⑨青の月14日~敢行~
2014.12/20 更新分 1/1
2015.3/3 誤字を修正
翌日――というかその日の夜が明ける前から、森辺には厳戒態勢が敷かれることになった。
ザッツ=スンとテイ=スンが逃走した、という凶報が、北の集落から森辺の全域にまで通達されたからだ。
相手は、人間の咽喉を噛みちぎり、集落に火を放つような凶賊である。もはやそのような凶賊は、同胞などとも呼び得ない。ザッツ=スンとテイ=スンの両名は生死を問わず捕縛せよ、という令が発せられ、夜が明けると同時に男衆の半数は森に散り、残りの半数は家を守ることになった。
さらには、守るのではなく見張るべき人々も存在する。
言わずと知れた、スン家と、かつてスン家であった人々だ。
ザッツ=スンらが彼らの身柄を奪おうと企む可能性は、ゼロではない。特に、これまでは自由を与えられていた分家の男衆たちはひとつの家に閉じこめられて、その身柄を拘束されることになった。
スンの集落に居残っていた者たちばかりではない。眷族に引き取られた男衆たちも、それは同様である。
恭順の意志を認められて自由を得た彼らではあるが、ひとたびザッツ=スンを前にしたら、どのような行動に出るかわからない――ディガやテイ=スンたちの行動によって、そんな警戒心をかきたてられてしまうのは道理であっただろう。
しかし、その中にはトゥール=ディンの父親なども含まれている。
せっかく新しい氏を得て、森辺の民として正しい道を歩みだそうとしていたその矢先に、また身柄を捕縛され、スンの集落に引き戻されてしまったのだ。
父と娘、どちらの心情を思いやっても、胸が苦しくなってしまう。
そして、かつてスンの本家であった人々も、見張りやすい環境に身柄を移されることになった。
ヤミル=レイ、オウラ、ツヴァイ、ミダは、ルウの家に。
かろうじて首を刎ねられることもなく虜囚と成り果てたディガとドッドは、ズーロ=スンとともに、ザザの家に。
そうして、スンとルウとザザの集落には特に戦力が集められ、家人を守り、罪人を見張るとともに、ザッツ=スンらを迎撃する態勢が整えられた。
そして、我らがファの家は――
なんと、森辺の精鋭に守られつつも、宿場町における商売を敢行する段と相成ってしまったのだった。
◇
「――おい、これはどういうことなんだ?」
ミラノ=マスが、険悪な目で俺たちを見回していく。
それも無理からぬことであろう。今日の俺たちは普段の倍の人数であり、しかもその増員分はすべて森辺の狩人たちだったのだ。
護衛に選出されたのは、4名。
アイ=ファ、ルド=ルウ、シン=ルウ、ラウ=レイである。
少しでも人心を騒がせまいと、年若く面立ちも柔らかい狩人たちが選出されたわけだが、やっぱり刀を下げた男衆というだけで心象は大きく変わってしまうのだろう。ルド=ルウたちをにらみすえるミラノ=マスの瞳には、ほとんど敵意に近いぐらいの不穏な光が宿ってしまっていた。
「すみません。これにはちょっと事情がありまして――」
「事情だと? いったいどういう事情なんだ? 商売に刀など必要ないだろうが?」
「はい。たぶんそろそろジェノスの城からも通達があると思いますが。実は、森辺の大罪人が脱走して野に放たれてしまったのです」
俺がそう応じた瞬間に、ミラノ=マスの目は驚愕に見開かれた。
「森辺の、大罪人……だと?」
「そうです。森辺の掟とジェノスの法の両方を破った大罪人が2名、姿を消してしまいました。俺たちはかつてその大罪人らと悪い縁を結んでしまったことがあるので、護衛役として彼らが付き添うことになってしまったのです」
本来であれば、このような日に商売を続けるべきではないはずだ。
だけど俺たちは、他ならぬジェノスの権力者に「休むべきではない」と命じられてしまい――こうしてのこのこと宿場町に下りることになってしまったのだった。
◇
「え? それはどういうことなのですか?」
その話を聞いたときは、俺も驚いてそのように反問する羽目になった。
反問した相手は、ガズラン=ルティムである。
彼自身の提案により、スン家の2名が逃亡したという話は、包み隠さずジェノスへと通達されることになったのだった。
その判断自体は、正しかったと思う。これは森辺の民にとって恥ずべき事態であるが、だからといって都合の悪い事実を隠蔽していては正常な関係など構築できるわけもない。また、逃げた2名が森辺の外で悪行でも働いたら、もっと不名誉な形でその事実が知れ渡ることになってしまう。
誇りを重んずるならば、なおのことすべてを打ち明けるべき――ガズラン=ルティムはそう主張して、三族長もその意見を汲むことになった。
そうして昨晩の凶事はジェノス城にも通達されることになり、ザッツ=スンとテイ=スンの両名は、西の王国セルヴァ公式の「罪人」として発布されることになったのだが――
「それを理由に、宿場町の商売を取りやめる必要はない。むしろ、取りやめることこそが不必要に人心を騒がせ、ジェノスに仇を為す行為になるだろう。……サイクレウスは、そのように言っていました」
「どうしてでしょう? 俺には今ひとつその言葉の真意がつかめないのですが」
三族長からの使者として、日の出を少し過ぎたぐらいにファの家へとやってきたガズラン=ルティムは、終始沈痛な面持ちをしていた。
「真意――それは私にもわかりません。森辺から罪人を出したこの時期に商売を取りやめれば、痛くもない腹を探られることになる。そのまま一切商売に手をつけぬ覚悟があるならばかまわないが、そうでないならば毅然とした態度でこれまで通りに振る舞うべきではないか、とサイクレウスはそのように申し述べていました」
「うーん、今ひとつ筋が通っているようないないような……それでも、逃げた2名がファやルウの人間を襲う可能性がゼロでない以上、宿場町に下りるのは控えるべきではないですかね? 何より、宿場町の人々が危険にさらされることになってしまうではないですか?」
「はい。私もそのように応じたのですが、そうすると今度は、宿場町を警護する衛兵の力を見くびるのか、と逆上してしまい――思うに、サイクレウスは衛兵の手によって凶賊たちが捕らえられることを望んでいるのかもしれません。アスタたちが商売を続けなければ、凶賊が町に下りる可能性もきわめて低くなってしまうので、それで執拗に商売を続けるように主張しているのではないか、と――あくまで、私の印象ですが」
その印象は、正しいのかもしれない。
そうでなければ、城の人間が屋台の商売などに関与してくる必要はないだろう。
こちらの不始末で野に放つことになってしまった罪人を、ジェノス側で捕らえることができれば、また今後の話し合いの主導権を握ることも可能になる――などと考えたのではないだろうか?
さらに俺は、もっと不吉な想像までしてしまった。
「あの、ザッツ=スンの逃亡そのものが、ジェノスの陰謀の一環だ、なんてことはありませんよね?」
「それは、ありえないと思います。ジーンの家長も、まさかあそこまで弱り果てていたザッツ=スンが自力で逃亡を企てるとは想定できていなかったのでしょう。……それでも、家の内と外に1名ずつ寝ずの番をつけていたのですが、ザッツ=スンはまず家の内にいた男衆の咽喉を噛みやぶり、その刀を奪って外の男衆をも討ち倒して、森の中に逃げこんだそうです。これは一命を取りとめた本人たちから得られた言葉ですので、疑う余地はありません。ザッツ=スンは、誰の手を借りることもなく、ひとりで逃亡を果たしてしまったのです」
「そうですか……」
これが、森辺の民を苦境に立たせようとするサイクレウスの陰謀などではない、というのはありがたい話である。
しかし、その反面、瀕死の状態であったはずのザッツ=スンが、ザザやドムにも劣らない屈強なるジーンの男衆を討ち倒して逃げた、というのは――背筋の寒くなるような話であった。
いったいどれだけの妄執を抱えこめば、そのような所業が可能になるのだろう。
ともあれ、いま俺たちが頭を悩ませなければならないのは、城の人間に対してであった。
「町の民は衛兵が守る。森辺の民は森辺の民が守ればいい。そうしておたがいが力を惜しまなければ、凶賊などは恐るるに足りない。サイクレウスは、そのように言って笑っていました」
凶賊。
ザッツ=スンとテイ=スンは、今後その名で呼ばれることになった。
ジェノスの法をも破った大罪人として、である。
ザッツ=スンの罪は、3つ。
モルガの森の恵みを荒らした罪。西の民を傷つけた罪。火つけの罪。
森辺の民とは西方神セルヴァに魂を捧げたれっきとした西の民であるし、その集落も、西の王国の領土である。
ゆえに、都の法に照らし合わせれば、森辺の同胞を傷つけるのは町の人間を傷つけるのと同一の罪であり、森辺の集落に火を放つのも町の建物に火を放つのと同一の罪として認められる、ということだ。
火つけの罪は、重い。
ジェノスにおいて、それは殺人よりも重い最上級の大罪のひとつだった。
捕まれば、死罪である。
そしてテイ=スンの罪は、現時点ではひとつ。
森の恵みを荒らした罪のみである。
ドムの家から逃亡した件は、森辺の掟には反していても、都の法には触れていない。ジェノスの牢獄から逃げたのならば逃亡罪となるが、公的な拘束力を持たない森辺の集落から逃げだしたところで、ジェノスにその罪を問うことはできないのだ、という。
ただし、今後テイ=スンがザッツ=スンの行動に力を貸すことがあれば、それは大きな罪となる。
また、ディガやドッドの証言により、自らの意志でザッツ=スンと行動をともにしている可能性は限りなく高いので、現時点でもすでに大罪人の逃亡幇助の疑いをかけられている。
テイ=スンへの罰は、今後の行動によって大きく変動する、ということだ。
そして、1度は剥奪されたスンの氏も、その身の罪とともに返されることになった。彼はもはやドム家の家人テイではなく、スン家の大罪人テイ=スン――なのである。
「……最終的に、それでもなお商売を続けられないと言い張るのならば、今後は一切ギバの料理など売らず、これまで通りに森辺の中で静かに暮らすべきであろう、と言い渡されました。――力が及ばず、申し訳ありません」
と、ガズラン=ルティムが無念そうに頭を下げ始めたので、俺は大いに慌てることになった。
「ガ、ガズラン=ルティムが頭を下げる必要はありませんよ! ……だけどそれは、決定事項なんですか? 商売を続けたいなら今日は休むな、休むならば2度と屋台を出すことは許さない、という――それはジェノス城からの『命令』なのですかね?」
「自分は森辺の民に命令を下す立場ではない。しかし、不服であるならば今すぐにでもジェノス侯マルスタインからの了承を取りつけてきてやろう、と述べていました」
それは、あまりに強硬的な言い様であった。
サイクレウスは、そうまでしてザッツ=スンの身柄を自分の手で押さえたいのだろうか。
「……族長たちの意見はどうなのでしょう? それで異論はないのですか?」
「はい。族長たちは、ザッツ=スンがわざわざ宿場町などを襲撃の場所に選ぶ理由がない、という考えでいましたので……そこまで強情に言いたてるサイクレウスに逆らう気にもなれなかったのでしょう。こちらには、ザッツ=スンをみすみす取り逃がしてしまったという負い目もありましたし……」
言いながら、ガズラン=ルティムは彼らしくもなく、口惜しそうに拳を握りこんだ。
「しかし、私は不本意です。サイクレウスの考えが読めないので、それが不気味に感じられてしまうのです」
不気味――というか、不明瞭な話ではある。
しかし、何にせよ、君主筋の相手にそこまで言われてしまったら、拒否権などは存在しないのだろう。
それがもっと理不尽な命令であったなら、それこそドンダ=ルウやグラフ=ザザが黙っていなかっただろうが、サイクレウスは「後ろ暗いことがないならば、商売を休む必要はない」と言っているだけなのだ。なおかつ、町の民は衛兵が守る、とまで言っているのだから、族長たちにその提案を強く拒む理由はなかったに違いない。
だけど――俺のほうは、そうはいかなかった。
万が一にもザッツ=スンたちが宿場町に下りてきて、衛兵たちの力が及ばなかったら、町の人々が害される危険性が発生するのである。
責任の所在うんぬんではなく、そのような事態が許されていいはずはない。
だけどこれは、実質上の「命令」だ。
それを拒むのであれば、宿場町での商売をあきらめる他に道はなくなる。
俺は大いに煩悶することになり――
そして、かたわらに座っていたアイ=ファに頭を小突かれた。
「何を思い悩んでいるのだ、お前は。まさかこれしきのことで、今までの苦労をすべて泡にしようというつもりなのではなかろうな?」
「いや、だけど――」
「お前たちの身は、私たちが守る。そして、手の及ぶ範囲であれば、町の人間をも守ってみせよう。恥ずべき罪人どもなどに、決してお前の仕事の邪魔はさせない」
口調はいつも通りであったが、アイ=ファの瞳には壮烈なまでの覚悟の光が宿っていた。
そうして俺たちは、慌ただしく仕事の準備に取りかかり、こうして昨日までと同じように宿場町に下りることになったのだった。
◇
そして、現在である。
ミラノ=マスは、かすれた声で反問してきた。
「森辺の大罪人……森辺の人間が、罪人として追われているのか……」
「はい。今日の中天までにはその名前と人相書きが発布されるはずです」
森辺の民が罪人として告発されるのは数十年ぶりの出来事である、という話だった。
そして、この近年においては、森辺の民が罪を犯しても城の人間に擁護されてしまう、という話がまことしやかに囁かれていた。
ミラノ=マスの親友の死も、そうしてうやむやにされてしまったのだ。
ミラノ=マスの現在の心境は、如何なるものであろう。
森辺の民が正しく罪人として扱われる、という喜びと、それならばなぜ自分の親友の死は見過ごされてしまったのか、という無念の思いと――俺だったら、そんな相反する気持ちで、無茶苦茶に胸中をかき乱されてしまうと思う。
ミラノ=マスはしばらく黙りこくったのち、やがて感情をおし殺した目つきでもう1度俺たちの姿を見回してきた。
「事情はわかった。……それで、城の連中はお前たちに商売を続けろと命じてきたわけだな?」
「はい。俺としては騒ぎが収まるまで自粛するべきではないかとも思うのですが――」
「ふん。体のいい囮役というわけか。城の人間が考えそうなことだ」
そう言い残して、ミラノ=マスは立ち去ってしまった。
宿屋の裏手、いつも通りに準備された2台の屋台の前で、俺たちをおたがいの目を見交わす。
「何だ、もっとぎゃーぎゃー騒がれるかと思ったのに、案外すんなり収まっちまったな。どんなに気に食わなくても、城の人間には逆らえねーってことか」
と、ルド=ルウが拍子抜けした様子で肩をすくめやる。
そういえば、ルド=ルウも1度だけミラノ=マスと顔を合わせたことがあるのだ。
俺は溜息を噛み殺しつつ、出発の宣言をあげることにした。
「それじゃあ行きましょう。少し遅くなってしまったので、お客さんたちがやきもきしているかもしれません」
そうして俺たちは、今日も石の街道に繰り出した。
総勢8名の大人数である。
まだ凶賊について大々的な告知はされていないはずであるが、やはり注目度は普段の比ではない。どんなに見目のよい若衆を取りそろえたところで、狩人は狩人なのだ。蔑みよりも怖れの度合いを増した目線が、あちらこちらから突き刺さってくる。
(本当にこれで良かったのかな……)
そんな思いを、なかなか消し去ることができない。
凶賊――ザッツ=スンの行動を、まったく予測することができないからだ。
すでにまともな精神状態とは思えないザッツ=スンであるが、その行動にそれほど多くの選択肢はないはずであろう。
今さら何をどうあがいたって、スン家が族長筋としての権威を復活させるすべなどあろうはずもない。ならば、長年の敵対勢力であり新たな族長筋として認められたルウ家か、眷族でありながらスン家を見捨てたザザ家か、あるいはスン家の大罪を暴いたファ家か――それらの氏族に凶刃を向けてくる可能性は高いと思う。
そんな俺たちが宿場町に下りてしまっていいのか?
宿場町の人々を危険にさらすことにはならないのか?
常識的に考えれば、白昼堂々、宿場町で商売をしている俺たちを襲撃することなど、ありえない。それならば、せめて衛兵のいない宿場町までの道行きで襲いかかってくるのが必然であろう。
しかし、森辺の同胞を傷つけたあげく集落に火を放つような人間に、正しい損得勘定が可能であるかは疑わしい。
俺たちの身は守られても、町の人々が巻き添えになってしまったら――そんな風に考えたら、自然に重苦しい気持ちになってしまう。
ミラノ=マスや、ドーラの親父さん、ターラ、シュミラル、おやっさん、アルダス、ユーミ、ナウディス、と――この町で知己を得た彼らに災いを招き寄せてしまうなんて、そんな事態には絶対に耐えられない。
まさか、このように重い気持ちで屋台の仕事をこなさねばならない日が来ようなどとは、俺は夢にも思っていなかった。
そのとき――「あっ!」と、大きな声があがった。
瞬時に俺は緊張したが、慌てているのは俺ひとりだった。
何か異変が生じたわけではない。というか、俺たちのほうが町に異変をもたらした立場であるのだ。
いつもの場所でちょこんと親父さんの隣りに座っていたターラが、びっくりまなこで俺たちを見つめている。驚きの声をあげたのは、そのターラだった。
「やあ、ターラ。それに親父さんも、どうも。……今日も野菜をお願いします」
「あ、ああ。昨日と一緒でいいんだね? 赤銅貨8枚だよ」
常ならぬ狩人らの同伴に親父さんは少し顔色をなくしていたが、それでも笑顔を浮かべてくれていた。
ターラのほうも、そこまで恐怖心をあらわにしているわけではない。ただ、幼き少女は少し緊張した面持ちでルド=ルウをじーっと見つめていた。
「……ああ、ずーっと前に会ったちびっこか。相変わらずちびっちぇーな、お前」
ルド=ルウがにっと笑いかけると、ターラもおずおず微笑んだ。
「あ、あのね、ちょっと前にリミ=ルウとお話したんだよ? あなたはリミ=ルウのお兄ちゃんなんでしょ?」
「あー、知ってる知ってる。あいつ、晩餐のときにすっげーはしゃいで喋ってたもん。ちびっこ同士、気が合うんだなー」
年少者たちの心温まる再会の情景を横目に、俺はドーラの親父さんに顔を寄せる。
「あのですね、もうじきに城のほうからもおふれがあるはずですが――」
そうして俺は、おおまかな事情をドーラの親父さんに伝達した。
親父さんの面から、いっそう血の気が引いていく。
「そ、そいつは一大事だね。森辺の民の大罪人か……」
「はい。その連中が町の人たちに危害を加える理由はありませんが、骸骨みたいに痩せ細った男や、灰色の髪をした年配の男がいたら、絶対に近づかないでください」
「わ、わかったよ。こんな風に言ったら何だが、森辺の民なのに城の連中にも罪人だと認められるってことは、相当に凶悪な連中なんだろう。今日はターラをひとりで出歩かせないようにするよ」
「ええ。知人の方々にもこの話を伝えてくださるとありがたいです。ところで、それとは別に聞いておきたいことがあるのですが――」
俺は、昨晩に生じた疑念もここで解消してしまうことにした。
すなわち、森辺の民による悪行とは、具体的にいつ頃の時代に為されたものなのか、という疑念だ。
「ええ? いつ頃と言われてもなあ……無法者は、今でも町で騒ぎを起こしているだろう?」
「それは、酔った森辺の民が町の人を傷つけたり、気にくわない屋台を壊したり、という騒ぎですよね。俺が知りたいのは、女性をかどわかしたり農作物を奪ったりっていう、もっと重い罪の話なのです」
「うーん、そうだなあ……まあ、うちで農作物を奪われたってのは、うんと昔の話だね。ターラが生まれるよりは昔だったと思う。それ以外の話は、俺も噂で聞くだけだったから――正確な話は、城の人間にでも聞かないとわからないんじゃないかな」
「城の人間ですか?」
「ああ。泣き寝入りした人間も多いとは思うが、たいていは衛兵に届けを出しているはずだからね」
それは、難しいかもしれない。
森辺の民の悪行を放置していた、などという旧悪を暴かれるのは、城の人間にとっても隠し通したい事項であるはずだ。
「なあ、アスタ。あまり厄介なことには首を突っ込まないでくれよ?」
と、ドーラの親父さんがふいに俺の腕をつかんできた。
「アスタたちが悪い人間じゃないってことは、もうわかってる。俺なんかには、それで十分なんだ。罪人の始末なんかは衛兵どもにまかせて、アスタは今まで通り仕事に励んでおくれよ」
「……ありがとうございます。そんな風に言っていただけて、とても嬉しいです」
そんなありきたりの言葉しか言えなかったが、俺は本当に、胸が詰まるぐらい嬉しかった。
そうして親父さんの店を後にすれば、目的地ももう目と鼻の先だ。
すでに人だかりができているのが、わかる。
そして――そこに普段よりも数の多い衛兵たちが立ちはだかっているのも。
「うわ。けっこうまずそうな雰囲気じゃない?」と、ララ=ルウがこっそり耳打ちしてくる。
確かに、穏やかならぬ雰囲気であった。
その場に集まった人々が、血相を変えて衛兵たちに詰め寄っているのだ。
そうして、俺たちが近づいていくと――革の兜の天辺に房飾りをつけた1番えらそうな衛兵が、「遅いぞ、貴様たち!」と、がなり声をあげた。
今日は普段よりもうんと早くファの家を出たのだが、ルウの集落を経由して一緒に町まで下りてきたため、30分ばかりも遅刻することになったのだ。
といっても、営業時間を定めるのは屋台の主人の権利である。衛兵に叱責される筋合いはない――などとも言ってはいられないので、俺は素直に「すみません」と頭を下げておくことにした。
「すぐに準備をしますので、少々お待ちください」
すると、奇妙なことが起きた。
その場に集まっていたうちの、3分の1ぐらいの人々が、すうっと逃げるように離散してしまったのだ。
その不自然な人々の動きに、俺はハッとさせられた。
そうして立ち去ろうとする人々は、いずれも黄褐色か象牙色の肌をした西の民たちであり、そしてその顔には――いずれもまぎれもない敵意や恐怖の表情が浮かんでいたのである。
6名ばかりもいた衛兵たちは、その姿を見届けてから、自分たちもきびすを返した。
「話は終わりだ。これ以上の文句はなかろう? あまり面倒を起こすようなら、本当に捕縛してやるからな?」
衛兵の長のその言葉は、その場に居残ったお客さんたちに向けられたものだった。
お客さんたちは不平に満ちみちた顔つきで黙りこみ、衛兵たちは、北の方角へと足を向ける。普段ならば詰所のある南側に向かうはずだが、彼らがこのまま宿場町の北の入口を警護する役を担うのだろう。
しかし、わずか6名で凶賊どもの襲撃に対抗することなど可能なのだろうか。
こちらの警護役は4名だが、衛兵6名にそれと同じ働きができるなどとは、とうてい思えないのだが。
それに、俺たちが通ってきた森辺からの道の出入口には、2名ばかりの衛兵しか立ってはいなかった。
勇猛で知られる森辺の民とはいえ、病人と初老の男が相手であるならばこれで十分――とでも思っているのだろうか。
まあそれ以前に、凶賊どもが町に下りてくるとしても、切り開かれた道などは使わずに、森の中を抜けてくるだろうが。それにしても、暗澹たる心地に拍車がかかるのは止めることができなかった。
「やあ、騒がせちまって悪かったな。気にせず商売の準備をしてくれ」
と、屋台を定位置まで進めたところで、アルダスに笑いかけられた。
アイ=ファやルド=ルウたちに向けられる視線がそれほど警戒したものではないことにほっとしつつ、「いったい何があったんですか?」と俺も問うてみる。
「ああ。いつもの通りにお前さんの屋台を待ってたら、あの衛兵たちがやってきてね。森辺の民の罪人が逃げ出して、この屋台にも近づいてくるかもしれない、生命の惜しい者はここから立ち去れ、とか言いだしたんだよ」
「……そうだったんですか」
ひどく乱暴で不親切な説明だが、正式な発表がなされるまで何も説明しないわけにもいかないので、必要な措置であったと思うしかない。
しかし、森辺の民には「商売を続けよ」と命じ、町の人々には「立ち去れ」と警告する。それはいかにも場当たり的で、指揮系統の混乱っぷりを露呈しているように思えてならなかった。
それとも――すべてがサイクレウスの思惑通りなのだろうか。
俺たちに望んでいるのは囮役として役割だけであり、森辺と宿場町の確執などどうでもいい、ということなのだろうか。
疑いだしたら、何もかもがあやしく思えてきてしまう。
「で、俺たちは気にせず並んでいたんだが、そいつを通りすがりの西の民が聞きつけちまったらしくて、そんな危険な連中を町に入れるなと騒ぎだしたんだよ。それで頭にきた南の同胞がそいつらに食ってかかろうとしたもんだから、よけい騒ぎが大きくなっちまったってわけだ」
聞けば聞くほど胸の重くなる話だ。
しかし、アルダスは豪快に笑っていた。
「そんな顔しないでくれよ。俺たちが取りなしたから、誰も衛兵にしょっぴかれたりはしていないよ。騒ぎを起こしたら美味い飯を食えなくなっちまうぞと怒鳴ってやったら、こっちの連中はみんな大人しくなっていたからな。最後まで騒いでいたのは、みんな西の連中さ」
「ふん。どうにも西の民というのは肝が小さくてかなわんな。商売相手としてはやりやすいが、こういう際には焦れったくてかなわん」
と、アルダスの巨体に隠れていたおやっさんが、ひょこりと姿を現す。
「凶悪な罪人といっても、たかだか2人なのだろう? どうしてそんな連中のために、俺たちが美味い食事を我慢しなくてはならんのだ。まったく馬鹿げている」
「……だからって、おやっさんも少しは立場をわきまえてくれよ。おやっさんがしょっぴかれたら、この後の仕事も立ち行かなくなっちまうじゃないか?」
苦笑混じりにアルダスが言うと、おやっさんは「ふん!」と盛大に鼻を鳴らした。
「そんなことより、もっと大事な話があるだろうが! おい、小僧!」
「は、はい!」
「宿の食事を食わせてもらったぞ! 果実酒まで合わせたら、赤銅貨を7枚もつかうことになってしまったわ!」
「え? 料理は赤銅貨5枚ではなかったのですか?」
「果実酒が1本では足りなかったのだ! 何なのだ、あの料理は!?」
「……お気に召さなかったでしょうか?」
心配になってそう問うてみると、「そんなわけあるか!」と、いっそうの大声で応じられてしまった。
「あんまり大きな声を出すなよ、おやっさん。また衛兵がやってきちまうぞ?」
「あんな連中はどうでもいいわい! あのなあ、タウ油が使えるなら最初から使え! 何なのだ、いったい!? 俺たちの心をかき乱して面白がっているのか、お前は?」
「そ、そんなつもりはありません。《南の大樹亭》にお邪魔するまで、俺はタウ油の存在を知らなかったのです」
「なに? それじゃあ、初めて使ったタウ油であんな美味い料理を作りあげたってのか?」
と、アルダスまで仰天したように目を丸くした。
つけあわせのティノを刻みつつ、俺は首を横に振ってみせる。
「いえ、俺の故郷にもタウ油とよく似た調味料は存在したので、それであの献立を選んだんです。お気に召していただけましたか?」
「お気に召したよ。タウ油は俺たちにとっても故郷の味だからな。……いや、故郷でもあれほど美味い料理を食べたことはなかったよ」
と、アルダスはとても満足そうに笑ってくれた。
その横から、おやっさんが「おい」と身を乗り出してくる。
「そういえば、俺はお前の名前を知らない。俺は、ネルウィアのバランだ」
「俺は森辺の民、ファの家のアスタです」
「ファの家のアスタか。……アスタ、もしもジャガルに出向くことがあれば、必ずネルウィアを訪ねろ。建築屋のバランと言えば、たいていのやつには通じるはずだ」
「ええ? は、はい」
「……それとな、家を建てる用事があったら、そのときも必ず連絡を入れろ。どの建築屋よりも安い値でどの建築屋よりも立派な家をこしらえてやる」
そう言って、おやっさんは腕を組み、尊大な感じで胸をそらした。
「で、いつになったら料理はできるのだ? いつも以上に待たされて、こっちは腹がぺこぺこなんだ!」
「はい! 今すぐに!」
おやっさんたちは、相変わらずだった。
いや、《南の大樹亭》における商売がスタートしたことによって、今まで以上の好意と親しみを向けてもらえている気がする。
その後ろに並ぶお客さんたちの数にも、変化はない。
豪放磊落な南の民と、沈着冷静な東の民にとっては、ザッツ=スンの一件など取るに足らない、ということか。
だけど――やっぱり、西の民とは溝が深まってしまった気がする。
ドーラの親父さんなどは俺なんかの身を案じてくれたし、もともとギバの料理に手をつけてくれていた人々などは、そこまで態度を硬化させることもないかもしれないが。しかし、いまだ森辺の民への不審感を解消できずにいた人々にとって、今回の凶報は、小さからぬ出来事であるだろう。
(だけど、それでも――やると決めたら、やりぬくしかない)
森辺から、罪人を出してしまった。その恥と不名誉をしっかりさらけだしつつ、俺たちは、身体を張って自分たちの無実を表明する必要があるのかもしれない。俺たちに、後ろ暗いところはないのだ、と。
はからずも、それはサイクレウスの提示してきた建前の部分とかぶっていたかもしれないが。スン家の堕落を見過ごしてきた責は、森辺の民にも存在するのだ。そう考えれば、この一件も森辺の民に与えられた試練――贖罪の道なのかもしれない。
「……アスタ。そのように思いつめた顔をして美味い料理が作れるのか?」
と、かたわらに立ったアイ=ファがそっと耳もとに口を寄せてきた。
「何も案ずることはない。凶賊が現れたら、私たちがすみやかに始末してやる」
いつのまにか、ルド=ルウたちは背後の雑木林にひっこんでおり、その場にはアイ=ファしかいなかった。
アイ=ファの果敢な表情を見つめ返してから、俺は「ああ」と、うなずいてみせる。
「それじゃあ、シーラ=ルウ、お願いします」
「はい」とシーラ=ルウが鉄板にアリアを投じ入れ、その日の商売は開始された。