②青の月12日~守護人~
2014.12/13 更新分 1/1 2015.3/3 誤字を修正
2015.11/1 台詞の内容に誤りがあったので修正しました。
けっきょくその日は、中天を過ぎて2時間後には営業を終了することになった。
前回の休み明けの際も200食を完売することはできたが、あの日は営業時間をめいっぱい使った上での完売だったのだ。それよりも、ざっと1時間半は早く売り切れたことになる。やはり、今回は2日も休んでしまったために売れ行きもより激しくなった、ということなのだろうか。
まずは順調な再スタートである。
少し気になったのは、干し肉の売れ行きが芳しくない、ということぐらいか。
値段はカロンと同一で、味もほとんど同レベルであるはずだが。それゆえに、差別化ができていないのかもしれない。嗜好性を放棄した保存食品ではあるが、もう少し改良の余地はないものか、時間があれば研究したいところだ。
何はともあれ、屋台の商売は終了した。
この後は、いよいよカミュア=ヨシュとの面談だ。
「お疲れ様です、アスタ。カミュアももう奥で待っていますよ」
屋台を返してから《キミュスの尻尾亭》の扉をくぐると、いつものようにレイト少年が出迎えてくれた。
受付台のミラノ=マスに挨拶をしてから、俺はヴィナ=ルウとともに奥へと進む。ララ=ルウとシーラ=ルウには明日のための買い出しを頼んだので、ふたりきりの進軍だ。
「やあやあ、ご無沙汰ぶりだね、アスタ。元気そうで何よりだ」
いつぞやと同じように、カミュアは奥の食堂の6人掛けのテーブルで俺たちを待ち受けていた。
が、そこにはカミュア以外にも2人ばかりの人影があり、俺は少しばかり困惑してしまう。
こちらに背を向けているのでどのような人々であるかは不明だが、何にせよ、俺が携えてきた話は余人の前で明かせられるような内容ではないのだ。
「どうも。さきほどはお買い上げありがとうございました。……あの、こちらの方々はカミュアのご身内ですか?」
「うん、ちょっと仕事の打ち合わせをしていたんだよ。アスタがやってくるのはもう少し後だと思っていたからねえ」
と、カミュアはいつもの調子でにんまりと笑った。
確かにまあ、本来の終業時間にはまだ1時間以上も猶予があったので、カミュアのほうに非はないだろう。
それに――「仕事」の2文字が、今日の俺には聞き逃せなかった。
「あの、それはもしかして、3日後の仕事のお話だったのですか?」
「ああ、そうそう。森辺の集落を通過して東の街道に抜けるという大仕事さ。まんざらアスタに関係ない話でもないわけだし、いちおう紹介しておこうか」
カミュアの言葉を受けて、その2名がようやく俺たちのほうを振り返った。
それと同時に、俺は息を飲んでしまう。
その2名の内の片方が――何というか、息を飲まずにはいられないような風体をしていたのだ。
といっても、どのような顔をしているのかは、まったくわからない。
顔中に、かつてのダルム=ルウより念入りに包帯のような布切れが巻きつけられていたからである。
「手前側が、俺と同じく《守護人》を生業にしているダバッグのハーン。奥側が、このたびシムに向かう商団の団長であるザッシュマだ。こちらは森辺の民のアスタと、森辺の有力氏族であるルウ家のご息女ヴィナ=ルウだね」
包帯男は、ダバッグのハーンというほうだ。
聞き覚えはないが、ダバッグというのはきっと地名か何かなのだろう。
異様な人物である。
ただ包帯で人相を隠しているだけではない。その包帯の隙間から覗く目つきの鋭さと冷たさにこそ、俺は警戒心をかきたてられていた。
何というか――爬虫類のように冷たい眼差しなのだ。
かつてのヤミルも蛇のような目つきをしていたが、あれほどの毒々しさはない。ただ、ひたすら冷たく凍てついている。人間らしい情や温かみをまったく感じさせない、断首台の刃みたいに無慈悲に光る、色の淡い灰色の瞳だった。
身長は高そうだし、体格もがっしりとしており、その頑健そうな身体にカミュアと同じような皮の長マントを纏いつけ、東の民のようにフードも下ろしている。そのマントの合わせ目から覗くのはごくありふれた布の胴衣と腰あてだったが、これが只者であるはずはなかった。
「ほう? お前さんは、あのギバ料理の屋台の店主だな? 今まで遠目でしか見たことはなかったが、ずいぶんとまた若いのだな!」
と、声をあげたのはもう片方のザッシュマという人物である。
こちらも、十分に胡散臭い。
商団の責任者という紹介であったが、何というか、野盗の親分とでも言いたくなるような風貌の御仁だ。
ずいぶんと陽にやけた黄褐色の肌で、髪と髭は濃い褐色、瞳の色は明るい茶色。背丈は人並みで、こちらもいかにも頑丈そうな肉厚の体格をしている。
頭にはターバンのような砂色の布を巻きつけ、袖なしの胴衣に、筒型のズボン。首やら腕やらにじゃらじゃらと飾り物をつけており、まあ裕福そうな身なりではある。
「申し訳ないが、今日のところはこれぐらいでよろしいかな? これまでの打ち合わせ通りで、何も問題はないだろうし」
そんな風にカミュアが呼びかけると、ザッシュマなる人物は「そうだな」とうなずき、やおら立ち上がった。
「まあ、《北の旋風》たるカミュア=ヨシュと《双頭の牙》たるダバッグのハーンがそろっていれば、野盗もギバも恐るるに足らずだ! 面倒な話はこれでおしまいにして、出発の日まではぞんぶんに英気を養うことにしよう」
そのザッシュマにうながされる格好で、ハーンという包帯男もゆらりと立ち上がる。
その際に、丸太の椅子にたてかけていた2本の刀を取り上げたのだが、包帯男はそれを2本とも自分の腰につなぎとめた。
森辺の民が扱う大刀よりは小ぶりだが、それでも刀身だけで60センチはありそうな中型の刀である。
そうして、俺とヴィナ=ルウは正面からその男たちと向かい合うことになった。
包帯男ハーンは凍てついた眼差しで俺たちを見下ろし、悪党面のザッシュマは好奇心にきらめく目で俺たちを見比べる。
「……美しいな! 森辺の若い女衆には美しいのが多いが、これほど色気のある女衆を見たのは初めてだ!」
そうしてザッシュマは、ヴィナ=ルウのほうに顔を寄せて、声を潜めた。
「よかったら、明日の朝まで俺の宿に来ないか? お前ぐらいの器量だったら、白の銅貨を10枚まで出すぞ?」
「……森辺の女衆を銅貨で買おうというつもりぃ……?」
ヴィナ=ルウは、妖艶きわまりない流し目で男をねめつける。
ザッシュマは、悪びれた様子もなく、にいっと笑った。
「了承がもらえるなら、いくらでも買うさ。代価と引き換えなら、男衆に首を刎ねられることもないだろう?」
「お生憎さまぁ……銅貨で身を売る女衆なんて、森辺にはひとりとして存在しないのよぉ……?」
「そうか。まったくもって残念だ! ――それではな、《北の旋風》よ! また何かあったら連絡を頼む」
「はいはい。了解であります」
そうして、きわめて不穏なる男たちは《キミュスの尻尾亭》を出ていった。
カミュアはひとつ肩をすくめてから、正面の空いた席を指し示してくる。
「不快な思いをさせてしまって申し訳なかったねえ。見た目ほどあくどい御仁ではないんだけれども、どうも自分の欲求に忠実すぎるきらいがあってね。決して森辺の民に不埒な真似をするような胆力は持ち合わせていないから、心配せずに鼻で笑ってあげるといいよ」
「はあ」
何とも釈然としない心地のまま、俺はザッシュマが座っていたほうの席に腰を下ろした。
しかしヴィナ=ルウは腰を下ろそうとせず、俺の背後に足を進める。
「ごめんなさぁい……わたしはこういうものに座る習わしを持ち合わせていないから、ここで失礼するわぁ……」
「了解いたしました。ああ、ありがとうございます」
後半の言葉は、陶磁の杯を給仕に来たミラノ=マスに向けられたものだ。
前回と同様の、ゾゾ茶である。
これは赤銅貨1枚で5杯も飲めてしまうほど安価であるという話であったので、固辞するレイト少年に赤銅貨を1枚押しつけておいた。町の人間は赤銅貨を割った割銭という小銭を持ち歩いているらしいのだが、俺の手もとにそのようなものの持ち合わせはなかったので、致し方がない。
「さて。俺に話とは何なのだろう? アスタの側から会いに来てくれるだなんて、俺は心が弾んでしかたがないのだけれども」
割り板の卓に肘をつき、カミュアが楽しそうに身を乗りだしてくる。
そのすっとぼけた面長の顔を正面から見つめつつ、俺は述べさせていただいた。
「あまり心の弾まない話題で恐縮です。今日の俺は、ルウ家の家長ドンダ=ルウの言葉を伝える使者としてやってきたのですよ、カミュア=ヨシュ」
「へえ、それはまた興味深い」と、カミュアは垂れ気味の目を見開いた。
かまわずに、俺は言葉を重ねる。
「正確には、スン家に代わって森辺を治めることになった三族長の代弁者として、ですね。ルウの家長ドンダ=ルウ、サウティの家長ダリ=サウティ、ザザの家長グラフ=ザザからの使者として、ファの家のアスタの言葉を聞いていただけますか、カミュア=ヨシュ?」
「……それは何とも穏やかならぬ前口上だねえ」と、カミュア=ヨシュは愉快げに笑いながら、黄色いゾゾ茶を一口すすった。
「スン家はついに族長筋としての身分を剥奪されてしまったのかい? それは何とも、由々しき事態だ」
「あの、最初に確認させていただきたいんですが、カミュアは本当にそのことをご存知ではなかったのですか?」
「どうして俺が? 森辺の民ならぬ俺にそのようなことを知り得る手段はないじゃないか?」
「……だってあなたは、婚儀の祝宴を誰にも気づかれないまま盗み見ることができるようなお人じゃないですか。だったら2日前に行われた家長会議の顛末を盗み見ることも可能だったのかなと思ったんです」
「うーん、わかった。正直に言おう。家長会議というものが年に1度、青の月の10日に開催されるということは、俺も知っていた。だけど、みんなが美酒に酔いしれている宴の場であるならばともかく、そのように緊迫した場に踏み込んで最後まで身を隠していられる自信はなかったから、あえて近づこうとは思わなかったのさ。……俺はそこまで森辺の民を侮ってはいないんだよ、アスタ」
カミュアのとぼけた表情に変化はない。
「そうですか」と、俺はうなずいておくことにした。
「ならば、改めてお話させていただきます。スン家は森辺を治める資格なしとの裁定を下されて、族長筋としての身分を剥奪されました。スン家に代わって森辺を治めるのは、ルウ家とサウティ家とザザ家です。ザザ家が他の眷族に座を譲る可能性はありますが、現在のところはその三氏族が新たなる族長筋であるということを、まずはご理解ください」
「うん、ご理解したよ。前々から言っていた通り、俺もスン家の素行には果てしなく懐疑的な立場であったから、英断を下した森辺の民たちに喝采を送りたい気分だよ」
「それは恐縮です。……で、ジェノスの城主には新しい族長たちが直接話を通すべきなのでしょうが、その前に、3日後にせまっている例の一件については早急に手を打たなければならない、ということになったのですね」
「うんうん。俺たちはスン家の案内で森辺の集落を通過させていただく段取りになっていたからね。そちらの仕事は、どうなってしまうのかな?」
「はい。まず、今からでもその仕事を断ることはできないものか、それを確認させていただきたいのですが」
「それは困るね」と、カミュアは大仰に両腕を広げやった。
「これはふた月がかりで準備を進めた大仕事なんだ。すでにスン家には報酬を前渡ししていたわけだし、今さら計画を変えることは不可能だろうね」
「その報酬とは、いかほどで? 違約金を上乗せしてお返しすることはできるかもしれません」
「いやいや、そういう問題ではないんだよ! これはジェノスの領主マルスタインとさきほどのザッシュマ氏が手を取り合い練りあげた一大計画だったんだ。もしもこの計画が頓挫してしまったら、森辺の民は著しく領主の信頼を損なうことになってしまうかもしれないよ?」
「……と、言いますと?」
「ううん。話せば長くなることなんだけどねえ。……至極簡単にまとめるならば、これは西の王国セルヴァと東の王国シムの国交にも関わってくる話なんだよ」
何だか話が大きくなってきたな、と俺は内心で溜息をつくことになったが。それほどややこしい話ではなかった。
要するに、セルヴァとシムを行き来するには、両国の間にそびえたつモルガの山を大きく迂回する街道を通るしかすべがないので、森辺の集落を通過することさえかなえば、旅程を大きく減じることが可能である――というような話だった。
「さらに言うならば、モルガの南側には不毛な砂漠地帯が広がっており、北側の辺境区域には旅人を狙う野盗の集団がひしめいている。それはいずれも過酷な道のりで、西と東の国交は、いまだに生命がけであるのだよ」
「はあ……」
「今回の試みが成功すれば、それは新しい行路の確立にも繋がるかもしれない。以前にも話した通り、前回の試みは大失敗に終わった。総勢30名の大きな商団が森辺の集落を通過したのだけれども、集落から街道へと抜ける森の中でギバに襲われ、全員が生命を落とすといういたましい結果に終わってしまったのさ」
そんな話を聞いただろうか?
聞いたような気はするが、詳細は覚えていない。相当に昔の話だろう。
「でね、そのときは森辺の民の案内も不親切だったし、商団側の備えも足りていなかった。そのときの反省を活かし、今回は万全の態勢でのぞめるよう計画が練り倒されたんだ。この試みにはセルヴァの王都も注目しているし、今さらひっこみはつかない、というのが現状なのだよ」
「それでは、中止ではなく延期の方向で考えてもらうことはできませんか? 何せ今はさまざまな事後処理に追われて1番大変な時期なのですよ」
「うーん、それもきわめて難しいと言わざるを得ないだろうねえ。ギバというのは、森の恵みを食い荒らしつつ棲家を移動させる習性があるのだろう? その移動の周期も計算して、青の月を出発の時期に定めたんだ。これを逃すと、次の周期は1ヶ月以上も先になってしまうはずだよ」
「そうですか」と、俺は息をつく。
「それならば、しかたがありませんね。もとより族長らも、約定を違えるのは本意でないと申しておりました。ただ、大きな支障が生じないような話であるならば一考してほしかった、というぐらいの話だったのです」
「そうなのか。それなら良かったよ」
カミュアはにこやかに微笑みつつ、またゾゾ茶をすする。
「こちらとしては、案内役がスン家の人間であるというのはひとつの懸念事項であったぐらいなんだ。他の氏族の方に仕事を引き継いでもらえるのなら、むしろありがたいぐらいだねえ」
「はい、そのことについてなのですが、カミュアたちは集落の南端から街道に抜けていく予定だったのですか? スン家の人間がそのように話していたと、俺はドンダ=ルウから聞いているのですが」
「うん。北側だとけっきょく野盗の縄張りに出てしまうからね。南側なら、うまい感じに砂漠地帯を省略して街道にまで出られそうなんだよ。そのへんの道筋は、俺も独自であたりをつけておいた」
「そうでしたか。……こんなことを言ってしまうのは何ですが、やっぱりスン家は何の労力もはらわずに、ただ漫然と先導役を果たすつもりだったのかもしれませんね。森辺の南端に居をかまえているのはサウティの眷族で、北方に住むスン家などには何の勝手もわからないだろう、という話でした」
「ははあ。スン家は報酬を独占したいがために、そのサウティという氏族にも話を通してはいなかったのかな。この時期にスン家が没落してくれたというのは、つくづく俺たちにとって僥倖だったのかもしれないね」
そんなことを言いながら、カミュアは無精髭の目立つ下顎をなですさった。
「ちなみに、森辺の治安のほうに問題はないのかな? スン家というのは、罪を告発されても大人しく頭を下げるような輩でもないのだろう?」
「はい。そのあたりのことは問題ありません。新しい族長たちが責任をもって管理していますので」
本日の昼下がりから、本家の男衆たちも北の集落に移送されるのだ。
ズーロ=スンは、ザザ家に。
ザッツ=スンは、ジーン家に。
そして、ディガとドッドとテイの3名は、ドム家に。
病魔に犯され自分の足では立つこともかなわないという先代家長のザッツ=スンなどは移送する理由もないはずなのだが。スンの集落の分家の人々が、家長のズーロ=スンよりもむしろ先代家長にこそ畏怖の念を覚えているようである、ということが発覚し、戸板に乗せて、無理矢理移送されることになったのだ。
「死んだら死んだでいっこうにかまわん」と、ドンダ=ルウは述べていた。
ディガたち3名と異なり、ズーロ=スンとザッツ=スンの2名は、スンの名を抱いたまま、処断の日を待つ身であるのだ。
現在ただちに処断されないのは、余罪を追及するため――特に、町の人間に害をなしたかどうかを克明にするためであり、その結果がどうあれ、彼らが許されることはない。「森の恵みを荒らした」という罪は彼らの生命で贖わせるということが、すでに決定してしまっているのだから。
それを思うとさすがに俺は胸が重苦しくなったが、カミュアは「そうかそうか」と、のんびり笑っていた。
「では、俺はそのサウティという氏族の人々と改めて打ち合わせをする必要があるのだろうね。できることなら、それは明日にでも果たしておきたいところだけれども」
「ええ。希望の時間と場所を指定してくれれば、それは俺から伝えておきます」
「ふむ。それなら、明日の中天にアスタの屋台の前で、というのはどうだろう? そうすればアスタが俺の身の証をたててくれるから、サウティの人々も安心なんじゃないかな? その後はこの《キミュスの尻尾亭》にでも移動して話を詰めることにするよ」
どうやら話はまとまったようだった。
俺も少しだけ力をぬいて、ゾゾ茶をすすらせていただく。
「あ、ヴィナ=ルウもいかがですか? 匂いは強いけど、なかなか美味しいですよ?」
ヴィナ=ルウは無言のまま、ゆるゆると首を振る。
やっぱりヴィナ=ルウは、けっこうこのカミュア=ヨシュという男に警戒心を抱いているらしい。
「ところで、アスタ、ジェノスの領主マルスタインにはいつその話を通すのかな? 俺の仕事を重く見てくれたのはとてもありがたいけれども、本来であればそちらに話を通すのが先だろう?」
「ああ、はい、それは族長たち次第ですけど、たぶん明日の朝一番にでも城のほうに出向くんじゃないですかね」
「そうか。……もちろん、スン家がどのような作法に則ってジェノス城とやりとりしていたかは、もう把握しているのだろうね? 間違っても正門などには向かわないでくれたまえよ?」
これは小耳にはさんだだけだが、スン家といえども城下町への出入りが許されていたわけではないらしい。裏門の衛兵に用向きを伝えて、石塀の内側にそれを取り次いでもらうのだそうだ。
「だからけっきょく、スン家の連中も領主とは顔を合わせたこともないんだってよ。まあ、石の都の連中らしいやり口だよなー」と、昨日の晩餐でルド=ルウはそのように言っていた。
「それと、これは老婆心ながらに忠告させてもらいたいのだけれども。領主の命で森辺との交渉役を担っているのは、サイクレウスという人物だ。彼は狩人を敬う気持ちなど欠片も持ち合わせてはいないので、くれぐれも短慮を起こさないようにね?」
「……わかりました。伝えておきます」
生粋の狩人たるドンダ=ルウやグラフ=ザザたちにとっては、スン家を相手取るよりも過酷な試練になるのかもしれない。
事実上、ジェノスの領主は森辺の民にとっての君主になるのだから。その代理人たるサイクレウスという人物にも、基本的に逆らうことは許されないのだ。
「それじゃあ、今日のところはこんなものかな? スン家がどのように悪逆な真似をはたらいて没落したのかは大いに気になるところだけれども、俺のような市井の人間にそのようなことを聞きほじる資格はないからねえ。それはおいおい領主様からうかがうことにしよう」
「……市井の人間はなかなか領主とお近づきになれるものではないと思いますけどね」
「たまたまだよ、たまたま。これも奇異なる人の縁ってやつさ。……まあ確かに、ジェノス侯マルスタインと森辺の民の両方に直接の縁がある人間なんて、この世に俺とサイクレウスのふたりぐらいしか存在しないのかもしれないけどね」
そう言って、カミュアはチェシャ猫のように笑う。
それは何となく、サイクレウスという人物と話がこじれてしまったら自分を頼ってくれていいんだよ、と暗にほのめかされているような口ぶりであり笑い方であった。
「……カミュア。ひとつだけいいですか?」
「うん、何だい?」
「使者としての俺の仕事は終わりました。ここからは、ファの家のアスタ個人としての言葉です。まだ友人と言えるほどの縁は結べていない俺たちですが、ひとつだけ確認しておきたいことがあるのです」
「俺の側はアスタを立派な友人と思っているのだけれどもねえ。……何だい?」
「あなたは、2日前の夜、アイ=ファに力を貸してくれましたか?」
カミュアの目が、また不思議そうに丸くなった。
「2日前というと、それは家長会議の夜のことだね? さっきも言った通り、俺はその日、森辺の集落にはいっさい近づいていないよ」
「そうなのですか? 確かに家長が勢ぞろいした会議の様子を盗み見ることは不可能だったかもしれませんが、夜闇にまぎれて潜むことなら可能なのかなと思ったのですが」
実際に、あの夜はルド=ルウやシン=ルウばかりでなく、ツヴァイ=スンまでもがそうして俺たちの様子をうかがっていたのだから、この神出鬼没なカミュア=ヨシュなら、決して難しい話ではないだろう。
しかし、カミュアは同じ表情のまま首を横に振った。
「前々から言っている通り、俺は森辺の民と友好的な関係を構築したいんだ。かのドンダ=ルウなる御仁にも余計な真似をしたら首を刎ねると忠言されていたわけだし、アスタたちにも、今のところ俺の力は必要ないと言われていた。この状況で家長会議などという場に足を踏み入れるのは何の益ももたらさないだろうと思えたから、俺はあふれかえる好奇心を抑えつけて、この宿で寝ていたよ」
「そうですか。……すみません。同じようなことを何度も聞いてしまって」
「ふむ。確かに天下の大嘘つきと思われているように感じられたのは悲しかったけれども。いったいどういうことなのかな? アイ=ファが何か危ない目にでもあったのかい?」
「はい。だからそれを救ってくれたのがカミュアであったのなら、それはきちんと御礼を言っておきたかったんです。俺としても、その可能性は低いのかなとは思っていたんですが」
それではやっぱり、アイ=ファに気つけの果実酒を飲ませてくれたのはテイ=スンであったのだろうか。
娘を家長ズーロ=スンの嫁に出し、そのあげく、本家の人間たちに小間使いのように扱われていた、あの気の毒な人物が。
「なるほど」
と、カミュアが低くつぶやく。
見てみると、その紫色の目が少し細められて、不思議な透き通った光を浮かべ始めていた。
「残念ながら、アイ=ファの恩人は俺ではないよ。どこの誰かはわからないが、御礼の言葉はきちんとその当人に伝えてあげるといい」
「……はい。わかりました」
どこかジバ=ルウを思わせるその眼差しは、とても俺を落ち着かない心地にさせてくれるので、ここは早々に退散しておくことにした。
「それでは失礼します。明日の中天に、また」
「うん。森辺の民の新しい門出を祝って、今夜はひっそりと祝杯をあげさせていただくよ。アイ=ファにもよろしく伝えておいてくれたまえ」