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異世界料理道  作者: EDA
第七十九章 華燭と奉迎
1361/1698

ナハムとベイムの婚儀③~婚姻の誓約~

2023.6/7 更新分 1/1 ・6/18 文章を一部修正

 フェルメスとの語らいを終えた後も、時間は粛々と過ぎていった。

 日が傾くにつれて、参席者もぞくぞくと集まってくる。そんな中、ティカトラスの一行と出くわした際には、もちろんアイ=ファが森辺の習わしにそぐわぬ賞賛の言葉をさんざん浴びせかけられることになった。


「アイ=ファはいかなる宴衣装でも十全に着こなすことができるけれど、やっぱり森辺の宴衣装というのは格別の美しさだね! 城下町の宴衣装は趣向を凝らしたシム料理、森辺の宴衣装は力強いジャガル料理といった風情で、どちらも捨てがたいところであるけどさ! 何にせよ、アイ=ファの輝きに変わりはない! 君の美しさは、わたしのあらゆる感性を刺激してやまないよ!」


「……森辺の集落においては森辺の習わしに従ってもらいたく思うのだが、如何であろうか?」


「わたしはこれでも、懸命に自分を律しているつもりだよ! 本来であれば、噂に聞くアルヴァッハ殿のように周囲を呆れさせるまで美辞麗句を並べたてたいところさ!」


 そんな感じで、ティカトラスは本日も元気いっぱいであった。

 まあ、彼はジェノスに到着してから今日の昼頃まで、ずっと商談のために城下町で過ごしていたのだ。ようやく森辺に身を置くことができて、思うぞんぶん解放感にひたっているのかもしれなかった。


 いっぽうデギオンとヴィケッツォは、相変わらずのたたずまいである。武官のお仕着せを思わせる白装束と黒装束で、はしゃぐ主人の姿をじっと見守っている。デギオンも闘技会の勝負で負った咽喉の怪我がようやく癒えたという話であったが、もともと寡黙であるためになかなか言葉を発することもない。鋭い射るような眼差しをしたヴィケッツォも、それは同様だ。あらためて、城下町の祝宴で見せる艶やかな姿とは別人のごとき迫力であった。


 さらに時間が深くなると、ベイムの家にまで出向いていたという花嫁と花婿がそちらの家人ともども帰還してきた。

 両名は、すでに婚儀の衣装である。モラ=ナハムはギバの頭の毛皮まで使った雄々しい装束で、フェイ=ベイムは全身に玉虫色のヴェールを纏い、両名ともに草冠をかぶっており――それでようやく、俺は本当に彼らが婚儀を挙げるのだという実感を抱くことができた。


 俺はつい2ヶ月前にもフォウとヴェラの婚儀に招待されていたが、本日の両名はそれよりもさらに絆の深いお相手となる。とりわけフェイ=ベイムは2年以上も前からずっと一緒に働いている身であったため、その花嫁衣裳は胸にせまってならなかった。


 容姿の秀麗な人間の多い森辺において、フェイ=ベイムはいささか珍しい容姿をしている。年配の女衆のようにずんぐりとした体形で、顔は四角く、父親にそっくりであるのだ。若い女衆でこれほど厳つい面立ちをした人間は、森辺で滅多に見られなかった。

 しかし、この日のフェイ=ベイムの輝かしさは、これまで目にしてきた花嫁たちにまったく負けていなかった。シーラ=ルウやヴィナ・ルウ=リリン、アマ・ミン=ルティムやモルン・ルティム=ドム、イーア・フォウ=スドラやランの女衆やヴェラの女衆――果てには、テリア=マスやバナームのコーフィアと同じように、彼女は花嫁ならではのきらめきに包まれていた。


(つまり俺は、もう10回も婚儀に招かれてるのか。3年足らずでそんなに招いてもらえるなんて……本当に、ありがたい限りだな)


 俺はそんな感慨を噛みしめながら、本家の母屋に入っていく両名の姿を見守ることになった。


 ほどなくして太陽が西の果てに傾きかけると、若い女衆はこぞって分家の母屋に向かい始める。宴衣装にお召し替えの時間である。すでにその用事を済ませているアイ=ファは、この時間も俺のそばについてくれていた。

 そしてそんな刻限に、ようやく最後の客人が到着する。宿場町から招かれた唯一の客人ユーミと、その付添人たるジョウ=ランである。最初から宴衣装の姿で登場したユーミは、俺と出くわすなりさまざまな感情のもつれあった笑顔を向けてきた。


「アスタ! よくもジョウ=ランをおかしな具合にけしかけてくれたね! おかげで、遅刻するところだったよ!」


「うん。今までサムスたちと語らってたのかな?」


「そーだよ! ジョウ=ランがガラにもなく真面目くさった話をするもんだから、母さんなんて涙が止まらなくなっちゃってさ! おかげで宿の準備も遅れちゃって、そいつを手伝う羽目になったんだよ!」


 俺の入れ知恵だけでそんな騒ぎになってしまったのかと、俺は意外の念に打たれることに相成った。

 すると、まだいくぶん真面目くさった顔をしたジョウ=ランも発言した。


「俺はただ、シルたちを安心させてあげたかっただけです。たとえ婚儀がどれだけ遅れようとも、俺はすべての力を尽くしてユーミを幸せに――」


「ああもう、あんたは黙ってなってば! 本当にもう、男連中ってのは繊細さに欠けるよね!」


 ジョウ=ランと一緒くたにまとめられてしまうのは複雑な心地であるものの、まあ俺がデリカシーのない朴念仁であることはまぎれもない事実だ。それにユーミは8割がた照れ隠しで発奮しているように見えたので、俺としても満足な気分であった。


 そうこうしている間に着替えを済ませた女衆らが母屋から出てきて、広場はいっそう賑わっていく。

 その中から、マルフィラ=ナハムがひょこひょこと近づいてきた。


「ア、ア、アスタにアイ=ファ。ひ、昼間はろくに挨拶もできずに申し訳ありませんでした。ジョ、ジョウ=ランとユーミも、どうもお疲れ様です」


「何も詫びる必要はないよ。マルフィラ=ナハムは、宴料理の取り仕切り役だもんね。大役お疲れ様でした」


「うんうん、お疲れさまー! こんなにたくさんのお客を呼んだら、料理の準備も大変だよねー!」


「は、は、はい。で、でも、ラヴィッツやヴィンやダゴラの女衆にも手伝ってもらうことができたので……な、なんとか満足のいく宴料理を準備できたように思います」


 マルフィラ=ナハムはふにゃふにゃ笑いながら、俺に向かって深々と頭を下げてきた。


「た、た、大切な兄のために力を尽くすことができて、とても幸福な心地です。わ、わたしがこんな気持ちを抱くことができたのは、かまど仕事の手ほどきをしてくださったアスタのおかげです。ま、まったくもって、今さらの話ですけれど……ほ、本当にありがとうございました」


「うん。マルフィラ=ナハムの力になることができて、俺も嬉しいよ。今日は俺も、マルフィラ=ナハムたちの心尽くしを存分に味わわさせていただくね」


「は、は、はい」と、マルフィラ=ナハムはいっそうやわらかく微笑んだ。宴衣装と相まって、普段以上に魅力的な笑顔である。出会った当時のぎこちなさを思えば、想像もできないような姿であった。


(もしもマルフィラ=ナハムが屋台の手伝いに選ばれてなかったら、この婚儀だってありえなかったわけだもんな)


 そんな思いを噛みしめながら、俺はあらためて広場を見回した。

 本日の参席者は、110名ていどと聞いている。ナハムとベイムの家人が40名ていど、ラヴィッツの家人が20名ていど、城下町から7名、族長筋から6名、他なる氏族からの客人とユーミで36名、それに傀儡使いのリコとベルトンとヴァン=デイロという内訳である。


 他なる氏族からの客人の中には、ディック=ドム、モルン・ルティム=ドム、フォウ分家の次兄、ヴェラ本家の長姉、そしてジョウ=ランという面々が加わっている。血族ならぬ相手との婚儀を果たした4名と、これからユーミを伴侶に迎えようとしているジョウ=ランという顔ぶれだ。モラ=ナハムとフェイ=ベイムは先達たる2組の婚儀に招待されていたので、そのお返しという意味合いもあって彼らを招待したわけであった。


 そして、それ以外の30名がすなわち屋台の関係者とその付添人だ。フォウ、ガズ、ラッツを親筋とする8つの氏族と、ファ、スン、ダゴラ、ヴィン、ディン、リッド――さらに、レイの家人も含まれる。収容人数の関係上、ルウの屋台の関係者をお招きすることはできなかったが、ヤミル=レイはファの屋台の人員であったため例外あつかいはされずにお招きされたのだった。


 よって、ファの屋台の手伝いをしている女衆はすべて顔をそろえている。その付添人は、おおよそ本家の家長か長兄であるようだ。これももはや、親睦の祝宴などでもお馴染みの顔ぶれであった。


 そして――俺が見る限り、屋台の関係者も新郎新婦の血族に負けないぐらいの熱気をもたらしているようである。それらの女衆は誰もがフェイ=ベイムの仕事仲間であり、なおかつファの屋台の人員で婚儀を挙げるのはフェイ=ベイムが初めてであったのだった。


(最初に屋台を手伝ってくれたリィ=スドラがお産で退くことになった影響か、どの氏族もとりわけ若めの人間を選んでいたもんな)


 屋台の人員で俺より年長であるのは、4名しかいない。フェイ=ベイム、ヤミル=レイ、リリ=ラヴィッツ、ラッツの女衆という顔ぶれである。その中から、ついにフェイ=ベイムが婚儀を挙げることになったわけであった。


 俺にとって馴染みの深い面々、ユン=スドラやトゥール=ディンやレイ=マトゥアたちも、我がことのように喜びをあらわにしている。もっとも新参であるレイ=マトゥアだって、フェイ=ベイムとはもう2年近いつきあいであるのだ。ただし、キャリア1年少々のクルア=スンや、それよりも新参であるフォウやランの女衆も決して引けは取っていなかったので、つきあいの長さだけが要因ではないのかもしれなかった。


 きっとフェイ=ベイムは、それだけ数多くの相手と交流を深めることができていたのだ。

 フェイ=ベイムは決して愛想のいいタイプではなかったが、それを補って余りあるほど実直で、ひたむきな人間なのである。常勤メンバーの3名を除けば、ラッツの女衆と並んでもっとも信頼の厚い立場であろう。俺自身もそのように考えていたからこそ、かつての試食会でフェイ=ベイムに調理助手をお願いしていたのだった。


(これでフェイ=ベイムも、いずれお子さんを授かったら屋台の手伝いから退くことになっちゃうけど……この喜びには、かえられないよな)


 俺がそんな感慨にひたっていると、広場の中央にふたつの黒い人影が進み出た。すでに世界は宵闇に包まれているので判然としなかったが、おそらくはベイムとナハムの家長である。


「日没が間近となったため、婚儀の準備を始めたく思う! まず、ナハムとベイムの家人ならぬ客人らは、広場の外側に広がっていただきたい!」


「ナハムとベイムの血族たるラヴィッツ、ヴィン、ダゴラの家人も、同様である! これはあくまでナハムとベイムの間でのみ交わされる血の縁であるため、そのように取り計らってもらいたい!」


 これは、今までの婚儀には見られなかった処置であった。

 ナハムもベイムも古きよりの習わしを重んじる保守派の氏族であるため、そういう方針に定められたのだろう。もちろん俺たちは不満の声をあげることなく、その指示に従うことになった。


 広場の中央付近にはナハムとベイムの家人たる40名ばかりの人間だけが居残り、残りの面々がそれを取り囲む格好だ。族長筋の人間に付き添われた城下町からの客人たちなどは、遠慮をしてもっとも外側の位置まで退いていた。


「我々の思いを汲んでいただき、ありがたく思う! また、これは血族ならぬ相手との婚儀という、前例の少ない新たな行いであるため……先達たるドム、ルティム、フォウ、ヴェラと同様に、すべての氏族の手本となれるように力を尽くす所存である!」


「なお、本日の客人は70名以上にも及ぶため、個々の紹介は省かせていただく! 婚儀の場を貸してくれた上に、かまど仕事にまで力を添えてくれたラヴィッツの家人をも客人あつかいするのは心苦しいところだが、それも細かな取り決めの存在しない新たな行いゆえであると、容赦をいただきたい!」


 この前置きの長さも、両家長の人柄を表しているのだろう。俺はナハムの家長とそれほど交流を深める機会がなかったが、ベイムの家長に負けないぐらい謹厳な人柄であるという印象であった。


 ともあれ――これでようやく、婚儀の準備が整ったようである。

 ナハムの家長の合図で儀式の火が灯されて、本家の母屋から新郎新婦があらためて登場した。


 婚儀の衣装を纏った両名の姿が、燃えさかる炎に明々と照らし出される。

 それに付き添うのは、10歳前後の可愛らしい男女だ。男の子は小さな狩人の衣を羽織り、女の子はきらびやかな宴衣装を纏っている。その手の草籠には、すでにたくさんの祝福の牙が積まれていた。ナハムとベイムの家人たちは、日中に祝福を捧げているのだ。


 そうして儀式の火の前を素通りした両名は、おたがいの血族に見守られながら人垣の外周へと足を向ける。そちらで待ち受けていた血族ならぬ人々が、口々にお祝いの言葉を述べながら祝福の牙を草籠に投じた。

 俺もまた、アイ=ファからいただいたギバの牙を握りしめて、新郎新婦の接近を待ち受ける。

 そこに、ティカトラスの高笑いが響きわたった。


「贈り物は何でもかまわないと聞いていたので、わたしは酒樽を持参することにしたよ! 今日の祝宴で飲み干すもよし、のちのちご家族だけで楽しむもよし! 好きに扱ってくれたまえ!」


 見ると、長身のデギオンが右肩に巨大な酒樽を担いでいた。

 広場の中央付近からひとりの男衆があたふたと飛び出して、その巨大な祝福を受け取る。周囲には笑い声もあがっていたが、俺の隣ではアイ=ファが溜息をついており、ベイムとナハムの家長たちは鉄仮面のように無表情であった。


 そんな一幕を経て、新郎新婦がしずしずとこちらに進み出てくる。

 俺は腕をのばして祝福を捧げつつ、せいいっぱい声を張ってみせた。


「フェイ=ベイム、モラ=ナハム、おめでとうございます!」


 玉虫色のきらめきに包まれたフェイ=ベイムは目を伏せたまま、ひそやかに微笑んでくれた。

 モラ=ナハムは感情を覗かせることなく、角張った下顎を小さく引く。もともとモアイ像を思わせる顔立ちであるが、今日は普段以上に固く強張っているように感じられた。


 そうしてすべての客人から祝福を受け取った新郎新婦は儀式の火の前に舞い戻り、木造りの台座に着席する。男女の幼子はその両脇に草籠を置いて、人垣の内に身を引いた。


「……モラ=ナハムの子を、ここに」


 ナハムの家長の言葉に従って、幼子の手を引いた年配の女衆が進み出た。

 幼子はモラ=ナハムの子供、女衆はモラ=ナハムの母親だ。モラ=ナハムはひとたび婚儀を挙げていたが、その伴侶はこちらの5歳になる男児を残して魂を返していたのだった。


「こちらのフェイ=ベイムは、この夜よりお前の新たな母となる。その姿を、お前も間近から見守るがいい」


 初孫を前にしても、ナハムの家長の厳しい表情に変わりはない。

 5歳の幼子は場の雰囲気に呑まれてしまったのか、とても不安げな面持ちであった。


「……モラ=ナハムとフェイ=ベイムは、この夜に伴侶として結ばれる。これは前例の少ない行いであるが、婚儀の重要さに変わるところはない。こちらの婚儀に異を唱える者はあろうか? そして、ナハムとベイムが血の縁を結ぶことに異を唱える者はあろうか?」


 ナハムの家長は厳粛な声音で、そのように問いかける。

 もちろんこれは、ナハムとベイムの家人に対する問いかけであろう。しかしもちろんそれに倍する人数の客人たちも、息をひそめて沈黙を守った。

 そこに――小さなつぶやきが水滴のように落ちる。


「……フェイ=ベイムが、ぼくのかあさんになるの?」


 それは、モラ=ナハムの子供であった。

 フェイ=ベイムはゆっくりと面を上げて、玉虫色のヴェールごしに微笑を投げかける。


「わたしは、それを望んでいます。あなたが、許してくれるのなら」


 幼子は不安げな面持ちのまま、もじもじと身を揺すった。

 フェイ=ベイムはもう何ヶ月もナハムの集落で過ごしており、こちらの幼子とも存分に絆を深めているはずだが――俺は、手に汗を握る思いであった。


「お前は5歳となったので、家人としての発言を許されている……もしもこの婚儀に異を唱えたいならば、これが最後の機会となろう」


 固く強張った顔のまま、モラ=ナハムもそのように声をあげた。


「俺もまた、フェイ=ベイムとの婚儀を望んでいるが……お前の心情を無視することはできん……お前はこの婚儀に、異を唱えるか?」


 幼子はしばらくもじもじとしていたが、やがて「ううん」と首を振り――その小さな顔に、あどけない笑みをたたえた。


「これからもフェイ=ベイムといっしょにいられるなら、うれしい。……ぼくは、フェイかあさんってよぶの?」


「婚儀を挙げたならば、わたしはフェイ・ベイムという名にナハムの氏を授かることになります」


 フェイ=ベイムが穏やかな声音で答えると、幼子は「あはは」と笑った。


「それじゃあ、フェイ・ベイムかあさんなんだね。ながくて、ちょっといいにくいけど……ぼく、そうよぶよ」


「ありがとう」と、フェイ=ベイムは優しく微笑んだ。

 その目から、涙がこぼれるかと思われたが――角張った顔に滂沱たる涙を流したのは、モラ=ナハムのほうである。それを見て、幼子がきょとんと目を丸くした。


「モラとうさんは、なんでないてるの? こんぎをあげるのに、かなしいの?」


 モラ=ナハムは声も出せない様子で、ただ太い首を横に振った。

 その父親たる家長は、いよいよ厳しい面持ちで声をあげる。


「それでは、婚儀の誓約を交わす。両名は、火の前に」


 フェイ=ベイムとモラ=ナハムは台座から腰をあげ、儀式の火の前まで進み出た。

 幼子の手を別の家人に託したモラ=ナハムの母親が、奇妙な香りのする香草を儀式の火に投じる。甘さと酸味の入り混じった不思議な芳香が、ゆるやかに広場を満たしていった。


 ひざまずいた両名の草冠が、母親の手によって交換される。

 そうして母親が静かに微笑みながら肩を叩くと、モラ=ナハムは震える声を振り絞った。


「ナハムの長兄モラ=ナハムは……森から、フェイ=ベイムを授かりました……」


「ベイムの末妹フェイ=ベイムは、森からモラ=ナハムを授かりました」


 フェイ=ベイムの声は、穏やかながらも毅然としている。

 それと同時に歓声と拍手が爆発したので、俺も精一杯の思いで手を打ち鳴らしてみせた。


「母なる森の前で、婚姻の誓約は交わされた。この夜よりベイムの末妹フェイ=ベイムはナハムの家人フェイ・ベイム=ナハムとなる。両者の行く末を祝い、大いに宴を楽しんでもらいたい」

 

 それは祝宴開始の合図であったが、誰もがしばらくは手を打ち鳴らしていた。

 新たな名前と氏を授かったフェイ・ベイム=ナハムと涙の止まらないモラ=ナハムは、再び台座に腰を落ち着ける。それを見守るベイムの家長もまた、平家蟹を思わせる四角い顔に大量の涙をこぼしていた。


 俺は大きく息をついてから、アイ=ファのほうを振り返る。

 すると、アイ=ファはすでに俺の顔を見つめていた。


「なんだ、俺が泣いてないかどうかの確認か?」


「うむ。この夜も、なんとかこらえられたようだな」


「うん。涙は傀儡の劇を見るまで、おあずけだ」


 アイ=ファは優しく微笑みながら、「うつけもの」と俺の頭を小突いてきた。

 その頃になって、ようやく人垣が崩れ始める。ナハムとベイムの家人は台座に押しかけ、それ以外の客人は広場の外周に設置された簡易かまどへと散っていった。


「あー、やっぱり婚儀っていうのは、あれこれ心をかき乱されちゃうなー」


 と、俺たちのすぐそばにいたユーミが目尻に浮かんだものをぬぐいながら、気恥ずかしそうに笑った。ジョウ=ランも真面目くさった顔を引っ込めて、にこにこと笑っている。


「客人からの挨拶は、後回しなんだよね? それじゃあとりあえず、宴料理をいただこっか! アスタたちは、やっぱり貴族の面倒を見ないといけないの?」


「いや。とりあえずは族長筋の面々が案内役を引き受けてくれるって話だよ。ティカトラスのお世話も、ラウ=レイが率先して引き受けてくれたしね」


 そしてフェルメスとも日中にしこたま語らうことができたので、しばらくはすねることもないだろう。あとは行きあう先で交流を深めさせていただく所存であった。


「それじゃあ、一緒に回ろっか! なんだかんだ、アスタたちと一緒に祝宴の場をうろつき回る機会って少なくなってたもんね!」


 というわけで、俺たちは4名連れで簡易かまどを巡ることになった。

 アイ=ファの美しさは今さら語るまでもないし、ユーミも城下町の祝宴に参席したことで宴衣装がグレードアップしている。先日の祝賀会ほどではないものの、行き交う人々の注目度もなかなかのものであった。


「今日はアスタたちも、宴料理には関わってなかったんだっけ?」


「うん。俺もあくまで、客人の立場だからね。今日はナハムとベイムの女衆と、あとは血族の人たちが手伝ったみたいだよ。って言っても、ダゴラとヴィンの女衆はひとりずつしか招待されてないけどね」


「あー、フォウとヴェラの婚儀でも、血族ってのは男女ひとりずつだったもんねー。それでもあのときは、サウティの血族だけでけっこうな人数だったみたいだけどさ」


「うん。ふたつ以上の眷族を持ってるのは、サウティとルウとザザだけだからね。それでもラヴィッツの女衆が総出で手伝ったから、なんとかなったんじゃないかな」


 しかしそれでも、宴料理に携わったかまど番の総勢は30名ていどだろう。客人が多い分、かまど番の苦労はかさむはずだった。


(だけど、総指揮官はマルフィラ=ナハムだからな。本人も満足そうな様子だったし、きっと立派な宴料理を準備できたんだろう)


 そうして手近な簡易かまどに近づいてみると、見慣れた面々が集っていた。俺にとってご縁が薄めであるナハムやベイムの家人たちは挨拶のさなかであったため、おおよそは見慣れた面々が宴料理を楽しもうとしているのだ。その場にいたのはユン=スドラとライエルファム=スドラ、レイ=マトゥアとマトゥアの長兄、ガズの女衆と長兄という顔ぶれであった。


「やあ、みんなも立派な宴衣装だね! ユン=スドラの髪って、ほどくといっそう綺麗だなー!」


 ユーミが元気に言いたてると、ユン=スドラは「そ、そうですか」と気恥ずかしそうに頬を染めた。森辺でも少し珍しい灰褐色の髪を自然に垂らして、宴衣装を纏ったユン=スドラは、もちろん格段に可愛らしかった。


「そ、それよりこちらの料理は、素晴らしい出来栄えですよ。さすがマルフィラ=ナハムといった仕上がりです」


「へえ。それはまた、参席できなかったレイナ=ルウが残念がりそうだね」


 俺たちも、そちらの宴料理を受け取ることにした。鉄鍋で煮込まれていたのは汁物料理で、取り分け役を担っていたのはリリ=ラヴィッツとラヴィッツの女衆である。


「あれ? ラヴィッツの方々がそちらの仕事まで受け持っていたのですね」


「ええ。挨拶が済んだら、ナハムやベイムの女衆と交代する手はずですよ」


 お地蔵様のように微笑みながら、リリ=ラヴィッツは汁物料理を取り分けてくれた。

 スパイシーな香りのする、真っ赤なスープだ。アイ=ファは鋭い眼差しとなって、鼻梁の通った鼻を山猫のようにひくつかせた。


「これはまた、辛みの強そうな料理だな。……そういえば、マルフィラ=ナハムは香草の扱いを得手にしているのだったな」


「確かにこれはマルフィラ=ナハムの考案した料理ですけれど、見た目や香りほど辛みは強くないように思いますねぇ」


 アイ=ファは疑わしげに眉をひそめつつ、木皿を受け取った。

 そして、木匙でごく少量の煮汁を口にすると――たちまち、愁眉が開かれた。


「確かに、辛みは強くない。これはあの、ドルーという食材の色合いであったか」


 ドルーとは、ビーツのように真っ赤なカブのごとき野菜である。

 俺もそちらをいただいてみると、確かに辛みは強くなかった。香草も何種か使われているようであるが、それよりも海鮮の出汁の風味が際立っていたのだ。


 これはきっと、ホタテガイに似た貝類の出汁を主体にしているのだろう。それ以外にも、魚や海草の乾物をふんだんに使っているに違いない。さらにはギバ肉や野菜の出汁もしっかりと出て、驚くほど深い味わいであった。


「これは美味しいね。何も奇抜なところはないけれど……すごい完成度だ」


「ほんとだねー! こんなの、屋台で売り出せるじゃん! あ、でも、ちょっとばっかり材料費が高くついちゃうのかな?」


 さすがユーミは、目端がきく。魚介の乾物をこれだけ使えば、確かにコストはかかるはずであった。

 しかし祝宴であれば、そのようなことで思い悩む必要もないのだろう。マルフィラ=ナハムはヴァルカスから強い影響を受けており、森辺においてはずいぶん複雑な味わいの料理を生み出していたものであるが、こちらはまったく外連味のない出来栄えであった。


「それにしても……ついにナハムとベイムが結ばれてしまいましたねぇ」


 と、リリ=ラヴィッツが何気ない調子で語りかけてくる。

 俺はいくぶん背筋をのばしながら、そちらに向きなおった。


「古きよりの習わしを重んじるラヴィッツの方々にしてみれば、複雑な部分もあるのでしょうね。気分を害していなければ幸いです」


「それは家長会議で是と見なされた行いであるのですから、たとえ親筋といえどもわたしどもが文句をつけることはできないでしょう。それに……ナハムとベイムの者たちが、1年以上もかけて思い悩んだ結果なのでしょうしねぇ」


 内心の知れない微笑みをたたえたまま、リリ=ラヴィッツはそのように言いつのった。


「ただ……森辺においても頑なな部類であるナハムとベイムがその行いに及んだというのは、族長筋の眷族たるドムやルティムやヴェラに負けない影響をもたらすかもしれませんねぇ。数年後に、森辺はどのような有り様になっているのか……わたしなどには、さっぱり見当もつきません」


「はい。俺もみなさんと一緒に、それを見届ける覚悟です」


 俺がそのように答えると、リリ=ラヴィッツは咽喉で笑った。


「アスタはずいぶん、気を張っているようですねぇ。新たな婚儀の形というものを提唱したのは、ルティムの家長なのでしょう?」


「はい。ですが、そもそも宿場町での商売を始めていなければ、血族ならぬ氏族との縁が深まることもなかったのでしょうし……俺も他人事と考える気にはなれません」


「そうですねぇ。でもアスタは、血族ならぬ相手とも絆を深めるべきというお考えであったのでしょう? それなら、本望ではないですか」


 そう言って、リリ=ラヴィッツはまた微笑む。

 それはやっぱり、内心の知れない笑顔であったが――ただ、ジザ=ルウのように細められたその目には、ひどく静かな輝きが灯されているように感じられた。


「選んだ道が間違っていたならば、潔く引き返すまでです。でもきっと……婚儀を挙げた者たちが悔いることはないでしょう。もしもこの先、新たな婚儀の形が禁じられるような事態になったとしても、すでに交わされた婚儀の誓約が取り消されることはありえないのですからね。ですからわたしも憂いなく、モラ=ナハムとフェイ・ベイム=ナハムに祝福を捧げようかと思います」

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― 新着の感想 ―
[気になる点] アルヴァッハは別にジェノス、森辺両方の習わしに反してる訳じゃ無いんだがな。 やっぱムカつくなぁ、ティカトラス。 [一言] バージの屁理屈も、郷に入りてはに沿ってるから、確かに頷ける面も…
[気になる点] ふたつ以上の眷族がいるのは族長筋だけと言っていますが、フォウ(ランとスドラ)やラヴィッツ(ナハムとヴィン)も含むので三つ以上では?
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