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異世界料理道  作者: EDA
第七十五章 太陽神の復活祭(上)
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暁の日③~感謝の念~

2023.1/11 更新分 1/1

 そうしてしばらく《西風亭》の屋台の前で歓談していると、ガズラン=ルティムとダン=ルティムが同時に背後を振り返った。

 俺もそちらに目をやると、人混みでも目立つ個性的な面々が接近してきている。チル=リムにディア、ピノにナチャラという女性のカルテットだ。


「あァら、そちらのおふたりはおひさしぶりでございますねェ。お元気そうで、何よりでさァ」


「うむ、そちらもな! お前さんがたも、キミュスの丸焼きをいただきに出向いたのか?」


「アタシらは、ちょいとアスタにご挨拶をねェ。……おやおや。アンタも大事にされてるみたいで、これまた何よりだったねェ」


 ピノが愉快げに咽喉で笑うと、俺の胸もとに抱かれたサチが「なあう」とうるさげな声をあげた。言うまでもなく、サチをファの家にもたらしたのはピノたち《ギャムレイの一座》であったのだ。それを思えば、サチがこちらの家人になってから間もなく一周年になるわけであった。


「さァてさて。アスタには、ちっとばっかり積もる話もあるんだけど……立ち話ってのも何だから、アッチで静かに語らせてもらえないかねェ?」


 と、ひとしきり笑ってから、ピノは親指で自分たちの天幕を指し示した。

「ふむ?」と小首を傾げるダン=ルティムのかたわらで、ガズラン=ルティムが静かに声をあげる。


「もしかして、ナチャラがアスタとの会話を望んでおられるのでしょうか?」


「あァ、さすが察しのいいこったねェ。こんな騒がしい場所だと、ちっとばっかり話しにくいからさァ」


 俺は昨年の復活祭で、ナチャラに大きくお世話になっている。そしてそれは、あまりおおっぴらにできないような案件であり、その場にはガズラン=ルティムも同席していたのだった。


「わかりました。どのようなお話なのかは見当もつきませんけれど、ナチャラには大変お世話になりましたので……そちらのお好きなように取り計らってください」


 俺がそのように答えると、ピノは「ありがとさァん」と身をひるがえした。

 チル=リムとディアはフードや襟巻きで顔を隠しているため、表情もわからない。そしてナチャラも表情らしい表情を浮かべていないので、まったく内心は知れなかった。


 俺たちはユーミに別れを告げて、ピノたちの後に追従する。もともとの6名に、シュミラル=リリンが加わった顔ぶれだ。その中で、ユン=スドラが心配そうに顔を寄せてきた。


「あの、これはどういうお話なのでしょう? わたしには、さっぱり事情がわからないのですが……」


「うん、そうだよね。でも、相手がピノたちなら心配いらないさ」


 俺としては、そんな言葉でユン=スドラをなだめるしかなかった。

 そうして混雑した街道を抜けて、《ギャムレイの一座》の天幕に辿り着く。が、お招きされたのは本丸の天幕ではなく、ライラノスが星読みの芸を見せている小さなほうの天幕であった。


「この刻限は屋台の商売も禁じられてるんで、ライ爺は座長と一緒に夢の中だよォ。……悪いけど、なるべく少ない人数でお願いできるかァい?」


「であれば俺は、外で待っていよう! 面倒な話は、ガズランに任せるぞ!」


「俺たちは、ひとりだけでも同行させてもらいてえな。もうひとりは、外を見張ることにしよう」


「私、同行、望みます」


 というわけで、俺とガズラン=ルティム、ディガ=ドムとシュミラル=リリンの4名が天幕にお邪魔することになった。もちろん黒猫のサチも、抱き袋に収まったままである。

 ピノたちの側も、チル=リムとディアは外に居残るようだ。ならばせめて、ユン=スドラたちと交流を深めてもらいたいところであった。


 天幕の内側は、夜のように暗い。入り口の帳を閉めてしまうと、燭台が欲しくなるほどの暗さであった。


「ここは星読みの結果を盗み聞きされないように、ひときわ分厚い幕を使ってるからさァ。大きな声さえ出さなければ、なァんも心配いらないよォ」


 そんな風に言ってから、ピノはくすくすと忍び笑いをした。


「ま、盗み聞きを心配してるのは、コッチのほうなんだけどさァ。前にも語って聞かせた通り、ナチャラが妙ちくりんな術式を体得してるってェ話は、いちおう秘密ごとだからねェ」


「はい。そんな秘密を俺なんかのために打ち明けてくれたことを、深く感謝しています」


 ナチャラが体得しているのは、人の心を解きほぐすという術式である。おそらくあれは、催眠療法のようなものであるのだろう。それで俺は、自らの心の奥底にひそんだ恐怖の感情と対峙することになり――それで、無意識の苦悩から解放されることに相成ったのだった。


「さァて。ナチャラは口が重いんで、アタシが聞かせていただくけど……アスタはその後、元気にやってるんだよねェ? アスタの抱えてる心配ごとってのは、ちっとは解消されたのかァい?」


「いえ。状況は、あの頃とまったく変わっていませんね。解消されない代わりに、悪い事態にも至っていないという感じです」


「ふぅん。アスタの心を脅かす誰かさんってェのも、けっきょくわからないままなのかァい?」


 俺の心を脅かす、誰か――それはナチャラの黒水晶や悪夢の中にぼんやりと浮かびあがる、謎の人物のことである。

 右の頬に火傷があって、いつもにこやかに微笑んでいる、誰か――その茫漠としたシルエットが脳裏に蘇り、俺は思わず身震いしてしまった。


「ええ。あれがいったい何者なのか、今でもまったくわかりません。ただあれから、悪夢の中にいっぺん出てきたぐらいですね」


「へェ、悪夢かァい。そいつは、剣呑な話だねェ」


「そうですね。しかもそれは、邪神教団がチルにまつわる騒ぎを起こす前日の夜のことだったんです。それから俺はすぐにディアと出会うことになったんで、てっきり彼女がその人物なんじゃないかと思い込むところでした」


 俺は自分を励ますために、笑顔でそのように答えてみせた。


「でも、彼女は俺よりずいぶん小柄ですし、火傷も左右の頬にありますからね。すぐに人違いだとわかりました」


「うんうン。前にも言った通り、ナチャラの術式ってェのは星読みの正反対で、人様の過去をほじくり返すような技だからさァ。アスタを脅かしてるのが誰であれ、ソイツはこれまでに出くわしてる相手のはずなんだよォ」


 そう言って、ピノもにやりと赤い口の端を上げた。


「あのディアっていう娘っ子みたいに愉快な相手と出くわしてりゃァ、そうそう忘れることもないだろうしねェ。そもそもアイツがアスタを脅かす理由もないだろうしさァ」


「ええ。それより何より、特徴がまったく一致してませんからね。まあ、俺が覚えてるのは右頬の火傷と、フェルメスよりも大柄な男性らしいってことだけなんですけど……それすら一致しないなら、ディアは完全に無関係です。悪夢の直後に出会ってなかったら、俺は連想すらしなかったかもしれませんね」


「悪夢……悪夢ねェ……アタシはまじないの類いなんざ鼻で笑う不届きモンだけど、よりにもよって邪神教団の騒ぎの前日にそんな悪夢を見るってェのは、何やらいけ好かない感じだねェ」


「ええ。占星師のアリシュナというお人によると、邪神教団のせいで大きく星図が乱れたから、俺もその影響を受けたんじゃないかという話でしたね」


「あァあ、やだやだ。やっぱりアタシは、星読みだの何だのってェのはいけ好かないよォ。……その割に、占星師ってヤツには好いたらしい人間が多いんだけどさァ」


 ピノは悪戯小僧のような微笑をたたえつつ、ひょいっと肩をすくめた。


「じゃ、そろそろ本題に入らせていただくけど――」


「え? まだ本題に入っていなかったのですか?」


「本題の前には、前口上ってヤツが必要なのさァ。……去年の術式は、中途半端に取りやめることになっちまっただろォ? もういっぺん、今度は最後の最後まで突き詰めてみる気はあるかァい?」


 俺は虚を突かれて口ごもることになったが、思い悩むことにはならなかった。


「いえ。俺はその必要を感じていません。ピノはどうして、そのように仰るのですか?」


「言いだしっぺは、アタシじゃなくってコッチのぼんくらだよォ。手前の術式が余計にアスタを惑わす結果になっちまったんじゃないかって、そんな心配をしてるみたいだねェ」


 俺がびっくりして目を向けると、ナチャラはつつましい面持ちで一礼した。どこか東の民めいた容姿と雰囲気を持つ、妖艶で謎めく女性である。


「俺を惑わすなんて、とんでもありません。俺はナチャラのおかげで、平常な心持ちを取り戻すことができたんです。フェルメスに対する気持ちを整理できたのも、そのおかげですし……ナチャラには、心から感謝していますよ」


「だってさァ。これでアンタも、満足かァい?」


 ピノが横目で笑いを含んだ視線を届けると、ナチャラはようやく「はい」と口を開いた。


「わたくしは、あなたの心を無用にかき回しただけなのではないかと……ずっとそのような懸念を抱いておりました。そうでなかったのなら、幸いです」


「ええ。繰り返しますが、ナチャラには感謝の気持ちしかありません。それに今回も、俺を心配してくださってありがとうございます」


 俺が心からの笑顔を届けると、ナチャラもゆったりと微笑んだ。なかなか普段には見せることのない、やわらかな笑顔だ。


「ま、アタシもアスタの判断には大賛成だねェ。過去に何があったとしても、大事なのは今この瞬間なんだからさァ。アタシなんざ、昨日や明日のことを考えるのだって億劫でしかたないぐらいだよォ」


 そんな風に言いながら、ピノは朱色の羽織めいた装束の袖をぱたぱたとそよがせた。

 すると、これまで無言でいたディガ=ドムが心配そうに俺へと呼びかけてくる。


「何だか今ひとつ話が見えねえけど、アスタが《ギャムレイの一座》のおかげでフェルメスって貴族へのわだかまりを解くことができたって話は聞いてたよ。これはそんなに、入り組んだ話だったんだな」


「あァら、森辺ではそんなあちこちに話が広まっていたのかァい?」


「ええ。ですがもちろん、ナチャラの術式というものに関しては秘匿しています。ディガ=ドムもシュミラル=リリンも、どうぞそのように思し召しください」


 ガズラン=ルティムがすかさず声をあげると、シュミラル=リリンが「はい」と応じた。


「私も、全容、わかりませんが……わからないほうが、望ましいのでしょう。秘密、小さいに、越したこと、ありません」


「そうですね。シュミラル=リリンたちに秘密を抱えるというのは、心苦しくてならないのですが……」


 俺がそのように声をあげると、シュミラル=リリンは優しく微笑んだ。


「秘密、こちらの女性、術式の内容のみです。アスタの秘密、ありませんので、お気遣い、無用です」


「ああ、そうだよ。何にせよ、アスタが心を痛めてるんじゃないんなら、俺たちにとってはどうでもいいことさ」


 ディガ=ドムも気さくに笑いながら、そんな風に言ってくれた。

 そんな彼らの姿を見届けて、ピノは「さァて」と出口のほうを指し示す。


「それじゃあ、辛気臭い話はここまでさァ。楽しい祭の最中に水を差しちまって、申し訳なかったねェ。あとはお好きに楽しんでおくれよォ」


「はい。今日の夜には、みなさんの天幕にもお邪魔させていただきますね」


 そうして俺たちが表に出てみると、そちらではダン=ルティムたちが歓談に励んでいた。その中から、ユン=スドラが心配げに声をかけてくる。


「お疲れ様です。お話は、無事に終わりましたか?」


「うん。心配かけちゃって、ごめんね。何事もなかったから、安心しておくれよ」


「そうですか」と、ユン=スドラはほっとした様子で息をついた。

 そして、フードと襟巻きで人相を隠したディアが、金色の目で俺を見上げてくる。


「面倒な話は終わったのだな? では、チルの面倒を見てもらいたく思うぞ」


「え? チルの面倒というと?」


「チルが自由に動けるのは、こういう祝日の昼間だけなのだ。アスタとて、それは同じようなものであろう? であれば、こういう時間に絆を深めるべきではないか?」


 そのように語るディアのかたわらからは、チル=リムがおずおずと俺の顔を見上げている。それで俺は、また心からの笑顔を返すことになった。


「そういうことなら、喜んで。もう一刻ぐらいは宿場町で過ごすつもりだったんで、一緒に回ろうか?」


「は、はい……でも、ご迷惑ではないですか?」


 すると、俺が答えるより早く、ディアがチル=リムの肩を小突いた。


「あれだけアスタと一緒にいたがったのは、お前ではないか。そのような言葉で心を偽る必要はないぞ」


「こ、心を偽ったりはしていません。アスタの前で、そんな恥ずかしいことを言わないでください」


 チル=リムもフードと襟巻きと玉虫色のヴェールで顔を隠しているために、どんな表情をしているのかはわからない。ただその口調と声音だけで、気恥ずかしそうに赤らむ顔を想像することは容易かった。


「それじゃあ、食堂のほうに戻ろうか。他にもチルたちと語らいたい人はいっぱいいるだろうからね」


 そうして俺たちは、再び復活祭の賑わいに身を投じることに相成ったのだった。


                   ◇


 それから一刻あまり、俺は思うさま人々との交流を楽しむことができた。

 青空食堂に戻って真っ先に出くわしたのは、ドーラ家の人々である。いったんターラと分かれた親父さんたちは、手近な森辺の民に片っ端から声をかけて交流を深めていたらしい。そちらではジバ婆さんたちと同じ卓を囲み、至極なごやかに語らうことになった。


 その際に、チル=リムとディアは《ギャムレイの一座》の関係者とだけ伝えられる。親父さんたちも森辺の祝宴で《ギャムレイの一座》とご一緒した経験があるため、それで友好的な関係を結ぶことがかなった。まさかこちらの両名が去りし日にジェノスを騒がせた張本人だとは、夢にも思っていないことだろう。それを悟らせないためにも、チル=リムたちはずっとフードや襟巻きを外そうとしなかったのだった。


 その後に遭遇したのは、アルダスを筆頭とする建築屋の面々だ。シュミラル=リリンも彼らとは懇意にしていたので、大いに盛り上がることになった。


「そっちの赤子も、無事に産まれたそうだな! あのヴィナ=ルウが――いやいや、今はヴィナ・ルウ=リリンだったか。とにかくあの娘さんがついに母親になっちまうとは、感慨深い限りだな!」


 ヴィナ・ルウ=リリンはもっとも古くから屋台を手伝ってくれていたため、アルダスたちにとってはシュミラル=リリンよりもさらに馴染み深い存在であったのだ。かつては敵対国の民という立場であった彼らにお祝いの言葉を投げかけられて、シュミラル=リリンはとても幸福そうだった。


 そしてさらに、嬉しい再会が実現された。宿場町の若衆たるダンロがシュミラル=リリンやドッドに挨拶をしてきたのである。


「シュミラル=リリンはもちろん、そっちのあんたにも見覚えがあるぞ。今回も、トトスの早駆け大会に出場するのかい?」


 ダンロもその大会に出場し、入賞した立場であったのだ。祝賀会でご一緒したシュミラル=リリンばかりでなくドッドのことまで見覚えてくれていたとは、ありがたい限りであった。

 そして俺には、別の人物が語りかけてくる。去年の復活祭で、俺から銅貨をかすめ取ろうとした御仁である。森辺の民に反発心を抱いていた彼は傀儡の劇を目にしたことで改心し、その後はダンロの一派に仲間入りしていたのだった。


「最近めっきりお姿が見えなかったですね。もしかして、ジェノスから離れていたのですか?」


「そいつは、難しい問いかけだな。確かに遠出はしてたけど、行った先もジェノスの領地なんだからよ」


 よくわからないので話を聞いてみると、なんと彼は森辺に切り開かれた街道の向こう側で、宿場を建造する仕事に加わっていたのだという話であった。


「最近はあっちのほうも、ずいぶん賑やかになってきたんだぜ。まだまだ町なんて呼べるほどじゃねえけど……旅人が夜を明かすための建物がいくつも建てられて、兵士さんらに管理されてるのさ。ゆくゆくはあっちにも領民を募って、宿場町に仕立てあげようって算段らしいな」


 それは森辺に街道を切り開いてから、すぐさま話題にあげられていた話であった。ジェノスに第二の宿場町を建造しようという、遠大なる計画である。俺の知らないところで、その計画もじわじわと進められているようであった。


「まあ、いつ形になるのかは、見当もつかねえけどさ。でも、新しい町ができあがっていく場に立ちあえることなんて、そうそうないだろう? 俺なんざ、辺鄙な場所で丸太を組み上げてるだけなのに、最近は何だかむやみに楽しくってさ」


「そんな大層な仕事場に行き着いたのは、めでたい話だな! さんざん鍛えてやった甲斐があったというものだ!」


 そんな風に笑っていたのは、アルダスである。この人物は昨年改心した直後、アルダスたちとともにトゥランで働くことになったのだ。昼休みのたびに荷車で屋台に駆けつけてくれたのも、俺にとっては楽しい思い出のひとつであった。


 そうして楽しく語らっている間に、着々と時間は過ぎていく。そろそろ下りの一の刻の半が近いかなという頃合いで、俺は森辺に帰還することにした。

 そこで同行を求めてきたグループが、ふた組存在する。ジバ婆さんの一行と、チル=リムおよびディアである。彼女たちの目的は、いずれもアイ=ファとの対話であった。


「あたしは夜にも、また宿場町に下りるつもりだけどさ……でも、夜は大変な騒がしさだから、アイ=ファとゆっくり語らう時間も取れないだろう……? 犬の赤子の顔を見がてら、アイ=ファとのんびり語らせてもらいたいんだよねぇ……」


「ディアたちも、同じ気持ちだぞ。とりわけチルは仕事があるので、夜はまったく身動きが取れんからな」


 彼女たちのそんな申し出は、俺にとっても嬉しい限りである。もちろん俺はふたつ返事で了承して、彼女たちとともに帰還することになったわけであった。

 ジバ婆さんと同じ荷車に乗るのはルウの4名の狩人と、リミ=ルウだ。リミ=ルウも、本日の仕事は夜の屋台のみという話であった。


 こちらの荷車は行き道と同じ顔ぶれで、ユン=スドラたちが同乗する。チル=リムたちも自力で戻ってこられるように、自前の荷車だ。そうして俺たちは、3台の荷車で森辺を目指すことになった。

 途中でルウの集落に立ち寄って、ルド=ルウを除く3名の狩人は下車する。彼らは夜間も護衛役を果たすので、昼下がりのこの時間だけが憩いのひとときであるのだ。この時期は、森辺の民の数多くが慌ただしい日々を送っているのだった。

 こちらはこちらで、行き道でレイ=マトゥアたちを家に送り届ける。条件は、ジザ=ルウたちと同様である。ただし、ユン=スドラはこの後の下ごしらえにも参加するので、ディガ=ドムやドム分家の家長ともどもファの家まで同行してもらった。


 そんなこんなで、ファの家に到着である。

 ルウの荷車から飛び降りたリミ=ルウは、母屋の前に広げられている敷物を見て「あれれー?」と目を丸くした。


「ピコの葉を干してるね! でも、いつもはかまど小屋のほうに広げてるよね?」


「うん。いったい、何だろうね」


 俺も小首を傾げつつ、とりあえず玄関の戸板を叩くことにした。


「アイ=ファ、戻ったぞ。開けても大丈夫かな?」


 一瞬だけ間を置いて、「うむ」という言葉が返ってきた。

 そうして戸板を開いてみると、意想外な光景が待ち受けている。サリス・ラン=フォウがいまだその場に留まっており、ギバの毛皮をなめしていたのだ。


「あれ? サリス・ラン=フォウは、まだ帰っていなかったのですね」


「はい。いったん家に戻ったのですけれど、またお邪魔することになりました。どうせ仕事を果たすのなら、こちらで取り組もうかと思いまして」


 にこりと微笑むサリス・ラン=フォウのかたわらで、アイム=フォウがよちよちと足踏みしている。なめし作業の最終段階で、毛皮を踏んで薬液を馴染ませつつ、やわらかく加工しているのだ。


「それじゃあ表のピコの葉も、サリス・ラン=フォウが持ち込んだものだったのですか?」


「はい。フォウの家も立て込んでいますので、少しの時間も無駄にはできないのです」


 すると、アイ=ファが曖昧な面持ちでサリス・ラン=フォウに微笑みかけた。


「それならば、ファの家に行き来する時間こそが無駄なのではないだろうか? 夜には留守を預かってもらうのだから、何やら心苦しく思うぞ」


「アイムとふたりきりで仕事を果たすよりも、アイ=ファとともにあったほうが楽しいもの。アイムも、そう思うでしょう?」


 毛皮を踏んでいたアイム=フォウは、あどけない笑顔で「うん」とうなずく。

 そちらに微笑みかけてから、サリス・ラン=フォウはアイ=ファに向きなおった。


「それにアイ=ファだって、毛皮なめしの手順を覚えるいい機会なんじゃない? いずれはアイ=ファが手ほどきする立場になるかもしれないのだからね」


「わ、私が誰に手ほどきするというのだ?」


 アイ=ファは真っ赤になりながら、サリス・ラン=フォウの肩をぺちぺちと叩いた。俺を叩くときよりも、さらに優しい力加減だ。

 そんなさまに胸を温かくしながら、俺は表に立ち並んでいる人々の来意を告げることになった。


「実は、ジバ婆さんとリミ=ルウとルド=ルウ、それにチルとディアが来てるんだよ。よかったら、サリス・ラン=フォウたちと一緒にお相手をしてもらえないかな?」


「なに? それはずいぶんな人数だな」


「うん。みんな、アイ=ファに挨拶をしたがってるんだよ」


 アイ=ファは表情の選択に困りながら、自分の頭をかき回した。


「復活祭の慌ただしいさなかに、まったく酔狂なことだ。……サリス・ラン=フォウも、かまわないだろうか?」


「ええ、もちろんよ。お邪魔であったら、わたしたちは外に出ていましょうか?」


「サリス・ラン=フォウたちを追い出す理由はない。よければサリス・ラン=フォウも、ジバ婆たちと絆を深めてもらいたい」


 サリス・ラン=フォウも、ルウ家の面々とは何度か顔をあわせたことがあるのだ。そして、ジバ婆さんにリミ=ルウにサリス・ラン=フォウというのは、アイ=ファにとってもっとも古くからつきあいのある大切な友人たちであったのだった。


 そんな人々を母屋に迎え入れてから、俺はユン=スドラとともにかまど小屋へと向かう。そちらでは、ベイムとラヴィッツの血族たるかまど番たちが下ごしらえに励んでいた。


「みなさん、お疲れ様です。すっかり遅くなってしまいました」


「問題ありません。作業も、順調に進められています」


 武将のごとき形相で、フェイ=ベイムがそのように告げてくる。別の場所からは、マルフィラ=ナハムがふにゃんと笑いかけてきた。


「こ、こ、こちらも順調です。こ、このまま何事もなければ、予定の刻限よりも早く仕上げられるかと思います」


「ありがとう。ギバの丸焼きのほうも、何事もなく終了したよ。マルフィラ=ナハムの妹さんも、大活躍だったみたいだね」


「あはは。あ、あ、あの子も復活祭を心待ちにしていましたので」


 表の日時計を確認してみると、まだ人員の切り替えまでは四半刻ほど残されている。

 俺は仕事を手伝うつもりで、早めに戻ってきたのだが――このまま手出しをしないほうが、フェイ=ベイムたちの中に確かな自信というものが育つかもしれない。そのように考えた俺は、ユン=スドラとともに表で待機することにした。


「今日はこれまでで一番の作業量だったのに、ゆとりをもって終わらせられたら大したもんだよね」


「ええ。『中天の日』には、もっとたくさんの料理を準備できるかもしれませんね」


「今日の量でも足りなかったら、すごいなぁ。でも、そんな話もありえるのかもね」


 俺たちがそんな風に語らっていると、ドム分家の家長が「うむ?」と横合いを振り返った。母屋のほうから、チル=リムとディアがやってきたのだ。


「あれ? もうアイ=ファとのおしゃべりはいいのかな?」


「うむ。アイ=ファも多忙なようだからな。アスタも多忙なら、これで宿場町に戻ろうかと思う」


「こっちはあと四半刻ぐらいで、仕事の開始だね。よかったら、それまでゆっくりしていっておくれよ」


「うむ。……他の者たちも、異存はなかろうか?」


 ディアの視線を受けて、ドム分家の家長が「そうだな」と応じた。


「族長らは、お前たちとの交流を禁じてはいない。ただしそちらも約定に従って、身をつつしんでもらおう」


「うむ。森辺にも、チルの裏事情を知らない人間は多数存在するという話だったな。それもあって、アイ=ファのもとから離れることになったのだ。きっとあの幼子は、チルについて何も聞かされていないのだろうからな」


 いまだ3歳のアイム=フォウは、もちろんチル=リムについての裏事情など何も聞かされていないだろう。俺はちょっと切ない気分で、「そっか」と息をつくことになった。


「しかたのないことだけど、チルにはずいぶん窮屈な思いをさせてしまうね」


「いえ。むしろわたしのほうこそが、みなさんに窮屈な思いを強いてしまっているのです。心から、申し訳なく思っています」


 チル=リムは深々と一礼してから、ヴェールに隠された瞳で俺を見つめてきた。


「でも、こうして森辺の集落に立ち、アスタたちと言葉を交わすことが許されているのですから……わたしは、幸福な心地です」


「うん。俺たちだって、同じ気持ちだよ。ね、ユン=スドラ?」


「はい。それもすべて、チルが力を尽くした結果なのでしょう」


 ユン=スドラがやわらかい微笑みを届けると、チル=リムは「ありがとうございます」ともういっぺん頭を下げた。

 そうして俺たちは、四半刻という短い時間でかなう限りの言葉を交わし――その後はそれぞれ、祝祭の夜を迎えるための準備に取り掛かることになったのだった。

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