親睦の祝宴⑦~星の行方~
2023.4/10 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
ライエルファム=スドラとの対話を終えたのち、俺たちはようやくガーデルを分家の母屋に運び入れることになった。
そして今、ガーデルのもとには俺とアイ=ファだけが留まっている。カミュア=ヨシュやデヴィアスたちは、気をつかって席を外してくれたのだ。ガーデルは寝具の上で力なくへたり込んだまま、はらはらと涙を流してしまっていた。
「やっぱり俺は……ジェノスを出るべきなのでしょうか……俺のように救いのない人間は、アスタ殿から遠ざかるべきなのでしょうか……」
「そんなことはありません。どうしてガーデルが、故郷を捨てなくてはいけないのですか? ガーデルは、何も悪いことなどしていないのでしょう?」
「俺は……きっと存在そのものが罪深いのです……」
「そのようなことはない」と、アイ=ファが力強く断言した。
「かつて大罪人シルエルも、まったく違った意味合いで同じような言葉を口にしていたがな。生まれながらの罪人など、この世には存在しない。お前に罪があるならば、それは自らの意思で犯したか、あるいはやむにやまれぬ状況に追い込まれてのことなのであろう」
「…………」
「しかしまた、お前はシルエルのように暴虐な真似を働いたわけでもなかろう? お前の語る罪とは、何なのだ? お前は何をそのように恐れているのだ? よければ、聞かせてもらいたく思う?」
「……何故です?」と、ガーデルは蚊の鳴くような声で応じた。
「どうしてみんなして、俺のことなど気にかけるのです……? 俺は……俺は他者に目をかけられるような存在ではないのです……みんなが捨て置いてくれれば、俺はそれで満足なのです……」
「お前がそのような考えであるから、ライエルファム=スドラはジェノスを捨てよとうながしたのではないか? お前が誰とも関わりたくないというのなら、見知らぬ土地でひとりで生きていけばいい。そうして時おり訪れる旅芸人の劇に、救いを求めればいいだけのことだ」
そのように語るアイ=ファは、先刻のライエルファム=スドラと同様に優しさと厳しさの入り混じった眼差しをしていた。
「それにガズラン=ルティムは、兵士だけが生きる道ではないと語っていたな。あれもきっと、ライエルファム=スドラと同じ根の話であるのだろう。お前がこれからもジェノスの兵士として生きようというのなら……そして、アスタの生を見届けたいと願っているのなら、周囲の人間と正しく絆を結ぶべきであるのだ。お前がどれだけ自分のことを捨て置いてほしいと言いたてたところで、お前がそこにそうして存在している以上、他者と関わらずにはいられないのだからな」
と――そこでアイ=ファは、ふっと微笑をもらした。
「かくいう私も、かつては誰とも関わらず、ひとりで生き、ひとりで魂を返すと決めていた。それで友たちがどれだけ心を痛めるかも顧みず、ひとりよがりの覚悟に取り憑かれていたのだ。そして……そんな私を変えてくれたのは、アスタであった」
「…………」
「アスタであれば、どのように不甲斐ない人間でも見捨てることはない。そして私も、アスタを見習いたく思っている。だから、お前を捨て置くことはできんのだ。おそらくライエルファム=スドラは、そこまで見越してあのような言葉を口にすることになったのであろうな」
「きっとそうですよ。おせっかいな俺たちから逃げるには、ジェノスを出るしかないということです」
俺は明るく努めた声で言いながら、ガーデルの手を握ってみせた。
「だからどうか、聞かせてください。ガーデルは、何をそんなに恐れているのですか? どうしてそこまで、自分の存在を卑下されているのですか? 何か罪を犯してしまったのなら、王国の法に従って罪を贖うべきでしょうし……何の罪も犯していないなら、何も気にする必要はないはずです」
「俺は……俺の罪を、法で裁くことはできません……俺の罪は、そういう類いのものではないのです……」
「では、どういう類いの罪なんです?」
ガーデルは深くうつむいたまま、ぽろぽろと涙を流している。
そののっぺりとした顔が、ふっと虚ろな色をたたえた。
「俺は……何も感じないのです」
「何も感じない? それは、どういう意味でしょう?」
「言葉の通りの意味となります……幼き頃に、母が魂を返したときも……お屋敷で、粗雑に扱われたときも……この手で人を殺めたときすら、俺は何も感じませんでした……俺には最初から、人の心が備わっていないようなのです……」
その驚くべき告白に、アイ=ファがうろんげな声をあげた。
「しかしあなたは、自分の行いが正しかったのかどうか、それを見定めないことには一歩も立ち行かないと語っていたはずだ。それで、自分が救ったアスタの生を見届けたいと願ったのであろうが? あれは、虚言ではなかったはずだ」
「はい……それは、俺の真情です……でも……それでもなお、俺は罪悪感などを抱いているわけではないのです……俺は人を殺めても、それを悼む心を持ち合わせていません……そんな俺が、他者を殺めて人の世の運命に干渉することなど、果たして許されるのか……それを見届けたく思っているのです……」
ガーデルは、感情のこもらない声音でそのように言いつのった。
「たとえば……大罪人シルエルが捕縛されたことにより、俺を虐げていたお屋敷の方々が首をくくることになりましたが……それを耳にした同じ部隊の男が、とても親身に語ってくれたのです……思わぬ成り行きから、お前の無念も晴らされることになったな、と……」
「うむ。それでお前がひそかに喜びを噛みしめていたとしても、責められる人間はおるまい」
「心優しき人間は、そのように考えるのでしょうね……でも、違うのです……俺は喜びの念など抱いておりませんでした……俺は、何も感じていなかったのです……お屋敷の方々が首をくくったと聞かされても、俺は嬉しくも悲しくもありませんでした……どうやら俺は、人を愛することも憎むこともできない人間であるようなのです……」
「でも……ガーデルは、ジェノスを離れたくないと思っているのでしょう? だからそのようにして、悲しみに打ちひしがれているのでしょう?」
俺が思わず声をあげると、虚ろであったガーデルの顔にほのかな微笑がにじんだ。
「そんなものは、傀儡の劇を見たいと駄々をこねる幼子と同じような思いであるのでしょう……みなさんの仰る通り、俺はアスタ殿の生を傀儡の劇と同列に考えてしまっているのです……」
「ああ……それは、納得のいくお答えです」
俺の中で、カチリと合わさるものがあった。
やっぱりガーデルはその一点において、フェルメスと似ているのだ。フェルメスは『星無き民』という存在に、ガーデルはジェノスを救った英雄に魅了され、執着している。フェルメスは大切な書物のように、ガーデルはお気に入りの劇のように、『ファの家のアスタ』を愛でているわけであった。
「だったらやっぱり、俺たちの答えは変わりません。俺は傀儡の劇の主人公ではなく、生身の存在としてガーデルと絆を結びたく思います」
「俺に、そのような価値はありません……俺には、人の心が宿されていないのですから……」
「人でなければ、傀儡の劇に魅了されることもないはずですよ。それに、ガーデルが占星師を恐れているのは、そういう自分に後ろめたさを感じているからなのではないですか? ガーデルが本当に人の心を持っていないなら……自分は生まれながらの大罪人なんだって豪語するシルエルのような人間でないのなら、きっと人間らしい心が育まれているのだろうと思います」
「うむ。あなたはおそらく、幼子のように心が未熟なだけであるのだ、ガーデルよ」
アイ=ファは精悍なる面持ちで、ぐっと身を乗り出した。
「その未熟さは、きわめて危険なものであるように思える。私は星読みというものを重んじていない身だが……かつてクルア=スンが語った破滅の相というものも、その危うさから発しているのであろう。現にあなたはこれまでにも、自らの未熟さで破滅しかけているのだからな」
「であれば……やはり、俺のことなど捨て置くべきでしょう……?」
「あなたがすべての人間から遠ざかろうというのなら、我々にもそれを追う力はない。しかし、あなたがこの地に留まるならば、捨て置くことはできんのだ。先刻も告げた通り、人はその場に存在するだけで、否応なく他者と関わってしまうのだからな」
アイ=ファの青い瞳には、やはり優しさと厳しさが入り混じっている。そしてその両方が、とてつもない力感をかもしだしていた。
「あなたはかつて、王都の貴族ティカトラスに悪意を向けようとした。あれはあなたのみならず、アスタやジェノスにも破滅をもたらしかねない行いであったのだ。ひとりの人間がもたらす希望が多くの人間を照らすように、ひとりの人間がもたらす破滅が多くの人間を巻き添えにすることもありえるのであろう。他者の運命に関わることを恐れているというのなら、あなたもそのような末路は望むまい?」
「え、ええ、ですが……」
「あなたが選ぶべき道は、ふたつ。ジェノスを捨てて誰とも関わらずに生きるか、この地で周囲の人間と正しく関わるかだ。あなたが後者であることを願う」
「俺も、そのように願います。どうかこの地で、俺たちと絆を深めてください」
俺たちがそのように言葉を重ねると、ガーデルがふいに面を上げた。
涙に濡れた目が、心から不思議そうに俺の顔を見つめてくる。もともと淡い色合いをしているガーデルの瞳は、涙のせいでいっそう霞みがかっているように見えた。
「何故ですか……? 俺のように厄介な人間は、遠ざけるべきでしょう……?」
「それでも俺たちは、出会ってしまったんです。同じジェノスで生きる身として、見て見ぬふりはできないでしょう? 俺たちの目の届かないところでガーデルに暴れられてしまったら、それこそ取り返しがつかないですしね」
そんな風に答えながら、俺は笑ってみせた。
「ガーデル。傀儡の劇っていうのは確かに素晴らしい見世物ですけれど、この現実世界だってまったく負けていません。それに、ガーデルだってご自身の人生の主人公であるのですよ。あなたは名もなき一兵卒じゃなく、護民兵団の兵士ガーデルです。俺も今後はひとりの人間として、あなたと絆を深めさせていただきたく思います」
ガーデルは、なんとか俺の言葉を理解したいかのように眉をきつくひそめた。
それから、ふっとけげんそうな面持ちになり、右の手の平で顔をぬぐう。そうしてびしょ濡れになった手の平を見下ろしながら、ガーデルはぼんやりとつぶやいた。
「俺は、涙を流していたのですね……誰が魂を返そうとも、俺が涙を流すことはなかったのですが……」
「それこそが、ガーデルに人間らしい心が宿されている証ではないですか? 人の心がなかったら、涙を流すことだってないはずです」
「どうなのでしょう……俺には、判別がつきません……」
そう言って、ガーデルはおずおずと俺とアイ=ファの姿を見比べてきた。
「ただ……おふたりに温かいお言葉をかけられていると……胸が軽くなってきました……これもただ、ジェノスを出ずに済むのだと安心しているだけなのだと思うのですが……」
「わずか1日で、そうまで心が育つことはあるまい。あなたは長き時間をかけて、正しき道を見出すべきであるのだ」
アイ=ファは決して焦ることなく、そんな言葉をガーデルに投げかけた。
「あなたはまず、自らを律するすべを学ぶべきであろう。何か不安が生じた際には、決して勝手な行動を取らず、周囲の人間を頼るのだ。それは上官たるデヴィアスでもかまわんし、我々でもかまわん。我々は、あなたとともに正しき道を進みたいと願っている」
ガーデルは子供のようにしょんぼりとしながら、「承知しました……」と答えた。
「ただ……俺はやっぱり、傀儡の劇に対する執着を捨てるべきなのでしょうか……? これから行われる傀儡の劇をあきらめなくてはならないのかと考えると……悲しくてたまらなくなってしまうのですが……」
アイ=ファはひとつ息をついてから、苦笑した。
「何も、傀儡の劇を見るなと説教しているわけではない。傀儡の劇よりもうつつの世界を重んじよと申し述べているのだ。……本当にあなたは、幼子のようだな」
「も、申し訳ありません……本当に、俺は不出来な人間なもので……」
何だか、一周まわって同じ場所に辿り着いてしまったかのようである。
ただガーデルは、ちらちらと俺たちの様子をうかがっていた。これまでまったく見向きもしなかった俺やアイ=ファに、何とか目を向けようとしているのだ。それがこの夜に得た、ささやかな一歩なのかもしれなかった。
「では、しばらく身を休めるがいい。熱でも出してしまったら、元も子もないからな。傀儡の劇を見終えた後は、また語らいたく思うし……今日が無理であれば、明日や明後日にでも語らせてもらいたく思う。人というのは、そうして絆を深めていくものであるのだ」
「はい……」と、ガーデルは気弱げに微笑んだ。
その笑顔をせめてもの慰めとして、俺とアイ=ファは家を出る。そうして戸板を閉めるなり、アイ=ファは深々と息をついた。
「本当に、難儀な相手であったな。あれに比べれば、出会った頃のミダ=ルウのほうが何倍も人間がましかったように思えるぞ」
「ああ、ミダ=ルウも苦しい現実から目を背けて、美味しい食事に逃避しているような面があったよな。それでもミダ=ルウは、ヤミル=レイやツヴァイ=ルティムやオウラ=ルティムに家族の情を抱いていただろうから……それが、ガーデルとの違いなのかな」
「うむ。ガーデルの母親が情愛を与え損なったのか、あるいはガーデルのほうに情愛を受け止める器がなかったのか……ともあれ、欠けている心はこれから埋めていく他あるまい」
アイ=ファは小さく首を振ってから、戦いに挑む剣士のように強い眼差しを浮かべた。
そこに、複数の人影が近づいてくる。デヴィアスとカミュア=ヨシュとレイト――それに、賑わいの場に戻ったはずのアリシュナたちである。その中から、シュミラル=リリンが真っ先に声をあげてきた。
「アスタ、アイ=ファ。ガーデル、無事でしょうか? 我々、責任、感じています」
「いえいえ。みなさんだけが責任を感じる必要はありませんよ。これはきっと、みんなで抱えるべき問題なのでしょうからね」
「うむ。俺は上官としての責任を感じているぞ。あやつがあれほどおかしな性根を隠していたなどとは、つゆほども考えていなかったからな」
デヴィアスはずいぶん悩ましげな面持ちで、がりがりと頭をかいた。
「俺は俺なりに心を砕いていたつもりであったのだが、まったく足りていなかったようだ。俺はどうにも、酒を飲まない人間と心を通わせるのが苦手であるからな」
「いや。ガーデルがもっとも人間がましい顔を見せるのは、あなたと言葉を交わす際であろう。あなたはおそらく、ガーデルにとってもっとも心安い相手なのだろうと思うぞ」
アイ=ファがそのように告げると、デヴィアスはとたんに「そうか!」と顔を輝かせた。
「いや、アイ=ファ殿にそのように評されると、胸が弾んでならんな! 美しき宴衣装の姿であるものだから、なおさらだ!」
「……そのように余計な言葉を重ねなければ、あなたは尊敬に値する人間だと思うぞ」
アイ=ファが口をへの字にすると、アリシュナが音もなく進み出た。
「ともあれ、ガーデル、危うき存在です。正しき運命、辿れること、願っています」
「……うかうかと、余人の行く末などを語るのではないぞ?」
「はい。ですが、過去について、語りたい、思います」
アリシュナは神秘的な無表情のまま、星空を振り仰いだ。
「ガーデル、運命、狂わせた、黒き蛇の星……シルエルです。ガーデル、シルエル、出会わなければ、安楽な人生、歩んでいたはずです。これもまた、黒き蛇の災厄、余波であるのです」
「瀕死のシルエルと出くわしたことが、ガーデルの運命を狂わせたということか。そのような話は、星読みに頼るまでもあるまい」
と、アイ=ファはいっそう眼光を鋭くする。
「ともあれ、シルエルは魂を返したのだ。そちらに責を負わせることはかなわんのだから、生きている人間が力を尽くす他あるまい。我々は、ガーデルと正しき絆を結べるように心がけるのみだ」
「はい。ガーデル、救う、赤き猫の星、アイ=ファです」
「……だから、うかうかと星読みの結果を語るなと言っているのだ」
「はい。そちら、すでに語られている、聞いたので、口にしました」
アリシュナがこれっぽっちも悪びれないため、クルア=スンが代わりに頭を下げていた。その星読みの内容を語っていたのは、クルア=スンであったのだ。
「あっ! アイ=ファにアスタ! そちらにいらしたのですね! ちょっとこちらに来ていただけるでしょうか?」
と、広場のほうから慌てふためいた声が飛ばされてくる。それは、宴衣装を纏ったダゴラの女衆であった。
俺たちは顔を見合わせてから、小走りでそちらに向かうことにする。他人顔はできなかったのか、他の面々もぞろぞろと追従してきた。
「どうしたんだい? 何か問題でも?」
「は、はい。いちおう取り仕切り役のおふたりには伝えておくべきかと思って……」
ダゴラの女衆は眉を下げながら、背後の人垣を指し示す。俺とアイ=ファがそちらに近づいていくと人垣が割れて、そこに隠されていたものがあらわにされた。
「ああ、アスタ! いいところに来てくれたな! ちょっとこの娘さんを何とかしてくれよ!」
そのように言いたてたのは宿場町の若衆たるベンであり、悪友のカーゴもそのかたわらで頭をかいている。
そちらの両名と対峙しているのは、4名の娘さんたち――ニコラとテティアの姉妹に、プラティカとルイアという顔ぶれである。その中で、姉のテティアを守るように立ちはだかったニコラが眉を吊り上げて、怒れるポメラニアンのごとき気迫をあらわにしていた。
「ど、どうしたんですか、ニコラ? ベンやカーゴが、何か失礼でも?」
「……こちらの方々は、テティアによからぬ思いを抱いておられるようです。ですが、わたしたちは伯爵家に仕える侍女として身をつつしまなければならないのです」
「だから、そんな悪さはしやしないって!」
「そうだよ。俺たちが、森辺の祝宴で悪さをするわけねえだろう?」
ベンとカーゴは、ほとほと困り果てている様子である。
すると、同じぐらい困惑気味のルイアがおずおずと口をはさんだ。
「で、でも今のは、ベンが悪いんじゃないかな……どさくさにまぎれて、テティアの肩を抱こうとしたりするから……」
「お、お前までおかしなこと言うなよな! それはそっちの娘さんがよろけたから、支えてやろうとしただけだろ?」
「でもその前から、ベンはテティアが気になってたみたいだし……ベンはこういうおしとやかな女性が好みなんでしょう?」
「だ、だからって、貴族のお屋敷で働く娘さんにちょっかいなんてかけるかよ! しかも、森辺の真ん中でさ!」
ベンはいくぶん赤くなりながら、大慌てで俺のほうに向きなおってきた。
「ほ、本当だから、信じてくれよ! 森辺の人らだって、そういう悪さを嫌うだろ? 誓ってそんな、おかしな真似をしようとしたわけじゃねえんだ!」
「ええ。俺はベンを信じてますよ。でも、ニコラはまだそこまでベンの人となりをご存じでないでしょうからね」
「うむ。そしてニコラは、何より姉の身を案じているのであろう。その心情は、重んじたく思う」
アイ=ファは凛然とした面持ちで、ニコラのもとに進み出た。
「ただし、城下町と宿場町では流儀が異なる面もあろう。それで誤解が生じるのも、致し方のないことだ。まずはニコラも怒りをおさめて、誤解を解きほぐすために力を尽くしてはもらえないだろうか?」
「はい。アイ=ファの言葉、従うべき、思います」
プラティカはアイ=ファに負けないほど凛々しい面持ちで、ニコラの肩にそっと手を置いた。
ニコラは爛々と光る目で、しばらくベンとカーゴの姿をねめつけていたが――やがて、悄然とした様子で肩を落とした。
「……わたしがひとりでいきりたって、無用に場をかき乱してしまったということですか。それでしたら、心よりお詫びを申し上げます」
「否。流儀の相違が生じることは、致し方ない。我々は、それを承知でこの場に集っているはずだ。肝要であるのは、そういった誤解を乗り越えて絆を深められるように力を尽くすことであろう」
アイ=ファの態度は毅然としたままであるが、ニコラやベンを見る目はとても穏やかだ。
そして、これまで無言であったテティアが深々と頭を下げてくる。
「ニコラには、何の罪もないことです。どうかすべての責は、わたしに負わせていただきたく存じます」
「誰に責がある話でもなかろう。それでも責任を感じるというのなら、ニコラとベンたちが正しく絆を結べるように、姉として力を尽くしてもらいたい」
そんな風に答えてから、アイ=ファはベンたちに向きなおった。
「ところで……本当に、よからぬ思いでテティアに触れようとしたのではないのだな?」
「あ、当たり前だろ! アイ=ファまで、俺のことを疑うのかよ?」
「うむ。森辺においても、家人ならぬ異性に触れるのは禁忌であるからな」
と、しかつめらしく言ってから、アイ=ファはふっと口もとをほころばせた。
「とはいえ、お前が虚言を吐いていないことはわかっている。それをニコラたちにも知らしめるために問うただけなので、何も案ずることはない」
「なんだよ、もう! あんまりひやひやさせないでくれよな!」
ベンが全力で安堵の息をつくと、このさまを見守っていた見物人たちが笑い声をこぼした。
その中から、笑顔とは無縁の両名が進み出てくる。フェイ=ベイムとモラ=ナハムである。
「申し訳ありません、アイ=ファにアスタ。わたしたちがともにありながら、騒ぎをおさめることがかないませんでした。
「ベンたちを案内していたのは、フェイ=ベイムらであったか。今日の祝宴はファとフォウの取り仕切りであるのだから、何も謝罪には及ばない」
「ですが、自らの不甲斐なさを口惜しく思います」
フェイ=ベイムは、ひときわ責任感が強いのだ。そんな彼女が心から口惜しそうな面持ちであったため、アイ=ファはそちらにも淡い微笑を投げかけることになった。
「それでもフェイ=ベイムらは、率先して案内役を務めてくれていたのであろう? かつてのベイムやナハムは宿場町における交流に反対していた立場であったのだから、私は得難く思えてならんぞ」
「……それはもはや、2年近くも前までさかのぼる話ではないですか。わたしたちの進むべき道は、2年前の家長会議で決せられたはずです」
「うむ。80年という歳月で重ねられてきた不和が2年ていどで解消されたことを、得難く思っているのだ」
アイ=ファがそのように答えたとき、人垣の外からレイナ=ルウが駆けつけてきた。
「アスタにアイ=ファ、お疲れ様です。ちょっとこちらにも時間をいただけるでしょうか?」
「え? そっちでも、何か揉め事かい?」
「いえ。何も揉めているわけではないのですが……アスタはまだ、シリィ=ロウたちのもとに赴いていないのでしょう? それでシリィ=ロウが、腹を立ててしまっているのです。アスタはもはや、自分たちの料理に興味がないのか、と……」
そんな風に語りながら、レイナ=ルウは困ったように微笑んだ。
「まあ、顔は怒っていましたけれど、本当は不安であるのでしょう。シリィ=ロウがあまりに気の毒ですので、どうか足を運んでくださいませんか?」
「そっか。シリィ=ロウたちの料理は、もう敷物でいただいてたんだけど……ちょっとこっちも立て込んでたから、挨拶に出向けなかったんだよね」
それでも間に傀儡の劇をはさんでいるため、もう祝宴の開始から一刻以上は経っているのだ。これほど長い時間、《銀星堂》の面々にご挨拶をしないというのは、確かに初めてのことであるはずであった。
「これから、すぐにうかがうよ。レイナ=ルウにまでお世話をかけちゃって、悪かったね」
「いえ。アスタたちがご多忙なことは、わきまえていますから。わたしこそ、自分の力で客人たちをなだめることができなくて、不甲斐ないばかりです」
そんな風に言ってから、レイナ=ルウは笑顔でアイ=ファを振り返った。
「あと、さきほどからリミがずっとアイ=ファを探しているようでした。まあ、ターラさえいれば寂しいことはないでしょうが……もし手が空いたら、そちらもよろしくお願いいたします」
「うむ。確かに承った」
そうしてレイナ=ルウは立ち去っていき、見物人の人垣も解散された。ベンたちのもとにはフェイ=ベイムらが身を寄せて、あらためて取りなしてくれているようである。
そうして俺とアイ=ファがひと息ついていると、カミュア=ヨシュが笑いかけてきた。
「これも、ガーデルにかまけていた結果なのかな。アスタたちは、本当にご苦労様だねぇ」
「いえいえ。こんなのは、苦労の内に入りませんよ。今日この場に集っている方々は、こちらの好きでお招きしているのですからね」
「うんうん。アスタたちは大きな苦労と引き換えに、大きな幸福を授かったのだろうからね」
カミュア=ヨシュはにんまりと微笑んでいたが、その紫色の瞳にはとても透き通った光が浮かべられていた。
「でもやっぱり、ガーデルというのは特異な存在だろうと思うよ。これだけ森辺の民に近づきながら、なんの関心も抱かないだなんて……心の一部が眠っているようにしか思えないからねぇ」
「ええ。それを揺り起こすのが、俺たちの役割なのかもしれませんね」
「そうだねぇ。どうかアスタたちは、めげずにガーデルの相手をしてやっておくれよ。何も悲しい結末にならないように、俺も祈っておくことにするからさ」
「……珍しく、カミュアは悲観的じゃないですか」
俺が思わずそのように言い返すと、カミュア=ヨシュは同じ眼差しのまま「そうだね」とつぶやいた。
「彼は、無力な若者だ。きっと彼が破滅することになっても、アスタたちが巻き込まれることはないだろう。でも……彼が破滅してしまったら、アスタたちはやりきれないだろうからね。だから俺は、彼が人間らしい心を取り戻せるように祈るしかない。アスタたちの悲しむ顔は見たくないからさ」
「……カミュア=ヨシュまで、占星師のように語るのだな」
アイ=ファが嫌そうな顔をすると、カミュア=ヨシュは「ごめんごめん」と笑いながら身をひるがえした。
「それじゃあ俺も、しばらく身軽に祝宴を楽しませていただくよ。ご縁があったら、またのちほどね」
「では俺も、自らの足で語らう相手を探すとするか! 俺ばかりがアイ=ファ殿の手をわずらわせていたら、他の面々に恨みを買ってしまいそうだからな!」
カミュア=ヨシュはレイトとともに、デヴィアスは単身で、それぞれ賑わいの向こうへと消えていく。
あとに残されたのは、俺とアイ=ファ、シュミラル=リリンとアリシュナ、クルア=スンとスンの家長だ。その中から発言したのは、またシュミラル=リリンであった。
「我々、追従、よろしいですか?」
「ええ、もちろんです。せっかく祝宴にお招きしたのに、まだシュミラル=リリンたちとも全然お話できていませんでしたもんね」
「はい」と、シュミラル=リリンは嬉しそうに微笑む。その優しい笑顔が、俺の心を温かく包んでくれた。
(……人を愛することも憎むこともできないって、いったいどういう心持ちなんだろうな)
人との関わりというのは、俺にとって力の根源だ。アイ=ファを筆頭とするさまざまな相手との出会いと交流が、俺に生きる力を与えてくれたのである。その力に頼らないまま生きるというのは――やっぱり俺には、想像することも難しいようであった。
それにガーデルは、神々に対してもまったく畏敬の念を抱いていないようなのである。
この大陸アムスホルンというのは、俺の故郷よりも神々の存在が深く根差している世界であるはずだ。そんな世界で神々に関心を持てないというのは、いったいどのような心持ちであるのか。それもまた、想像し難い話であったし――それにやっぱり俺としては、自分の境遇を顧みずにはいられなかった。俺のほうこそ、この世界に自分の星も信ずるべき神々も持たず、たったひとりで放り出されることになり――そして、アイ=ファたちとの出会いこそが運命なのだと信じ、西方神の洗礼を受けた身なのである。
きっとガーデルは、そんな込み入った事情など知らないに違いない。
しかしそれでも、ガーデルが『ファの家のアスタ』に魅了されたのは、何かの必然だったのではないのか――俺には、そのように思えてならなかった。
「……あまり思い悩むのではないぞ、アスタよ。我々は、長き時間をかけて確かな交流を重ねるしかないのであろうからな」
熱気にあふれかえった広場を歩きながら、アイ=ファがそっと耳打ちしてくる。
そちらを振り返りながら、俺は「うん」と囁き返してみせた。
「アイ=ファが同じ気持ちでいてくれるから、俺は何も心配していないよ。次の機会には、ガーデルとデヴィアスを晩餐にでもお招きしようか?」
「ううむ。まったく楽しいとは思えぬ顔ぶれだが……自らの楽しみばかりを重んじるわけにはいくまいな」
アイ=ファは口をとがらせながら、俺の腕を肘で小突いてくる。
その愛くるしい仕草に心を温められながら、俺は笑顔を返すことになった。
きっとガーデルというのは、一筋縄でいく相手ではないのだろう。アリシュナまでもが出張ってきたことにより、俺はその事実を再確認させられていた。きっと、魔術に等しい星読みの力を持つアリシュナには、何か不穏な未来が――ガーデルの破滅とそれにともなう危険の兆候が見えてしまっているのだ。
しかし、星読みの結果は絶対ではないのだと、俺はそのように聞いている。星図というのは、現実の姿をぼんやりと映す水面のようなものであり――人は運命のままに生きているわけではなく、人の意志こそが運命を動かすのだ、と。
(ガーデルを破滅させたりするもんか。そのきっかけがシルエルだっていうんなら、なおさらだ)
俺がそのように思案していると、アイ=ファがまた肘でつついてきた。
俺が慌ててそちらを振り返ると、今度はとても優しげな眼差しが待ちかまえている。
「お前の気迫は大したものだが、もうひとたび言っておくぞ。あまり思い悩むな。これは、我々が手を携えて乗り越えるべき苦難であるのだからな」
「うん。俺も同じような返事になっちゃうけど、アイ=ファが一緒だったら心配はないと思っているよ」
それに、俺の支えとなってくれるのはアイ=ファだけではない。今この場に集っている全員が――俺がこれまで出会ってきた人々の全員が、俺にとっては支えであった。
世界がこんなにも楽しいものだということを、それらの人々が俺に教えてくれた。
俺がガーデルに伝えたいのは、その一点であった。かつてフェルメスに対しても思ったように――俺はガーデルに、この世の楽しさを知ってほしかった。そして、同じ世界に生きる人間として、同じ喜びと苦しみを分かち合いたいと願っているのだった。
「それにまずは、シリィ=ロウをなだめてあげないとな。せっかく祝宴にお招きしたのにお気を悪くさせちゃって、本当に申し訳ないことをしたよ」
「うむ。シリィ=ロウもまた、難儀な一面のある相手であるからな」
そうして俺は熱気の渦巻く広場の只中で、アイ=ファと微笑みを交わすことに相成ったのだった。
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