試食の祝宴①~白日夢~
2023.8/8 更新分 1/1
それから、粛々と日が過ぎて――茶の月の14日である。
試食の祝宴の当日を迎えた俺たちは、朝から城下町を目指すことになった。
かまど番の数は、きっちり20名。朝から同行する狩人は、6名のみだ。もはや城下町においてそれほど仰々しい護衛役は必要なかろうという判断で、狩人の残り14名は後から合流する手はずになっていた。
ちなみに男女20名ずつというのは、昨年の送別の祝宴とおおよそ同じ人数だ。それで前回は参席者が総勢250名、今回は200名であるのだから、多少ばかりはこちらの仕事も楽になる計算になる。ただしその分、6日前にお披露目されたばかりの新たな食材を使いこなすという別種の苦労が生じるわけであった。
そこのあたりの事情も鑑みて、今回はいっそうの精鋭を集めている。前回は宴衣装の兼ね合いから、バナームの婚儀に出向いたのと同じ顔ぶれで挑むことになったのだ。今回は、サイズの合いそうな宴衣装を使い回していただくという算段で、調理の腕を重視させていただいたわけであった。
それに今回、俺とトゥール=ディンはそれぞれ名指しで料理と菓子の準備を依頼された身となる。それでトゥール=ディンは4名の血族とともに、菓子作りに専念することになったのだ。そちらはスフィラ=ザザとモルン・ルティム=ドムに、普段から屋台を手伝っているディンとリッドの女衆という顔ぶれであった。
いっぽうこちらは15名という人数になったので、7名ずつの班に分け、俺が総指揮官としてふたつのかまどを行き来することにした。
片方の班はユン=スドラが班長で、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥア、フェイ・ベイム=ナハム、サウティ分家の末妹、ラッツ、ガズの女衆という顔ぶれになる。もう片方の班はレイナ=ルウが班長で、ララ=ルウ、リミ=ルウ、マイム、ヤミル=レイ、レイ、ルティムの女衆という顔ぶれであった。
「やっぱり族長筋の家人を相手に取り仕切るっていうのは、誰でもちょっと気が張っちゃうだろうからさ。今回は、レイナ=ルウも班長をお願いするよ」
俺がそのように伝えた際には、レイナ=ルウも普段と変わらぬ熱情で「はい」と応じてくれた。
前回の送別会では、レイナ=ルウの取り仕切りで独自の料理を準備していたのだ。しかし今回は俺個人への指名であるし、前回以上にさまざまな目新しい食材を扱わなければならないため、レイナ=ルウもこちらの指揮下に入ってもらうしかなかったのだった。
「このように言っては何ですが、アスタの手ほどきのもとに新たな食材を扱うというのは、何よりの修練でしょう。今日の仕事も、余すところなく自分の糧にしたいと思います」
祝宴の当日になっても、レイナ=ルウはそうして熱情をみなぎらせていた。
そんなこんなで、ルウの血族とも合流したならば、あらためて城下町に出発である。朝から同行してくれた狩人は、アイ=ファ、ジザ=ルウ、ルド=ルウ、シン=ルウ、ラウ=レイ、ガズラン=ルティムという面々であった。
「ルウの血族の狩り場は、もうずいぶんギバの数が減ってきてるからなー。普段よりは、手が空いてるってこった」
ルド=ルウは、そんな風に語っていた。
となると、気にかかるのはシン=ルウの心情である。すべての狩り場からギバの姿がなくなって収穫祭を迎えたならば、ついにシン=ルウたちは新たな氏族として独立するのだ。
しかし、その日もシン=ルウは沈着そのものであったし、ララ=ルウもそれは同様であった。
たとえ住む場所が変わっても、おたがいの気持ちに変わりはない――そのように、信頼し合っているのだろう。それで俺も、余計な口を叩こうという気分にはなれなかったのだった。
そうして5台の荷車は、一列になって城下町を目指す。
時刻は、上りの三の刻を過ぎたぐらいだ。本日も屋台の休業日であったので、何も心残りはない。この朝方には宿場町の往来も人影は少なく、実にのどかな様相であった。
やがて城門に到着したならば、武官の案内で立派なトトス車に乗り換える。そちらで同乗することになったラウ=レイが、「そういえば」と声をあげた。
「今日はあの、ガーデルとバージらも参ずるという話だったな?」
「うん。3日ぐらい前に、わざわざ本人たちが伝えに来てくれたからね」
ガーデルたちと顔をあわせたのは、アルヴァッハたちを迎えた晩餐会以来となる。あの日も3日前も立ち話をしたのみであったので、彼らと腰を据えて語らうのは闘技会以来の半月ぶりになるわけであった。
「あやつらは、相変わらずであるのか? 南の王家の者たちとも、もう挨拶をしているのであろう?」
「うん。ダカルマス殿下はいつもの調子で、俺を連れ去る気はないから安心めされよとか言っていたらしいよ。まあダカルマス殿下もアルヴァッハもそんな気がないからこそ、デルシェア姫やプラティカを修行に出してるわけだからね。ガーデルのほうも、不安がる理由はないんじゃないのかな」
「まったく、世話のかかることだな。アスタを連れ去ろうなどと考える人間が現れたならば、どうせ俺たちが守ることになるのだ。あやつが不安がる理由など、最初からなかろうに」
そのように語るラウ=レイは、いつになく不機嫌そうな面持ちである。
俺がそれを不思議がっていると、ガズラン=ルティムが穏やかな笑顔で説明してくれた。
「前回の祝宴ではヤミル=レイが貴族の相手にいそしんでいたため、ラウ=レイはずいぶん退屈な思いをすることになってしまったそうですね。今日はなるべくヤミル=レイに負担をかけないように私も力を尽くしますので、どうかラウ=レイは心置きなく祝宴をお楽しみください」
「ふん! 周りがどれだけ世話を焼こうとも、けっきょくは本人の心持ちひとつであろうよ!」
「そうね。幼子めいた誰かさんの相手をするよりは、貴族の相手でもしていたほうがよっぽど気楽だわ」
同じく同乗していたヤミル=レイがクールな面持ちでそのように言いたてると、ラウ=レイは「むー!」と座ったまま地団駄を踏む。そのさまを眺めていたアイ=ファが、こっそり俺に耳打ちしてきた。
「……ヤミル=レイは、何やら楽しげだな。こやつがこれほど上機嫌なのは、珍しいように思うぞ」
言われてみれば、ヤミル=レイの切れ長の目にそういった感情がこぼれているように見受けられる。普段はラウ=レイに引っ張り回されることが多いので、その意趣返しを楽しんでいるのかもしれなかった。
(ララ=ルウたちとは別の意味で、こっちも相変わらずだな。まあ……色々と苦労は多いだろうけど、ふたりが幸福な行く末を迎えられるように祈るしかないか)
俺はそんな風に思ったが、よくよく考えれば俺やアイ=ファも多くの人々からそんな目で見られているかもしれないのだ。偉そうなことを考えた代償として、俺はひとりで羞恥の念を抱え込むことになってしまった。
そんな中、トトス車は無事に会場に到着する。本日の会場は前回の晩餐会と同じく、紅鳥宮だ。本日は宿場町からも少なくない人数が招待されているため、ジェノス城よりも都合のいい面もあるのだろう。厨の立派さに変わりはなかったので、俺としても異存はなかった。
その後は通例の、浴堂だ。本日もかまど番には、白い調理着や侍女のお仕着せが準備されていた。のちのちお召し替えが待っている狩人たちは、自前の装束のままである。
そうして厨に移動してみると――そちらには、4名もの料理人が待ちかまえていた。デルシェア姫、プラティカ、ニコラ、それにカルスという顔ぶれである。そして、カルスを除く3名もまた調理着の姿であった。
「アスタ様も森辺のみんなも、お疲れ様! 今日はわたしたちも宴料理の準備を申しつけられているけれど、手空きの時間はしっかり見学させていただくからね!」
デルシェア姫はおひさまのように笑いながら、そのように告げてきた。
周囲に貴族の目がなければ、彼女はこのように口調が変じるのだ。新たな食材のお披露目会でも、ダカルマス殿下たちが退室した後はこのように振る舞っていたのだった。
「どうも、お疲れ様です。でも、200名分の宴料理となると、そちらもお忙しいのではないですか?」
「それでも、しょせんはひと品だからね! 下ごしらえは昨日の内に済ませておいたから、どうってことないさ! あとは、二刻ぐらいもあれば十分かな!」
そのように語りながら、デルシェア姫は遠慮なく俺のほうに顔を寄せてくる。
「でさ! その二刻をいつ使うべきか、アスタ様に相談しようと思ってね! しっかり見学するべきは、序盤と終盤のどっちかなー?」
「うーん、それは難しい質問ですね。ただやっぱり……調理で重要なのは、下ごしらえだと思いますよ。そこを見ていないと、中盤以降の調理手順も正しく把握できない恐れがありますからね」
「そっかそっか! それじゃあ、このまま見学させていただくよ! 他のみんなも、よろしくねー!」
こちらのかまど番たちは、羽目を外さずにお辞儀を返す。するとデルシェア姫は、同じ勢いのままカルスを振り返った。
「カルス様は最初から最後まで見学できるから、羨ましいなー! できれば今日も、カルス様の料理を味わいたかったよ!」
「あ、い、いえ。ぼ、僕はたった5日ていどで目新しい食材を使いこなすこともできませんし……こ、こちらばかりが恩恵を授かってしまって、申し訳ない限りです」
誰よりもつつましい気性をしたカルスは、ぺこぺこと頭を下げる。
いっぽうデルシェア姫は、「あはは!」と楽しげに笑っていた。
「こっちだって勉強させてもらったんだから、そんなへりくだることはないさ! でもやっぱり、カルス様はヴァルカス様たちに手伝ってもらったほうが、こっちも見学のし甲斐があるかなー!」
そんな風に言ってから、デルシェア姫はまた俺に向きなおってきた。
「一昨日ね、カルス様の料理を父様にも味わっていただいたんだよ! で、わたしはカルス様の調理を見学させてもらったんだけど、ヴァルカス様たちは仕事があったから来てもらえなかったんだよねー!」
「ああ、なるほど。ダカルマス殿下のご感想は、如何でしたか?」
「そりゃもう、大満足さ! だけど、ヴァルカス様の力を拝借できたら、その上をいく大々満足だったかもねー!」
ということは、すべての料理に「美味」という評価がつけられたわけではないのだろうか。カルスの理想をしっかりと体現するには、やはり《銀星堂》やティマロなどの力が必要なのかもしれなかった。
「で、昨日なんかはわたしやプラティカ様の下ごしらえを、カルス様に見物してもらったのさ! バナームでも、新しい食材を使いこなしてもらわないといけないからねー!」
「それは、羨ましいですね。いきなり21種も新しい食材を手にすることができて、こちらはありがたい限りですけれど……やっぱりこれだけの食材を使いこなすには、ずいぶん時間がかかってしまいそうです」
「えー? そんなこと言って、アスタ様は今日もびっくりするような料理を味わわさせてくれるんでしょー? わたしを油断させようったって、そうはいかないからね!」
やはり気兼ねなく振る舞うと、デルシェア姫の生命力がいっそうの勢いであふれかえるようだ。それに圧倒されないように両足を踏まえながら、俺は笑顔を返してみせた。
「それじゃあ、調理を開始しますね。今回も、こちらは3組に分かれます」
「うわー、どこから見学するか、迷っちゃうなー! でもやっぱり、ここはアスタ様が陣取る厨かな!」
「俺は、ふたつの厨を行き来する予定ですよ。トゥール=ディンの組だけが、完全に別行動という形ですね」
「そっかそっか! それじゃあとりあえず、わたしはアスタ様を追いかけるよ!」
すると、プラティカがぶすっとした顔をこらえているような面持ちで発言した。
「では、私とニコラ、別の組、見学します」
「えー? みんなで一緒に見学すりゃいーじゃん! そしたら、意見交換もできるしさ!」
「ですが、4人、多いですし……兵士、加えれば、なおさらです。アスタたち、作業、阻害する恐れ、生じるでしょう」
デルシェア姫のもとには、常に2名の兵士が控えているのだ。その片方は、これまた懐かしいロデなる若者である。そのロデは、最初からずっとプラティカに警戒の視線を送っていた。
「そっかー! じゃ、カルス様はわたしと一緒ね! あれこれ意見を聞きたいからさ!」
「は、はあ……ぼ、僕は王女殿下のお言葉に従います」
「あはは! 西ではどうだか知らないけど、南で王女ってのは王の息女をさす言葉だよ! 殿下なんて敬称も必要ないから、わたしのことはデルシェアって呼んでねー!」
「そ、そういうわけには……では、デルシェア姫とお呼びさせていただきます」
カルスはずっとへどもどしているが、それはいつもの話である。いっぽうデルシェア姫も前回の来訪時からカルスと面識があったため、まったくもって屈託がなかった。
ということで、俺たちは調理を開始する。俺はまずユン=スドラの班に指示を出す手はずであったので、プラティカとニコラはレイナ=ルウ班のメンバーとともに立ち去っていった。
こちらの護衛役はアイ=ファとガズラン=ルティムとなり、アイ=ファだけが入室する。デルシェア姫の護衛役も、入室するのはロデのみだ。扉の外では、ガズラン=ルティムともう1名の兵士で交流が紡がれるのだろうと思われた。
厨には、こちらで準備をお願いした食材が山積みにされている。何せ200名分であるので、備えつけの食料庫からあふれかえる勢いであるのだ。そちらを仕分けするだけでも、なかなかの大仕事であった。
「まずは、下ごしらえが必要な食材を取り分けないとね。3人はかまどの準備をして、残りの4人で仕分けをお願いできるかな?」
「承知しました。それじゃあ、マルフィラ=ナハムとレイ=マトゥアとフェイ・ベイム=ナハムは、かまどの準備をお願いします」
ユン=スドラは、残りの3名とともに食材の山と相対する。俺もまずは、そちらを手伝うことにした。
「それにしても、すっごい量だねー! アスタ様は今日の祝宴で、新しい食材を何種類使う予定なの?」
「えーと、何種類でしたっけね。そこは、勘定していませんでした」
俺が木箱に手をかけながらそのように答えると、土瓶の中身を確認していたユン=スドラが代わりに答えてくれた。
「本日使用する新たな食材は、15種類です」
その返答に、デルシェア姫はちまちました身体を「えっ!」とのけぞらせた。
「じゅ、15種類? たった5日で、そんなにたくさん新しい食材を使おうっての?」
「はい。このたび選ばれなかったのは、3種の果実と2種の酒、それにギラ=イラのみとなりますね」
落ち着いた声で答えながら、ユン=スドラの瞳には誇らしげな光が宿されている。俺はむしろ、そちらの眼差しのほうが気恥ずかしかった。
「とはいえ、おおよそはこれまでに考案してきた料理の応用です。ちょっとでも目新しいと思えるのは……たぶん、ひと品のみですね」
「それでも、すごいじゃん! だって、15種だよ? わたしなんて、ゲルドの食材はまだひとつふたつしかまともに扱えてないのに!」
「そこはそれ、故郷で似たような食材を扱った経験がありますので。そうでなければ、俺もむやみに扱うことはできませんでしたよ」
必要な食材を作業台に運びながら、俺はそのように答えてみせた。
デルシェア姫はエメラルドグリーンの瞳を星のように輝かせながら、俺の姿を食い入るように見つめている。
「それでもやっぱり、信じられないよ! アスタ様の故郷って、そんなにあれこれ食材があふれかえってたの?」
「そうですね。流通が発達していて、色んな土地の食材が届けられていたのですよ」
「不思議だなー! アスタ様の故郷って、どんな場所だったんだろー! わたしには、想像もつかないよ!」
デルシェア姫のそんな言葉が、俺の心にさざ波ていどの波紋を広げた。
俺はこれだけ奇異なる出自であるというのに、故郷について取り沙汰される機会が極端に少なかったのだ。俺の故郷に対して少しでも好奇心を抱いているのは、フェルメスぐらいなのではないかと思えるほどであった。
(それも何だか、不思議な話だよな。もしも俺が故郷について、こまかく説明したりしたら……誰だって、腰を抜かすぐらい驚くことになるだろう)
言うまでもなく、この地と俺の故郷では、文明のレベルというものがまったく異なっている。自動車や飛行機や電化製品など、この地の人々にとってはそれこそ魔術や魔物と大差ない存在に感じられるはずだ。そんな話をぺらぺらと喋ったら、それこそ俺の正気を疑われてしまうはずであった。
それに――この地で2年と8ヶ月ばかりを過ごした俺にとっても、そういった記憶はずいぶん遠いものになってしまっていた。
もちろん家族や幼馴染の面影は、今でもくっきりと心に刻みつけられている。しかし、あちらで送っていた歳月の記憶というものは――こまかい部分が、ぼんやり霞んでしまっていたのだった。
たとえば、雨に濡れたアスファルトというのは、どんな匂いだっただろうか?
車の吐き出す排気ガスや、冷蔵庫や冷凍庫のひんやりとした冷気、コンロのガスが燃える匂い、夜の街を照らすネオンの瞬き、ところかまわず鳴り響く携帯電話の着信音、テレビの画面に映し出されるさまざまな映像――あれらは本当に現実のものであったのかと、疑わしく思えるほどであった。
この大陸アムスホルンには、電気もガスも存在しない。携帯電話もパソコンも、自動車も電車も飛行機も――宇宙ロケットなんて、もってのほかだ。人間が自力で他の星を目指すなど、この地で信じてもらえるはずがなかった。
(どうして誰も、俺の故郷に興味を持とうとしないんだろう。そんなのは、あまりに……俺にとって、都合がよすぎるんじゃないだろうか?)
俺の想念が、そこまで至ったとき――いきなり、「おい」と腕をつかまれた。
半ば無意識に振り返ると、アイ=ファが怖い顔をして俺の腕をつかんでいる。その青い瞳には、びっくりするぐらい真剣な光が宿されていた。
「そのように夢うつつの状態で、仕事を果たせるのか? お前は何を、そのように思い悩んでいるのだ?」
「い、いや。何も思い悩んでるつもりはないけど……」
「しかしお前は、明らかにこの世ならぬ場所を見ているようであったぞ。まるで……悪い夢を見た後のようにだ」
そのように語るアイ=ファの瞳には、どこか幼子のように頑是ない激情もこぼれていた。
その眼差しと腕をつかまれた指先から、アイ=ファの温もりが俺の内側に流れ込んでくる。俺はそれこそ悪夢を見た直後のように、またアイ=ファの温もりに救われることになった。
「……ごめん。ひさしぶりに、故郷のことを思い出したら……つい物思いに沈んじゃったみたいだ」
俺がそのように答えると、アイ=ファはぐっと身を寄せながら、俺の目の奥を覗き込んできた。
そののちに、まぶたを閉ざして深く息をつく。そして、その指先が名残惜しそうに俺の腕から離れていった。
「瞳に、力が戻ったな。……このような場で、心配をかけるな」
その言葉は、俺の耳もとで囁かれた。
俺も小声で「ごめん」と繰り返すと、アイ=ファは仏頂面で身を離す。すると、視界の隅でデルシェア姫が眉を下げていた。
「わたしが余計な話をしたために、アスタ様の心をかき乱しちゃったみたいだね。……どうもごめんなさい」
「あ、いえ。決してそんなことは――」
そんな風に応じかけて、俺はぎょっと身をすくめることになった。その場に集ったかまど番たちも、全員が手を止めて俺の姿を心配そうに見つめていたのだ。
「み、みんなもごめん。ちょっとぼんやりしてただけなんだよ。仕事の最中に、申し訳なかったね」
「仕事よりも、アスタの身が心配です。本当に大丈夫なのですか?」
かまど番を代表する形で、ユン=スドラがそのように問うてくる。
俺は無理やりでなく、自然に笑顔を返すことができた。
「本当に大丈夫だよ。この後はしっかり気持ちを引き締めるから、最後までよろしくね」
ユン=スドラを筆頭とするかまど番の全員が、ほっとした様子で息をついた。
「確かにアスタは、お元気なようです。……アイ=ファがいてくださって、本当によかったです」
「うん。本当に申し訳なかったね。……アイ=ファも、どうもありがとう」
アイ=ファは唇がとがらないようにぎゅっとへの字に固めながら、俺の胸もとを強めに小突き、壁際に戻っていく。ただしその後も、アイ=ファの瞳は片時も俺から離れようとしなかった。
アイ=ファのおかげで、俺の心は完全に復調している。ちょっと物思いにふけっただけで、どうしてああまで我を失うことになったのか、それが不思議に思えるほどである。本当に、悪戯な精霊に白日夢でも見せられたような心地であった。
(まるで悪夢でも見た後のように、か……あんな悪夢は、もう何ヶ月も見ていないのにな)
俺が最後に悪夢を見たのは、邪神教団の手によって飛蝗の襲撃に見舞われた日の前夜だ。あれは去年の青の月であったから、もう7ヶ月ばかりは過ぎているはずであった。
あれ以来、平穏に月日は過ぎ去っている。飛蝗の襲撃にあった田畑や狩り場は手ひどいダメージを負ってしまったものの、みんなで力をあわせて乗り越えることができたのだ。
それに、俺を恐怖させる謎の人物についても、まったく進展は見られない。ナチャラの水晶玉や悪夢の中に垣間見えた、顔に火傷のある謎の人物――その正体も、不明のままであった。
やっぱり俺には、まだ何か乗り越えるべき試練が残されているのだろうか?
あの謎の人物と相対して、自分の内にひそむ恐怖心を克服しない限り――俺はこうして、発作のように我を失ってしまうのだろうか?
それなら俺は、何としてでもその試練を乗り越えなければならなかった。
西方神の洗礼を受けたジェノスの民として、森辺の民として、ファの家人として――この地で健やかに生きていけるように、すべての力を尽くさなければならないのだ。それが、故郷を失った俺にとっての唯一の道であった。
(俺は聖アレシュみたいに我を失って、第二の故郷を捨てたりはしない。ここには、アイ=ファやみんながいるんだからな)
食材の詰まった木箱を作業台まで運んでから、俺はアイ=ファのほうを振り返った。
アイ=ファは腕を組み、鋭い眼差しで俺の姿を見守ってくれている。俺がそちらに笑顔を向けると、アイ=ファはほころびそうになった口もとを慌てて引き締めて、「うつけもの」という形に唇を動かした。
そうして白日夢から解放された俺は、心置きなくその日の仕事に取り組むことになったのだった。




