ナハムとベイムの婚儀⑥~傀儡の劇(上)~
2023.6/10 更新分 1/1
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スン家とトゥラン伯爵家にまつわる騒乱をくぐりぬけたのちも、森辺のかまど番アスタはとてつもない騒々しさの中で日々を過ごすことになりました。
屋台の商売は繁盛し、日を追うごとに町の人々との絆は深まっていきましたが――それは決して、平坦な道ではなかったのです。
あるときには、森の主という巨大なギバが森辺の安息を脅かし、数多くの狩人が深手を負うことになってしまいました。
アスタにとって誰よりも大切なアイ=ファも、森辺の族長ドンダ=ルウも、森の主を退治するために深手を負ってしまったのです。
また、雨季にはアスタ自身が病魔に倒れることになりました。
アスタは三日三晩高熱にうなされて、あわや魂を返すところであったのです。
ですが、それらの苦難を退けたのちには、数々の幸福な出来事を授かることもできました。
あるときには、森辺に婿入りを願う東の民によって、森辺に猟犬がもたらされることになりました。
またあるときには、懇意にしている人々の婚儀に立ちあうことになりました。
またあるときには、貴賓として城下町の舞踏会に招かれることになりました。
またあるときには、王都の貴族から獅子犬という立派な犬を授かることになりました。
そして――アスタはついに、西方神の洗礼を受けることができました。
わけもわからないまま森辺で目覚めて、寄る辺ない身であったアスタも、これで西方神の子となることが許されたのです。森辺の民として、ひいてはジェノスの民として生きていきたいと願っていたアスタにとって、それは何より得難い出来事でありました。
そうしてアスタが森辺にやってきてから、1年と少しが過ぎた緑の月の終わり頃――また新たな騒ぎが巻き起こりました。
森辺に流れるラントの川で、ひとりの少女が発見されたのです。
少女の名前は、ティア――モルガの深い森の向こう側で暮らす、そちらも猛き狩人の一族である少女でありました。
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そうしてティアの傀儡が登場したところで、俺はいっそう胸を高鳴らせることになった。
ティアの傀儡は、赤い髪に赤い瞳をしている。ただしその肌は、町の人々と同じように黄白色をしていた。ティアが聖域の民であるということは、絶対に秘匿しなければならないのだ。それは、聖域の民に対してどのような心持ちであるかもわからない邪神教団の関心を集めないための措置であった。
そのティアの傀儡は、舞台の上でくったりと身を横たえている。
その姿が、俺にティアとの出会いの場面を思い出させて、胸を騒がせるのだ。
(それにしても……今回は、すごく豪華な作りだな)
ここまでのエピソードはすべてダイジェストであったが、この時点ですでにいくつもの新しい傀儡や新しい衣装がお披露目されている。森の主たる巨大ギバ、猟犬ブレイブ、獅子犬ジルベにもきちんと傀儡が準備されていたし、アイ=ファの傀儡も婚儀の祝宴では森辺の宴衣装、城下町の舞踏会では城下町の宴衣装と、それぞれ別に準備されていたのだ。城下町での公演を許されたリコたちは大層な稼ぎをあげているという話であったので、そういった収入を惜しみなく新たな劇に投入しているようであった。
ともあれ、物語はまだまだ序盤である。
本筋は《颶風党》にまつわる騒乱であるため、そちらで主役級の活躍をするティアについて語らなければならないのだ。なおかつ俺とアイ=ファにとっては、こちらの内容も本筋と同じぐらい重要であったのだった。
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『誰だ、お前たちは! ティアの集落で、何をしている!』
やがて目を覚ましたティアは、片方の足が折れているとも思えない身軽さでアスタに飛びかかりました。
『うわあ! ちょ、ちょっと待ってくれ! こ、ここは君の集落じゃなくて、森辺の集落だよ! ラントの川に落ちた君は、この森辺の集落まで流れついたんだ!』
『虚言を吐くな! 我々の集落に勝手に踏み入ることは許さん!』
『ほ、本当だってば! ほら、周りをよく見てごらんよ!』
アスタの言葉が真実であると知ったティアは、たちまち悄然としてしまいました。
『勝手に集落に踏み入ったのは、ティアのほうだったのか……それなのに、ティアはお前を傷つけてしまった。これは、許されざる大罪だ』
『いや、わかってくれればいいんだよ。こんな痣は、すぐに消えるだろうしさ』
『それでは、ティアの罪は許されない! ティアはお前を殺めようとしたから、お前のために生命を使わなくてはならないのだ! それまでティアは、お前のそばから離れないぞ!』
ティアがそのように言い張るため、今度はアスタたち森辺の民が頭を抱えることになりました。
森辺の集落では、勝手に余所の人間を住まわせることは許されないのです。それでアスタたちは、森辺の三族長の判断を仰ぐことになりました。
『……貴様はずいぶんと、清廉な魂を持っているようだな。森辺の掟とジェノスの法を守ると約束するならば、傷が癒えるまで集落に留まることを許してやろう』
『族長ドンダ=ルウの取り計らいに、感謝する! ティアは傷が癒えるまでに、必ず恩義を返してみせるぞ!』
そうしてティアは、ファの家で暮らすことになりました。
ティアはとても正しい心を持った娘であったため、森辺の民からもすぐに信頼を得られることになったのです。
青の月の家長会議では、すべての氏族にティアが紹介されることになりました。
そして、町での商売で豊かな生活を得ようというファの家の申し出も、無事に認められることになりました。
これからは、森辺の民が一丸となって町での商売に励み、人々と正しい交流を深めていくのです。アスタとアイ=ファは手を取り合って喜びを分かち合い、これからも力を惜しまずに頑張っていこうと誓いました。
そうしてティアという珍客を迎えながら、日々は平穏に過ぎ去っていったのですが――そこでまた、新たな騒動が巻き起こりました。
『アムスホルンの寝返り』――未曾有の地震いが、ジェノスを襲ったのです。
その地震いで、ファの家は倒壊してしまいました。
幸い、怪我人はありませんでしたが――アスタやアイ=ファの思い出の品々も、すべて瓦礫の山に埋まってしまったのです。
それでアスタが悲しみに暮れていると、ティアが元気に声をあげました。
『それなら、ティアが取ってきてやろう。ティアはアスタたちより身体が小さいから、瓦礫の下にもぐりこめるはずだ』
『いや、それは危ないよ。途中で家が崩れたら、ティアが怪我をしてしまうかもしれないし……』
『ティアの生命は、アスタのために使わなければならないのだ。これはきっと、神が罪を贖う機会を与えてくれたのだと思うぞ』
『あっ! ティア!』
『馬鹿者! すぐに戻れ! 本当に魂を返してしまうぞ!』
『大丈夫だ。……うむ。アスタたちの大事な品も、壊れてはいないようだぞ』
『いいから、戻れと言っているのだ! 何かおかしな音がしているぞ!』
『ティア、急いで! もう家がもたないよ!』
ガラガラガラ……もともと崩れていた家は、さらに無惨に崩れ落ちてしまいました。
『ああ、どうしよう……俺のせいで、ティアが……』
『いや。あれを見よ、アスタ』
『けほっ、けほっ。……うー、たくさん砂を吸ってしまった。ティアは、水が欲しい』
『ティア! 無事だったのか!』
『うむ。どの品も無事だったぞ。アスタも神に感謝するといい』
『もう、無茶な真似をしないでくれよ! 俺たちがどれだけ心配したと思ってるんだ?』
『ティアの身を案じてくれるのはありがたいが、それよりも大事な品が無事であったことを喜ぶべきだと思うぞ。そら、こちらはアイ=ファが大切にしていた品々だ』
そう言ってティアが差し出したのは、アイ=ファの父親の形見である狩人の衣でした。
『お前は……どうして、そのようなものを……その場には、お前の大切な持ち物もあったはずだ』
『ティアの持ち物は、家が崩れきった後に引っ張り出せばいい。それよりも、これらの品を先に持ち出すべきだと考えたのだ』
『何故だ? アスタはともかく、私に贖いをする必要はなかろう?』
『アイ=ファが喜べば、それはアスタの喜びとなる。そうしてティアの行いでアスタが喜べば、それがティアの贖いとなるのだ』
そのように語るティアは、とても無邪気な笑顔でした。
『これで腕一本ぐらいの贖いができたと思う。これまでは爪の先ほどの贖いしかできていなかったので、ティアはとても嬉しく思っているぞ』
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物語がそこまで進められた時点で、俺はこっそり目もとをぬぐうことになった。
当時の様子は、アイ=ファがその驚異的な記憶力でもって過不足なくリコに伝えていたし――そうしてリコは、伝え聞いた話を再現させることに天才的な才覚を有しているのだ。ティアの誠実さや無邪気さが、そちらの舞台ではまざまざと体現されていたのだった。
(リコ自身もティアと会ったことがあるから、口調や声の響きまで再現できるんだろうけど……これはちょっと、たまらないな)
ティアの純真なる笑顔や、ガーネットのようにきらめく赤い瞳や、小さな身体に満ちあふれた生命力の波動までもが、俺の脳裏にくっきりと蘇る。
モルガの山で、ティアは幸福に過ごしているのか――これまで何度となく噛みしめたそんな思いが、俺の心を揺さぶってやまなかった。
そんな中、物語は粛々と進められていく。
ファの家は、ジャガルの建築屋によって再建されることになった。そして、それが第一幕で東の民と屋台の料理の取り合いをしていた一行であるという紹介もなされることになった。これでまた遠きネルウィアにおいては、バランのおやっさんたちが存分に冷やかされることになるのだろう。
そしてその後に続けられたのは、大地震の余波についてだ。
獄舎に幽閉されていたサイクレウスは、崩れた壁の下敷きになって魂を返すことになった。
苦役の刑に処されていたスンの家長は、自らの安全を顧みずに囚人や衛兵を救い、ひどい深手を負うことになった。
同じくシルエルは坑道で生き埋めになり、魂を返したようだと告げられた。
それらのシーンも短いながら、すべてに傀儡が使われていた。サイクレウスもリフレイアも、スンの家長ことズーロ=スンもシルエルも、前回の幕で傀儡が準備されていたので、それが持ち出されることになったのだ。
とりわけ長い時間を使われたのは、サイクレウスとリフレイアのシーンとなる。さすがに両名のやりとりまでは再現されなかったが、サイクレウスが死の淵で改心をしてリフレイアに温かい言葉を遺したことがナレーションによって解説された。
かつての騒乱で大罪人とされた3名が、『アムスホルンの寝返り』によってそれぞれ異なる末路を辿ることになったのだ。
それもまた、俺にとっては易々と聞き流せないエピソードであった。
そうしていよいよ、物語は核心に迫っていく。
建築屋の送別会や、俺の誘拐騒ぎの犯人であったリフレイアの従者との和解、第一幕で婚儀を挙げたミンの女衆の出産といった出来事がダイジェストで紹介され、大地震からふた月ほどが経過して――ついに、《颶風党》の襲来である。それは、ジェノスにふらりと舞い戻ってきたカミュア=ヨシュの口から語られることになった。
『どうも最近、ゲルドの山賊が西の王国を騒がせているらしい。彼らの縄張りはマヒュドラとの境である北の果てなのに、おかしなこともあるものだね』
カミュア=ヨシュの傀儡は、そのように語っていた。
カミュア=ヨシュも、リコの情報収集に協力していたのだ。細かい部分は省略されていたり脚色されていたりしたが、おおむねは事実の通りであった。
そうして《颶風党》による被害がじわじわとジェノスに近づいてきて、森辺においても警戒の指令が発せられる。
そんな中、ついにトゥランが《颶風党》に襲撃されたのだった。
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『《颶風党》と名付けられた山賊たちは、トゥランで奴隷として働かされている北の民の宿舎を襲ったようだよ』
『えっ! どうして山賊が、北の民を? 北方の山で暮らすゲルドの民というのは、とりわけマヒュドラと絆を深めているのでしょう?』
『どうやら奴隷の身から解放する代わりに、山賊の仲間入りをしろと申し出たらしい。北の民の代表者がその申し出を拒絶すると、山賊たちに斬り伏せられてしまったそうだよ』
『そんな……その北の民は、魂を返してしまったのですか?』
『いや。なんとか一命は取りとめたらしい。どうもおかしな話ばかりだから、俺もちょっとトゥランまで様子を見てこようと思うよ。アスタたちも、くれぐれも気をつけてね』
そのように言い残して、カミュア=ヨシュは飄然と立ち去っていきました。
あとに残されたアスタは、胸騒ぎが止まりません。森辺の集落を含むジェノスの町はたくさんの兵士に守られていますので、何も心配はいらないはずなのですが……どうしても、不安な気持ちを消すことができなかったのです。
『相手の思惑がわからないから、どうしても不安になってしまうよね。まあ、これだけの兵士さんに守られていれば、山賊たちも近づけないだろうけど……』
『は、はい。集落への道を何十人もの兵士が守ってくださるなんて、想像もしていませんでした。ジェノスの貴族の方々も、森辺の民をジェノスの領民として大切に扱ってくれているのですね』
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そのように応じたのは、今回が初の登場となる森辺の少女である。名前は語られなかったが、その少女は深い褐色の髪をおさげにしており――どこからどう見ても、トゥール=ディンにしか見えなかった。トゥール=ディンとこのような会話をした覚えはなかったので、状況を説明する役として抜擢されたようであった。
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そうして森辺に帰ったアスタたちは、いつも通り料理の勉強会に取り組んでいました。
そんなさなか、ティアがふいに鋭く声をあげたのです。
『アスタ、身を伏せろ! お前たちも身を伏せて、物陰に隠れるのだ!』
ばうっ、ばうっ、ばうっ――かまど小屋の外では、獅子犬のジルベも雷鳴のような咆哮をあげています。
そして、窓から飛び込んできた火矢が、壁に突き刺さりました。
『ファの家のアスタ! その小屋、出てこい! さもなくば、焼け死ぬ!』
たどたどしい西の言葉が、そのように告げてきます。
それは明らかに、東の民のあげる西の言葉でした。
『い、いまのは、東の民の声ですか? まさか《颶風党》が、森辺の集落に……? アスタだって、ゲルドの山の民などとは顔をあわせたこともないのでしょう?』
『う、うん。そのはずだけど……どこかで俺の名前を聞きつけたのかな』
その頃には、アスタの名声もさまざまな領地にまで鳴り響いていたのです。
しかし、アスタが《颶風党》に狙われる理由は、さっぱりわかりません。
『たぶん相手は、6名ぐらいだ。森辺の民ほどではないにせよ、気配を殺すのが巧みであるようだな』
そのように語るティアは、森辺の狩人に負けないぐらいの気迫をみなぎらせていました。
そのとき、『ばうっ……!』という悲痛な声が響きました。獅子犬ジルベに、毒の矢が射かけられてしまったのです。
『ジルベ! ジルベ、大丈夫か!?』
『立つな、アスタ。矢で狙われてしまう。……それに、このままでは家もろとも焼かれてしまうぞ。外に出て、逃げたほうがいい』
『だ、だけど、外には6人も山賊がいるんだろう?』
『逃げるだけなら、きっと大丈夫だ』
アスタは、大いに悩みました。
でも、町から森辺に至るまでの道は、たくさんの兵士に守られているのです。それでも森の中を突っ切れば集落に踏み入ることはできますが、トトスを持ち込むことはできません。それなら、トトスに乗って逃げることができるかもしれない――アスタは、そのように考えました。
『ほ、本当に行ってしまうのですか? 狩人たちが森から戻るまで、ここに隠れていたほうが……』
『いや。外の連中がこの中に入ってきたら、アスタを守ることが余計に難しくなってしまう。それに、お前たちの誰かが捕らわれたり傷つけられたりする危険もあるだろう。お前たちが傷ついて、アスタが悲しむ姿を見たくはない。あいつらがアスタを狙っているならば、お前たちから離れるべきなのだ』
『よし、行こう。でも、あの山賊たちは眠りの毒矢を使うみたいなんだ。もしトトスが眠らされていたら、どうしよう?』
『そのときは、森の中に逃げ込む。アイ=ファたちが戻るまで、森の中で隠れていればいい』
『わかった。それじゃあ俺たちは、この場を離れるよ。みんなは動かず、決して危険な真似はしないようにね』
そうしてアスタとティアは、ふたりきりでかまど小屋を飛び出しました。
とたんに、あちこちから矢を射かけられます。それはすべて、ティアが木の棒で弾き返してくれました。
『あっ! トトスは無事みたいだぞ!』
『よし! それに乗って、逃げるのだ!』
『でも……どうしてあいつらは、トトスを放っておいたんだろう? 事前に眠らせることもできただろうに……もしかして、トトスが騒いで気づかれることを恐れたのかな?』
『話すのは後にして、とにかく逃げるのだ!』
ふたりはトトスに飛び乗って、まずはルウ家の集落を目指しました。
山賊たちは、追ってきません。やっぱり兵士たちのおかげで、山賊がトトスを持ち込むことはできなかったのです。
しかし――100を数える前に、トトスがいきなり倒れ込んでしまいました。
地面に放り出されたアスタは、頭を打って気を失ってしまいます。
次に目覚めたとき、アスタは高い木の上でした。
『あいててて……いったい何が起きたんだい? トトスが毒矢にやられちゃったのかな?』
『いや。すべての矢は、ティアが防いでいた。おそらくあやつらは、あらかじめトトスに眠りの薬でも嗅がせていたのだろう』
『そうか……それじゃあ、隠れているしかないね』
『うむ。しかし、同じ場に留まっていたら、すぐに気づかれてしまう。気配を殺すことのできるあやつらは、気配を探ることにも長けているのであろうからな』
『それじゃあ森の中を突っ切って、宿場町を目指そう。あっちには、何百人もの兵士さんがいるはずだからね』
アスタとティアは木から下りて、西に向かうことになりました。
『アスタ、川の音が聞こえてきたぞ』
『ああ。この辺りには、断崖があるんだよ。その吊り橋をわたれば、一刻ぐらいで宿場町に着けるはずだ』
しかし――その吊り橋は、谷底に落とされてしまっていました。
『まずい! 囲まれたぞ!』
『案ずることはない。アスタの身は、ティアの生命を使って守る。誰にもアスタを傷つけさせはしない』
ティアは両目を火のように燃やしながら、棒きれを構えなおしました。
その眼前に現れたのは――《颶風党》の山賊たちです。古き時代からマヒュドラと血の縁を重ねているゲルドの民は、北の民さながらの逞しい身体をしていました。
『ようやく、追い詰めた。お前たち、山猫さながら、逃げ足、速い』
『森辺の狩人、化け物じみている、聞いていた。しかし、この時間、狩人、いないはず。お前のせい、予定、狂った』
『我ら、必要、ファの家のアスタのみ。邪魔者、死んでもらう』
『ま、待ってくれ! どうして山の民なんかが、俺を狙うんだ? あんたたちは、いったい何が目的なんだ?』
『……我ら、山の民、違う。我ら、神、捨てた。東方神、我ら、救わない。我ら、魂、自分で救う』
『神を捨てた? よ、四大神の子であることを、やめたっていう意味なのか?』
山賊は答えず、ティアに毒の矢を射かけました。
しかしティアは造作もなく、それを弾き返します。
『この距離、2本の矢、弾く、普通ではない。お前、化け物だ』
『お前たちがティアを何と呼ぼうと、どうでもいい。ティアは生命にかえて、アスタを守る』
『ティア……お前、アイ=ファ、違うのか? ファの女狩人、名前、アイ=ファのはずだ』
『ちょ、ちょっと待て! なんでお前たちが、アイ=ファの名前まで知ってるんだ? アイ=ファの名前を知る人間なんて、ジェノスの外にはいないはずなのに……』
山賊たちは、やっぱり答えません。
そして今度は、アスタに向かって矢を放ってきたのです。
『何をする! お前たちは、アスタが必要だと言っていたではないか!』
『我ら、薬草の扱い、長けている。死にかけても、魂、呼び戻してみせよう』
『アスタを傷つけることは、ティアが許さない!』
『あっ! ティア!』
アスタをかばったティアの手に、眠りの毒矢が刺さってしまいました。
『すまない……ティアの生命は、ここまでのようだ……でもきっと、アイ=ファがアスタを救ってくれるだろう……』
『駄目だ、ティア! 家族のもとに帰るんだろう!?』
『ティアはアスタのために生命を使うことができたから、きっと神にも罪を許される……今日までティアをそばに置いてくれた、アスタたちのおかげだ……アイ=ファや族長たちにも、感謝の言葉を……』
『……ふん。ようやく邪魔者を眠らせることができたか』
と――世にも邪悪な声が響きわたりました。
アスタは愕然と、そちらを振り返ります。アスタはそのおぞましい声に、はっきりと聞き覚えがあったのです。
『ひさかたぶりだな、ファの家のアスタよ。貴様の身柄は、俺たちが預かる。ジェノスが滅びの炎に包まれる姿を、その目で見届けるがいい』
『あんた……あんたは、まさか……』
『何だ、俺の顔を見忘れたか? まあ、貴様とはひとたびしか顔をあわせていないからな』
謎の男が前髪をかきあげると、そこには横一文字の古傷が残されていました。
かつて《赤髭党》の党首につけられたという、刀傷です。
『シルエル……あんたは、魂を返したはずだ!』
『しかし、そうはならなかった。俺たちは忌々しい神を捨て去ることで、ようよう生きながらえることができたのだ』
そう言って、大罪人シルエルは妖魅のごとき形相でおぞましい笑い声を響かせたのでした。
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ついにシルエルが登場して、広場には緊迫した空気が満ちることになった。
そもそもリコはシルエルと対面したこともないので、本人を真似ることもできなかったが――しかし俺は、背筋が粟立つ心地であった。リコはひっくり返った裏声と抑揚の乱れた口調でもって、シルエルの狂気を表現していたのだ。
それに、シルエルや山賊たちとのやりとりも、かなり正確に再現されているように思う。俺はアイ=ファほどの記憶力を有していなかったが、この日の出来事は嫌というほど脳裏に刻みつけられていたし――それに当時から、アイ=ファやガズラン=ルティムになるべく正確な情報を伝えようと苦心していたのだ。それらの情報を統合して、リコはこれ以上もなく正確にあの日の対決のさまを再現させることがかなったのだった。
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『《アムスホルンの寝返り》によって生き埋めにされた俺たちは、坑道を掘り進めることで脱出することができた! そうして貴様たちに復讐するために、このジェノスまでやってきたのだ!』
『復讐だって? せっかく生き永らえたのなら、神に感謝して生き直すべきじゃないか!』
『馬鹿を抜かすな! 俺たちの身には、罪人の証が刻みつけられてしまっている! この忌々しい紋様が両腕に残されている限り、四大王国に我らの暮らせる地はない! だから俺たちは神を捨て、自由気ままに生きることにしたのだ!』
シルエルは身をのけぞらせて、高笑いをあげました。
『あの北の民どもも仲間にしてやろうと思ったのに、あやつらの愚かさは俺の想像以上だった! だから、斬り捨ててやったのだ! かくなる上は貴様を人質にして、ジェノス侯自身から北の民どもの身柄をもらい受けることにしよう!』
『お、俺を人質にしたって、ジェノス侯が言いなりになんかなるもんか!』
『果たして、そうかな? もしもジェノス侯が我らの要求をはねのければ、貴様は世にも無惨な死を遂げることになる。ジェノス侯の判断によって、貴様は破滅するのだ。そうしたら、森辺の民どももさぞかしジェノスの貴族を恨むことになろう。それを尻目に、俺たちは別の土地を目指して、力をたくわえることにする』
『……そんな真似をして、いったい何になるっていうんだ?』
『俺を破滅させたのは、ジェノス侯と森辺の民だ。そして、そのふたつを結びあわせたのは、貴様とカミュア=ヨシュだ。貴様とカミュア=ヨシュだけは、決して許すことができん。もちろん、ジェノスの他の貴族どもや、森辺の民どももな。俺たちは今後の生のすべてをかけて、貴様たちに滅びを与える。そのためにこそ、俺たちは生きているのだ!』
シルエルは、狂ったように笑いました。
アスタはティアの身を抱きすくめながら、懸命に言いつのります。
『どうしてなんだ……あんたと同じように生き埋めにされて、あんたと同じように周囲の人間を助けたスンの家長は、心正しく生きようとしているのに……あんたはどうして、そうなんだ?』
『スンの家長か。あのような軟弱者と、俺を一緒にするな。もちろん、愛しき兄君たるサイクレウスや、かつての族長ザッツ=スンともな』
シルエルは、もはや妖魅そのものです。
アスタは、冷たい手で心臓をわしづかみにされたような心地でした。
『貴様にはわからんのだろう、ファの家のアスタ。人を愛し、人に愛されて、そこに喜びを見出すことのできる、そんな真っ当な人間に、俺を理解することはできん。俺は最初から、こうなのだ。父なる西方神とやらは、俺に人間らしい心を与えることを忘れたまま、人の世に放ってしまったのだ』
『でも、そんな……』
『貴様のように真っ当な人間を踏みにじることが、俺にとっては何よりの喜びであるのだ。俺は、そういう人間であるのだ。2番目の兄君たるサイクレウスなどは、俺にまたとない喜びを与えてくれたものだ』
『サイクレウスが、何――』
『サイクレウスも、ただ弱いだけの人間だった。卑屈で、脆弱で、利己的で、ギーズの鼠のようにちっぽけな男だった。それが俺の言いなりになって、俺と同じ泥沼に沈んでいく姿が、どれだけ俺に愉悦を与えてくれたことか……だから俺は、あの小男だけは殺さずにおいたのだ』
アスタの脳裏に、懐かしい記憶が蘇りました。
アスタのこしらえた汁物料理をすするサイクレウスと、それに寄り添うリフレイア姫――あの夜の記憶は、怒りや悲しみとは異なる感情とともに、ずっとアスタの心に留められていたのです。
そしてまた、そんな思いがアスタの恐怖を打ち消すことになりました。
『神を捨てることによって、俺はようやく魂の自由を得た。俺の間違いは、西方神などを神として崇めていたことであったのだ。神の定めた規律など知ったことか。俺は俺の好きなように生きる。弱き者から奪い、この世の悦楽を味わい尽くして、最後は泥沼に魂を放り捨てる。それでおしまいだ。あとは誰かにこの首を斬り落とされるその日まで、自由きままに生きてやるだけだ』
『……そうなのか。神を捨てたっていうあんたの言葉が、少しだけ理解できた気がするよ』
『ほう? 急に怯えることをやめたようだな。刀を持ち上げることもできない軟弱者の分際で、けなげなものだ』
『俺は確かに無力だよ。だけどこの世界で、みんなに同胞と認められるために、これまで必死にやってきたんだ。もともと神を持っていなかった俺は、母なる森と父なる西方神の子となるために、生きてきたんだよ』
アスタは狩人のように燃える瞳で、シルエルの醜い笑顔をにらみ据えました。
『あんたのことだけは、許せそうにない。そして俺は、あんたの言いなりになんかならない。どんなに非力なかまど番でも、死力を尽くしてあんたにあらがってやる』
『俺のことを許せそうにない、か……それはこちらの台詞だな、ファの家のアスタよ。貴様が西方神の洗礼を受けたという話は、俺も伝え聞いている。俺たちはなるべくジェノスに近づきすぎぬように気をつけながら力を蓄えていたのだが、しかし貴様の名はそのような遠方にまで、面白おかしく伝えられていたのだ』
『……それが、何だっていうんだ?』
『貴様は宿場町のみならず、城下町においても凄腕の料理人と認められたそうだな。そして、王都の貴族までもがその腕を認めて、貴様がジェノスの民になることを許したと聞く……俺からすべてを奪った貴様が、光り輝く未来と栄誉を得ることになったのだ。こんな愉快な話はあるまい?』
シルエルもまた、妖魅のようにぎらぎらと両目を燃やしながら、そのように言いたてました。
『だから俺は、貴様を狙うことにしたのだ。貴様の存在を利用して、ジェノスの貴族と森辺の民の絆を断ち切る。北の民など、解放されなくともいい。むしろ、解放されないほうが面白いぐらいだ。貴様の築きあげてきたものをこの足で無茶苦茶に踏みにじってやったら、どれほどの愉悦を味わえるだろうな?』
『……そんな未来は、永久に訪れないよ』
『ふふん。どのようにあがいても、貴様に逃げのびるすべなどは残されておらんぞ!』
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広場の人々は、息を詰めて舞台を見守っている。
しかしまた、傀儡の劇が娯楽の見世物であるのなら、いささかならず冗長であることだろう。リコとベルトンは巧みに傀儡を操ることで何とか場をもたしていたが、ただふたりの人間が語るだけの場面であるのだから、どうしたって限界があるのだ。
『森辺のかまど番アスタ』の第一幕においても、長々と台詞の綴られる場面があった。
俺を人質にしたテイ=スンが、宿場町の往来で無念の思いをほとばしらせる場面である。
あれは、テイ=スンやザッツ=スンがどのような思いで道を踏み外したかを知らしめるために、必要な演出であったのだろう。同時にそれは、後に残された人々――かつてスンの血族であった人々の心を救うのにも、必要な行いであったのだ。
では、今回は誰の心を救おうとしているのか。
言うまでもなく、それはリフレイアたちトゥラン伯爵家の関係者であるはずであった。サイクレウスは、どうして道を踏み外したのか――その裏で、シルエルは何を考えていたか――それをつまびらかにすることで、リコはリフレイアたちの心を救おうとしているのだ。
そのために、リコは長々と会話劇を続けている。
そうして舞台上には、それでも決して観客たちを飽きさせてなるものかという、リコとベルトンの気迫が渦巻いているように思えてならなかった。




