ナハムとベイムの婚儀②~宴の前に~
2023.6/6 更新分 1/1
しばらくして、アイ=ファが母屋から姿を現した。
その絢爛なる姿に俺は息を呑み、ララ=ルウは「わあ」とはしゃいだ声をあげる。
「やっぱりアイ=ファの宴衣装姿ってのは、立派だね! これじゃああちこちの男衆が騒ぐのもしかたないかなー!」
「……ララ=ルウは、いまだ宴衣装ではないのだな」
「うん。宴衣装を汚さないように気をつけるのが面倒だから、祝宴の前に着替えるつもりだよー。たいていの女衆は、そうなんじゃないの?」
「できれば私も、そのように取り計らいたいところであるのだが……何故だかこの者たちが、このように早々からやってきてしまったのだ」
アイ=ファが嘆息をこぼすと、着付けを手伝っていた女衆のひとりががうっとりとした面持ちで声をあげた。
「だってわたしたちは祝宴に招かれていないので、着替えを手伝わないとアイ=ファの宴衣装を目にすることができないのです」
「……私のこのような姿を見たところで、腹がふくれるわけではあるまい」
「腹はふくれなくても、胸が満たされます。アイ=ファの今日の喜びを多少なりとも分かち合えたような心地で、とても幸福であるのです」
その場に集まっているのは、ガズやラッツを親筋とする氏族の混成軍である。そして誰もが、きらきらと瞳を輝かせている。それは城下町の祝宴でアイ=ファを取り囲む若き貴婦人たちと同じ輝きであるようであった。
「女衆からの人気も、相変わらずだねー。まあ、あたしの目から見ても、アイ=ファは格好いいけどさ」
ララ=ルウが、こっそり俺に囁きかけてくる。
確かにアイ=ファは、格好いい。狩人としての凛々しさや雄々しさが、アイ=ファに唯一無二の輝きを与えているのだ。
だけどやっぱり俺としては、まず優美さのほうに心を奪われてしまう。金褐色の長い髪を綺麗にくしけずられて、普段とは異なる形状をした胸あてと腰あてを纏い、数々の飾り物をさげたアイ=ファは、あまりにも豪奢で美しかった。そこに狩人としての凛々しさが加えられて、俺をいっそう陶然とさせるのである。
「アイ=ファの宴衣装には、アイムも大喜びよ。どうか祝宴を楽しんできてね」
と、愛息たるアイム=フォウを抱いたサリス・ラン=フォウもアイ=ファに微笑みかける。本日も、サリス・ラン=フォウが留守番を引き受けてくれたのだ。それに気づいたララ=ルウが、俺のTシャツの袖を引っ張ってきた。
「そーだ! ファの家の子犬たちを見せてよ! もうずいぶん大きくなったんでしょ?」
「ああ、ララ=ルウはまだ見たことがなかったんだっけ? どうぞどうぞ、ファの家自慢の子犬たちを拝んでいっておくれよ」
ララ=ルウは弾む足取りで土間に踏み込み、再び「うわあ」と感嘆の声をあげた。
大きな木箱の中で、3頭の子犬たちがじゃれあっている。ファの家自慢の子犬たち――フランベとチトゥとマニエである。ついにこの子犬たちも、生誕からひと月と10日を迎えたのだった。
今ではずいぶん身体も大きくなって、毛並みも立派なものである。黒いお目々もぱっちりと開いて、よちよち歩きができるようになり――もう、尋常でない愛くるしさであるのだ。俺やアイ=ファはその姿を目にするたびに悶死してしまいそうになるのだが、決して身びいきだけではないはずであった。
「うん、ほんとに可愛いねー。もちろんルウの子犬たちだって、これに負けないぐらい可愛いけど……こんなに小さくても、1頭ずつ顔つきが違うんだね」
と、ララ=ルウは昂揚をあらわにしつつ、声をひそめている。子犬もこれぐらいの大きさになると目や耳が発達して、光や物音に過敏なようであるのだ。
「雄なのは、2頭だっけ? これは立派な猟犬に育ちそうだね」
「うん。まだまったくそんな姿は想像つかないけどね」
「あはは。うちのコタだって、ジザ兄みたいにでっかくなる姿は想像つかないもんね」
ララ=ルウはそんな風に語りながら、名残惜しそうに身を起こした。
「ジザ兄の顔と一緒に、今日の役目を思い出しちゃったよ。そろそろ出発しないとね」
というわけで、俺たちはようよう出発することになった。
ここから会場に向かうのは、俺とアイ=ファとララ=ルウのみである。アイ=ファは宴衣装の姿であるし、ララ=ルウと語らう貴重な機会でもあるため、俺が手綱を握ることにした。
本日の会場は、ラヴィッツの集落だ。本来これはナハムとベイムのみで交わされる血の縁であるが、ナハムの集落では収容人数に限界があったため、特別に場所が貸し出されることになったのだった。
「しかし、今もなお氏を残している氏族の大半は、かつて眷族を率いていた親筋の立場であったはずだ。それならば、どのような集落でも大きな広場が残されているはずだが……実際は、そうでもないらしい」
アイ=ファがそのように疑念を呈すると、ララ=ルウが「そうだね」と応じた。
「ルティムやレイも、昔はもっと大きな広場だったみたいだよ。でも、ルウの子になってからはそんなにたくさんの人間を招く機会もなくなったから、ほったらかしにしてる部分は新しい草木が生えたみたいだね」
「うむ。ファの家とて、かつてはいくつかの分家が存在していたはずであるからな。しかし、私が生まれるより早く、それらの家があった場所は森に戻ってしまったようだ。やはり森の力というのは、大層なものであるのだな」
「うん。飛蝗に荒らされた森も、早く力を取り戻せるといいんだけど……飛蝗ってのは草の根まで食い尽くしちゃうから、けっこう難しいみたいだね」
「うむ。ファの狩り場にも、多少は傷痕が残されている。かえすがえすも、あれは許されざる行いであったな」
アイ=ファを相手にすると、どうしても堅苦しい話題になってしまいがちである。しかしララ=ルウもそういう話題を嫌がる気質ではないので、アイ=ファとの対話を存分に楽しめているようであった。
「あ、そういえば、リコたちもついに新しい劇が完成したんだって? 準備が間に合うようだったら今日の祝宴でお披露目されるって話だったけど、どうなんだろう?」
「昨日の晩には、すでにおおよその準備が整ったという話であったぞ。今日は森辺と貴族の主要な人間が居揃っているので、内容を吟味させるには都合がいいのだろう」
と、アイ=ファの声がいっそう真剣な響きを帯びる。リコたちが手掛けていたのは、『森辺のかまど番アスタ』の新しい一幕であったのだ。しかもそれが《颶風党》やティアにまつわる物語であるものだから、俺やアイ=ファもひとかたならぬ思いであったのだった。
「うーん。《颶風党》の話となると、けっこう殺伐とした内容になっちゃうよねー。婚儀の祝宴に不似合いだったりしないのかなー?」
「どうであろうな。リコたちの劇は幼子でも恐怖を抱かないように加減されているという話であるので、問題はなかろうと判じられたのやもしれん」
「あー、なるほど。でも……これまでの劇だって、テイ=スンの言葉なんかは胸にくるよね。ああいうのは、幼子より大人のほうがしんどいものじゃない?」
「そうだな。まあ、劇の内容はナハムやベイムの家長らに通達されているはずだ。それでそちらの家長らが許したというのなら、問題はなかろう」
そのように語るアイ=ファの言葉が、手綱を操る俺の後頭部に接近してきた。
「ともあれ……どのような内容であろうとも、うかうかと涙をこぼすのではないぞ?」
「いやぁ、どうだろう。虚言は罪だから、軽はずみなことは言えないなぁ」
アイ=ファは溜息をついてから、俺の頭を優しく小突いてきた。
それからしばらくして、ついにラヴィッツの集落に到着である。ただその入り口には甲冑を纏った兵士と狩人の男衆が立ちはだかっており、道の先には立派なトトス車がずらりと並べられていた。
「ファの家のアスタか。広場にはもはや荷車を置く場所もないので、そちらに並べてもらいたい」
兵士ではなく狩人のひとりが、そのように告げてくる。あまりはっきりとは覚えていないが、ラヴィッツかナハムの男衆であろう。そちらの言葉に従って、俺はトトス車の行列の先まで荷車を進めた。
貴族が参ずる際には30名ばかりの兵士が同行するのが通例であるため、トトス車の数も3台だ。その先には庶民的な荷車も何台かとめられていたので、族長筋ならぬ氏族も何組かは到着しているようであった。
さらにその先まで歩を進めたのち、ギルルを荷車から解放して、集落の入り口まで引き返す。すると、厳しい面持ちで立ち並んでいた兵士たちが、アイ=ファの麗しき姿にぎょっと身をすくめることになった。
「し、失礼した。我々が身もとを確認するのは宿場町の民ユーミなる女人のみであるので、森辺の方々はお通りいただきたい」
「はい。お役目ご苦労様です」
森辺における警護を任されるのは、きっとメルフリードのお眼鏡にかなった精鋭の兵士たちだ。そんな彼らでも、アイ=ファの美しさには胸を騒がせてしまうようであった。
俺はひそやかな誇りを抱きつつ、ラヴィッツの集落へと足を踏み込む。するとすぐさま、見慣れた人物がひょこひょこと近づいてきた。
「ほう。そんな早々に宴衣装で参ずるとは、なかなかの気合だな。ファの家長も、ついに婿取りを思案し始めたというわけか?」
そんな人を食ったようなことを言うのは、ラヴィッツの長兄である。アイ=ファはいくぶん目を細めつつ、彼の落ち武者めいた面相を見下ろした。
「本日ラヴィッツは場所を貸すだけの役割であったが、案内役まで引き受けることになったのか?」
「ここは俺たちの集落であるのだから、ナハムの人間に案内をまかせることはできまい。トトスを落ち着かせる場所まで案内してやるので、その後に刀を預かるぞ」
そうして俺たちは彼の案内で、とある分家の横合いまで移動することになった。
広場では、あちこちで歓談の場が形成されている。その主たるは男衆であるが、若い女衆の姿もちらほらと見受けられた。きっと屋台の当番から外れていた氏族の女衆だろう。だがやはり、このように早い刻限から宴衣装を纏っている人間はいないようであった。
「貴族の姿が見えぬようだな。どこかの家で語らっているのか?」
「家にこもっているのは、メルフリードだけだな。ティカトラスとフェルメスはそれぞれの従者を引き連れて、かまど仕事を見物している。メルフリードには族長ダリ=サウティ、ティカトラスにはザザの末弟、フェルメスにはルウの長兄があてがわれているぞ。……ルウの三姉は、やはり兄のもとに参ずるのか?」
「うん。まずは、到着したことを伝えないとね。その後のことは、ジザ兄しだいだよ」
「そうか。では、そちらにも俺が案内しよう。……俺も貴族の相手をしようと考えていたのだが、なかなか割り込む隙がなかったのでな」
そう言って、ラヴィッツ長兄はにんまり笑った。
とりあえず、俺はギルルの手綱を木の枝に繋がせていただく。しかるのちに、アイ=ファの刀とララ=ルウの宴衣装を預かってもらい、ジザ=ルウの所在を求めることになった。
「本日は、ラヴィッツの狩人も休息の日としたのであろう? デイ=ラヴィッツは、いずこであるのだ?」
「親父殿はダリ=サウティとともに、メルフリードと語らっている。今日やってきた貴族の中で親父殿が好ましく思えるのは、メルフリードとポルアースぐらいであろうからな。ちなみにポルアースは、ティカトラスにひっついているようだぞ」
「そうか。貴族は貴族で、ティカトラスが騒ぎを起こすことを案じているだろうからな」
「であれば最初から、こちらに参じないように掣肘してほしかったものだ。……と、親父殿はそのように考えていることであろうな」
ラヴィッツの長兄は、身内に対しても皮肉っぽい。そんな彼の姿を見下ろしながら、アイ=ファは「ふむ」と形のいい下顎を撫でた。
「しかし、家人らがティカトラスの参席を拒むようなら自分が掣肘すると、モラ=ナハムはそのように語っていたはずだ。それでもティカトラスが参じたということは、それを拒む人間もいなかったということであろうか?」
「少なくとも、ナハムやベイムに強く拒む人間はいなかったのであろうな。お前たちが、外の人間とも正しく交流を紡ぐべきと言い張ってきた結果なのではないか?」
「そうだとしたら、誇らしい限りだな」
アイ=ファのよどみない返答に、ラヴィッツの長兄は「ふふん」と口の端をあげる。
「お前などは、ティカトラスを苦手にしている筆頭であろうにな。それでも、大義名分のほうが上回るというわけか」
「うむ。私は確かにティカトラスを苦手にしているが、人間としての根本の部分は信用しているつもりだ。であれば、交流を拒むわけにはいくまい」
「まったく、見上げた心意気だ。その調子で、親父殿の分までティカトラスの相手をしてやるがいい」
そうして会話が一段落したタイミングで、分家のかまど小屋に到着した。
かまどの間の入り口に、複数の人々がたむろしている。ジザ=ルウとフェルメスとジェムドに、さらに2名の狩人だ。その片方は、兄と異なり立派な体格をしたラヴィッツの末弟であった。
「おい。ルウの三姉とファの両名を案内してきたぞ」
ラヴィッツの長兄の言葉に、すべての人間が振り返ってくる。その中で「うわ」と声をあげたのは、ラヴィッツの末弟であった。
「ファ、ファの家長はすでに宴衣装であったのだな。これは何とも……ああ、いやいや何でもない。息災なようで、何よりだ」
彼は厳つい風貌をしているが、父や兄よりもよっぽど素直な気性であるようなのだ。何とかしかつめらしい表情をこしらえているが、その瞳には陶然とした光がたたえられていた。
「おや。アスタにアイ=ファもご一緒でしたか。ティカトラス殿は、別の方々と集落を見物されていますよ」
フェルメスは、優美な微笑とともにそう告げてくる。先日の祝賀会と同じく、どこかよそよそしい笑顔だ。そちらに対して、アイ=ファは真っ直ぐな視線を返した。
「それは、ラヴィッツの長兄からもうかがっていた。しかしべつだん、ティカトラスばかりを優先する理由はない。我々にとっては、誰もが大切な客人だ」
「そうですか。では、ご随意に」
どうもフェルメスは、俺たちがティカトラスにばかりかまけているようだと、すねてしまっているようなのである。先日の祝宴でも最後までよそよそしいままであったし、5日が経過した現在もそれは継続していた。
(フェルメスとの仲がこじれたら、大変だもんな。今日は念入りに、親睦を深めさせていただかないとな)
そのように思案する俺のかたわらから、ララ=ルウが兄のもとまで進み出た。
「待たせちゃって、ごめんね。あたしはこれからどうしようか?」
「そうだな。俺たちも、なるべく数多くの相手と交流を深めるべきであろう。よければララには、ティカトラスの相手を願いたい」
「うん、了解。それじゃああたしは、失礼するね。案内役は、不要だよ」
そうしてきびすを返したララ=ルウは、立ち去る前に俺に耳打ちをしてきた。
「アスタたちも一緒に来たことは、ティカトラスに黙っておくよ。まあ、そんな長くはもたないだろうけど、しばらくはフェルメスの相手をしてあげれば?」
「うん、ありがとう。それじゃあ、そうさせてもらうよ」
フェルメスとティカトラスの微妙な関係性については、森辺においても周知されているのだ。それでララ=ルウも、何か察したようであった。
そうしてララ=ルウを除く面々は、こちらの一団と合流する。まず口火を切ったのは、我が最愛なる家長殿であった。
「貴族の客人らは、ずいぶん早くから参じていたのであろう? その間、ずっとかまど仕事の見物に励んでいたのであろうか?」
「調理の見学のみならず、さまざまな場所を巡って検分させていただいています。すでにあちこちの氏族の方々が集まっておられるので、退屈するいとまはありませんでした」
よそゆきの笑顔のまま、フェルメスはそのように応じてくる。
アイ=ファは「そうか」とうなずきつつ、俺のほうをちらりと見やってきた。やはりここは、俺が率先してフェルメスのご機嫌をうかがうべきであろう。
「フェルメスたちとは数日ぶりですけれど、先日の祝宴ではあまり時間を取れませんでしたからね。今日は早くからご挨拶できて、嬉しく思っています」
「そうですね」
「えーと……おからだの具合は、いかがですか? 年が明けてからも、色々とお忙しかったのでしょう?」
「お気遣いありがとうございます。幸い、体調に問題はないようです」
こちらがどのように呼びかけても、フェルメスにはするりと受け流されてしまう。どうも今回は、本腰を入れてへそを曲げてしまっているようであった。
きっとそこには、ティカトラスに対する複雑な思いというものも大きく関わっているのだろう。フェルメスはティカトラスを苦手にしているばかりでなく、その奔放な生きざまにある種の憧憬や嫉妬心などを抱え込んでいるようであるのだ。
フェルメスはこの世のすべてを知りたいと願っているが、病弱であるために行動が制限されてしまう。それで、大陸中を隅々まで検分して回る代わりに、書物を読みあさることになったという話であった。よって、健康な肉体と莫大な資産によって自由気ままに生きることのできるティカトラスが妬ましいのだ、と――フェルメスはかつて体調を崩していた際に、そんな真情を吐露していたのだった。
なおかつフェルメスは、『星無き民』である俺に執着している。そんな俺がティカトラスにばかりかまけると、負の感情がつのってしまうようであるのだ。さらにティカトラスは国王からの信頼も厚いため、フェルメスとしてもぞんざいに扱うことができず――結果、このようによそよそしい態度で自分の殻に閉じこもってしまったわけであった。
(実際は、俺がティカトラスにかまけてるんじゃなくて、あっちがアイ=ファにかまけてるだけなんだけど……フェルメスにとっては、同じことなんだろうな)
そんな思いを噛みしめながら、俺はフェルメスに笑いかけてみせた。
「それじゃあ、俺たちもご一緒させてください。祝宴の開始まで、まだまだたっぷり時間は残されていますからね」
「ですが、ティカトラス殿がアスタたちのご挨拶を待っているのでは?」
「こっちの到着に気づいたら、ティカトラスのほうから突撃してくると思いますよ。だったらその前に、フェルメスとゆっくり語らせていただきたく思います」
すると、にんまり笑ったラヴィッツの長兄も口をはさんできた。
「であれば、どこかの家に腰を落ち着けてはいかがかな? 客人らも、そろそろ歩き疲れた頃合いであろう?」
「ああ、それはいいですね。あまりあちこち移動すると、すぐティカトラスに気づかれてしまうでしょうからね」
ということで、俺たちは手近な分家の母屋を目指すことになった。
その道中も、フェルメスの態度に変わりはない。従者のジェムドも、それは同様だ。今日も彼は、フェルメスの影のようにひっそりとしていた。
「そういえば、今日はガーデルの参席が許されず、残念なことでしたね」
母屋に腰を落ち着けるなり、フェルメスはいかにも業務連絡めいた調子でそのように告げてきた。
「そうですね。でも、ガーデルは今回の婚儀とも無関係ですので、最初から招待しようという話にもなりませんでした。あまり無理をさせると、傷の回復にも悪い影響が出てしまうでしょうしね」
「なるほど。そもそも森辺の婚儀というのは血族だけで執り行う習わしなのですから、僕たちだけでも十分に迷惑なのでしょうね」
フェルメスのそんな言葉には、ラヴィッツの長兄が「ふふん」と反応した。
「それを言ったら、今日は俺だって部外者の身だぞ。これは、ナハムとベイムだけで交わされる血の縁であるのだからな。たとえラヴィッツがナハムの親筋であろうとも、本来は立ち入るべきではないのだ」
「でしたら、何故こちらの集落で婚儀を挙げることになったのでしょう?」
「それは、ナハムやベイムの広場では手狭だったという理由にすぎん。まあ、両家の家人のみであれば問題はなかろうが、余所の氏族から客人を招くには無理があったからな。そうして多数の客人を招くとなると宴料理の準備もかさんでしまうので、そちらにも総出で手を貸すことにしたというわけだ」
「そもそも、どうして余所の氏族から客人を招かなくてはならないのでしょうか?」
「それは、多くの人間がこの婚儀を見届けるべきであるからだ。他なる血族に塁の及ばない婚儀というのは、これでようやく3組目であるのだからな。ナハムとベイムは、この後に続く氏族のために規範を示さなければならないのだ」
軽妙な調子で答えながら、ラヴィッツの長兄はまたにんまりと笑った。
「よってこれは、森辺の民にとっての一大事となる。であれば、王都の外交官たるフェルメスにも見届ける義務というものが生じるのではないか? そちらはジェノスにおける変事を余すところなく見届けるのが本分なのであろう?」
「確かに、そういう側面もあるのでしょうね」
「ジェノスの貴族も、また然りだ。あやつらこそ、森辺の民の実態というものをよくよく見定めるべき立場であろうからな。よって、何の名目もなく参席を願ってきたのは、ティカトラスの一行のみということだ」
フェルメスは優美に微笑んだまま、小首を傾げた。
「あなたは、ティカトラス殿の参席に反対の立場であったのでしょうか?」
「俺自身は、ティカトラスという人間を嫌ってはいない。しかし、本日婚儀を挙げるモラ=ナハムとは幼少の頃よりのつきあいであるからな。その大切な婚儀を興味半分で見物しようとする行いには、あまり感心できん。まあ、ナハムとベイムが許しを与えた以上、文句をつける気はないがな」
「なるほど……やはり森辺においても、個人の意見はさまざまであるようですね」
「当然だ。ファの両名とて、それぞれの考えがあろう?」
いきなり水を向けられて、アイ=ファは「そうだな」と沈着な言葉を返した。
「私もラヴィッツの長兄と似たような思いを抱いている。最近では、収穫祭に客人を招くことも珍しくはなくなってきたが……婚儀というのは、とりわけ絆を重んずるべきであろう。モラ=ナハムともフェイ=ベイムともさしたる縁を持たない人間が執拗に参席を願うのは、いささかならず筋違いであるように思う」
「俺も、同じ意見です。まあ、フェイ=ベイムたちはかろうじて、何回かの祝宴でティカトラスとご一緒していましたけれど……逆に言うと、わずかにでもご縁があったから、ナハムやベイムの家も参席を許したのでしょうね。これがもしもフォウとヴェラの婚儀であったなら、ティカトラスの参席は許されなかったのかもしれません」
「なるほど。本日婚儀を挙げる両名は先日の祝賀会のみならず、昨年の送別会にも参じていましたね。それに……アイ=ファの肖像画をお披露目する祝宴においても、モラ=ナハムはマルフィラ=ナハムの付添人として参じていたように思います」
そんな話をぽんと思い出せるのは、さすがの記憶力であった。送別会はまだしも、肖像画のお披露目会などというのはもう4ヶ月ばかりも昔日の話であったのだ。
「まあ何にせよ、客人の参席を許したのはナハムとベイムの家だ。自分が邪魔者だなどとは思わずに、今日の祝宴をしっかり見届けてもらいたく思うぞ」
「はい。王都の外交官として、ぬかりなく本分を全うする所存です」
フェルメスがそのように答えると、会話に切れ間が生じた。
それと同時に、ラヴィッツの長兄が「そうだ」とジザ=ルウを振り返る。
「実は、ルウの長兄に伝えておきたいことがあったのだ。腰を落ち着けたばかりだが、少し時間をもらえるか?」
「うむ? 俺にどのような用件であろうか?」
「少しばかり、余人の耳をはばかりたい。ちょっとこいつらも借りていくので、外交官の相手はファの両名にまかせるぞ」
そんな言葉を残して、ラヴィッツの長兄は弟たちとともに母屋を出ていった。
ジザ=ルウもそれに続くと、広間には俺とアイ=ファ、フェルメスとジェムドだけが残される。そんな中、フェルメスはゆったりと微笑みながら発言した。
「前々から思っていましたが、あちらの御方はずいぶんと目端がきくようですね。何だか、気を使わせてしまったようです」
「うむ。しかし、森辺において虚言は罪であるからな。ジザ=ルウに話があるという言葉に、嘘はないのだろう」
アイ=ファは凛然とした面持ちで、そのように応じた。
「しかし、余人の耳のないところでフェルメスと語らえるのは、幸いだ。どうも先日からフェルメスとの間に穏やかならぬ気配を感じるので、それを解消させてもらいたく思う」
「……アイ=ファはいつでも、率直ですね。僕としては、ラヴィッツの長兄のような作法を親しみ深く感じます」
「ラヴィッツの長兄は、森辺において変わり種の部類であろうと思うぞ。我々は心を探り合うことなく、しかと絆を深めたく思う」
そう言って、アイ=ファはまた俺に視線を向けてきた。
ひとつうなずき、俺も発言させていただく。
「俺もこの前の祝宴から、少しぎくしゃくしたものを感じていました。フェルメスとの関係がこじれてしまわないように、真情を語らせていただきたく思います」
「真情とは? 僕はべつだん、アスタたちの真情を見誤ってはいないつもりですが」
「そうなのでしょうか? 俺はもっと、フェルメスと仲良くさせていただきたく思っています」
フェルメスは、いくぶん眉を下げつつ微笑んだ。
「いきなり、どうされたのですか? アスタは僕ばかりにかまけていられるお立場ではないでしょう?」
「それは、おたがいさまじゃないですか。いずれアルヴァッハやダカルマス殿下がいらっしゃったら、フェルメスはますますお忙しくなってしまうのでしょう? 俺もそういった人々にはごひいきにさせてもらっていますが、城下町で過ごすフェルメスのほうこそ応対に追われてしまうのでしょうからね」
そのように語りながら、俺はフェルメスに笑いかけてみせた。
「それに、ティカトラスも含めてそういう方々は、一時的に滞在される身です。だからこちらも、ついついそういった方々を優先してしまいがちなのですが……フェルメスだって、任期を終えたら王都に戻ってしまわれるのでしょう? もしもフェルメスが近日中に王都に呼び戻されることになってしまったら、俺は悔んでも悔やみきれません。後悔のないように、フェルメスともしっかり絆を深めさせていただきたく思います」
「……アスタもずいぶん、アイ=ファの率直な流儀に染まってしまったようですね」
「俺はもともと、こういう性分なのですよ。むしろ森辺で暮らすことで、ずいぶんつつましい人間になったんじゃないかと自負しています」
「うむ。お前は出会った当時のほうが、よほどはねっかえりであったように思えるな」
アイ=ファがやわらかな眼差しでそのように応じると、フェルメスはいくぶん意外そうに「そうなのですか?」と問うてきた。
「アスタは今でも、十分に能動的な御方であるように見受けられますが……これでも、つつましくなったほうだと?」
「うむ。以前のほうが、自らの流儀を押し通そうとする面が強かったように思う。おそらくは、さまざまな人間との出会いが、アスタを成長させたのであろう」
「うん。俺も故郷では、自分の店でお客を待つだけの立場だったからな。ぶつかる相手なんて、親父ぐらいしかいなかったから……こっちでの暮らしで、ずいぶん学ばせてもらったと思うよ」
俺の言葉に、フェルメスはまた曖昧な微笑をたたえた。
「……アスタが僕の前で自ら故郷のことを語るのは、珍しいように思えますね」
「べつだん隠し立てする気はありませんし、そもそもフェルメスも俺の故郷に対しては興味が薄いのでしょう? 何にせよ、フェルメスとは言葉を飾らずに交流を深めさせてもらいたく思っています」
「ちょっと待ってください。アイ=ファとふたりがかりで押し寄せられたら、僕の脆弱な神経がもちそうにありません」
ずいぶん殊勝なことを言いながら、フェルメスは長い前髪をかきあげた。
「……でも確かに、アスタもそういう熱烈な一面を持つ御方でしたね。このように親密に語らうのはひさびさであったので、僕も失念してしまっていたようです」
「ええ。最近は、フェルメスを家にお招きする機会もありませんでしたからね。最後にゆっくり語らえたのは、『麗風の会』あたりでしょうか? せっかくですので、ふた月分は語らせていただきたく思います」
その後は、とりとめのない会話に興じることになった。
ジザ=ルウたちはなかなか戻ってこず、ティカトラスに押しかけられることもなく、四半刻ばかりもじっくり語らうことができたのだ。それでようやく、フェルメスは素直な笑顔を見せるようになり――無言で座していたジェムドも、どこか満足げな眼差しを浮かべることになったのだった。




