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異世界料理道  作者: EDA
第七十八章 新たな仕事と闘技会
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銀の月の二十日②~初日(下)~

2023.4/29 更新分 1/1

 鉄鍋の料理を焦がしてしまわないように火の加減を調節していると、やがて遠からぬ場所から重々しい太鼓の音色が聞こえてきた。


「中天を知らせる合図の太鼓です。間もなく働き手たちが大挙してやってまいりますよ」


 作業場の裏手に控えた管理者の男性が、そのように告げてきた。護衛役たるアイ=ファたちも、案内人たるマルスたちも、見届け人たるフェルメスたちも、全員が同じ場所で俺たちの働きっぷりを見守っている。何せ作業場は広々としているので、それだけの人数でも窮屈な思いをすることはなかった。


 作業場のかまどには、横一列にずらりと鉄鍋が並べられている。鍋の料理が尽きたならば、人員のほうが横移動していくのだ。現在はスタート地点の左端に俺とユン=スドラが控えており、5つの鍋をはさんでララ=ルウとルティムの女衆が待機していた。行列が途中で詰まってしまわないように、多少なりとも仕上げに手間のかかる焼き物を手前に配置することにしたのだ。


 ファの家で準備した焼き物は、ギバの足肉とアリアとプラとオンダをタウ油仕立てのタレで焼きあげて、それらを焼きポイタンでくるんだ軽食となる。俺がごく早い段階で屋台にて取り扱っていた、『ギバのポイタン巻き』という料理の発展版である。


 タウ油をベースにしたタレには、すりおろしのミャームーとケルの根、ゴマ油のごときホボイ油、砂糖とニャッタの蒸留酒、そして食材費に支障が出ないていどに豆板醤のごときマロマロのチット漬けを使用している。肉体労働に従事しているというトゥランの働き手たちのために、味は濃いめでたっぷり具材にからめていた。というよりも、あるていど炒めた具材をタレで煮込んだぐらいの感覚であった。


 また、足肉もモモの部位は食感を楽しめるようにそれなりのサイズで切り分けており、より固いスネだけは挽肉に仕上げている。ミンチはタレをよく吸い込むので、そちらも濃厚な味わいにひと役かっているはずであった。


 それをくるむポイタンの生地は男女でサイズを分けており、男性用は3割増しの大きさとなる。具材の量は生地の大きさに合わせた目分量であるので、やはり担当のかまど番にはいくばくかの経験が必要になるだろう。ただし、ファの屋台に関わるかまど番であれば、一番の新参であるフォウとランの女衆の他に手こずる人間はいないだろうと思われた。それでも熟練たるユン=スドラに初日の手伝いをお願いしたのは、作業効率を考えてのこととなる。まずはベストの人員でどれぐらいの効率を望めるものか、それを見定めようという所存であった。


 具材はすべて朝方に焼きあげてきたので、現在は極小の弱火で温もりを保っているのみである。時間的な問題で出来立ての料理をお届けすることは難しいので、少しでもそれに近い満足感を味わっていただきたかった。


 ただ一点、難儀であったのは鉄鍋の数だ。宿場町の屋台ではふたつの鉄鍋を使い回すために3杯目以降の料理は革袋で保管しているのであるが、同時に保温するとなると500名分の料理をすべて鉄鍋に収める必要が生じるのだ。

 こちらの商売のためだけに鉄鍋を買いそろえるというのはあまりな出費であったため、ファの分は近在の氏族から、ルウの分は眷族から借り受けている。それで現在こちらには、合計で12にも及ぶ鉄鍋が火にかけられているわけであった。


 いっぽうルウ家のほうは、ミソ仕立てのモツ鍋である。

 屋台で出しているモツ鍋との差は、具材の種類のみだ。最近のモツ鍋は可能な範囲で具材を増やして実に豪奢な仕上がりになっていたが、こちらではアリアとネェノンとティノしか使われておらず、キノコ類も使用を控えていた。


 しかし、基本の味付けは変わらない。この近年でレイナ=ルウが改善に改善を重ねた、極上の仕上がりだ。そちらを重視するために、調味料の種類や分量はそのままに、ただ具材の種類だけを減らして食材費を抑えてみせたのである。レイナ=ルウとしては、もう2種ぐらいの具材を追加したいと主張していたのだが――そこは食材費の門番たるツヴァイ=ルティムが、いつもの調子でたしなめたのだった。


「せめて、マ・プラやマ・ギーゴを使うことは許されないでしょうか? それらの野菜でしたら、ダレイムの野菜とそう値段も変わらないでしょう?」


「500人分の料理となったら、その小さな差が大きく響いてくるんだヨ。外来の食材を使いたいってんなら、一番銅貨のかかる乾物をあきらめるこったネ」


「いえ、それはできません。魚や海草の乾物というのは、今や汁物料理の要であるのです」


「だったら、マ・プラとマ・ギーゴを使う代わりに、アリアとネェノンとティノをあきらめるこったネ。3種の具材を2種に絞るってんなら、いっそう稼ぎがあがるだろうサ」


 そうしてツヴァイ=ルティムにやりこめられたレイナ=ルウは、可愛らしく頬をふくらませていたものであった。

 しかし俺の目から見ても、正論であったのはツヴァイ=ルティムであったのだ。2割増しの分量で価格を抑えるには、何かを犠牲にせざるを得ないのである。


「そこで、自分たちの稼ぎを少しばかり犠牲にするというのはいけないことなのでしょうか? それでトゥランの民たちにいっそうの喜びを与えられるのなら……何も悪くないように思えるのですが」


 最終的に、レイナ=ルウはそのような論を持ち出すことになった。やはりレイナ=ルウとしては、少しでも料理の質を上げたいという気持ちが抑えられなかったのだろう。

 しかし、ツヴァイ=ルティムが折れることはなかった。


「ふーん。トゥランの民のために、自分たちの稼ぎを犠牲にするっての? つまりアンタにとっては、宿場町の民よりもトゥランの民のほうが大事だってこったネ」


「いえ、決してそういうつもりではないのですが……」


「それじゃあ、どういうつもりだってのサ? トゥランの民に得をさせるってことは、宿場町の民に損をさせるってことなんだヨ。それなら宿場町で扱う料理の値段を下げて同じぐらいの損をかぶらないと、釣り合いってモンが取れないんじゃないのかネ」


 ツヴァイ=ルティムのそんな言葉には、俺も心から感心させられることになった。ツヴァイ=ルティムの言い分は、聞きようによってはずいぶん無慈悲に思えるかもしれないが――それでも、一本筋の通った理念が感じられたのである。


 そんな一幕を経て迎えた、今日という日であるのだ。

 俺のかたわらに控えたユン=スドラは、普段以上の意欲をみなぎらせつつ微笑んでいた。


「いよいよ、商売の開始ですね。たった4人で500人のお客を迎えるというのは初めてのことですので、やっぱりいささか気が張ってしまいます」


「うん。勝手の違う部分は多いだろうけど、おたがい慌てずに仕事をこなそうね」


 俺たちがそんな風に語る中、得も言われぬ喧噪の予兆ともいうべき気配が伝えられてきた。500名にも及ぶ働き手たちが、じわじわとこちらに近づいてきているのだ。


 そうしてついに、石造りの宿舎の横手から最初の人影が見えた。

 しかし、その足取りは重い。畑の仕事で装束を汚したその人物は、肩に引っ掛けた手ぬぐいで額の汗をぬぐいながら、のろのろとこちらに近づいてきた。

 そしてその後から、同じような風体をした人々がぞろぞろと追従してくる。過半数は男性であったが、女性や子供の姿も決して少なくはなかった。


 もとより俺たちは発注の内容によって、それらの比率をわきまえている。男性用の料理は6割、女性および子供用の料理は4割という比率であったのだ。目視する限り、その比率に間違いはないようであった。


 宿舎の脇のスペースはあっという間に人間で埋め尽くされて、行列の先頭がついに俺たちの目前に到着する。

 最初のお客は、壮年の男性だ。その人物はかまどの前で立ち止まり、俺たちの姿をぼんやり眺めてから、にわかに懐をまさぐった。


「ああ……そうか。木札ってやつを引き換えに渡すんだったな。2枚あるけど、どっちを渡すんだい?」


「はい。こちらでは、赤い木札をお願いいたします」


 俺たちもサンプルとして、事前にそちらの木札を拝見している。ファの料理は赤、ルウの料理は青で、男性は丸い刻印、女性や子供は三角の刻印という形式であった。


 ユン=スドラが木札を受け取るのを確認してから、俺は具材をくるんだポイタンの生地を差し出す。その男性はさしたる感慨をこぼすことなくそれを受け取り、ララ=ルウたちの待つかまどのほうに歩を進めていった。


 あとは、その繰り返しだ。何回か、色の異なる木札を出してくる人がいたので説明を加える手間はあったが、ひとり頭で何秒もかからない。機械的な、流れ作業であった。

 しかし人数を重ねるごとに、だんだんせわしなくなってくる。広大なる田園からすべての人員が集結するのに、タイムラグが生じるのだろう。そうして行列が長くのびると、並んでいる側の気が急いて、慌ただしさが増すようであった。


 そうして気づけば、普段以上の慌ただしさである。銅貨のやりとりがないということは、屋台の商売よりも森辺の祝宴に近い様相であるのだ。ひっきりなしに押し寄せてくる人々のために、俺はひたすら軽食を仕上げることになった。


 おおよその人々は、過酷な労働でぐったりしてしまっている。

 ただ中には、きらきらと瞳を輝かせている人たちもいなくはなかった。また、見慣れない森辺の民の姿に尻込みしている人間も少なくはなかった。そして、料理の受け渡しはごくスムーズに完了してしまうため、いかなる相手とも言葉を交わす猶予は存在しなかったのだった。


 最初の鍋が尽きたならば、それをかまどから下ろしたのち、隣の鍋へと移動する。極小の火で保温されていた具材を攪拌したならば、すぐさま作業の再開だ。

 500名もの人間が押し寄せて、いつしかその場には宿場町に負けない賑わいが発生する。多少の時間が経過して、労働の疲れが緩和されたのだろう。俺たちと言葉を交わすのが難しくとも、手近な相手とおしゃべりに興じることは可能であるのだ。静かな立ち上がりで肩透かしをくったような心持ちであった俺も、それでようやく普段通りの熱気を体感することがかなった。


 ふたつ目の鍋からは役割を交代して、俺が木札を受け取る担当になる。

 偽造の木札には注意してほしいと忠告されていたが、こちらの木札は赤い刻印の下に見慣れない文字の焼き印もおされていたので、これを偽造するのはなかなかの手間であろう。焼き印の金型には相応の費用がかかろうから、このように安価の商品のただ食いで元を取るのは至難の業であるはずであった。


 木札を受け取る役割というのもなかなかの慌ただしさであるが、べつだん難しい内容ではない。それで俺は仕事をこなすかたわらで、木札を差し出してくる人々の検分にも励んでいたわけであるが――そこでも取り立てて、大きな発見は見られなかった。


 トゥランの新たな領民というのはおおよそ余所の領地からの移住者であるはずだが、そこまで遠方から参じた人間はいないのだろう。肌の色は黄褐色か黄白色、髪や目の色はだいたい褐色で、その濃淡に差があるていどだ。あとは痩せている人間もいれば恰幅のいい人間もおり、背丈の度合いも宿場町やダレイムで見かける人々と同程度で、何ら変わり映えしなかった。


 子供の数も少なくはないが、さすがに10歳を下回る子供はいないようだ。

 おずおずと木札を差し出してくる子供に笑顔を向けると、たいていは笑顔を返してくれる。その可愛らしさも、宿場町やダレイムで見かける子供たちと変わりはなかった。


(とりあえず、あまりガラの悪そうな人はいないみたいだな)


 中には強面の人間や仏頂面の人間も見受けられたが、無法者も多い宿場町に比べればどうということもない。ジェノスの新たな領民となって畑で働こうと決断した人々であるのだから、荒くれ者が入り混じる余地はなかったのだろう。俺にはのきなみ善良な農民であるように思えた。


 2種の料理を受け取った人々は、立ち止まることなく宿舎の反対の側から立ち去っていく。次から次へと行列が流れてくるので、立ち止まるスペースもないのだ。これは本当に、絵に描いたような流れ作業であった。


 そんな時間が、どれだけ続いたのか――気づけば、最後の鍋である。

 この段に至ると、人波もいくぶんまばらになってくる。それでようやく、俺たちはお客と言葉を交わす機会を得たのだった。


「よう。こいつはギバ料理なんだってな。いったいどんなものを食わせてもらえるんだろうって、昨日から楽しみにしていたんだよ」


 そんな風に言ってくれたのは、痩せぎすのご老人であった。髪はずいぶん白くなっているが、しかし矍鑠としたたたずまいである。その皺深い顔には、陽気な笑みがたたえられていた。


「復活祭の祝日には、ギバの丸焼きとかいうやつを口にすることができてさ。こんな上等な肉を毎日口にできる宿場町の連中を、ずいぶん羨んだもんだよ」


「そんな風に言っていただけると、光栄です。お口に合えば、俺も嬉しいです」


「ふふん。少なくとも、これまで食わされてきたもんとは、比べるべくもないだろうさ。面倒を引き受けてくれた娘っ子たちには申し訳ないが、あれより粗末な料理なんてなかなか作れるもんではないだろうからな」


 すると、5名ていどの若衆の集団もわらわらと近づいてきた。それらの顔に浮かべられているのも、おおよそ陽気な表情だ。


「ああ、間に合った間に合った。人混みを避けようと思ってくつろいでたら、つい出遅れちまったぜ。そら、木札だよ」


「はい、確かに」とユン=スドラが木札を受け取ると、若衆の何名かがびっくりまなこでのけぞった。


「うわ、こいつは大層な別嬪さんだな! ……あ、いや、ごめん。森辺の娘さんってのは、別嬪とか言っちゃいけないんだっけ」


「はい。森辺の習わしをご存じだったのですね」


 ユン=スドラが笑顔を向けると、今度は顔を赤くしてしまう。なかなかに、純朴な若衆であるようであった。


「お、俺たちはけっこう、宿場町まで足をのばしてるからさ。まあ大抵は夜なんで、森辺のお人らと出くわすことはなかったけど……」


「でも俺は、傀儡の劇を見たことがあるぜ! そっちのあんたは、あの劇の主人公なんだろう?」


 と、若衆のひとりがまじまじと俺の顔を見つめてくる。


「生きてる人間が傀儡の劇に取り上げられるなんて、すげえよなぁ。あれはみんな、本当の出来事なのかい?」


「ええ。多少の脚色はされていますけれど、おおむね実際の出来事が再現されています」


「すげえなあ! 貴族を相手に斬った張ったの大騒ぎなんて、俺には想像もつかねえよ!」


「あはは。俺なんて、誘拐されたり矢を射かけられたりしただけですけどね」


 俺がそのように応じると、その若衆は妙にしみじみと息をついた。


「やっぱ、森辺のお人ってのは貫禄が違うよなぁ。俺たちとは大違いだぜ」


「貫禄ですか? そんな風に言われたのは、初めてです」


「そんなことはねえだろう。年齢なんか、俺たちとそう変わらないぐらいだろうに――」


 若衆のそんな言葉は、別の場所からあがった「うわ!」という言葉にかき消された。


「こいつは、とんでもなく美味いな! こんな美味いもんを食ったのは、初めてだよ!」


「おいおい。こんな場所で、立ち食いかよ。ずいぶん意地汚い野郎だな」


「お前らが、立ち話なんざしてるからだろ! こんな美味そうな匂いを嗅がされて、我慢できるかよ!」


「まったくだな」と同調したのは、いまだ立ち去っていなかった痩せぎすのご老人であった。ポイタンで巻かれた軽食は、すでに半分がたかじられた後である。


「あのギバの丸焼きってのも美味かったけど、こいつは段違いだ。もっと腹いっぱい食いたいなっちまうな」


「ありがとうございます。汁物料理も召し上がったら、お腹も満たされるのではないでしょうか」


「ああ、そうだったそうだった。そいつも一緒に味わわさせてもらわないとな。それじゃあ、明日も楽しみにしているよ」


 ご老人は朗らかな笑みを残して、ひょこひょこと立ち去っていった。

 そしてまた別の集団が近づいてきたので、若衆たちも名残惜しそうに歩を進めていく。その何名かは、最後までユン=スドラの姿に目を奪われていた。


「よう! ついにトゥランまで来てくれたな! ずっとこの日を心待ちにしていたんだよ!」


 その集団の先頭に立っていた大柄な人物が、豪放な笑みを向けてくる。筋肉質の上半身をあらわにした、これまでにはあまり見かけなかったタイプだ。


「俺は復活祭で森辺の族長さんってお人に出くわして、トゥランでもギバを食いたいってさんざん駄々をこねたんだよ! そいつが少しでも効果あったんなら、ありがたい話だな!」


「ええ。族長のダリ=サウティは、まさしくそういうお声からトゥランで屋台を出す話を思いついたそうですよ」


「屋台って言っても、俺たち相手じゃ立派な食材も使えないだろうからな! それでもまあ、ただ焼いただけの肉でもあれだけ美味かったんだ! 銅貨3枚分の価値はあるんだって信じてるぜ!」


 すると、俺の背後からマルスの「おい」という声が聞こえてきた。


「このような場で騒がしくするな。料理を受け取って、とっとと立ち去れ」


 それはずいぶん性急な物言いであるように思えて、俺は小首を傾げることになった。

 しかし、目の前の男性は豪快に笑い――そして、驚くべき言葉を口にしたのだった。


「何だ、お前さんか! こんな場所で出くわすとは思ってもいなかったぞ! 洟垂れマルスが、ずいぶん出世したものだな!」


「やかましい。騒ぎたてるなと言っているだろうが」


 マルスは、これ以上もない仏頂面に成り果てている。

 そこで疑問の声をあげたのは、ユン=スドラであった。マルスは非番の日に屋台に通ってくれているので、ユン=スドラもよく見知った間柄であったのだ。


「あの、マルスはこちらの御方とお知り合いなのですか? そういえば、どこか面差しが似ておられるようですが……」


「こんな洟垂れと似ている呼ばわりされるのは、心外だな! しかしまあ、兄弟であれば似ていてもおかしくはないか!」


「兄弟? こちらの御方は、マルスの兄であったのですか?」


 俺は、ユン=スドラと一緒に目を丸くすることになった。

 マルスは苦虫を嚙み潰したような面持ちで口をつぐみ、その代わりにマルスの兄であるらしい人物が言葉を重ねる。


「俺たちはトゥランで生まれ育ったが、あの頃には身を立てる手段もなかったのでな! それで俺は出稼ぎに出て、マルスは衛兵なんぞを志したわけだ!」


「ああ、そうか……マルスはトゥランのご出身でしたね」


 俺がそれを知ったのは、シフォン=チェルの兄たるエレオ=チェルと初めて対面した際である。故郷であるトゥランで奴隷として働かされる北の民たちに対して、マルスは複雑な感情を覚えていたようであったのだった。


「しかしこうして、トゥランには立派な働き口ができたのだ! お前さんも似合わない甲冑などは脱ぎ捨てて、俺たちと一緒に汗を流したらどうだ?」


「ふざけるな。無法者同然の生活に身を置いてくせに、のこのこと舞い戻りおって」


「べつだん、お前さんの手をわずらわせるほどの悪事を働いた覚えはないぞ! そんなあくどく稼いでいたなら、もっとお袋に楽をさせられただろうからな!」


 そんな風に言いながら、マルスの兄は頑丈そうな白い歯をこぼした。


「しかしまあ、これまでお袋の面倒を見てくれていたお前さんには、感謝している! 宿場町で偉ぶるのに飽きたら、いつでも帰ってこい! きっとお袋も喜ぶことだろう!」


「やかましいと言っている。料理を受け取って、さっさと立ち去れ」


 マルスのほうは、取り付く島もない。しかしやっぱり兄のほうはめげた顔も見せず、尻の物入れから木札を取り出した。


「それじゃあ、そろそろおいとまするか! 森辺の料理ってやつを、存分に楽しませてもらうぞ!」


「はい。お口に合えば、幸いです」


 マルスの兄を筆頭とする集団は、やいやい騒ぎながらルウ家のかまどへと流れていった。

 それでいったん客足が途絶えたため、俺はマルスの様子をうかがったのだが――彼は俺の呼びかけを拒むように、さっさと退いてしまった。


(気ままな兄と、生真面目な弟……っていう構図なのかな)


 しかし、マルスの兄が出奔したのは、北の民を奴隷として使っていたトゥランの体制が原因であったのだろう。その状況が打破されて、家族の再会がかなったというのなら――俺としては、祝福を捧げたいところであった。


 その後もぽつぽつとお客はやってきて、鍋の残りはわずかとなっていく。

 そして、焼きポイタンの残数が10枚となったところで、俺は背後に控えている管理者の男性を振り返った。


「これで、予定の数はさばけたようです。店じまいということで、よろしいでしょうか?」


「はいはい。料理はまだ余っているようですが、余分に準備してくださったのでしょうかな?」


「はい。何かの間違いで足りなくなってしまわないように、10名分は多めに準備してきました。幸い、間違いは起きなかったようですね」


 俺がララ=ルウのほうを振り返ると、遠い場所から手を振り返される。あちらも、予定の数をさばいたのだろう。俺とララ=ルウの間には、これまでの慌ただしさを証し立てるように大量の空の鍋が放置されていた。


「中天の半の刻には、太鼓が鳴らされる手はずとなっております。それが聞こえてこないということは、半刻足らずで仕事を終えたというわけでありますな」


「はい。今後もこのやりかたで、問題ないようです。あとは、料理の内容にご満足いただけるかどうかですね」


「立ち食いをしていた者たちは、ずいぶん満足げな様子でしたからな。きっと文句をつける人間はいないでしょう。……今後もこちらでの仕事を続けていただけますでしょうかな?」


「はい。こちらの側からお断りする理由はないようです」


 俺がそのように答えると、管理者の男性はほっとした様子で息をついた。


「それでしたら、何よりです。まずは今日から5日間、何卒よろしくお願いいたします」


「はい。それでは、後片付けに取りかかりますね」


 かまどの火は客足が落ち着いた折に消していたので、片付けるのは空になった鉄鍋ぐらいのものである。

 それぞれ鉄鍋を抱えて荷車を目指すさなか、ユン=スドラがこっそり呼びかけてきた。


「途中ではそれなりの慌ただしさでしたけれど、でも、思っていたほどではありませんでしたね」


「うん。こっちは復活祭だとか闘技場での商売だとかの慌ただしさを想定していたからね。でも、これを物足りなく思うのは、こっちの手際がよくなった証拠なんじゃないかな」


「それなら、誇らしい限りであるのですが……ただ、お客と言葉を交わす時間があまり取れないのは、いささか物寂しいところですね」


 それは、俺も同じように考えていた。宿場町での商売では、平時においてももう少しはお祭り騒ぎの風情があるものであるのだ。しかし本日、そういう賑わいを体感できたのは、客足がまばらになった最後の数分間のみであった。


(トゥランの人たちは肉体労働でくたびれてるから、そういう空気も影響してるんだろうな。まあ、料理の内容に満足してもらえたら、それで十分さ)


 俺はそのような考えでもって、内心の物寂しさをなだめることにした。

 そうして後片付けを終えたならば、あとは帰るのみである。まだ中天から半刻も過ぎていないので、宿場町での商売を一刻以上は楽しめるはずであった。余分に準備した10名分の料理も、そちらで売りさばく手はずである。


「ああ、アスタ。お帰りになられるのでしたら、表に出てから荷車に乗ってはいかがでしょう?」


 と、俺たちが荷台に乗り込もうとすると、フェルメスがそのように声をかけてきた。それに対して「うむ?」と応じたのは、アイ=ファである。


「つまりは御者の人間も、手綱を引いて歩くべきということであろうか? この場にも、宿場町と同じような習わしが存在するのであろうか?」


「いえ。そういうわけではありません。ただ、そうするほうが望ましいのではないかと考えたまでです」


 フードと襟巻きで人相を隠したフェルメスは、目もとだけでにこりと微笑む。

 そうして俺たちが、徒歩で表の通りに出てみると――とてつもない熱気が待ち受けていた。


 人々は、田園の外周にのびる道に敷物を敷いて、料理を食していたのだ。

 そして石造りの宿舎からも、たくさんの人々が身を乗り出している。そこで暮らしている人々は、自室で食事をとっていたのだろう。そして、地べたの敷物に陣取っていた人々も、窓から身を乗り出した人々も、温かい笑顔と言葉で俺たちを見送ってくれたのだった。


「今日の食事は、すごい出来栄えだったよ! 明日からも、よろしくな!」


「わざわざこんな場所まで、ありがとうな! 帰り道も、気をつけてくれ!」


「この美味い料理を励みに、昼からの仕事も頑張らせていただくよ!」


 手近な場所に陣取っていた人々は、そんな言葉を投げかけてくる。

 子供や女性たちなどは、笑顔で手を振ってくれていた。

 宿場町でもこういった言葉をかけられることは珍しくないが――しかし、500名もの人数といちどきに相対する機会はない。それで俺たちは、かつて味わったことのないほどの熱気と、それがもたらす喜びの念にくるまれることに相成ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] フェルメスめー、粋な計らいやってくれたな!!
[一言] 美味なる食事は全ての人々を笑顔にする
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