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異世界料理道  作者: EDA
第七十九章 華燭と奉迎
1365/1702

ナハムとベイムの婚儀⑦~傀儡の劇(下)~

2023.6/11 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。


                ◆


『さて。長々と語らうのも、ここまでだ。狩人どもが森から戻る前に、さっさと出立することにしよう。アスタよ、その忌々しい子供をこちらに渡すがいい。余計な手間をかけさせたお礼に、首を刎ねてくれよう』


『そんな風に言われて、俺が従うと思うのか?』


『従わなければ、俺はこの指で貴様の目玉をくりぬいてやろう』


『あんたの言葉には、絶対に従わない』


 動かぬティアの身を抱きすくめながら、アスタはそろりと腰を浮かせました。

 アスタの算段は、ただひとつ。背後の断崖から、身を投じることです。狩人でも剣士でもないアスタが生き延びるには、もはやそれしか手立ては残されていませんでした。


 しかし――アスタが地面を蹴ろうとした瞬間、思わぬことが起きました。


『ぎゃあああああっ!』


 シルエルの、けだものじみた悲鳴が響きわたります。

 毒矢で眠らされていたはずのティアが、シルエルの右腕に噛みついたのです。


『は、離せ! 離せ、この薄汚い餓鬼めがああっ!』


 シルエルは、なんとかティアを引き剥がそうとします。

 しかしティアは、決して離そうとはしません。ティアもまた、このままシルエルを断崖の下に放り捨てようと考えていたのです。


 そのとき、影のように控えていた山賊のひとりが、刀を振り上げました。


『やめろ!』


 アスタの叫びもむなしく、ティアは斬り伏せられてしまいます。

 アスタは自分自身が斬られたような心地で、ティアの身を抱きあげました。


『アスタは、無力ではない……ティアを動かしたのは、アスタの力だ……』


『しゃべっちゃ駄目だ! ティア、しっかりしろ!』


『ティアは、アスタに出会えて幸福だった……アスタもそうであったら、とても嬉しい……』


                 ◆


 そしてその後は、猟犬ブレイブの導きで駆けつけたアイ=ファとドンダ=ルウとカミュア=ヨシュが、山賊を相手に活劇を演じることになった。


 劇としてはここが盛り上がりどころであろうし、広場の人々も大いにわきかえっていたが――俺は、涙をこらえるのに必死であった。

 あのときのティアが、どれほど静謐な眼差しで俺の顔を見上げていたか――その小さな身体から、どれほどの鮮血が噴きこぼれいたか――それを知るのは、現場にいた人間だけであるのだ。アイ=ファもまた、きつく眉をひそめて感情を押し殺しながら、自らの傀儡が山賊どもをなぎ倒していく姿を見守っていた。


 ともあれ、傀儡の劇もクライマックスである。

 俺は最後まで気をゆるめず、すべてをしっかりと見届ける所存であった。


                ◆


『馬鹿な……こやつらは、勇猛で知られるゲルドの山の民なのだぞ……?』


 倒れ伏した山賊たちの姿を見回しながら、シルエルは呆然とつぶやきました。

 ティアに右腕を噛み裂かれたシルエルにも、もはやあらがうすべは残されていません。《颶風党》のおぞましい野望は、ここで尽きることになったのです。


『……1年ばかりの罰では、貴様の心を清めることはできなかったようだな』


 森辺の族長ドンダ=ルウは、重々しい声でそのように伝えました。


『貴様の兄サイクレウスは、同じ日の地震いが原因で、魂を返すことになった。……そして最後には、正しき人間として娘と言葉を交わしたのだと聞いている』


『ふん……あの小男めは、くたばったのか。さぞかし自分の罪深さに恐れおののいていたのだろうな』


『血を分けた兄の死を知らされて、貴様はそのような言葉しか口に出せないのか?』


『忌々しい……本当に忌々しい連中だ。貴様たちは、さぞかし気分がいいのだろうな。生まれながらに正しい心を持ち、ただ生きているだけで、同胞の賞賛や共感を得ることができる。そんな安楽な生はあるまい』


 シルエルのそんな言葉に、アイ=ファが凛然と声をあげました。


『ふざけるな。生まれながらに正しき心を持っている人間などいない。人間とは、己の足で己の生を生きながら、正しき心を育んでいくのだ』


『違うな。俺は、生まれながらに人の心を持っていなかった。人間の善悪は、生まれる前から定められている。神とかいう性悪の創造主どもの気まぐれで、人間の運命は分かたれるのだ』


『違う。お前が正しく生きられなかったのは、お前がどこかで道を踏み外したからだ。正しく生きるよりも堕落したほうが安楽だと、自分の怠惰を許したのだ。お前は自分が悪逆である責任を、神になすりつけようとしているに過ぎん』


 ぎゃひゃひゃひゃひゃ……シルエルは、いきなり不気味な笑い声を爆発させました。


『貴様は大事な家人を奪われそうになって、殺したいぐらい俺を憎んでいるのに、まだ俺を正しき道に引き戻そうとしているのだな。まったくもって、お笑い種だ。いったいどのように生まれつけば、そこまで善良に振る舞えるのだ?』


『それも違う。私は確かに、お前が人間らしい心を取り戻せばいいと願っているが……それは、慈悲から生じた考えではない。お前は自分の罪深さを思い知り、相応の苦しみを負うべきであるのだ』


『慈悲だよ! それを、慈悲というのだ! 苦しめば、それが贖罪になるのだと、貴様はそのように信じている! 貴様は俺を、このように悪逆な俺の魂を、穢れた汚泥から救ってやりたいなどと目論んでいるのだ! ……しかし無駄なことだ! 貴様たちは、家族との絆を何よりも重んじているのだろう? 家族からの情愛を当たり前のように受け取って、自身もまた人間らしい情愛をせっせと育んできた、そんな連中に俺を理解することはできん!』


『……すべての森辺の民が家族の情愛に恵まれているとでも思っているのか、貴様は?』


 ドンダ=ルウは、鉈のように重く鋭い声でそのように言いました。


『自分が家族の情愛に恵まれなかったからこそ、それを自分の子に与えてやりたいと願う人間もいる。それとは逆に、どれだけの情愛に恵まれても、それをありがたいと思えなければ、意味はない。人間の情愛とは、他者と自分がそれぞれ手を差しのべ合わない限り、育まれることもないのだ』


『だから、無意味だと言っている! 俺には最初から、そんな人間らしい心は備わっていなかったのだからな!』


 やはりシルエルは、怪物だ――アスタは、そのように思いました。

 誰がどのように情理を尽くそうとも、シルエルにはその言葉が届かないのです。

 アスタの内から怒りは消えて、その代わりに深い悲しみが心を満たしました。


『俺たちの運命は、これで潰えた! しかし俺は、貴様たちに屈しはしない! 俺の魂を泥沼に捨てることができるのは、俺だけだ!』


 最後にそのような言葉を残して、シルエルは断崖から身を投じました。

 ドンダ=ルウはすかさず刀を振るいましたが、それはシルエルの背中をわずかに傷つけたに留まり――シルエルは、おぞましい笑い声と血しぶきを撒き散らしながら、深い谷底に消えていきました。


『奴を探せ! このまま逃がしたら、俺たちは見張りを立てずに眠ることを永遠に許されなくなる! 集落の狩人たちも呼びつけて、全員で奴を探すのだ!』


 …………。


 シルエルの行方が判明したのは、それから数刻の後でした。

 シルエルは断崖から落ちてもなお生命を失わず、ひとり傷ついた身で逃げようとしたところを、ジェノスの勇敢な兵士によって斬り捨てられることになったのです。


『まさか、あれだけの手傷を負って、まだ生き永らえていたとはな。とどめを刺してくれたジェノスの兵士には、感謝するばかりだ』


『うん。あとはティアの回復を待つばかりだな』


 ティアもまた深い傷を負ってしまいましたが、森辺の民の手厚い看護で何とか一命を取りとめることができたのです。

 アスタとアイ=ファは仕事を休んで、ティアの目覚めを待つことになりました。


『それにしても、不可思議な心地だな』


『不可思議って、何がだ?』


『《アムスホルンの寝返り》によって、3名の大罪人はそれぞれ異なる末路を辿ることになった。サイクレウスは魂を返し、スンの家長は我が身を顧みずに大勢の人間を救い……そしてシルエルは、再び大罪に手を染めることになった。私は人の意思こそが運命を紡ぐのだと信じている身だが、このたびばかりは神の意思というものを感じてやまんのだ』


『……神の意思を、人の子が読み解くことはできない……』


『ティ、ティア! 目が覚めたのか?』


『アスタ、無事だったのだな……ティアは、嬉しく思う……』


 ティアは澄みわたった目で、アスタとアイ=ファの姿を見比べました。


『やはり、アイ=ファがアスタを救ってくれたのだろう……? アスタの身を守ることができなくて、申し訳なく思う……』


『何を言っている。お前がいなければ、アスタは私たちが戻る前にかどわかされてしまっていたはずだ』


 アイ=ファはとても優しい声で、そのように答えました。


『お前は自分の生命を使い、アスタの身を守ったのだ。お前はもう、誰にその身を恥じる必要もない。傷が癒えたら、胸を張って故郷に帰るがいい』


『ティアは……己の罪を贖うことができたのだろうか……?』


『もちろんだよ。俺がこうして元気でいられるのは、ティアのおかげだ。ありがとう、ティア』


 ティアは満足そうに微笑むと、再び眠りに落ちました。


 …………。


 そうして大罪人シルエルと《颶風党》にまつわる騒乱は、終わりを迎えました。

 魂を返したのはシルエルひとりで、残りの山賊たちは西の王都で審問にかけられる運びとなったのです。


 毒で眠らされた獅子犬ジルベやトトスたちも、目覚めたあとは元気いっぱいです。

 ティアも大層な深手を負ってしまいましたが、長きの時間をかけて元気になることができました。

 また、かつての同胞がとんでもない騒ぎを起こしたことに心を痛めて、ゲルドの身分ある人たちが森辺の集落まで足を運ぶことになりました。


 そして――このたびの騒乱を重く受け止めたジェノス侯は、ひとつの決断に至ることになりました。

 トゥランで使役していた北の民の奴隷たちを、南の王国ジャガルに受け渡すことにしたのです。


 北の民たちは全員が南方神の洗礼を受けて、ジャガルを第二の故郷にすることに相成りました。

 奴隷を失ったトゥランは新たな領民をつのり、若き当主リフレイア姫のもとで再建を目指します。


 そうして平穏な生活を取り戻したアスタは、今日も元気に宿場町の屋台で働いています。

 そんなアスタの心には、ひとつの強い思いが宿されていました。


『人を愛し、人に愛されることを、幸福だと感じられないなんて……そんな気の毒な話はないよ』


 そしてアスタは、父なる西方神に祈りました。


『俺たちには、シルエルを正しく裁くことができなかったみたいです。シルエルの魂は、あなたがたが裁いてください。……彼だって、もともとはあなたたちの子だったんですから』


 もうあのように悲しい存在が、この世で迷い子になりませんように――そんな風に祈りながら、アスタはその日も元気に働くことになりました。


 きっとこの先も、アスタはさまざまな変転と騒乱に見舞われることになるのでしょう。

 それはまた、別のお話となります。


                  ◆


「……これにて、『森辺のかまど番アスタ』の物語は読み終わりでございます」


 舞台の脇から姿を現したリコが、ぺこりと一礼した。

 しんと静まりかえっていた広場に、歓声と拍手が爆発する。俺もまた、惜しみなく手を打ち鳴らすことになったが――リコの姿は、すっかり涙でぼやけてしまっていた。


 さまざまな感情があふれかえって、どうしても涙を止めることができなかったのだ。とりわけ今回はティアの存在が大きく関わっていたため、情緒を乱されてならなかった。


(これじゃあまた、アイ=ファに叱られちゃうな)


 俺は手の甲で涙をぬぐいつつ、かたわらのアイ=ファを振り返る。

 すると――アイ=ファはきわめて厳しい面持ちを保持しながら、そのなめらかな頬に俺以上の涙をこぼしてしまっていた。


「ア、アイ=ファ、大丈夫か?」


 アイ=ファがぷるぷると首を振ると、跳ねた涙が俺の手の甲に落ちた。

 俺もまたいっそうの涙をこぼしつつ、懐から取り出した織布をアイ=ファに手渡す。アイ=ファは無言のまま織布で顔を覆い、玉虫色のヴェールを羽織った肩を小さく震わせた。


 アイ=ファもまた、ティアに思いを馳せているのだろう。

 アイ=ファがそれ以外に、涙をこぼす理由はない。ティアとの別れを遂げる際には、アイ=ファも子供のように声をあげて泣いてしまっていたのだ。


 傀儡の劇の中で、確かにティアは生きていた。あれは、俺たちの知るティアそのものであった。純真で、強靭で、森辺の民よりも無垢な心を持った、俺たちの大切な友だった。


 故郷に帰ったティアは、どのように過ごしているだろうか。

 年の終わりには、また赤い染料で身体を染めなおし――そして、狩人として働く期間を終えたのちは、伴侶となるべき相手を見出すことがかなったのだろうか。ティアの親や妹たちや、狼の《白》や大蛇の《ベルゼ》は元気だろうか――俺たちには、それを知るすべも残されていなかった。


「……なんだ。そろいもそろって、お前たちは何を心を乱しておるのだ?」


 と――横合いから、そんな皮肉っぽい言葉が聞こえてくる。これは、ラヴィッツの長兄の声である。

 いくら彼が皮肉屋であっても、こんなタイミングでそんな言葉をかけられたら、アイ=ファが逆上しかねない。そのように考えた俺は、慌てて声のあがった方向を振り返ることになったが――敷物の脇にたたずんだ彼が見下ろしているのは、モラ=ナハムとフェイ・ベイム=ナハムの両名に他ならなかった。


「……わたしもティアの働きについては人づてで聞き及んでいたのですが、こうまでつぶさに語られることはなかったので……つい胸を打たれてしまいました」


 そのように応じるフェイ・ベイム=ナハムはゆったりと微笑んでいたが、その頬には涙が伝っていた。婚儀の間はずっと涙をこらえていたのに、傀儡の劇で落涙してしまったのだ。


「ふん。確かにティアの働きは見事なものであったが、あやつは友でも同胞でもないのだぞ?」


「はい、承知しています。友でも同胞でもない相手の行いに胸を打たれるというのは、森辺の習わしに反しているのでしょうか?」


「ふん。そもそもそのような前例はなかろうから、習わしだって存在しなかろうよ」


 ラヴィッツの長兄はにやにやと笑いながら、モラ=ナハムのほうに向きなおる。


「しかし、それよりも解せないのは、お前だな。お前は何を、そのように猛っているのだ?」


「俺は……山賊どもに、深い怒りを覚えている……あの、かまど小屋に火矢を射かけられた際には……フェイ・ベイムやマルフィラも居合わせていたのだからな」


 そのように答えるモラ=ナハムはモアイ像のごとき無表情のまま、落ちくぼんだ目に瞋恚の炎を燃やしていた。

 ラヴィッツの長兄は「ははん」と肩をすくめる。


「それとて、今さらの話であろうよ。1年以上も過ぎてから文句をつけても、詮無きことだ」


「わかっている……しかし、リコたちの劇は、あまりに見事な出来栄えであるので……その許されざるべき光景が、まざまざと想像できてしまったのだ」


 そのように語るなり、モラ=ナハムはのろのろと俺のほうに向きなおってきた。

 燃える双眸が、真正面から俺を見据える。俺が慌てて頬の涙をぬぐおうとすると――それよりも早く、モラ=ナハムの分厚い手の平が俺の両肩をわしづかみにしてきた。


「アスタよ……お前の勇気に、敬意と感謝を捧げる……俺の大事な伴侶と妹が無事に済んだのは、お前が勇気ある行動を取ってくれたおかげだ」


「い、いえ。俺はティアの提案に乗っただけですので……」


「ティアは強き狩人であるので、アスタを守るために最善の道を見出すことがかなったのであろう……しかし、狩人ならぬアスタがその言葉に従うには、並々ならぬ覚悟が必要であったはずだ……他の女衆を救うために、自ら危険な場に飛び出したアスタの勇気に、感謝する」


「……俺にとっても、フェイ・ベイム=ナハムやマルフィラ=ナハムは大事な同胞です。俺とティアの選択が間違っていなかったことを、心から喜ばしく思っています」


 俺がそのように答えると、モラ=ナハムは激情をいくぶん収めて「うむ……」とうっすら微笑んでくれた。


「だから、そんなやりとりも1年以上は昔に済ませておくべきであろうよ。……しかしまあ、他の連中も大差はないようだな」


 ラヴィッツの長兄は皮肉っぽい笑顔のまま、広場を見回した。

 すでに歓声や拍手はやんでいるが、多くの人々は熱っぽく声をあげている。おそらくは、ただいまの劇の感想をぶつけ合っているのだろう。ある者は笑顔であり、ある者は怒りの形相であり、ある者は感服しきった面持ちであり、ある者は涙をこぼしており――何にせよ、平静な心持ちを保っている人間はほとんど存在しないように見受けられた。


「……このたびも、実に見事な出来栄えであった」


 と――そんな中、メルフリードの冷たく冴えわたった声が響きわたる。

 たちまち人々は押し黙って、メルフリードのほうを振り返った。メルフリードは敷物から身を起こし、さらに言いつのる。


「わたし個人は、劇の内容に不備はないように思ったが……しかしまた、わたし個人の考えで是非を決することはできん。こののちも、ジェノスの主たる貴族および三族長にあらためて吟味していただくことになるが……外交官フェルメス殿は、どのようにお考えか?」


「ええ。僕としても、不備はないように思います。聖域の民に関しても、ジェノスの貴族の扱いに関しても……まずは十分な配慮がなされていたのではないでしょうか?」


 そのように語りながら、フェルメスもふわりと立ち上がった。


「そもそも聖域の民と顔をあわせたことのある人間は稀ですので、こちらの劇からティアの正体を察することのできる者はそうそういないことでしょう。また、ジェノスの貴族に関しては……シルエルのような大罪人を生み出してしまったという汚名はまぬがれませんが、ただちに誇りを汚されるような内容ではないかと思います」


「なるほど。では、ティカトラス殿は如何であろうか?」


「うん! とにかく素晴らしいのひと言に尽きるよ! 今回は傀儡の衣装にも気合が入っていたし、筋書きや語りの出来栄えなどはそれ以上であったね!」


 ティカトラスは、花火が弾けるような勢いで身を起こした。


「それに、誰にとっても不都合のない内容だろうと思うよ! いっそ王陛下の前で披露してもらいたいぐらいだね!」


 そんな風に声を張り上げながら、ティカトラスはひょこひょことリコたちのほうに近づいていく。それでデギオンとヴィケッツォも、取り急ぎ追従することになった。


「リコにベルトン、お疲れ様! 今日の見物料は宴料理でまかなわれると聞いているけれど、わたしはどうしても我慢がならない! ここはどうか特別に、見物料を払わせてくれたまえ!」


 ティカトラスの細長い指先が、1枚の貨幣を差し出す。かがり火にきらめく色合いで、それが銀貨であることが知れた。


「ぎ、銀貨ですか? そこまでのお代をいただくわけには……」


「いいじゃないか! 銀貨なんて、以前にも渡したことがあるだろう?」


「あれは、わたしたちの成長に対する祝福であったのでしょう?」


「うん! 今回は、初のお披露目に対するご祝儀だよ! 毎回これだけのお代を出すわけじゃないから、心配はご無用さ!」


 ティカトラスがそのように言いつのると、リコは頬を火照らせながら微笑んだ。


「ありがとうございます。こちらのお代も、新たな傀儡や衣装につかわせていただきます」


「うんうん! また今日ぐらい素晴らしい劇が披露される日を心待ちにしているよ! それじゃあわたしは、祝宴に戻らせていただこうかな!」


 ティカトラスが弾むような足取りで広場のほうに足を向けると、人々も祝宴のさなかであったことを思い出したかのように賑わい始めた。

 そんな中、メルフリードはダリ=サウティへと呼びかける。


「では、劇の内容の吟味に関しては、また後日ということで。市井における披露は、ジェノス城と森辺においてそれぞれ吟味をして問題なしと判じられたのちにということにさせていただく」


「うむ。ドンダ=ルウやグラフ=ザザにも、自らの目で見定めてもらう必要があるからな。しかしおそらく、どちらも文句をつけることはあるまい」


「こちらもそれは、同じことだ。しかし、憶測で動くことはできんからな」


 そうしてメルフリードは、最後に俺とアイ=ファのほうに近づいてきた。


「ファの両名にも、確認させてもらいたい。現時点で、確たる不備はなかったであろうか?」


「うむ。問題はなかろうと思う」


 これまでの時間で回復したアイ=ファは、凛然と言葉を返す。

 その目はしっかり赤くなってしまっていたが、もちろんメルフリードはそれに触れることなく「そうか」と首肯した。


「では、今日のところはこれまでとする。あとは自由に、祝宴を楽しんでもらいたい」


 そうして敷物に座していた人々も、のきなみ祝宴の場に戻ることになった。

 ユーミたちとはすっかりはぐれてしまったし、ティカトラスたちはさっさと行ってしまったので、俺とアイ=ファはふたりきりだ。俺はまだまったく静まっていない心をなだめながら、アイ=ファに笑いかけてみせた。


「とりあえず、リコたちに挨拶をしておかないか? 立派な劇だったって伝えておきたいしな」


「……そうだな」と、アイ=ファは無表情に応じる。心の乱れを決して表に出すまいというそのたたずまいが、俺の胸を温かくしてやまなかった。


 そうして舞台のほうに近づいてみると、リコとベルトンは数々の傀儡を木箱に片付けつつ歓談している。そこに集っていたのは――なんと、デイ=ラヴィッツにリリ=ラヴィッツであった。


「あっ、アスタにアイ=ファ! 劇の出来栄えは、いかがでしたか?」


 こちらの接近に気づいたリコが、きりりと引き締まった面持ちで問うてくる。俺は笑顔で、それに答えてみせた。


「申し分のない出来栄えだったよ。細かい部分は脚色されてるんだろうけど……そんなのはまったく気にならないぐらい、立派な出来栄えだったね」


「ありがとうございます。今回はアスタしか立ちあっていなかった場面が長かったので、アスタの評価が心配だったのです」


 リコは緊迫の表情を解いて、ほっと息をついた。

 すると、額に幾筋もの皺を刻んだデイ=ラヴィッツが声をあげる。


「ただ今回は、とりわけ貴族の心情を慮っているような内容であったな。とりわけトゥラン伯爵家の人間に関しては、シルエルの他に罪人はいないとでも言いたげであるように思ったぞ」


「いえ。決してそのようなつもりはありません。最初のきっかけはどうあれ、サイクレウスという御方が大きな罪を犯したことに変わりはないのでしょうからね」


 リコは穏やかな面持ちのまま、そのように応じた。


「わたしはなるべく平坦に、私心なく筋書きを仕上げたつもりです。それでもサイクレウスという御方に罪がないと感じたならば……それは、あなた自身がそのようにお考えなのではないでしょうか?」


「ふん。そんなわけがあるか。サイクレウスという貴族には……ズーロ=スンと同程度の罪があるのであろうよ」


 額どころか禿げあがった頭のてっぺん近くにまで皺を寄せながら、デイ=ラヴィッツはそのように言い捨てた。

 そしてアイ=ファのほうを振り返り、何か口を開きかけたが――途中で「ふん」とそっぽを向いて、そのまますたすたと歩み去ってしまう。リリ=ラヴィッツはお地蔵様のごとき笑顔を残して、それを追いかけていった。


「……劇の出来栄えは、申し分なかった。ただ一点だけ、いいだろうか?」


 と、アイ=ファがそのように言いだしたので、リコはたちまち面を引き締めることになった。


「はい、何でしょう? どのように些細な不備でも、お聞かせ願いたく思います」


「不備というほどのものではないのだが……終わり際の場面で、私がシュミラル=リリンの言葉を語っていたな。それらしい前置きはされていたものの、私が『神の意思』などと言いたてるのは不自然であるように思える」


 そのように告げてから、アイ=ファはふっと微笑んだ。


「しかしまあ、作り直せと言いたてるほどのことではない。他の出来栄えが見事であったために、小さな不自然さも引っかかってしまうのであろう。ただおそらくは、ドンダ=ルウも同じような文句をつけるのではないかと思うぞ」


「ドンダ=ルウが? ……ああ、ライエルファム=スドラの語った言葉をドンダ=ルウの言葉として語らせた点についてでしょうか?」


「うむ。家族と確かな絆を結べないまま失ってしまったのは、ライエルファム=スドラであるからな。あの言葉は、ライエルファム=スドラが語るからこそ重みが増すのやもしれん」


「そうですか……」と、リコは唇を噛んだ。


「傀儡というのはなるべく少ない数に絞るべきですので、シュミラル=リリンやライエルファム=スドラは登場させないことにしたのですが……わたしはまだまだ、物語の掘り下げが足りていなかったようです。粗末な劇をお見せしてしまったことを、心よりお詫びいたします」


「おいおい。まさか今さら、手直しをしようってんじゃねーだろうな? こいつはひと月がかりで仕上げた劇なんだぞ?」


 ベルトンが仏頂面で文句をつけると、リコは厳しい表情で「うん」とうなずいた。


「わたしたちには、アスタの物語を正確に伝える義務があるんだよ。もちろん多少の脚色はせざるを得ないけど、目に見えてる不備を見過ごすことなんて許されないよ」


「新しい傀儡を舞台に組み込むのに、どれだけの手間がかかると思ってるんだよ? ……ああもういいや。面倒な話は、明日にしよーぜ。俺はもうくたびれ果てて、頭が回らねーよ」


「うん。明日から、また頑張ろうね」


 と、リコはすみやかに笑顔を取り戻した。

 いっぽうアイ=ファは、いくぶん申し訳なさそうに微笑んでいる。


「私は余計な口を出してしまったようだな。私の勝手な言い分など、聞き流してかまわんのだぞ?」


「とんでもありません! アイ=ファは誰よりも事情をわきまえているおひとりであるのですから! そのお言葉を無下に扱ったら、物語に生命を吹き込むことなど望むべくもありません!」


 リコは闘志を燃やしながら、そのように声を張り上げる。

 そこに、音もなく近づいてくる人影があった。フェルメスとジェムドである。


「リコにベルトン、お疲れ様でした。このたびも、素晴らしい出来栄えでありましたね」


「あ、どうも! お目汚しを失礼いたしました!」


 もちろんリコもフェルメスとは何度か顔をあわせているはずなので、ぴょこんと一礼する。そちらに微笑みかけてから、フェルメスはすうっと俺のほうに近づいてきた。


「アスタも、お疲れ様でした。……アイ=ファ、少しだけお目こぼしをお願いいたします」


 そのように告げるなり、フェルメスは俺の手の先を握りしめてきた。


「ど、どうしたのです、フェルメス?」


「いえ……《颶風党》にまつわる一件は、僕もつぶさにうかがっていたのですが……やはりリコたちの手腕が見事であるために、アスタの抱いた怒りや悲しみや恐怖の念というものが、まざまざと伝わってきてしまうのでしょう。アスタがあのような苦難を乗り越えて、健やかな生活を取り戻してくれたことを、心より得難く思います」


 フェルメスの白魚のごとき指先が、俺の手をきゅっと握りしめてくる。

 アイ=ファは眉をひそめていたが、文句をつけようとはしなかった。


「この騒乱から10日も経たない内に、僕とアスタは出会うことになったのですよね。それなのに、当時のアスタはいっさい陰りをおびることなく、光り輝いていたように思います。アスタの強靭なる魂に、どうか祝福を捧げさせてください」


「お、大げさですよ。俺はべつに、手傷を負ったわけでもありませんし……本当に大変であったのは、ティアのほうです」


「ええ。きっとアスタたちは、このような騒乱の記憶よりもティアとの別れに心を乱しておられるのでしょうね」


 そう言って、フェルメスは可憐な乙女のように微笑んだ。


「森辺の民は、清廉で強靭です。そしてアスタもそのひとりであるのだということを、あらためて思い知らされた心地です。……どうかこれからも、森辺の民として強く正しく生きてください」


「……フェルメスにそのように言っていただけるのは、俺としても嬉しい限りです」


 そうして俺がフェルメスに笑顔を返したところで、広場の中央から歓声がわきたった。

 見てみると、若い女衆が儀式の火の前に進み出ている。そしてそこには、ユーミの存在も含まれていた。


「あ、きっと歌のお披露目ですよ。俺たちも、聴きにいきませんか?」


「若い女衆による、歌の披露ですか。……そういえば、ずいぶん昔にもアスタと肩を並べて聴き入った覚えがあります」


「はい。俺もそのときのことを思い出していました」


 あれは、一昨年の合同収穫祭――それこそ、リコたちが『森辺のかまど番アスタ』を初お披露目した直後ぐらいの時期である。まだ出会ってからふた月少々であったフェルメスを、そちらの祝宴に招待することになったのだ。その場でも、みんなにせがまれたユーミが見事な歌声を披露していたのだった。


 あの夜のフェルメスは、とても満足そうにユーミの歌声に聴き入っていた。それで俺もこの複雑怪奇な人柄をしたフェルメスと多少ながら喜びを分かち合えたような心地で、嬉しかったのだ。

 しかしその直後にやってきた復活祭の期間で、喜びの思いは不審の念に転化されることになった。フェルメスがサプライズで『聖アレシュの苦難』という《星無き民》にまつわる演劇を披露させて、俺の心を大いにかき乱してくれたのだ。


 それで俺は、フェルメスのことがいっそうわからなくなってしまった。けっきょくこのお人は《星無き民》にしか興味がないのかと、失望することになってしまったのだ。


 それから1年と少しが過ぎて、俺たちはまた祝宴をともにしている。一歩ずつ絆を深めてきた俺たちは、あの夜ともまた異なる心持ちでユーミの歌声を聴くことができるはずであった。


 この1年と少しの間で、俺はフェルメスを筆頭とするさまざまな人々と交流を深めると同時に、ティカトラスを筆頭とするさまざまな人々と出会い――ティアとは、涙の別れを告げて――リコたちは、新たな劇を考案し――フェイ・ベイム=ナハムとモラ=ナハムは、ついに婚儀を挙げることになった。俺はつい先月にも復活祭で1年間の思い出を振り返ることになったが、今日という日も感慨と無縁ではいられなかった。


「では、我々も広場に戻るとするか。……まさか、手を握ったまま向かうわけではなかろうな?」


 仏頂面のアイ=ファがずいっと進み出てくると、フェルメスは笑顔でそちらを振り返った。


「それではまるで、将来を誓い合った恋人同士であるかのようですね。まあ、僕はまったくかまわないのですが……そういった行いは、森辺の掟に抵触してしまうでしょうか?」


「掟などとは関わりなく、ファの家との正しき絆のために考えなおしてもらいたく思う」


「そうですか。それは残念なことです」


 だいぶ調子の出てきたフェルメスはにっこりと笑いつつ、名残惜しそうに俺の手を離した。

 そうして広場には、ユーミたちの歌声が響きわたり――さまざまな思いの渦巻く婚儀の場に、また新たな彩りを加えてくれたのだった。

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