紫の月の二十日~集結~
2022.12/25 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。
・大晦日と元日に、短めのエピソードを更新する予定です。
《ギャムレイの一座》と建築屋の面々とザッシュマがまとめてジェノスにやってきた日の、翌日――紫の月の20日である。
その日の俺は、いささかならず落ち着かない気持ちで朝の仕事に取り組むことになった。
《ギャムレイの一座》をジェノスに迎えることができたのは、めでたき話である。しかし今回に限っては、ひとつの懸念が存在するのだった。
それは《ギャムレイの一座》の新たな座員、チルことチル=リムについてである。
チル=リムはジェノスの領主マルスタインの命令で、シムに追放されたという体裁になっている。しかしその裏でカミュア=ヨシュが暗躍し、チル=リムの身は《ギャムレイの一座》に預けられることになったのだ。
マルスタインがそのように厳しい判断を下したのは、王都の国王の目をはばかってのこととなる。セルヴァの国王は魔術の類いを忌み嫌っているため、星見の力を持つと見なされているチル=リムをジェノスで庇護することはまかりならなかったのだ。
そんなマルスタインからの依頼という形で、カミュア=ヨシュはチル=リムの身をシムに送り届けることになった。
そして実際は、シムに滞在していた《ギャムレイの一座》にチル=リムの身を託し――そして、黒の月の鎮魂祭で飄々とジェノスに舞い戻ってきたのだった。
それは正しい判断であったのだと、チル=リムに直接かかわった人間は誰もがそのように信じている。チル=リムがこの世に絶望したならば、四大王国を恨んで邪神教団に身を落としてしまう危険があったし――それより何より、何の罪もないチル=リムがシムで孤独に過ごすことなど、誰にも許容できなかったのだ。
だから俺たちは、大きな秘密を共有することになった。チル=リムとディア、カミュア=ヨシュとレイトがジェノスを出立する前日に、ファの家での晩餐に立ちあった11名の人間――俺とアイ=ファ、プラティカとアリシュナ、クルア=スン、ダリ=サウティを筆頭とするサウティの血族の6名のみが、真実を胸に秘めながら日々を過ごしていたのだ。
しかし、黒の月の鎮魂祭において《ギャムレイの一座》がジェノスにやってきたことを契機に、その秘密が森辺の一部で開示されることと相成った。森辺においてはチル=リムの姿を見知っている人間も少なくなかったため、そのように取り計らう他なかったのだ。
そうして族長らは、この行いが正しいかどうかを吟味することになった。
君主筋たるマルスタインに秘密を抱えてまでチル=リムを擁護することは、正しいか否か――それは、チル=リム本人との対話でもって判断をするという結論に至ったのだ。
よって本日、チル=リムは森辺に呼びつけられている。
昨日の屋台の商売の後、ディック=ドム自身が《ギャムレイの一座》のもとまでおもむき、その旨を伝えたのだ。もとよりディック=ドムは族長グラフ=ザザからそのような密命を授かりつつ、護衛の役目を果たしていたのだった。
「ちなみに北の集落では、15歳以上の人間にすべての事実が伝えられることになったのよ。だからアスタも、そのつもりでね」
俺にこっそりそのように教えてくれたのは、護衛役として同行していたレム=ドムであった。森辺においてはすべての氏族の家長に事実が伝えられていたが、それをどこまで家人に打ち明けるかは、家長の判断にゆだねられていたのだ。
よって俺もこの日の朝、下ごしらえの仕事に励んでいる間は、内心をさらすことがかなわなかった。ユン=スドラやレイ=マトゥアやマルフィラ=ナハムたちはすでに事実を明かされていると聞き及んでいたが、他の女衆に関してはまったく実情が知れなかったのだ。
グラフ=ザザとダリ=サウティは朝一番でルウ家に集合し、ちょうどこの下ごしらえをしている時間帯にチル=リムと言葉を交わしている。きっと大丈夫だと信じながら、俺はどうしても心を平静に保つことができなかった。
(もしもマルスタインにこの事実を打ち明けたら、チル=リムばかりじゃなくカミュアやディアまで罪人あつかいになっちゃうんだ。ドンダ=ルウたちが、そんな真似をするはずがない)
俺はそんな言葉を心中で繰り返しながら、下ごしらえの作業を終えることになった。
出発の刻限に至ると、ディンの家からトゥール=ディンらとザザの血族の一行が集結する。その中で、トゥール=ディンは俺に負けないぐらい心配そうな顔をしていた。トゥール=ディンはもともとチル=リムの姿を見知っていたため、すぐさま事実を知らされることになったのだ。
「それじゃあ、出発だな。今日も俺が手綱を預かるぞ」
そんな風に言ってから、ドッドが俺の耳もとに口を寄せてきた。
「案ずるな。族長たちの判断を信じろ」
そうしてドッドは、狛犬のような顔でにっと笑った。
俺も何とか笑顔を返しつつ、ギルルの荷台に乗り込む。アイ=ファはバードゥ=フォウやベイムの家長とともに会談の場に同席しているため、見送りは4頭の犬たちのみであった。
荷台にはダゴラやアウロの女衆も同乗していたので、やはりチル=リムの一件を語ることはできない。
そうして、ルウの集落に到着すると――けばけばしい荷車のかたわらにチル=リムたちの姿があったため、俺は心臓をわしづかみにされたような心地であった。
「アスタ、お疲れさァん。ようやく挨拶ができたねェ」
奇妙な朱色の装束を纏った童女が、真っ赤な唇で笑いかけてくる。チル=リムのかたわらに控えていたのは、ピノとロロとディアの3名であった。
「アスタたちは、これからすぐに商売なんだろォ? それじゃあゆっくり語らう時間もないだろうから、よかったらアタシらの荷車に乗っていくかァい?」
俺がどぎまぎしていると、遠からぬ場所にたたずんでいたアイ=ファが音もなく接近して、囁きかけてきた。
「ドンダ=ルウとグラフ=ザザも、秘密を守り続けるということで意見の一致を見た。お前は心置きなく、仕事に励むがいい」
俺は膝から崩れ落ちそうになり、アイ=ファのしなやかな指先で支えられることになった。
「気を抜いて、焼けた鉄鍋などに触れるのではないぞ? ……さあ、チルたちと語らいたいなら、あちらの荷車に移るがいい」
「う、うん、わかったよ。アイ=ファも、お疲れ様。……そっちこそ、気をつけてな」
「うむ。おたがい、無事に戻るのだぞ」
アイ=ファは力強くも優しい笑みをたたえ、俺の胸をそっと小突いてきた。
そうして俺がピノたちのほうに向かおうとすると、別の荷車からユン=スドラとトゥール=ディンも駆け降りてくる。
「あ、あの、わたしもご一緒させていただけますか?」
「わたしも、お願いいたします」
「あァら、団体様だねェ。……アスタも、それでかまわないのかァい?」
「はい。よろしくお願いします」
ピノたちの荷車は2頭引きであるために、この人数でも何ら問題はなかった。
御者台にはロロが陣取り、俺たちは荷台に乗り込む。天幕の器材も搬出された後であったため、木造りの大きな荷台の内部はがらんとしていた。
「お、おひさしぶりです、ピノ。それに、チルとディアも……」
「うむ。アスタも息災のようだな」
ディアはフードをはねのけて、口もとを隠していた襟巻きも胸もとに引きおろした。
かつて聖域の民であったという、《守護人》の少女である。背丈は140センチ足らずだが、そのほっそりとした体躯には野獣のごとき生命力があふれかえっている。ぼさぼさの蓬髪は火のように赤く、炯々と光る目は金色で、かつて一族の証である刺青が刻まれていた左右の頬は赤黒い火傷の痕で覆われていた。
「朝から面倒な騒ぎだったが、まあ丸く収まったようだぞ。だから、そのように心配げな顔をすることはない。泣くのは、チルにまかせておけ」
ディアは白い歯をこぼしつつ、かたわらに座したチル=リムのフードを引きおろした。
チル=リムは、ディアよりもさらに小さく華奢な少女である。淡い栗色の髪も、神秘的にきらめく白銀の瞳も、今は玉虫色のヴェールに覆い隠されており――そしてそのなめらかな頬は、滂沱たる涙に濡らされていた。
「申し訳ありません……わたしのせいで、またアスタたちにご面倒をかけてしまって……」
「チルが謝る必要はないよ。悪いのは、みんな邪神教団なんだからさ」
俺が慌ててそのように答えると、ディアは「そうだぞ」とチル=リムの頭をヴェールごと荒っぽく撫でくり回した。
「チルは好きでそのような力を授かったわけではないのだから、何の罪もあろうはずがない。それでも氏や素性を隠してまでつつましく生きていこうと決めたのだから、立派なものではないか。だから森辺の族長らも、面倒な話を取り下げてくれたのだぞ」
「うんうン。森辺のお人らにしてみりゃあ、領主に隠し事をするってェだけで、あんな罪悪感を抱え込んじまうモンなんだねェ。そんなこととはつゆ知らず、鎮魂祭では呑気な姿をさらしちまって、申し訳ない限りだよォ」
ピノは妖しい微笑をたたえつつ、芝居がかった仕草で肩をすくめる。切れ長の黒い目に、陶磁器のように白い肌、血のように赤い唇をした、人形のように美しい童女だ。彼女もディアより小柄であったが、存在感のほどではまったく負けていなかった。
「ま、チルたちから事前に話は聞いてたんで、なァんも慌てることはなかったけどさァ。カミュアの旦那も、もっとしっかり根回しをしておいてほしいもんだよねェ」
「あの、族長たちも秘密を守ると言ってくれたのですよね?」
「あァ。やっぱりチルの身の上に、情けをかけてくれたんだろうねェ。見て見ぬふりをしてやるから、せいぜい心安らかに生きるがいい、だってさァ」
そう言って、ピノは切れ長の目をさらに細めた。
そうしてその白い面に浮かべられたのは、彼女がめったに見せないあどけない笑みである。
「ま、アタシは森辺のお人らの心意気を信じてたから、さほど心配してなかったけどさァ。その心意気に報いるためにも、しっかり身をつつしまないとねェ」
「うむ。ディアも鎮魂祭でアスタたちから事情を聞かされた際は、どうしてそのように難癖をつけるのかと腹立たしく思っていたものだが……よくよく考えれば、森辺の民は貴族や町の人間たちをも友や同胞と見なしていたのだったな。であれば、大きな秘密を持つことに心を痛めるのも当然のことだ」
ディアはしかつめらしい面持ちで、そのように言いたてた。
「ディアとて聖域の民であったのだから、大きな隠し事が虚言にも匹敵する罪だということは理解できる。しかしディアはそれと同時に、虚言を罪とも思わない王国の流儀というものも知ることになった。それで森辺の民は聖域の民とも似た習わしの中で生きながら、王国の民を友や同胞と見なしているのだ。それは聖域の民の知らない苦労や手間であるのだろうな」
「うん。俺たち森辺の民だって、まぎれもなく西の王国の民であるわけだからね。でも今は、ディアだって同じ立場だろう?」
「ディアは聖域を捨てた身であるので、王国の法や習わしを守るだけで済む。森辺の民が抱えている苦労とは、無縁だぞ」
すると、ピノは「ははン」と鼻で笑った。
「王国の法を重んじるなら、アンタはチルをシムに置き去りにするべきだったんじゃないのかねェ?」
「ディアにとっては国王や領主などより、チルのほうが大事だったというだけのことだ。王国の民というのは、そうやって自分の都合のいいように動くものであるのだぞ」
ディアは悪びれる様子もなく笑い、またチル=リムの頭を優しく引っかき回した。
チル=リムは泣き笑いの面持ちで、そんなディアの笑顔を見つめている。
「何にせよ、族長たちのお許しをもらえてよかったです。これで予定通り、復活祭の期間はジェノスで過ごせるわけですね?」
ユン=スドラがそのように問いかけると、ピノは「もちろォん」と口の端を吊り上げた。
「今日からさっそく、楽しまさせていただくつもりだよォ。昨日は間に合わなかったんで、屋台の料理も味わわさせてもらわないとねェ」
「はい。わたしもみなさんの芸を楽しみにしています」
ユン=スドラは、限りなく優しい笑顔である。彼女などは鎮魂祭でチル=リムたちと行動をともにしていたため、誰よりも早く裏事情を知ることになったのだ。
そしてトゥール=ディンは、涙のにじんだ目でチル=リムに微笑みかけた。
「チル、今日からよろしくお願いいたします。あなたと復活祭の喜びを分かち合えることを、心から嬉しく思います」
それでチル=リムは、ふいたばかりの顔をまた涙で濡らすことになった。
チル=リムはかつて邪神教団の魔手から逃れるために、俺の荷車に身をひそめて森辺にやってくることになった。そうして高熱に浮かされながら、俺に向かって必死に手を差し伸べる姿を、トゥール=ディンやユン=スドラも同じ場で見届けているのだ。だからトゥール=ディンたちも、俺と同じぐらい強い気持ちでチル=リムの安らかな行く末を願ってくれているはずであった。
「ただ、族長サンがたから、気になる話を聞いちまってねェ。どうやらチルは森辺のお人らばかりじゃなく、ジェノスの兵士サンらにも姿を見られてるそうじゃないかァ?」
その場のしんみりとした空気を打ち払うように、ピノが陽気な声でそのように言い放った。
「ああ、間近で見たのはほんの数人のはずですけど……その中には、俺たちが懇意にしているデヴィアスという御方も含まれるのですよね。鎮魂祭の夜も、デヴィアスが巡回に来たりはしないかと、少し気を張ることになりました」
「うんうん。チルは頭巾と襟巻きで顔を隠させてるけど、なんかのはずみで面が割れちまったら一大事さァ。ここはもうひとつ、念入りな細工が必要かもしれないねェ」
「念入りな細工というと?」
「それは、後でのお楽しみさァ」
そう言って、ピノはにんまりと微笑んだ。
チル=リムは少々不安げな面持ちになっていたが、まあピノであればそうまで無体な真似はしないだろう。だから俺は、チル=リムのために笑顔を届けることにした。
「そうしたら、チルも心置きなくジェノスで過ごせるね。復活祭が終わるまで、一緒に頑張ろう」
チル=リムはおずおずと俺のほうを振り返り、ヴェールの向こうで「はい」と微笑んだ。
心優しきチル=リムは、まだ俺たちに申し訳なさを抱いているようであったが――その無垢な笑顔は、俺が知る通りのチル=リムの笑顔であった。
◇
そうして宿場町に到着したならば、すみやかに屋台の準備である。
宿場町は、本日も大いに賑わっている。ルウやディンとの協議の末、本日は7割増しの料理を準備していたが、売れ残りの心配はまったくないように思われた。
そして俺たちの屋台の正面には、《ギャムレイの一座》の天幕がででんとそびえ立っている。ピノたちは真っ直ぐそちらに帰還して、この時間帯には芸を見せようという気配もなかったが、その巨大な天幕の存在だけで往来の人々の気持ちを浮き立たせているように感じられた。
やがて朝一番のラッシュが終了したならば、大皿や鉄鍋を抱えた《ギャムレイの一座》が屋台にやってくる。俺はその場で、「念入りな細工」とやらの内容を知ることになった。
「あ、あの、今後はこういう姿で過ごすことになりました」
チル=リムは気恥ずかしそうな面持ちで、フードの前側を持ち上げる。すると、ヴェールの向こうの前髪が、栗色から真っ黒に変じていた。
「へえ、そんなこともできるんだね。それって汗とかで落ちたりはしないのかな?」
「は、はい。水に濡らそうと火で炙ろうと、半月ばかりは決して落ちないそうです。……おかしくないですか?」
「これっぽっちも、おかしくないよ。これから、俺とおそろいだね」
俺がそのように答えると、チル=リムはまた笑顔で涙をにじませてしまった。
髪を染めてフードをかぶり、襟巻きを鼻の上まで引き上げて、おまけに半透明のヴェールで目もとを隠していれば、もうデヴィアスにだってそうそう気づかれることはないだろう。あちらにしてみれば、9ヶ月も前にただひとたび顔をあわせただけの相手であるのだ。なおかつチル=リムはいまだ10歳であるのだから、これからどんどん背がのびて、容姿や声なども変わっていくはずであった。
チル=リムはこんな幼さですべての同胞と故郷を失い、絶望のどん底に突き落とされながら、それでも《ギャムレイの一座》の一員として新たな生を歩むという決意をしたのだ。俺はチル=リムの勇気と強靭さに最大限の敬意を表したかったし――きっとドンダ=ルウやグラフ=ザザも、そんな思いで大きな秘密を抱え込む覚悟を固めることになったのだろう。俺たちは今日、本当の意味で邪神教団に勝利できたのかもしれなかった。
「それじゃあ、料理のほうをどうぞ。今日の献立は焼きそばだけど、何人前をご所望かな?」
「はい。7人前をお願いします」
フードをもとの位置に戻してから、チル=リムは大皿を差し出してきた。
今日の相方はラッツの女衆であり、俺より年長である彼女もチル=リムの一件については聞き及んでいる。そして屋台のメンバーでも指折りでしっかり者である彼女は、何も語らぬまま優しい目でチル=リムの様子を見守っていた。
他の屋台でも大男のドガや小男のザンや長身痩躯のディロなどが列に並び、他のお客たちの目を集めている。そちらも懐かしい限りであったが、《ギャムレイの一座》で気安く口をきいてくれるのは、ピノやニーヤぐらいであるのだ。彼らにとっては、芸を見せることが他者とのコミュニケーションであるのかもしれなかった。
「チルはライラノスに弟子入りしたんだよね? 普段はそちらの手伝いをしているのかな?」
「は、はい。おおよそは。手伝いなんて、お客から銅貨を受け取るぐらいですけれど……そうしておそばにつきながら、星読みの技術を学んでいます」
「頑張ってね。チルだったら、きっと立派な占星師になれるよ」
「はい」とうなずくチル=リムは、とても透き通った微笑をたたえていた。
アリシュナのもとに通うクルア=スンは星見の力の制御を学んでいるばかりであるが、チル=リムは《ギャムレイの一座》の一員として占星師を志しているのだ。それもまた、彼女が自らの運命に真正面から立ち向かおうとしている証であるはずであった。
「まあ、チルのことはディアにまかせておけ。ディアさえいれば、何も危ういことはないからな」
そのように語るディアとともに、チル=リムは立ち去っていった。
俺はしみじみとした気持ちを抱えつつ、鉄板に新たな具材を広げる。そうして焼きそばを作りあげながら、隣の屋台でラーメンの完成を待っているロロの存在に気づいた。
「あ、ロロもお疲れ様です。朝方にはご挨拶もできず、失礼いたしました」
「あ、い、いえ。ボ、ボクのことなどは、どうかお気になさらないでください」
ロロはへどもどと頭を下げつつ、にへらっと愛嬌のある笑みを覗かせる。女性にしては長身であるが、ひょろひょろの体形で猫背でなで肩でいつも気弱げな態度をさらしている、なかなか味わい深い人物である。こう見えて森辺の狩人にも負けない剣士である彼女は、男物の装束で腰に木剣をさげていた。
「祝日の夜には、俺たちも天幕にお邪魔させていただきますね。ロロの芸も楽しみにしています」
「い、いえいえいえ! ボ、ボクなんかはもう、お目汚しでしかありませんので! ど、どうかご勘弁ください!」
と、日常ではマルフィラ=ナハムに負けないぐらい謙虚なロロである。
そうしてロロは鉄鍋に10人前ものラーメンを仕込んでもらうと、よたよたとした頼りない足取りで立ち去っていった。
それからしばらくして、今度はアラウトの一行が現れる。彼らは昨日の昼下がりからスン家に出向き、そちらで晩餐までともにしてから、《キミュスの尻尾亭》で一夜を明かしたのだ。チル=リムの一件に関してはザッシュマも無関係であったため、俺たちはしっかり秘匿しなければならなかった。
「いらっしゃいませ。今日もこちらで料理をお買いあげいただけるのですか?」
「はい。宿屋の方々のギバ料理というのも、興味の尽きないところであるのですが……まだしばらくは、森辺の方々の料理を味わわさせていただこうかと思います」
アラウトは本日も実直そのもので、その力強い笑顔がまぶしいほどであった。
「そして本日は、リッドの方々のお世話になれないかと思案しています。そちらでは、ディガ=ドム殿やドッド殿もお世話になっているとおうかがいしましたので」
「ああ、それはいいですね。本当は、ファの家にもお招きしたかったのですが……今は犬が出産を控えているために、ちょっとお約束できないのですよね」
「いえいえ。アスタ殿は森辺でもっともご多忙な身でありましょうから、何もお気になさらないでください」
「ありがとうございます。もしお時間があったら、下ごしらえの現場だけでも見学なさってくださいね」
俺がそのように伝えると、カルスは目を泳がせながら「あ、あ、ありがとうございます」と一礼した。もう彼ともそれなりのおつきあいであるはずだが、平常時の謙虚っぷりに変わりはないようだ。
そうしてアラウトたちのための焼きそばが完成したとき、街道のほうから歓声が巻き起こった。
それと同時に、笛や太鼓の音色が響きわたる。食事を終えた《ギャムレイの一座》が、ついに余興を開始したのだ。
「ああ、きっと軽業の見世物ですね。ぜひ食堂のほうに腰を落ち着けて、じっくりご覧ください」
「承知しました。それではひとまず、失礼いたします」
木皿を手にしたアラウトたちは、いそいそと青空食堂のほうに向かっていった。
屋台に並んでいた人々も見世物に目を奪われていたため、こちらの商売もいったんお休みだ。俺たちも、お客の肩越しに《ギャムレイの一座》の余興を目にすることができた。
ナチャラの横笛に、ザンの太鼓、アルンとアミンの鳴り物によって、異国的な演奏が奏でられている。それをBGMとして、ピノとドガが軽業の余興を見せていた。
まずはおたがいが長い棒を振り回して、棒術の演武めいたものを披露している。派手な装束で神秘的な容姿をしたピノと、天を突くような大男のドガであるため、それだけでも十分に心の躍る見世物であった。
ピノは日本人形のように前髪を切りそろえているが、後ろ髪は膝に届くぐらい長くのばしている。三つ編みにされたその長い黒髪が、朱色の羽織めいた装束の袖とともに優美なる軌跡を描き、いっそうの華やかさを演出していた。
「いやぁ、相変わらず見事な芸だねぇ」
と、いきなりのんびりとした声が背後からあげられたため、俺はぎょっとして振り返る。そこには苦笑を浮かべたレム=ドムとともに、カミュア=ヨシュとレイトが立ちはだかっていた。
「いきなり芸が始められたから、声をかけそびれてしまったわ。こちらのふたりが、アスタに挨拶をしたいのですってよ」
「ど、どうも。カミュアたちも、ようやく戻られたのですね」
「うん。本当に今さっき到着して、《キミュスの尻尾亭》にトトスを預けてきたのだよ。それで行き道では、ピノたちにも挨拶をさせてもらったよ」
面長の顔でにんまりと笑いながら、カミュア=ヨシュは金褐色の無精髭に覆われた口もとを俺の耳に寄せてきた。
「チルたちは、すでに森辺の族長との面談を終えているそうだね。もう1日早ければ俺もご一緒できたのに、申し訳なかったね」
「ええ。何せそもそもの首謀者は、カミュアですもんね」
俺は苦笑を浮かべつつ、それでもせいいっぱい感謝の念を伝えることにした。
「でも、すべて丸く収まったようです。カミュアのおかげで、チルも心安らかに生きていくことができるのでしょう。あらためて、俺からもお礼を言わせてください」
「何も礼には及ばないさ。俺はこの世界にとって、もっとも正しいと思える道を模索しただけのことだからね」
チェシャ猫のごとき笑みをたたえつつ、カミュア=ヨシュの瞳にはジバ婆さんを思わせる透徹した輝きがたたえられていた。
星見の力を授かってしまったチル=リムは、決して絶望させてはならない――それはカミュア=ヨシュばかりでなく、フェルメスも語っていた話であったのだ。まったく異なる人生を歩みながら、どこか似たようなスタンスでこの世界を俯瞰しているように感じられるカミュア=ヨシュとフェルメスが、チル=リムの行く末に対しては同じ結論に至っていたのである。それゆえに、俺もこれこそがもっとも正しい選択であったのだろうと信ずることがかなったのだった。
ともあれ――これで役者はそろったようである。
傀儡使いの一行に、南の建築屋の一行、アラウトの一行に、ザッシュマ、カミュア=ヨシュ、レイト、そして《ギャムレイの一座》――この復活祭をジェノスで過ごそうと決めていた人々が、のきなみ集結したのだ。
最初の祝日である『暁の日』は、もはや2日後に迫っている。
往来から響きわたる笛や太鼓の演奏に、人々の歓声やどよめきを聞きながら、俺はいっそう心をわきたたせることに相成ったのだった。




