暁の日①~祝祭の始まり~
2023.1/9 更新分 1/1
・今回は全7話の予定です。
ラムが赤子を産み落としてから、2日後――紫の月の22日である。
その日がついに復活祭の正式な開始となる、『暁の日』であった。
この日は日中の屋台も休業で、その代わりにギバの丸焼きがふるまわれることになる。そして屋台の商売は、夜間に敢行するのだ。本年は黒の月の鎮魂祭でも同じ行いに及ぶことになったものの、こちらの昂揚と慌ただしさに変わるところはなかった。
ただし今回も鎮魂祭の時と同じように、ギバの丸焼きに関しては他の氏族が受け持つことになっている。今ではどの氏族でもギバの丸焼きを仕上げることに不自由はないので、そうして苦労や達成感を分かち合うことがかなうようになったのだ。
それでこのたび取り仕切り役を担ってくれたのは、族長筋のサウティに他ならなかった。ルウやファは屋台の商売、ザザは護衛役および青空食堂の手伝いと、それぞれフル稼働していたため、大きな役割を負っていなかったサウティが名乗りをあげてくれたわけであった。
「とはいえ、宿場町での働きに関してもっとも経験が浅いのは、我々であろうからな。族長筋としてすべての責任を負う覚悟だが、実際の働きに関してはあれこれ頼らせてもらいたい」
同じ仕事に取り組む小さき氏族に対しては、ダリ=サウティからそのような言葉が届けられたとのことである。
ちなみに今回、サウティとともにギバの丸焼きの仕事を受け持ったのは、ガズ、ラッツ、ベイム、ラヴィッツ、スンの5氏族であった。丸焼きの架台は7台存在するため、その内の2台をサウティの血族が引き受け、残りの5台を小さき氏族で分担する格好となる。
鎮魂祭ではルウの眷族とダイもこの役目を負っていたが、それがサウティとスンに交代された形だ。フォウの血族は近所のよしみでファの家の下ごしらえに重点を置いていたため、今回も免除されていた。
というわけで――『暁の日』の当日である。
ギバの丸焼きをふるまう現場には俺も立ちあう予定であったが、朝方には他の女衆とともに下ごしらえの仕事に励んでいた。俺たちは夜間に屋台を開くばかりでなく、明日のための下ごしらえも今日の内に進めておかなければならなかったので、とにかく仕事が立て込んでいたのだった。
しかしこういった段取りも、これまでの復活祭および鎮魂祭でだいぶんしっかりとしたシステムが構築されている。とりわけ大きかったのは、鎮魂祭の経験だ。何せ鎮魂祭というのはティカトラスの発案でいきなり実現したため、準備期間に限りがあり、それで俺たちも可能な限り効率的で無理のない段取りを模索することになったわけであった。
それで新たに考案されたのは、下ごしらえの当番制である。
朝から晩まで同じメンバーで働くというのは、あまりに負担が大きい。それで、三刻ごとに当番を入れ替えることになったのだ。このような段取りを組めるようになったのも、数多くの女衆がかまど番としての力量を上げた結果であった。
『暁の日』たる本日は、上りの三から六の刻までがフォウとガズの血族、そこから下りの二の刻までがラヴィッツとベイムの血族、そこから下りの五の刻までがラッツと再びフォウの血族という班分けになっている。ここでご近所であるフォウの血族を、大きく頼らせていただいているわけであった。
「ルウの家でも、ファの家の段取りを参考にさせていただいたよ! 確かに同じ人間が朝から晩まで働くってのは大変すぎるし、色んな相手にまんべんなく仕事を回したほうが喜ばれるしね!」
そのように語っていたのは、ルウの取り仕切り役であるララ=ルウである。そちらでは、ルウとダイの血族で班分けをしたとのことであった。
また、トゥール=ディンも本年はリッドばかりでなくザザの血族の協力が実現したため、2交代制の段取りを組んだのだそうだ。トゥール=ディンの出している屋台は1台のみであったものの、最近では作り置きの菓子も含めて2種を販売しているし、とにかく宿場町では大人気であるため、下ごしらえの手間も相応にかさんでいたのだった。
「それにしても、大変な量ですね。これだけの食材が一夜にして食べ尽くされてしまうというのは、なかなか想像がつきません」
そのように語っていたのは、ヴェラの家長の妹にしてフォウに嫁入りした女衆である。彼女もフォウの血族として、朝方の下ごしらえに参じてくれたのだ。月の頭に婚儀を挙げた彼女は髪を短く切りそろえて、一枚布の装束もすっかり身に馴染んだ様子であった。
「これまでの復活祭は営業時間を二刻に絞っていたんだけど、今日は半刻ぐらい延長になってもかまわないって意気込みで料理を準備することになってね。それで、これだけの量になったんだよ」
もちろんそれは、ルウやディンや《キミュスの尻尾亭》とも協議した上での結果である。祝日の夜に営業時間が二刻というのはあまりに物寂しいと、あちらこちらからご意見をいただくことになったのだ。
「それにたしか去年の『暁の日』なんかは、一刻半ていどで半分の屋台が品切れになっちゃったはずだからさ。いつも初日は様子見で料理の量をひかえめにするから、そういう事態になっちゃうわけだね。だから今年は、ちょっと強気で挑んでみようかって話に落ち着いたわけだよ。昨日までの客足を考えると、売れ残りの心配をする必要はないはずだからね」
「本当に今年は、たいそうな賑わいであるのですね。自分の目でそれを見届けるのが楽しみでなりません」
新婚である彼女も伴侶や新たな家族とともに、空いた時間は宿場町に下りる予定になっているのだ。そちらでは、ひさびさにヴェラの家長たる兄君とも再会できるはずであった。
その他にも、ユン=スドラやレイ=マトゥア、屋台の当番であるガズやフォウやランの女衆も下ごしらえに取り組んでくれている。彼女たちは夜間も屋台で働く予定であるのに、こちらの仕事を志願してくれたのだ。
しかし今回は鎮魂祭のときよりもじっくりと段取りを組むことができたし、昨日の昼下がりにも肉の切り分けや食材の整理といった仕事を進めておくことができた。3交代制で合計九刻という時間を使えば、今日の夜と明日の昼の商売で必要な料理の下準備は滞りなく終えられる計算になっていた。
そうして上りの六の刻が近づくと、昼の当番であるベイムとラヴィッツの血族が集結する。俺はここでいったん離脱するため、取り仕切り役となるのはフェイ=ベイムとマルフィラ=ナハムのコンビであった。
「それじゃあ、下りの二の刻まで、よろしくお願いします。俺もゆとりをもって家に戻るつもりですので」
「いえ。どうぞお気遣いなく。定められた刻限は、自分たちの力で乗り越えてみせます」
フェイ=ベイムは殺気にも似た気迫を撒き散らしながら、そんな風に宣言してくれた。場を取り仕切る面はフェイ=ベイム、実務の面ではマルフィラ=ナハムという分担で、ダブルリーダーとさせていただいたのだ。フェイ=ベイムは長らくナハム本家に滞在しているため、今では個人間の連携にも心配はなかった。
作業の引き継ぎを終えた第1班は、三刻ぶりにかまどの間を出る。この後は自由行動であるが、半数以上の人間は宿場町に出向く手はずであった。
「それじゃあ出発前に、俺はアイ=ファに声をかけておくね。よかったら、みんなは荷車で待ってておくれよ」
俺がそのように告げると、レイ=マトゥアは瞳を輝かせながら「いえ!」と声を張り上げた。
「それでしたら、わたしもご一緒させてください! ひと目でも、犬の赤子を見ておきたいので!」
「それなら、わたしも」と、ユン=スドラがはにかみながら進み出てくる。やはり誰もが、赤子の愛くるしさに魅了されているのだろう。俺としては、くすぐったさと誇らしさが入り混じったような心地であった。
そしてさらに、サリス・ラン=フォウも追従してくる。彼女はアイム=フォウをアイ=ファに預けつつ、朝方の下ごしらえを手伝ってくれたのだ。俺たちが列を為して母屋に向かうと、アイ=ファがほっとしたような面持ちで出迎えてくれた。
「戻ったか。アイム=フォウが、寝付いてしまったのだ」
サリス・ラン=フォウは、「まあ」と楽しそうに微笑んだ。3歳児のアイム=フォウは、アイ=ファの膝枕で寝入っていたのである。
アイ=ファたちは広間に座しており、土間の帳は少しだけ開かれている。アイ=ファはその隙間から、ずっとラムたちの様子をうかがっていたのだろう。産後の犬はしばらく気が立っているとのことであったが、帳の外からうかがう分には余計なストレスを与えずに済むようであった。
「アイムが余所の家で寝入ってしまうというのは、珍しい話だわ。きっとそれだけ、安らいだ心地であるのでしょうね」
「それはきっと、ラムや赤子たちのもたらす安らぎであろうな」
アイ=ファはアイム=フォウの眠りをさまたげることもできず、ずっと固まっていたのだろう。サリス・ラン=フォウがくすくすと笑いながらその小さな身体を抱きあげると、アイム=フォウは「ううん」と可愛らしくむずかるような声をあげたが、それでも目を覚まそうとはしなかった。
その間に、ユン=スドラとレイ=マトゥアは帳の隙間からラムたちの様子をうかがう。俺も覗き見させていただいたが、赤子たちは熱心に乳を吸っているさなかであった。
「わあ、また乳を飲んでいますね。何だか見るたびに乳を吸っているように思います」
「うん。そのせいか、ラムも食欲がすごいんだよね。普段の5割増しで食べてるんじゃないかな」
「それらの滋養も、のきなみ赤子に注がれているのでしょうね。きっと3頭とも、立派な猟犬に育つことでしょう。……あ、でも、まだ雄か雌かも確認していないのですよね」
「うん。産まれて10日や半月ぐらいは、むやみにさわらないほうがいいって話だったからさ。名前をつけるのも、それまでおあずけだね」
ラムたちを刺激しないように、小声で言葉を交わし合う。そうすることで、その場にはいっそうやわらかい空気がたちこめるように感じられた。
「それじゃあ俺たちは、宿場町の様子を見物してくるよ。アイ=ファは予定通り、居残るんだよな?」
「うむ。赤子らに何かあっては、悔んでも悔みきれんからな」
そんな風に応じながら、アイ=ファはじっと俺の顔を見つめてくる。その眼差しだけで、アイ=ファがどれほど俺のことを案じてくれているかは痛いぐらいに伝わってきた。
しかしそれでも、アイ=ファは家に居残ることを選んだ。俺に対してあれだけ過保護であったアイ=ファが、この際は赤子たちを見守るという決断をしたのだ。それは俺よりもかよわい家人を迎えたことによって生じた変化なのだろうと思われた。
「それじゃあわたしは、もうしばらく居残らせていただくわね。アスタたちは、どうぞお気をつけて」
「うむ? サリス・ラン=フォウには夜の留守を預けるのだから、今は身を休めてもらいたく思うぞ」
「だって、アイムが目覚めたときに犬たちの姿がなかったら、がっかりしてしまうかもしれないでしょう? それにアイ=ファのそばだったら、わたしも自分の家と同じぐらい心を安らがせることができるわ」
サリス・ラン=フォウがとても温かい笑顔でそのように応じると、アイ=ファは照れているような困っているような面持ちで自分の頭をかき回した。
そんなふたりにあらためて別れの挨拶を届け、俺たちは母屋を出る。
するとこちらでは、ユン=スドラが俺に微笑みかけてきた。
「アイ=ファもサリス・ラン=フォウの前だと、気を張らずに済むようですね。アイ=ファのああいった姿はなかなか目にする機会がありませんので、とても好ましく思います」
「うん。サリス・ラン=フォウは、数少ない幼馴染だからね。でもアイ=ファは、ユン=スドラたちにだって心を開いてるはずだよ」
「ええ、それはわかっています。でもやっぱり、わたしたちの前ではファの家長という立場を忘れることはできないのでしょう。それはそれで、アイ=ファの大きな魅力なのですが……ああいう安らいだ姿も、同じぐらい魅力的だと思います」
ユン=スドラの笑顔にはまじりけのない真情がたたえられていたので、俺も素直に「うん」と笑顔を返すことができた。
そこに、新たな荷車がやってくる。ドッドが運転する、ディンの家の荷車である。
「待たせたな。そちらには、ディガ=ドムと分家の家長が同乗するぞ」
「ありがとうございます。本来の仕事は夜からなのに、わざわざすみません」
ギバの丸焼きに取り組む女衆は、同じ氏族の狩人たちが護衛する手はずになっているのだ。しかしドッドは気さくに「謝る必要はねえさ」と言ってくれた。
「もともと俺たちだって、昼から宿場町に下りるつもりだったしよ。それに昨晩、後続の狩人がどっさり到着したもんで、人手は有り余ってるんだ。ゲオル=ザザなんかはディック=ドムと段取りの確認をするんだって、ひと足先に向かっちまったよ」
そんなわけで、ギルルの荷車にはディガ=ドムとドム分家の家長を迎え、空席のできたディンの荷車にはガズの女衆を2名乗せてもらうことになった。
ユン=スドラとレイ=マトゥアとランの女衆はこちらに同乗し、ヴェラの家長の妹たちはファファの荷車で迎えに来てくれたフォウの狩人とともに出立だ。
「よう、アスタ。いよいよ本当に、復活祭の始まりだな」
俺が荷台に乗り組むなり、御者台のディガ=ドムが笑いかけてきた。同乗する分家の家長というのは、ディガ=ドムの新たな家族である。彼もこれまでは姿がなかったので、昨晩に駆けつけた増援部隊のひとりであるのだろう。
「俺とドッドは今日の夜まで護衛役を務めたら、いったん家に戻るからさ。次は『中天の日』が終わってからになるんで、よろしくな」
「はい。休息の期間は、家族との絆も深めないといけませんもんね」
俺は温かい気持ちで、そんな風に答えることができた。ディガ=ドムにとっては、新しい家族ができてから初めての休息の期間であるのだ。
「実のところ、俺が当番であったのも『中天の日』の後であったのだがな。ルティムに寝床の空きがあるとのことであったので、今日だけ参ずることにしたのだ」
と、分家の家長はそのように告げてくる。ドム本家の兄妹ばかりでなく、ドムの家人は全員がルティムの血族であるのだ。ならば、寝床を借りるのに何をはばかる必要もないはずであった。
「俺とドッドも、今日はルティムのお世話になるんだよ。ディンとリッドは、他の血族でもういっぱいさ。ザザにジーン、ハヴィラやダナからも、予定以上の人数が押しかけてきちまったからな」
「うむ。いっそディンやリッドの集落には、血族が夜を明かすための家でもこしらえるべきかもしれんな。さすれば、こういった際にも遠慮なく参ずることがかなおう」
「はは。今の段階でも、あんまり遠慮してるようには思えないけどな」
ディガ=ドムは、家長を相手に気安く言葉を返す。そんな姿にも、俺はしみじみとした喜びを噛みしめることになった。
そうして荷車は、一直線に宿場町を目指す。今日はルウの人々とも、別個で動く手はずになっていたのだ。あちらはあちらで、こちら以上の人員を宿場町に向かわせているはずであった。
ルウの人々とは別行動で、ザザの血族とともに宿場町に向かうというのは、いささか奇妙な心地であったが――それはきっと、氏族間の交流が密になった証であるのだろう。べつだんルウとの交流が薄まったわけでもないのだから、俺の胸にはひたすら満ち足りた思いだけが宿されていた。
「そういえば、ザザの雌犬もこのたびは子を授からなかったのでしたっけ?」
会話が少し途切れた隙間に、レイ=マトゥアがそのように質問した。
ドム分家の家長は、厳粛なる面持ちで「うむ」応じる。
「この時期に至っても腹が大きくならないのだから、そういうことなのであろう。そちらは……いずれの氏族の家人であろうか?」
「わたしはマトゥアの家人です。親筋たるガズの雌犬も子を授からなかったので、とても残念に思っていました。ファの家に産まれた赤子たちは、たまらない可愛らしさでしたよ」
「そうか。次の機会が、楽しみなところだな」
こちらの家長はディック=ドムに負けないぐらい大柄で、しかも壮年の男衆だ。その迫力の度合いもディック=ドムに負けていなかったが、しかしレイ=マトゥアを威圧しようという気配は微塵もなく、ごく自然に言葉を交わしているように見受けられた。
これはアクティブで人見知りしないレイ=マトゥアの功績であろうが、家長のほうでも小さき氏族を見下す気持ちがないということだ。きっと2年ばかりも昔の時代には、こんな会話も成立しなかったのだろうと思われた。
そうして俺たちがひそやかに交流を温めている中、荷車は宿場町に到着する。
俺の提案で、町の入り口から全員荷台を降りることになった。復活祭の様相を見届けるには、そうするべきだと考えたのだ。
そこでサチが「なう」と声をあげたので、俺はこの日のために準備していたアイテムの存在を思い出した。俺がそれを装着していると、ユン=スドラがきょとんとした顔で問うてくる。
「アスタ、それはもしかして……赤子の抱き袋でしょうか?」
「うん。サチをどうやって連れ歩こうかと思案してたら、サリス・ラン=フォウにこれを使ってみたらどうかって提案してもらったんだよね」
以前は俺の肩に乗っていたサチも、今では体長30センチぐらいに成長しているのだ。そんなサチを抱きあげて、胸もとにさげた抱き袋の内に収納すると、ユン=スドラは「まあ」と口をほころばせた。
「ちょっと珍妙ではありますけれど、とても可愛らしい姿ですね」
「あはは。サチだって、見た目の可愛らしさは子犬たちに負けてないからね」
俺たちのやりとりなどどこ吹く風で、サチは大あくびをした。袋の隙間から小さな頭だけを覗かせた姿で、案外居心地は悪くない様子である。
そうして俺たちが荷台を降りると、ファファやディンの荷車からも森辺の男女が姿を現した。トゥール=ディンの姿を発見した俺は手を振って、ちょっぴり気恥ずかしそうな笑顔を返事にもらうことになった。
あらためて、俺たちは街道に足を踏み入れる。
やはり本日は、これまで以上の賑わいであった。
老若男女も、人種の区別もない。宿場町の領民であろう老人や幼子に、黄色い声をあげる若い娘さんがたに、行商人と思しき人々に、南の民や東の民――東の民を除く人々は、誰もが昂揚をあらわにしている。太陽神の赤い旗も、格段に数が増えたようであった。
「アスタ。いつもの宿屋で、トトスや荷車を預けるんだよな?」
「はい。今日は屋台の裏も、荷車でいっぱいでしょうからね」
そうして《キミュスの尻尾亭》に向かってみると、もう表のほうにまで座席が出されて、果実酒をあおっている人々の姿が見受けられる。ギバやキミュスの丸焼きが仕上げられるのは中天になってからだが、ふるまい酒はすでに配られている頃合いであったのだ。しかしその場には、森辺の民に絡んでくるような酔漢も存在しなかった。
「お忙しい中、すいません。トトスと荷車を三刻ほど預かっていただけますか?」
俺がそのように呼びかけると、ちょうど給仕を終えたタイミングであったテリア=マスが笑顔で振り返ってきた。
「ああ、アスタ。みなさんも、どうもお疲れ様です。トトスと荷車は、3組でしょうか? それでしたら、まだ倉庫のほうも空きがあります」
「こんなに賑わっていると、倉庫が埋まってしまうこともありえそうですね。どうぞよろしくお願いします」
俺たちはテリア=マスの導きで、裏の倉庫まで歩を進めた。表の喧噪がわずかばかり遠のいて、ようやくひと息つけた心地だ。
「先刻は、ルウの方々からもトトスと荷車をお預かりしました。露店区域のほうは、もう大層な賑わいであるようですよ」
「そうですか。《キミュスの尻尾亭》は、屋台でキミュスの丸焼きを仕上げる仕事をお断りしたそうですね」
「ええ。今年は宿の仕事が立て込んでいるもので、お断りすることになりました。レビたちは夜に備えて、らーめんの下ごしらえを始めています」
キミュスの丸焼きを屋台で仕上げるというのはジェノス城から手間賃が支払われる正式な依頼であり、お断りすることもできるのだ。ただ、そういう宿屋もおおよそは厨でキミュスの丸焼きを仕上げて、お客にふるまっているはずであった。
無事にトトスと荷車を預けた俺たちは、あらためて露店区域を目指す。
街道をどこまで進んでも、賑わいがやわらぐことはなかった。中天まで半刻ぐらいの時間を残しつつ、ずいぶんな盛り上がりようである。そのさまに、ドム分家の家長は少なからず辟易している様子であった。
「俺はつい先日にも、鎮魂祭の賑わいを見届けているのだが……これは確かに、あのときとも比較にならない騒ぎであるようだな」
「ええ。あれは突然の祝祭でしたからね。今日はもう、待ちに待った人々が寄り集まってるんだと思います」
そこでユン=スドラが、「そういえば」と声をあげた。
「トゥランで新たな領民を募ったのは、今年になってからでしたよね。もしかしたら、そちらの方々も宿場町に参じているのではないでしょうか?」
「ああ、そうか。ダレイムの人たちが来てるんだから、トゥランから来ててもおかしくないね。それはちょっと、盲点だったよ」
トゥランにはちょっとした酒場ぐらいしかないようであるので、鎮魂祭や復活祭を楽しむには宿場町に出向くしかないのだろう。ジェノス城から無料で酒と肉がふるまわれるのも、城下町と宿場町の限定であるはずなのだ。
そうしてようやく露店区域まで辿り着くと、早くも食欲中枢を刺激する香りが漂ってくる。ギバほど時間のかからないキミュスも、すでに焼きあげの作業が始められていた。
祝日の日中は屋台の営業が禁止されているため、街道の左右にはキミュスの丸焼きを仕上げる屋台だけがずらりと並べられている。人々は酒樽から注いだ果実酒を酌み交わし、あちこちで「太陽神に!」という乾杯の声をあげていた。
狩人たちに囲まれた編成で、俺たちはさらに突き進み――そうしてようやく、森辺の同胞が働く場に到着することができた。
こちらは露店区域の北の端であるが、やはり賑わいのほどに差はない。むしろ、これまでより騒がしいほどである。それだけの人々がギバの丸焼きや森辺の民との交流を求めているのかと思えば、ありがたい限りであった。
「とりあえず、裏手でいったん落ち着かせてもらおう」
ドム分家の家長の指示で、俺たちは屋台の裏手に回り込んだ。
そちらで待ち受けていたのは、俺にとって限りなく慣れ親しんだ人々――ルウとサウティの面々であった。
「よー、アスタもやっと来たのかよ。ずいぶんのんびりしてたなー」
ルド=ルウが、いつもの調子で挨拶の言葉を投げかけてくる。そのかたわらではジバ婆さんが車椅子に座しており、ジザ=ルウ、シン=ルウ、ディグド=ルウという屈強の狩人たちが守りを固めていた。そしてその輪の中でジバ婆さんとともに笑っているのは、リミ=ルウとターラだ。
「アスタもみんなも、お疲れさまー! お肉が焼けるのが待ち遠しいね!」
この中で、ジバ婆さんとリミ=ルウ、ルド=ルウとシン=ルウは、昨晩ドーラ家に宿泊した顔ぶれとなる。それで増援の狩人たちと合流し、この場に参じたのだろう。昨年までは、俺もその一員であったのだった。
そしてその他にも、ダリ=サウティやヴェラの家長やドーンの長兄や、さらにさまざまな氏族の人々が居揃っている。護衛役としては多すぎるし、中には女衆や幼子なども見受けられるので、見物人も入り混じっているのだろう。これでは往来と大差のない賑わいであった。
「おお、そちらも到着したか。しかし、見ての通りの有り様なので、俺たちが控える場所を探すのが難しいほどだぞ」
と、裏手の駐車スペースから、苦笑を浮かべたゲオル=ザザと落ち着いた面持ちのディック=ドムが進み出てくる。夜に備えて、警護の打ち合わせをしていたのだろう。
「きっと夜には、これ以上の騒ぎになるのだろうな。昨晩の寝床は窮屈でならなかったが、護衛役の人手が余ることにはならなそうだ」
「ええ。こちらの想定を上回る賑わいになりそうです。お手間をかけますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「うむ。この夜まではディック=ドム、明日からは俺の取り仕切りとなる。ドムの家人は明日あらかた家に戻るので、お前たちもそのつもりでな」
そんな風に言ってから、ゲオル=ザザは珍しくも俺に耳打ちしてきた。
「そのような順番になったのも、すべて例のチルという娘の一件のせいなのだ。その娘が現れた際には親父がルウまで出向くことになろうから、俺が家を守る必要があったというわけだな」
「ああ、そうだったのですか。それはどうも、お手数をかけました」
「ふん。族長たるダリ=サウティが認めた話であるのなら、お前たちが秘密を抱えていたことを詫びる必要はあるまい。何にせよ、面倒な話は丸く収まったのだしな」
ゲオル=ザザはにやりと笑い、俺の肩を軽く小突いてきた。
そうして笑顔のまま、今度はトゥール=ディンのほうを振り返る。
「トゥール=ディンも、ご苦労だったな。仕事のほうは、順調か?」
「はい。スフィラ=ザザたちのおかげもあって、予定よりもすみやかに進めることができています」
トゥール=ディンがはにかみながらそのように答えると、そのかたわらにぴったりと付き添っていたスフィラ=ザザがクールな眼差しで弟を見返した。彼女も昨晩になって、ようやく合流することができたのだ。
屋台の周囲には、ラッツの若き家長やラヴィッツの長兄、スンの家長やベイムの長兄などの姿もうかがえる。おおよその氏族は、こういった祝日を休息の日に定めているはずであった。
また、屋台ではクルア=スンやラッツの女衆といった屋台でお馴染みの顔ぶれや、サウティ分家の末妹やダダの長姉やドーンの末妹、マルフィラ=ナハムの妹であるナハムの末妹といった顔ぶれも働いている。ファやルウやディンで下ごしらえを手伝う人々とは別に、こちらでは14名もの女衆が駆り出されているのだ。これもまた、まぎれもなく森辺の女衆の層が厚くなった証であった。
そうして森辺の同胞の姿をうかがっているだけで、大変な充実度だ。
そして俺たちの本懐は、町の人々との交流となる。俺たちはこれからこの顔ぶれで、さまざまな人々と交流を楽しめるのだった。




