ジェノスの闘技会②~商売と観戦~
2023.5/16 更新分 1/1
こちらの商売の準備が整うと、それなりの勢いでお客が押し寄せてきた。
現在は、上りの四の刻を少し過ぎたぐらいの刻限となる。普段の屋台の商売よりも、二刻ばかりは早い刻限だ。よって、昼食をとるにはまだ早い時分であったが、中天の昼休みには尋常でなく混雑するため、この時間に昼食を済ませてしまおうという人々が少なからず存在するのだった。
そうして屋台に押し寄せるのは、宿場町での商売とそう変わらない顔ぶれだ。すなわち、宿場町の領民や滞在客たちである。これは宿場町の賑わいがそのままこちらに移されたような格好であった。
ただし、女性や老人の数は少なめであるし、子供の数はもっと少ない。そして、東の民もほとんど見かけることがなかった。東の民というのは、剣技の勝負に興味が薄いようであるのだ。そういう人々は、普段よりものどかな宿場町で《キミュスの尻尾亭》や《南の大樹亭》の料理を楽しんでいただきたいところであった。
「ふふん。まったくもって、大層な賑わいだな。復活祭は終わったというのに、『烈風の会』にも負けない騒ぎであるようだ」
そんな皮肉っぽい言葉をもらしたのは、ラヴィッツの長兄である。モラ=ナハムの活躍を見届けるために、彼が血族の取り仕切り役として参じたのだ。
「どうして剣も扱えない町の人間が闘技会などに熱中できるのやら、俺にはさっぱり理解できんが……しかしまあ、生命をかけた勝負というのは、誰の胸でも躍らせるのやもしれんな」
「生命をかけた勝負、ですか? でも、こちらの力比べでも相手の生命を奪うのは禁忌であるのでしょう?」
俺は労働中であるので背後を振り返れないが、それはモラ=ナハムやマルフィラ=ナハムの妹であるナハムの末妹の可愛らしい声であった。おたがいに能動的な性格であるので相性がいいのか、彼女はわりあいラヴィッツの長兄と行動をともにすることが多いようであるのだ。そんな彼女に対して、ラヴィッツの長兄は気安く言葉を返した。
「しかし、手傷を負わせることは禁じていないというのだから、生命を失う危険は森辺の力比べよりも遥かに大きかろう。それに、うっかり相手を殺めてしまっても、さほど大きな罪には問われんという話であったぞ」
「ええ? そうなのですか?」
「もちろん、意図的に相手を殺めるような真似をすれば、重い罪に問われようがな。うっかり殺めてしまった場合は、やむを得ない事故として扱われるそうだ。勝負に挑む人間には、それ相応の覚悟が必要となろう」
「そ、そうなのですか……モラ兄さんは、大丈夫なのでしょうか……?」
「だ、だ、大丈夫です!」と、隣の屋台で働いていたマルフィラ=ナハムが、カレーをよそいながら声を張り上げた。
「こ、こ、こちらの勝負で使われる刀は、斬れない細工がされているという話ですので! そ、そのような刀を使った勝負で、モラ兄さんが魂を返すわけがありません!」
「どうしたんだよ、お嬢ちゃん? いきなり大声をあげて、びっくりするじゃねえか」
カレーの皿を受け取ろうとしていたお客がびっくりまなこで呼びかけると、マルフィラ=ナハムはあたふたと目を泳がせる。それをフォローしたのは、マルフィラ=ナハムの相方を務めていたランの末妹であった。
「こちらのマルフィラ=ナハムの兄が、闘技会に出場するのですよ。ですから、いささか心配になってしまったのでしょう。驚かせてしまって、申し訳ありません」
「へえ! そいつは大層な話だな! 俺も森辺の狩人さんを応援するから、きっと大丈夫だよ!」
お客はにこやかな笑顔を残して、立ち去っていく。新たなカレーをよそいながら、マルフィラ=ナハムは「も、も、申し訳ありません」と頭を下げた。
「いいのです。家族が闘技会に参じるとなれば、誰だって心を乱してしまいますよ。わたしもマルフィラ=ナハムの兄が手傷を負うことなく勝負を終えられるように、森に祈ります」
かつて《西風亭》の手伝いをしていたランの末妹は、明朗で心優しいのだ。それで俺も、隣の屋台で安堵の息をつくことができた。
(でも……きっとフェイ=ベイムも、気が気じゃないんだろうな)
本日はユン=スドラが不在であるため、フェイ=ベイムにも屋台の責任者を担ってもらっている。しかし彼女が受け持つ作業台はマルフィラ=ナハムたちの向こう側であったため、どのような様子であるのかもうかがい知れなかった。
(これまでにも深手を負った人はそういないみたいだから、心配はいらないと思うけど……でも、ジィ=マァムだって肩や足を負傷してたもんな。モラ=ナハムとレム=ドムが無事に戻ってくることを、俺も祈ろう)
俺がそのように考えたとき、闘技場のほうから重々しい太鼓の音が聞こえてきた。
「おお、ついに勝負の始まりか。それでは、またのちほどな」
屋台の裏でくつろいでいたラヴィッツやドムやルティムの人々などが、ぞろぞろと広場に歩を進めていく。料理を買っていた人々も、大慌てで闘技場を目指していた。
そうして広大なる広場からすべての人間が消え失せて、商売の前半戦は終了である。この極端な客足の満ち引きは、やはりトゥランでの商売に通ずるものがあった。
「いよいよ勝負が始められるのだな。ラヴィッツの血族の勇者であるというナハムの長兄はまだしも、ドムの家長の妹は勝ち抜くことがかなうのであろうか?」
こちらの護衛役を担ってくれていたダダの男衆がそのように言いたてると、ドーンの長兄が「心配あるまいよ」とのんびり応じた。
「あのレム=ドムという女衆は的当ての勇士であると聞くし、ドムの狩り場でもなかなかの成果をあげているそうだから、見習い狩人としてはそれなり以上の力を備えているのであろう」
「しかし、女衆の身では負担も大きかろう。狩り場の成果は弓や猟犬を扱う手腕なのであろうから、剣の勝負には関係あるまい?」
「しかしあやつは勝負の場において、ずいぶんな気迫を見せるのだと聞き及ぶぞ。そうであったな、アイ=ファよ?」
「うむ。レム=ドムに狩人としての力があるか否かを見定めたのは、この私だからな。あやつは数刻にわたって投げ飛ばされても、決して折れない気概を有しているぞ」
そんな風に答えてから、アイ=ファはふっと闘技場のほうを見やった。
「しかし、甲冑の重さが負担となるのは、間違いなかろう。あやつは森辺の力比べよりも、さらに大きな苦労を背負うことになるはずだ」
アイ=ファは以前から、闘技会に出場したいと願うレム=ドムをたしなめていた。きっとレム=ドムの資質は闘技会の勝負で発揮される類いのものではないと判じているのだ。かまど番にすぎない俺でも、身軽さや弓の手腕が今日の勝負に反映されないことは想像に難くなかった。
(そういえば、デギオンやヴィケッツォと剣の勝負をしたとき、ラウ=レイは勝ってたけどレム=ドムは負けてたっけ。それで今日は、重い甲冑まで纏うわけだし……やっぱり、厳しい勝負になるんだろうな)
しかしそれでも、レム=ドムは自ら望んで勝負の場に臨んだのだ。俺たちにできるのは、彼女の覚悟を見届けることだけであった。
「それじゃあこちらも、中休みにしましょう。簡単な料理ですけど、みなさんもどうぞ」
本日のまかないは、やはり手軽な汁物料理だ。それを男女全員で一緒に食するというのは、闘技場ならではの光景であった。
そうして、ゆったりと時間は過ぎていく。一刻ばかり働いて、二刻ほど休んだならば、また一刻ばかり働くという、それがこちらでの時間割である。簡易的な日時計でおおよその時間を計測し、休憩時間も残り半刻となったならば、昼休みになる少し前にやってくる貴族の従者たちのために、料理の準備だ。そしてそれは、トゥランで商売をするユン=スドラたちが移動を始める刻限でもあった。
(いや、今日は集落がスタート地点だから、もうとっくに移動を始めてるのか。今頃は、宿場町を通過したぐらいかな)
そちらでも何事もなく商売を終えられますようにと、俺は森と西方神に祈る。
それから四半刻ほどが過ぎると、闘技場の裏手から立派なトトス車が近づいてきた。貴族のために料理を運ぶ従者たちの登場だ。
本日も、大量の料理が従者たちの手で運ばれていく。ジェノスのおもだった貴族と森辺の族長筋の人間だけで、数十名に及ぶ人数であるのだ。森辺の民が貴族の支払いで屋台の料理を食するというのは、今さらながら奇妙な構図であった。
やがてそちらの面々が姿を消したならば、闘技場の扉が全開にされて――ついに、本日の商売の本番の始まりである。
2千名は収容できる闘技場の、おそらく半数以上の観客が昼食を求めているのだろう。この日ばかりはどのように粗末な料理を出している屋台でも、同じだけの混雑を体感するのだろうと思われた。
「よー。やっぱりこっちは、大変そうだなー。お客の連中も、勝負の見物で熱くなってるみたいだしよー」
と、俺がフル稼働で働いていると、背後からルド=ルウの声が聞こえてくる。もちろん俺は返事をすることも難しいので、アイ=ファが相手をしてくれた。
「ルド=ルウは、料理を買わぬのか? まあ、ドムやラヴィッツの血族もここで銅貨をつかうことは差し控えているようだが」
「あー。俺はリミに頼んで、ころっけさんどを作ってもらったからなー。仕事の邪魔をすんなって、ララは眉を吊り上げてたけどよー」
しかしきっとリミ=ルウは、大好きな兄のためにせっせとコロッケサンドをこしらえたのだろう。眉を吊り上げていたというララ=ルウも含めて、実に微笑ましい構図であった。
「でも、一刻も座り込んでるのは退屈だから、こっちの様子を覗きに来たんだよ。アイ=ファだって、あっちの様子は気になってたろ?」
「うむ。しかしどうも闘技会やトトスの駆け比べでは、序盤で強者同士が当たらないように取り計らうようであるからな。モラ=ナハムはもちろん、見習い狩人であるレム=ドムも強者と見なされているならば、中天の前に膝を屈することはあるまい」
「へー。アイ=ファはレム=ドムのことをずいぶん心配してるみたいだったけど、ここで負けるとは考えてなかったんだなー。ま、確かにあいつは勝ち抜いてるけどさー」
「うむ。あやつはそれこそ収穫祭の力比べと同じほどの気概でもって、今日の勝負に挑んでいるのであろうからな。しかし……メルフリードやレイリスに打ち勝つことは、難しかろう」
「あー。やっぱあいつらは、別格みてーだなー。それにあのデギオンってやつも、レイリス以上の力量だろうしよー」
やはりルド=ルウも、こういう勝負にはそれなりに関心を抱いているのだろう。自らが出場したいとは考えないようであるが、明らかに声が弾んでいた。
「あとはデヴィアスと、《赤き牙》のドーンと……それに、メルフリードの子分のロギンだったっけか。毎年名前を聞かされるやつは、さすがに覚えちまったよ」
「うむ。レム=ドムにとっては、きわめて厳しい戦いになろうな。せめて甲冑さえ纏っていなければ、ずいぶん楽になるのだが……」
「ま、あいつだったら根性を見せるだろーさ。そうしたら、勝っても負けても納得がいくんじゃねーの?」
そういえば、ルド=ルウはレム=ドムがファの家に押しかけてくる前から、彼女が狩人を志していることを知る機会があったという話であったのだ。ならば、俺たちと同じぐらいレム=ドムの行く末を気にかけているのかもしれなかった。
「じゃ、そろそろあっちに戻るかなー。アスタたちも、頑張ってな」
加減された力で、ぽんと背中を叩かれる。俺は一瞬だけ手を止めて背後を振り返り、「ありがとう」と答えてみせた。ルド=ルウは白い歯をこぼしつつ、ひらひらと手を振って立ち去っていく。
その後は、ひたすら目の前の商売である。
中には見知ったお客もいるが、そうそう立ち話をしているいとまもない。そういう意味でも、トゥランでの商売と似たり寄ったりの状況だ。
ただしこちらでは銅貨のやりとりがあるため、トゥランよりはタイムラグが生じることもある。その隙に声をかけてきたのは、ガーデルのお目付け役であるバージに他ならなかった。
「そちらの料理を、2人前お願いする。ああだけど、同じ皿でかまわんぞ。口にするのは、俺ひとりだからな」
「承知しました。……あれ? ガーデルはご一緒じゃないんですか? てっきりこういう場でも、つきっきりなのかと思っていました」
「このような賑わいでは肩でもぶつける恐れがあろうから、客席に置いてきたのだ。ここで手傷が悪化したら、せっかくの祝宴が台無しであるからな」
骨ばった顔に不敵な笑みをたたえつつ、バージはそう言った。
「心配せずとも、お目付け役の何たるかは心得ている。あやつを単身でアスタ殿に近づけることはないので、心配めされるな」
「いえ、ガーデルが俺に危険を及ぼすことはないでしょうけれど……でも、どうかこの先も、ガーデルをお願いします。ガーデルか何か間違った道に踏み込まないように、見守ってあげてください」
「うむ。これが可憐な姫君か何かであったなら、俺もいっそう熱心にお役目を果たせるのだがな」
やはりそうそう実直な顔は見せないまま、バージは木皿を受け取った。
「ああ、この後は皿を使わない料理をあやつに持って帰ってやらねばならんのだ。何か、おすすめの品はあろうかな?」
「おすすめの品というか、皿を使わない料理はミャームー焼きと香味焼きと菓子の3種しかないのですよね。そちらから見て、右から2番目、右から5番目、それに左端という配置になります。あと、左隣の《西風亭》でも、皿を使わないギバ料理を取り扱っておりますよ」
「なるほど。俺はこちらの煮込み料理と菓子でちょうどよさそうだ。では、次に会うのは夜の祝賀会だな」
不敵な笑みを残して、バージもまた立ち去っていく。
そうして俺が次のお客の相手をしていると、アイ=ファが背後から囁きかけてきた。
「あやつはお目付け役というものを命じられてからまだ数日であるという話であったが、何やらガーデルと数年来のつきあいであるかのような空気を放っているな。あの気安い態度も、ガーデルにはいい影響をもたらすように思うぞ」
「そっか。それなら、何よりだよ」
俺は仕事のさなかであったため、大急ぎでアイ=ファのほうを振り返り、笑顔を返してみせる。
が、俺が急ぎすぎたため、アイ=ファはいまだ身を引いておらず、おたがいの鼻先をぶつけそうになってしまう。思わぬ急接近に俺がどぎまぎしていると、料理の完成を待っていたお客が愉快げな声をあげた。
「おいおい、昼間っからお熱いこったな! いちゃつくのは、料理を仕上げてからにしてくれよ!」
「あ、いえ、すみません。どうも、お待たせしました」
俺はひとりで顔を赤くしながら、お客に木皿を受け渡す。そして新しい木皿をつかみ取る前に、背後からアイ=ファに足を蹴られたわけであった。
そんなこんなで、あっという間に一刻という時間が過ぎ去って――闘技場から、太鼓の音色が響きわたった。
料理を買ったばかりであったお客は、それを口に詰め込みながら闘技場のほうに駆けだしていく。まだ屋台に並んでいるさなかであった人々は大急ぎで料理を買いつけて、それでも木皿を持ち去ることなく、火傷をしそうな勢いでかきこんでから、せわしなく立ち去っていった。
かくして、本日の商売も終了である。
俺がひと息ついていると、ふたつの屋台をはさんだ向こう側からレイ=マトゥアが手を振ってきた。
「アスタ! 玉焼きが5人前ほど余ってしまいました! 力及ばず、申し訳ありません!」
「いやいや。余る見込みで準備してきたから、謝る必要はないよ。どうしたって、玉焼きは作るのに時間がかかるからね」
「はい! 『烈風の会』で余ってしまったのも、やむをえないということですね!」
と、遠くにたたずむレイ=マトゥアの笑顔が、隣の屋台に向けられる。そこで働いていたのはマルフィラ=ナハムであり、『烈風の会』では彼女が玉焼きを受け持っていたのだ。
(そういえば、あの日はマルフィラ=ナハムが申し訳なさそうにしてたっけ。きっとそれをフォローするために、わざわざ大声で報告してきたんだな)
レイ=マトゥアの優しさに、俺は思わず口もとをほころばせてしまう。
そのタイミングで、背後から馴染み深い声が聞こえてきた。
「アスタ、すっかり遅くなってしまいました。他のみなさんも、お疲れ様です」
それは、トゥランで働いていたユン=スドラであった。彼女たちもそちらの仕事を終えたならば、闘技会を観戦するために合流する手はずであったのだ。
「やあ、お疲れ様。予定より遅めの到着だったけど、何か不測の事態でもあったのかな?」
「いえ。トゥランでの仕事は、無事にやりとげることができました。その後、荘園の管理者であるという人物と言葉を交わすことになり、いささか遅くなってしまったのです」
ユン=スドラはまだ気合の残り香を漂わせつつ、それでもにこりと微笑んだ。
「管理者の御方が告げてきたのは、明後日からの献立についてです。これはルウの方々にも聞いていただくべきだと思うのですが、いかがでしょう?」
「そうだね。ララ=ルウ、トゥランの荘園の管理者さんから、何か言伝があるみたいだよ」
俺の言葉に招かれて、ララ=ルウが小走りでやってきた。それに続くのは、リミ=ルウとミンの女衆だ。こちらのミンの女衆も、ゆくゆくはトゥランの仕事の責任者を任される予定になっていた。
「どうも、お疲れ様です。レイナ=ルウとレイの御方は城下町に向かいましたので、わたしから報告させていただきます」
「うん! どうもありがとー! 管理者のお人は、なんだって?」
「はい。まずは明後日からの献立についてなのですが……次の5日間も、ファとルウの料理は半分ずつで問題ないとのことです」
人によっては、どちらか片方の料理を倍の量で注文したいと願うかもしれない。そういった要望があれば、休業日の前日に伝えてほしいと告げてあったのだ。
「あと、次の5日間も3種の料理の繰り返しで、文句をつけられることはないだろうというお話でした。これは年単位で受け持ってほしい仕事なので、森辺の民の負担にならないようにゆっくり話を進めてもらいたい、とのことです」
「そいつは、ありがたい申し出だね。やっぱ、限られた条件で新しい献立を考えるのは、けっこー大変みたいだからさ」
「はい。ですがトゥランの方々は、見違えるような元気さで荘園の仕事に取り組んでいるそうです。そちらの働き手の代表者であるという御方にも、今回の仕事を引き受けてくれてとても感謝していると言っていただくことがかないました」
そんな風に言ってから、ユン=スドラはいくぶん申し訳なさそうに頭を下げた。
「その後にも長きにわたって感謝のお言葉をいただき、こちらは誇らしい限りであったのですが……なんだかアスタたちが受けるべき喜びを横取りするような形になってしまって、申し訳ありません」
「なに言ってんのさー! ユン=スドラたちは、アスタの代わりに大事な仕事を果たしたんだからね! お礼を言われこそすれ、頭を下げる筋合いはないでしょ!」
「本当だよ。あらためて、二人ともお疲れ様でした。二人のおかげで、こちらも無事に仕事を終えることができました」
俺がそのように告げると、ユン=スドラは輝くような笑顔になり、ラッツの女衆はゆったりと微笑んだ。
するとそこに、木皿を手にしたレイ=マトゥアが突撃してくる。
「お二人とも、お疲れ様でしたー! これ、余っちゃった玉焼きです! どうぞ召し上がってください!」
余った料理はその場で片付けるのが、こちらでの商売の慣例であったのだ。本日果たした仕事の大きさを考えれば、あまりにささやかな報酬であったが――しかしユン=スドラたちは、とても嬉しそうに玉焼きを食べてくれた。
「さて。それじゃあ、観戦に行くとしようか。荷車の見張りは、そっちに任せちゃって大丈夫なのかな?」
「うん! そのために、剣の勝負に興味の薄い男衆を連れてきたからねー!」
森辺の狩人には、制約の多い闘技会の勝負に興味が薄い人間も少なくはないのだ。袋剣の登場によって剣技の力比べが流行になりつつある現在も、そこのところに変わりはないようであった。
そして、それとは別にここで離脱する面々もいる。これから城下町で菓子の作製に取りかかる、トゥール=ディンとザザの血族たちである。すでに出立の準備を進めていたトゥール=ディンは、こちらの気配を察してちょこちょこと駆け寄ってきた。
「アスタたちは、闘技場に向かわれるのですね? わたしたちは、レム=ドムの勝負を見届けられませんけれど……レム=ドムの覚悟が正しい形で報われるように祈っています」
「うん。俺たちも、同じ気持ちだよ。トゥール=ディンたちも、頑張ってね」
トゥール=ディンはいくぶん思い詰めた面持ちで、「はい」とうなずく。
すると、スフィラ=ザザがその肩にそっと手を置いた。トゥール=ディンの仕事を手伝うために、本日はディンやリッドに滞在していた5名の女衆ものきなみ城下町に向かうのだ。その中で祝賀会にまで招待されているのは、トゥール=ディンとスフィラ=ザザのみであった。
「それでは、失礼します。みなさんも、お疲れ様でした。帰り道もお気をつけください」
トゥール=ディンたちは、2台の荷車で街道のほうに消えていく。
それを見送ってから、俺たちも闘技場を目指すことにした。
闘技場に向かうのは、屋台の仕事に取り組んでいた女衆の8割ぐらいに、アイ=ファやサウティの血族を含む護衛役の狩人が数名、後から合流したユン=スドラとラッツの女衆、そしてユーミとジョウ=ランという顔ぶれだ。ユーミの相方であるビアは荒事が苦手ということで、ランの末妹ともども荷車に居残るとのことであった。
闘技場の巨大な扉はぴったりと閉められて、守衛に守られている。それもまた、今では見慣れた光景だ。狩人たちが飛び道具を所持していないことを確認したのち、守衛は扉を開いてくれた。
トンネルのような通路を踏み越えて、客席のほうに出てみると――およそひと月ぶりの熱狂が待ちかまえている。すり鉢状のコロッセオを思わせる闘技場は本日も満席で、最上段の立見席まで人があふれかえっていた。
そして眼下の試合場では、白銀の甲冑を纏った剣士たちが長剣を振るっている。
その非日常的な光景に胸を震わせつつ、俺たちは客席の間に設えられた階段をのぼって立見席へと急いだ。
出入り口から近いこの辺りも大変な人口密度であるが、森辺の民が一丸となって押し寄せると、迷惑がらずに席を詰めてくれる。中には笑顔を向けてくれる人もいたが、それらの目もすぐさま勝負の場に向けなおされた。
「……向かって右の手前側で勝負をしているのは、モラ=ナハムであるようだな」
驚異的な視力を持つアイ=ファが、そのように告げてくる。俺は慌ててそちらに目を向けてみたが、ひときわ大柄な甲冑姿が確認できただけで、それが本当にモラ=ナハムであるのかどうかは請け負えなかった。
広大なる試合場では、4つの試合が同時に行われている。本選では丁寧に1試合ずつ進められていくはずであるので、これは午前中の内に予選が終わらなかったということなのだろう。つまりはそれだけ出場者が多く、優勝までの道のりが長いということであった。
そんな中、モラ=ナハムと思しき大柄な剣士は、危なげなく相手の剣を弾き飛ばして勝利を収めた。
遠くのほうから、「勝者! 西! モラ=ナハム殿!」という触れ係の声が聞こえてくる。それを耳にしたフェイ=ベイムが、張り詰めまくった面持ちで深く息をついた。
「よー。アスタたちも、お疲れさん」
と、人混みをかきわけてルド=ルウが近づいてくる。それに同行しているのは、シン=ルウとディム=ルティムであった。
「さっき、レム=ドムも勝ってたぜー。でもまだ3回やりあっただけなのに、甲冑の重さがしんどくなってきたみたいだなー」
「そうか。だが、ここまで勝ち残れただけでも、立派なものであろう」
アイ=ファがしかつめらしく応じると、ディム=ルティムが「しかし」と声をあげた。
「去年の闘技会では、この俺でも最後の8名まで残ることができたのだ。レム=ドムであれば、それ以上の結果を望めるのではないだろうか?」
「ふむ。この俺でもとは、殊勝な物言いだな。お前はそれこそ、優勝を目指す気合で出場を願ったのであろう?」
アイ=ファがそのように応じると、年若いディム=ルティムは感じやすい頬を赤くした。
「あの頃の俺は見習いの身であったのだから、それを鑑みてのことだ。アイ=ファは、意地悪を言うのだな」
「何も意地悪のつもりではなかったのだ。気分を害してしまったのなら、許せ」
アイ=ファが目もとで微笑みかけると、ディム=ルティムは別の理由から頬を染めたようであった。ディム=ルティムは卓越した力量を持つアイ=ファに、ずいぶん憧憬を抱いているようであるのだ。
「しかし、それを言うならレム=ドムとて見習いの身だ。昨年のお前と同じだけの結果を望むのは……いささか、難しかろう」
「そうなのか? レム=ドムであればドーンやロギンといった者たちにも後れを取ることはないと、アイ=ファはかつてそのように語っていたのであろう?」
「……どこでそのような話を聞いたのだ?」
「レム=ドム自身からだ。アイ=ファにそれだけの言葉をもらうことができたのだと、俺はさんざん自慢されることになったぞ」
ディム=ルティムのそんな言葉に、アイ=ファは小さく息をついた。
「もちろん私も、虚言を吐いたつもりはないのだが……きっとレム=ドムはこのたびの闘技会が開かれる前に、狩人の衣を授かっているであろうという見立てであったのだ。その見立てが外れてしまった以上、私は言葉を取り消す必要があろうな」
「そうなのか? 少なくともレム=ドムは、昨年の俺よりも強い力を有しているように思うぞ」
「狩人としては、そうであろう。しかし、甲冑を纏った勝負となると……やはり、軽はずみなことは言えまい。軽はずみな言葉を吐いてしまった昨年の自分を、たしなめたく思う」
やはりアイ=ファは、レム=ドムの身を案じているようである。
すると、試合場の様子を目で追っていたルド=ルウが気安く声をあげた。
「ま、なるようにしかならねーさ。一番に考えるべきは、手傷を負わずに戻ってくることなんじゃねーの? こんな余所の力比べで狩人の仕事に差しさわりが出たら、それこそディック=ドムに叱られちまいそうなところだしなー」
そのディック=ドムも、客席のどこかで妹の奮闘を見守っているはずである。
いったいどのような形で、本年の闘技会は締めくくられるのか――俺も、心して見守るしかなかった。




