウも、すっごくかっこよかったよー!」
アイ=ファはぜいぜいと息をつきながら、リミ=ルウの賞賛に答えることもままならなかった。
俺は大急ぎで、アイ=ファが敷物に残していた酒杯を取り上げる。幸い、そちらにはまだチャッチ茶が残されていた。
「とりあえず、そちらに座らせるわよ」
レム=ドムの手によって、アイ=ファの身が敷物に座らされる。
とたんにアイ=ファは倒れ込みそうになったので、俺が横から支えることになった。
金褐色の長い髪がほどけたアイ=ファは、まだ荒い息を吐いている。そしてその身に纏った長袖の装束は、豪雨に打たれたかのようにびしょ濡れであった。
「お茶がそれだけじゃ、足りないよねー! リミが持ってきてあげる!」
リミ=ルウは玉虫色のヴェールをなびかせながら、ぴゅーっと走り去っていった。
アイ=ファの身体をしっかりと支えながら、俺はあらためて酒杯を持ち上げる。
「大丈夫か、アイ=ファ? 呼吸が落ち着いたら、これを飲んでくれ」
アイ=ファは俺の肩にもたれながら、天を仰いだ。
金褐色の髪が、光の滝のように流れ落ちている。アイ=ファはかつてないほどに疲れ果ててしまっていたが――ただ、薄く開かれたまぶたの隙間では、青い瞳が充足しきった光をたたえていた。
「本当にあなたは、なんていう狩人なの。……いえ。この際は、あなたをここまで追い詰めたシン=ルウをほめるべきなのかしら」
アイ=ファの前に膝をついたレム=ドムが、震える指先でアイ=ファの手を取った。
その黒い瞳には、どこか恍惚とした光がたたえられている。
「もともとあなたとディックは、わたしの目標だったけれど……今日という日には、シン=ルウもそこに加えられてしまったわ」
アイ=ファはのけぞらせていた首を戻すと、どこか甘えるような眼差しを俺に向けてきた。
俺は得たりと、その口もとに酒杯を運ぶ。それで咽喉を潤してから、アイ=ファはレム=ドムに向きなおった。
「もとより……シン=ルウも、それだけ立派な狩人であるからな……」
そのように語るアイ=ファは、とても誇らしげな眼差しになっていた。
そういえば――かつて16歳という若さで家長の座についたシン=ルウは、アイ=ファから『贄狩り』の作法を学ぼうとしていたのだ。それは、力の足りない自分が家族を飢えさせないようにと思い詰めてのことであった。
しかしアイ=ファは、その申し出を断った。家族のことを思うならば、危険な『贄狩り』などに手を染めてはならないと、厳しくたしなめたようであるのだ。
(そう考えると、アイ=ファも最初からシン=ルウを導くひとりだったんだよな)
そしてアイ=ファにとっては、それが初めて『ファの家長』として誰かに頼られた記憶であるのかもしれない。
だからアイ=ファは、こんなに優しい眼差しでシン=ルウのことを語っているのかもしれなかった。
◇
「それでは、儀式を開始する!」
あらためて、ドンダ=ルウの声が集落の広場に響きわたった。
余興の力比べを終えてから、四半刻ほどが過ぎている。その間に、残されていた宴料理はすっかり片付けられて、人々も儀式の準備を整えていた。
広場の中央にはドンダ=ルウがひとりで陣取り、まずはルウの血族がそれを取り囲み、さらに外来の客人がそれを取り囲んでいる。狩人の視力を持たない俺は、懸命に目を凝らしてその場を見守るしかなかった。
俺の隣では、アイ=ファも凛然と立っている。四半刻の休息で、とりあえず最低限の回復はできたようだ。汗だくの装束ももとの装束に着替えて、ほどけてしまった髪は簡単にポニーテールの形でまとめていた。
「新たな氏を授かる25名を、ここに!」
ドンダ=ルウの言葉に従って、人垣の右手側がふたつに割れた。シン=ルウの家に控えていた人々が、広場の中央に向かって行進し始めたのだ。
その先頭に、シン=ルウが立っていた。
シン=ルウも、装束を着替えて身を清めたのだろう。先刻までの激闘が嘘のように、その姿は凛々しく毅然としていた。
それに、シン=ルウだけは狩人の衣を纏い、刀をさげている。
そんなシン=ルウに付き従って、24名の家人が粛々と歩を進めていた。
3つの分家で、25名。これが、新たな氏族に分けられる家人のすべてである。そこには祝宴への参席を許されない5歳未満の幼子も含まれており、女衆の何名かはその手に赤子を抱いていた。
きっと5歳未満の幼子を含めれば、ルウ家は60名ていどの人数であるのだろう。その内の25名が、この夜から新たな氏族として生まれ変わるのだ。
シン=ルウのすぐ後に続くのはリャダ=ルウとタリ=ルウで、見習い狩人の次兄と10歳ていどの末弟がそれに続く。しんがりを務めるのは、もっとも後から家人となったミダ=ルウだ。
その次には、ディグド=ルウの魁偉なる姿が続く。彼はすでに父親を亡くしていたが、いくつかの分家をまとめて面倒を見ていたため、そちらだけで10名以上の人数であった。
そして最後に、年配の男衆が家長を務める分家が続く。俺はそちらの分家とあまりつきあいがなかったが、それでもいずれも見知った姿だ。とりわけ女衆などは、古い時代に何度もともにかまど仕事を果たしていた。
祝宴に参じたことのない幼子たちは、不安そうに視線をさまよわせている。
しかし、むずかって足を止めたりはしない。どんなに幼くても、彼らも勇敢なルウの血をひく家人たちであった。
シン=ルウを先頭にした一団は、儀式の火の前に立ち並ぶ。
ドンダ=ルウが合図を送ると、人垣からいくつかの人影が進み出てきた。最長老のジバ婆さんと、何らかの荷物を抱えた宴衣装の女衆たちだ。その内のひとりが、ララ=ルウであった。
「この夜、3つの分家に新たな氏が授けられる……親たるルウから分かたれて、新たな子になる25名に祝福を……」
広場は静まりかえっているため、ジバ婆さんのしわがれた声も何とか聞き取ることができた。
女衆の手によって、儀式の火に香草らしきものが投じられる。すると、婚儀の際とはまた異なる、甘くてどこか香ばしい香りが風にのって広場中に行き渡った。
24名の家人たちは、無言のまま地面に膝をつく。
立っているのは、シン=ルウひとりだ。そして、2名の若い女衆がその左右に進み出た。
シン=ルウは、狩人の衣と刀を片方の女衆に受け渡す。
さらにシン=ルウは帯に手をかけて、その身の装束も脱いでしまった。
下帯ひとつの姿になって、シン=ルウの引き締まった裸身が衆目にさらされる。
目を伏せて装束を受け取った女衆は、しずしずと儀式の火に近づき――そして、それを火の中に投じてしまった。
儀式の火は、ぶすぶすと黒い煙をあげていく。
そんな中、新たな両名がシン=ルウの左右に進み出た。ララ=ルウと、レイナ=ルウである。
ララ=ルウは静謐なる面持ちで、シン=ルウの背後に回り込む。そして、その手に抱えていたものをふわりとシン=ルウの肩に掛けた。
ギバの毛皮で作られた、狩人の衣である。
ただその狩人の衣は、赤と緑に染めあげられていた。森辺の装束と同じような渦巻き模様が、2色で染めあげられていたのだ。そしてシン=ルウの右肩には、角と牙を生やしたギバの頭が垂れていた。
素肌に狩人の衣を纏ったシン=ルウは、ただ凛然と立っている。
すると、その正面に回り込んだララ=ルウが、レイナ=ルウから1本の刀を受け取ってひざまずいた。
そちらの刀の鞘も、赤と緑に染めあげられている。
ララ=ルウが何かの巫女のような恭しさでそれを差し出すと、シン=ルウもまた片膝をつきながら、両手で刀を受け取った。
人垣の男衆の何名かが、一定のリズムでギバの骨を打ち鳴らし始める。
そんな中、シン=ルウとララ=ルウはゆっくり立ち上がって、おたがいの姿を見つめた。
「……新たな氏族の家長として、24名の家人を正しくお導きください」
ララ=ルウが、別人のように澄みわたった声でそのように告げた。
「……ルウの新たな子として正しき道を進むことを、すべての血族と母なる森に誓う」
シン=ルウの声もまた、どこまでも澄みわたっていた。
ララ=ルウは、こらえかねたようににこりと笑い――そして、レイナ=ルウとともに退いていった。
シン=ルウは刀の鞘を握ったまま、今度はジバ婆さんの前に進み出て膝をつく。そして、頭を垂れながら刀を横向きに差し出した。
それを受け取ったジバ婆さんは枯れ枝のように細い手で刀を持ち上げて、儀式の火の煙にくぐらせる。そしてそれを、あらためてシン=ルウに捧げた。
「ルウの最長老ジバ=ルウの名のもとに……新たな眷族の家長たるシン=ルウに、心よりの祝福と……そして、新たな氏を授けよう……あんたは今日からシンの家長、シン・ルウ=シンだよ……」
「……シン・ルウ=シンは、ルウの新たな子として恥ずることのない生を送ると誓おう」
シン=ルウは――いや、シン・ルウ=シンは、もういっぺん深く頭を垂れてから、刀を手に立ち上がった。
そうして彼が頭上に刀を掲げると、静まりかえっていた広場に歓声が爆発する。ギバの骨は、狂ったような勢いで乱打された。
「この夜、ルウに7番目の子たるシンの家が生み落とされた! 兄たる6つの家とともに、その血が絶えるまで正しき道を進んでもらいたい!」
大歓声にも埋もれない雷鳴のごとき声音で、ドンダ=ルウがそのように宣言した。
「では、すべての家人に、新たな氏を授ける! シン・ルウ=シンの父たるリャダ=ルウよ! 今日から貴様は、家長の父たるリャダ・ルウ=シンとなる!」
リャダ・ルウ=シンが頭を垂れると、それに合わせて歓声もうなりをあげた。
そして次々と、すべての家人に新たな氏が授けられていく。タリ=ルウはタリ・ルウ=シン、ミダ=ルウはミダ・ルウ=シン、ディグド=ルウはディグド・ルウ=シン――今後は誰もが、シンの氏を掲げて生きていくことになるのだ。
リャダ・ルウ=シンやタリ・ルウ=シンは、とても穏やかな顔をしている。
ふたりの弟たちは、それぞれ昂揚に頬を火照らせていた。
ミダ・ルウ=シンは心から嬉しそうに、頬の肉をぷるぷると震わせている。
ディグド・ルウ=シンは、相変わらず不敵な面持ちだ。
そしてそれを見守る人々も、さまざまな表情である。
ルド=ルウやリミ=ルウは、楽しそうに笑っていた。
ドンダ=ルウやジザ=ルウは、相変わらず内心をうかがわせない無表情だ。
ミーア・レイ母さんやティト・ミン婆さんも笑顔だが、遠目にも涙を光らせているように見えた。
本家の母屋の前に立ち並んでいるのは、きっとヴィナ・ルウ=リリンたちであろう。幼子のそばを離れられない彼女たちも、しっかりとシン・ルウ=シンたちの晴れ姿を見届けているのだった。
その中で、シーラ=ルウだけはダルム=ルウとともに儀式の火のそばまで近づいている。ダルム=ルウに肩を抱かれたシーラ=ルウは、はらはらと涙をこぼしていた。
だけどやっぱり、彼女も微笑んでいた。たとえ住む場所が離れようとも、シーラ=ルウとシン・ルウ=シンが姉弟であることに変わりはないのだ。シーラ=ルウも、寂しさを上回る喜びや誇らしさを抱いているはずであった。
そうして人垣のほうに目を戻してみると――ジーダは引き締まった面持ちであったが、マイムなどはすっかり泣き顔になってしまっている。町の生まれである彼女は森辺の民が辿ってきた歴史を人づてでしか知らないのだが、それだけ感受性が豊かであるのだ。バルシャは陽気に笑いながら、ミケルはむっつりとした仏頂面で、そんなマイムの頭や肩に手を置いていた。
ダン=ルティムやラウ=レイなどは、もう大はしゃぎである。
ガズラン=ルティムはゆったりとした面持ちで広場の騒ぎを見守っており、シュミラル=リリンとギラン=リリンは本物の親子のように穏やかな微笑を見交わしていた。
俺の周囲でも、人々の反応はさまざまだ。
ユン=スドラは日中にも宣言していた通り、涙をこぼしてしまっていた。ただその顔にたたえられているのは、あどけない微笑みだ。
トゥール=ディンも涙をにじませながら、シン・ルウ=シンたちの姿を見守っている。そのかたわらで、クルア=スンは祈るように両手を組み合わせていた。
バードゥ=フォウやその伴侶は、穏やかな笑顔である。
ベイムの家長は仏頂面、その伴侶は和やかな面持ちで――ただし、どちらも同じだけの涙をこぼしていた。
ラッド=リッドやラッツの家長などは、血族の祝いであるかのようにはしゃいでいる。ディック=ドムやラー=ルティムは厳格なる面持ちで、レム=ドムは満足そうな笑顔、モルン・ルティム=ドムはうっすらと涙をにじませつつも、やっぱり笑顔だ。
「……大丈夫ですか、マルフィラ=ナハム?」
と、遠からぬ位置に陣取っていたレイ=マトゥアの声が、大歓声の隙間から聞こえてきた。
見ると、マルフィラ=ナハムはふにゃふにゃと笑いながら涙をこぼしてしまっている。俺がマルフィラ=ナハムの涙を見るのは、これが初めてかもしれなかった。
そしてさらにその向こう側に、俺は思いも寄らぬ姿を見つけてしまった。
デイ=ラヴィッツが自分の顔を右手でわしづかみにしながらうつむいて、背中を大きく震わせていたのだ。その伴侶たるリリ=ラヴィッツはやわらかく微笑みながら、その震える背中を撫でさすっていた。
「……存外、お前は心を乱していないようだな」
と、アイ=ファが俺に囁きかけてきた。
そちらに向きなおりながら、俺は「うん」と笑ってみせる。
「でもその代わりに、胸がいっぱいで苦しいぐらいだよ。……シン・ルウ=シンたちは、どんな気持ちなんだろうな」
「そのようなものは、本人にしかわからん。しかし、幸福な心地であることに疑いはあるまい」
俺はもういっぺん「うん」とうなずいてから、広場の中央に視線を戻した。
ドンダ=ルウは、3つ目の分家であった人々の名前をあげ始めている。
それを聞きながら、シン・ルウ=シンは凛然と立っていた。
素肌に狩人の衣を羽織った、雄々しい姿だ。
さげる場所もないため、その手は刀の鞘をわしづかみにしている。それでいっそう、普段よりも勇壮な姿になっていた。
しかし、黒褐色の髪を長く垂らしたその顔は――いつも通りの、優しいシン・ルウ=シンの表情であった。
この夜から、24名もの家人が彼の名を氏として生きていくのである。
それがどれだけ誇らしいことであるか――そして、どれだけの重圧をともなうものであるのか、俺には想像もつかなかった。
だけど、シン・ルウ=シンであれば絶対に力強く乗り越えてくれるだろう。祝宴のさなかにシュミラル=リリンと語っていたときと同じように、俺の中には信頼の気持ちだけが居座っていた。
(おめでとう、シン・ルウ=シン。俺も、誇らしい気持ちでいっぱいだよ)
シン・ルウ=シンの横顔を見つめながら、俺はそのように考えた。
そして、ふとしたはずみで彼の視線を追ってみると――その果てに、ララ=ルウがたたずんでいた。
ララ=ルウもまた、幸福そうに微笑んでいる。
ただ――彼女は誰よりも多くの涙をこぼしているようであった。
だからシン・ルウ=シンは、あんなに優しい眼差しになっていたのだ。
それに気づいた俺は、ついにひと筋だけ涙をこぼすことになってしまったが――胸を満たした幸福な思いに変わるところはなかった。
そうしてルウの集落には、いつまでも祝福を告げる歓声が鳴り響き――森辺には、38番目の氏族が新たに生み落とされたのだった。




