⑧青の月13日~凶変~
2014.12/19 更新分 1/1
心臓が、早鐘のように胸郭を打つ。
アイ=ファの香りと体温が、俺から正常な思考能力を奪っていく。
そうして、俺の上にのしかかってきたアイ=ファは――
そのまま俺の上を通過して、壁のほうに腕を伸ばした。
「動くでないぞ……お前が動くと、空気が乱れる」
咽喉声で囁きながら、アイ=ファは元の位置に戻った。
だけどその手は、まだ俺の口もとを覆ったままだ。
そして――逆側の手の指先には、壁にたてかけられていた大刀が握られていた。
「さっき、何者かがその窓から部屋の内側を盗み見ていたのだ。今は、家の裏側に回り込んでいる」
そうなのか。
馬鹿な想像をしてしまっていた俺は、全身の骨を抜き取られたみたいに脱力してしまいそうになった。
が、脱力している場合ではない。
俺たちは、ほんのつい数日前にも寝込みを襲われて、あわやというところまで追いつめられてしまったのだから。
今度はいったい、誰が何をしようとしているというのだろう。
人の気配など、俺には何ひとつ感じられない。
「方向としては、左側の部屋の奥側だな。ちょうどあの部屋の窓がある側だ。……2年前には、スン家の長兄がその窓の格子を破って、家の中に踏み込んできた」
それは、例えようもなく不吉な符合だった。
しかしそのディガは、ドッドやテイとともに、森辺の最北にあるドムの家に連れ去られたはずだ。今後の素行を危険視されていた彼らには、ミダほどの自由は与えられていないはずである。
「私が外に出て様子を見てくる。お前は家の中で待て。私が出たら、音をたてないようにかんぬきを閉めるのだ」
俺はそろそろと首を横に振り、声を出せない代わりにアイ=ファの手首をそっとつかんだ。
アイ=ファはちょっともどかしそうに瞳を瞬かせる。
「またおかしな毒草を使われたり、あるいは家に火でもつけられれば生命が危うい。案ずるな。相手は多くとも2人ほどだ。むざむざと遅れを取る私ではない」
「…………」
ありったけの思いをこめて、俺はアイ=ファをにらみ返す。
すると今度は、少し苦笑気味に微笑んできた。
「相手が私よりも手練れであったら、ラントの川にでもおびき寄せて突き落としてやる。何にせよ、お前がそばにいたら私は自由に動くことができん。この場で、私の無事を祈っていてくれ」
「…………」
「大丈夫だ。無駄に生命を散らしたりはしないと誓う」
そう言って、アイ=ファは俺の口もとから手を離した。
そして――自由を得たその指先で、自分の首と胸の中間あたりをまさぐる。
「きっとお前の願いが厄災を退けてくれるであろう」
そこには、俺の贈った青い石が揺れているはずだった。
俺はアイ=ファの手首をつかんだまま、そろそろと身を起こす。
「……外に出る。音はたてるなよ?」
最後には狩人らしい勇猛な笑みを浮かべてから、アイ=ファはゆらりと立ち上がった。
まさしく空気も乱さぬような身のこなしだ。
狩人ならぬ俺は、床などを軋ませないように、極力ゆっくりと身体を動かす。
アイ=ファは途中で小刀も拾いあげ、大刀とともにそれらを腰に下げながら、野生動物のようになめらかな足取りで玄関口へと向かった。
戸板からかんぬきを引き抜いて、それを俺のほうに差し出しつつ、また顔を寄せてくる。
「私が戸板を閉めたら、かんぬきを掛けろ。私が呼ぶまでは絶対に家の外に出るのではないぞ?」
そうしてアイ=ファは慎重に戸板を引き開けて、闇の向こうに視線を一巡りさせてから、するりと出ていった。
再び閉ざされた戸板にかんぬきを掛けながら、(これはいったい、どういうことなんだ?)と俺は煩悶する。
スン家の脅威が去った今、どうしてファの家が招かれざる客を呼びこむことになってしまうのだろう。
まさか、アイ=ファに嫁取りを申し込んだラッツやガズの男衆か?
いや、スン家の他にそんな悪辣な男衆がいるとは考えにくい。
だが、その正体が誰であるにせよ、こんな夜更けに人の家の様子を覗き見るなんて、真っ当な用事であるとは思えない。
それじゃあ――城の人間か?
それも不可解な話である。
現時点でファの家が城の人間に狙われる理由などないはずだ。
というか、カミュアあたりが密告でもしない限り、城の人間にファの家の所在など探りようもないだろう。
さっぱりわからない。
かんぬきを掛け終えた俺は、またそろそろと足音を忍ばせて、月明かりを頼りにかまどのほうへと近づいていった。
板の上に並べられた、三徳包丁と、菜切り刀と、小刀。その、アイ=ファの父親の形見であるごつい小刀をつかみ取り、俺も腰にひっかける。
(大丈夫だ……相手が誰であれ、アイ=ファがそうそう遅れを取るはずはない……)
そんな風に考えたとき。
家の裏手から「うひゃあっ!」という男の悲鳴が聞こえてきた。
そして、家の壁に何かが叩きつけられる鈍い音色と、扼殺された動物のようなうめき声。
その後は、静寂。
俺は意を決し、ラナの葉で火を灯した。
その火を燭台に移してから、家の奥の戸板に向かう。
家の外には出ない。それは家長の言いつけだ。
しかし、部屋の内から窓の外をうかがうなら、危険はないだろう。
3つある戸板のうち、1番左に手をかける。
ここは、壊れた戸板や木材やノコギリなど、日常ではあまり使わない生活用品をぶちこんだ物置小屋である。
俺は音をたてないようにそろそろと戸板を引き開けて、その奥に足を踏み込んだ。
窓は、向かい側の壁に空いている。
そちらに近づき、窓の外に燭台の火をかざすと――狩人の眼光を光らせるアイ=ファの横顔が、思いも寄らぬほど近い距離に見えた。
「来てしまったのか、アスタ。……まあよい。ならばその燭台をよこせ」
アイ=ファの指示に従って、俺は格子の間から燭台を差し出した。
闇の一点をにらみすえ、大刀をかまえた姿勢のまま、アイ=ファは逆の手で燭台を受け取る。
「絶対に外には出てくるなよ、アスタ。うつけ者がこやつらばかりとは限らぬからな」
「あ、ああ。だけど、お前は大丈夫なのか? うつけ者って、いったい……」
俺は木の格子に張りついて、何とかアイ=ファの目線をたどろうと試みた。
闇の中で、何者かがうずくまっている。
なかなか体格のよさそうな男だ。……それも、毛皮のマントは身につけていないが、渦巻き模様の装束を纏った、森辺の男衆である。
「恥を知らぬうつけ者どもめ。まさかお前たちがここまで愚かな真似をしでかすとはな。お前たちは、最後に残された贖罪の道を、みずから台無しにしてしまったのだ」
「違う! そうじゃない! お前たちに危害を加えるつもりなんてなかったんだ!」
抑制を失った、若い男の叫び声。
それは、俺の記憶にあるよりもしわがれており、大声を出しているのにきわめて弱々しく、まるで別人の声みたいに変質してしまっていたが――しかし、俺が聞き間違えることはなかった。
「どうして――どうしてあんたがこんな場所にいるんだ!?」
知らず内に、俺の声にも怒気がにじんでしまっていたと思う。
暗がりにうずくまったその男は丸めた背中をびくりと震わせて、また悲痛な声を張り上げた。
「し、信じてくれ。本当に、そんなつもりで逃げだしてきたわけじゃないんだ……お、俺たちは、お前たちを助けるために――そして、俺たちを助けてもらうためにやってきたんだよ!」
顔を上げて、膝立ちのままアイ=ファのほうにすり寄ろうとする。
アイ=ファがその鼻先に大刀の切っ先を突きつけると、その男は「うひい」とわめいて、後ろざまにひっくり返った。
青白い月の光に照らしだされる、その顔は――
いくぶんやつれて、涙と泥に汚れてはいたが、まぎれもなく、かつてのスン本家の長兄の顔だった。
「愚かな……お前たちを救うすべなどない。狩人としての仕事すらまともに果たせぬのなら、潔く森に朽ちるがいい」
「違うんだ! そうじゃないんだ! 俺たちはドム家から逃げてきたわけじゃない……いや、ドム家からも逃げてきたけど、そうじゃないんだ! 頼む! 助けてくれ!」
「わけがわからんな。アスタ、その部屋には蔓草の束があったろう。それを寄こせ。手足を縛って、ドム家に引き渡す」
「待ってくれ! このままドム家に引き渡されたら、俺たちは本当に頭の皮を剥がされちまうよ!」
恐怖の形相でまた叫び、そして、正気を失いかけた目で周囲の夜闇を見回す。
「で、でも、わかった! 縛るなら縛ってくれ! 抵抗はしない! もうドム家から逃げたりもしない! 絶対に約束する! だけどその前に、俺たちの話を聞いてくれ……そして、一刻も早く俺たちを家の中に入れてくれ! も、もしもあいつが追いかけてきたら、お前だって殺されちまうかもしれないんだぞ、アイ=ファ!?」
「あいつとは誰だ。私たちを害そうとする人間など、この森辺においてはお前たちぐらいしか存在すまい」
「そ、そんなことはない! あいつはきっと、スンを滅ぼしたお前たちを恨んでいるんだ! 死にたくなかったら、早く家の中に入れてくれ! あいつはやっぱり、化け物だった……いくらお前でも、きっとあいつを殺すことはできねえよ!」
「だから、あいつとは誰のことなのだ。お前の言っていることは支離滅裂だ」
かつてのスン本家の長兄ディガは、ついに泣き笑いのような顔になり――そして、か細く震える声で、言った。
「ザッツ=スンだ……先代家長の、ザッツ=スンだよ! 俺たちはあいつから逃げてきたんだ! 頼む! あいつが追ってくる前に、俺たちをお前たちの家に入れてくれ!」
◇
けっきょく俺たちは、招かれざる来訪者を家の中に迎え入れることになってしまった。
来訪者は、2名。ディガと、ドッドである。
俺の位置からは見えなかったが、アイ=ファの峰打ちをくらって倒れ伏したドッドは、アイ=ファによって背中を踏みつけられていたのだった。
そんな招かれざる客たちが、下座でぐったりとうなだれている。
むろんその腕は後ろ手で縛られており、足も、30センチほどの歩幅だけ許される形で拘束されている。歩くことは可能だが走ることは不可能、という格好だ。
そして、彼らは最初から丸腰だった。
刀もなく、狩人の衣もなく、彼らは着の身着のままで、ドムの家から逃げてきたのだ。
「ザッツ=スンは、虜囚としてジーンの家に捕らわれていたはずであろう。そのザッツ=スンから救ってほしいというのは、いったいどういう話なのだ?」
片膝あぐらで上座に陣取ったアイ=ファが、射るような目つきでディガとドッドをにらみすえる。
「お、俺たちをドム家から連れ出したのは、ザッツ=スンだったんだ。ドムの集落に火を放ち、家人があわてふためいているところに、助けに来てくれて……俺たちは、テイ=スンと一緒に4人でドム家から逃げだしたんだよ……」
「何だ、やはり自らの意志で逃げだしたのではないか」
「そ、それはしかたがないだろう!? この場で朽ちるか、ともに逃げるかを選べと言われたんだ! 逆らえばその場で殺されていた! ザッツ=スンっていうのは、そういうやつなんだ……」
そういうやつ、と言ったって、それは彼らの祖父であるはずだ。
分家のテイ=スンはまだしも、血の近い肉親をザッツ=スンと呼ぶのも不自然である。
「しかし、ザッツ=スンという男は病魔に犯されていたのではないのか? 骨と皮しか残っていない干物のような状態で、ジーン家までの道のりすら耐えられるのかと危ぶまれていたはずだが」
「ああ。この数年間は、自分の足で歩くこともできないほど、弱り果てていたよ……だけどきっと、あいつもスン家が滅んでしまったということを知ってしまったんだろう。それで、蘇ったんだ……見た目は相変わらず骨と皮ばかりだったが、あの目は……あ、あの目は、病で倒れる前と同じ目だった。あともう少しでくたばるはずだったのに、あいつは昔みたいな力を取り戻しちまったんだよ……」
そう言って、ディガはまたぶるぶるとその身体を震わせ始めた。
その隣りで、ドッドは無言のまま、うつむいてしまっている。
どちらもげっそりと頬がこけて、顔色は土気色であり、身体のあちこちが泥と草葉で汚れてしまっている。かつての傲慢さなど、微塵たりとも残っていない。
わずか3日で精魂尽き果ててしまったのか、それともザッツ=スンへの恐怖心からなのか――たぶん、その両方なのだろう。
「……ザッツ=スンは、スン家の覇権を取り戻す、と言っていた。スン家を裏切った愚か者には鉄槌を下し、またスン家が森辺の長になるのだ、と……」
そうつけ加えたのは、ドッドのほうだった。
ぼそぼそとした、陰気な声音である。
この男は、こんな声だっただろうか? やつれはてた姿よりも、その頼りなげな声音のほうが、まさしく別人みたいに変わり果ててしまっていた。
「そ、そうだ! 俺はてっきり他の家族も救いだして、みんなで森辺を出るのかと思っていたのに……あ、あいつはそんな馬鹿げたことを……」
「馬鹿げたことだと思うのならば、その場で諌めるべきであろうが?」
「い、言えることは全部言ったさ! スンの集落にはルウの連中が居残っている、スンの眷族もみんなルウ家と手を組んだ、もうあいつらに逆らうことはできないって、俺たちだって説得したんだよ!」
「そうしたら……あいつは、笑いだしたんだ」
ドッドの声も、頼りなく震えた。
かつては狂犬のように俺たちをにらみすえていた暗い青色の瞳が、すがるように俺たちを見つめてくる。
「4人もいれば、十分だ、と……悪鬼のように、あいつは笑っていた。家長のズーロなどは、覇権を取り戻した後に救えばいい、この4人で森辺にしかるべき秩序を取り戻すのだ、と狂ったようにあいつは笑っていた……」
「だ、だから俺たちは、あいつが眠った隙に、逃げ出してきたんだ!」
「……どうやらそのザッツ=スンという男は、頭の中身までも病魔に犯されてしまったようだな。わずか4人で、何ができるというのだ?」
「な、何もできやしないだろう。考えられるのは、ルウの家長や、お前たちを襲うことぐらいだ」
ディガの目が、弱々しく俺とアイ=ファを見比べる。
「も、もしもあいつがスン家の滅んだ理由を知ったら、大罪を暴いたファの人間が1番の仇敵ってことになるだろう? だから俺たちは……」
「私たちに危急を告げに来た、というわけか。だったらどうして、最初から素直に戸板を叩かぬのだ?」
「お、お前たちは俺たちを恨んでるじゃないか? 戸板を素直に開けてもらえるとは思えなかったから、何とか忍びこむ方法がないか探っていたんだ……」
「そんなやり口で、他者の信頼を得られると思うのか?」
アイ=ファがほんの少し語気を強めただけで、ディガは「ひいっ」と縮こまってしまった。
滑稽を通りこして、もはや哀れである。
普通は逆かもしれないが、俺としてはそんな印象だった。
アイ=ファはほどいたままの髪をぐしゃぐしゃとかき回して、不機嫌そうな視線を俺に飛ばしてきた。
「アスタ、お前はどのように思う?」
「うん? まあ、そうだなあ……その前にひとつ確認しておきたいんだけど、テイはどうなったんだ?」
「テ、テイ=スンは、ザッツ=スンと運命をともにすると言っていた。だから、置いてきたんだよ……」
「本当に?」
「ほ、本当だ! ザッツ=スンが狂ったみたいに笑ってる間も、あいつはいつもの調子でぼんやりそれを眺めているだけだった。……あいつはたぶん、もう自分の頭で考える力も残ってないんだよ……」
だから、分家の人間をそこまで追い込んだのは本家の人間ではないか、と俺も少し苛立ってしまう。
それに俺は、まだテイにアイ=ファの件を問う機会を得ていなかった。
家長会議の夜にアイ=ファを救ったのは、彼なのだろうか。
それなのに――彼は再び森辺に害をなす存在に成り果ててしまったのだろうか。
ひとり複雑な心情を抱えこみつつ、俺はさらに言葉を重ねる。
「それじゃあ、ザッツ=スンはどうやってジーン家から逃げだしたんだろう? ザッツ=スンとズーロ=スンだけは罪人として扱われていたはずだから、寝ずの番ぐらいはついていたはずだよね?」
「そ、そんなことは知らねえけど……ザ、ザッツ=スンは顔も服も返り血で真っ赤になっていたし、刀も持っていた。ひとりやふたりの男衆じゃあ、ザッツ=スンにかなうわけがねえんだよ……」
森辺の民の返り血にまみれながら、燃える集落の中に立ちはだかる、骸骨のように痩せこけた男。
想像しただけで背筋が寒くなるような図だ。
ディガなどは、奥歯をガチガチと鳴らしながら真っ青になってしまっている。
「お、俺たちも、夜の間は腕を縛られて、柱に繋ぎとめられていた。だけどその家にも火をつけられたから、ドムの女衆が革紐をほどいてくれたんだ。それで慌てて外に飛び出したら、ザッツ=スンが現れて……」
「……この場で朽ちるか、ともに逃げるかを選べと言われて、刀を突きつけられたんだ。集落のあちこちから火の手があがっていたので、男衆はみなそちらに気がいってしまっていたが、たぶん女衆の何人かはザッツ=スンの姿を見ていると思う……」
ディガよりは、まだしもドッドのほうが冷静さを残しているようだった。
俺は重い溜息をついてから、アイ=ファに向きなおる。
「……まあ、基本的に嘘とかはついてないんじゃないのかな。俺たちを襲うつもりだったら、それこそテイを連れてくるだろう」
丸腰のディガとドッドでは、アイ=ファひとりにも太刀打ちできるはずはない。しかし、もしもあのテイが刀を携えてやってきたらどうなるか――これは、想像したくない展開だ。
もっとも、アイ=ファのほうは徹頭徹尾、冷静そのものだった。
もしもザッツ=スンらがディガたちを追ってこの場に姿を現すようなら好都合だ、とさえ言っていたのだ。
自信が、あるのだろう。
それでも俺は、アイ=ファが人間を斬り伏せる姿などは見たくない――という思いを捨て去ることはできなかった。
そんな俺の心情も知らぬままに、アイ=ファはまたディガたちの姿をにらみすえる。
「それで、お前たちはどうするつもりなのだ? 私たちとしては、ドム家にお前たちを引き渡す以外の道はないのだが」
「そ、それでかまわない! だけど、ドムの集落に火をつけたのは俺たちじゃないし、俺たちもザッツ=スンに脅されてしかたなくあの場を逃げ出しただけなんだってことを、ドムの連中に言い添えてくれないか……?」
「そのようなことが私に言えるはずはないだろうが。ドムの女衆らがお前たちの会話を聞いていなければ、実際のところがどうであったのかを知るすべもないのだからな」
「そんな! それじゃあ俺たちはドムの連中に殺されちまうよ!」
アイ=ファは立てたほうの膝に頬杖をつき、力いっぱい溜息をついた。
「お前たちに誇りはないのか? かつては悪し様に罵っていた私たちに、どの面を下げてそのような泣き言を吐けるのだ? 私がお前たちの立場であったら、自ら頭の皮を剥ぎたいぐらいの心情に陥っていたであろうな」
「む、昔のことを怒っているのか? それだったら、いくらでも謝る! 俺は、お前の魅力にまいっていただけなんだ! この前だって、本気でお前を嫁に迎えるつもりだったんだ! お前たちに危害を加えるつもりなんて、これっぽっちもなかったんだよ!」
「ほう? 嫁取りに応じなければ谷から突き落とす、などと言っていたのではなかったのか?」
「ど、同胞の生命を殺められるわけはないだろう? あれはただの脅し文句だよ! 頼む! 信じてくれ!」
そう言って、ディガは額を床の敷布にこすりつけた。
アイ=ファはもう1度頭をかき回してから、いくぶん光を強めた目をドッドのほうに差し向ける。
「それでは、お前のほうはどうなのかな、かつての次兄よ? お前はこのアスタやルウの男衆に刀を向けたのであろう?」
「お……俺は、駄目なんだ……」
「駄目とは、何だ?」
「さ、酒を飲むと気が大きくなって……気に食わないやつを放っておくことができなくなって……我慢がきかなくなっちまうんだよ……」
やっぱり、陰気な声音である。
まさしく、痩せこけた野犬のような有り様だ。
その目が、ざんばらに垂れた髪の間から、くいいるように俺たちを見る。
「こ、こんなことを今さら言っても信じてはもらえないかもしれないが……酔った勢いでお前たちを傷つけることにならなくて、俺は心からほっとしているんだ……た、他者を殺めて平気な顔をしていられるほど、俺は強い人間じゃない……」
その言葉が、俺の心に強く引っかかった。
もしかしたら、これは俺にとって千載一遇のチャンスなのかもしれない。
この救い難い男たちの本質を見極める、という意味においてである。
「ディガ、あなたも顔を上げてもらえるかな?」
ディガは、のろのろと顔を上げる。
のっぺりとした、平坦な顔である。
そこそこでかい図体をしているのに、悪い意味で子どもみたいな顔つきだ。
そしてドッドも、野犬というか老犬みたいに萎れてしまっている。
こちらはもともと小柄な体格をしている上に、凶暴さを失ってしまうと、森辺の民とは思えないぐらい弱々しい。
ザッツ=スンが逃げだしたというのは、一大事だ。
ザッツ=スンとズーロ=スンだけは、その身で罪を贖わせるつもりであったし、また、すでにその旨をジェノス城にも通告してしまっていたのだから。
この夜の内にザッツ=スンを捕らえることができなければ、ジェノスの城に対する森辺の民の面目は丸つぶれであろう。
だからこそ、ドムやジーンの家長らは、このディガやドッドを許さないと思う。ドンダ=ルウやグラフ=ザザも、それは然りだ。
それならば、なおのこと、俺たちにはこの愚かすぎる男たちの本質を見極めなければならないはずだった。
「ディガ、あなたはさっき、森辺の同胞を殺められるわけがないって言っていたけど、それじゃあ町の人間が相手ならどうなのかな?」
「町の人間?」
愚鈍な牡牛のように、ディガは太い首を傾げる。
「な、何でいきなり町の話なんだ? 俺にはさっぱり意味がわからないんだが……」
「いや、町の人間なんてのは、森辺の民にとっては敵みたいなもんじゃないか? ああいう連中なら、まあそんなに心は痛めずに傷つけることもできるのかなと思ったのさ」
俺はなるべく軽薄に聞こえるような口調でそう言ってやった。
アイ=ファはいぶかしげに目を細めたが、ありがたいことに沈黙を守ってくれている。
「お、お前は町の人間とうまいことやってるんじゃないのかよ? ……ていうか、お前ももともとは町の人間なんだろう……?」
「町は町だけど、ジェノスの生まれじゃない。ジェノスの連中が森辺の民を見下しているのは、正直言って、いけ好かないね。俺の料理を買ってくれるのも、大半は南や東の人たちだし」
「ああ、そういうことか……お、俺にはよくわからねえよ。俺はあんまり、町には下りないんだ……」
「へえ? どうして?」
「だって……あいつら、おっかないじゃないか……?」
俺はついつい芝居を忘れて、「はあ?」と大きな声をあげてしまった。
その声の大きさに怯えてしまったのか、ディガはびくりと両肩をすぼませる。
「あ、あいつらはさ、森辺の民ってだけで俺たちのことを凄い目つきでにらみつけてくるだろう? うっかりひとりで出歩こうもんなら、物陰とかに引きずりこまれて何をされるかわからないし……だから俺は、もう何年も町には下りてないよ……」
絶句ものの証言である。
俺は気持ちを落ち着かせながら、ドッドのほうに目線を向けなおす。
「それじゃあ、あなたは? 宿場町で初めて会ったとき、あなたは町の人間に刀を向けようとしていたよね?」
「……町の人間は、嫌いだ。あいつらはみんな、森辺の民の敵だと思う」
「ふむふむ。だから女性をかどわかしたり、旅人を襲ったり、農作物を奪ったりしていたのかな?」
「え?」と、ドッドはその小さな目を丸くした。
そういえば、狛犬のような顔つきをしていてずいぶん厳つく見えるものの、ディガの弟ならば、俺と大して変わらないぐらいの年齢であるはずなのだ。そんな風にきょとんと目を丸くすることによって、彼はようやく年齢相応の顔に見えた。
「町の女なんかに、興味はない。それに、農作物なんて、どうやって盗むんだ? そんなことをしたら、衛兵に捕まってしまうだろう?」
「いやだから、衛兵に守られていない農村とかからだよ」
「それがどこにあるのか、俺にはわからない。……それに、俺たちは森の恵みで腹を満たしていたのだから、わざわざ町で食糧を奪う理由がない」
「ふーん? だけど町では、森辺の民がそういう悪行を繰り返していたっていう話が定着しているみたいだけどね」
「だったらそれは、大昔の話だろう。スン家が森の恵みを収穫する前、俺たちがまだ幼子だった時代の話だ」
「ああ、あの頃は俺たちもアリアとかポイタンを食べてたもんなあ」
などと、ディガが呑気たらしく相槌を打った。
そうか――と、俺は考えこむ。
確かにドーラの親父さんも、それが「いつ」の時代のことかは話していなかった。
なおかつ、十数年前なら、そんなに昔の話でもない。その時代に森辺の民が農作物を奪っていたなら、噂が語り継がれていてもおかしくはないだろう。ドーラの親父さんだって、若い頃に被害を受けた身なのかもしれない。
それに、ここで考えこむような話ではないのだ。
ドーラの親父さんに尋ねれば、あるていどの時期ぐらいは絞りこめるのだろうから。
「……お前はもしかしたら、そういう罪を犯したのが誰なのかを探っているのか?」
と、ドッドが暗い眼差しを向けてくる。
「だったらそれは、ザッツ=スンだ。父ズーロはジェノスとの関係がこじれることを何よりも怖れていたし、俺やディガは町を嫌っていた。町の人間にそのような真似をはたらこうとするのは、ザッツ=スンぐらいのものだよ」
「ふん。すべての罪を先代家長になすりつけるつもりか」
冷たい声音でアイ=ファが言うと、ドッドは悲愴に面をこわばらせ、ディガは力なくうなだれた。
「……俺たちの犯した1番大きな罪は、お前たちによってすでに暴かれている。ただ、俺たちには町の女をかどわかしたり、食糧を奪ったりする理由はない、と述べているだけだ。別にこのようなことは、信じようが信じまいがどうでもかまわない。……どうせジェノスの領主には、森辺の民を裁く覚悟などないのだからな」
それは、間違っている。というか、俺はつい数時間前に、それらの罪をうやむやにするべきではない、とガズラン=ルティムに進言したところであるのだ。
だけど、ドッドたちはその事実を知らない。
知らないのだから、そこまで保身に走る甲斐はないだろう。
だから――もしかしたら、その言葉はすべて真実なのかもしれない。
「なあ、そんなことより、ドムの連中に――」
と、ディガが情けない声をあげようとしたとき。
戸板が、外から荒っぽく叩かれた。
ディガとドッドは石化の魔法でもかけられたかのように動きを止め、アイ=ファはかたわらの大刀を引っつかむ。
「ファの家長よ、生きているならば目を覚ませ! 俺たちはドム家の者だ!」
そのひび割れた怒号のような声音に、俺はほっと力を抜き、アイ=ファも小さく息をつく。
が、ディガとドッドのほうは、いっそう死人のような顔色になってしまった。
「スン家の男衆どもが、ドムの集落に火を放ち、逃げたのだ! 生きているのか、ファの家長よ!」
「こちらは無事だ! いま戸板を開けよう!」
しなる革鞭のような声で、アイ=ファが応じる。
そうして立ち上がったアイ=ファの姿を、ディガとドッドは絶望に曇った目つきで見上げやった。
アイ=ファは毅然とした足取りで、玄関口に向かう。
「このような夜更けに危急を伝えていただき、感謝する。スン家の男衆が逃げたとのことであるが、いったい誰と誰が逃げたのだ?」
戸板ごしにアイ=ファが問うと、向こう側の声も少しだけ落ち着きを取り戻した。
「無事であったか。これで少しはドム家の名誉も救われた。……逃げたのは、ドム家で預かっていた3名と、ジーン家で捕らえていた先代家長の4名だ。先代家長を見張っていたジーン家の男衆は咽喉もとを食い破られ、刀を奪われた。そうしてジーン家から逃げだした先代家長がドムの集落に火を放ち、こちらの3名を逃がしたようなのだ!」
「……ふん。さしあたって虚言を吐いたわけではないようだな」
小声でつぶやき、アイ=ファは腕を組む。
「何か言ったか? それに、家人も無事なのであろうな? 無事であるならば、そのまま休んでくれ。ファの家は、ドムの男衆で守りぬく。ドム家の恥は、スン家の逆賊どもの血ですすいでみせよう!」
あのギバの頭骨をかぶった魁偉なる男衆らが、大挙してやってきたのか。
ディガはまたおこりにかかったかのように震えだし、ドッドはすべてをあきらめきったかのように深々と頭を垂れた。
そちらをさりげなく一瞥してから、アイ=ファはまた声をあげる。
「その気持ちはありがたく頂戴するが、その前にこちらも話がある。かつてのスン家の長兄と次兄は、私の手によってすでに捕らえたのだ」
「何!?」と、また怒号が爆発し、戸板が荒っぽく揺さぶられる。
ディガは「あひゃあ……」とうめき、その場に突っ伏してしまった。
「それは本当か!? 逆賊どもはそこにいるのか!? ならばここを開けろ、ファの家長!」
「すぐに開ける。だから戸板を壊してくれるなよ、ドムの男衆。……ただ、その前に聞いてほしい。こやつらは、べつだん私たちの生命を奪いにきたわけではないようだ。ドムの集落を逃げだしたものの、恐ろしくなってまたザッツ=スンのもとからも逃げてきたものであるらしい」
「ふざけるな! とにかくここを開けろ! そいつらを引き渡せ!」
「もちろん、引き渡す。ただ、その場で首を刎ねるのではなく、きちんと族長やドムの家長らに審議してもらえぬだろうか? こやつらは、先代家長に刀で脅されて、やむをえなく逃げることになった、と言い張っているのだ。その後に心を改めて、自ら戻ってきたというのならば、わずかばかりは罪も減じられるはずであろう?」
「そやつらはドムの誇りを汚し、信頼を踏みにじった! 首を刎ね落とす以外に道などあるか! いいからすぐにこの戸板を開けるのだ!」
「それでは開けられん。それがドムの総意であるというのならば、三族長を呼んでこい。それで納得のいく言葉が得られれば開けてやろう」
アイ=ファはぷいっと顔をそむけて、俺たちのほうに向きなおった。
ディガとドッドは、いつのまにか首だけをねじ曲げて、アイ=ファのほうを見やっている。
上座に居残った俺には、彼らの後頭部しか拝見できなかったのだが。腕を組んだ体勢でこちらを向いたアイ=ファは、見る見るうちに険悪な形相になり、そしてわめいた。
「何だその目は! そのような目で、私を見るな!」