試食の祝宴⑤~東と南の手腕~
2023.8/12 更新分 1/1
「では次は、トゥール=ディン殿の菓子をいただくことにいたしましょう! アスタ殿は、またのちほど!」
と――俺とアイ=ファは、いきなりその場で放り出されることに相成った。
ダカルマス殿下を先頭にした一団は、トゥール=ディンの卓を目指して大広間を横断していく。てっきりそちらにも同行を求められるかと思っていたが、ダカルマス殿下も俺の存在を独占しないように思いやってくれたのかもしれなかった。
そうして俺とアイ=ファがぽつねんと立ち尽くしていると、ここぞとばかりに周囲の人々が寄り集まってくる。そこは巻き寿司とチャンプルーを配っている卓のそばであったため、おおよその人々は驚きや昂揚のさなかであったのだ。
「アスタ殿! 今日も素晴らしい手腕でありましたが、こちらの料理にはひときわ驚かされましたぞ!」
「わたしもダカルマス殿下とご同様に、いささかならず困惑しておりました! 甘酸っぱいシャスカはもちろん、魚卵という食材を口にするのも初めてでありましたからな! これほど物珍しい料理を口にしたのは、初めてであるかもしれません!」
「ああ、アイ=ファ様! 今日も麗しきお姿です!」
と、どさくさまぎれで若き貴婦人までもが寄り集まってくる。
しかしアイ=ファはさりげなく俺のもとに身を寄せて、腰の帯をしっかりと握り込んでいた。いつもであれば分断されてしまうところであるが、本日は森辺の同胞と行動をともにしていなかったため、俺の身を遠ざけまいと考えたのだろう。その結果、俺たちはしばらく一緒に貴婦人や貴公子や料理人の猛攻を迎え撃つことになったのだった。
そうして5分ばかりも奮闘していると、ようやく包囲網がほどけてくる。
すると、満を持したかのように見慣れた人々が近づいてきた。ヴァルカスとシリィ=ロウ、ネイルとジーゼ、マルフィラ=ナハムとラヴィッツの長兄、レイ=マトゥアとマトゥアの長兄という顔ぶれだ。
「アスタにアイ=ファ、お疲れ様でした! さすがに今日は、いっそうの勢いでしたね!」
まずはレイ=マトゥアが、元気いっぱいに笑いかけてくる。森辺の民は4名とも、セルヴァ伝統のゆったりとした宴衣装だ。
「アスタたちが来るまでは、わたしやマルフィラ=ナハムも質問責めであったのですよ! それで最後まで食い下がっていたのが、こちらのヴァルカスであったというわけですね!」
「ああ、なるほど。ふたりにもお世話をかけちゃったね」
俺はレイ=マトゥアたちに笑顔を送ってから、ヴァルカスに向きなおった。
ヴァルカスもシリィ=ロウも、瀟洒な宴衣装の姿だ。ヴァルカスのこのような姿を見るのも、やはり礼賛の祝宴以来であろう。ヴァルカスも顔立ちは端整なほうであったので、そんなぼんやりした表情をしていなければもっと凛々しく見えるのだろうと思われた。
「アスタ殿は、どういった経緯でこちらの料理を考案することになったのでしょう?」
と、前置きもなしに、ヴァルカスがそのように問うてきた。
「えーと、こちらの料理というのは、シャスカ料理のほうでしょうか?」
「無論です。カザックや凝り豆を使用した料理も素晴らしい出来栄えでありましたが、アスタ殿の作法に慣れ親しんだ現在であれば目新しさもありません。ですが、シャスカ酢を主体にしたシャスカ料理というのは……きわめて珍妙であるように思います」
ヴァルカスにまで珍妙と称されるのは、なかなか意想外な話である。俺も忌憚なく、言葉を返すことにした。
「こちらの料理は、そんなに珍妙でしたか? ヴァルカスの作りあげる料理に比べれば、実にささやかな細工であるかと思うのですが」
「確かに、細工は少ないでしょう。なおかつこちらの料理は、きわめて危うい均衡で味の調和が保たれています。そこにどのような筋道が存在するのか、わたしには見当もつかないのです」
茫洋とした面持ちで、ヴァルカスはそのように言葉を重ねた。
「これがもっと入り組んだ料理であったならば、べつだん疑念など抱かなかったことでしょう。しかしこちらの料理は、きわめて簡素です。簡素であるがゆえに、不可思議であるのです。どうしてアスタ殿は、シャスカにシャスカ酢を投じようと考えたのでしょうか? アスタ殿は最初から、この奇妙な調和を目指して試行錯誤することになったのでしょうか?」
「いえ。これももともと、俺の故郷に存在した料理の模倣なのですよ。シャスカ酢ならこの料理に合うだろうと思って、手掛けたに過ぎません」
「では……何故にアスタ殿の故郷では、このような料理が誕生したのでしょうか?」
「それはおそらく、保存のためですね。ヴァルカスもご存じでしょうけれど、粒のまま仕上げたシャスカというのは冷めると固くなって味が落ちてしまいます。だからこういう祝宴では、ピラフやリゾットしかお出ししていなかったのですよね」
俺がそのように答えると、ヴァルカスが一切の動きを止めた。
なんだか頭の中でハードディスクがぶんぶんと回転しているようなたたずまいである。そののちに、ヴァルカスは「ああ」とつぶやいた。
「ぴらふという料理は油の被膜でシャスカを包むことにより、固く強張ることを防いでいるのでしたね。つまりこちらの料理も、酢や砂糖でシャスカの粒が強張ることを防いでいるわけですか」
「はい。実際に、こちらのシャスカはそれほど固くなっていなかったでしょう? それもあって、祝宴に相応しい料理かなと考えたわけです」
「なるほど」と、ヴァルカスは身を引いた。
「まずはシャスカの保存方法として酢や砂糖を混ぜ込む技が考案され、それからそこに相応しい具材が考案されたわけですね。ようやく、道筋が理解できました。ご説明、ありがとうございます」
「いえいえ。納得していただけたのなら、何よりです」
ヴァルカスはひとつうなずいてから、「それでは」と俺の手を握りしめてきた。
「あらためて、本日の宴料理はいずれも素晴らしい出来栄えでした。あちらの揚げ物料理はいささか物足りない仕上がりでしたが、あれはあくまで食材の素晴らしさを伝えるための献立であったのでしょう。それを除く6種の料理は申し分のない完成度で、わたしもいっそう自らの理想に明確な形を与えることがかないました。アスタ殿のおかげで、半月やひと月分は研究の時間を短縮させることがかなうでしょう。心より、お礼を申し述べさせていただきたく思います」
「そ、それはどうも、恐縮です」
ひさびさにヴァルカスの情熱をぶつけられて、俺はいささか泡を食ってしまう。そして、俺のかたわらではアイ=ファが眉をひそめ、ヴァルカスのかたわらではシリィ=ロウが眉を吊り上げていた。
「ヴァルカスは、またネイルたちとご一緒だったのですね。香草について語り合っておられたのですか?」
ヴァルカスに手を握られたまま俺が問いかけると、ネイルではなくジーゼが「ええ」と笑顔で答えてくれた。《ラムリアのとぐろ亭》の主人たる、柔和な老婦人である。
「ヴァルカスのほうから声をかけてくださったので、ともに卓を巡っておりました。あたしどもは新たな食材を使った7つの料理をいただいたのですけれど……それ以外にも、料理を準備してくださったのですよねぇ?」
「はい。祝宴ではもっと品数が必要でしょうし、新しい食材を使った献立ではギバ肉を使わない料理が多かったですからね。3種ほど、ギバ料理をお出ししています」
「それじゃああとはそちらの料理と、お姫様やゲルドのお人の料理と、さらに菓子まで残されているのですねぇ。年甲斐もなく浮かれちまいそうですよぉ」
そう言って、ジーゼはいっそうやわらかく微笑んだ。
「よかったら、アスタたちも一緒に如何です? こちらのヴァルカスも、ようやく巡りあえたアスタと離れがたい心地でありましょうからねぇ」
俺がかたわらを振り返ると、アイ=ファは眉をひそめたままうなずいてきた。ヴァルカスたちはともかくとして、この場にいる森辺の同胞と行動をともにするべきだと考えたのだろう。
「ふふん。そちらはずっと、王家の者たちと練り歩いていたのだな? さぞかし肩が凝ったことだろう」
と、ラヴィッツの長兄がにんまりとした笑みを向けてくる。本日も、彼は落ち武者のごときざんばら髪をオールバックにまとめられていた。
「肩が凝るというほどではありませんでしたが、あれだけ身分の高い方々ばかりだったので、やっぱり気は抜けませんでしたね」
「まったく、難儀なことだな。しかしまあ、お前の名声もいっそう高まったようではないか」
「はい! どの卓に出向いても、賞賛の嵐でした! わたしまで、誇らしい気持ちでいっぱいです!」
ラヴィッツの長兄の皮肉っぽい笑顔とは異なり、レイ=マトゥアは無邪気そのものだ。マルフィラ=ナハムもそのかたわらで、ふにゃんと笑っていた。
「では、別なる卓を目指すとするか。……ヴァルカスよ、そろそろわたしの家人を解放してもらいたい」
ヴァルカスは最後に俺の手をぎゅっと握ってから、身を離した。
そうして一行は、別なる卓を目指す。その道中で、俺はシリィ=ロウにも挨拶をしておくことにした。
「今日は《銀星堂》の方々も全員招待されているのですよね? ロイたちは別行動なのですか?」
「……それで何か、問題でも?」と、シリィ=ロウは頬を赤くしながら俺をにらみつけてくる。相変わらず、ロイに宴衣装の姿を見せるのが気恥ずかしいのだろうか。
「もちろん、問題も文句もありませんよ。ネイルやジーゼとご一緒だったんなら、それだけでもけっこうな人数ですもんね。みなさんも、新しい食材の研究は進んでおられますか?」
「いえ。まだまだ形にはなっていません。ただし、あのギラ=イラという香草には大きな期待をかけています」
と、今度はネイルが答えてくれる。俺にとっては指折りで古くからつきあいのある、《玄翁亭》の主人だ。西の民でありながらシムに憧れる彼は、東の民のように無表情なのが常であった。
「きわめて辛みが強いために取り扱いは難しそうですが、あれほど好ましい風味を有する香草はなかなかないでしょう。なんとかして、早々に使いこなしたいものです」
「そうですよね。俺もそのように考えているのですが……やっぱり辛みの強さを緩和できなくて、今日の祝宴には間に合いませんでした」
すると、ぼんやり歩を進めていたヴァルカスも声をあげてきた。
「あのギラ=イラを主体にしてしまったら、西の民の許容できる辛みには抑えられないことでしょう。ゆえに、他なる香草との調合が必須であるのです。……マルフィラ=ナハム殿であれば、すでに光明が見えているのでは?」
「え? い、いえ、とんでもないです。わ、わたしはそんな、大層なアレではありませんので……」
「というか、この5日間はずっとこっちの手伝いをお願いしてたもんね。明日からは、みんなで一緒に新しい食材の使い方を考案しようね」
俺がそのようにフォローすると、マルフィラ=ナハムはほっとした様子でふにゃんと微笑んでくれた。
そのタイミングで、次の卓に到着したのだが――そちらは、ちょっとした阿鼻叫喚の現場に成り果てていた。
「おお、アイ=ファじゃないか! ようやく間近からその麗しき姿を拝見できたね! うんうん! わたしが夢想していたよりも、さらに輝くような美しさだ! どのような色彩でもアイ=ファは美しいけれど、やっぱり真紅の宴衣装は格別だね!」
と、その場で大騒ぎしていたひとりであるティカトラスが、その勢いのまま賞賛の言葉をぶつけてくる。アイ=ファは迷惑そうに眉をひそめつつ、それでもいくぶん心配げな面持ちであった。
「それよりも、いったい何を騒いでいるのだ? あなたもちょっと、尋常な様子ではないようだぞ」
アイ=ファの言う通り、ティカトラスは様子が違っていた。その面長の顔は汗だくで、目は血走り、唇も妙に赤くなっていたのだ。そんな顔で陽気に笑っているのが、いささか不気味なぐらいであった。
「それはひとえに、こちらの料理のおかげさ! これはまったく、罪深い味わいだね! いけない毒草遊びにでも耽っているような心地だよ!」
俺は小首を傾げつつ、そちらに寄り集まった面々を見回した。
騒いでいる人間のひとりは、ラウ=レイである。彼もまた秀麗な顔に汗をこぼしつつ、笑顔で皿の料理をかきこんでいた。
いっぽうパートナーのヤミル=レイは、口もとに織布をあてて押し黙っている。ヴィケッツォやデギオンだけは相変わらずの様子でティカトラスのかたわらに控えていたが、その他の貴公子や貴婦人や城下町の料理人たちも、おおよそはラウ=レイやヤミル=レイのどちらかと似たり寄ったりの様相であった。
「えーと……みなさん、何を食べてらっしゃるのですか?」
「おお、あひゅた! これはあの、ぷらてぃかがじゅんびひたりょうりらしいぞ!」
まったく呂律の回っていない調子で、ラウ=レイがそのように言いたてた。
「これが、やたらとうまいのら! おまえたちも、ぞんぶんにあじわうがいい!」
「……騙されては、駄目よ。まあ、痛い目を見たいなら好きにすればいいけれど」
ヤミル=レイは織布を口もとに押し当てたまま、くぐもった声でそのように告げてくる。それでようやく、俺にも察することができた。
「なるほど。どうやらこちらの料理には、例のギラ=イラが使われているようですね」
卓の上の大皿には、真っ赤な煮込み料理が盛りつけられている。さまざまな具材が使われているようだが、真っ赤な煮汁に染めあげられているため、何が何やら判然としなかった。
「ギラ=イラですか。それは興味深い」
ヴァルカスは真っ先に小皿を受け取って、その真っ赤な料理を口にした。
すると、眠たげな目をいっそう細めつつ、「素晴らしい」という言葉をこぼす。それでシリィ=ロウが、慌てて料理を所望すると――そちらはひと口で跳び上がってしまった。
「こ、これは、辛みが強すぎます! これでは味の判別などつけようがありません!」
「そんなことはありません。舌を研ぎ澄まして、入念に味わうのです。さすれば、辛みの奥にどれほどの味わいがひそんでいるか、感じ取れることでしょう」
ヴァルカスは平然とした面持ちで、さらに料理を口にする。
気の毒なシリィ=ロウもそれに続いたが、そちらはあっという間に汗だくの顔となって、涙まで浮かべてしまった。これはどうも、一筋縄ではいかない料理のようである。
「これはちょっと、アイ=ファは遠慮しておいたほうがいいかもな」
俺はそのように囁きかけてから、勇気を固めて小皿を受け取った。
香りは、きわめて芳しい。もちろん存分に辛そうな香りだが、食欲をかきたてられる芳香だ。それでも用心して、匙に半分だけすくった煮汁を口に運んでみると――激烈な辛さと奥深い風味が一緒くたになって口内を駆け巡った。
ギラ=イラというのはチットと同じくトウガラシ系の香草であるが、それ以外の風味も幾層にわたって積み重ねられている。マイムほど鋭敏な舌を持っていない俺でも、山椒に似たココリやヨモギに似たブケラの風味ははっきりと感じられた。
そしてさらに、牡蠣に似たドエマの出汁やオイスターソースに似た貝醤の味わいもしっかり感じられる。これはあくまで、新たな食材の手本となる料理なのである。さすが、プラティカの腕は確かであった。
「ひゃー! 確かにこれは、辛いですね!」
「は、は、はい。で、でも、きわめて美味であるようです。ギ、ギラ=イラのみならず、さまざまな食材がこれだけの味を組み上げているのでしょうね」
そのように語らうレイ=マトゥアは楽しげな笑顔で、マルフィラ=ナハムは驚嘆の表情だ。そして、レイ=マトゥアの兄たる人物は顔をしかめており、ラヴィッツの長兄はにたにたと笑っていた。
「これはあまりに、辛すぎる。皿一杯分を口にするだけで苦痛になってしまいそうだ」
「ふふん。確かに辛いが、悲鳴をあげるほどではなかろう」
辛さの耐性というのは人それぞれであるので、評価もまちまちなようだ。
ただ俺はヤミル=レイの反応が気になったので、そちらに水を向けてみた。
「ヤミル=レイは、そこまで辛みを苦手にしていませんよね。でも、これは苦手な感じだったのですか?」
「……家長に騙されて、大きな具材をそのまま頬張ってしまったのよ。わたしの態度が気に食わないのなら、あなたも同じ真似をしてごらんなさい」
「ああ、いや、それは確かに、ちょっとしんどそうですね」
すると、ラウ=レイが「なにをゆう!」と回らない舌でわめきたてた。
「おれはだまひてなんかおらんぞ! からくても、これはうまいではないか!」
「やかましいわね。舌だけじゃなく、頭までどうかしてしまったんじゃないの?」
「いやいや! しかし確かに、これは美味だよ! わたしも口の中が痛くてたまらないのだが、どうしても匙を止められないのだよね!」
滝のような汗をしたたらせながら、ティカトラスはそんな声を張り上げた。
確かにこちらの料理は美味であるし、激辛料理特有の中毒性があるようなのだ。それで他なる人々も、「辛い辛い!」と騒ぎながら食べ続けているわけであった。
「ヴィケッツォも、ひと口どうだい? これは本当に、素晴らしい出来栄えだよ!」
と、ティカトラスが血走った目を息女に向ける。
しかしヴィケッツォは、ちょっぴりすねているような面持ちで父親をにらみつけた。
「わたしが辛みを苦手にしていることを知りながら、どうしてそのような意地悪を仰るのですか? わたしは料理人ならぬ身であるのですから、無理をしてまで口にする必要はないでしょう?」
「わたしはただ、同じ喜びを分かち合いたいだけだよ! プラティカの、せっかくの心尽くしなのだからね!」
その言葉に、アイ=ファがぴくりと反応した。
アイ=ファはこう見えて、プラティカのことを妹のように可愛がっているのである。
「……アスタよ。匙に半分だけ、そちらの料理をよこすがいい」
「ええ? いくらプラティカのことが大事でも、無理をする必要はないんじゃないか?」
「……お前はいつだったか、辛みは痛みと同じものであると述べていたな。狩人たる身で、多少の痛みに怯むわけにはいかん」
そんな言葉を囁きかけられた俺は、匙に半分だけ煮汁をすくってみせた。
何故だかこういう行いには恥じらいを覚えないアイ=ファが、俺の手から料理を食する。そして――アイ=ファは俺の背後に身を隠すと、両手で背中の生地をわしづかみにしてきた。
「だ、大丈夫か? お茶でももらってこようか?」
アイ=ファは深くうつむいて、わなわなと震えてしまっている。
すると、杯を手にしたレイ=マトゥアがちょこちょこと駆け寄ってきた。
「あの、すぐそこで辛みを緩和する飲み物というものが配られていました。アイ=ファも、如何ですか?」
アイ=ファは震える指先でそれを受け取ると、中身も確認せずにひと息に飲み干した。
すると、まだ俺の宴衣装をつかんでいた手の震えが止まる。アイ=ファは秀麗なる面に幾筋かの汗を垂らしつつ、深々と息をついた。
「ずいぶん、痛みがひいたように思う。……レイ=マトゥアの親切に、心よりの感謝を捧げよう」
「とんでもありません! プラティカもこのために、こういった飲み物を準備していたのでしょうね!」
レイ=マトゥアは嬉しそうに、にこりと笑った。
よくよく見れば、周囲の人々もしきりに飲み物を口にしながらプラティカの料理を食べ続けていたのだ。そうして水分を補給しているがために、いっそうの汗がふきこぼれているようであった。
「ちなみに、その飲み物は何だったんだ?」
「わからん。甘くて、乳の味がした」
すると、同じ杯を手にしたヴァルカスがのんびりこちらを振り返ってきた。
「こちらは、砂糖を溶かしたカロンの乳であるようです。糖にも乳にも、辛みを緩和する特性が備わっているのですよ」
「ああ、そうだったのですか。俺なんかは、熱い飲み物が有効だと聞いていたのですよね」
「熱で、辛みの成分を溶かすわけですね。それも有効なのでしょうが、もっとも有効なのは糖と乳でありましょう」
ヴァルカスは果実酒でも楽しんでいるかのように、杯の中身を小さくすすった。
いっぽうシリィ=ロウは汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら、砂糖入りのカロン乳を飲み干している。両手で杯を抱え込んでいるのが、幼子のような愛くるしさであった。
「プラティカ殿は、西の民に耐えられる限界の辛さを目指したのでしょうね。その甲斐あって、素晴らしい完成度であったかと思われます」
「そうですねぇ。あたしなんかは、もっと辛くてもいいぐらいでしたよぉ」
東の血をひいているジーゼは、柔和な面持ちで微笑んでいる。
ネイルも相変わらず無表情であったが、その顔には大量の汗が滴っていた。
「わたしにとっては、まぎれもなく限界の辛さでした。ですが、美味であることに疑いはありませんし……東のお客様であれば、さぞかしお喜びのことでしょう」
「ええ。東の方々であれば、5割増しの辛さでも文句をつけることはないのでしょう。やはりギラ=イラというのは、素晴らしい香草です」
ヴァルカスたちは、十分に手応えをつかんだようである。
まあ、それは俺も同様であるのだが――やはり、ファの家の晩餐で使えないとなると、研究の意欲を削がれそうなところであった。
(いや。もっと辛みを抑えながら、ギラ=イラの風味を活かせれば……アイ=ファにだって、美味しいと思ってもらえるはずだ。あきらめないで、頑張ろう)
俺がそんな決意を新たにしていると、織布で汗をぬぐったティカトラスがあらためて向きなおってきた。
「さてさて! 舌を喜ばすことはできたから、次は目を喜ばすこととしよう! うんうん! やっぱりアイ=ファは美しいねえ! 頬を濡らす汗も、官能的でならないよ!」
アイ=ファはぶすっとした面持ちで、自らも織布で汗をぬぐった。その間も、ティカトラスはまだ充血した目でアイ=ファの美しき姿を堪能している。
「あ、そうだ! ヴィケッツォにヤミル=レイも、ちょっとこちらに来てくれたまえ!」
ティカトラスの要請に従って、そちらの両名がしぶしぶ進み出てくる。そうしてアイ=ファのかたわらに両名が立ち並ぶと――周囲の人々が辛さも忘れて感嘆のざわめきをあげるほどの艶やかさであった。
アイ=ファは真紅、ヤミル=レイは深い緑色、ヴィケッツォは漆黒で、いずれも同じ様式の宴衣装だ。しかしそれぞれが異なる魅力を持っているため、さまざまな花の大輪が咲き誇っているかのようであった。
「うんうん! やっぱり素晴らしい! ジェノスには美しき女人が多いけれども、君たち3人は格別だ! おたがいがおたがいの美しさを際立てているのだろうね!」
それはまったくの同感であるが、わざわざ口にする必要はないだろう。おかげでアイ=ファたちは、誰もが仏頂面であった。
「……それにしても、男女がともに黒い宴衣装というのは、なかなか調和するようだね」
と、ティカトラスが悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
この場で黒い宴衣装に身を包んでいるのは、俺とヴィケッツォのみである。
「アスタはなかなか凛々しい面立ちをしているので、そういう意味でもヴィケッツォとお似合いだ。よかったら、しばらく付添人を交代するというのはどうだろう?」
「……それは、笑えぬ軽口だな」
アイ=ファが物騒な感じに目を光らせると、ティカトラスは呵々大笑した。
「まさしく軽口に過ぎないのだから、そんな怖い目をしないでおくれよ! さてさて、それじゃあ次なる料理の卓を目指すとしようか! もちろん、アイ=ファたちも一緒にね!」
ティカトラスに真正面からそのように言われては、なかなか固辞することも難しい。こちらは最初から10名連れであり、ティカトラスはレイ家のふたりをともなっていたのだから、ずいぶんな人数になってしまうわけであるが――それも、ティカトラスの知った話ではなかった。
「……どうもティカトラスは、普段以上に浮ついているように感じられるぞ。さきほどの料理に、何か問題でもあったのであろうか?」
「あー、ギラ=イラに俺の故郷の食材と同じ特性があったら、ちょっとばっかり気分を昂らせる効能があるのかもな」
トウガラシ系の香辛料には、興奮作用も存在するはずであるのだ。俺の返答に、アイ=ファは深々と溜息をついていた。
そうして辿り着いた次の卓では、実に和やかな場が形成されている。見知った相手としては、ジーダにマイム、シン=ルウにララ=ルウ、ボズルにロイ、ロブロスに書記官――それに、マルスタインも顔をそろえていた。
「おや。ティカトラス殿も、ようやくファのご両名と合流できたのですな」
硝子の酒杯を手に、まずはマルスタインがゆったりとした微笑を届けてくる。ティカトラスは浮かれきった調子で「うん!」と応じた。
「半刻ばかりも我慢を強いられるのは苦痛な限りだったけれども、我慢した分だけ楽しさもひとしおだね! そちらもなかなか楽しげな顔ぶれじゃないか!」
「ええ。デルシェア姫の料理をいただきながら、南の王都の食材について語らっておりました」
ダカルマス殿下は宴料理に夢中であるので、マルスタインは使節団の団長たるロブロスのお相手をしていたのだろう。さらにララ=ルウまで加わって、有意義な社交に励んでいたのであろうと思われた。
いっぽうこちらはロイと出くわしてしまったためか、シリィ=ロウがヴァルカスの背中に隠れてしまっている。ロイは苦笑を浮かべつつ、卓上の料理を指し示してきた。
「姫君の料理は、さすが素晴らしい出来栄えだったよ。お前らも味わってみたらどうだ?」
「ええ、もちろん」
そこに盛りつけられていたのは、黄褐色のソースで煮込まれた料理であった。ギラ=イラを用いたプラティカの料理と異なり、実に罪のなさそうな外見である。
真っ先に食器を受け取ったラウ=レイは、「ふむ?」と小首を傾げた。
「まったくまずいとは思わんが……ずいぶんとまた、味の薄い料理だな」
「それは舌が壊れているだけじゃないの? 樽いっぱいに乳でも飲んできたら?」
冷ややかに言葉を返しつつ、ヤミル=レイも同じ料理を口にする。それを横目に、俺とアイ=ファもデルシェア姫の料理をいただいた。
具材として使われているのは、クルマエビのごとき甲冑マロール、ゴーヤのごときカザック、オクラのごときノ・カザック、豆腐のごとき凝り豆、マツタケのごときアラルの茸である。新たな食材の大盤振る舞いだ。
さらに黄褐色のソースには、たらこのごときジョラの魚卵が散りばめられている。それがクリーミーなソースに魚介の風味と塩味を与えて、実に奥深い味わいであった。
こちらのソースは、おそらく豆乳を主体にしているのだろう。ただし、まろやかな甘みも感じられるので、この黄色い色彩はマンゴーのごときエランの効果なのかもしれなかった。
どちらかといえば繊細な味わいであるが、決して薄味という印象ではない。きっとラウ=レイは激辛料理の食べ過ぎで舌が麻痺してしまったのだろう。味の組み立ても具材の選別も申し分なく、心から美味しいと思える出来栄えであった。
俺がそのように考えていると、アイ=ファとは反対側の隣から「素晴らしい」というつぶやきが聞こえてくる。声の主は、ヴァルカスであった。
「こちらの料理も、新たな食材の魅力が集約されているように思います。やはりデルシェア姫も、腕は確かなようですね」
「ええ。去年まではヴァルカスたちからも大いに学んで、また腕を上げたのでしょうしね」
「……しかしやっぱり、わたしの作法はまったく活かされていないようです。手本の料理としては申し分ありませんが、それ以上でもそれ以下でもないようです」
シリィ=ロウが、慌ててヴァルカスの袖を引っ張る。しかし幸いなことに、ロブロスはララ=ルウと語らっているさなかで、こちらの会話が耳に入った様子もなかった。
「それにしても……頭が重くてなりません。やはりこちらの祝宴を途中で退席することは許されないのでしょうか?」
「あ、ヴァルカスは人混みが苦手なのですよね。大丈夫ですか?」
「それもありますが……新たな食材を調和させるための数式が、頭にあふれかえってしまうのです。21種もの新たな食材を前にしたのは、これが初めての体験ですので」
ヴァルカスはぼんやりとした面持ちのまま、深々と溜息をついた。
「かなうことなら、すぐさま厨に向かいたい心地です。……ですが、まだアスタ殿のギバ料理が3種と、トゥール=ディン殿の菓子が残されているのですよね?」
「ええ。そういうことになりますね」
「そちらを食するまでは、この場を離れることもできませんし……充足した心地であることに疑いはないのに、それ以上にもどかしい心地です」
そんな言葉を口にする際にも、やっぱりぼんやりとした表情には変わりのないヴァルカスである。
俺は「あはは」と笑ってから、そんなヴァルカスに心からのエールを送ってみせた。
「きっとヴァルカスも、さぞかし素晴らしい料理を作りあげてくれるのでしょうね。その日を心待ちにしています」
「はい。ですが、満足のいく料理を作りあげるには長きの時間が必要になるでしょう。またその前に料理を供せよと命じられるようですので、いささかならず憂鬱です」
ロブロスの耳に入ることを危うんで、またシリィ=ロウがヴァルカスの腕を引く。
しかしやっぱりロブロスはララ=ルウとの語らいに夢中であるようだし、そのかたわらではマイムとボズルも笑顔で語らっていた。今日はひときわさまざまな身分の人間が集められているが、誰もが同じ喜びにひたっている――それが実感できたような心地で、俺は深く心を満たされることになった。




