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異世界料理道  作者: EDA
第七十七章 銀の月の二つの祝宴
1333/1695

建築屋の送別会⑦~離別~

2023.3/20 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

 その後も俺たちは、チル=リムとディアをあちこち引っ張り回すことになった。

 この場には、チル=リムの素性を知らない人々――たとえば、ルウ家の幼子なども参じていたが、チル=リムは髪の色を変えて瞳の色を隠しているため、正体が露見することもないだろう。そもそも実際にチル=リムと顔をあわせたことのある人間でなければ、かつて邪神教団に狙われていたのは「銀色の瞳をした自由開拓民の少女」という情報しか伝えられていないのだ。この夜のことをのちのち宿場町などで語らう機会が生じても、決して危険なことはないはずであった。


 だからチル=リムは、この夜の祝宴を素顔で楽しむことができたし――俺にはそれが、とても得難いことであるように思えてならなかった。ジェノスの領内ではフードも襟巻きも外すことのできないチル=リムが、誰の目をはばかることもなく笑みをこぼし、料理や菓子を口にしているのだ。そんな彼女の屈託のない笑顔を見ているだけで、俺は幸福な心地であった。


(そもそもチル=リムが森辺で過ごしたのは、3日やそこらだったのにな)


 しかし、その短い時間の記憶が、俺の胸には深く刻みつけられていた。チル=リムが高熱に浮かされながら俺に手を差しのばしてきた姿も、俺の身をつかんで決して離そうとしなかった手の温もりも、俺が手傷を負ってしまったことに絶望して自ら生命を絶とうとしたときの泣き顔も、邪神教団に立ち向かおうと決意したときの思い詰めた表情も――何もかもが、昨日のことのように鮮明であった。


 たった10歳という幼さで、チル=リムはそんな苦難を乗り越えてみせたのだ。故郷とすべての同胞を失った直後にそんな覚悟を振り絞れるというのは、彼女が誰よりも強い心を持っている証なのだろうと思われた。

 そしてディアというのは、そんなチル=リムを無償で救おうとした人間だ。まだ顔や名前も知らない頃から、ディアはチル=リムを助けるためにジェノスにまで乗り込んできたのである。そんな彼女の清廉さと強靭さに、俺とアイ=ファは赤き民たるティアの姿を重ねることになったのだった。


 そんな両名と祝宴の喜びを分かち合うことができて、俺は充足した心地である。

 しかもその場には建築屋の面々まで居揃っていたのだから、喜びもひとしおであった。むしろ、過剰な喜びで胸が詰まってしまいそうなほどであった。


 それに――喜びが深ければ深いだけ、別離の寂しさも深まっていく。

 俺は建築屋の面々ともチル=リムたちとも、これで数ヶ月は会えない身となってしまうのだ。いずれはきっと再会できるのだと自分にどれだけ言いきかせようとも、物寂しさを払拭することはできなかった。


「あんたたちが次に来るのは……やっぱり黒の月の鎮魂祭あたりなのかねぇ……」


 本家の前の敷物まで挨拶に出向いた折には、ジバ婆さんがそのように問いかけていた。ようやくメイトンたちも離席していたため、忌憚なく言葉を交わすことができたのだ。ただし、チル=リムの返答は「どうでしょう?」であった。


「風の吹くまま気の向くままにというのが、《ギャムレイの一座》の身上ですので……先のことは、座長にもピノにもわからないのだと思います。何もお約束できなくて、申し訳ありません」


「何も詫びる必要はないよ……あたしこそ、いつくたばったって不思議じゃない老いぼれなんだからさ……何も約束できないからこそ、今日という日の喜びを余すところなく噛みしめようって心持ちになれるんじゃないかねえ……」


「はい。最長老のお言葉を、胸に刻みつけたく思います」


 すると、ドンダ=ルウも重々しい声音でチル=リムに思いを伝えた。


「そちらが悪しき運命に屈することなく健やかな生を授かったことを、得難く思う。そちらはすでに、家族も故郷も捨てた身なのであろうが……きっと家族や同胞も、天の上で胸を撫でおろしていることだろう」


「ありがとうございます。それも森辺の方々が、またとない温情を授けてくださったおかげです」


「俺たちは、カミュア=ヨシュの口車に乗せられただけのことであろうがな」


 ドンダ=ルウこそ、ともに邪神教団の脅威を退けた筆頭格である。その強い輝きを放つ瞳には、どこか戦友を見るような輝きが宿されているように思えてならなかった。


 その後も、さまざまな場所でさまざまな相手と言葉を交わすことになったが――俺の中で印象的であったのは、クルア=スンとの語らいであった。クルア=スンの希望で、余人の耳をはばかりつつ広場の片隅で語らうことになったのだ。


「これまであまりくわしく語らう機会がありませんでしたが、わたしも持って生まれた星見の力というものが強まってしまったのです。ですから……あまりに口はばったい物言いになってしまいますが、あなたのご苦労というものは強く理解できるように思うのです」


 クルア=スンがそのように告げると、チル=リムは心から驚愕したようであった。


「そ、そうだったのですね。それでは……今もなお、星の輝きに苛まれておられるのでしょうか?」


「いえ。占星師たるアリシュナの導きで、普段は星を見る目を閉ざすことができています。ですから、あなたほどの苦労ではないのでしょうが……アリシュナに指南されるまでは、自分がこの先どうなってしまうのかという不安にとらわれることになってしまいました」


 そう言って、クルア=スンは静かに微笑んだ。


「ですから……そのように幼い身で大きな苦難を退けることのできたあなたを、わたしは心から尊敬しています。もしもわたしが、すべての家族を失ってしまっていたのなら……とうていこのような苦しみを乗り越えることはできなかったでしょう」


「いえ。それは森辺の方々が、わたしに力を授けてくださったおかげです。森辺の方々と、ディアと、カミュア=ヨシュと……そして《ギャムレイの一座》の方々がいなかったら、わたしなどはどうなっていたかもわかりません」


「ですが、人の思いを受け止めるには器が必要です。あなたには、それだけの器が備わっていたのでしょう。あるいは……あなたがそれだけの人間であったからこそ、尋常ならざる星見の力が授けられたのかもしれません」


 いっそう静謐な微笑をたたえながら、クルア=スンはそのように言いつのった。


「きっとあなたはアリシュナのように、占星師として正しく生きていくことがかなうでしょう。力は正しく使いさえすれば、人々に大きな喜びや希望をもたらせるのでしょうから……どうか今後も、心安らかにお過ごしください」


「ありがとうございます。あなたも安らかな生を過ごせるように祈っています、クルア=スン」


 チル=リムはうっすらと涙を浮かべながら、無垢なる微笑をたたえる。すると、クルア=スンも彼女本来の穏やかな微笑で応じた。


 きっとチル=リムとクルア=スンは、もっと早くから語らうべきだったのだろう。クルア=スンも言っていた通り、彼女たちは大きな不安や苦しみを共有する間柄であったのだ。

 しかしまた、チル=リムにはライラノス、クルア=スンにはアリシュナという、それぞれ頼もしい導き役が存在する。だから彼女たちはこうして真情を打ち明け合う前から、心安らかに生きていくすべを見いだせたのだろうと思われた。


「……つまりお前はチルと同じような力を授かりながら、それを隠して町の人間と交わっているということだな」


 ふたりの語らいを見届けたのち、ディアがそのように言いたてた。


「それはそれで、チルとは異なる苦難に満ちた生なのだろう。ディアもお前が健やかに生きていけるように、祈っておくことにするぞ」


「ありがとうございます。どうかあなたも、チルとともに健やかな日々をお過ごしください」


「ふふん。ディアは最初から失うものもないので、気楽なものだ」


 そう言って、ディアも彼女らしい力強くて純真なる笑みをたたえた。


 そんな具合に、俺たちはさまざまな相手と言葉を交わし――祝宴の終わりが近づいてきたところで、リコたちによる傀儡の劇が披露された。

 ニーヤが『森辺のかまど番アスタ』を披露したために、こちらの演目は最新作である『マドゥアルの祝福』と、俺が初めて目にする『放浪の王』というものであった。後者は魔の森に迷い込んだ王を狩人の一族が救うという内容であり、どこかで聞いた覚えもあるような気がしたのだが――その答えを示してくれたのは、驚異的な記憶力を有するアイ=ファであった。


「これはかつての仮面舞踏会で、レイリスが扮装していた狩人の物語であるようだな」


 きっと勇敢なる狩人が主役の片割れであったため、リコたちもこの演目を披露することにしたのだろう。森辺の民も南の民も分け隔てなく、リコたちの見事な手腕に歓声と拍手を送っていた。


 そうしてそちらの劇が終わる頃には、山ほど準備されていた宴料理と果実酒もついに残りわずかとなり――ドンダ=ルウの口から、祝宴の終焉が告げられたのだった。


「夜もすっかり深まったので、送別の祝宴もこれまでとする! 森の恵みを無駄にすることは許されぬため、腹にゆとりのある人間は残された宴料理を喰らい尽くすがいい!」


 これもまた、森辺の祝宴ならではの光景であろうか。おもに森辺の狩人たちが、先を争うようにして宴料理の残りに群がり始めた。


「俺たちは、無理をする必要もなさそうだな。まったく森辺の民というのは、胃袋の頑丈さも際立っているようだ」


 と、バランのおやっさんがこちらに近づいてくる。これはひさびさの再会であったため、俺は思わず「ああ」と嘆息をこぼしてしまった。


「ようやくお会いできましたね、おやっさん。もっと早くにお会いしておきたかったのですが……」


「何を言っておる。俺とはさんざん語らった後であろうが」


 おやっさんは、相変わらずの仏頂面だ。

 すると、チル=リムが申し訳なさそうに進み出た。


「わたしのせいで、おふたりの語らいをお邪魔してしまったのですね。今日は南の方々を見送る祝宴であったのに、本当に申し訳ありません」


「チルが謝る必要はないよ。俺はチルともたくさん話しておきたかったんだから……けっきょく、俺が欲深いというだけのことさ」


「まったくだな。俺たちなどは緑の月にすぐさまやってくるのだから、いちいち別れを惜しむ必要などないぐらいだ」


 おやっさんは苦笑を浮かべつつ俺の胸もとを小突き、それからチル=リムの姿をあらためて見下ろした。


「お前さんとは、祝日の日が高い内に少しばかり口をきいたていどだったな。この先もどれだけ顔をあわせる機会があるか、まったく知れたものではないが……まあおたがいに、森辺の民を友とする立場だ。どこかで顔をあわせることがあれば、心置きなく芸を楽しませてもらおう」


「はい。森辺の方々の友などと名乗るのは、あまりにおこがましい話ですが……あなたのお言葉は、心からありがたく思います」


「何を言ってるのさ。チルもディアも、俺は大事な友だと思っているよ。次に会える日まで、どうか元気にね」


 チル=リムは「ありがとうございます」と微笑みながら、ヴェールの向こう側でひと筋の涙をこぼした。

 そこで再び、ドンダ=ルウの声が響きわたる。ついに、すべての宴料理がたいらげられたのだ。


「では、これにて祝宴は終了とする! ルウの狩人を護衛につけるので、客人らは帰り支度を始めてもらいたい!」


 何か、狂おしいような歓声がドンダ=ルウの声に応じた。

 きっと多くの人々が、俺と同じようにさまざまな感情に見舞われているのだろう。親しい人々との別離に、ひとつの大きなイベントをやりとげたという達成感も重ねられて、俺はまったく情緒が定まっていなかった。


「お前さんも、見送りはここまででけっこうだぞ。宿の前で騒いでいたら、衛兵どもを呼ばれかねんからな」


「承知しました。手土産を持ってきますので、荷車の前で待っていてくださいね。チルとディアも、また後で」


 俺はアイ=ファだけを引き連れて、広場の外の荷車に向かった。

 広場ではまだ煌々とかがり火が焚かれているし、そちらからいくつもの松明や燭台が持ち出されていたため、目の頼りに困ることはない。俺は荷台に仕舞い込んでおいた帳面を引っ張り出して、すぐさま建築屋の荷車へと駆けつけた。


 そちらは大勢の人が群がって、大層な騒ぎである。やはり誰もが、別れを惜しんでいるのだ。明日の朝にも見送る予定はなかったので、建築屋の面々とも《ギャムレイの一座》ともこの場で別離を果たすのだった。


「じゃ、帰り道は気をつけてなー。この夜も、明日からもよ」


 ジバ婆さんの車椅子を押すルド=ルウは、笑顔でそのように呼びかけている。その正面に、おやっさんとアルダスとメイトンが居並んでいた。


「そっちこそ、息災にな。特に、最長老さんは……病魔なんかに気をつけてくれよ? 緑の月にまた会えるって、俺は信じてるからな!」


 メイトンは明るく笑いながら、とめどもなく涙をこぼしている。

 ジバ婆さんはとても優しい笑顔で、「ああ……」と応じた。


「この老いぼれがあとどれだけ生きられるかは、母なる森の心ひとつだけど……またあんたたちに会える日を楽しみにしているよ……どうか大事な家族たちと、安らかに過ごしておくれ……」


「ああ! 俺の家族たちも、また復活祭で会えるのを楽しみにしているからな!」


 そんなやりとりに胸を詰まらせながら、俺もおやっさんの前に進み出た。

 すると、すぐ近くにいたおやっさんの家族らが身を寄せてくる。おかみさんに末妹、長男にその伴侶に次男も全員が顔をそろえていた。


「ああ、おかみさん。これがお約束の、帳面です。どうかネルウィアでも、みなさんに美味なる料理をふるまってあげてください」


「そいつはあまりに荷が重いけど、せいぜい頑張らせていただくよ。……ところでこいつは、他の連中にも教えちまってかまわないんだよね?」


「もちろんです。帳面は一冊しか準備できませんでしたが、どうぞそちらでお好きなだけ広めてください」


「ありがたいねぇ。あたしらだけそんな幸運を授かったら、他の連中に恨まれちまうからさ」


 そう言って、おかみさんはにこりと微笑んだ。


「それじゃあ、ファのおふたりも元気でね。あんたたちの幸いを祈っているよ」


「うん! 絶対また、ジェノスに来るからね! 屋台の料理を楽しみにしてるよ!」


 末妹が涙をにじませながら元気に声を張り上げると、それとそっくり同じ表情をした長男も声をあげた。


「そのために、ネルウィアでしっかり稼いでおくからよ! また次の復活祭でな!」


「今日は素晴らしい祝宴をありがとうございました。この夜のことは、魂を返すその日まで忘れられそうにありません」


「……どうか、息災に」


 長男の伴侶も寡黙な次男も、それぞれ声をあげてくる。

 すると、ディアルがぴょこんと横から顔を出した。


「みんな、気をつけてねー! 僕もジェノスで、みんなに会える日を待ってるからさ!」


「ちぇっ。ジェノスで暮らせるなんて、羨ましい限りだよ。……ディアルも、元気でね」


 末妹はついに涙をこぼしつつ、笑顔でディアルの手をひっつかむ。

 ディアルはおひさまのような笑顔で、「うん!」とその手を握り返した。


「やれやれ。なかなか出発しようって気になれないな。アスタもアイ=ファも、ルド=ルウも最長老も、次に会える日を楽しみにしてるよ」


 ひとり大きな図体をしたアルダスが、頭上から笑いかけてくる。俺たちが口々に挨拶を返していると、今度は横からデルスがにゅっと首を突き出してきた。


「俺は月の終わりにも、また顔を出すことになっちまったからな。まったくありがたみがねえが、そのときはまたよろしくお願いするぜ」


「うん? お前さんがジェノスに荷物を運ぶのは、ふた月にいっぺんって話じゃなかったか?」


「月の終わりには俺にとっての太い客がぞろぞろと寄り集まるんで、知らん顔はできねえんだよ。ありがた迷惑とは、このことだな」


 デルスはにやにやと笑いながら、そのように言いたてた。月の終わりか来月の頭には、ダカルマス殿下やティカトラスやアルヴァッハたちが集結する予定になっているのだ。デルスはいまや、それらのすべてと商売をしている身であったのだった。


「ふん。そのような話は、まったく羨む気にもなれんな。せいぜい首を刎ねられないように、貴族や王族のご機嫌取りに励むがいい」


 おやっさんが素っ気なく口をはさむと、デルスはふてぶてしい笑顔で言いつのった。


「それでもジェノスに来られるだけで、羨むには十分なんじゃねえか? 兄貴たちは、ずいぶん森辺の民に心をとらわれているようだからな」


「お前などはひょいひょい姿を現しても、数日ていどで引っ込むのだろうが? 俺たちは、仕事であればふた月ばかり、復活祭には半月ばかりもジェノスに留まるのだ。年にふた月半も出張っていれば、何も不足はなかろうさ」


 そんな風に言ってから、おやっさんは俺のほうに目を向けてきた。


「だからお前さんも、いちいち湿っぽい顔をすることはない。そら、あの娘っ子たちも挨拶をしたがっているようだぞ」


 おやっさんの指し示すほうを見ると、人垣から外れた場所にチル=リムとディア、ピノにロロの4名がたたずんでいた。

 これほどに、身体がふたつ欲しいと思えるシチュエーションはそうそうないことだろう。俺は、頭を抱えたいほどであった。


「荷車の位置取りからして、あちらのほうが先に出立するのでしょうね。ちょっと挨拶をしてきますので、少しだけ待っていていただけますか?」


「見送りの挨拶など、もう腹いっぱいだ。こちらのことはいいから、とっとと行ってやれ」


 おやっさんの温かい眼差しに背中を押されるようにして、俺はチル=リムたちのほうに駆けつけた。


「最後の最後までお邪魔してしまって、申し訳ありません。わたしたちも、出発いたします」


 まだ素顔をさらしているチル=リムが、深々と頭を下げてくる。

 そしてすぐさま、ピノも言葉を重ねてきた。


「アタシらは宿を取ってるわけでもないんで、リコたちみたいにここで夜を明かしていったらどうだいなんて言っていただけたんだけどねェ。朝っぱらからまた場を騒がせるのは申し訳ないんで、とっとと出発させていただくよォ」


「そうですか。わざわざ声をかけてくださって、ありがとうございます。名残惜しいですが、どうかみなさんもお元気で」


「あァ。アタシはぼんくら座長より、ひとつまみだけ義理堅い人間なんでねェ。いちおうお別れの挨拶をさせていただくよォ」


 そう言って、ピノは赤い唇をにっと吊り上げた。


「今回も、復活祭はお世話様ァ。気が向いたらまたお邪魔させていただくんで、そちらサンも息災にねェ」


「うむ。旅に危険は多かろうが、そちらも大過なく過ごせるように祈っている」


 アイ=ファが凛然たる面持ちでそのように応じてから、チル=リムとディアのほうに視線を転じた。


「チルもディアも、息災にな。また会える日を楽しみにしている」


「うむ。アイ=ファもギバに後れを取らぬようにな」


 アイ=ファもディアも強い人間であるために、その表情は沈着だ。

 いっぽう俺は懸命に平静を装いながら、チル=リムと見つめ合うことになった。


「チル、元気でね。祝宴をともにできて、今日は本当に楽しかったよ。次に会える日まで、おたがい元気でいよう」


「はい。アスタの無事を、祈っています。今日は本当にありがとうございました」


 チル=リムもまた穏やかな笑顔であるが、その目には涙が浮かべられている。

 同じものを目もとに浮かべながら、俺はロロにも笑いかけてみせた。


「ロロも、どうかお元気で。俺なんかが口を出すのは、おこがましい限りですが……どうかチルのことを、よろしくお願いします」


「は、はい。チ、チルも大事な同胞ですので……それに、チルはボクなんかよりよっぽどしっかりしてますので、何も心配はいらないと思いますよ」


 ロロは普段通りのたたずまいで、にへらっと笑う。彼女もべつだん、別れを惜しむような心情ではないのだろう。ただそののほほんとした表情は、俺の心を安らがせてくれた。


「他のみなさんにも、よろしくお伝えください。チル、ディア、ピノ、ロロ。どうか、お元気で」


「はいなァ」と、ピノは朱色の装束をなびかせつつ身をひるがえす。ロロはぺこぺこと頭を下げながら、それを追いかけた。

 チル=リムは俺の顔を見つめながら微笑み、もういっぺん深々と頭を下げてくる。ディアはその黒髪を気安く撫でながら、俺に笑いかけてきた。


「おそらく次に顔をあわせるまで、ディアはチルのかたわらにあるだろう。だから、心配は無用だぞ」


「うん。それは何より、心強い言葉だよ。どうかチルをよろしくね、ディア」


「うむ。そろそろ言い飽きてきたが、アスタとアイ=ファも息災にな」


 それでようやく、ディアもきびすを返した。

 それに引っ張られるようにして、チル=リムも背中を向ける。しかし彼女は最後まで俺のほうを振り返り、「お元気で」と告げてきた。


 俺は精一杯の思いを込めて、遠ざかっていくふたりに手を振ってみせた。

 そうしてチル=リムとディアの姿も、松明の火がちらつく闇の向こうに消えていき――俺はそちらから目をもぎ離すようにして、建築屋の荷車へと向きなおった。


 そちらでも、すでに乗車が始められている。俺はすぐさま駆け戻って、おやっさんの姿を探し求めることになった。

 ジバ婆さんを筆頭とする数多くの森辺の民に見守られながら、建築屋の面々は荷車に乗り込んでいく。おやっさんは――その最後尾で、俺を待っていてくれた。


「おやっさん! どうか、お元気で!」


 人垣がいっそう分厚くなっていたので、俺はその頭ごしに大声で呼びかける。

 おやっさんは苦笑を浮かべて、しかたなさそうに小さく手を振り――そして、荷車の内に消えていった。


 しばらくして、荷車はしずしずと動き始める。

 まずは《ギャムレイの一座》の7台の荷車が闇の向こうに溶けていき、間に護衛役の狩人が騎乗するトトスをはさんで、建築屋の荷車も遠ざかっていく。もはやそこから顔を覗かせる者もいなかったが、俺は最後までその姿を見送り続け――そうしてすべてが闇の向こうに隠されたところで、アイ=ファが頭を小突いてきたのだった。


「今日は涙をにじませるていどで済んだようだな。お前も多少ばかりは成長できたようで、家長として喜ばしく思う」


 そんな風に語りながら、アイ=ファは限りなく優しい眼差しをしていた。

 俺は目もとをぬぐいながら、「うん」と笑ってみせる。


「でも、アイ=ファにそんな優しい目で見つめられたら、こらえていた涙がふきこぼれそうだよ」


「であれば、この喜ばしい気持ちも台無しだな。お前が強く心を保つことを願う」


「うん。頑張ってみるよ」


 俺はこれ以上の涙がこぼれないように、頭上の星空を見上げることにした。

 下界の賑わいなど知らぬげに、天空は静まりかえっている。そこにきらめく星々も、アイ=ファの眼差しに負けないぐらい優しげであった。


 それらの星図に、俺たちが無事に再会できるという運命は記されているのだろうか。

 しかし、チル=リムだってヴェールを外して、そんな運命を盗み見ようとはしなかったし――星読みの技を嫌うおやっさんたちだって、そんな話は想像もしないことだろう。俺たちは、懸命に日々を生き抜くことで、自らの運命を見定めて、望みの結果をつかみ取るしかないのだ。


 そうして俺は、慕わしく思う人々と長きの別離を迎えることになり――そしてまた、明日から賑やかな日常を辿ることに相成ったのだった。

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