③青の月12日~森辺の縁~
2014.12/14 更新分 1/1
2014.12/15 誤字修正
2014.12/28 誤字修正
ファの家に帰りついたのは、中天と日没のちょうど中間ぐらいだった。
カミュアともそれなりに話しこんだつもりであったが、けっきょくは1時間ばかりもゆとりをもって帰宅することができたということだ。
「ファの家に来るのもひさしぶりねぇ……」と、ヴィナ=ルウが背に負っていた明日用の食材を玄関口に下ろす。
俺のほうは、鉄板と調理器具と果実酒である。
重い鉄鍋を運ぶ必要がなくなったので、帰り道は今までよりもずいぶん楽になった。――といっても、鉄板だって12、3キロはあり、食材のほうもポイタン60個強にアリア20個強、それに4本の果実酒とタラパとミャームーとギーゴなどなど、といった分量であるわけだが。
俺のほうも荷物を置いて、お礼と別れの挨拶を述べようとしたところで、ヴィナ=ルウは「あらぁ……?」と不審げな声をあげた。
「ねぇ、何だか家の裏のほうが騒がしいみたいだけどぉ……?」
「あ、はい。今日からさっそく近所の家の男衆にギバの血抜きや解体を教えることになってるんですよ」
それでもいちおう確認は必要だったので、俺はヴィナ=ルウとともに家の裏手に回ってみることにした。
果たしてそこに待ちかまえていたのは、アイ=ファと6名の男衆たちだった。
かまどの脇の1番大きな木には、80キロ級のギバがしっかりと吊るされている。
「ああ、アスタ、帰ったのか」
「ただいま帰りました。……さっそくギバを捕まえることができたんだな」
「うむ。フォウとランの男衆が狩ったのだ。血抜きが成功したかどうかは、味をみるまでわからんがな」
まだ左腕の負傷が完全には回復していないアイ=ファは、狩人としての仕事を果たすことができない。が、近所の氏族がギバを狩った際には血抜きと解体の仕事を教える、という約束を一昨日のうちにかわしていたのだ。
(フォウ家とラン家か。たしかランってのはフォウの眷族だったよな)
そんな風に考えていたら、6名のうちの1番小柄な男衆が、ぐるりと俺のほうを振り返ってきた。
小柄で、しかもけっこうな痩身だが、なかなか年配の男衆である。黒っぽい髪はざんばらで、陰気に光る瞳も黒。浅黒い肌には深いしわが刻まれて、容貌は少し猿っぽい。
「ファの家のアスタ。ずいぶん早かったのだな。もう食事の準備をしてしまうのか?」
「いえ。まずは商売で使う料理の仕込み作業がありますので、晩餐の仕度はその後です」
「そうか。しかし、その作業を見守るだけでも、女衆にはよい修練になるのではないだろうか?」
容貌はずいぶんと陰気くさいが、なかなか能動的な気性であるようだ。
こういうタイプは、そんなに嫌いでも苦手でもない。
ただ、ちょっとだけ気になることもあった。
その痩せこけた男衆の胸もとには、わずか2本の牙と角しかぶら下がっていなかったのだ。
小さな氏族においてアイ=ファほどの成果を首にかけている男衆はほぼ見かけないが、それにしても、2本というのはかなり珍しい。
「そうですね。明るい内に来てもらえれば、より多くのことを教えることもできるでしょう」と俺が答えると、その男衆は懇願するようにアイ=ファを見つめやった。
「ファの家の家長よ。解体という技術を学ぶ前に、女衆を呼んできてもかまわないだろうか? 俺はこれでも足が速い。それほどの時間はかからないと約束する」
「別にかまわん。それでは内臓を抜く前に毛皮を剥いでおくことにしよう」
「かたじけない」と言い捨てると同時に、その小柄な男衆はぴゅうっと駆け去ってしまった。
確かに、ダン=ルティムほどではないが、なかなかの俊足だ。
「……何だかせわしない男だな。あいつはあのような気性であったのか」
と、発言したのはフォウの家の家長である。
こちらは痩せているが長身の男衆だ。
「あの方はフォウの眷族ではないのですか?」と問うてみると、「あれはスドラの家長だ」という答えが返ってきた。
それで思い出した。スドラならば、それはフォウやラッツとともにファの家の商売に賛同してくれた相手である。祭祀堂の中は暗かったので顔立ちまでは見てとれなかったが、そういえばあれぐらい小柄な人物だったような気もする。
「それにしても、晩餐の準備の手ほどきか。そのようなことまで面倒を見てくれるのか、ファの家のアスタよ?」
「はい。俺にも仕事があるので、つきっきりで教えることはできませんが。まずはポイタンの焼き方を覚えるだけでも、ずいぶん違うのではないですかね」
俺の言葉に、フォウの家長も表情を動かす。
「ポイタンか……しかし、ポイタンをあのような形に変えるには、相応の手間がかかるのであろう?」
「それはまあ、ただ鍋で煮込むのに比べれば相当な手間ですが。どんなに肉の臭みを取っても、ポイタンが今まで通りだと台無しになってしまいますからね」
ミャームー焼きやハンバーグなどは、それこそ修練の必要な料理である。が、最初に焼きポイタンの技術さえ習得してしまえば、血抜きをしたギバ肉とともに、「美味い晩餐」は実現できる。
「仕込みの作業ではあまりかまども使いませんので、ポイタンと鉄鍋を持ってきていただければ、ここで作ってもらってもかまいませんよ? 手間はかかりますが、それほど難しい調理でもありませんので」
「……フォウの家は、豊かな暮らしを手に入れるために、ギバの肉の味を変える技術を学びたいと欲しただけだ。自分たちの晩餐のためではない」
と、難しい顔つきで述べてから、フォウの家長は眉尻を下げた。
「しかし……もしもアスタの負担にならないのならば、フォウやランの家の女衆にも手ほどきを頼むことは可能であろうか?」
「かまいませんよ。いっぺんに説明してしまえばこちらの手間は変わりませんので」
「おい」と家長に呼びかけられて、男衆のひとりが駆け出していく。
その背中を見送ってから、アイ=ファは「そろそろ良いだろうか?」と小首を傾げた。
「私はまだ左腕の力が十分ではないので、皮剥ぎの仕事はそちらにまかせたいのだが」
「無論だ。すまなかった。すぐに取りかかる」
そう言って、フォウの家長とその眷族たちは小刀を抜いてギバのもとに群がった。
ファの家にあちこちの氏族の人間が集い、手を取り合って仕事に励んでいる。何だか感慨深い光景だ。
ファの家と彼らは眷族でも何でもなかったが、わずか500余名しかいない森辺の民なのだから、手の届く範囲の人間とはこうして可能な限り力を合わせていくべきなのだろう。
ダン=ルティムやミーア・レイ母さんは、俺とアイ=ファを友と呼んでくれた。
ガズラン=ルティムは、森辺の民は関係性を再構築していくべきだと語っていた。
フォウやランやスドラの人々とこうして縁を結び、いずれ友と呼べることができるようになれば、それは素晴らしいことであるはずだ。
アイ=ファは何だかとても居心地の悪そうな顔をしていたが、それは間違いのないことだと思う。
「……スン家が滅んで、本当に良かったわねぇ……」
と、いきなりヴィナ=ルウがそんな風につぶやいて、俺を驚かせた。
「あ、まだ帰っていなかったのですね。今日はお疲れ様でした、ヴィナ=ルウ」
「何それぇ……ちょっとひどくなぁい……?」
ヴィナ=ルウは少しうつむいて、とても恨めしげな上目遣いで俺をにらみつけてくる。
「す、すみません。ちょっと考え事をしていたもので。……それじゃあ、アイ=ファ、俺は家の中で仕込みの作業を始めるよ。フォウやスドラの女衆が到着したら、家にいれるからな?」
「うむ」
着々と白い裸身をあらわにされていくギバを尻目に、俺とヴィナ=ルウは家のほうに引き返した。
「あらためまして、お疲れ様でした。また明日からもお願いいたします」
「……どうしてそんな風にわたしを追い返そうとするのぉ……? アスタってひどい人間ねぇ……」
「え? だ、だって、ヴィナ=ルウにも仕事があるでしょう?」
屋台の商売が1時間早く終了したのだから、ヴィナ=ルウはその1時間分を薪の採取に費やしてくれるはずなのだ。
が、ヴィナ=ルウは栗色の髪を両手でかき回しながら、色っぽく身体をくねらせ始めた。
「わたしは家に帰りたくないのよぉ……家にはスンの末弟が待ち受けてるんだものぉ……」
「……ミダはもうスン家でも末弟でもないですよ? 心中はお察ししますけども、そこのところはきっちりしておくべきではないですかね?」
「それはわかってるつもりだけどぉ……でも、気持ちがついてこないのよぉ……」
ヴィナ=ルウはすっかり悲嘆に暮れてしまっていた。
こう見えてけっこう中身は男衆ばりにしっかりしているヴィナ=ルウなので、これは本当に参ってしまっているのだろう。
かと言って、ミダをルウ家に迎えると決めたのは家長のドンダ=ルウであるわけだし、もはや逃げ場はどこにもない。
これはどうしたものだろう、と俺も一緒に頭を悩ませていると――意想外の一団が、道のほうから姿を現してきた。
「アスタ、おひさしぶりです。もう宿場町から帰っていたのですね」
その先頭に立っていたのは、ガズラン=ルティムだ。
懐かしくも頼もしいその姿に、俺も自然に笑みを返す。
「おひさしぶりです。こんなところでお会いできるとは思っていませんでした」
カミュア=ヨシュとの話し合いがどのような形で終わったか、それを聞くために使者を寄こす、とは聞いていたが、まさかガズラン=ルティムがやってきてくれるとは思わなかった。
そして、その背後に控えた人々の存在も無視はできない。
それは――レイ家の家長ラウ=レイと、ヤミルだった。
「ファの家で待たせてもらうつもりだったのですが、ずいぶん早かったのですね。カミュア=ヨシュと会うことはできたのでしょうか?」
うつむいたままこちらを見ようとしないヤミルのほうを気にしつつ、俺は「はい」と応じてみせる。
「やはり、仕事の日程は動かせないそうです。それで、サウティ家が先導役を担ってくれるならば、明日にでも打ち合わせをしたいという話でした」
そうしてカミュアから聞いた話を、俺はできうる限り正確に説明してみせた。
話を聞き終えたガズラン=ルティムは、「なるほど」と太い首をうなずかせる。
「ならば、朝の内に城へとおもむき、その後にカミュア=ヨシュという人物に会うべきでしょうね。おおむね予想の通りです。……それらの会談には、私も三族長に同行することになりました」
「そうですか! それなら安心できますね!」
俺は心からそう述べたのだが、ガズラン=ルティムは「とんでもないことです」と首を振った。
「アスタにそのように言ってもらえるのは光栄なことですが、私とて武骨な森辺の男衆に過ぎません。石の都の住人を相手にどこまで正しく言葉を交わすことができるのか、不安でいっぱいです」
それでも、ドンダ=ルウやグラフ=ザザのような御仁ばかりでは、本当に血を見る騒ぎにもなりかねないだろう。
それに――カミュア=ヨシュとガズラン=ルティムが、ついに対面を果たすのだ。
この聡明にして実直なるガズラン=ルティムの目に、あのすっとぼけた男はどのように映るのか。そんな風に考えただけで、ちょっと鼓動が早くなってしまう。
「ところで――ヤミルはレイ家で引き取ることになったのですか?」
俺の言葉に、レイ家の家長である若者は「ああ」と力強くうなずいた。
「ただしそれはお前次第だがな。……そして言葉には気をつけろよ、アスタ?」
そうだった。この若者には丁寧語を禁止されているのである。
だがそれよりも、前半の言葉のほうが気になった。
「俺次第とは? まさか、ファの家でヤミルを引き取るべきだ、とか?」
「逆だ、逆。レイの集落はスンの集落よりもファの家に近い。お前たちの生命を狙った人間をそのような近場に住まわせていいのか、と他の家長どもがうるさかったのだ」
レイの集落がどこにあるのかは知らないが、女衆がアマ・ミン=ルティムに料理の手ほどきを受ける、という話であったのだから、きっとルティムの近所なのだろう。それならば、近場と言っても1時間以上の距離はあるはずだ。
それに――スンの本家が滅んだ今、ヤミルが再び俺たちに害をなそうとするとは思えない。
「そんなのは全然かまわないよ。女衆なら、そこまでの危険もないだろうし」
ヤミルは、少しハッとした様子でようやくその面を上げた。
黒っぽい瞳が、くいいるように俺の顔を見つめてくる。
「……なるほど、ガズラン=ルティムの言っていた通りだったな」と、ラウ=レイは金色がかった長い髪を乱暴にかきあげた。
「ならば、この毒婦めはレイ家で預かることにしよう。おい、これでもしもお前が不埒な真似に及んだら、その場で首を刎ねてやるからな? 女衆とて容赦をするような人間ではないぞ、俺は」
「ちょ、ちょっと……どういうことなんですか、ガズラン=ルティム?」
俺の言葉に、ガズラン=ルティムはずいぶんと申し訳なさそうな顔をした。
「すみません。アスタがレイ家で引き取ることを了承しなかった場合は、ザザかサウティで引き取る手はずになっていたのです。……家人としてではなく、虜囚として」
「虜囚?」
「はい。このヤミルはファの家から遠い北か南の集落で引き取るべきだ、という話になったのですが、ザザやサウティはどうしても応じようとはせず、それでも引き取らなくてはならないなら、手足を縛って虜囚のように扱うしかない、と言いだしたのです」
「そんな! それではドンダ=ルウの言葉と内容が変わってしまうではないですか?」
「それで様子を見て恭順の意志が感じられれば、少しずつ自由を与えていくと言っていました。……それならば、ルウやルティムで引き取ろうかと提案したのですが、元の家族と同じ集落にも住まわせるべきではない、という意見が多く――」
「それで、ルウやルティムに次ぐ力を持つレイが選ばれたわけだな」
中性的な面に猛々しい笑みを浮かべて、ラウ=レイが言葉をはさんでくる。
「俺はそれでまったくかまわなかったのだが、北や南の連中がうるさくてな。だったら、実際に害されそうになったアスタの言葉で道を定めよう、という話になったのだ。アスタならばきっと了承するだろうとガズラン=ルティムがここまでの道行きで語っていたが、まさにその通りになったわけだな」
「そんな、俺の言葉ひとつでひとりの人間の行く末を決めてしまうなんて……」
「いいではないか。お前だって、この毒婦の考えひとつで行く末をねじ曲げられそうになったのだから」
そう言って、ラウ=レイはヤミルのほうに鋭い眼光を差し向けた。
「おい、毒婦、最後にもう1度だけ確認させてもらおう。これからは森辺の掟に従って生きていくことを誓うか? ファやレイの家人はもちろん、すべての森辺の民を同胞とし、その中で真っ当に生きていくことが、お前にはできるのか?」
ヤミルはいったん目を伏せてから、もう1度俺のほうに目線を向けてきた。
まだその身体からは少なからず血臭が漂っていたので、俺は何とも落ち着かない。
「アスタ。……わたしはファの家を滅ぼそうと考えたのよ? 実際に動いたのはディガやドッドでも、メレメレの葉を与えたり、どう動くべきかを指示したのは、わたしだわ。あなたがディガやドッドを憎んでいるのなら、その憎しみはわたしにも向けるべきじゃない?」
「憎む……という気持ちではないですね。実際のあの場ではそういう気持ちになってしまいましたが、結果的には俺もアイ=ファも無事に済んだのですから、今後2度とあのような真似をしないと誓ってくれるなら――あなたを憎んだりはしません」
ヤミルの暗い瞳には、何とか激情を抑えつけようとしているかのようなゆらめきが感じられた。
その面は相変わらずの無表情であったが、かつての毒蛇じみた雰囲気は一切ない。ヤミルが毒蛇のように見えるのは、唇を吊り上げて笑うときだけのようだった。
「おい、考える時間はこれまでにも十分あっただろう。掟に従って生きる気にはなれない、という心持ちなら正直にそう言うがいい。俺の刀で、お前に安息を与えてやる」
いかにも気の短かそうな口調で、ラウ=レイがまくしたてる。
しかしヤミルは、俺の瞳を見つめたまま、言った。
「あなたたちの言葉に従うわ。……わたしなんかに救われる資格はないと思うけれど」
「ふん。どこまでも憎まれ口を忘れないやつだ」
ラウ=レイはヤミルのほっそりとした下顎をつかみ、その美しい顔を無理矢理自分のほうにねじ曲げさせた。
「それじゃあお前は今日からヤミル=レイだ。お前が罪を犯したら、家長の俺が首を叩き斬る。それを肝に銘じて、懸命に生きるがいい」
「レイの氏をもう与えてしまうのですか、ラウ=レイ?」
ガズラン=ルティムがびっくりしたようにそう言うと、ラウ=レイはヤミルの顔を乱暴に突き放してから、「ふん」と鼻を鳴らした。
「七面倒なことは嫌いなのだ。どうせ罪を犯せば同じように処断するのだから、氏を与えようが与えまいが変わりはないだろう。氏を持たぬ家人など、俺は落ち着かないから、好かん」
若年ゆえの、荒っぽさなのだろうか。
だけど、今のヤミルには、これぐらい強引に背中を押したり腕を引っ張ったりする人間こそが相応しいとも思える。
だから俺は、素直な気持ちで「ありがとうございます、ラウ=レイ」と感謝の言葉を述べておくことにした。
すると、至極すみやかに、額のど真ん中をどつかれた。
森辺の男衆の腕力である。俺はたぶん一瞬だけ意識を失い、気づくと後ろざまにぶっ倒れていた。
「丁寧な言葉を使ったら殴ると言っておいたろうが? 1日に2度もの非礼を許すような男でもないぞ、俺は」
「やめてください、ラウ=レイ。ファの家長に見られたらどうするのです。……大丈夫ですか、アスタ?」
ガズラン=ルティムの力強い腕に引き起こされる。
視界が、ぐわんぐわんと揺れていた。
「あいててて。大丈夫です、たぶん。……ちょっと! 殴るにしたって手加減ってのはないのかい? 頭蓋骨が割れたかと思ったじゃないか!」
「そうそう。そうやって普通に喋ればいいのだ」
と、ラウ=レイはそっぽを向きつつ、舌を出した。
ルド=ルウを少し大人っぽくした感じ――という評価は、改めよう。ルド=ルウ以下のお子様だ、こんなのは。
「あのさあ、だったら言わせてもらうけど、明らかに年長のガズラン=ルティムがこんなに礼儀正しく振る舞ってるのに、俺ばかりが苦労を背負わされるのはどうしてなんだ? 君は家長なんだから、俺だって少しぐらい丁寧な言葉を使わせてもらってもいいだろう?」
「ガズラン=ルティムは、相手が10歳の子どもでもこのような喋り方をするやつだからな。こいつは自分の好いた女衆にしか気安い口をきくことのできない、よくわからない男なのだ」
「やめてくださいよ。私にだって羞恥心の持ち合わせぐらいはあるのですよ、ラウ=レイ」
いつになく困り果てた様子で、ガズラン=ルティムが眉を寄せる。
すると――どこからともなく、「ぷっ」という声が聞こえた。
俺たち3人の目線を受け、ヤミルがすっと面を伏せる。
右手で口もとを隠しているので、どのような表情をしているのかはわからない。
「何だ、やっぱり神経の太い女だな――」と言いかけて、ラウ=レイは素早く後方を振り返った。
ほとんど同時に、ガズラン=ルティムも同じほうを見る。
5メートルばかり離れた場所に、森辺の民たちが固まって立ちはだかっていた。
2名の男衆と、鉄鍋を抱えた4名の女衆――男衆は、スドラの家長と、女衆を呼びに行ったフォウ家の家人だ。
その男衆たちが腰の刀の柄に指先をかけていることに気づき、俺は息を飲む。
「お前は、レイ家の家長だな。スン家の次は、レイ家がファ家の敵に回ったということか?」
スドラの家長が、陰気な声でそんな風に述べてきた。
俺にはさっぱり意味がわからなかったが、ラウ=レイは「ああ」と肩をすくめやる。
「俺がアスタを殴ったことか。勘違いをするな、うつけ者どもめ。あれはアスタが俺との約定を破ったから、然るべき制裁を与えただけだ。このようなことでルウの眷族とファの絆は揺るがん」
そしてラウ=レイは、いきなり俺の首に左腕をからみつけてきた。
「ご覧の通りで、アスタも自分の非を認めているのだから、俺のほうにも含むところはない。わかったら、その物騒な顔つきを引っ込めろ」
スドラの家長とフォウの家人は、探るような視線を俺のほうに向けなおす。
自分の非を認めた覚えなど皆無なのだが、ここは俺が引くしかないだろう。
「はい。ルウの眷族との絆は変わりないままです。何のご心配もいりませんよ。……それでは、調理の手ほどきを始めましょうか」
それでようやく男衆らも刀から手を離し、女衆たちも安堵の息をつくことができた。
俺の首を拘束したまま、ラウ=レイが「調理の手ほどきとは何の話だ、アスタ?」と問うてくる。
「スドラやフォウの女衆に、ポイタンの焼き方なんかを手ほどきするんだよ。良かったら君も習っていくかい、ラウ=レイ?」
どうにも腹が収まらなかったので、ちょいと挑発したつもりなのだが、ラウ=レイは「ポイタンの焼き方か!」と瞳を輝かせてしまった。
「それはいいな! ルティムの家に習いに行く手間がはぶける! おい、ヤミル=レイ、お前がこの場でその技術を学んでいけ! それでレイの女衆たちにそれを伝えるのだ!」
「……わたしが?」と、ヤミルは眉をひそめやる。
何だか本当に、わずかばかりにだが表情が動くようになってきたようだ。
「スン家では、かまど番は分家の仕事だったのよ。わたしなどは、10歳の子どもよりも役に立たないと思うけれど」
「だったらなおさら修練を積んでいけ。お前はもうスン家ではなくレイ家の人間なのだからな」
ラウ=レイはようやく俺の首から手を放し、今度は、どんっと胸を小突いてきた。
「そういうわけで、よろしく頼む。こいつが妙な真似をしたら俺がその場で叩き斬ってやるから、心配は無用だ」
「それは別にかまわないけどさ。ポイタンの持ち合わせがないと、今日の晩餐には間に合わないよ? 他の皆さんは手ほどきを受けながら晩餐用のポイタンを焼く予定なんだから」
「何!? それは困る!」
と、ラウ=レイは慌てた様子でスドラやフォウの人々を振り返った。
「おい! 申し訳ないが、家にポイタンの蓄えがあったら、この牙と角でそれを売ってくれ! 明日同じだけの数を返すのでもいい! いや、同じ数ではなく、いくらか上乗せして返そう!」
「……何個必要なのだ?」
「レイの家人は、19名だ!」
だったら、40個近くも必要になってしまうではないか。
スドラの家長は渋い面持ちで首を横に振り、フォウの家人は背後にいた女衆に耳打ちをした。
「……フォウとランの家からポイタンを出そう。宿場町まで買いに下りるのは手間なので、できればポイタンで返してもらいたい」
「そうか! では角と牙を置いていくので、明日ポイタンを持ってくるまで預かっておいてくれ! 恩に着るぞ、フォウにランよ!」
女衆のひとりが、来た道を駆け戻っていく。
ラウ=レイは満足そうに微笑んでおり、ガズラン=ルティムは――さすがに、うっすらと苦笑していた。
そして、ヤミルはまたうつむいて、長い髪でその表情を隠してしまっている。
「……何だかスン家の人間に対する処罰は甘かったんじゃないかって気がしてきちゃうわぁ……」
と、低くおしひそめられた声が、俺の背後から聞こえてきた。
俺は振り返り、目を丸くする。
「あ、そういえばまだ帰っていなかったのですね、ヴィナ=ルウ」
そうして俺は、二の腕の肉を嫌というほどつねりあげられることになり、ヤミルは――レイの氏を授かり、ヤミル=レイとして生きていくことになったのであった。