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異世界料理道  作者: EDA
第七十八章 新たな仕事と闘技会
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銀の月の二十日①~初日(上)~

2023.4/28 更新分 1/1

 それから数日間、俺はトゥランにおける商売を実現するために、あれこれ奔走することになった。

 ララ=ルウとも語らった通り、決して人手に問題はなかったのだが――それでも相手は、500名である。これまでの屋台の仕事と並行してそれだけの料理を準備するというのは、もちろん簡単な話ではなかったのだった。


 まず最初に考えるべきは、下ごしらえの作業場である。

 ルウなどは8つもかまど小屋があるために、まったく問題は生じないのだろう。いっぽうファの家はかつて近在の男衆によってひときわ立派なかまど小屋を準備していただいたが、それでも作業スペースや収容人数には限りがあるのだ。


 その状況を打破するために、俺はフォウの家にひとつの提案を持ちかけた。ちょうどそちらの集落では今後の祝宴に備えて立派なかまど小屋を築いたところであったので、それをお貸し願えないかと相談させていただいたのだった。


 バードゥ=フォウは、一も二もなく賛同してくれた。自らの判断で立派なかまど小屋を築いたものの、大きな祝宴などというのはそう頻繁に開かれるものではないので、普段はどのように活用するべきか思案していたさなかであったのだ。


「まさか、新しいかまど小屋が完成するなり、そのような話を持ちかけられるとはな。これも、母なる森の思し召しなのかもしれん」


 というわけで、作業場についてはすぐさま解決した。

 次に考えるべきは、人員についてであるが――これは最初から、不安視していなかった。ララ=ルウも会合の場で語っていた通り、多くのかまど番はもっと屋台の商売に関わりたいと願ってくれていたのである。


「こんな言い方は不遜かもしれないけれど、大きな仕事の下ごしらえを手伝うのは何よりの修練だろうからさ。遠慮なんていらないから、いくらでも仕事を回しておくれよ」


 そんな心強いことを言ってくれたのは、バードゥ=フォウの伴侶であった。そして、これまで下ごしらえに関わっていたすべての氏族からも、おおよそは同じような返答をいただけたのである。

 そこで唯一疑念を投げかけてきたのは、森辺きっての保守派であるラヴィッツの家であった。家長デイ=ラヴィッツのお言葉は、その伴侶であるリリ=ラヴィッツが代弁してくれた。


「あまりに商売の手を広げると、家の仕事がおろそかになってしまうでしょうからねぇ。もちろんこちらの血族はそのあたりのことも入念に吟味してから、どれだけの力を貸すかを決めるつもりですけれど……他の氏族も分別を忘れないように取り計らってもらいたいと、うちの家長はそのように申し述べておりましたよ」


「はい。いずれの氏族でもそのあたりの話にぬかりはないかと思いますが、こちらでも無理をしないようにと事前に通達させていただきます」


 デイ=ラヴィッツは、何も意地悪でそのような話を伝えてきたのではない。彼がもっとも案じているのは、森辺の規律や行く末であるはずなのだ。俺としても、町での商売が原因で森辺の規律が乱れるなどというのは、もっとも避けたい事態であった。


 しかしまた、森辺にまだまだ大きな余力が残されていることは事実である。ちょうどつい先日、ザザとサウティの血族が協力を願い出てきたことにより、ついに森辺のすべての氏族が屋台の商売に関わることになったのだ。なおかつ、ダリ=サウティはそれでも人手が余らないようにという思いで、商売の手を広げることを考案したのだから――ある意味、その目論見が大当たりしたようなものであった。


「ただ、そうやって作業場を分けるとなると、取り仕切り役が必要になるからね。それはこの3人で順番に担ってもらいたいと考えてるんだけど……どうだろう?」


 俺がそのような話を持ちかけたのは、ユン=スドラとマルフィラ=ナハムとレイ=マトゥアの3名である。その反応は、三者三様であった。


「はい! アスタの代わりに仕事場を取り仕切るなんて、光栄な限りです!」


「わたしも、同じように思います。それに、3名で順番に受け持つのでしたら、3日に2日はアスタのもとで働けるということですものね」


「で、で、でも、こちらのおふたりはともかく……わたしなどに、そのような大役が務まるでしょうか? トゥランで売りに出す料理は下ごしらえに留まらず、森辺で最後まで作りあげてから運び入れるという話であるのですから……下ごしらえの取り仕切り役よりも、いっそう大きな責任が生じるのでしょうし……」


 やはり、心配げな顔をしていたのはマルフィラ=ナハムである。かまど番としての腕は一流でも、取り仕切り役としては謙虚に過ぎる人柄であるのだ。


「マルフィラ=ナハムも収穫祭では、スンやミームの女衆にも指示を出しているだろう? それと同じ感覚でやってもらえれば、きっと問題はないと思うんだけど……でもやっぱり、不安な気持ちが残っちゃうかな?」


「は、は、はい。ま、まずはどなたかの取り仕切り役を手伝わせていただき……それで自分にも務まるかどうか、見定めさせていただきたいのですけれど……」


「それなら最初はユン=スドラとレイ=マトゥアの2交代にして……あ、いや、やっぱりもうひとり増やして、3交代にしようかな。それでマルフィラ=ナハムは1日置きに補佐役を受け持ってもらって、いつか自信がついたら4交代ってことにしようか」


 俺がその候補に選んだのは、ラッツの女衆である。俺よりも年長で、取り仕切り役としてはレイ=マトゥアにまさるほどの頼もしさを有する女衆であるのだ。もう1名、フェイ=ベイムの姿も俺の脳裏にはよぎっていたのだが――彼女はナハムの家に滞在している身で、遠くない将来に婚儀を挙げることになるかもしれない。そのように考えると、先の見えない仕事の責任者をお願いするのは気が引けてならなかった。


 かくして、ラッツの女衆からも快諾をいただき、作業の人員についても目処が立った。

 次なる案件は、料理の内容である。これはもう片方の取り仕切り役、レイナ=ルウと相談する他なかった。


「やはり汁物料理のみでは、物寂しく思います。焼いたポイタンも配るべきであるという話であるのですから、そちらに具材をくるんで軽食に仕立てるべきではないでしょうか?」


「うん。その生地の大きさと具材の分量で、男女の区別をつけられそうだね。その方向で、献立を考案してみようか」


 会合の場では自らの不甲斐なさを嘆いていたレイナ=ルウであるが、彼女の本領が発揮されるのはこういう場であるのだ。現場の取り仕切り役として優秀なララ=ルウや卓越した計算能力を持つツヴァイ=ルティムでも、レイナ=ルウの代わりは決して務まらないのだった。


「軽食の具材はどうしようね。モツでも上等な焼き物や煮物を準備できるだろうけど……汁物も軽食も臓物尽くしだと、あまりに偏ってるかな」


「そうですね。舌や心臓や横隔膜といった部位を軽食のほうで使えば、汁物料理との違いを打ち出せるかと思われますが……でも、汁物料理からそれらの部位を除いてしまうと、いささかならず物足りなくなってしまいそうです」


 俺の故郷のモツ鍋と異なり、ルウ家の屋台では使える部位をのきなみ使っている。普通の肉に近い食感を有するタンやハツやハラミといった部位は、ルウ家のモツ鍋の重要な彩りであるはずであった。


「となると、次に使いやすいのは足の部位だね。モモはともかくスネなんかはちょっと固いんで、焼き物に仕上げるんなら細かく刻むべきかな」


「ええ。町の人間は、わたしたちほど歯や顎が頑丈でないのでしょうしね。……あ、アスタもスネの肉というのは、固く感じるのでしょうか?」


「うん、それなりにね。だからファの家では、煮物か汁物か挽肉で使っているよ」


「そうですか。もうアスタが町の生まれであるという意識もほとんどなくなっていたので……なんだか、不思議な心地です」


「あはは。レイナ=ルウにそう言ってもらえるのは、光栄な限りだね」


 最近の俺がレイナ=ルウと親密に語らうのは、こうして共通の仕事に取り組む際に限られている。しかし、彼女の存在を遠く感じることはなかったし、その明朗さと熱情は好ましく思えてならなかった。


「でも……これはやっぱり、ずいぶん手間のかかる仕事のようですね。城下町で屋台を開くのは、トゥランの仕事が手馴れてからということになってしまうのでしょう」


 と、レイナ=ルウは肩を落としてしまう。やはり彼女は、そちらの仕事にも大いなる熱情を燃やしていたのだ。


「まあ、ひと月ぐらいもすれば、目処は立つんじゃないかな。城下町のほうは屋台の規模も小さいんだから、それほどの負担にはならないと思うよ」


「でも、もう半月もしたら、アルヴァッハやダカルマスやティカトラスがやってきてしまいます。そうしたら、今度はそちらにかかりきりになってしまうでしょう?」


「そうかもね。でも、それならそれで、また城下町の祝宴を受け持つ機会も出てくるんじゃないのかな」


「ああ、確かに! それは、考えていませんでした!」


 と、レイナ=ルウは子供のような笑顔になる。礼儀正しくて心優しいレイナ=ルウであるが、その内には妹たちに負けない無邪気さも隠されているのだ。俺と同い年だと考えると、それはなかなかに愛くるしい一面であった。


(俺もアイ=ファもレイナ=ルウも、ついに今年で20歳なんだもんな。思えば、遠くにきたもんだ)


 俺はそのように考えたが、そうそう感慨にふけっていられるいとまはない。トゥランの人々の期待に応えられるように、俺たちは持てる限りの力を尽くす所存であった。


                 ◇


 そうして、あっという間に日は過ぎて――銀の月の20日である。

 城下町における会合から7日目となるその日、ついにトゥランでの商売が開始されることに相成った。


 日取りとしては、営業日の初日である。これだけの規模の仕事は前日の下ごしらえが重要であるため、休業日の翌日を開店の日に定めたわけであった。


 記念すべきオープン初日の当番は、俺とユン=スドラだ。何をどのように考えても、ファの屋台に関わるかまど番でもっとも頼もしく思えるのはユン=スドラなのである。俺が初日の仕事をお願いした際には、ユン=スドラも輝くような笑顔で了承してくれたものであった。


 また、フォウのかまど小屋の取り仕切り役も、その日の当番である女衆にお願いすることにした。つまり今後は、ユン=スドラとレイ=マトゥアとラッツの女衆にトゥランまで出向いていただくわけである。商売が軌道に乗るまでは俺が欠かさずトゥランまでおもむき、残る3名に交代で相方をお願いするという格好であった。


「さ、さ、最初はアスタが毎日トゥランに行かれてしまうのかと、不安に思ってしまったのですけれど……で、でも、あちらでの仕事は一刻ていどなのですものね」


 マルフィラ=ナハムはいくぶん心配げな面持ちであったので、俺は笑顔で「うん」と応じてみせた。


「移動の時間まで入れると一刻半ぐらいになっちゃうけど、それでも宿場町での商売に半分ぐらいは参加できるからね。これなら、それほどの負担にはならないと思うよ」


 ということで、俺もユン=スドラもまずはいつも通りの刻限に宿場町へと向かう。その荷車を運転するのは、ギバ狩りの仕事を半休にしたアイ=ファであった。


「まずはトゥランにおける仕事の場がどのような様相であるのか、この目で確かめねばならんからな。それで危険はないものと判じたならば、他なる狩人に護衛の役を担ってもらおうと思う」


 トゥランでの商売が決定した折、アイ=ファはしかつめらしい面持ちでそのように語っていた。

 ちなみに、本日アイ=ファとともに護衛役を務めるのは、ドーンの長兄とダダの男衆である。今回の一件はダリ=サウティが発案者であったため、まずは血族たる彼らがその役を担うことになったのだった。


「まあ、下りの二の刻になる前には、森辺に帰れるのだろうからな。それなら毎日、誰かしらが同行できるだろうさ」


 ドーンの長兄はのんびり笑いながら、そのように語っていた。

 そもそもジェノスにおいてもっとも無法者が多いのは宿場町であるのだから、トゥランでの商売に護衛役は不要であるように思える。しかしまた、宿場町を出て四半刻ばかりもトトスを走らせることになるトゥランというのは、森辺の民にとってまぎれもなく「外界」であるのだ。ダレイムまでおもむく際にも必ず護衛役をつけるように、今回もその例にもれなかったのだった。


 そうしてまずは、宿場町における商売である。

 俺とユン=スドラが抜けても支障が出ないように、普段よりは2名分多く人員を集めている。それでザザとサウティの面々も集っているものだから、俺とユン=スドラが離脱するまではずいぶん人手が余ってしまう。それを活用するために、俺たちはザザとサウティの研修を進めることにした。


 本日そちらの当番となったのは、サウティ、ヴェラ、ドーン、およびダナ、ハヴィラの5氏族である。彼女たちも屋台を手伝うのはこれが4日目となるため、銅貨の受け取りに関してはずいぶん手馴れてきたようであった。


(うーん。11人の誰を取っても、まさり劣りはないように思えるなぁ。まあきっと、屋台の商売に適性のありそうな人間があらかじめ選ばれてるんだろうけど……第二陣を待つまでもなく、この顔ぶれで決定しても不都合はないように思えちゃうな)


 しかしまた、彼女たちは半月でそれぞれの家に戻ってしまう身であるのだ。それで次にやってくるのは早くてもひと月後であるという話であるのだから、各氏族から3名ぐらいずつかまど番を育てて、3交代制を目指すべきなのかもしれなかった。


(ただそれだと、毎日11名ずつ人員が増えちゃうわけか。城下町での商売が開始されても、そこまでの人手は必要なさそうだよな。となると、必要になる人員に合わせて育てる人数も決めなきゃいけないわけだから……これはもう、長期戦だな)


 新しい仕事の内容が確立されない限り、必要な人員の人数を正確に割り出すことも不可能であろう。とにかくこちらは新しい仕事の内容を確立させつつ、この先に備えて人材を育てるしかないようであった。


 そうして宿場町の商売を開始してから四半刻も過ぎたならば、もう俺とユン=スドラは出発の刻限である。朝一番のラッシュのさなかであるので慌ただしい限りであったが、初日から遅刻するわけにはいかなかったので早めに出発せざるを得なかった。


「いやー、ほんとに慌ただしいね! まあ、人手にゆとりはあるんだから、何も慌てる必要はないんだけどさ!」


 と、ルウ家の側からはララ=ルウがそのように言いたててくる。もともと本日は彼女が出勤日であったため、そのままトゥランの商売も受け持つことになったのだ。

 ちなみにその留守を預かるのは、古参のレイの女衆であるらしい。試食会ではレイナ=ルウの調理助手を務めていた、頼もしい人物だ。取り仕切り役であるララ=ルウやレイナ=ルウがトゥランにおもむく際は、レイとミンとマァムの女衆の誰かしらに留守を預けるのだという話であった。


「本当は、ルウの家人から選ぶべきなのかもしれないけどさ。今ってあたしとレイナ姉を除くと、リミとマイムしかいないんだもん。まあ、あのふたりだったら取り仕切り役にも不足はないだろうけど……眷族の女衆だって、十分頼りになるからね」


「うん。人を育てるっていう観点からも、それは正しい判断なんじゃないかな。リミ=ルウなんかは現時点でも、育ちすぎてるぐらいだしね」


 俺たちがそんな言葉を交わしながら荷車の準備をしていると、トトスの手綱を引いた2名の衛兵が近づいてきた。その片方は、俺にとっても顔馴染みである小隊長のマルスである。


「あ、どうもお疲れ様です。もしかしたら、マルスが案内をしてくださるのですか?」


「……上官の命令では、あらがうすべもないからな」


 ぶすっとした顔で、マルスはそう言った。森辺の民はトゥランまで出向く機会が少なかったため、案内人の衛兵をつけるという話であったのだ。小隊長という身分にあるマルスにそのような雑務が押しつけられてしまったのは、恐縮の限りであった。


(きちんと聞いたことはないけど、大隊長のデヴィアスが千名の部下を率いるってことは、中隊長が百人、小隊長が十人の長ってことなのかな)


 ともあれ、俺たちはマルスともう1名の衛兵に前後をはさまれつつ、宿場町を出立することになった。

 かまど番が4名で護衛役が3名であるため、荷車からあぶれたドーンの長兄もまた別のトトスにまたがって追従してくる。そして本日、ララ=ルウのパートナーとなったのは、ルティム分家の若き女衆であった。小柄でころころとした体格がモルン・ルティム=ドムを思い出させる風情であり、彼女も青空食堂を開設した頃にはもう屋台で働いていたはずであった。ルティムでは本家の家人が数多く屋台に参じていたため、分家の家人は彼女しか携わっていないのだ。


「わたしはトゥランという地におもむくのも初めてなので、朝から胸が高鳴ってしまっています。失敗のないように力を尽くしますので、どうぞよろしくお願いいたします」


 そのように挨拶をする際も、モルン・ルティム=ドムに負けないにこやかな表情だ。ララ=ルウが初日の相方に選んだということは、彼女もそれなり以上に目をかけられているのだろうと思われた。


 そうして四半刻ばかりも荷車を走らせると、トゥランの領地を囲う木の塀が見えてくる。

 俺がその内側に足を踏み入れたのは、1度きり。先日の会合でも話題に出た、北の民のかまど仕事を検分する際である。あれは南の王都の使節団団長たるロブロスが初めてジェノスにやってきた折であったので、あとひと月ほどで1年ばかりが経過するはずであった。


(もう1年というべきか、まだ1年というべきか……シフォン=チェルたちが南方神の洗礼を受けるためにジェノスを出立したのも、その頃ってことだもんな)


 トゥランの荘園を検分する折には、ゲルドの貴人たるアルヴァッハとナナクエムも同席していた。そしてその夜には南の王都の使節団を歓待する晩餐会が開かれて、その場でシフォン=チェルの処遇が決定されたのだった。


 そしてその後は北の民たちに代わる働き手として、トゥランに新たな領民が迎え入れられた。それらの人々に美味なる料理を届けるべく、俺たちはいま荷車を走らせているのだ。ここでもさまざまな運命が錯綜し、俺たちをひとつの道に導いたのだということを実感せずにはいられなかった。


「俺たちも、トゥランという地は初めてであるのだが……ずいぶん、のどかな場所であるようだな」


 荷台の後部の帳をかきわけて外の様子をうかがっていたダダの男衆が、そのようなつぶやきをもらす。いっぽう俺はアイ=ファの座した御者台の脇から、同じ光景を眺めていた。


 塀の内側には、木造りの家屋がずらりと並んでいる。トゥランという地は中央に広々とした荘園が広がっており、それを囲う形で居住区が形成されているのだ。大地震の際と新たな領民を迎え入れる際の二段構えで家屋の補修が施されたため、俺が11ヶ月前に目にした折よりもさらに整然とした様相であるように思えた。


(俺が以前に足を踏み入れたのは大地震の後だったから、その時点でずいぶん補修が進められてたはずだけど……なんていうか、空気感まで変わったみたいだな)


 あの頃はまだ北の民たちが働かされていたため、トゥランには仕事にあぶれた貧しき人々しか住まっていなかったのだ。現在でもそうまで羽振りはよくないという話であったものの、もはや仕事に困ることはないだろうし、何より領民の数が数百名単位で増加している。おおよその人々は荘園に出向いているためか、べつだん賑やかな雰囲気でもなかったのだが――そこには以前よりもはっきりと、「生きている町」としての鼓動が感じられてならなかった。


 ジェノスの貴族たちは奴隷であった北の民たちを解放し、新たな領民を迎え入れたのだ。奴隷を使えば大きな富を保持できるのに、それを犠牲にしてトゥランの再生をはかったのである。その成果が、今この地にかもしだされている空気であるのだろう。人影は少なく、のどかで、閑散としているぐらいであるが、そこにはダレイムと変わらない健やかな生活の匂いというものが感じられた。


「……荘園というものが見えてきたな」


 今度は、アイ=ファがつぶやきをもらす。

 木造りの家屋にはさまれた小道の向こうに、広大なる田園の様相が垣間見えたのだ。

 これもまた、11ヶ月前に見た光景である。

 ただ異なっているのは、そちらで働いているのが北の民ではなく新たな領民たちであるという一点だ。


 さらに荷車が前進していくと、田園の外周をなぞる形で道がのびていく。その片側には、荘園の管理者たちが住まうという立派な家屋が並んでいた。

 しばらく進むとそれが巨大な倉庫や物置などに様変わりして、さらにその先には巨大な石造りの建造物が待ちかまえている。かつては北の民たちが収容されており、現在は労働者の宿舎に改築されたという建造物だ。ここまで来れば、俺たちの作業場ももう目前であった。


「ようこそ、森辺の方々! ご到着を、お待ちしておりました!」


 俺たちが宿舎の裏手に回り込もうとすると、その手前に数名ばかりの人々が待ちかまえていた。

 挨拶をしてきたのは、恰幅のいい初老の男性だ。しかしアイ=ファの目はそのかたわらにたたずむ人物のほうに向けられていた。


「……あなたが視察に参るとは聞いていなかったな、フェルメスよ」


「ええ。貴族が姿を見せては領民たちが恐れをなすだろうということで、メルフリード殿らは立ちあうことを遠慮したようですが……僕には、外交官としての職務がありますので」


 フードと襟巻きで美麗な細面を隠したフェルメスが、目もとだけで微笑みかけてくる。その斜め後方には、もちろん同じ姿をしたジェムドもたたずんでいた。


「外交官殿は、以前から何度かトゥランの視察にいらっしゃっておりましたからな。森辺の方々も懇意にされているとのことで、何よりです」


 そのように語る初老の男性は、荘園の管理者のひとりであるとのことだ。ジェノスの貴族から管理を任されているのだから、それなり以上の身分にある人物であるのだろう。さすがに着飾ってなどはいなかったが、装束の生地はいかにも上等であったし、立ち居振る舞いにも自信や品性というものが感じられた。


「ご挨拶が遅れてしまって、まことに申し訳ございません。荘園の働き手たちのために尽力くださり、心から感謝しております」


「いえいえ。こちらは商売の一環ですので、どうぞお気になさらないでください」


 とはいえ、これは半分がた貴族からの依頼で始められた事業ということになるのだろう。俺たちとしても、ただ屋台を開くという心持ちではなかった。


「それではさっそく、作業場のほうにどうぞ。仕事に遅れが出ましたら、一大事ですので」


 管理者の男性はそのように語っていたが、現在はせいぜい上りの六の刻の半ていどで、働き手の昼休みである中天までは半刻を残している。俺たちが為すべきは料理を温めなおすことのみであるので、ゆとりは十分にあるはずであった。


 しかしまあ、早めに準備するに越したことはない。俺たちは荷車を降りて、マルスたちとともに作業場を目指すことになった。


「もしかして、マルスたちは帰りも同行してくださるのですか?」


「……それが、上官の命令であるからな。言っておくが、俺たちが命令を受けたのは今日限りだぞ」


 べつだん迷うような道のりではなかったので、道案内は初日のみで十分であろう。きっとアイ=ファの記憶力であれば、本日の案内も不要なぐらいであった。


 そうして建物の裏手に回り込むと、また懐かしい光景が待ちかまえている。

 革の屋根が設えられた、屋外のかまど場である。かつてはこの場で、北の民の女衆が仕事に励んでいたのだった。


 10名以上の人間が働ける規模であるので、実に広々としている。4名のかまど番では、持て余してしまうほどだ。そして、管理者の男性も俺たちの人数に多少の不安を覚えたようであった。


「森辺の方々は、7名きりであられるのですね。こちらでは、10名ばかりの人間が食事の配分を受け持っていたのですが……」


「はい。木札を使った配給制というものを取り入れていただけたので、この人数でも問題はないかと思われます」


 7名中の3名は狩人であるのだから、実際に働くのは4名のみである。しかし、半刻で500名のお客が相手であれば、ひとりにつき16秒をかけられる計算であるのだ。汁物をよそったり、ポイタンの生地で具材をくるんだりするだけならば、この人数で十分なはずであった。


 そのために必要であるのは、下準備だ。俺たちは、さっそく荷車に積んでいた大量の鉄鍋を火にかけることにした。

 宿場町の屋台では鍋が尽きるごとに新たな料理を温めなおしていたが、本日はそのようなゆとりもない。500名分の料理を、いちどきに温めなおすのである。それで石造りのかまどが鉄鍋に埋め尽くされると、管理者の男性は目を丸くした。


「いや、500名分の食事であるのですから、これが相応の量なのでしょうが……これをこの人数で取り分けるというのは、やはり難儀であるように思えてしまいますな」


「はい。手違いのないように心がけますので、どうぞおまかせください」


 3度にわたる復活祭と急遽開催された鎮魂祭によって、俺たちは否応なく鍛え抜かれている。商売の始まりを目の前にして、俺たちの胸に不安はなかった。

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