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異世界料理道  作者: EDA
第七章 母なる森のもとに
130/1675

プロローグ ~今日から明日へ~

2014.11/18 更新分 1/1


明日から書きため期間に入ります。更新再開の予定が立ったら活動報告にて告知いたしますので、良かったらお気に入りユーザーの登録をお願いいたします。登録すると、活動報告の更新が自動で告知されるようになります。


「アスタ、それはいったいどういうことだ!」


 完全に抑制を失ったアイ=ファの声が響きわたり、俺は心底からびっくりしてしまった。


 ルウの集落の、空き家である。

 スンの集落から帰還して、現在は中天と日没の中間あたり。眠気を払う意味で水場を拝借し、非常にすっきりした気持ちで帰ってきたところに、そのような大声を叩きつけられてしまったのだ。


 広間の真ん中で仁王立ちになり、アイ=ファはぷるぷると全身を震わせている。

 怒りの形相――としか言い様のない顔つきである。

 後ろ手で戸板を閉めながら、「何をそんなに怒ってるんだ?」と、俺はおそるおそる聞いてみた。


「何をではない! お前というやつは……!」


 ずかずかと、アイ=ファが大股で近づいてくる。

 そしてアイ=ファは、なすすべもなく立ちつくす俺の胴体の真ん中あたりに、びしりと指先を突きつけてきた。


「その傷だ! その傷跡は、何なのだ!?」


「ああ、これか……これはな、昨日の夜、ドッド=スンに蹴り飛ばされた跡だよ。俺も服を脱いでみてびっくりしちゃったな」


 水場でTシャツの洗濯も済ませてきた俺は、ベストだかチョッキだかを羽織っただけの軽装であったのだ。

 それゆえに、腹の真ん中あたりにくっきりと刻まれた青黒いアザがさらけ出されてしまっていた。


 だけどまあ、森辺の男衆に蹴り飛ばされてこのていどの怪我で済んだのだから、僥倖であろう。当たりどころが悪ければ、肋骨ぐらいは簡単にへし折られていたはずだ。


 しかし――アイ=ファはぷるぷると震えてしまっている。


「そんな話は聞いておらんぞ! 何事もなく無事に済んだと言っていたではないか! お前は私をたばかっていたのか、アスタ!」


「ええ? これぐらいのことは無事の範疇だろ! 意識しなければ痛くもないていどの傷だし!」


「……意識をすれば、痛いのだな」と、アイ=ファがぺたりと座りこんだ。

 そうして、超絶的な至近距離から、俺の腹部を凝視する。


「まさかあの次兄めが、このような真似をしていたとは……くそ! ドンダ=ルウらに身柄を引き渡す前に、私が粛清しておくべきだった!」


「いや、でも、俺もあいつの手の甲をしこたまかじってやったからさ。ダメージはたぶん五分五分ぐらいだよ。報復の必要はございませんって」


 アイ=ファは無念そうに唇を噛み……そして、自分の手の平をそっと傷跡にそえてきた。


「……ひどく痛むのか? 薬は必要か?」


「いや全然! 放っておけば、すぐに消えるよ。心配してくれてありがとうな」


「……口惜しい」と、アイ=ファが手を離す。

 そして。

 今度は俺の胴体に両腕を回し、傷跡に頬をあててきた。

「うわー!」と内心で叫びつつ、俺は動くこともかなわない。


「ほ、ほ、本当に大丈夫だって! いくら何でも心配しすぎだろ! 狩人にとっては、こんなのかすり傷だろう?」


「お前は狩人ではない。かまど番だ」


「いや、それはその通りなんだけど……」


 アイ=ファが、きゅっと両腕に力をこめてくる。

 俺はもう、悶死の寸前である。


「……お前が傷つくのは、嫌なのだ」と、アイ=ファが低くつぶやいた。


「お前のようにか弱い人間が傷ついてしまうのは、この身が引き裂かれるよりもつらい……そして、家人を守りきれぬ己の非力さが口惜しい……」


「そんなことはないよ。あれだけの大騒ぎで、俺たちはこうして五体満足に生きのびることができたんだから、それは喜ぶべきことだろう?」


 まだ頭の中身は半分パニック状態のまま、それでも俺はそんな風に応じることができた。


「俺は、お前が無事でいてくれたことが、とてつもなく嬉しかったよ。ディガ=スンなんかにお前がどうこうされていたら……俺のほうこそ、正気ではいられなかったと思う」


「うむ。確かに私も何者かに気つけの酒を飲まされていなかったら、今少しは危うい状況になっていたのかもしれんな」


 俺の腹に頬をおしあてたまま、アイ=ファはふっと息をつく。

 その温かい息の感触に、また背筋がぞくぞくとしてしまう。


「もはやスン家には私たちを害する力はあるまいが、この先もいかなる苦難が待ち受けているかもわからん。私たちは、慢心することなく、これまで以上に注意深く生きていくべきなのだろう」


「ああ。その意見には大賛成だ」


 だからそろそろその腕を解放してくれまいか――とか考えていたところで、背後の戸板が外からノックされた。


「アスタ、まだ準備はできないのぉ……?」


 ヴィナ=ルウである。

 この後は、明日のための仕込み作業が待ち受けているのだ。


「はい! 少々お待ちくださいませ! ……それじゃあアイ=ファ、俺は仕事をしてくるよ」


「うむ……」と、ひどく緩慢な動きで、俺の腰から腕をほどく。

 そうして、床にぺたりと座りこんだまま、アイ=ファはじっと俺の顔を見上げやってきた。


「何か、私にも手伝えることはあるか?」


「うん、なくはないと思うけど。でも、お前も眠いんじゃないのか?」


「そうそう明るい内から眠る気にもなれん。手伝う仕事がないならば、私は薪を集めてくる」


「それなら、手伝ってくれ。俺も何だか……」


 一緒にいたい気分だからな、という言葉は飲みこんでおくことにした。

 明日からはまた離ればなれで仕事に励むことになるのだから、それまでは少しでも一緒にいたいと思う。


 アイ=ファは立ち上がり、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めて、「わかった」と言ってくれた。


           ◇


 さて、頭を切り替えるのもひと苦労である。

 明日からは屋台の商売が再開され、明後日からは宿屋での商売も始まる。

 スン家への対応でいっぱいいっぱいであった脳内をリセットして、気持ちも新たに取り組まなくてはならない。


「けっきょく明日も、100個ずつにするのよねえ……? まずは何をしたらいいのかしらぁ……?」


「とりあえずは『ギバ・バーガー』用のアリアを刻みましょう。100個分だと、えーと、25個ですね」


 お手伝いを志願してくれたのは、ヴィナ=ルウである。

 むろん、給与は発生する。現在が中天と日没の中間地点であるので、日没までのおよそ3時間半。赤銅貨3枚のお手当だ。


「……しかし、この給与形態も見直すべきなのかもしれませんね。半日も拘束されて代価は赤銅貨6枚なんて、時給に換算したら赤銅貨1枚足らずってことになっちゃいますし」


 アイ=ファと3人で運んできたアリアに調理刀を入れつつ、ヴィナ=ルウは不思議そうに首を傾げた。


「でもぉ、たしか毛皮をなめすのにも半日かかるから、それをもとにして銅貨6枚っていう代価を決めたんでしょぉ……? 今さら変えようがないんじゃなぁい……?」


「うーん。それはその通りなんですけど……あと、肉の代価もですね。今はギバ1頭分で赤銅貨12枚しか払ってませんけど、カロンの肉だったらその10倍以上の値段になるんですよ。俺としても、宿場町でギバ肉を売るなら、それと同等かそれ以上の値段にしたいと願っているわけですし。そんなギバ肉に赤12枚しか支払わないというのは、何とも心苦しいです」


「うぅん……? 前々から思ってたんだけどぉ、どうしてアスタは自分が損をするように話を持っていこうとするのぉ……? 誰も何の不満も持っていないんだから、みずから損をする必要はないんじゃないかしらぁ……?」


「そうですね。でも、こうして家長会議を終えて、ルウ以外の氏族とも協力していく下地ができあがったわけですから、富の分配については今まで以上に話を詰めていく必要があると思うんです」


 端的に言って、ルウ家はもともと森辺においてもトップクラスの豊かな氏族である。ギバの肉などありあまっているし、生活にも困窮していない。現在の肉の代価だって、ミーア・レイ母さんはもっと低くても良い、と言っていたぐらいなのだ。


 しかし今後は、フォウのように小さな氏族からも肉を買うことになる。

 それで赤銅貨12枚というのは、あまりに安価であると思えてならない。


 そのあたりの価格設定は、豊かな氏族でなく貧しい氏族を基準に定めるべきであろう、と思うのだ。


 かといって、いきなり赤銅貨100枚などを支払ったら、みんな腰を抜かしてしまうかもしれない。


 富は、人間を堕落させるだけのものではない、というスタンスで取り組んでいる俺たちであるが。これまでの価値観を木っ端微塵にしてしまうのは、やはり危険な行為であろう。


 いまだにその件に関しては懐疑的であるザザ家の家長たちなどにも納得してもらえるように、慎重にことを進める必要があるはずだ。


「……どうしたのぉ、アイ=ファ……?」


 と、アリアを刻んでいたヴィナ=ルウが、けげんそうにアイ=ファを振り返った。

 アイ=ファは、妙に熱心な眼差しでヴィナ=ルウの手もとを見つめている。


「いや……ずいぶん巧みに刀を扱うものだと思っただけだ。ルウの長姉はそこまでかまど番を得意にはしていなかったように思うのだが」


「ふぅん……? それはまあ、これだけ手伝う機会があれば上達するだろうし……それに、最近はかまど番の仕事が楽しくなってきたのよねぇ……」


 と、ヴィナ=ルウが色っぽく口もとをほころばせる。


「そういえば、アイ=ファもこうしてかまど番を手伝うことは多いけど、刀は全然使わないわよねぇ……? それには何か理由でもあるのかしらぁ……?」


「うむ? 理由などは特にないが。ファの家のかまど番はアスタであるからな。私などが手を出しても、料理の味が落ちるだけであろう」


「へぇ……あくまでもアイ=ファは狩人である、ということなのねぇ……?」


「ああ、その通りだ」


 アイ=ファとヴィナ=ルウがここまで言葉を交わすのは珍しいことだ。

 これがララ=ルウあたりなら、俺もきわめて微笑ましい心地を得ることができるのだが。この組み合わせは、ちょっと微妙である。

 そんなことを考えていたら、ヴィナ=ルウは微妙どころでない発言をかましてきた。


「ねぇ……アイ=ファは本当に、誰の嫁にもなるつもりはないのぉ……?」


 どちらかといえば穏やかな感じであったアイ=ファの顔が、それで一気に不機嫌そうになってしまう。


「ああ。ドンダ=ルウにも、それは何度も告げているはずだ」


「ドンダ父さんはこの際どうでもいいわぁ……それに、昨日の夜のあの感じだと、もう血の縁にそこまでこだわらなくても、ルウとルティムはファの友、って感じだものねぇ……」


「……2年前にこじれてしまったルウとの縁が正しく結ばれることになるなら、それは私も嬉しく思う」


「そうよねぇ、わたしも嬉しく思っているわぁ……それで、そういう話を抜きにしても、アイ=ファは誰の嫁になるつもりもないのかしらぁ……?」


「ないと言ったら、ない。いったい何に固執しているのだ、ルウの長姉は?」


「うぅん……それなら、アスタが嫁を取ることになっても、アイ=ファが反対することはないのかなあって思ってねぇ……」


「ちょっとヴィナ=ルウ! いきなり何を言っているんですか!?」


 たまらず俺が口をはさむと、ヴィナ=ルウはくすくす笑いだした。


「たとえばの話よぉ……アスタがよその家に婿入りするのは困るでしょうけどぉ、ファの家人のまま嫁を迎えるって話なら、アイ=ファに反対する理由はないのかしらぁ……?」


 おそるおそる、俺はアイ=ファのほうを盗み見てみた。

 アイ=ファは――子どものように、きょとんとしてしまっていた。

 そして、その表情のまま、ぐりんと俺のほうに向きなおる。


「アスタよ。誰か嫁に迎えたい女衆でもできたのか?」


「できてない!」


「そうか」と、アイ=ファはヴィナ=ルウのほうに目線を戻した。


「できていないそうだ」


「今のところは、でしょぉ……? この先は、どうなるかわからないじゃなぁい……?」


 再び、アイ=ファが俺に向きなおる。


「この先、できるのか?」


「できないよ! 俺は誰を嫁に取るつもりもないって、普段から話してるだろう?」


「そうか。そうであったな」


「……だけど、人の気持ちは変わるものでしょぉ……? いつか、アスタの嫁になりたいっていう女衆が現れて、アスタもそれを受け入れる気持ちになれたら、アイ=ファは家長としてそれを祝福してくれるのよねぇ……?」


「祝福……」と、アイ=ファは目をぱちくりとさせる。


「祝福……祝福か……」


「そうよぉ……家長なら、家人の婚儀を祝福するのが、当然のつとめよねぇ……?」


 アイ=ファは、機能停止してしまった。

 何やら深く思い悩んでいる――というよりは、頭の中からハードディスクの駆動音でも聞こえてきそうなたたずまいである。


「あ! アイ=ファだ!」と、そこに救いの天使が舞い降りた。

 リミ=ルウである。


「アスタもヴィナ姉もおかえり! ねえ、家長会議はどうだったの!?」


 リミ=ルウは、中天からずっとサティ・レイ=ルウとともにピコの葉摘みの仕事に励んでいたのだ。

 俺たちが帰還したとき、本家にはコタ=ルウの子守りをまかされていたティト・ミン婆さんとジバ婆さんしかいなかったので、家長会議の結果はそのふたりにしか知らされていない。


「えーっとね、話すと長くなるんだけど……ここはドンダ=ルウの帰りを待ったほうがいいんじゃないのかな」


「え? ドンダ父さんは帰ってきてないの?」


 新たに定められた三大族長とその眷族たちは、スンの集落に居残って、数々の後始末に追われているのである。帰還したのは、女衆だけだ。


「そっかー。でもみんなが無事で良かったよ! ね、アイ=ファ、ジバ婆のところでお話しようよ!」


「いや、私はアスタの仕事を手伝っているのだが……」


「えーっ! だけどアイ=ファもアスタも明日にはファの家に帰っちゃうんでしょ? そしたらまたしばらくは会えなくなっちゃうじゃん! 昨日もお話できなかったんだから、今日はいっぱい一緒にいたいよぉ」


 子犬のように、リミ=ルウがアイ=ファにまとわりつく。

 まだあんまり機能回復していなそうなアイ=ファに、俺はにっこり笑いかけてやった。


「こっちのほうは大丈夫だから、行ってあげたらどうだ? ジバ=ルウももっとお前と喋りたいだろうしさ」


「そうか。……では、少し行ってくる」


 そしてアイ=ファは、何とも不明瞭な面持ちでヴィナ=ルウを振り返った。


「ルウの長姉よ、さっきの話だが」


「うぅん……?」


「……私には、よくわからない」


 かくしてアイ=ファはリミ=ルウとともに姿を消し、俺はヴィナ=ルウをにらみつけることになった。


「ヴィナ=ルウ! いったいどういうつもりなんですか? どうしていきなりあんなことを……!」


「だってぇ、アイ=ファばっかりがのほほんとしてるのが、ちょっと面白くなかったんだもぉん……」


 と、ヴィナ=ルウが頬をふくらませる。


「わたしもレイナもダルムもアスタもそれぞれ思い悩んでるはずなのに、アイ=ファだけが知らんぷりっておかしくなぁい……? 不公平よぉ……」


「不公平とか、そういう話じゃない気がしますけど」


 少なくとも、アイ=ファは相応の覚悟をもって、狩人として生きていく道を選んだのである。

 女衆であるにも関わらず、誰かの嫁となり子をなすという道を断ち切って、森に朽ちる生を選んだ――それは、生半可な覚悟ではないはずだ。


「……アスタとアイ=ファに血の繋がりでもあれば、わたしもこんな気持ちにはならないと思うんだけどぉ……やっぱり釈然としないのよねぇ……」


 そんな風にぼやいてから、ヴィナ=ルウはちょっと悲しそうな顔になってしまった。


「だけど、ごめんなさい……仕事の最中にするような話じゃなかったわねぇ……今のは、わたしが悪かったわぁ……」


 こうなってしまうと、罪悪感を喚起されてしまうのは俺のほうである。

 さまざまな難問を抱えこんでいる人生ではあるが、ヴィナ=ルウやレイナ=ルウとの健全な関係性の構築、というこの問題に関しては、いつになっても解答への道筋が見えてこない。


 特にこのヴィナ=ルウに対しては、宿場町での商売を通して、色恋抜きの好意や信頼を強く感じるようになったので、俺としても忸怩たる気持ちであるのだ。


 異性の友人――仕事仲間――どういう肩書きになるのかはわからないが。ヴィナ=ルウだって、俺にとってはものすごく大切な存在なのである。


 もしもヴィナ=ルウが他の男性に心を奪われて、婚礼でもあげることになれば、俺はきっと肉親の幸福を祝うような気持ちで祝福することができると思う。


(……シュミラルは元気でやってるかなあ……)


 と、銀色の髪をしたシムの若者のことを思い、俺はふっと息をついた。

 それと同時に、ヴィナ=ルウもふっと息をついた。


「アスタたちは、明日で帰っちゃうのよねぇ……?」


「はい。ずいぶん長々とお世話になってしまいました」


「さびしいなぁ……明日からのことを考えると、死にたくなってきちゃう……」


「そ、それはいささか大仰じゃないですか?」


「うぅん、アスタのことだけじゃなくて……何だか、嫌な予感がしてたまらないのよぉ……」


「嫌な予感?」


「……スン家の人間が、この集落にやってきそうじゃなぁい……?」


 なるほど。その件か。

 スンの本家の人間は、スンの氏を廃され、有力氏族の家人となることが決定された。

 ディガ=スン――いや、ディガとドッドとテイはドム家の家人となり、ヤミルはザザ家かジーン家あたりの家人となるはずである。


 残る人間は、比較的、害はないものとされている3名。

 オウラ、ツヴァイ……そして、ミダだ。


「……あの末弟が、ルウにやってきそうじゃなぁい……?」


「うーん、どうでしょう。まあ、言いだしっぺのルウ家が誰も引き取らないってことはないでしょうねえ」


「そうよねぇ……」


「それに、あのミダを引き受けるには、そうとう力を持つ氏族じゃないと不可能でしょうねえ」


「そうよねぇ……」


「……それでもって、ミーア・レイ=ルウは何かちょっとミダに対してまんざらでもない感じでしたよね」


「あああ……本当に死にたくなってきたわぁ……」


 ヴィナ=ルウが、そんな悲嘆の声をあげたとき。

 表のほうから、何やら凶事の気配が伝わってきた。


 俺はヴィナ=ルウと目を見交わし、同時に深い息をつく。

 かまどの間を出て、広場のほうに足を向けると、半ば予想していた光景が展開されていた。


 スンの集落から帰還した一団と、それを取り巻くルウの分家の女衆の姿である。


「よ、ヴィナ姉、アスタ、帰ったぜ?」


 その先頭に立っていたルド=ルウが、にやりと笑いかけてくる。

 ルウの人間ばかりでなく、眷族まで引き連れた団体様である。

 それでも、全員ではないのだろう。見知った顔で言えば、ドンダ=ルウとダン=ルティムなどはそろっていたが、ダルム=ルウやラウ=レイ、それにルティムの次兄も見当たらない。家長会議に参加したうちの、およそ半数ていどのメンバーであるようだった。


 そして、その中に、かつてのスン家であった人々の姿も見える。

 オウラと、ツヴァイと、そしてミダだ。

 周りの女衆がざわついているのは、もちろんミダの異形におののいてのことであろう。

 ルティムの祝宴でも登場したミダであるが、1度や2度で見なれることのできる容貌ではない。


「お疲れ様です。ずいぶん早いお帰りでしたね?」


 ヴィナ=ルウが硬直してしまっているので俺がドンダ=ルウに声をかけると、面倒くさそうにそっぽを向かれた。

 代わりに応じてくれたのは、やっぱりルド=ルウだ。


「俺たちはこいつらを連れ帰らなきゃいけないから、いったん先に戻ってきたんだよ。ダルム兄たちは、分家の連中を見張るために居残ってんだ」


 スンの分家の人間たち。

 その半数ほどは、血の縁の濃い眷族の家が引き取ることになったのだが、残りの十数名はスンの集落に居残るのである。


 しかし、スンの集落の周辺の森は、新たな恵みが育つまでまともにギバを狩れる環境ではなく、なおかつ十数年も狩人としての仕事をろくに果たすことのできなかった彼らには、そもそもきちんとギバを狩れる技量がない。そういった生活の支援をすると同時に、彼らに森辺の民として真っ当に生きていく覚悟があるかどうかも確かめていかなくてはならないのだ。


 本家の人間を失った今、スン家が再生されるかどうかは分家の彼らにかかっている。

 彼らが狩人としての力を取り戻すことができなければ、スンの名もここで絶えてしまうということである。


「ヤミルはいないんだね。彼女はどの家が引き取ることになったんだい?」


「うーん? あいつだけは、行き先が決まってないんだよな。ルウやルティムじゃファの家に近すぎるし、ザザもサウティも長姉だけは勘弁してくれって感じでさ。今はスンの家に閉じこめられて、男衆に見張られてる」


「……そうか」としか言い様がなかった。

 今回の悪行のブレイン的な役割を果たすことになったヤミルのことを、誰も彼もが警戒しているのだろう。男衆であればギバ狩りの仕事に従事させることもできるが、女衆ではそうもいかない。自分たちが狩りの仕事で家を離れる間、女衆しかいない場にヤミルを残すのは危険に思える――ということなのだろう。


 それは仕方のないことなのかもしれないが。俺としては、やっぱり重苦しい気分になってしまう。


「何を暗い顔をしているのだ、アスタよ! まだまだ面倒事は尽きんがな、明日にはガズランをスンの集落に送りつけてやるので、それであらかた解決するだろうさ。こういう面倒な話はあいつにまかせるに限る!」


 と、ダン=ルティムがいつもの調子でガハハと笑った。

 それから、太い指先をちょいちょいと動かして、オウラとツヴァイを招き寄せる。


「この女衆どもはルティムで引き取ることになった! ルティムは女手が不足していたからちょうどいいわ! ……で、アスタやアイ=ファはルティムの友であるのだから、いちおう家人として挨拶させておこうと思ってな」


「あ、ふたりはルティムの家人となるのですか」


 それは、吉報と言ってもいい話であろう。

 外見よりは齢を重ねているツヴァイであるが、それでもララ=ルウと同い年の12歳である。母親と引き離されてしまうのは、あまりに忍びない。


「……どうぞよろしくお願いいたします」と、オウラが深く頭を下げる。

 その青い瞳は暗く陰っていたが、しかし、どろりと濁ったりはしていなかった。

 ただひたすらに悲しそうな眼差しだ。


 その足もとにひっついたまま、ツヴァイはじーっと俺の顔をにらみつけている。

 スンの家に最後の破滅の言葉を投げかけたのはこの俺であるのだから、恨まれるのが当然だろう。


 だけど、この母娘には幸せになってもらいたいと思う。


「おお、アイ=ファ。そういうことで、よしなにな」


 ダン=ルティムの声に驚いて振り返ると、いつのまにやらアイ=ファが俺のすぐかたわらに立っていた。

 その背に隠れたリミ=ルウが、ミダの巨体を見上げながら「ふわあ」とか声をあげている。


 そしてさらにその後ろでは、ミーア・レイ母さんが実に満足そうな面持ちで微笑んでいた。

 レイナ=ルウやララ=ルウたちは仮眠でもとっているのか、姿が見えない。


「では、俺たちはこれで失礼するとしよう! ドンダ=ルウよ、明日ガズランをスンの集落に向かわせる際は、途中でルウの集落にも立ち寄らせるからな」


「ああ。こちらは俺かジザが向かうことにする」


「よし、では、出発だ!」


 すると――ミダが、オウラとツヴァイの前に立ちはだかった。

 動物のように感情の読めない小さな目が、かつての家族たちをじっと見つめやる。


「オウラ、ツヴァイ、行っちゃうの……?」


「ええ。……元気でね、ミダ」


 丸太のように太いミダの腕に、オウラはほっそりとした手をあてる。

 ツヴァイは無言で、かつての兄の巨体を見上げやっている。


 ミダは、ふるふると頬肉を震わせた。


「ミダは……ミダは、さびしいんだよ……?」


「そうね。わたしもさびしいわ。……でも、これは仕方のないことなの。罪を犯したわたしたちは、それを贖わなくてはならないのよ」


「……もう、オウラにもツヴァイにも会えないの……?」


「そうよ。スンの本家はなくなったの。あなたはこれから、ルウの人間として生きていくのよ」


 やっぱりミダは、ルウの家で引き取ることになったのか。

 俺の背後に立ったヴィナ=ルウが、腰当ての布地をぎゅうっとつかんでくる。


「ヤミルにも、テイにも……ディガにも、ドッドにも会えないの……?」


「ええ、そうよ。――そして、もしもどこかで彼らと出会うことがあっても、もうその言葉を聞いてはいけないわ。あなたはルウの人間になるのだから、ルウの言葉に従って生きていくの。スンの掟は全部忘れて、ルウの掟にだけ従うのよ? そうすれば――きっと今まで以上に幸せになれるから」


「……ミダは、オウラやツヴァイと一緒にいたいんだよ……?」


 ミダが、どすんと膝をついた。

 そうして今度は、下側からオウラの顔を見上げやる。

 オウラは悲しげに微笑みながら、その小山のような肩のあたりに手を置いた。


「あなたは強い子よ、ミダ。きっと立派な狩人になれるわ。ズーロや、ディガや、ドッドにはできなかったことも、きっとできるようになる。ルウの人間として、強く生きてね……?」


「……ミダは……」


 俺は思わず、ぎょっとしてしまった。

 顔に比してはあまりに小さなミダの目に、いきなり涙の山が盛り上がってきたからだ。


「おいおい、勘弁してくれよ?」と、ルド=ルウが俺たちのほうに逃げてくる。


 次の瞬間。

 ミダの口から、うおおおおぉぉぉん……という、快音波のような雄叫びが解き放たれた。


 ものすごい高周波と低周波がからみあい、渦を巻くような、それは凄まじいばかりの雄叫びだった。

 この世界に窓ガラスなどというものが存在していたら、片っ端から粉砕されていたかもしれない。

 それほどの、衝撃波にも等しい音の爆弾である。


「うるせーうるせー! スンの集落で思うぞんぶん泣き尽くしたんじゃないのかよ! いい加減にしろ!!」


 耳をふさいだルド=ルウが大声でわめいている。

 その声を圧する雄叫びをほとばしらせつつ、ミダはおんおんと泣いていた。

 ものすごい量の涙がたるんだ頬肉を伝って地面に落ち、水たまりを作りあげていく。


「うっさいよ、バカ!」と、ツヴァイがミダの足を蹴ったが、いっこうに泣きやむ気配もない。


 最初の一声で鼓膜に大ダメージをくらってしまった俺は、両手で耳をふさぎつつ――それでも、少なからず胸をしめつけられてしまっていた。

 それぐらい、ミダの顔には混じりけのない悲しみの激情があふれていたのだ。


 ぶくぶくと非人間的なまでに肥え太り、食べること以外には何の興味もなさそうに見えたミダが、顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。

 脂肪が分厚すぎてまともに表情を動かすこともできないぐらいのミダであるのに――何て悲しそうな顔なのだろう。

 まるで、本当の赤ん坊みたいだ。


「ミダは……さびしいよ……? オウラともツヴァイとも別れたくないよ……?」


 やがて、ひくひくとしゃくりあげながら、ミダはそんな言葉を絞り出した。


「ありがとう、ミダ。……だけど、わたしたちには、こうするしか道がないの」


 こちらは涙も流さぬまま、それでも悲哀に満ちた表情でオウラがうなだれる。


 それでまたミダは激烈に顔を引き歪めたが、その口から新たな泣き声が放たれる前に、意想外な声がそれをさえぎった。


「やかましい! でかい図体をしていつまで泣きわめいているのだ! 男衆が、たやすく余人の前で涙など見せるな!」


 たぶん、1番仰天したのは俺であっただろう。

 そんな風にまくしたてて、ミダの前に進み出たのは――なんと、アイ=ファであったのだ。


「あのような不埒者の集団でも、お前にとっては家族であったのだな。それはわかったが、泣きわめいたところで運命が変わるわけでもない。お前も森辺の民だったら、少しは誇りを持って生きるがいい!」


 ミダは、きょとんとした顔でアイ=ファを振り返った。

 その涙と鼻水とよだれにまみれた巨大な顔を、アイ=ファは山猫のような目でにらみつける。


「お前たちは、罪を犯したのだ。家族を失うのは、その罰だ! 己の罪深さを思い知れ! その上で生きていくことしか、お前には許されていないのだ!」


「でも……ミダは……」


「すべての家族を失う悲しさは私も知っている。それは、乗りこえられぬものではない」


 鼻の頭にしわを寄せて、アイ=ファはずいっとミダのほうに顔を寄せた。


「そして、家族としての縁は切れるが、おたがいに生命を失うわけではないのだ。お前がルウの人間として真っ当に生き、この女衆たちがルティムの人間として真っ当に生きれば、いずれまた相まみえることもあろう。そのような希望が残されているのに、ぐずぐずと泣きわめくな!」


「……またオウラやツヴァイに会えるの……?」


「男衆や長姉などには会わすわけにはいかんが、この女衆たちなら、いずれ会わしてやらなくはない」


 そう応じたのは、ダン=ルティムであった。

 さしもの豪傑もげっそりしてしまっている。


「……ヤミルやテイにも会いたいな……」


「それはお前の心がけしだいだ。何の努力もせぬうちから、都合のよいことばかり抜かすな」


 アイ=ファに怖い顔でにらまれて、ミダは「ごめんなさい……」と、つぶやいた。


「やれやれ。まさかアイ=ファに先をこされるとは思わなかったよ。……あんたはいい家長だね、アイ=ファ」


 笑いながら、ミーア・レイ母さんもミダの前に進み出てくる。


「血の縁はなくても、家人は家人だよ。そしてあんたが森辺の民としてしっかり生きていけば、家長からルウの名をもらうこともできるだろう。過ぎたことを悔やんでもしかたないんだから、これから立派に生きていけるように頑張りな」


 そして、懐から出した布切れで、あらゆる液体にまみれたミダの顔を拭いてやる。


「……では、行くぞ」というダン=ルティムの号令のもと、ルウの眷族たちは広場を出ていった。


 ミダはルウの家人となり、オウラとツヴァイはルティムの家人となる。

 ディガとドッドとテイはドムの家人となり、ヤミルは――きっとガズラン=ルティムが何とかしてくれるだろう。


 そして、森辺の新たな族長たちは、ジェノスの領主を相手取ることになる。


 4日後にはカミュア=ヨシュが守護するジェノスの商団が森辺を通過する、という計画があるのだから、それまでにはスン家の没落を公式に伝える必要があるはずだ。


 本当に、問題は山積みである。

 族長筋の不始末を、これから森辺の民が総出で立て直していかなくてはならないのだろう――より良い森辺の未来のために。


「さて、それじゃあこっちもそろそろ晩餐の準備を始めようかね」


 朗らかに笑うミーア・レイ母さんと、悲嘆に暮れるヴィナ=ルウとともに、俺は自分の仕事場へと戻ることにした。

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