滅落の日④~星図~
2023.2/24 更新分 1/1
ガーデルとの短い語らいの後も、屋台は大変な賑わいであった。
俺はこの時点でまだ最初の鍋を売り切ったところであり、営業を開始してから半刻ていどしか経っていなかったのだ。時刻としては日没までに半刻ほどを残しており、往来にはまだ火壺の明かりも灯されていなかった。
「ひとまずガーデルは、ルウの血族に託してきた。今はジバ婆やダン=ルティムやガズラン=ルティムが相手をしてくれている」
営業を再開してからしばらくして、アイ=ファがそのように報告してくれた。
「やはりあやつは城下町に戻るつもりもなかったようなので、このまま我々と行動をともにすることに相成った。だからお前は心置きなく、仕事に力を尽くすがいい」
「うん、わかったよ。ありがとう、アイ=ファ」
ガーデルから思わぬ告白を聞かされて、俺はぞんぶんに心を乱してしまっている。それに、クルア=スンの常ならぬ振る舞いが、それに拍車をかけていた。彼女は星見の力を制御するために尽力しているはずであるのに、さきほどはためらいもなくその力を人前で発揮させてみせたのである。先刻の彼女は、本当にアリシュナあたりが乗り移ったかのようなたたずまいであった。
しかし、そのような話で頭を悩ませるのは、商売の後である。
そちらに気を取られて屋台の商売を二の次にしてしまったら、俺はとてつもない後悔を抱え込んでしまうはずだ。ガーデルと正しい関係を築くためにも、俺はまず自分の仕事をやりとげなければならなかった。
「よう、アスタ! 今日も大層な賑わいだな! まあ、『滅落の日』なんだから、当たり前だけどよ!」
「まったくなぁ。しんどいだろうけど、この後にはダレイムでお楽しみが待ってるから頑張ってな」
やがてやってきたベンやカーゴが、そんな言葉で俺を励ましてくれた。
そうして仕事に没頭していると、じょじょに心が安定を取り戻していく。そして最後にそれを補強してくれたのは、チル=リムとディアに他ならなかった。
「今日もすっかり遅くなってしまいました。こちらの鍋に、15人前をお願いします」
チル=リムは日中と変わらぬ屈託のない眼差しで、そのように告げてきた。
彼女が玉虫色のヴェールを外したならば、クルア=スンと同じ運命を見通せるのか――そんな思いが頭をよぎったが、それも一瞬のことであった。
「毎度ありがとう。こっちは2杯目の鍋が尽きそうだから、もう日没寸前のはずだよね。本当に、そっちの商売を始めるぎりぎりだ」
「はい。またニーヤが行方をくらましてしまっていたのです。ピノにおしりを蹴られたらしく、とても痛そうにしていました」
チル=リムの無邪気な声音が、俺の心をいっそう和ませてくれる。それをひそかに感謝しながら、俺は鉄鍋にカレーを注いだ。
「今日はダレイムに向かう前に、そちらの天幕に寄らせてもらうからね。またそのときに、挨拶できるかな?」
「あ、はい。今日は早めに演劇に切り替える予定ですので、またわたしが入り口に立つことになるかと思います」
「それじゃあ、また後でね。チルもお仕事、頑張って」
「はい。ありがとうございます」
中身の詰まった鉄鍋は重いので、帰り道の運搬はディアが受け持つ。そうしてふたりが引き下がり、数名ばかりのお客を相手にしたところで、2杯目の鍋が尽きた。
折しも往来では、火壺に明かりが焚かれている。ついに日没となったのだ。こちらの商売も、これで折り返しという目安であった。
鍋の温めをヤミル=レイに託し、俺はいつも通りに他の屋台を見回る。これは毎回の習慣であったが、今のところ深刻な問題が起きたことはなかった。
そうしてディンやルウのほうまで見て回ったら、最後は青空食堂だ。
奥のほうで、ジバ婆さんたちが町の人々と語らっている姿が見えた。護衛役であるダン=ルティム、ガズラン=ルティム、ラウ=レイ、ジィ=マァムの他に、ジザ=ルウやルド=ルウの姿もあり――そして、マントを羽織ったガーデルの大きな背中も見えた。
あれだけの顔ぶれがそろっていれば、何も心配はいらないだろう。
俺は胸の奥底に疼く不安の念をねじ伏せて、そのまま持ち場に戻ることにした。
「あら、今度はさっきより早かったわね。まだまだ時間にゆとりはあるはずよ」
新しい鍋のカレーを攪拌していたヤミル=レイに、俺は「そうですか」と笑顔を返してみせる。
「でしたら今度こそ、役目を代わりましょうか。ただ鍋をかき回すだけでも、疲れないことはないでしょう?」
「今のところ、気を失うほどの疲れは覚えていないわよ。……あなたも気苦労が絶えないわね、アスタ」
ヤミル=レイは、クールかつ色っぽい流し目で俺を見やってきた。
「まあこれも、あちらこちらで縁を広げてきた結果なのでしょうけれど。それだけさまざまな相手と縁を結んだら、こういう苦労を抱えることだってありえるわよね」
「ええ。すべてのご縁をいい方向に持っていけるように、力を尽くすばかりですね」
「ふん。冷やかし甲斐のない人間ね」
そんな風に言いながら、ヤミル=レイは皮肉っぽく微笑んだ。
きっと彼女も、俺のことを気にかけてくれていたのだろう。俺たちは屋台のすぐそばでガーデルと語らっていたので、ヤミル=レイにはすべて筒抜けであったはずなのだ。
(でも、すべては商売の後だ)
鍋が温まるのを待って、俺は商売を再開させた。
その後も、ご縁の深い人々が次から次へと姿を見せてくれる。ターラとふたりの兄たちに、デルスとワッズ、建築屋の別動隊に、ジャガルの行商人ムラトス――それに、《赤の牙》の団員を名乗る人間も多数やってきた。団長のドーンと幹部の数名は城下町で過ごしているが、それ以外の団員は宿場町に滞在しているのだ。彼らもまた、復活祭の期間限定の常連客であった。
そんな人々との交流が、俺の心を慰めてくれる。
そして、名も知れぬお客たちだって、それは同じことだ。彼らのもたらす笑顔や熱気が、俺の気持ちをすみやかに復活祭の賑わいへと引っ張り戻してくれた。
復活祭における商売も、いよいよこれでラストスパートであるのだ。
明後日には営業を再開する予定であるし、そちらでもまだまだ混雑することがわかっていたが――それでもやっぱり、復活祭の賑わいというのは今日までなのである。俺はこの日の思い出を、心の奥深い部分に刻みつけておきたかった。
(それで商売が終わったら、ガーデルともきちんと交流を深めよう。そうしたら……きっとガーデルだって、少しは気持ちが楽になるはずだ)
そんな思いをよぎらせながら、俺は仕事に集中した。
そうしてまた半刻ていどの時間が過ぎ去って、ついに最後の鍋である。そこで登場したのは、料理の残数を屋台に掲げる当番の人々であった。
「ついに最後のお役目ですね! 料理の残りが50になったらお声をかけてください!」
ランの末妹が熱気に頬を火照らせながら、元気な声を投げかけてくる。好奇心の旺盛な彼女は、この仕事にも立候補してくれたのだ。
「どうもお疲れ様。食堂のほうも、問題はなかったかな?」
「はい! なかなか座れなかったお客が長居をしているお客に文句をつけたりもしていましたけれど、ザザの狩人が無事に取りなしてくれました! 今のところ、衛兵を呼ぶような騒ぎは起きていません!」
これだけの賑わいであるから、そういった小競り合いはしょっちゅうであったのだ。それでも深刻な騒ぎにまで発展しないのは、そちらで働く女衆と護衛役の狩人あってのことであった。
そうして屋台の屋根に残数の看板が掲げられると、いっそう客足が勢いを増していく。往来のお客にしてみれば、これが森辺のギバ料理の食べ納めであるのだ。そんな思いもあまってか、『中天の日』とも比較にならない騒ぎであるように感じられた。
ランの末妹は『ギバ・カレー』と『ギバ骨ラーメン』と『キミュス骨ラーメン』の担当であるため、ひっきりなしに移動して残数の看板を付け替えていく。それを護衛するために付き添っているのは、ドッドである。宿場町の民に対して大きな罪悪感や気後れを抱いていたドッドも、今では堂々と人前で働けるようになっていた。
そして、このような光景もまた、この夜で見納めとなる。みんなで頑張って準備した看板の一式も、しばらく出番はないだろう。どんな日だって、1日として同じ日はないわけだが――やはり大晦日というのは、何もかもが感慨深かった。
そんな中、最後の半刻ほどが過ぎ去って――最初に料理が尽きたのは、俺とヤミル=レイが担当する『ギバ・カレー』の屋台であった。
看板の効果で、行列の最後に並んでいた東のお客に最後の一杯が受け渡される。単身で並んでいたその人物は指先を複雑な形で組み合わせて、妙に仰々しく一礼してから木皿を受け取った。
「こちら、香草の料理、1年の終わり、食すること、できて、光栄です。素晴らしい料理、作りあげてくれたこと、感謝しています」
「いえいえ。こちらこそ、最後まで並んでいただき、ありがとうございました。銀の月の2日から営業を開始しますので、よかったらまたお越しください」
「いえ。2日の朝、出立するので、屋台の開始、間に合いません。次、ジェノス、来訪する、半年後です。ゆえに、どうしても、こちらの料理、食しておきたかったのです」
カレーの木皿を掲げたまま、その人物はそのように言いつのった。
「……森辺の料理人アスタ、あなた、シュミラル=リリン、友人ですか?」
「え? シュミラル=リリンをご存じなのですか?」
「はい。『烈風の会』、勝負しましたので」
俺は思わず、息を呑むことになった。『烈風の会』に参加した東の民というのは、俺の記憶にある限りはただひとりであったのだ。しかも、シュミラル=リリンと対戦したというのなら、それは間違いなく敗者復活戦まで残っていたあの人物であるはずであった。
「シュミラル=リリン、素晴らしい騎手でした。そして、あなた、素晴らしい料理人です。森辺の民、才能あふれる人間、多いです。私、感服です」
「そ、そうですか。過分なお言葉、ありがとうございます」
「……あなた、料理、素晴らしいので、この賑わい、納得です」
と、その人物は切れ長の黒い目でまだ営業を続けている他の屋台を見回した。
「私、最初、目にしたとき、森辺の屋台、2台でした。それが、現在、8台です。また、料理の質、とてつもなく、向上しています」
「ああ、そのように昔から通ってくださっていたのですか。見覚えることもできておらず、申し訳ありません」
「いえ。ジェノス、訪れる、半年、もしくは、一年置きです。見覚える、難しい、思います」
その人物は、なかなか立ち去ろうとしない。火鉢の始末にいそしみながら、ヤミル=レイもうろんげにその姿を見やっていた。
「ですが、ギバ料理、鮮烈であったので、私、はっきり覚えています。私、最初、屋台、訪れたとき……叱られました」
「叱られた? 俺はお客さんを叱った覚えはないのですけれど……」
「あなた、ありません。森辺の民ならぬ、若い娘です。その娘、あちら、屋台、開いています。ギバ料理、美味です。……また、そちらの男性、ともにいた、記憶しています」
そのように語りながら、その人物は《キミュスの尻尾亭》の屋台へと目を向けた。
「あの屋台で働いている、若い男性のことですか? っていうことは……《西風亭》のユーミという娘さんかもしれませんね」
「名前、知りません。言動、荒っぽく、性根、真っ直ぐな娘です。その娘、私、叱られました。ジェノス、来訪、初めてであったため、宿場町の法、知らず、トトス、乗ったまま、屋台、立ち寄ってしまったのです」
俺の脳裏に、何か羽毛のようにはかないものがかすめていった。
「あなたがトトスに乗ったまま屋台にやってきて、それをユーミが叱りつけたということですか? そう言われてみると……確かにそんなこともあったように思います。屋台が2台だったということは、もう2年以上も前のことですよね」
「はい。その日から、屋台、2台、増やしたのだと、あなた、南の民、語らっていました。私、試食の料理、食べながら、盗み聞きです」
俺が屋台を2台に増やしたのは、宿場町で商売を始めてからほんの数日後のことである。であればそれは、まるまる2年半以上も昔の話であるはずであった。
「うわぁ、懐かしいですね。そんな頃に出会ったお方が『烈風の会』でシュミラル=リリンと勝負をしていたなんて、俺は想像もしていませんでした」
「はい。四大神、および運命神ミザ、お導きでしょう」
そう言って、その人物はまた一礼した。
「私、ジェノス、訪れるたび、屋台、増えて、料理の質、向上しました。こちらの屋台、立ち寄る、私、大きな喜びでした。ですから、あなた、感謝、捧げたい、思います」
「こちらこそ、毎度お越しいただいてありがとうございます。また半年後にお会いできるのを楽しみにしています」
そんな風に答えながら、俺は心からの笑顔を届けてみせた。
「それじゃあどうぞ、料理をお召し上がりください。あまり長話をしてしまうと、せっかくの料理が冷めてしまいますので」
「いえ。私、熱い料理、苦手です。ですから、食べ頃、待つために、語らせていただきました」
と、その人物は東の民らしい無表情のまま、目もとにだけ笑いの気配をたちのぼらせた。
「それでは、失礼します。あなた、よき風、吹くように、祈っています」
「ありがとうございます。そちらもよいお年をお迎えください」
その人物は目礼し、青空食堂のほうに立ち去っていった。
火鉢の始末を終えたヤミル=レイは身を起こしながら、「ふん」と鼻を鳴らす。
「最後の最後で、奇妙なお客と出くわしたものね。ずいぶん話が弾んだようじゃない」
「ええ。だってあのお人は、ヤミル=レイよりも昔から顔をあわせていたわけですからね。そう考えると、感慨深いじゃないですか」
「ふん。あなたの顔の広さというものを、つくづく思い知らされたわよ。あなたはこの2年半ほどで、いったいどれだけの相手と縁を紡いだのかしらね」
それは、俺にも謎である。先刻の人物のように名前も知らず、2年半もたってようやく再会の挨拶をしたような相手まで含めたら、数百人という規模になってしまいそうであった。
そう考えれば、ガーデルなどは名前も身分もわきまえているのだ。そして、たとえ長きの時間を過ごしたことはなくとも、俺の人生に大きく関わった相手であるはずであった。
「それじゃあ屋台を片付けて、食堂のほうを手伝いましょうか。もうそれほど手伝う仕事はないかもしれませんけどね」
俺は空になった鉄鍋を荷車に運んだのち、アイ=ファやヤミル=レイとともに青空食堂を目指した。
すると、青空食堂の手前にとめてあった荷車のそばに、いくつかの人影が固まっている。それはジバ婆さんの護衛役である4名とガーデルに他ならなかった。
「おお、アスタにアイ=ファにヤミル=レイ! そちらの仕事も、ようやく一段落か! こちらの客人は、俺たちがずっともてなしていたぞ!」
まずはダン=ルティムが、元気いっぱいに発言する。
そしてガズラン=ルティムが、その後を引き継いだ。
「最長老に休息が必要であったため、少し前からこちらに移動していたのです。ガーデルもいささか疲れたようであったので、ともに移っていただきました」
「そうでしたか。ガーデル、お怪我の具合は大丈夫ですか?」
「は、はい。み、みなさんにご迷惑ばかりおかけして、申し訳ありません」
ガーデルは、気弱げに目を伏せている。すると、彼よりもさらに大柄なジィ=マァムが、高い位置からじろりと見下ろした。
「まさかこのような日に、こやつと再会することになるとはな。しかも様子がまったく違っているので、レイの家長に言われるまでは誰であるのかも判然としなかったぞ」
「うむ! あの頃のこやつは、深手を負った獣そのものであったからな! このように柔弱な男衆であったとは、俺も驚きだ!」
ラウ=レイは、いつもの調子で陽気に笑っている。しかしやっぱり、ガーデルの心を和ませることはできないようであった。
「ガーデルも、ダレイムまで出向くことを了承してくれました。アスタもまだ仕事があるでしょうから、のちほどゆるりとお語らいください」
ガズラン=ルティムが穏やかな声音でそのように告げてくる。
すると、ガーデルが目を泳がせながら声をあげた。
「で、ですが、やはりご迷惑なのではないでしょうか? 俺などが参じても、みなさんをご不快にさせるばかりでしょうし……」
「しかしあなたは、アスタの生を見守りたいと願っているのであろう? であれば、この夜もぞんぶんに見守るべきではないか?」
アイ=ファが凛然たる口調で言いたてると、ガーデルはまた目を伏せてしまう。本当に、気の毒なぐらい繊細なお人であるのだ。
ただ、今のガーデルにおかしな気配は感じられない。さきほどアイ=ファに問い詰められたときは、どこか熱に浮かされているような雰囲気であり、それが俺の不安をかきたてたのだが――そんな気配は跡形もなく消え去って、今の彼は幼子のように頑是なく見えてしまった。
「それじゃあとりあえず、俺は仕事を片付けてきます。ガーデルも気を張らずに、身を休めてくださいね」
俺は最後までガーデルと目を合わせることもできないまま、その場を通りすぎることになった。
屋台は次々と閉店になっているが、食堂の賑わいはまだまだ健在だ。そちらで慌ただしく指揮を取っていたララ=ルウが、額の汗をぬぐいながら「やあ」と呼びかけてきた。
「こっちもようやく終わりが見えてきたよ。手は足りてるから、アスタはあのガーデルとかいうお人の相手をしてあげれば?」
「いや。ガーデルとはこの後ゆっくり語らえるはずだからね。俺も最後まで仕事を全うしようと思うよ」
「うん、そっか。最後の日に途中で仕事を取りやめるのは、気分が悪いもんね」
ララ=ルウは即時に理解を示し、にっと白い歯をこぼした。
ただし、皿洗いのスペースはもう満員であるし、食堂のほうも多数の女衆が行き交っている。俺は真っ先に商売を終えていたが、東のお客と語らっている間に料理を売り切った面々が、すでに手伝いに参じていたのだ。もはや実務のほうは手を出す隙もないぐらい潤っているようであった。
すると、アイ=ファが「む」と奇妙な声をあげる。
振り返ると、ユン=スドラとクルア=スンがこちらに近づいてくるところであった。『ギバの玉焼き』の屋台も、ついに商売を終えたのだ。
「あとは《キミュスの尻尾亭》とトゥール=ディンの屋台だけですね。そちらも間もなく、すべての料理を売り切るかと思います」
「そっか。ユン=スドラとクルア=スンも、お疲れ様。こっちは手が足りてるみたいだから、隙があったら手伝うことにしよう」
業務連絡は、そこまでだ。
俺とユン=スドラが口を閉ざすと、アイ=ファが厳しい面持ちでクルア=スンに呼びかけた。
「クルア=スンよ。お前にも、話を聞いておきたいのだが」
「はい。先刻はぶしつけな真似をしてしまい、申し訳ありませんでした。こちらに来る途中でも、ガーデルに謝罪をさせていただきました」
クルア=スンは恐縮しきった様子で、深々と頭を下げた。彼女もまたアリシュナめいた雰囲気は残されておらず、いつも通りのたたずまいである。
「私たちに謝罪をする必要はない。しかし、むやみに他者の星を読むのはつつしむべきであるとされていたはずだな」
「はい。わたしも禁を犯さぬように、ガーデルの了承をいただいてから語ったつもりですが……そんなのは、言い訳に過ぎないことでしょう」
いまだ若年たるクルア=スンは、悄然とうなだれてしまう。彼女はヤミル=レイの妖艶さとシーラ=ルウのひそやかさをあわせもつ不可思議な少女であるが、いまは後者の特性がぞんぶんに発揮されてしまっていた。
「俺からもひとついいかな? たしかクルア=スンは、ずいぶん昔にもガーデルのことを気にかけていたよね」
あれは、チル=リムたちがシムに出立してすぐの話であったから、まだ雨季のさなかであったはずだ。ガーデルはデヴィアスとともに屋台を訪れて、ムントを相手に手傷を負った俺のことをたいそう心配してくれていた。そして彼が青空食堂に引っ込んでいく姿を、クルア=スンはどこか自失した様子で見送っており――そして、何か予感めいたものを覚えたのだと語っていたのだった。
「……あの頃のわたしは、まだ予感めいたものを時おり感じるぐらいでした。そしてその予感めいたものも、必ずしも当たるわけではなかったので……取り立てて気に留めていなかったのです」
余人の耳をはばかって、クルア=スンは囁くような声でそのように答えた。
「その後、あの御方は飛蝗の騒ぎで古傷を痛めることになってしまったので……わたしはその場で、自分の予感めいたものが外れていなかったことを知ることになりました」
「それじゃあやっぱり、クルア=スンはあの頃から悪い予感を覚えていたんだね」
「はい。ですが、わたしの力が強まってしまったのは、飛蝗の騒ぎの際であったため……雨季のあの頃には、本当に漠然とした予感しかありませんでした。このままでは、あの御方が悪い運命を辿ってしまうのではないかと……そのように感じたていどであるのです」
すると、アイ=ファがいくぶん迷うような面持ちで口を開いた。
「私は星読みの術式というものを好いていないので、あまり口を出したくないのだが……クルア=スンは、あやつがアスタに関わることで悪い運命を辿ると予見していたのか?」
「いえ。力の強まった現在でも、アスタにまつわる運命を見通すことはかなわないのです。今のわたしに見えるのは……強き執着があの御方を破滅させるという相に過ぎません。あとはみなさんのお話から、執着の対象がアスタであると察したまでです」
そのように語りながら、クルア=スンはちょっと切なげに微笑んだ。
「もちろんわたしは、うかうかと他者の星を読んでしまわないように心がけているのですが……さきほどは心を制御する間もなく、あの御方の星が見えてしまいました。つまりそれだけ、あの御方の運命が大きく動いているということなのでしょう」
「それじゃあ、俺は……ガーデルに近づくべきじゃないのかなぁ?」
俺がそのように問いかけると、クルア=スンは同じ表情のまま銀灰色の瞳をまぶたに隠した。
「アスタ。わたしにそのように問いかけるのは、占星師を頼るのと同じことになってしまうのですが……それでかまわないのでしょうか?」
俺は少なからず迷ったが、最終的には「うん」と応じることになった。
「でも、その言葉だけを頼りにしたりはしない。クルア=スンがどう考えているのかを聞いた上で、自分で判断しようと思うよ」
「そうですか」と、クルア=スンはまぶたを開いた。
銀灰色の瞳が神秘的にきらめき、また少しだけ菩薩像に似た気配がたちのぼっている。しかし彼女は、まぎれもなく生身のクルア=スンであった。
「繰り返しますが、アスタにまつわる運命を見通すことはできません。ただ……距離は関係ありません。問題は、あの御方の心の持ちようであるのです。どれだけ深く関わろうとも、あの御方がアスタに対する執着さえ捨てることがかなうならば……破滅の相は、回避できるかと思われます」
そのように語りながら、クルア=スンはふっとアイ=ファのほうを見た。
「そしてもう一点、アイ=ファにまつわる星の動きが見えているのですが……それを語ることは許されますでしょうか?」
「かまわんぞ。私は星読みの結果など重んじてはいないからな」
アイ=ファが挑むような調子で応じると、クルア=スンはそれをなだめるように口もとをほころばせた。
「では、お伝えいたします。あの御方を破滅の相から救い得るのは、赤き猫の星……おそらく、アイ=ファであるのです。あの場にはアイ=ファとあの御方が居揃っていたために、あれほどまでに星図がくっきりと見通せたのだと思います」
「……それはまた、よくわからぬ託宣だな」
アイ=ファは力強い声音で、そのように応じた。
「とにかく何を言われようとも、我々はガーデルと正しき絆を結ぶ必要があろう。そのためには長き時間をともに過ごして、多くの言葉を交わすしかあるまい。それで異存はないな、アスタよ?」
「うん。俺もそのつもりだよ」
ここでクルア=スンに「距離を取るべきだ」と言われていたならば、俺は大きく煩悶していたかもしれない。しかしそれでも星読みの結果だけを頼りに、ガーデルと距離を取る気持ちにはなれなかったことだろう。
そして、重要なのは俺との距離ではなく、ガーデル自身の心持ちであるというのなら――もはや俺に、悩む理由はなかった。
「ありがとう、クルア=スン。町の人たちが占星師を頼る気持ちがわかったような気がするよ。もちろん今後は、むやみに頼るつもりはないけど……今は、クルア=スンに勇気をもらえたような気分だよ」
「……そのように言っていただけると、わたしも救われます」
クルア=スンは胸もとに手を置いて、また微笑した。
それはもう、俺が知る通りのクルア=スンの表情だ。開花する直前の大輪めいた、豪奢さとつつましさが奇妙に入り混じった、魅力的な姿である。
そうして俺たちは想定外のスペシャルゲストを迎えつつ、あらためて『滅落の日』の夜に挑むことに相成ったのだった。




