⑥青の月13日~南の大樹亭~
2014.12/17 更新分 1/1 2015.7/7 誤字を修正
中天を迎えてから1時間後、俺とヴィナ=ルウは予定通り《南の大樹亭》に向かうことができた。
「お待ちしておりましたぞ、アスタ」
宿屋の主人ナウディスは、厳つい顔に柔和な表情を浮かべて、俺たちを出迎えてくれた。
肌の色は象牙色だが、小柄で、骨太で、褐色の髪と緑色の瞳をした、南と西の混血たる親父さんである。
《キミュスの尻尾亭》よりもさらに南側。看板の掛かった大きな建物と、それほど大きくもなく何を生業にしているのかもわからない小さな建物が乱立する区域に、《南の大樹亭》はどんと店をかまえていた。
規模で言うなら、《キミュスの尻尾亭》よりもうんと大きい。造りはやっぱり2階建てだが、横幅などは小さな宿屋の倍ぐらいはあって、1階の食堂などは100名近いお客さんを収容することが可能であるとのことであった。
受付台には親父さんとよく似た風貌の若者を残し、俺たちはその奥の厨房へと案内される。
「私の女房が下りてくるまでは、どうぞ自由に道具を使ってください」
「はい。ありがとうございます」
大きさは、ルウ家のかまどの間と大差がなく、せいぜい8畳ていどであったが。3つのかまどは奥の壁際に設置され、調理器具は壁に掛けられており、後は食器の詰まった棚と大きな作業台があるぐらいなので、実に広々として見える。
かまどや調理器具はもちろん、水瓶の水や薪も好きなだけ使って良いとの了承を得ている。朝の内に預けておいた食材の包みを広げながら、俺はヴィナ=ルウに「それでは片方の鉄鍋で水を沸かし、もう片方の鉄鍋は肉を焼く用に温めておいてください」と声をかけた。
俺たちに与えられた時間は、およそ2時間30分である。
それ以降も、ナウディスの奥方による他の料理の仕込み作業を邪魔しない範囲でなら厨房に居残ってもかまわないとは言われていたが。そもそも2時間30分後には森辺に帰らないとヴィナ=ルウが超過勤務となってしまうので、のんびりしていられる時間はない。
「おお、さすがに40人前ともなると、巨大な肉塊でありますな」
どうやら調理の様子を見物する心づもりであるらしいナウディスが、作業台の反対側から俺の手もとを覗きこんできた。
「これは、ギバの胴体の肉ですな?」
「はい。俺の故郷ではバラ肉、三枚肉などと呼ばれていましたね。あばら骨を外した胴体の肉です」
そのバラ肉が40人前で、およそ10キロ。
30×20×5センチていどの大きさで切りわけた肉が、6つ。まさしく肉塊である。
保存のためのピコの葉をきれいに取り除きつつ、俺はその肉塊を作業台に並べていった。
用意する料理は40人前。代価は、しめて赤銅貨80枚である。
手間のかかる焼きポイタンは使用しない、という取り決めになったので、その分の卸値を引き下げることになったわけだが。そうすると、奇しくも1食あたりの価格は屋台の料理と同額になってしまった。ナウディスは、この料理に自前で用意したフワノという炭水化物の料理を添えて、赤銅貨5枚で販売するそうである。
ボリュームとしては屋台の軽食のおよそ1・5倍ほどで、値段は2倍以上。売れるかどうかは、神のみぞ知る、だ。
ギバのバラ肉10キロに対して、付け合せの野菜は、アリアが1食につき1個ずつ。しめて40個。
それとは別に煮汁で使用するのが、果実酒が4本に、アリアが20個。そしてこの《南の大樹亭》を通じて得た新たな調味料、「タウ油」をひと瓶の6割ほど。
計算したところ、原価率は27.5パーセントだった。
なかなかにタウ油というやつが高額であったので、付け合せの野菜をアリアのみに絞ったところ、屋台の軽食と大差のない原価率をはじきだすことができた。
《南の大樹亭》のために準備した、新しい献立。
それは、『ギバの角煮』であった。
角煮だったらつけあわせは大根や煮玉子が望ましいのだが。大根に代わる野菜だけではアリアほどの栄養価が望めぬようであるし、この宿場町で売られているのはトトスの巨大な玉子だけだったので、断念した。
それに――我が《つるみ屋》においては、角煮のつけあわせにタマネギを使用していたのである。
ならば、この世界においてはタマネギ以上の栄養価を含んでいるらしいアリアの使用をためらう理由はどこにもない。むしろ、アリアとの相性も、この献立を選んだ大きな要因のひとつであるのだ。
と、いうわけで、さっそく調理の開始である。
あらかじめ家で叩いて繊維を潰しておいた肉塊を手に、俺もかまどのほうに向かう。
「ありがとうございます。もう温まってるみたいですね」
さすがは業務用と言うべきか。この厨房に備えつけられていた鉄鍋は、森辺で使われているものよりも一回りは大きかった。
その鉄鍋に脂を落とし、まずは3つの肉塊を投じ入れる。
「豪快ですな。そして、とても美味そうな匂いです」
ナウディスは穏やかに微笑んでいる。
その向こう側で、水を張った鉄鍋を見下ろしているヴィナ=ルウは――相変わらずの不機嫌そうな面持ちである。もうけっこう長いこと、あの色っぽい間延びした声を聞いていない気がする。
俺の護衛を兼ねているなら、年少のララ=ルウではなくヴィナ=ルウがつきそうべきだと至極すみやかに決定されたのだが。まさか仕事の前日に不興を買ったあげく翌日にまで尾を引くような事態になるとは想像できなかった。
いったいどうしたらヴィナ=ルウの機嫌を回復させることができるのだろう、と内心で煩悶しつつ、俺は肉の焼き加減を確かめる。
いい感じの、キツネ色である。
我が家、我が店では、旨味を封じこめるために、あらかじめ肉の表面を焼いておくのがセオリーだった。
それに、焼いておけば余分な脂を抜くこともできる。
とにかく三枚肉は脂身が多いので、こうした処置がとても重要なのである。
「うん、もういいかな。そちらの鍋も沸騰しましたね」
ぎっとりとしみだした脂を可能な限り切ってから、両面を焼いた三枚肉をそっと沸騰した湯に沈める。
残りの3枚も同じように焼いて鉄鍋に沈めたら、しばらくは灰汁取りだ。
灰汁が落ち着いたら火を中火にして、持参したリーロの葉を、その上に敷きつめる。
中蓋の代用兼、臭み取りである。
通常ならば長ネギや生姜などを使うところだが、まだそれに代わる食材は発見できていない。ニンニクのような風味を持つミャームーでは香りが強すぎるので、ついに干し肉の作製以外で香草リーロが登場する段となったわけだ。
かなり大ぶりのシダの葉みたいなリーロを、煮え立つ水面の上にぎっしりと敷きつめる。
肉が浮いて顔を出してしまうとその部分だけ表面が固くなってしまうので、これが中蓋の代わりをつとめるわけである。
また、我が店などでは中蓋ではなく、キッチンペーパーを使用していた。
キッチンペーパーだと水気を含んだ上で肉を覆ってくれるから、中蓋よりもいい塩梅だったのだ。当然見た目はぐずぐずになってしまって不格好きわまりないが、そう簡単に破れたりはしないので、問題はない。
ともあれ、急ぎの仕事は完了した。
ここから下茹でには1時間ばかりもかけるつもりなので、あとはゆっくり準備をすることができる。
「それじゃあ俺は煮汁を作製しますので。ヴィナ=ルウは肉がリーロの上にまで顔を出さないよう見張りつつ、今の火力の保持をお願いします」
無言。
無表情。
だけど、ヴィナ=ルウが仕事をおろそかにするような人間ではないと、俺は信じよう。
煮汁の作製は、とてもシンプルである。
作業としては、香味野菜のアリアをすりおろすだけだ。
すりおろすための器具は、この厨房にそろっていた。
表面にびっしりとこまかいトゲのついた、甲殻類の殻である。
色合いは乳白色で、大きさは直径10センチていどの円形。おそらくはカニに似た生き物の甲羅か何かであるのだろう。詳細は、不明。
「そういえば、タウ油を定期的に購入する目処はついたのでしょうか?」
20個ものアリアをひたすらすりおろしつつ俺が尋ねると、ナウディスは「はい」と、うなずいてくれた。
「行商人に頼んでおきました。5日間で3本も使うのかと、とても驚いておりましたよ」
それはそうだろう。何せタウ油は、高額品なのである。
果実酒と同じぐらいのサイズの土瓶、およそ1リットルほどで、なんと赤銅貨10枚もする。5日間で、赤銅貨30枚の散財だ。
タウ油とは、南の王国ジャガルの特産品であるタウという豆を発酵させて作られた調味料である。このジェノスでは自家生産されておらず、すべてジャガルからの輸入品になってしまうため、いささかならず割高になってしまっているらしい。
なおかつ、割高であるために、宿場町ではこの《南の大樹亭》のように南の民を顧客としているような店でしか取り扱われていないという話だった。
本国のジャガルでは家庭的な調味料であるのに、西の王国ではそれが贅沢品になってしまう、ということだ。
しかし、俺にはこのタウ油という存在を見逃すことはできなかった。
何せこのタウ油というやつは、実に醤油と酷似した調味料であったのだ。
どろっどろのペースト状で、保存料である塩味と酒の風味がきつい。が、それ以外は本当に醤油とそっくりの味わいなのだった。
そんなタウ油とこの《南の大樹亭》で邂逅を果たすことになり、俺がどれほど狂喜乱舞したことか。家長会議がなかったら、たぶんアイ=ファがうんざりするぐらい浮かれてしまっていたことだろう。
だけど俺は歓喜の念を何とかねじ伏せて、ひたすら新しい献立の考案に集中した。
おやっさんを筆頭に、南の民はギバ肉のクセを忌避する人も多い。
ハンバーグの食感を嫌がる人も、少なくはない。
が、ドンダ=ルウのように「柔らかい肉」そのものを忌避しているわけではないらしい。
そして、薄い味付けよりは濃い味付けが好まれる。
ナウディスから得たそれらの情報をもとに、今回は『ギバの角煮』をチョイスすることになった、という顛末である。
10日間の営業日を経て手に入れた、貴重な休業日。あの日に女衆への調理の手ほどきを終えた後、俺はこの料理の試作品を作りあげた。その翌日、ナウディスに試食を頼んで、ゴーサインをいただくことができたのだ。
これならば『ミャームー焼き』に劣らない人気を得ることができるだろう、という、自身にもジャガルの血が流れているナウディスのお墨付きだが。おやっさんやアルダスなどが『ミャームー焼き』と同じぐらい喜んでくれたら、本当に嬉しいと思う。
「……さてさて、この後はしばらく肉が煮えるのを待つのでしたかな?」
「あ、はい。けっこうな時間がかかるはずです」
「では、私も少し自分の仕事を片付けてまいりましょう。半刻ほどで戻ります」
そう言い残して、ナウディスは厨房を出ていった。
数日前に出会ったばかりの、しかも森辺の民である俺たちを、きちんと信用してくれているのだ。
非常な充足感とともにアリアのすりおろし作業を終えた俺は、ヴィナ=ルウと鉄鍋の様子をうかがうことにした。
肉は、きっちりリーロの下に沈んでいる。
火の加減も、中火でばっちりである。
それに、新たに浮いてきた灰汁も取ってくれたらしい。
ほっと胸をなでおろしつつ、俺はヴィナ=ルウのかたわらに立った。
「ありがとうございます。煮汁の下ごしらえが終わったので、交代します。……あの、ヴィナ=ルウ、昨日は本当にすみませんでした」
朝からこれで何度目の謝罪であっただろう。
しかし、ヴィナ=ルウは無言のまま、こちらを見てくれようともしない。
「本当に悪気はなかったんです。ただ、ガズラン=ルティムやヤミル=レイが突然現れたもんだから、すっかりそちらに気を取られてしまっていたのですよ」
「…………」
「ヴィナ=ルウをないがしろにする気持ちはなかったんです。迂闊で大馬鹿だったのは認めますが、それだけは信じてください。そこまでヴィナ=ルウに不愉快な思いをさせてしまったことを、反省しています」
ここで気まずい雰囲気に耐えかねて三枚目などを演じるとどのような顛末に陥るか、そのようなことはアイ=ファとのつきあいでさんざん思い知っていたので、俺は平身低頭謝罪の念を示すしか手立てがなかった。
と――ようやくヴィナ=ルウの不機嫌そうに細められた目が、俺のほうを向いてくれた。
「……本当に反省してるのぉ……?」
「はい! もちろんです!」
「……まあ、仕事の手伝いをしているわたしがこんな風だったら、アスタもやりづらいでしょうしねぇ……」
「いや、仕事はきちんと果たしてくれているのですから、俺の気持ちなんかはどうでもいいんです。……というか、仕事の話は抜きにして、ヴィナ=ルウをそこまで怒らせてしまったのが、いたたまれないんです。今後は気をつけるので、何とか許していただけませんか?」
「……そんな今すぐには無理だわぁ……1回ぐらい引っぱたかせてくれたら、少しは気持ちも収まるかもしれないけどねぇ……」
「それでヴィナ=ルウの気が晴れるなら、どうぞ引っぱたいてください!」
ぐつぐつと煮立つ鍋を前に、ヴィナ=ルウが豊かに過ぎる胸もとをぐいっと突き出してくる。
「あんまり軽はずみなことを言わないほうがいいわよぉ……? 森辺の男衆ならともかく、異国生まれのアスタなんて、あたしが引っぱたいたら奥歯が外れちゃうかもしれないんだから……」
「そ、それでも甘んじて受けますよ。それぐらい俺が大馬鹿だったということなのですから」
「……どうしてぇ……? アスタにとっては、わたしなんてどうでもいい存在のはずでしょぉ……? 嫁に迎えるつもりもない女衆に、そこまでする必要はないんじゃなぁい……?」
「そんなことはありません。恋愛感情なんてなくても、大事な相手は大事です。むしろ下心が発生しないぶん、その大事さははっきりと痛感できます」
ヴィナ=ルウは、きゅっと眉をひそめて、いっそう強い目線を俺に送りつけてきた。
「どうしてもわたしには女衆としての魅力を感じてくれないって言うのねぇ……わかったわぁ……今のでちょっと頭にきちゃったから、1回だけ殴らせてもらうわねぇ……」
しなやかな指先と手の平が、ひたりと俺の頬にあてられる。
男衆ほどではないにせよ、頑健なる森辺の民であることに変わりはない。少なくとも商売の運搬作業によって、俺よりは腕力に秀でているというデータは出揃っているのだから、俺よりも体格のいい成人男子にぶん殴られるぐらいの破壊力は覚悟しておくべきであろう。
ぶっ倒れても鉄鍋に突っ込む位置ではない、ということを横目で確認してから、俺は力の限り奥歯を噛みしめた。
ヴィナ=ルウは、おもいきり右手を振りかぶり――
そして、俺の身体を抱きすくめてきた。
「そっちで来ましたか!」
「あらぁ……予想通りって反応ねぇ……つまんないのぉ……」
囁きながら、ぎゅうぎゅうと俺の身体を締めつけてくる。
マダラマの大蛇、再びである。
これでヴィナ=ルウの気が済むなら――という俺の決意は、3秒ほどでへし折れることになった。
「あ、あの、ヴィナ=ルウ、そろそろお気は済んだでしょうか……?」
「まだまだねぇ……せめて奥歯の1本と同じぐらいの代価は払ってもらわないとぉ……」
とても人様にはお伝えできない感触が、ものすごい力で俺の身体を圧迫してくる。
あと数秒もこのままでいたら、俺もどこかの神経が灼き切れてしまうかもなあ……とか、ぼんやり考えたとき、ヴィナ=ルウの柔らかくも力強い身体はしゅるりと俺から離れていった。
「これぐらいで勘弁してあげるわぁ……わたしの心はずたずたに傷ついたままだけどねぇ……」
つぶやきながら、ヴィナ=ルウは薪を1本、かまどの中に放りこんだ。
へなへなと崩れ落ちそうになるのを耐えながら、俺も鍋の中身を確認する。だいぶん水が減ってきており、差し水の必要があるようであった。
そうして水瓶の水を柄杓で移していると、ヴィナ=ルウが沈んだ声でさらに呼びかけてくる。
「ねぇ、アスタ……別にわたしは、アスタの心ない仕打ちに胸を痛めていたわけじゃないのよぉ……?」
「え?」
「わたしが本当に傷ついたのは、アスタがあの女を見る目つきの優しさに気づいちゃったから……アスタは、自分の生命を狙った相手にでも、こんな風に優しい眼差しを向けられるんだなぁって考えたら、何だか死にたいような気持ちになっちゃったのよぉ……だったら、わたしに向けられる眼差しにも、本当に特別な感情なんてこもってなかったんだなぁってことが、はっきりわかっちゃったからねぇ……」
その後に見せたヴィナ=ルウの表情こそが、俺を心底から驚かせた。
それはまるで、親に見捨てられた幼子のように悲しそうで、がんぜなく――そして、あまりに弱々しかった。
俺はこのままヴィナ=ルウが泣き崩れてしまうのではないかと半ば覚悟を固めることになったが、しかし彼女は最後の最後で涙をこらえ、すべての悲しみを吐き出すかのように深い吐息をついた。
「だけど、ごめんなさい……わたしだって、最初は自分の望みをかなえるために、アスタに近づいただけなのに……アスタを責める資格なんて、わたしにはないわよねぇ……そんなことは、わかってるつもりだったけどぉ……アスタがあんまり優しくしてくれるから、ついつい期待しちゃうのよねぇ……」
「……俺はもっとしっかりと距離を取るべきなんでしょうか」
俺の間抜けな返答に、おっかない視線がちろりと向けられてくる。
「そういう言葉を口にしちゃうのが、また悪いわよねぇ……わたしの心は、煮すぎたアリアみたいにぐちゃぐちゃよぉ……」
「す、すみません」
「何が悪いのかもわかってないなら、謝らないでぇ……それで、絶対にわたしから離れようとかはしないでねぇ……?」
と、ヴィナ=ルウは少しうつむき、本当の子どもみたいに親指の爪を噛み始めた。
「どうせアスタにはわたしを上手くあしらうことなんてできないんだから、ずっとそのままでいて……わたしの気持ちは、わたしが決着をつけるから……おかしな気を回して、わたしの邪魔はしないでほしいわぁ……」
「……そうですか」
「……うん……もしかしたら、アスタに傷つけられることも心地好く感じられるようになれるかもしれないしねぇ……」
「そ、それは絶対に踏みこんではいけない領域のような気がしますが!」
「いいじゃなぁい……人の幸福は人それぞれでしょぉ……?」
と、最後はヴィナ=ルウらしく艶やかに笑ってから、俺のほうにしずしずと頭を下げてくる。
「それじゃあ、今日のことはわたしも謝っておくわぁ……大事な仕事の最中に、自分の気持ちを抑えられなくてごめんなさい……反省するから、許してくれるぅ……?」
「許すも許さないもないですよ。悪かったのは、俺のほうなんですから」
「許してくれるなら、どんな辱めでも受けるけどぉ……」
「だから、許しますってば!」
そうして俺たちの悲喜劇が終了し、数十分ぐらいが経過したあたりで、ナウディスが戻ってきた。
「さてさて。そろそろ頃合いですかな?」
「そうですね。そろそろかもしれません」
俺はリーロの一部をかきわけて、グリギの菜箸の先端を肉塊に押しあててみた。
さしたる抵抗もなく、菜箸は肉の中に埋まっていく。
まさしく、頃合いだ。
「よし。肉を引き上げて、鉄鍋を下ろします」
リーロの葉と肉をすべて木皿にすくいあげてから、ヴィナ=ルウとともに鉄鍋を持ち上げる。
床に下ろすわけではない。水を張った同サイズの鍋の上に下ろすのだ。
さんざん炎にあぶられていた鉄鍋が、ものすごい音をたてて大量の水を蒸発させる。
さらに受け側の水を張りかえて、同じ作業を3回ほど繰り返す。
後は水に浮かべたまま、放置だ。
その間に粗熱のとれてきた肉塊を、こちらも水で洗浄する。
肉に付着した脂分を除去するためである。
すでに肉は存分に柔らかくなってしまっているので、形を崩してしまわないよう丁寧に洗い、最後にはしっかりと清潔な布で水気もぬぐう。
とにかく、徹底して脂を除くのだ。
そうして洗浄の済んだ肉を、一口サイズ、5センチ四方のブロック状に切りわけていく。
ここでも形を崩してしまわぬよう、細心の注意が必要である。
そうしたら、また鉄鍋の処置だ。
冷却し、しばし時間を置いたことで、あらかた脂分は上のほうに浮いてきている。冷やすといっても常温の水なのでたかが知れているが、それでも鍋の上部には多少ながらも固形化した脂がひっついている。それらはすべて除去して、持参した皮袋へと保存した。今日の料理では使わないが、大事なラードの原料だ。
で、新しい鉄鍋にブロック肉と、皮を剥いて頭と尻を落としたアリアをまるごと敷きつめていく。
10キロの肉と40個のアリアなので、2つの鍋がそれでいっぱいになってしまう。
そして、脂を除去したダシ汁に、土瓶に6分目のタウ油と、4本の果実酒、それにすりおろした20個分のアリアを投入。
念入りに攪拌したのち、柄杓を使って2つの鍋に均等に移す。
あとは、弱火でひたすら煮込むだけ、だ。
「ふう。何とか間に合いそうかな」
制限時間は、2時間半。その中で、下茹でに1時間、最後の煮込みで最低でも30~40分は費やすのだから、やはりなかなかギリギリであったようだ。
中間の、肉を洗う作業でだいぶん手間取ってしまっているのである。まあ、数をこなすごとに作業時間は短縮できるだろう。手早さよりも、最初は丁寧な仕事を心がけるべきだ。
「ううむ。芳しいですなあ」
と、ナウディスが大きな鼻をひくひくとさせている。
厨房には、むろんのこと、タウ油と果実酒の匂いが満ちみちていた。
ミャームーとはまた異なる、甘い香りである。
否が応にも故郷を思い起こさせる醤油っぽいその芳香に、俺もうっとりしてしまう。
が、忘我の境地にひたってはいられない。
ここではリーロの葉も使えないし差し水もできないので、肉が水面から顔を出し始めたら、まんべんなく煮汁をかけ続けなくてはならないのだ。
最終的には水分が3分の1にまで減ってしまうので、もうひっきりなしに面倒を見てやらなくてはならなくなる。
そうして、30~40分ほどかけて、しっかり煮込むことができたら――完成だ。
「よし。これで完了です。いったん火を止めますので、お客さんに出す前に温めなおしてくださいね」
当たり前の指示に聞こえるが、実はそれも必要な作業工程なのである。
こういった煮込み料理は、いったん冷やしてまた温めなおすことによって、いっそう具材に味がしみこむのだ。
この世界に冷蔵庫さえあれば、前日に作って一晩寝かせたいぐらいであるのだが、ない袖は振れないので、常温でしばし置いておく他ない。それでも日没までにはまだ3時間以上もあるのだから、できたてよりは味もしみるだろう。
「ご苦労さまでありました。これは約束の代価であります」
ナウディスが、小さな布袋を差し出してくる。
確認すると、8枚の白銅貨がきっちりと収まっていた。
「ありがとうございます。完売できると嬉しいのですが、どうでしょうね」
「それはわかりません。値段の問題もありますからな。売れなければ、明日からは赤銅貨4枚にします。そうすれば、カロンの料理と同じ値段なのですから、必ず売れるものと私は信じております」
そんな風に答えながら、ナウディスはいそいそと木皿を運んできた。
「あれ? お味見ですか? いったん冷やしてからが、本当の味ですよ?」
「はい。その味を比べてみたいのです。……というよりも、ようやく完成したのですから、一刻も早く味を確かめたいのです」
それはまあ、すでにこの料理の所有権はナウディスの手に移っているのだから、ご随意のままに、である。
普段よりも2ミリほど目尻の下がった面持ちで、ナウディスはブロック状のギバ肉をひとつだけすくいあげた。
その木匙の上で、すでに肉はふるふると揺れている。
それはもう、木匙や箸で簡単にちぎれるぐらいの柔らかさであるはずだ。
脂の抜けた脂身は、半透明のゼラチン質と化している。
その肉にはタウ脂と果実酒の甘味がしっかりとしみこんで、強い味付けの向こう側には肉の味と旨味がしっかりと潜んでおり――などと想像していたら、俺まで腹が空いてきてしまった。
「では」と、ナウディスは肉片を口の中に放りこんだ。
肉と脂身の層がほろほろとほどけて、たまらない旨味が口の中に広がる、はずだ。
本当は、アリアのほうだって試食したいところだろう。
あえて切らずに丸ごとのアリアを使用したのは、味がしみこみ過ぎてしまうのを回避するためだ。
時間調節をして肉よりも後に投じれば、くし切りにしたアリアでも適度に煮ることは可能だが。こうして丸ごと煮立ててしまえば、表面上はしっかりと味がしみこみ、内側はただ火が通っただけのすっきりとした味を楽しむことができる。
それに、見た目も豪快だし、ひとりずつに均等の量を提供することが可能である。
注文が入ったら、アリアを縦に断ち割って、6~7個の角煮とともに提供する。要望があれば、アリアと肉をさらに半分の量で売ることもできる。俺は酒などたしなまないが、親父はよくこの料理をつまみにしていた。
《つるみ屋》では隠れた人気商品であったのだが、この《南の大樹亭》ではどのていどの人気を博することができるだろう。
もにゅもにゅと『ギバの角煮』を咀嚼していたナウディスは、名残惜しそうにそれを飲み下してから、満面の笑顔で俺を振り返った。
「実に……実に美味いですな。これが売れなかったら、それは私の売り方がまずかったというだけのことです。素晴らしい仕事をありがとうございました、森辺の民のアスタ」