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異世界料理道  作者: EDA
第七十六章 太陽神の復活祭(下)
1310/1695

中天の日①~彼岸の住人たち~

2023.1/31 更新分 1/1

 紫の月の26日――復活祭の『中天の日』である。

 今日も今日とて、俺たちは朝から商売の下ごしらえに励んでいた。基本的なスケジュールは、『暁の日』と同様である。異なるのは、それよりもさらに大量の料理を準備するという一点のみであった。


 おそらく復活祭の期間内でもっとも多忙であるのは、この『中天の日』であろう。何せこういう祝日は当日の夜と翌日の昼の下ごしらえを完了させなければならないし、祭の初日である『暁の日』よりど真ん中である『中天の日』のほうが客足が増えるのが必然であるのだ。それで最終日の『滅落の日』は翌日が休業日であるため、これほどの苦労は生じないわけであった。


 しかしそれでも森辺のかまど番たちは、粛々と作業を進めてくれている。どれほど多忙であろうとも、3交代制のシフトを導入してからはひとり頭の労力も減じているのだ。もっとも過酷であるのはふたつのシフトと屋台の当番に志願したユン=スドラであろうが、それでも実働時間のトータルはおよそ八刻であったのだった。


「誰より大変なのは、アスタでしょう? 何せ、これだけの仕事の段取りを組む役を担っているのですからね。料理に必要な食材をそろえるというだけで、普通のかまど番にはとうてい務まらないかと思われます」


 まず朝一番のシフトで元気に働いていたユン=スドラは、笑顔でそのように言いたてた。


「まあ、アスタがすごいということは最初からわかりきっているのですけれど……わたしとしては、トゥール=ディンやルウの方々もそれらの役を担っているということに感じ入ってしまいます」


「うん。ルウ家では色んな人たちが手を携えてるけど、トゥール=ディンはほとんどひとりで取り仕切ってるんだろうからね。たとえ1台の屋台でも、それはすごいことだと思うよ。俺がまだ12歳だったら、こんな仕事はまったく務まらなかったさ」


 そんな風に応じてから、俺はユン=スドラに笑顔を返した。


「ただ、ユン=スドラだったら、きっとそんな仕事もやりとげられるだろうと思うけど……こういう話をすると、ユン=スドラは嫌がるからなぁ」


「はい。わたしはアスタのもとで学びたく思っていますので、自分で屋台を開こうなどとは思いません」


 ユン=スドラは朗らかに応じつつ、にわかに真剣な眼差しとなった。


「ただ……アスタの代理という形であれば、わたしは死力を尽くしてその役目を果たしたく思います。もしも今後そのような機会が訪れた際には、どうぞ遠慮なくお申しつけください」


「うん。俺がレイナ=ルウみたいに城下町での仕事を依頼されてたら、そういう事態になってただろうね。そういうときは、もちろん真っ先に相談させてもらうよ」


「ありがとうございます」と、ユン=スドラは真剣な眼差しをしたまま、明るく力強く微笑んだ。

 ともあれ、本年の復活祭はすでに折り返し地点である。まさか今から俺に新たな大仕事を依頼しようなどという人間は現れないことだろう。それでもきっと来年になれば、またあれこれユン=スドラを頼ることになるのだろうと思われた。


 しかし、来年の話で悩むのは来年のことだ。

 今は全力で、目の前の復活祭に立ち向かわなければならなかった。


 そうして上りの五の刻になったならば、交代の時間である。

 混乱を避けるために、シフトの内容は『暁の日』と共通にした。ただ、かまど番の人数が増員されるのみだ。次の時間帯をお願いしたのは、ベイムとラヴィッツの血族であった。


「どうも、お疲れ様でございますねぇ。本日は、よろしくお願いいたします」


 そんな挨拶をしてきたのは、ラヴィッツ本家の家長の伴侶、お地蔵様のような風貌をしたリリ=ラヴィッツだ。『暁の日』には不参加であった彼女も、今回の人員強化にともなって選抜されたようであった。


「お疲れ様です、リリ=ラヴィッツ。家の仕事に支障は出ませんでしたか?」


「そこで支障が出るようでしたら、家長も手伝いを差し控えるように申し渡していたでしょう。たとえ銅貨をいただける仕事でも、家の仕事を二の次にはできませんからねぇ」


 とはいえ、彼女は本来、家で血族の女衆を取り仕切る立場であったのだ。まあ、バードゥ=フォウの伴侶なども、下ごしらえの仕事には参加してくれていたが――屋台の当番まで引き受ける本家の家長の伴侶というのは、後にも先にもこのリリ=ラヴィッツただひとりであるはずであった。


(まあそれは、ファの家の行いを見定めるための処置だったわけだけど……家長会議で結論が出た後も、リリ=ラヴィッツは屋台の当番を続けてくれたもんな)


 ラヴィッツからは他にも若い女衆を屋台で借りているため、リリ=ラヴィッツと順番に参加してもらっている。が、今のところ同じ氏族から2名の人員を出しているのは、ラヴィッツのみであるのだ。つまりリリ=ラヴィッツは、デイ=ラヴィッツおよび自らの意思で屋台の当番を継続しているのだろうと思われた。


(リリ=ラヴィッツは、好奇心が旺盛だもんな。それが長兄に受け継がれてるわけだ)


 そんな思いを新たにしながら、俺は引き継ぎの作業を済ませて、かまど小屋を出た。

 本日も宿場町の様子を検分しに出向くため、アイ=ファに声をかけるべく母屋へと向かう。するとそちらには、ラヴィッツの長兄が待ち受けていた。


「ああ、どうも。そちらもいらっしゃっていたのですね」


「うむ。この時間から働くかまど番たちをこちらに送りがてら、宿場町に向かうつもりだったのでな」


 そのように語るラヴィッツの長兄は、好々爺のごとき笑顔であった。落ち武者のごとき風貌をした彼は、時おりこういった表情を見せるのだが――その理由は、明白であった。彼は土間で乳を吸っている子犬たちの姿を覗き込んでいたのだ。


「ファの家の子犬たちも、健やかに育っているようだな。しかし愛くるしさでは、うちの子犬たちも負けておらんぞ」


 彼は黒猫のサチと相対するときも、こういう笑顔を垣間見せるのである。皮肉屋で悪党めいた風貌をしているが、森辺でも類を見ないほど動物好きの男衆であったのだった。


「今回懐妊した6頭は、すべて無事にお産を果たしたそうですね。悲しい事態に至らず、何よりでした」


「うむ。お産というのは人間であれ犬であれ、命がけなのであろうからな。その試練をくぐりぬけた母や子たちは、心を尽くしてねぎらうべきであろうよ」


 すると、サリス・ラン=フォウとアイム=フォウの母子とともにくつろいでいたアイ=ファが苦笑まじりの声をあげた。


「アスタも、出発するのだな。今日も油断なく、決して狩人のそばから離れるのではないぞ」


「うん、了解。サリス・ラン=フォウ、アイ=ファをお願いします」


「……どうして私が自分の家で、サリス・ラン=フォウに面倒を見られなければならんのだ?」


 アイ=ファはいくぶん頬を赤くしながら、俺に投げつけるものを探すように視線を巡らせた。それに適した存在が転がっていなかったのは、幸いな話である。


「ふむ。ファの家長は、今日も家に居残るのだな。それほどに、子犬たちを案じているのか?」


 ラヴィッツの長兄がまだとろけた笑顔でそのように呼びかけると、アイ=ファは苦笑をこらえながら「うむ」と応じた。


「もはや子犬たちに心配はいらなそうだが、今日までは居残ることにした。トトスの駆け比べと『滅落の日』には、昼から出向く所存だ」


「そうか。まあ、子犬を眺めていれば退屈するいとまもなかろうからな」


 そんな言葉を最後に、ラヴィッツの長兄は玄関を出た。

 俺もアイ=ファたちにあらためて挨拶をしてから、それに続く。すると、ラヴィッツの長兄は「ふう」とひと息ついたのち、すくいあげるように俺の顔を見上げてきた。


「思いの外、ファの家長も子煩悩であったようだな。これが自ら腹を痛めて生した子であったなら、さらにあらぬ姿を見せてくれそうだ」


 子犬たちが視界から消え去って、ようやく彼らしさが蘇ったようである。その笑顔も、何かたくらんでいるような表情に変じていた。しかしまあ、俺にとってはこちらのほうが見慣れた姿だ。


「誰だって、自分の子は可愛いでしょうからね。俺なんかは、ルウやリリンの赤ん坊たちも可愛くてたまらないですよ」


 そんな言葉でラヴィッツの長兄の皮肉をやりすごし、俺は荷車のそばに待機している面々と合流することにした。本日も、数多くのメンバーが宿場町に下りる予定であったのだ。

 そこに折りよく、ディンの荷車がやってくる。今回も、ザザの血族に護衛役をお願いしていたのだ。彼らの本来の仕事は夜からであったので、この時間は厚意にすがってのことであった。


「そちらも準備はできているようだな。さしあたって、2名の狩人を預ければいいのだな?」


 御者台から、ゲオル=ザザが雄々しい笑顔を向けてくる。『暁の日』の翌日から、彼が護衛役の取り仕切りを担っているのだ。今はトゥール=ディンとともに宿場町の賑わいを楽しむために参じたのだろう。


「はい、わざわざすみません。こちらも近在の氏族にお願いすることはできたんですが――」


「どうせこちらも宿場町に向かう手はずだったのだから、礼には及ばない。せっかくならば、見慣れぬ相手と縁を深めるがいい」


 そうして荷台から降りてきたのは、ダナの家長とジーンの長兄であった。これはまた、ずいぶんな手練れを貸し出してくれたものである。


「俺たちは、アスタとともにあればいいのだな? では、早々に出発するか」


 ギルルの手綱はジーンの長兄がつかみ取り、ダナの家長は荷台に乗り込んだ。こちらはユン=スドラとレイ=マトゥアとランの女衆が乗り込み、ディンの荷車にはガズやマトゥア分家の女衆をお願いする。ラヴィッツの長兄はここまで乗ってきた荷車に、フォウの男女を乗せていた。


「どうもお疲れ様です。みなさんは、今日までが護衛役の担当なのですか?」


 ダナの家長もジーンの長兄も、『暁の日』の前日にゲオル=ザザとともにやってきた後続隊のメンバーであった。ディック=ドムを筆頭とする先発隊と交代して、昨日まで護衛役を担ってくれていたのである。


「うむ。俺たちは、明日の朝に戻る手はずになっている。あとは、トトスの駆け比べと『滅落の日』に出向くつもりだぞ」


「そうですか。ゲオル=ザザは、最後まで居残るという話でしたね」


「ゲオル=ザザは、族長代理の立場だからな。まあ、ディンの家に滞在できれば、ゲオル=ザザも不満はなかろうよ」


 ダナの家長はまだ二十代半ばの若年であるが、俺が拝見した収穫祭において3つの力比べで勇士となった屈強の狩人だ。ジーンの長兄は家長たる父親にそっくりで横幅のある体格をしており、こちらも並々ならぬ迫力の持ち主であった。


 しかしレイ=マトゥアは『暁の日』でもこういったシチュエーションで、ドム家の面々を相手取っていたのだ。そんな彼女は、本日も笑顔でダナの家長に語りかけた。


「おふたりには、以前にもお世話になった覚えがあります。もうずいぶん昔の話ですけれど……あれは、ゲルドの方々のお招きで城下町に出向いた日であったでしょうか?」


「うむ? ずいぶん古い話を持ち出すものだな。確かにあの際も俺たちは休息の期間であったため、護衛役を任されていたぞ」


 そんな風に応じてから、ダナの家長はうろんげに眉をひそめた。


「しかしあれは、雨季になる前の話であったはずだ。どうしてそのように古い話を覚えているのだ?」


「でも、あなたも覚えておられたのでしょう?」


「俺たちは初めて城下町の宮殿に足を踏み入れたのだから、忘れるわけがない。しかしそちらは、城下町など行き飽きているぐらいであろう?」


「あの頃は、まだ行き飽きるほどではなかったように思います。それに、ダナやハヴィラの方々とは初めてご縁を持つことになったので、とても印象に残されていました」


 そう言って、レイ=マトゥアは無邪気に微笑んだ。


「わたしはディンやリッドの方々と親しくさせていただいているので、その血族たるみなさんとご縁を深められたら、嬉しく思います。……族長筋の方々にそのような口をきくのは、不遜であったでしょうか?」


「それを不遜と言い出したら、族長筋の人間は血族としか縁を深めることができなくなるだろう。そもそもダナは眷族に過ぎんし、何も肩肘を張る必要はなかろうよ」


 ダナの家長もまた、勇ましい顔で笑った。彼はラウ=レイやラッツの家長から2割ほど荒っぽさを削ったような人物であり、熱情的かつ能動的な気性であるのだ。そういえば、アイ=ファが闘技の力比べで素肌を隠すようになったのも、この人物の進言がきっかけであったのだった。


 そうして常ならぬ相手との交流を楽しみながら、俺たちは宿場町を目指す。

 宿場町の往来は、言うまでもなく混雑していた。すでに城下町からふるまいの果実酒が届けられた後であるので、この時間帯から大層な騒ぎである。それに本日に限っては、貴族のパレードというものもお披露目されたはずであった。


『暁の日』にも同じ賑わいを目にしているが、もちろんそう簡単に見飽きるような騒ぎではない。俺たちは満身で復活祭の賑わいを堪能しながら、《キミュスの尻尾亭》にトトスと荷車を預けて、露店区域を目指すことにした。


 露店区域ではキミュスの丸焼きの準備が進められており、その最果てでは森辺の同胞がギバの丸焼きの準備に取り組んでいる。ただし今回、そちらの規模は倍にふくれあがっていた。去年の復活祭と同様に、屋台の数を7台から14台に増設するように依頼されたのである。ジェノス城の人々も『暁の日』の混雑っぷりを見届けて、本年もこういった措置が必要であると判じたようであった。


 それにともない、『暁の日』ではこちらの仕事を免除されていたザザおよびダイの血族も参じている。あとは取り仕切りたるサウティの血族が3台、眷族の多いラッツとラヴィッツが1台ずつ屋台を増設させることで、新規の7台の人員は埋められていた。それらの屋台と丸焼きを仕上げる架台は、いずれもジェノス城が準備したものとなる。


 屋台には2名ずつの女衆が配置されているため、それだけで28名という大所帯だ。これだけの人員が宿場町に駆り出されつつ、森辺では別なるメンバーが膨大な下ごしらえを果たしてくれているのだから、本当に立派なものであった。


「やっぱり14台もの屋台でギバの丸焼きが仕上げられるというのは、すごい光景ですね! 見ているだけで、胸が高鳴ってきてしまいました!」


 レイ=マトゥアは可愛らしく頬を染めながら、そんな風に言っていた。もちろん俺も、異存はない。屋台が拡張された分、それを期待して集まった人々の数も増大したようで、その場には大変な熱気が渦巻いていたのだった。


「ああ、アスタ。どうもおひさしぶりでございます」


 屋台の裏側に回り込むと、すぐさまそのような声をかけられてくる。声の主は、サウティの眷族たるフェイの年配の女衆であった。サウティはトータルで5台もの屋台を受け持つことになったため、すべての眷族が駆り出されたようである。

 俺にとっては旧知の仲たるサウティ分家の末妹、ダダの長姉、ドーンの末妹なども居揃っている。そちらはフォウに嫁いだヴェラの家長の妹と、再会の喜びにわきたっていた。


 それらのさまを見届けて、ひと通りの相手にご挨拶をしてから、俺はかねてより思案していた行いに及ぶことにした。この時間を利用して、《ギャムレイの一座》の面々に挨拶をしておきたかったのだ。


「しかしあやつらとは、毎日こちらで顔をあわせているのであろう? それでどうして、今さら挨拶が必要なのだ?」


「普段はおたがいに仕事が忙しくて、ゆっくり語らう時間も取れなかったのですよ。《ギャムレイの一座》も仕事を休むのは、こういう祝日の日中だけですからね」


 それに彼らは毎日のように屋台の料理を買いつけてくれたが、俺の担当する屋台にやってくるのはいつもチル=リムとディアのペアであったのだ。それはもちろんチル=リムの心情を慮ってのことであろうし、俺のほうも心からありがたく思っていたのだが――しかしその分、他の座員と親交を深める機会が失われていたのだった。


(とはいえ、普通に会話してくれるのは、ピノとロロとシャントゥぐらいなんだけどな)


 そうして俺が《ギャムレイの一座》のもとに赴きたいと告げると、それなりの人数が同行を願い出てきた。ユン=スドラとレイ=マトゥア、リミ=ルウとターラの4名である。すると、ジバ婆さんの護衛役を務めていたルド=ルウが不満げな声をあげた。


「ちびどももそっちに行くのかよ? だったらこっちも男衆を出すべきなんじゃねーのか?」


「であれば、私が――いえ、私が最長老の警護を担いますので、ルド=ルウが同行してはいかがでしょう?」


 たまたまその場に居合わせたガズラン=ルティムがそのように申し出ると、ルド=ルウはたちまち瞳を輝かせた。


「いいのかー? でも、ジザ兄が許しをくれるかどうかだよなー」


「かまわんぞ。狩人としての力量は、お前よりもガズラン=ルティムのほうが上回っていようからな」


「なんだよー! ガズラン=ルティムとは修練で何度もやりあってるけど、いっつも五分の勝負のはずだぜー!」


 ルド=ルウはぷりぷりと怒っていたが、それでもこちらに同行できることを喜んでいる様子であった。

 あとは行き道から引き続き、ダナの家長とジーンの長兄が付き添ってくれるとのことである。彼らは他に頼れる血族のないファの家の願いで、護衛の役を果たしてくれているのだった。


「この3人なら、危ねーことはねーだろ。《ギャムレイの一座》が悪さを仕掛けてくるわけじゃねーんだからな」


「ふむ。俺たちはあやつらとまったく縁を持っていないのだが、ルウでは祝宴などに招いているという話だったな」


「あー。年が明けたら、また招くつもりなんだけどなー。ついでに、そのことも伝えておくかー」


 ということで、俺たちは列をなして《ギャムレイの一座》の天幕に向かうことになった。

《ギャムレイの一座》も祝日の日中は商売を禁じられているため、巨大な天幕はひっそりと静まりかえっている。こちらが天幕の入り口から呼びかけると、姿を現したのは軽業師の童女ピノであった。


「おやおや、みなさんおそろいでェ。無聊をかこった旅芸人どもに、なんぞご用事かァい?」


 朱色の羽織めいた装束を纏ったピノは、血のように赤い唇でにんまりと笑う。《ギャムレイの一座》ではもっとも親しくさせていただいている相手であったが、なんべん見てもなかなか見慣れることのできない姿であった。


「ちょうどこっちも、新入りの娘っ子を送りつける頃合いを見計らってたんだけどねェ。そいつが待ちきれなかったってェわけかァい?」


「またチルとご一緒できるなら、喜んで。でもその前に、他のみなさんにもご挨拶をさせていただけませんか?」


「他のみなさんかァい? はてさて、そんな挨拶の必要な人間が、こっちのぼんくらどもの中にいたかねェ」


 人を食ったことを言いながら、ピノは愉快げに咽喉で笑う。初めて間近でピノと相対したらしいダナの家長やジーンの長兄は、うろんげに眉をひそめていた。


「で、そちらはどのぼんくらをご所望なのさァ?」


「ご迷惑でなければ、座員のみなさんにご挨拶をしたいのですが。ギャムレイなんかは、やっぱりまだおやすみ中ですか?」


「ぼんくら座長とゼッタは、仲良く夢の中だねェ。あとはぼんくら吟遊詩人が城下町に出向いてるぐらいで、残りのぼんくらどもは居揃ってるけど……その全員に挨拶をしたいってェのかァい? そいつはまったく、酔狂なこったねェ」


 くすくすと笑いながら、ピノは背後の帳を大きく開いてくれた。


「それじゃあ、どうぞお入りなさいなァ。まともに挨拶をできる人間なんざ、こっちにはひとりもいやしないけどねェ」


 そうして俺たちは、ようよう天幕の内に足を踏み入れることが許された。

 天幕には明かり取りの窓もないため、黄昏刻のように薄暗い。そして内幕で仕切られているものの、しばらく進むと樹木の立ち並ぶエリアに到着する。こちらの天幕は屋台を開くための空き地とその背後に存在する雑木林をすっぽり包み込む形で建てられているのだった。


 普段はそれらの雑木林に数々の獣たちが控えているわけだが、時間外である現在は誰の姿もない。そうして普段は通ることの許されない内幕が開かれると――そこで《ギャムレイの一座》の座員たちがくつろいでいた。


「わーい! ヒューイたちも一緒だったんだねー!」


 リミ=ルウが喜びの声をあげると、獣使いのシャントゥが「ほほほ」と笑った。仙人じみた容姿といでたちをした、枯れ木のようなご老人だ。そのかたわらには、銀獅子のヒューイとガージェの豹のサラ、そして両名の子たるドルイが控えていた。


「これはこれは、みなさんおそろいで。いったいどういったご用件でありましょうかな?」


「アタシらみたいなはぐれモンに、わざわざご挨拶をしてくれるんだとさァ。アンタたちも、せいぜい失礼のないようにねェ」


 ピノのそんな言葉は、シャントゥ以外の面々に向けられたものであるのだろう。この中で少しでも社交的な気性をしているのは、ピノとシャントゥのふたりきりであったのだ。


 天を突くような大男のドガ。仮面をかぶった小男のザン。浅黒い肌で妖艶な美貌のナチャラ。骸骨のように痩せ細ったディロ。そっくり同じ姿をした双子のアルンとアミン。ひょろりとした体形で、男性用の装束を纏ったロロ。――ロロを除く面々は、誰もが尋常ならざる風貌をしている。そして彼らはいつも感情をあらわにすることがなく、このたびも無言で俺たちの姿を見返してくるばかりであった。『暁の日』に少しばかり言葉をかわすことができたナチャラも、何事もなかったかのようなすまし顔だ。


「おやおやァ? ライ爺と新入りの姿が見えないようだねェ?」


「は、はい。ライラノスたちは――」


 と、ロロが目を泳がせながら答えようとしたとき、奥のほうの帳からふたりの少女が現れた。その姿に、俺は思わず破顔してしまう。


「あっ、アスタ! それに、森辺のみなさんも……今日はいったい、どうされたのですか?」


 ふたりの少女とは、もちろんチル=リムとディアである。そして彼女たちが素顔をさらしていたために、俺はいっそう温かい気持ちに見舞われたわけであった。

 チル=リムのほうは頭から玉虫色のヴェールをかぶっていたが、フードつきマントも襟巻きも着用していない。彼女たちがこうまで素顔をあらわにしているのは、黒の月の鎮魂祭から数えても初めてのことであった。


 チル=リムは、栗色の髪と黄白色の肌をした、10歳の少女である。最大の特徴である白銀の瞳は玉虫色のヴェールによって色彩が隠されているため、今の彼女はただ可愛らしい普通の女の子にしか見えなかった。

 いっぽう聖域の民であったディアは、燃えるような赤毛と金色の瞳に、両方の頬の大きな火傷の痕だけで、なかなかのインパクトだ。そして、目尻のあがった猫のような目と大きな口と小さな鼻というのは、俺にとって大切な思い出の少女とよく似た面差しであったのだった。


「やあ、チルとディアもいたんだね。今日は他のみなさんにもご挨拶をさせていただこうと思って、お邪魔したんだよ」


「そ、そうだったのですか。まさかアスタたちがいらっしゃるとは思わなかったので、ちょっとびっくりしてしまいました」


 そんな風に言いながら、チル=リムはおずおずと他なる面々を見回した。すると、ダナの家長が「ふふん」と鼻を鳴らす。


「俺やこちらのジーンの長兄は、すべての事情をわきまえている。ただ町の人間はどうかわからんので、余計な口はつつしむがいいぞ」


 それは、ターラの存在を気づかっての発言であった。ターラはもともとチル=リムの素顔を知らないので瞳の色にさえ気づかれなければ問題はなかろうが、下手に言葉を重ねると正体が露見する恐れもあるのだ。

 そうしてチル=リムに口をつぐませたダナの家長は、俺にこっそり囁きかけてきた。


「もうひとりのディアなる者は、かつてファの家に居座っていた聖域の娘とよく似た空気を纏っているな。きっと族長らはそれもあって、この者たちを信用することにしたのだろう」


 かつてファの家に居座っていた聖域の民――赤き民のティアは、家長会議で挨拶をさせられていたのだ。ならば当然、ダナの家長もその場でティアの姿を見届けていたわけであった。


「さあさァ、アンタがたも客人がたも、いつまでも立ったまんまくっちゃべってないで、ゆるりと腰を落ち着けなさいなァ」


 ピノは朱色の装束をなびかせながら部屋の奥へと進み、ザンとナチャラの間にふわりと身を沈めた。

 俺たちは、部屋の入り口に固まって着席する。まあ部屋といっても内幕に囲われているだけで、足もとも地面に敷物が敷かれているばかりである。そして、薄暗いことにも変わりはなかった。


「そういえば、ライ爺もけっきょく夢の中かァい?」


「あ、はい。ライラノスは眠気に見舞われたとのことで、座長たちのもとにお連れしました」


「まったく昼から、いいご身分だねェ。ま、商売を禁じられちまったら、アタシらもこんな薄暗がりで管を巻くしかないけどさァ」


 そのように語るのは、やはりピノやチル=リムばかりである。ロロはせわしなく目を泳がせており、他の面々は無言の無表情だ。

 すると、ひとり柔和な微笑をたたえていたシャントゥが、ドルイの背中をぽんと叩いた。


「不愛想な人間に代わって、お前がお相手をしてやるがいい。お客人も、それをお望みのようだからな」


 ドルイは音もなく身を起こし、期待に瞳を輝かせるリミ=ルウやターラのもとまで進み出た。銀獅子の特徴たる灰褐色の毛とたてがみ、ガージェの豹の特徴たるサーベルタイガーのごとき牙と黒い斑点――その両方をあわせもつドルイは、もはや母親のサラよりも大きく育ち、父親たるヒューイを追い抜きそうな勢いであった。


 ただ、人懐っこい気性に変わりはないようで、シャントゥに何を命じられるまでもなく、リミ=ルウたちの前でぺたりと身を伏せる。リミ=ルウたちは大喜びしながら、その立派なたてがみに頬をうずめた。


「まったく、獣だって愛嬌をふりまいてるってェのに、こっちのぼんくらどもは始末に負えないねェ。アスタもそろそろ、後悔してるんじゃないのかァい?」


「いえいえ、そんなことはありません。……身を休めているさなかに押しかけてしまって、どうも申し訳ありませんでした。ずいぶん遅いご挨拶になってしまいましたが、『暁の日』にお披露目された演劇も素晴らしい出来栄えでありましたよ」


 俺がそのように告げても、ロロが赤面しながらうなだれて、ナチャラがうっすらと微笑むばかりである。ドガやディロや双子たちは完全に無表情であるし、ザンにいたっては仮面で表情もわからなかった。


「えーと……あの演劇の主役は、きっとザンなのですよね。ザンも見事な手際であったと思います」


 俺は本心からそのように伝えたのだが、ザンは口がきけないのだ。その代わりに口を開いたのは、やはりピノであった。


「存外に、ザンの芝居は評判がいいみたいなんだよねェ。リコのやつも、たいそう熱っぽくほめちぎってたしさァ」


「ええ。本当に見事だったと思いますよ。素人批評で恐縮ですけれど、基本的にあのお芝居で感情表現をしていたのは、ザンだけだったでしょう? そもそも人間であったのは王と王女だけで、王女のほうは魔物に魂を奪われたという設定であったようですからね」


「あ、わたしもそのように思っていました! 王の悲しみや苦しみなどがひしひしと伝わってきて、わたしは胸が痛いぐらいであったのです!」


 そのように声をあげたのは、レイ=マトゥアであった。彼女は俺たちと別行動であったが、やはり《ギャムレイの一座》の見世物を観劇していたのだ。


「最後の魔王の婚儀という場面で王が楽しそうに太鼓を叩いているさまなどは、何だか涙をこぼしてしまいそうでした! 王はすべてを失ってしまいましたが、娘とともにあれる喜びがまさったということでしょうか?」


「ははァん。そんな話は、語るだけ野暮なんじゃないのかねェ。……そもそもアタシらも、そうまであれこれ考えてるわけじゃないからさァ」


 ピノは装束のたもとで口もとを隠しながら、くすくすと笑い声をもらした。


「ま、何を思うかは見た人間の自由さァ。アタシらは、その場を楽しませるだけで手一杯だよォ」


「うん! あのお芝居も、すっごく楽しかったよー! ドルイも大活躍だったもんねー!」


 ドルイに抱きついたリミ=ルウも、元気いっぱいにそう言いたてた。


「家のみんなにも、あのお芝居を見てほしいなー! でもでもやっぱり、お外とかではできないのかなぁ?」


「そいつはさすがに、無理があるねェ。そもそも天幕の外で芝居をする理由もないけどさァ」


「あー、俺たちはまた、あんたたちを祝宴に招きてーんだよなー。ちょうどいいから、その話をさせてもらうか」


 そうしてルド=ルウが《ギャムレイの一座》を森辺の祝宴に招待したいという旨を告げると、ピノは不思議そうに小首を傾げた。


「ソイツは例の、町のお人らと親睦を深める祝宴ってヤツのことかァい? 去年やその前の年なんかは、アタシらもうだうだ居残ることになっちまったけどさァ。この年は、復活祭の後まで居残る理由はないんだよねェ」


「いや、そいつはファやフォウの取り仕切りで、もっと日が過ぎてから開かれる手はずになってるよ。それとは別に、年が明けて2日目に祝宴を開く予定なんだよ」


 それはルウ家の主催であり、内容は建築屋の面々の送別会であった。建築屋のご家族とは年にいっぺんしか顔をあわせる機会がないのだから、このたびは盛大に見送ってあげようという話が持ち上がったのだ。


「それで建築屋の連中も、1日だけ帰るのを遅らせることになったんだよ。あんたたちもよかったら、2日目の夜まで居座ってくれねーか?」


「年が明けて、2日目かァい。それぐらいだったら、断る理由もないけどさァ。……それはもちろん、芸人として仕事を頼みたいってェ話なんだよねェ?」


「ああ。あんたたちは、客人として招かれることを了承しないって話だからなー」


「そりゃあそうさァ。アタシらみたいなはぐれモンが客人としてお招きされるなんて、あまりに恐れ多いからねェ」


 ピノはにんまり微笑みながら、左右に居並ぶ座員たちを両手で指し示した。


「そちらサンだって、こんな連中をもてなす気にはなれないだろォ? どんな立派な祝宴にお招きされたって、コイツらはにこりともしないからねェ」


「んー。あんたたちは、外の人間と絆を深める気がねーのか?」


「アタシらは、芸を見せるっていう糸一本の道筋で、かろうじてこの世につなぎ止められてるのさァ。おしゃべりを楽しみながら酒杯を酌み交わす代わりに、アタシらは芸を見せて銅貨をいただいてるってェわけだねェ」


 ピノの言葉を肯定するでも否定するでもなく、座員たちは黙然と座している。そして俺は、チル=リムの静謐な表情にハッと胸をつかれることになった。彼女はそんな静けさの下に、深い覚悟を備えているように思えてならなかったのだ。


 チル=リムは、迂闊に余人と交流することが許されない身の上である。森辺においては彼女の素性を知る人間と知らない人間が混在しているので、素顔をさらすことさえ控えているのだ。

 そして、彼女の師匠となったライラノスも、それは同様である。彼は素顔を隠したりはしていないが、その身に備わっている星見の力が魔術の域に達しているという事実は、決して余人に語ってはならないのだ。


 もしかしたら――他の座員たちも、それに匹敵するような秘密を抱えているのだろうか。だから彼らはこのように、外の人間に対して心を閉ざしてしまっているのだろうか。


(でも、たとえそうだとしても――)


 俺は、彼らのことを好ましく思っていた。数々の見事な芸を持ち、孤独なチル=リムを同胞として迎え入れてくれた彼らのことを、心から慕わしく思っていたのだ。

 しかしそれでも、彼らと絆を深めることが許されないのなら――俺は絆の片端を、強く握っていたかった。たとえ強く結ばれる日が永遠にやってこなくとも、その片端を手放したくはなかった。


「……おや、表が騒がしくなってきたねェ。ついにギバの丸焼きが仕上がったんじゃないのかァい?」


 と、ピノが笑いを含んだ声で言った。天幕の外から、喧噪の気配が伝えられてきたのだ。


「アタシらも、そろそろ腰を上げようかねェ。銅貨をいただくことはできなくっても、笛や太鼓で賑わすことは許されてるからさァ。夜の商売に備えて、お客の心をつかんでおかないとねェ」


「じゃ、行くか。俺たちも、宿場町の賑わいを見届けねーとならねーからな」


 森辺の民も座員たちも、それぞれ腰を上げていく。

 そんな中、ピノが俺に呼びかけてきた。


「それじゃあまた、うちの新入りの面倒を見てもらえるかァい? コイツには、笛や太鼓の能もないからさァ」


「ええ、もちろんです。チルの身を託してくださって、ありがたく思っています」


「ふふン。さっきは野暮なことを言っちまったけど、すでに結ばれてる絆をほどくいわれは、どこにもないからねェ」


 そのように語るピノは、その黒い切れ長の目にカミュア=ヨシュやジバ婆さんにも通ずる透徹した光をたたえていた。

 そうして俺はフードつきマントを纏ったチル=リムやディアたちとともに、熱気の渦巻く往来へと舞い戻ったわけであった。

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