ナハムとベイムの婚儀⑤~騒がしき客人~
2023.6/9 更新分 1/1
その後も俺たちは、しばしティカトラスの一行とご一緒に祝宴を楽しむことになった。
ティカトラスはしきりに騒いでいるし、行く先々には見知った顔が多いので、退屈するいとまは微塵もない。それにやっぱり広場にはこの婚儀に対する喜びの熱気がいつまでも渦巻いており、俺の心を深く満たしてくれた。
「おお、アイ=ファにアスタ! 今度はそちらが貴族の面倒を見ることになったのか! まったくもって、ご苦労なことだな!」
そんな遠慮のない言葉をぶつけてきたのは、ラッツの若き家長である。ラウ=レイと少し似たところのある彼は、王都の貴族が相手でもかしこまる気配はなかった。
そんな彼のかたわらには、屋台の商売の重鎮になりつつあるラッツの女衆も控えている。俺がそちらと挨拶を交わしていると、家長が笑顔で割り込んできた。
「そういえば、今後はこやつにもトゥランでの仕事を任せるそうだな! それはスドラやマトゥアの女衆の補佐ではなく、こやつに取り仕切り役を担わせるという話なのであろう?」
「はい。彼女には、いつも助けられています」
「うむうむ! こやつはあくまで補佐役であったが、アスタ抜きで2回もトゥランに出向いたのはこやつだけだという話であったからな! 俺は無念に思うべきか誇りに思うべきか、今ひとつ判じかねていたのだ! アスタがこやつの力量を見くびっていなくて、何よりであったぞ!」
こちらの家長は他の家長らに比べると、対抗意識が旺盛であるようなのだ。それが自身ではなく家人の扱いに対しての思いであるというのも、多少ながらラウ=レイに通ずるものがあった。
「フェイ・ベイム=ナハムが婚儀を挙げたとなると、ますます他の方々に頼る面が大きくなっていくかもしれません。俺も無理をかけないように取り計らいますので、どうぞ引き続きよろしくお願いします」
俺が家長ではなく女衆本人に伝えると、「おまかせください」という穏やかで力強い返事と笑顔が返ってきた。
すると、黙って話を聞いていたティカトラスが「ふむ?」と小首を傾げる。
「アスタが手伝いの女人に丁寧な言葉を使うのは珍しいね。もしや、そちらの御方もヤミル=レイやフェイ・ベイム=ナハムと同様に、アスタより年長であるのかな?」
「ええ。よくお気づきになられましたね。俺の言葉づかいなんかを気にとめられていたのですか」
「うんうん! 言われてみると、そちらの御方には年齢に相応しい風格も備わっているようだからね!」
そんな風に言ってから、ティカトラスは逆の側に首を傾げた。
「しかし、アスタは間もなく20歳になるのだろう? それよりも年長で婚儀を挙げていないというのは、森辺において珍しい話なのじゃないかな?」
「いえ。わたしはすでに、婚儀を挙げています」
ラッツの女衆がそのように答えたので、俺のほうが驚かされてしまった。
いっぽうティカトラスは、きょとんと目を丸くしている。
「そうなのかい? でも、婚儀を挙げた女人は宴衣装を纏わない習わしであるのだよね?」
「はい。かつて婚儀は挙げているのですが、すでに伴侶を失っているのです。そういう女衆が宴衣装を纏うか否かは、本人と家長の話し合いによって定められるのです」
その返答に、ティカトラスは珍しくも眉を下げた。
「アスタより年長と言っても、せいぜいひとつやふたつのことだろう? そのような若年で伴侶を失うというのは……あまりに無念な話だね」
「はい。ですが、森辺では珍しい話でもありません。あのモラ=ナハムも、これが2度目の婚儀であるのですからね」
そのように答えるラッツの女衆は、あくまで穏やかな笑顔だ。
しかし、ティカトラスの眉はさらに急角度に下げられていった。
「しかし君はわたしのぶしつけな言葉のせいで、伴侶を失った悲しみを思い出してしまったようだ。どうか、詫びさせてくれたまえ」
「お詫びは必要ありません。その悲しみを乗り越えたからこそ、わたしはこうして宴衣装を纏っているのです」
「でも君は、そんなに悲しそうにしているじゃないか」
ティカトラスがそのように言いつのると、ラッツの女衆は少し困った面持ちで微笑んだ。
「ティカトラス。あなたは余人に見えないものを見る目をお持ちであられるのだとうかがった覚えがあります。であれば、わたし自身にも見えていない何かを見てしまっているのではないでしょうか? 何にせよ、わたしは悲しんでいるつもりもありませんので……お詫びは、必要ありません」
「そうなのか。ともあれ、君が幸福な行く末を手中にできるように祈っているよ。君のように美しい姿と魂の輝きをあわせ持っていれば、周囲の殿方も放っておかないだろうしね」
ティカトラスはまだいくぶん眉を下げたまま、申し訳なさそうに笑った。
ラッツの家長は「ふむ」と頑丈そうな下顎を掻く。
「余計な話を持ち出すなと怒鳴りつけてやろうかと思ったが、その必要はないようだな。しかし、あとで詫びるぐらいなら、大人しく口をつぐんでおけばよかろうと思うぞ」
「……それは貴き身分の御方に対して、あまりに非礼な物言いでは?」
と、ヴィケッツォがひさびさにアンズ形の黒い目に激情をたぎらせた。
が、ラッツの家長は恐れげもなくそちらを見返す。
「めでたい席で、そのような怒気を撒き散らすな。お前はティカトラスの娘であるそうだが、俺もこやつの家長であるのでな。血族をないがしろにされる怒りがわかるなら、俺を責めることはできまい」
「……わたしは、礼儀について取り沙汰しているのです」
「俺は貴族に対する礼儀など知らん。城下町ではそちらの流儀に従う他なかろうが、森辺の集落で文句をつけられるいわれはないな」
すると、ティカトラスが長羽織のごとき装束の袖をはためかせながら、「まあまあ!」と割り込んだ。
「今のはわたしが礼を失していたのだから、ヴィケッツォがかき乱さないでおくれよ! 森辺では森辺の流儀に従うべきだと、いつも言いきかせているだろう?」
「ですが――」
「いいから! 怒りを引っ込めたまえ! 美しいお顔が台無しだよ!」
と、ティカトラスが両方の手の平で顔をはさみこんだものだから、ヴィケッツォは真っ赤になって身を引くことになった。
「お、おやめください! わたしは、幼子ではないのですよ!」
「だったら、聞き分けをよくしておくれよ。これも常々言っていることだけれども、こういう場では貴族としてよりも人間としての尊厳を重んじなければならないのだからね」
そのように語るティカトラスは、これまた珍しくも父親めいた笑顔になっていた。
俺がそれに感心していると、ユーミが横から囁きかけてくる。
「やっぱりこのティカトラスってお人は、悪い人間じゃないと思うんだけどさ。でもやっぱり、騒ぎを起こさずにはいられないお人だよね」
「うん、まあ、思ったことをそのまま口にしちゃうお人でもあるからね。ユーミたちは、こういう騒ぎが起きることを懸念してたんだろう?」
「うん。うちの親父なんて、この家長さんより短気だからさ。そんなことにひやひやしながら、婚儀なんて挙げてられないよ」
ユーミは顔を赤くするでもなく、苦笑まじりにそう言っていた。
その間に、ティカトラスは元気を取り戻した声をほとばしらせる。
「とりあえず、わたしはまた明日から森辺に滞在させていただくつもりであるからさ! 揉め事を起こさないように気をつけるので、どうかよろしくお願いするよ!」
「うむ? 間もなくアルヴァッハやダカルマスらが到着する手はずであるのに、城下町を離れるのであろうか?」
アイ=ファが鋭く問い質すと、ティカトラスは「うん!」と幼子のように首肯した。
「そちらのご両人が到着したら、わたしも存分に交流させていただく心づもりだけどさ! だからこそ、その前に森辺や宿場町で羽根をのばしておきたいのだよ! もうダリ=サウティには話を通しているので、明日には話が回されるだろうと思うよ!」
「……そうか。まあ、アルヴァッハたちは遠からずジェノスにやってくるのであろうからな」
と、アイ=ファは諦念の面持ちで息をついた。
それでこの場から立ち去る雰囲気となったので、俺は取り急ぎラッツの女衆に囁きかける。
「あの、本当に大丈夫ですか? 俺も事情を知らなかったので、口をはさめなかったのですが」
「はい。わたしはむしろ、ティカトラスの善良さに触れられたような心地です」
ラッツの女衆は常と変わらぬ笑顔で、そう言った。
「それに、伴侶を失った悲しみに暮れていないというのも、事実です。虚言は、罪ですからね」
「……それなら、よかったです。明日からも、またよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
そうして俺たちは、ラッツの両名ともお別れを告げることになった。
その頃には、ティカトラスももう平常の浮かれた様子に戻っている。ただひとり、ヴィケッツォがいくぶんすねた幼子のような面持ちになっているぐらいであった。
(うーん。こうしてみると、騒ぎになる原因の何割かはヴィケッツォにあるのかもな。でも、ヴィケッツォは貴重なブレーキ役でもあるんだろうし……やっぱりけっきょくは、ティカトラスが奔放すぎるっていう結論に落ち着くのか)
それに、ティカトラスというのは発想が豊かである上に行動力の権化でもあるものだから、周囲への影響がおびただしいのだ。アイ=ファの肖像画を描きたいと言い出したり、森辺や宿場町で夜を明かしたり、果てには鎮魂祭を企画したり、と――常人ではなかなか思いつかないことを発想し、それを実現させる財力や権力や行動力を持っているというのが、ティカトラスを生きた台風めいた存在に仕立てあげているのだろうと思われた。
(これにアルヴァッハとダカルマス殿下の存在が掛け合わされたら、本当にどうなっちゃうんだろうな。意見がぶつかっても意気投合しても、どっちみち大変な騒ぎになっちゃいそうだ)
そうして俺たちが前進していくと、ティカトラスが「おお!」と声を張り上げた。行き交う人々の頭上に、ギバの頭骨が覗いていたのだ。それはおそらくこの場でもっとも長身である男衆のかぶりものであった。
「そこに見えるは、ディック=ドムだね! 5日ばかりしか経っていないけれど、息災そうで何よりだ!」
やがて、ディック=ドムの勇壮なる姿があらわにされた。そのかたわらではモルン・ルティム=ドムが微笑んでおり、さらにフォウ分家の次兄とヴェラの長姉も同行している。
「ふむふむ! 今日はご伴侶も一緒だったのだね! 先日は君の愛くるしい笑顔を拝めなくて、物寂しかったのだよ!」
「はい。その代わりに、レムがご縁を持てたようですね」
愛くるしい笑顔というのは、ぎりぎり容姿を褒めそやすことにはならないのだろうか。柔和なモルン・ルティム=ドムはもちろん、ディック=ドムも文句をつけようとはしなかったので、俺はほっとした。
「うんうん! レム=ドムというのも、素晴らしい女人だね! あれはまた、アイ=ファやヴィケッツォとは趣の異なる美しさだ! これから刀剣に仕上げられようとしている、真っ赤に焼けた鉄塊のごとき眩さであったよ! 彼女が今後どのように磨きあげられるのか、楽しみでならないね!」
そんな風に語ってから、ティカトラスはにっこりと微笑んだ。
「それにしても、やっぱり森辺の装束を纏ったディック=ドムは勇壮だ! ただ、わたしは前回の来訪でギバの頭骨を買いつけることがかなったからさ! あちらでは壁に飾った頭骨を毎日拝んでいたので、君の姿も親しみやすく思えてならないよ!」
「……そうか」
「うんうん! こうして見ると、君はデギオンと同じぐらいの背丈であるのだね! 体格のほうは、比べるべくもないけどさ!」
確かにディック=ドムとデギオンは、ほとんど背丈が変わらないようであった。ただし、ディック=ドムは筋骨隆々であるため、下手をしたら倍ぐらい厚みがあるように感じられてしまう。いっぽうのデギオンが骨張った痩身であるため、余計そのように思えてしまうのだ。
なおかつ、ディック=ドムを前にすると、ヴィケッツォは普段以上に表情を引き締めてしまう。おそらくは、ディック=ドムの持つ静かな迫力に反応してしまうのだろう。彼女はいまだにアイ=ファに対しても、緊張や警戒を解けない様子であるのだ。
「して、そちらのご両名は……ああ、フォウの若衆とそのご伴侶か! わたしがジェノスを離れたのち、無事に婚儀を挙げたそうだね!」
ティカトラスは森辺の集落をくまなく見物していたので、こちらの両名の素性や婚儀にまつわる経緯も承知しているのだ。ヴェラの長姉は物怖じすることなく、「ええ」と微笑を返した。
「復活祭を迎える前にと、取り急ぎ婚儀を挙げることになりました。この夜はナハムとベイムの両名が同じ喜びを授かる姿を見届けることができて、とても得難く思っています」
「うんうん! 婚儀というのは、いいものだよね! わたしも側妻を迎えるたびに、婚儀さながらの祝宴を開いていたものさ!」
ティカトラスは、かんらからからと笑い声を張り上げる。誰が相手でも同じテンションで騒げるというのは、まったく大したものであった。
「そういえば! この前の祝宴ではドムとナハムの方々に宴衣装を準備することができなかったのだよね! それを詫びねばと思っていたのだよ!」
と、ティカトラスは勢いよくディック=ドムのほうを振り返る。もちろんディック=ドムは沈着なる無表情のまま、返答した。
「こちらが詫びられるいわれはなかろう。レムとモラ=ナハムが闘技会に出場することなど、事前に察することはできなかろうからな。……また、そもそも俺たちは宴衣装をありがたがる気質でもない」
「でも、もっとも祝福されるべき人々に宴衣装の準備がなかったということで、ダリ=サウティにも小言を言われてしまったのだよ! ついては、ディック=ドムに相談があったのだよね!」
「相談?」
「わたしはレム=ドムに宴衣装を贈りたく思っているのだけれども、彼女が城下町の祝宴に招かれるとしたら、誰が付添人になるのだろう? やはり、兄たる君であるのかな? それとも血族に、もっと相応しいお相手がいるのかな?」
その素っ頓狂な申し出にも、ディック=ドムが表情を変えることはなかった。
「それ以前に、もはやレムが城下町に招かれる機会はなかろう。本人も、これが最初で最後の機会であろうと申していたしな」
「いやいや! レム=ドムはあの一夜で、数多くの人間の心をつかんだようであるからね! とりわけジェノス侯爵家の覚えもめでたいようであるから、祝宴に招待される機会には事欠かないだろうと思うよ!」
「そうなのですか?」と問うたのは、モルン・ルティム=ドムである。
「うん! 彼女と雌雄を決したメルフリード殿も、そのさまを見届けたエウリフィアやオディフィア姫も、しまいにはジェノス侯ご本人も、レム=ドムの人柄がたいそうお気に召したようだ! これは森辺の民としても、ジェノス侯爵家と絆を深めるまたとない機会なのじゃないかな?」
「そうなのか」と、ディック=ドムは重々しくつぶやいた。
「確かにレムは、俺よりもよほど巧みに貴族らと語らっているようであった。マルスタインやメルフリードらと親しげに語らっている姿も、俺は自分の目で見届けている」
「うんうん! あちらのご一家はそれぞれ異なる気性をしているけれども、その全員に見初められるというのはなかなか大した話であるはずだよ! もしかしたら、トゥール=ディンの血族であるというのも要因であるのかもしれないけれど……かといって、トゥール=ディンの血族の全員があのように取り立てられるわけでもないだろうしね!」
そのように語りつつ、ティカトラスはにんまりと口の端を上げた。
「というわけで! 彼女は城下町の宴衣装を所有していないという話であったので、わたしが先日のお詫びも兼ねて準備してあげたいのだよ! そうすると、付添人になる殿方にも対になる宴衣装を準備しないといけないからさ!」
「ふむ……しかし、ティカトラスが宴衣装を準備するいわれはなかろう? もとより森辺においては、城下町の宴衣装も自ら準備するべきではないかという声があげられているのだ」
「そうなのかい? でも、城下町の宴衣装というのは、なかなか値が張るものだからね! 森辺の民は、無駄に銅貨をつかうことを是としていないんじゃなかったのかな?」
「うむ……それもあって、なかなか踏み切ることができずにいるのも事実であろうな」
「であれば、思い悩むことはないさ! 城下町の祝宴で然るべき宴衣装を纏うべしというのは、あくまで城下町の流儀であるのだからね! 君たちは好きこのんで城下町に押しかけているのではないのだし、無駄に銅貨をつかう必要はないはずだよ! そんな話は、着道楽の貴族に任せておけばいいのさ!」
「……きどうらく?」
「わたしのように、立派な衣服に費用を惜しまない人間のことだよ! ポルアース殿の母君たるリッティアなども、その部類かな! 彼女自身はいつもつつましい姿であるけれども、他者を美しく着飾らせたいという思いはわたしに負けていないようだからね!」
心から愉快げに語りつつ、ティカトラスはまた装束の袖をぱたぱたとそよがせた。
「わたしが宴衣装を贈るのも、その美しき姿を堪能するためだ! おっと、これは女人に限ったことじゃないからね! わたしもリッティアも男女の区別なく、客人に宴衣装を贈ることに無上の喜びを覚えている! 無駄に銅貨をつかいたくないと願う森辺の民に、それを無駄と思わない我々で、きっちり釣り合いは取れているじゃないか! だからどうか遠慮などせずに、我々に宴衣装を贈るという喜びを与えてくれたまえ!」
「……これは、俺の手に余る話であるようだ。あとのことは、族長らに託したく思う」
そう言って、ディック=ドムは真っ直ぐにティカトラスの笑顔を見据えた。
「それで……ティカトラスは、ナハムとベイムの両名にも同じ申し出をしたのであろうか?」
「うん! 新郎新婦とはゆっくり語らう時間も取れなかったので、それぞれの父君に相談させていただいたよ! でも、あちらは婚儀を挙げたばかりだし、城下町まで出向かせる予定もないという話であったね! しばらくは、健やかな家庭を築くことに注力させたいのだそうだ!」
「そうか。さすがティカトラスは、周到だな」
ディック=ドムはほんの少しだけ感心したように、穏やかな眼差しを浮かべた。
「では、そちらの話は俺からもレムと族長グラフ=ザザに伝えておく」
「うん、了解! いい返事をもらえるように祈っているよ!」
それでようやく立ち話は終了し、俺たちはそれぞれ反対の方向に歩を進めることになった。
その道行きで、アイ=ファが厳粛なる声音をティカトラスに投げかける。
「ティカトラスよ。あなたの言い分は、理解した。しかし、私などはすでに4着もの宴衣装を授かってしまったので、今度は控えてもらいたく思う」
「ええ? だけどわたしは、すでにアイ=ファの新しい宴衣装を仕立て屋に注文してしまっているのだよね!」
その返答に、アイ=ファはがっくりと肩を落とすことになった。
「あなたはどうして、そのように早計であるのだ……私はそれ以前から、リッティアたちにも数多くの宴衣装を授かっているのだぞ?」
「うんうん! それらの品は、わたしも拝見しているよ! すでに所有しているものと同じような様式にしてしまったら、興ざめだからね! だけどまあ、わたしが贈ったものと合わせても、せいぜい10着ぐらいだろう? それぐらいの宴衣装を仕立てている貴婦人なんて、珍しくもないさ!」
「……私は貴婦人ではなく、狩人であるのだが」
「でも、いかなる貴婦人よりも宴衣装が似合っているからね! アスタだって、大喜びのはずさ!」
「お、俺を巻き込まないでいただけますか?」
ティカトラスは楽しげに笑い、俺はアイ=ファに足を蹴られることになった。
そこで、次なる簡易かまどに到着である。そこで歓談していたのは――ダリ=サウティとサウティ分家の末妹、そしてフェルメスとジェムドに他ならなかった。
「やあやあ、フェルメス殿! 君が出張っているということは、料理ではなく菓子が準備されているのだろうね!」
「ええ、お察しの通りです」
フェルメスはすました顔でティカトラスに目礼してから、俺のほうにもこっそり視線を向けてきた。
今回は、すねた眼差しではなく甘えているような眼差しである。俺には体験のないことであったが、秘密の関係にある恋人同士というのはこうしてこっそり意味ありげな視線を見交わすのではないかと思われた。
「今日はすべての宴料理がマルフィラ=ナハムの取り仕切りであるそうですが、こちらの菓子も素晴らしい出来栄えです。彼女は菓子においてもこのような手腕をお持ちなのですね」
「はい。トゥール=ディンやリミ=ルウみたいに独自の菓子を考案する時間はないようですけれど、勉強会で習い覚えたことは過不足なく活かせるのだろうと思います」
そのように答えながら、俺は簡易かまどならぬ丸太の卓へと視線を送った。
そちらに並べられているのは、ガトー・ラマンパと蒸し饅頭、それに各種のロールケーキだ。一見では、トゥール=ディンやリミ=ルウが手掛けたものに見劣りしない仕上がりであった。
そして、ダリ=サウティの影になっていた人物と、視線がぶつかってしまう。
それは、目もとを赤くしたベイムの家長に他ならなかった。
「あ、どうも。あらためまして、今日はおめでとうございます」
ベイムの家長は目をそらし、「うむ」とうなずいてから蒸し饅頭を口に放り入れた。
「それでは我々も、間つなぎに菓子をいただこうか! いずれも見覚えのある品だけど、口にするのは2ヶ月ぶりであるからね!」
ティカトラスはうきうきとした様子で、ピンクがかったクリームのロールケーキを頬張った。
「うん、素晴らしい! トゥール=ディンの作だと言われても、疑う気にはなれないね!」
「そうでしょう? しかも、取り仕切っていたのはマルフィラ=ナハムでも、実際に手掛けたのは名も知れぬ方々であるはずです。森辺の女性陣は、もはやひとりひとりが並々ならぬ手腕を身につけているのでしょう」
フェルメスはゆったりと微笑んだまま、そのように応じた。
実のところ、俺はこれまでフェルメスとティカトラスが語らっているさまをほとんど見かけていなかったので、いくぶん気を張ってしまっていたのだが――ティカトラスはいつも通りの陽気さであるし、フェルメスは外づらを取りつくろうのが巧みであるため、至極平穏な雰囲気であった。
しかしまた、彼らはおたがい相手が自分にどのような心情を抱いているか、おおよそ察している。何事にも聡いフェルメスばかりでなく、ティカトラスもそれは同様であるのだ。というよりも、ティカトラスは奔放な面ばかりが目立ってしまうが、もともとフェルメスに負けないぐらいの洞察力やら何やらを持ち合わせているのだった。
(ただ、フェルメスは知性派でティカトラスは感覚派だから、そういう部分も正反対なんだよな)
俺は両名の様子をこっそりうかがいながら、ガトー・ラマンパを口にした。
こちらも、トゥール=ディンの菓子と遜色のない仕上がりだ。こと料理や菓子の再現に関しては、ナハムやベイムやラヴィッツの女衆らも十分な力をつけられたようであった。
「……ベイムの家長よ。私からも、祝福の言葉を伝えさせてもらいたい」
アイ=ファがそのように呼びかけると、ベイムの家長は仏頂面で新たな蒸し饅頭を口にした。
「祝福の言葉など、本人に伝えればそれで十分であろうよ。俺のことなど、捨て置くがいい」
「うむ。しかし、ベイムとナハムは近からぬ場所で暮らしているため、血族との婚儀よりも心労は募るところであろう。婚儀を挙げた両名ばかりでなく、その家族や血族も心安らかに過ごせるように祈っている」
「ふん。これもすべて、ファの家が森辺をひっかき回した結果だな」
ベイムの家長は同じ面持ちのまま、今度はチョコクリームのロールケーキをつかみ取った。
その姿に、アイ=ファはいくぶん心配げな声をあげる。
「あまり菓子ばかりを口にするのは、身体に悪かろう。他の料理も、きちんと口にするべきではなかろうか?」
「……今度は、俺にまで文句をつける気か?」
「文句ではなく、お前の身を案じているのだ」
すると、ユーミが「あはは」と笑顔で割り込んだ。
「あんたは、フェイ=ベイムの――いや、フェイ・ベイム=ナハムの親父さんだよね。きっとあたしの親父は、あんたよりも大きな心労を抱え込むことになると思うよ」
「ふん。宿場町の人間が森辺に嫁入りすれば、それが当然だな」
「うん。それでもきっと、あんたと同じぐらい祝福してくれると思う。本当に、親ってのは大変な立場だよね。今のあたしなんかじゃ、とうてい見習えそうにないよ」
「……自分の半分も生きていない人間に、そう簡単に見習われてたまるものか」
「うん。それでも自分に子ができたら、立派な親になれるように力を尽くさないとね。フェイ・ベイム=ナハムも、そんな気持ちでいるはずだよ」
頑固者であるベイムの家長は、「ふん」とそっぽを向いてしまう。
ただ、あらぬ方向に向けられたその目には、これまでよりも穏やかな光が灯されているようであった。
そのタイミングで、背後から盛大な歓声があげられる。
何事かと思って振り返ると、リコたちが本家の母屋の正面で傀儡の劇の準備を開始していた。
「城下町からの客人、および族長筋とファの家人らは、こちらに集まってもらいたい!」
そのように声を張り上げているのは、ナハムの家長だ。俺たちは慌ただしくユーミとジョウ=ランに別れを告げてから、そちらに駆けつけることになった。
「これより、リコたちに傀儡の劇を披露してもらう。そちらの面々は劇の内容を吟味する役目であるそうなので、間近から見届けてもらいたい」
リコたちが準備した舞台の正面に、いくつもの敷物が敷かれている。その片隅には、すでにモラ=ナハムとフェイ・ベイム=ナハムが座していた。
俺とアイ=ファはその隣に腰を落ち着けて、ティカトラスとフェルメスの一行も遠からぬ場所に陣取る。ジザ=ルウとララ=ルウ、ゲオル=ザザとスフィラ=ザザ、ダリ=サウティとサウティの末妹、メルフリードとポルアースも、続々とその後に続いた。
空いたスペースにも誰かしらが腰を下ろし、間に合わなかった人々はその背後に立ち並ぶ。それらの顔に浮かぶのは、おおよそ期待の表情だ。
ただ俺は、期待感だけでは済まない落ち着かなさも抱いてしまっている。きっとリコたちであれば、この取り扱いが難しい逸話も見事な劇に仕立ててくれるのであろうが――それを目の前で再現されるというだけで、俺は心を乱してしまうのだ。俺の隣に座したアイ=ファも、懸命に凛々しい表情を保っているようであった。
「よし。こちらの準備は整ったようだぞ」
ナハムの家長がそのように呼びかけると、リコは「はい」と舞台の前に進み出た。
リコもまた、幼い顔に張り詰めた表情をたたえている。いっぽうハンチングのような帽子を目深にかぶったベルトンは、戦いに挑む剣士のように両目を燃やしていた。
「このようにおめでたい席で時間を作っていただき、心より感謝しています。まだまだ至らない点は多かろうと思いますが、わたしたちの芸で少しでも楽しんでいただけたら幸いです」
リコは両手を前で合わせて、くりくりの巻き毛に包まれた頭を深々と下げる。
ベルトンもまた帽子を外して、申し訳ていどに一礼した。
彼らの護衛役たる老剣士ヴァン=デイロは、横からその姿を見守っている。
彼らはこちらに到着した折に挨拶をしてくれたが、祝宴の間はまったく姿を見せていなかった。傀儡の劇を披露する代わりに、宴料理を好きに食していいという取り決めであったのだが――この大仕事をやりとげるまでは、何も咽喉を通らなかったのだろう。リコたちにとって、新しい劇の初お披露目というのはそれぐらいの大ごとであるのだ。
しかもその内容は、ティアとシルエルにまつわる物語である。森辺やジェノスの人々にとって、それがどれぐらい重大な出来事であったか――リコはそれをわきまえた上で、傀儡の劇に仕立てたいと申し述べてきたのだ。その内容に不備があったならば、せっかくの劇も作り直しを余儀なくされるのだった。
毅然と頭をもたげたリコは、ベルトンとともに舞台の裏手に回り込んでいく。
舞台と言っても、大きめの台座に背景となる木の板が立てられただけのものだ。リコたちは凝った舞台に頼ることなく、傀儡の動きと声だけでさまざまな物語を具現化することがかなうのだった。
「森辺のかまど番アスタ、第三幕。《颶風党》の章。……始めさせていただきます」
木目の板を背景に、俺とアイ=ファの傀儡がぴょこんと舞台に現れる。
広場には歓声がわきおこり――そして、リコの澄みわたった声が大いなる神託のように響きわたった。




