星は巡る①青の月12日~営業再開~
2014.12/12 更新分 1/1
家長会議の翌々日。
青の月の、12日。
宿場町における商売が、再開された。
「おひさしぶりです、ミラノ=マス!」
《キミュスの尻尾亭》の裏手に回って、元気いっぱいに挨拶の言葉を投げかけると、ミラノ=マスは相変わらずの仏頂面で俺たちを迎えてくれた。
「朝から騒がしいやつだな。たかだか2日ばかり空いたていどで、おひさしぶりもへったくれもあるか」
「いやあ、俺としては2日ぶりとは思えないぐらい久々に感じられてしまうんです。今日も1日、よろしくお願いいたします!」
「……何もよろしくされる覚えはない。商売をする気があるなら、とっとと屋台を持っていけ」
「はい!」と応じつつ、俺はついミラノ=マスの不機嫌そうな顔をまじまじと見つめやってしまった。
「何だ、何か俺に文句でもあるのか?」
「いえいえ、滅相もない!」
もしかしたらミラノ=マスの親友の死の原因であったかもしれないスン家が、没落した――そのようなことを、この段階で打ち明けられるはずもなかった。
それに、そのようなことを知らされたところで、ミラノ=マスの無念が完全に晴らされるはずもない。スン家の人々は、べつだん町の人間に害をなした罪で裁かれるわけではないのだから。
(何とかそのあたりのことも白黒つけたいんだけど――まずはドンダ=ルウたち新しい森辺の族長が、ジェノスの領主と正しい縁を結べるかどうかだよな)
胸中にわきあがるさまざまな感情をねじ伏せつつ、俺はもう1度、ミラノ=マスに笑いかけた。
「それでは今日も屋台をお借りいたします」
すると、おかしなことが起きた。
ミラノ=マスが、一瞬だけ和やかな感じに目を細めかけ――それから、ものすごく慌てふためいた様子で「さっさと行け!」と怒鳴り散らしてきたのだ。
その怒声に背中を押される格好で、俺たちは2台の屋台とともに石の街路へと繰り出した。
ショールやヴェールで柔肌を隠した、シーラ=ルウ、ヴィナ=ルウ、ララ=ルウとのカルテットである。
ずらりと並んだ木造の建物、道をゆきかう旅人や商売人、重そうな荷を引かされている恐鳥トトス。むっとするような人いきれに、大勢の人間がかもしだす熱気とざわめき――何もかもが、懐かしい。本当に、2日ぶりとは思えない懐かしさだ。
「アスタ、楽しそうな顔してるねー」と、一緒に屋台を押しているララ=ルウが冷やかしてくる。
だけど、そんなララ=ルウだって楽しそうな顔をしている。
シーラ=ルウやヴィナ=ルウの表情も明るい。
たぶん、スンの集落で深刻に過ぎる仕事に従事した反動もあるのだろう。もともとはこの宿場町だって、森辺の民にとっては敵陣と言ってもいいぐらい居心地の悪い空間であったはずなのに、彼女たちにそれを忌避するような気配はもう微塵も残っていない。
そんな彼女たちの晴れやかな表情を見ているだけで、俺はいっそう心が満たされていくのがわかった。
そうして石の街路を進むうちに、やがて「あ! アスタおにいちゃんだ!」という、これまた懐かしい声に呼びかけられた。
むろん、ターラだ。
雨よけの屋根の下で、ドーラの親父さんもにこやかに笑っている。
「やあ、アスタ。元気そうで何よりだ。何か買っていくかい?」
「どうも、おひさしぶりです。タラパを2個とティノを4個、それにアリアを20個お願いします」
「あいよ。赤銅貨8枚だね」
懐かしいが、手馴れたやりとり。
何というか、自分では自覚できずにいた強烈な郷愁感を溶かされていくような感覚である。
(俺はやっぱり、この町で商売をするのが肌に合ってるんだなあ)
もちろん俺は、新参なれども森辺の民だ。
この世界における故郷は森辺であり、ファの家であり、それを1番かけがえのないものとして認識している。
なおかつ、道をゆく人々の何割かは、いまだに隠しようもない怖れや蔑みの目線を向けてきている。
それでも、俺にとってはこの宿場町も第2の故郷と呼べるぐらい親しみのある土地であり、そこで知己を得た人々も、とても大事で慕わしく感じられてならなかった。
「うわー、今日もすごい有り様だねー」
ドーラの親父さんから追加分の野菜を購入し、さらに足を進めていくと、過去最高の売り上げを叩きだした4日前の営業日にも劣らぬ人だかりが、露天区域の北端に展開されていた。
だけど、何となくその情景も、日を重ねるにつれて煩雑さを減じていっているように感じられる。
南と東のお客様たちは増加していく一方なのだが、それを取り巻く野次馬が減ったのだ。
もはや朝一番で商品が品切れになることはなくなった。それゆえに、お客様の間からも殺伐とした雰囲気は一掃されたし、それに、もはやこのような光景に物珍しさを感じる者もいなくなってしまったのだろう。何も騒ぎが起きないのならば、野次馬をする甲斐もない、ということだ。
というわけで、お客様たちはむしろ和気あいあいとしているぐらいだったし、見張りの衛兵もひとりしかおらず、街路の端で退屈そうに立ちつくしているばかりだった。
「お待たせいたしました! すぐに準備を始めますので、少々お待ちくださいね」
俺たちが近づいていくと、お客様たちは申し合わせたように道を空けてくれた。
そして、誰に何を指示されるでもなく、それぞれの屋台に5名ずつ綺麗に列を成し始める。
「ようやく来たか! 待ちくたびれたぞ!」
『ミャームー焼き』のほうの最前列に陣取ったのは、おやっさんとアルダスを含む建設屋の一団だった。
俺よりも小柄なおやっさんと、東の民にも負けない長身で体格もがっしりとしているアルダス氏。どちらも面がまえは厳ついが、俺にとってはとても心の和む凸凹コンビである。
「今日もご来店ありがとうございます。お元気そうで何よりです」
「元気は元気だが、この2日間はおやっさんがうるさくてな。ギバが食いたいギバが食いたいと、口を開けばそればっかりで、なだめるのが一苦労だったよ」
「この坊主が2日も店を閉めるのが悪いんだろうが! おい、青の月はもう1日たりとも休むなよ?」
「はい。なるべくそのようにしたいと思います」
そんな会話を交わす間に、早くも鉄板が温まってきた。
6日ほど前に購入した新アイテム、ジャガル産の鉄板である。
鉄鍋よりも薄く作られたこの鉄板は、蓄熱性で劣る代わりに、熱が通るのが早いのだ。
新たな契約をもって開始された青の月8日の営業日から、俺はこの鉄板で『ミャームー焼き』を調理することに定めたのだった。
脂を落とし、スライスしたアリアを炒め、漬け汁に漬けておいたロースとバラ肉を炒め、あらかた火が通ったら、漬け汁を降り注ぐ。
たちまち果実酒と、ニンニクに似たミャームーの香りが爆発的に広がって、居並ぶお客様たちに歓喜のどよめきをあげさせた。
「おい、まだか!? 腹が減りすぎて腸がねじ切れそうだ!」
「はい、今すぐに」
焼けた肉は木皿に移さず、鉄板の端に寄せる。
これも鉄鍋ではできなかった作法である。火があてられているのは中心部だけなので、端の端まで寄せてしまえば、焦げつかせることなく保温できるのだ。
クレープのようなポイタンの生地に、千切りに刻んだティノを乗せ、さらに鉄板から直接すくいあげた肉とアリアを乗せ、完成である。
「はい、どーぞ。赤2枚だよ」
銅貨と引き換えに、ララ=ルウがおやっさんたちに『ミャームー焼き』を手渡していく。
その去り際に、アルダス氏が俺に笑いかけてきた。
「なあ、宿屋での商売は明日からだったよな?」
「あ、はい。その予定です」
「これで俺たちは昼も夜もお前さんの料理を楽しめるってわけだ。宿屋で騒いだ甲斐があったよ」
このアルダスを中心とする南の民のお客さんが俺の料理を褒めちぎってくれたため、《南の大樹亭》の主人ナウディスは、ギバ肉の料理を晩餐で提供する英断に踏み切ることになったのだ。
手だけは休めず『ミャームー焼き』をこしらえながら、俺はアルダスに頭を下げてみせる。
「皆さんには本当に感謝しています。こんな形で商売を広げられるなんて、俺は思ってもいませんでした」
「何、別にお前さんのためにやったわけじゃない。俺たちはただ美味い晩餐を食べたかっただけさ」
「そうだ! これで美味くもない料理など出したら、ただではおかんぞ?」
と、言葉自体は乱暴であったが、『ミャームー焼き』を両手で持ったおやっさんもすっかりほくほく顔になってしまっている。
俺も思わず笑顔を誘発されながら、「ご期待にそえるよう励みます」ともう1回頭を下げた。
その後は、しばし戦場である。
1度に作れる量は鉄鍋も鉄板も大差はないので、15名分ずつを2ターン、それでも足りない分をさらに焼いて、ようやく朝一番の猛ラッシュをしのぐことができた。
そうして一息ついたところで従業員も軽食をいただき、持ち場をローテーションしたあたりで、今度は《銀の壺》のメンバーが登場する。これも、お馴染みの展開だった。
「アスタ、おひさしぶりです」
「あ、どうも。毎度ありがとうございます」
毎回挨拶をしてくれるのは、団長のシュミラルである。
銀色の長い髪をしたシムの若者は、いつもの通りに皮のフードをはねのけて、無表情に一礼してきた。
ローテーションで俺の隣りに回ってきたのは、残念ながらヴィナ=ルウではなくシーラ=ルウである。シュミラルはそちらにも一礼し、シーラ=ルウもお行儀よく礼を返す。
「今日は『ミャームー焼き』ですか?」
「いえ。3日前、『ミャームー焼き』でした。今日、『ギバ・バーガー』です」
いかにも異国人といった喋り方なのに、発音自体はしっかりしている。森辺の民などはいつまで経っても「はんばーぐ」というたどたどしい発音であるのだが。これは何か異文化の存在に対する認識能力の差異でも関係しているのだろうか。
「調理刀、いかがですか?」
「はい、すっかり馴染んできましたよ。何というか、俺が故郷で使っていたものよりも頑丈なつくりに感じられますね。半人前の俺にはありがたい限りです」
「アスタ、半人前ですか?」
「半人前ですよ。料理の腕前はもちろん、自分で店を出すのもこの屋台が初めてなのですから」
こちらの料理をチョイスした5名の団員たちのために『ミャームー焼き』を作成しつつ、そんな風に応じてみせた。
すると、シュミラルの切れ長の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「アスタ、料理、とても巧みです。私、とても美味、思います」
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは本当に光栄です」
「……アスタ、一人前なったら、どうなるでしょう? 怖いぐらい、楽しみです」
と――今度はシュミラルの目が少しだけ細まる。
表情自体は動いていないのに、それだけで笑っているように、俺には見える。
そこでシムの民のひとりがシュミラルのために購入した『ギバ・バーガー』を手渡してきた。
それを受け取りつつ、シュミラルがゆっくりと周囲を見回す。
「彼女、今日、不在ですか?」
「彼女?」と小首を傾げてから、「ああ」と合点する。
「家長ならば、今日は別の仕事に取り組んでいます。本来、屋台の商売は彼女の仕事ではありませんので」
「……カチョウ?」
「家の長です。彼女が長で、俺はその家の家人なのです」
「そうですか」と、シュミラルがうなずく。
「家長、石、喜びましたか?」
「あ、はい……えーと、まあ、それなりには、たぶん」
何とも曖昧な返事になってしまったが、それでもシュミラルはまた楽しそうに目を細めた。
「良かったです。また何かあったら、相談、ください」
「はい。ありがとうございます」
そうして《銀の壺》の一団も屋台の前から立ち去っていった。
すると、かたわらのシーラ=ルウが「あの」と控えめに呼びかけてくる。
「このようなことを詮索するのは失礼かもしれませんが……もしかしたら、石というのはアイ=ファのしている青い石の首飾りのことですか?」
「え? ……はい、そうですけども」
なかなかの気恥かしさをこらえつつそう応じると、シーラ=ルウは「やっぱりそうでしたか」と満足そうに微笑んだ。
「6日前のあの帰り道からアイ=ファが飾り物などをしていたので、みんなとても驚いていたのです。あれはやはりアスタからの贈り物だったのですね」
「み、みんな?」
「ええ。帰り道にはわたしとヴィナ=ルウ、帰った後ではレイナ=ルウやアマ・ミン=ルティムなどですね。ララ=ルウは何となく訳知り側で笑っていましたが」
そんなに注目されていたのかーと、俺は目を白黒させてしまう。
森辺の民とはいえ、さすがは女衆である。
「あ、あれはその、シムの魔除けの石なのですよ。家長の健やかなる生を願う家人からの贈り物なのであります」
「そうですか。ではその願いがかなって、アイ=ファは守られたのかもしれませんね。スンの集落であのような騒ぎになって、それでも皆が無事に帰ってこれたことを、わたしは本当に嬉しく思っています」
と、そこでシーラ=ルウはもの思わしげに目を伏せた。
「もっとも、まだルウ家の全員が集落に戻ってきたわけではありませんが……早くすべてが落ち着くべき場所に落ち着くと良いですね」
現在はダルム=ルウやラウ=レイたちがスンの集落に居残っており、今日の中天からはまたドンダ=ルウがガズラン=ルティムを引き連れて事後処理にあたる予定であるのだ。
スン本家の廃位に、族長の交代、残されるスン分家の後始末など、まだまだ問題は山積みである上に、ジェノスの領主とのやりとりまでが控えている。族長筋を襲名してしまったルウ家の安息は、まだまだ遠いだろう。俺だって、この商売の後にはちょっとした――という言葉では済まないような重大なる案件を託されてしまっている。
「……大丈夫ですよ。スンの本家の男衆も今日にはドムやザザの家に移されるそうですし。分家の人間に森辺の掟に背く意志はなさそうなのですから、スンの集落に居残った人たちにも危険はないはずです。危険があるようなら、ドンダ=ルウやダン=ルティムたちがその場を離れることもなかったでしょう」
「ええ……それはそうなのでしょうけどね……」
シーラ=ルウの表情は晴れない。
やっぱり心配なのだろうか。……ルウの本家の次男坊が。
「やあ、今日も繁盛してるみたいだね!」と、そこに新たなるお客様がやってきた。
褐色の髪に、象牙色の肌。恵まれた肢体に胸あてと一枚布の長い腰巻きだけを纏った、なかなか艶っぽい娘さん――西の民の、ユーミである。
「どうも、おひさしぶりです。今日はおひとりですか?」
「うん。朝から色々仕事を手伝わされてさ。お腹が空いたから、ちょっとだけ抜けてきたの」
にこやかに笑いつつ、鉄板の端で保温されている肉の香りに鼻を寄せる。
「いい匂い! これってミャームーとか果実酒だけの匂いじゃないよね。キミュスの肉饅頭よりずっと美味しそうな匂いだもん。ギバの肉自体もいい匂いってことなんだろうなあ」
「はい。たぶんギバ肉とミャームーは相性がいいんだと思います」
「そうだよね。ミャームーを使ってる料理なんて珍しくもないし。……これって、味付けとかも全部アスタが考えたんでしょ? そう考えたら、やっぱアスタはすごいよね!」
「いえいえ。俺なんて、本当に半人前の料理人に過ぎませんよ」
料理人などというものは城下町にしか存在しないという話であるのだから、俺ぐらいの腕前でもこのような評価をいただけるのだろう。嬉しいことにはもちろん嬉しいが、慢心だけはすまいと思う。
「ねえ。まだ中天までに時間はあるけど、今日は何食ぐらい売れたの?」
「え? ……そうですね。それぞれ40食から50食ずつぐらいは売れているはずですが」
「この時間で50食! 本当に大した売れ行きだよねえ。……ね、今日は3つちょうだい。何としてでも、父さんに食べさせてみるからさ」
「はい? お父上にですか?」
「そんな上等なもんじゃないよ。ガチガチの石頭の頑固親父さ」
と、ユーミはゆたかな胸の下で腕を組み、口をへの字にした。
「ギバの肉なんて美味いわけがない。あたしも母さんもギバなんて食べたから舌がおかしくなってるんだって、いまだにそんなことを言い張ってるんだよ? 今日という今日は、あの石頭を木っ端微塵にしてやるんだ!」
「そ、そうですか。でも、やっぱり年配の方はギバの肉に抵抗をもたれるでしょうしね」
「そんなことないよ。生粋のジェノスっ子は母さんのほうで、父さんは年をくってから移住してきた人間なんだから。……それに、森辺の民じゃなくギバのほうを怖がるのは、爺さんや婆さんの世代でしょ。父さんだって、ただ何となく気に食わないってだけの話なのさ」
その「何となく」を払拭するのが、きっと大変なのだろう。
そして、西の民でありながらそういった悪評を覆すことに尽力してくれているこのユーミという少女は、森辺の民にとって、かけがえのない存在なのだろうとも思う。
「……《南の大樹亭》の仕事って明日からだよね?」
「え? はい、そうです」
「確かにあそこは南の民の常宿だけど、もちろん西の民だって山ほど利用してるんだ。そこでアスタの料理を出したら、ますますギバ肉を食べる西の民が増えるようになると思うんだよね」
と、何ともありがたい予想を提示してくれるユーミである。
しかし、その顔はしかめ面のままだ。
「それでもしもギバ肉が当たり前に食べられるようになったら、ギバの料理がない宿屋のほうが時代遅れってことになっちゃうかもしれないじゃん? だから、今のうちにあの石頭を粉々にしておく必要があるなあって思ったんだよ」
「それはそうかもしれませんが……でも、そんな風に思っていただけるようになるには、相当の年月が必要になるでしょうね」
「それが5年後でも10年後でも、まずいことに変わりはないっしょ? ていうか、今の時点でも《南の大樹亭》に客を取られちゃう危険があるわけだし。うかうかしてらんないよ」
商魂たくましいというか何というか。どうも俺が思っていた以上に、このユーミというのはしっかりとした娘さんであるようだ。
ギバの話は置いておくとしても、このような娘さんが婿でも取って跡を継ぐなら、《西風亭》の未来は明るいかもしれない。
「それじゃあね! また明日!」
そんな感じで、3つの『ミャームー焼き』を手に、ユーミは足取りも勇ましく帰っていった。
「よし。そろそろ新しい肉を焼きましょう。シーラ=ルウ、よろしくお願いします」
「はい」と、シーラ=ルウが真剣な面持ちでうなずき返してくる。
ついに明日の後半戦から、シーラ=ルウにはこの『ミャームー焼き』の屋台をまかせることになるのである。
俺とアイ=ファがルウの集落に滞在している間、シーラ=ルウにはひたすら修練を積んでもらった。俺としてはもう安心してまかせられるレベルに達していると思っているのだが、それでもシーラ=ルウの表情には緊張の色が濃厚だった。
その仕事によって彼女はヴィナ=ルウたちの倍もの代価を得ることになるのだから、失敗は許されない――と、思い詰めているのだろう。
仕事に対してはどこまでも実直な森辺の民なのだ。
だからこそ、俺も安心してまかせられる気持ちになれるのだと思う。
「では、焼きます」と、シーラ=ルウは鉄板にアリアを投入した。
そいつがしんなりしてきたら、ギバの肉も投じ、火が通りやすいように木べらで伸ばしていく。
分量は、10人前。アリアも肉も、適量だ。
そうして色や固さを入念に確認しつつ、焼きあがったら、鉄板の端へ。
注文が来たら、これに漬け汁をからめて温めなおす。
シーラ=ルウの目線を受けて、俺は肉片のひとかけらをつまみあげた。
焼き加減は――上々である。
「ばっちりですね」と笑いかけると、シーラ=ルウはそれ以上の笑顔で応えてくれた。
「わたしは本当に幸せです。アスタと出会えたことを、森に感謝したいと思います」
「大げさですよ。シーラ=ルウにはもともとこれだけの力があったんですから」
「いいえ。そもそもかまど番の仕事にこれまで以上の意義と喜びを与えてくれたのはアスタなのですから。アスタが森辺にやってこなければ、わたしは今でも無力な自分を恥じながら生きていたと思います」
そう言って、シーラ=ルウはどこか遠くを見るような目つきをした。
「これからは、今までよりも誇りをもって生きていくことができるでしょう。だから、わたしはアスタを森辺に導いたアイ=ファにも感謝しています。アスタとアイ=ファの出会いを、わたしは何よりも祝福したいと思います」
「ありがとうございます」と、俺もとても素直な気持ちで応じることができた。
俺とアイ=ファが出会いさえしなければ――と述べるジザ=ルウのような者もいれば、シーラ=ルウのように言ってくれる人もいる。
強烈な毒にも薬にもなりうる俺のような存在は、それらの両方の人々に、きっちりと生き様をさらしていくべきなのだろう。
そんな気持ちも新たに、ティノを切るための刀を取りあげたところで、また顔なじみのお客がやってきた。
レイト少年である。
「こんにちは。ふたつお願いします」
亜麻色の髪をした、いつも笑顔の小柄な少年。
その淡い茶色の瞳を見返しつつ、「やあどうも」と俺は言葉を返した。
「毎度ありがとう。……カミュアは今日も仕事かい?」
「はい。朝方に帰ってきて、中天まで眠るそうです。いよいよ大きな仕事が目前にせまってきましたし、色々準備が忙しいようですね」
商団を護衛する《守護人》とやらの仕事の前準備とは、そんなに慌ただしいものなのだろうか。
まあ、そのようなことを詮索しても意味はない。
それよりも、俺には為すべき仕事があるのだ。
「それじゃあ悪いけど、カミュアに伝言をお願いできるかなあ? 屋台の商売の後に、ちょっとカミュアに時間を作ってほしいんだけど」
「へえ。アスタのほうからカミュアに用事だなんて、珍しいですね」
無邪気そうな笑顔のまま、レイト少年は目を丸くする。
「きっとカミュアも喜ぶでしょう。中天に目を覚ましたら、必ず伝えておきますね。その後はずっと《キミュスの尻尾亭》にいるはずですので」
「わかった。ありがとう」
だいぶん人通りの増え始めた通りの向こうに、少年の小さな姿が消えていく。
それが完全に見えなくなるのを待ってから、シーラ=ルウが心配そうな眼差しを俺のほうに向けてきた。
「アスタ、くれぐれも気をつけてくださいね?」
「はい。いちおうあの人物は森辺の民を敬愛している、と言い張っているのですから、危険な事態にはならないはずです。……たぶん」
「たぶんでは困ります。いまや森辺にとって、アスタはなくてはならない存在なのです。そうでなくとも、アスタに何かあればアイ=ファが悲しみます。それだけはどうか忘れないでください」
「大丈夫です。俺はただ、彼と話をするだけですから」
何も危険なことはない。少なくとも、今のところは。
今日などは、3日後に控えた仕事についての打ち合わせをするだけなのだから、危険な事態になどなりようもないのだ。
しかし、この先は、何がどう転ぶかわからなかった。
スン家が没落したことによって、城との関係性はどのように変化していくのか。宿場町で商売などをしている俺たちに、その変化はどのような影響をもたらすのか。すべてが手探りの暗中模索だ。
だけど、いま俺の身に何かあれば、宿場町のこの商売も頓挫することになるだろう。
あともう少し時間をかければ、森辺の民だけで商売を続けるノウハウは会得できるかもしれない。最低限それまでは、俺は死ぬわけにも消えるわけにもいかないのだった。
(俺の生命は、もう俺だけのものじゃないんだ)
今まで以上に、慎重に、用心深く――それは、昨日アイ=ファとも話し合ったことである。
スン家が没落しても、すべてが解決したわけではない。族長筋の罪を贖う、という意味でも、俺たちはジェノスの城と正常な関係性を再構築しなければならないのだ。
「さあ、そろそろ中天ですね。後半戦も頑張りましょう」
まだ少し心配そうな顔をしているシーラ=ルウにそう呼びかけてから、俺は新たに訪れたお客さんに「いらっしゃいませ!」と笑顔を振りまいた