④実食
2014.10/29 文章を修正。ストーリー上に変更はありません。
「よし、完成だっ!」
俺がそう宣言することができたのは、体内時計によると、鍋にギバ肉を投入してからおよそ1時間20分後のことだった。
その間はひたすら灰汁を取り、火の調節をして、肉の固さを確認し、空腹のアイ=ファをなだめ、時にはちょっと真面目な話もしたりして――楽しいながらも悩ましい80分間だった。
家の中には、ギバ肉のたまらない匂いが充満している。
昨晩よりも香り高いと思えるのは、やはり脂身の差異が原因なのだろうか。
まあ、そのような些事はどうでもいい。
とにもかくにも、実食だ!
「お待たせしたな。思うぞんぶん、食ってくれ」
お玉で鍋の中身を攪拌し、まずはアイ=ファの器に注ぐ。
ジャガイモモドキことポイタンの実は、けっきょくのところ、まだ投入していない。
煮始めてから60分後に、薄切りにしたタマネギモドキことアリアと、黒胡椒モドキのピコの葉を投入したのみである。
それでもスープは、白濁している。
半透明の、肉のダシがしっかりと出た、白いスープだ。
そう。こいつは「ギバ鍋」ではなく「ギバ・スープ」と呼ばせていただこう。
よく考えたら、肉でダシを取り、味つけは塩と香辛料だけなのだから、「鍋」よりも「スープ」の名のほうが相応しい、という一面もあるだろう。
「スープ」だったら、具材がタマネギでも問題はない。
ポイタンが見た目通りのジャガイモ味だったら良かったのにな、とさえ思えてくる。
まあ要するに、食事を楽しむには自己暗示も大事ということだ。
ということで、俺の中では『ギバ・スープ』と命名された料理を、親愛なる女主人に進呈する。
「……ポイタンが入っていないと、何だか妙な感じだな」と、アイ=ファは疑り深そうな顔でスープの匂いを嗅いでいた。
まあ、匂い自体は昨日の鍋だって最高だったので、現時点で大した違いは見いだせないであろう。
自分のぶんも注いでから、俺はアイ=ファの正面に腰を下ろす。
「正直言って、これは試作品第一号だからな。俺としても自信満々ってわけにはいかない。こいつを土台にして今後はさらに研鑽を重ねるつもりなので、まあ、率直な感想を聞かせてくれよ」
「……美味いだの不味いだの、そのようなことはどうでもいい。そんな私に感想など求めても、無益だ」
「わかったわかった。……それじゃあ、いただきます!」
アイ=ファは目を閉じ、左手の指先を口もとに持ってきて、すっと横に線を引くような仕草を見せた。
それから、口の中でぶつぶつと何事かを唱える。
もしかしたら、この世界における「いただきます」の合図なのだろうか。昨日はそんな仕草をしていなかった気がするのだが。
でもまあ何だか、嬉しいもんだ。「いただきます」と「ごちそうさま」の概念がない世界なんて、料理人にとってはあまりに物悲しすぎるからな。
何はともあれ。実食である。
まずは、木匙でスープをすくってみる。
透明な脂の膜がきらきらと光る、白っぽい液体。
ところどころに散っている黒い粉末は、ピコの葉だ。
匂いも見た目も、最高である。
しかし、ここまでは昨晩と大差ない。
何度か味見はしてみたが、最終的にはどうまとまったのか。期待を込めて、すすってみると――問題なく、美味かった。
味噌も醤油も使っていない純朴なスープに、ちょっとクセのあるギバ肉の風味と、ピコの葉がアクセントになっている。味は薄めだがコクがあり、やたらめったら食欲を刺激されてしまう。
鍋に注いだ水はけっきょく3分の1ぐらいは蒸発したみたいだから、そうとう入念に煮詰めた計算になる。差し水もしていない。その結果として、ものすごく濃厚な風味と旨味のあるスープを完成させることができたようだった。
では、問題の、ギバ肉だ。
こいつは菜箸代わりの木の棒で固さを確認していただけだから、正真正銘、初の実食である。
骨から削った肉片ではなくスライスしたやつをスープと一緒にすくってみると、象牙色に染まった肉と、白みがかった脂身が、可愛らしくぷるぷると揺れた。
大きさは4センチ四方、厚みは5ミリぐらいに縮んだそいつを、おもいきって口の中に放りこむ。
噛むと、ぷちぷちと肉がほつれた。
柔らかい。想像していた以上の柔らかさだ。
だけど、噛み応えはしっかりしている。
ゼラチン質の脂身と、弾力にとんだ赤身が口の中で融合し、旨味が、ぐんぐんと広がっていく。
ああ。
こいつはやっぱり、上等な食材だ。
熟成もさせていない肉なのに、3年前に食べたシシ鍋にも全然負けていない。
それはもちろん、苦労してさばいたという思いや、肉体的な疲労と空腹感も手伝っての美味さなのだろうが――それでも、評価を変える気にはなれない。
調味料などほとんど使っていないから、肉の旨味がダイレクトに伝わってくる。
野生の肉の、荒々しい旨味。確かな存在感。これこそ、ジビエの真骨頂……なんて、人生でまだ数回しかジビエ料理を味わっていない俺などが言うのはおこがましいのかもしれないが、心の中で主張する分にはかまわないだろう。
アリアの実も一緒に食してみると、昨日よりは少ししんなりとした食感が、スープとしては丁度良かった。
肉やスープと一緒に食べれば、また味の奥行きがうんと増す。タマネギとしては(タマネギではないのだが)辛味よりも甘味の強い種なのだろうか。主張しすぎない味も触感も、ぞんぶんに料理の質を高めてくれている。
(うん。試作品第1号としては、上出来すぎる出来だろう)
そう考えて、正面のほうに視線を戻すと、ちょうどアイ=ファが器を手に立ち上がるところだった。
いつも通りの仏頂面で、無言のまま、かまどに向かう。
もう一杯目をたいらげてしまったのか。
食が進むのはけっこうなことだが、きちんと味わってくれているのだろうかと不安になる。
そうして二杯目を器に注いで、同じ場所に戻ってくる。
その目は、俺を見ようとしない。
ここに至って、俺の中に生じた不安感は抑えきれないレベルにまで膨れあがった。
「なあ、どうかな? 俺としては、けっこう上出来だと思うんだけど」
一口スープをすすってから、アイ=ファは不審げに首を傾げる。
「何がだ? ……私に感想など求めても無益だと言っただろう」
「いやあ、それはそうなのかもしれないけど……」
何だか、骨盤のあたりがムズムズしてきた。
正体の知れない激情が、行き場を求めて鎌首を持ちあげたような感覚である。
怒りか、悲しみか、切なさか、不安感か――その正体は不明なれど、とにかく「負」の感情であることに間違いはない。
「あ、あのさあ、俺が調理に長々と時間をかけたのは、その、もしかしたら、無意味だったかな……?」
アイ=ファは、ますます不審げな顔をした。
それから、ふっと器の中身に視線を落とす。
オレンジ色の炎が、長い睫毛の影を頬にゆらめかせた。
どうしよう。
心臓がむやみに脈打っている。
嫌な予感しか、しない。
「……私にとって、食事に、美味いも不味いもない。食事とは、生きるための手段なのだ」
「……ああ」
「そんな私に、味の感想などを求められても、困る。私はそんなものを語る言葉を持ちあわせていない」
「ああ。そうなんだろうな」
「だけど、はっきりわかるのは……」
と、アイ=ファの面が、ゆっくりと起こされて。
綺麗な青色の目が、真っ直ぐに俺を見る。
「……美味い、というのは、こういうことなのだな」
その桜色の唇が、少したどたどしい感じで、言葉をつむぐ。
「食べる、という行為自体が、楽しくて……心地好くて……幸福な、気持ちになる。これが、美味いものを食べる、ということか」
俺は、言葉が出なかった。
アイ=ファは、ちょっとだけ苦しそうに眉根を寄せる。
「お前が料理などというものに情熱を傾けて、馬鹿みたいに真剣になる理由は、わかった。……わかったと、思う。本当はわかっていないのかもしれないが、少なくとも、お前の行動を否定しようという気持ちにはなれない」
「アイ=ファ……」
「語るべき言葉が見つからないのだ。これ以上は説明できない。だけど、お前は正しいことをしたのだと思っている」
そしてアイ=ファは、ほんのちょっとだけ……その可憐な口もとをほころばせた。
「だから、そのように苦しそうな顔をするな。この料理は、美味い」
俺はひとつうなずき返してから、後はもう無言で食べるのに没頭した。
何だか、わけがわからない。
腹の奥底に生じた不安感の塊みたいなものはきれいさっぱり霧散し果てたというのに、今度は首の裏が熱くなり、背筋が寒くなってきた。
油断をすると、胸が詰まりそうになる。
たぶん――俺は、無茶苦茶に嬉しかったのだ。
そして、無茶苦茶に情動を揺さぶられてしまったのだ。
俺はきっと、自分で想像していたよりももっと強く、奥深い部分で、アイ=ファに自分を認めてもらいたい、と願っていたのだろう。
まだこの世界ではたったひとりの理解者であるアイ=ファに。
生命の恩人であるアイ=ファに。
偏屈者で、直情的で、男みたいに荒っぽいかと思えば、今までに見てきた誰よりも優しくて、おそらくは心の深い部分に傷を抱え、誰にも頼らず独りで生きていこうとする、強くて、綺麗で、勇猛で、繊細な、このアイ=ファという謎めいた女の子に――俺は、俺の存在を受け容れてほしい、と願っていたのだ。
(くそっ……だけど、俺はまだまだこんなもんじゃねえからなっ!)
何故か敵愾心みたいな感情まで誘発されてしまい、俺はギバの肉を乱暴に咀嚼する。
俺の闘いは、まだ終わっていないのだ。
その決意も新たに、憎き敵をにらみすえる。
かまどの横にごろんと転がった、ジャガイモモドキ――ポイタンの実を、である。




