紫の月の十九日~さらなる再会~
2022.12/24 更新分 1/1
リコたち傀儡使いの一行がジェノスにやってきてから、2日後――15連勤の3日目となる、紫の月の19日である。
その日から、ついにザザの血族が護衛役を担ってくれることになった。
「よう、アイ=ファにアスタ。今日からしばらく、よろしくな」
そのように笑いかけてきたのはディガ=ドムであり、そのかたわらにはドッドも控えている。さらに、ザザやジーン、ハヴィラやダナなどの狩人も含めて、総勢は8名だ。そして、青空食堂の手伝いをするために、4名の女衆も顔をそろえている。それらの姿を見回しながら、アイ=ファは厳粛な面持ちで「うむ」とうなずいた。
「今日から3日間は6名の護衛役を願っていたはずだが、8名も参じてくれたのだな」
「いや。ルティムの集落にはディック=ドムとレム=ドムも泊まり込んでるから、そっちも合わせると10名だよ。俺たちは屋台の護衛って役目も不慣れだから、多めに狩人を出すことになったんだ」
そう言って、ディガ=ドムは大らかに笑った。それでもギバの頭骨をかぶっているため、たいそう勇壮なる姿である。
「それに俺たちは、復活祭の賑わいを見届けつつ町の人間と絆を深めるって役目も負ってるからな。正直なところ、誰もがこの役目を楽しみにしてただろうと思うよ」
「そうか。何にせよ、そちらの血族であるのはディンとリッドの女衆のみであるのに、このような役目を負ってくれたことをありがたく思っている。どうか我々の家人たちの安全を守ってもらいたい」
「ああ、まかせてくれ。この身に代えても、アスタたちを守ってみせるよ」
ディガ=ドムは落ち着いた面持ちであったが、その眼差しには強い覚悟と誠実さが感じられた。
アイ=ファは厳しい面持ちで「うむ」とうなずいてから、俺のほうに向きなおってくる。
「お前も決して油断することなく、仕事を果たすのだぞ」
「うん、了解。アイ=ファも狩人の仕事、気をつけてな」
アイ=ファはこれまでの復活祭において、ずっと俺と行動をともにしてくれていた。去年は休息の期間であったし、最初の年は森の主との戦いで手傷を負って狩人の仕事を休んでいたため、毎日宿場町に下りることができたのだ。
しかし本年は、森辺の狩人として仕事を果たさなければならない。どれだけ俺の身を心配しようとも、狩人の仕事を二の次にすることはできないのだ。もちろん最近は5日置きぐらいに休みを入れているので、そういう日には同行してもらう手はずになっていたが――それでもアイ=ファは、心中の懸念を強い気持ちでねじ伏せているはずであった。
「……お前もしっかりと、役目を果たすのだぞ」
アイ=ファがそのように呼びかけた相手は、荷車の御者台で丸くなっていた黒猫のサチであった。本日から、彼女も屋台の商売に同行することになったのだ。
いっぽう、ジルベとラムはお留守番である。彼らも以前はしょっちゅう宿場町に連れていったものであるが、現在はラムが出産間近であるのだ。いまやラムのおなかははっきりと大きくなっており、発情期の時期から逆算すると、この年の内に子供を産み落とすはずであった。
そうしてアイ=ファやジルベたちに見送られながら、俺たちはファの家を出立する。
かまど番が12名、手伝いの女衆が4名、護衛役が8名、猫が1匹という大所帯で、荷車の総数は4台だ。俺が運転するギルルの荷車には、ディガ=ドムとドッドが同乗してくれた。
「ディガ=ドムたちは、昨日からディンやリッドの家に泊まり込んでいたのですよね?」
俺が御者台からそのように呼びかけると、ドッドが「ああ」と応じてくれた。
「俺とディガ=ドムなんかは、リッドの本家に割り振られてさ。ひどい騒がしさだったけど、楽しかったよ」
「あはは。ラッド=リッドは、愉快なお人ですからね。護衛の役目について、何か仰っていましたか?」
「ああ。最初に軽い食事を渡されるけど、念のために干し肉を持っていけってよ。屋台の美味そうな匂いを嗅いでいると、腹が空いてたまらないんだってな」
ラッド=リッドも昨年の復活祭で護衛役を担ってくれたので、そんな教訓を得ることになったわけである。まったくもって、こちらの期待を裏切らないお人であった。
「まあ、俺たちもこれまでに何べんか、復活祭の時期に宿場町を覗いてるけどさ。今回は、これまで以上の賑わいだそうだな」
「ええ。現時点でも、はっきり違いが感じられるほどですね」
「それじゃあ、用心が必要だな。もちろんこっちは最初から、めいっぱい用心してるけどよ」
そんな言葉を交わしている間に、ルウの集落に到着した。
そちらには、8名のかまど番とディック=ドムおよびレム=ドムが待ち受けている。かまど番の取り仕切り役は1日置きに変わるので、本日もララ=ルウであった。
「お疲れ様。ザザの血族から、4名も女衆を出してくれたんだってね。それだけいれば食堂のほうも十分だろうから、助かるよ」
「うん。やっぱり客席を広げると、こっちも人手が必要になっちゃうからね」
ララ=ルウの提案で、青空食堂は昨日から客席を拡張している。それで昨日は、ルウの眷族から2名ほど人員を補充することになったのだ。
「まあ、手伝いをお願いすると、たいていの女衆は喜ぶんだけどさ。だけどその分、家のほうが手薄になっちゃうからね」
「うん。今はただでさえ、下ごしらえでも人手の増員をお願いしてるからね」
たとえ大きな収入が見込めるとしても、家の仕事を二の次にすることは許されない。そんな俺たちにとって、ザザからの手伝いの申し出はありがたい限りであったのだった。
「あ、ディック=ドムにレム=ドムも、あらためてお願いします」
「うむ。今日からしばらくは俺が護衛役の取り仕切り役となるので、何かあった際はこちらに申し出てもらいたい」
本日も、ディック=ドムは若年と思えぬ重々しい風格であった。
「また、護衛役の配置というものに関しては、ルウやルティムの狩人たちからしっかり学ぶことができた。そちらは何も案じることなく、自分たちの仕事を果たしてもらいたい」
「承知しました。こちらも心強い限りです」
ディック=ドムは「うむ」とうなずき、ルウルウの荷車の御者台に乗り込んだ。
レム=ドムは肩をすくめつつ、俺の耳もとに唇を寄せてくる。
「モルン・ルティム=ドムは、しばらくドムの集落で過ごすそうよ。家長の留守を守るのも、伴侶の大事な役目なんですって。まったく、融通がきかないわよね」
「ああ、なるほど。でもそれは、ディック=ドムの判断なんだろう? 本家の家長らしい、厳正な判断なんじゃないのかな」
「去年なんかは、ふたりでさんざん宿場町をうろついていたのにね。復活祭の期間ぐらい、堅苦しい習わしは忘れればいいのに」
すると、ディック=ドムが御者台から呼びかけてきた。
「レムよ、そちらの荷車はお前が手綱を預かるのだぞ。すみやかに準備をするがいい」
「はいはい、仰せのままに。それじゃあ、また後でね」
レム=ドムは、ジドゥラの荷車の御者台に着く。すると、こちらの荷車からドッドが顔を覗かせた。
「そうか。普通は狩人が手綱を預かるもんなんだな。こっちはふたりずついるんだから、なおさらそうするべきだろう。ここからは、俺が手綱を預かるよ」
「あ、どうもありがとうございます。……トトスの扱いは、ドッドに任せれば安心ですね。今年も早駆け大会に出場するんですか?」
「うーん。今回は護衛の役目があるからやめておこうかって話になってたんだけど……まあ、とりあえず乗ってくれ。家長に叱られる前に、出発しよう」
そうして俺が荷台に乗り込むと、ドッドの代わりにディガ=ドムが説明してくれた。
「この前のルウの祝宴で、シュミラル=リリンがリーハイムって貴族に出場をねだられたってんだろ? だったらこっちもドッドだけは出すべきかって話が持ち上がってるんだよな」
「なるほど。去年はザザの血族でも、まずは身内で勝負をしてから出場する人間を選んでいたんですよね」
「ああ。その勝負ははぶいて、ドッドを出そうってことだな。ドッドだってシュミラル=リリンほどではないにせよ、活躍してたわけだからよ」
そんな風に語るディガ=ドムは少し自慢げな面持ちであり、俺にはそれがとても微笑ましく思えた。
「まあ、トトスの駆け比べなんて、狩人には必要のない技かもしれねえけど……これだって、外の連中と絆を深めるための、大事な行いだもんな」
「ええ。入賞すれば、祝賀会にも招待されますしね。俺なんかは理由もなく招待されそうな気配なんで、また森辺の同胞が入賞したら嬉しく思います」
こんな会話ができるのも、復活祭ならではの楽しみである。
そしてその相手がディガ=ドムであるというのが、何より新鮮だ。そもそも俺たちは、同じ荷車に揺られるのも初めてであるはずであった。
そんな感慨も四半刻足らずで終了し、6台の荷車は宿場町に到着する。
《キミュスの尻尾亭》と《南の大樹亭》で屋台を借り受けたならば、いざ商売の準備だ。所定のスペースには、本日も多数のお客が待ち受けていた。
「確かにこれは、昨年以上の賑わいであるようだ。……3名は屋台の後ろで、4名は客席、3名は荷車の付近に控えよ。街道の側ばかりでなく、背後の雑木林の側も警戒するのだぞ」
ディック=ドムの指示で、狩人たちが散開する。まず屋台の裏の警護を受け持ったのは、レム=ドムとハヴィラおよびダナの狩人であった。
「ふふん。わたしたちは、こうしてかまど番の背中を守るわけね。アイ=ファに自慢したら、にらまれちゃうかしら」
「うん。それなりの眼光を覚悟するべきだと思うよ」
俺は苦笑をこらえつつ、屋台の準備に勤しんだ。本日の日替わり献立は、タラパとマロマロのチット漬けを使ったピリ辛の煮込み料理だ。
「今日の軽食は、ユン=スドラが担当の『ケル焼き』だからね。屋台を開店させる前に作りあげるから、そっちで配ってもらえるかな?」
「それじゃあ、女衆を呼んでおくわね。わたしたちは、勝手に動けないもの」
レム=ドムが手招きをして、ひとりの女衆を呼びつけた。見覚えのない顔だが、骨や毛皮の飾り物を身につけていないので、ダナかハヴィラの女衆であろう。北の一族ほど勇ましい気性をしていない彼女は、初々しく頬を火照らせていた。
「狩人に食事を準備してくれるそうだから、あなたが配ってくれる? というか、あなたたちも同じものを食べることになるのかしら?」
「あ、いえ。わたしたちは、ディンの家でいただいてきました」
「あら、そうなのね。だったらわたしたちも、明日からそうするべきなのじゃないかしら? ちょっと時間は早いかもしれないけれど、いま食べるのと半刻ぐらいしか変わらないものね」
「そっか。昨年まではあちこちの氏族から人手を借りてたから、時間を合わせるのが手間だったんだよね。ルウの人たちと検討してみるよ」
そんな言葉を交わしている間に、ユン=スドラが『ケル焼き』を完成させた。ポイタンの生地を2枚使って具材を特盛にした、特別仕立てだ。まずはレム=ドムたち3名がそれを頬張り、残りの分を女衆が抱えて立ち去っていった
「ううむ、美味いな。これならば、町の人間が押し寄せるのも当然だと思うぞ」
ハヴィラの若き狩人は、そんな風に言っていた。
鉄鍋の中身を攪拌しながら、俺はそちらに呼びかけてみる。
「ハヴィラやダナの方々も、今では昼から干し肉以外の料理を食しているのですか?」
「うむ。野菜やポイタンも食したほうが、より力を出せるようであるからな。ただし、干し肉も毎日口にしているぞ。……そのように取り決めたのは、アスタなのであろう?」
「はい。硬い干し肉で頑丈な歯や顎を維持するのは重要なことであるはずだと、ドンダ=ルウに進言することになりました」
「うむ。そうしてアスタは、森辺の民に相応しい食事というものをしっかり重んじているという話だったな」
背中から聞こえてくる男衆の声に、笑いの響きが入り混じった。
「グラフ=ザザもそういった話を何より重んじているので、案ずることはない。……しかし、このような話をアスタ自身と語るのは、なかなかに新鮮な心地だな」
「ええ。以前にみなさんの収穫祭に招いてもらいましたけど、あまり腰を据えてお話しするゆとりはありませんでしたからね」
「うむ。ディンやリッドや町の人間ばかりでなく、アスタとも絆を深められることを得難く思うぞ」
そんなありがたい言葉を聞きながら、俺は商売の準備を終えることになった。
10名分の軽食をこしらえたユン=スドラも、商売用の具材を焼きあげることができたようだ。そうしてすべての屋台が準備を終えたことを確認してから、俺たちは商売を開始させた。
街道に居並んでいた人々が、怒涛の勢いで押し寄せてくる。俺たちが準備をしている間にもその人数はふくれあがり、すでに3ケタにも及ぼうかという勢いである。焼き物の料理などはあっという間に作り置きの分を売り尽くして、すぐさま行列ができてしまった。
俺の担当は煮込み料理であるので、鉄鍋一杯分の料理が尽きるまでは、ひたすら販売だ。今日の相方であるガズの女衆とともに、俺は楽しくも目まぐるしい時間を過ごすことになった。
そうして半刻ばかりが過ぎると、わずかばかりに客足が落ち着く。しかし、ラーメンや焼き物の屋台で行列が消えることはない。そして煮物や汁物の屋台でも、客足が完全に途絶えることはなかった。
「もうあと10杯足らずで、最初の鍋はおしまいだね」
「はい。次の鍋を準備します」
ガズの女衆が、機敏な動作で荷車のほうに駆けていく。
その間、俺は単身で営業だ。すると、背後からひさびさにレム=ドムの声が聞こえてきた。
「あらためて、どの女衆も見事な手際ね。これじゃあこちらの女衆も、屋台の手伝いなんてできないわけだわ」
「うん。復活祭の忙しさは、別格だからね。特に銅貨のやりとりなんかは、経験が必要だろうからさ。でも、食堂の手伝いをしてもらえるだけで、こっちは大助かりだよ」
「あちらも、大層な騒ぎだものね。ディックもずいぶん、気を張っている様子だわ」
青空食堂では常に100名単位の客が賑わっているので、護衛役の狩人たちもまったく気が抜けないことだろう。それにこの時期はジェノスを初めて訪れる人間というのも少なくはなく、森辺の狩人を恐れない人間や女衆にちょっかいを出そうという不届き者も出現するのだった。
「アスタ、お待たせしました。そちらの鍋は、いかがですか?」
と、たっぷり中身の詰まった鉄鍋をひとりで運んできたガズの女衆が、そのように呼びかけてくる。こちらはちょうど、最後の分をお客に供したところであった。
「ちょっと待っててね。……申し訳ありません! 新しい分を温めなおしますので、こちらの料理は少々お待ちください!」
こちらに近づいてこようとするお客らにそんな言葉を届けてから、俺は鉄鍋の取っ手にグリギの棒をひっかけて、屋台の上から取り除いた。ガズの女衆はすかさず新しい鍋を設置して、屋台内部の火鉢に薪を追加する。これまではとろ火で保温していたが、新しい鍋は中火で迅速に温めなおすのだ。
俺は火傷をしないように気をつけながら、空になった鉄鍋を荷台に運び込む
すると、青空食堂の警護班であるジーンの若き狩人が、4名もの人間を引き連れてこちらに近づいてきた。
「アスタよ、客人が挨拶に出向いてきている。アラウト、サイ、カルス、そして《守護人》のザッシュマなる者だ」
「ああ、ザッシュマ。ようやくジェノスに戻られたのですね」
「おう。途中でダバッグに立ち寄ったら、なかなか離してもらえなくてよ」
ちょっとひさびさの再会となるザッシュマが、陽気に笑いかけてくる。頭にターバンのようなものを巻き、厳つい顔に無精髭を生やした、がっしりとした体格の《守護人》だ。そしてそのかたわらでは、平民に身をやつしたアラウトが朗らかに笑っていた。
「僕たちもザッシュマ殿のおかげで、ようやく宿場町に参ずることがかないました。これからどうぞよろしくお願いいたします」
アラウトはこの復活祭の期間をなるべく森辺や宿場町で過ごしたいと願っていたが、護衛役がサイひとりではさすがに心配であったため、ザッシュマやカミュア=ヨシュがジェノスに戻ってくる日を待ち受けていたのだ。ザッシュマもかつてはウェルハイドの婚儀に招待された身であったので、アラウトの申し出を快諾してくれたようであった。
「《北の旋風》は、まだ戻っていないそうだな。また何かおかしな騒ぎに巻き込まれていないことを祈るばかりだぜ」
「そうですね。《キミュスの尻尾亭》の方々も、レイトの帰りを心待ちにしているはずですよ」
「……それにしても、今回はずいぶん迫力のあるお人らが居揃ってるもんだな」
と、ザッシュマは陽気な笑みを保持したまま、黙然とたたずむジーンの狩人へと目を向ける。まだ若年の狩人であるようだが、ギバの毛皮を頭からかぶっているだけで、迫力は5割増しであろう。
「食堂でくつろいでる間は、俺も気を張らずに済みそうだよ。それじゃあさっそく、いただくことにするかい?」
「ええ、そうしましょう。またのちほど、食事の後にご挨拶をさせてください」
そうしてアラウトたちは街道のほうに舞い戻り、俺も持ち場に戻ることになった。
しかし、鍋の料理を温めなおすには5分ばかりも必要になるので、その間に他の屋台を見回ることにする。ルウやディンの屋台も、滞りなく作業を進められているようであった。
やがてこちらの鍋が温まった頃には、中天も間近である。
そうして中天に至ったならば、2度目のピークの到来だ。これは朝一番のラッシュを超える勢いで、昨日よりもさらに客足が増えたことを実感させられた。
(これはもう、5割増しの分量じゃ追いつかなそうだな。どれぐらい料理を増やすべきか、ララ=ルウたちと相談だ)
3日後には、復活祭の正式なスタートである『暁の日』が迫っている。その頃には、10割増しの料理が必要となるのだ。明日と明後日にはどれぐらいステップアップさせるべきか、こちらは考えどころであった。
そうして中天から半刻ていどが経過しても、客足はなかなか落ち着かない。何だかこのまま最後まで続いてしまいそうな勢いだ。そうしたら、俺の担当の煮込み料理も、終業時間の半刻前には売り切れてしまうかもしれなかった。
(もしかしたら、3日後以降も10割増しじゃ足りないのかな。まあ、料理が売り切れる時間をしっかり計測して、無理のない範囲で増量を――)
と、俺がそのように思案しながら、木皿に料理を取り分けていると――「アスタ」という限りなく懐かしい声が響きわたったのだった。
「声をかけるまで気づかないなんて、大層な入れ込みようだな。まあ、これだけ混雑してりゃあ、無理もないけどよ」
俺は思わず木皿を取り落としそうになりながら、「アルダス!」と声を張り上げることになった。
「いらっしゃいませ! 今日か明日には到着すると聞いていましたけれど、お早いお着きでしたね!」
「そんな馬鹿でかい声を出してると、衛兵が飛んできちまうかもしれねえぞ」
俺よりも高い位置から、アルダスが髭もじゃの顔で笑いかけてくる。ジャガルの建築屋の副棟梁、気さくで大らかで大酒飲みの大男――およそ4ヶ月ぶりに再会する、アルダスである。
そして気づけば、屋台の前面のほとんどが南の民たちに占領されていた。
30名以上の人数から成る、ジャガルの建築屋とその家族たちである。俺は覚悟を固めていたつもりであったが、それでも胸を揺さぶられてやまなかった。
「ひさしぶりだな、アスタ! 元気そうで、何よりだ!」
と、隣の屋台に並んでいたメイトンが、いくぶん目を潤ませながらそのように呼びかけてくる。そのかたわらで笑っているのは、メイトンの伴侶とご子息だ。
そうして俺が慌てて視線をさまよわせると、アルダスが苦笑しながら巨体をななめに傾けた。
「どうしておやっさんは、いつも後ろに引っ込んじまうんだよ。そら、アスタも挨拶をしたがってるぞ」
「……今は祭を楽しんでいるさなかなのだから、俺が取り仕切る筋合いはないぞ」
不機嫌そうな仏頂面で、不愛想な言葉を言い捨てる。建築屋の棟梁、バランのおやっさんである。
「ああ、バランのおやっさんも、おひさしぶりです。……お元気そうで、何よりです」
「……だから、いちいち涙を浮かべるな」
おやっさんは溜息をこぼしてから、しかたなさそうに目だけで微笑んだ。
「今回は4ヶ月ていどしか過ぎておらんのだから、そうまで心を乱す必要はあるまいよ。俺たちの後ろにもどっさり客が並んでいるのだから、さっさと仕事に励むがいい」
「はい。すみません。何人前をご所望ですか?」
俺は目もとに浮かんだものを手の甲でぬぐいつつ、何とか笑顔を返してみせた。
どうもおやっさんのたたずまいというのは、俺の涙腺を刺激してやまないのだ。いくら大仰と言われようとも、こればかりはどうしようもなかった。
「それはまた、新しい料理のようだな。とりあえず、10人前ほどいただいておくか。……おい、さっさとそいつを渡しておけ」
「へん。まごまごしてたのは、親父も一緒だろ」
そのように応じながら大皿を差し出してきたのは、おやっさんの上の息子さんであった。陽気で、ちょっと小心なところもある若者である。
「ひさしぶりだな、アスタ。そっちの娘さんも、見覚えがあるよ。また復活祭が終わるまで、よろしくな」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
俺は大皿を受け取って、そこに10人前の料理を取り分けた。
その間に、半数ぐらいの人々は席を確保するために青空食堂へと立ち去っていく。おやっさんの伴侶も、長男の伴侶も、寡黙な次男も――誰も彼もが、息災であるようであった。
「……例の飛蝗の騒ぎも、まったく尾を引いていないようだな。森辺のほうも、それは同様か?」
と、おやっさんがにわかに真剣な眼差しとなって、そのように問うてくる。飛蝗の騒ぎが勃発した際、建築屋の面々もジェノスに滞在している真っ只中であったのだ。
「ええ。被害の大きかったサウティの狩り場も、何とか立て直せたようです。あの騒ぎからも、4ヶ月以上が過ぎているわけですしね」
「あれはまったく、ひどい騒ぎだったな。しかし、ダレイムとかいう領地の畑もすっかりもとに戻ったさまを、行き道で見届けることになった。まったくジェノスの連中というのは、どいつもこいつもしぶといものだ」
きっとその中には、森辺の民も含まれているのだろう。ぶっきらぼうな態度はそのままに、おやっさんの眼差しは優しかった。
「それではな。俺たちにはかまわず、仕事に励むがいい」
「ありがとうございます。でも、お時間のあるときにゆっくり語らせてくださいね」
料理の大皿を長兄に持たせたおやっさんは、面倒くさそうに手を振りながら立ち去っていった。
他の面々もひとまず希望の料理を確保できたようで、次々と青空食堂のほうに向かっていく。その後には、西や東のお客たちが詰めかけてきた。
「バランたちも息災なようで、何よりでしたね。ゆっくり語らせていただける日が、待ち遠しいです」
新たなお客の相手をする合間に、ガズの女衆がにこりと笑いかけてくる。よほど新参の人間でない限り、屋台のメンバーは昨年の復活祭をご一緒しているし、緑と青の月の滞在期間にもご縁を紡いでいるのだ。それに、今年の滞在期間には、ガズの家でも建築屋の面々を晩餐に招待しているはずであった。
「バランたちのお姿を見て、いよいよ復活祭が始められるのだという実感がわいてきました。あとは……《ギャムレイの一座》の到着を待つばかりですね」
「うん。《ギャムレイの一座》も、そろそろ到着するはずだからね」
そして《ギャムレイの一座》には、チル=リムとディアも同行しているはずであるのだ。
チル=リムがジェノスに戻ってきたならば、これまでの行動について釈明するために族長たちと対話してもらわなければならなかったが――それさえ乗り越えれば、ともに復活祭を楽しむことができるはずであった。
「あら、アスタ。またさっきの連中が挨拶に出向いてきたようよ」
レム=ドムの声に応じて背後を振り返ると、アラウトたちの姿が見えた。
「お忙しい折に、何度も申し訳ありません。どうぞアスタ殿は、そのままお聞きください。……僕たちは、このままスン家にお邪魔することになりました」
「ああ。そういえば、あなたはスンの者たちと絆を深めたがっていたのよね」
商売に勤しむ俺の代わりに、レム=ドムがそのように反問した。
「はい。アスタ殿やルウ家の方々はお忙しいでしょうから、なるべく屋台の仕事と関わりの薄い方々の家を巡らせていただこうと計画していました。初日の本日には、スン家にお邪魔させていただこうかと思います」
「ふふん。あのティカトラスという貴族と似たような申し出だけれど、人が変わるとこうまで趣が変わるものなのかしらね」
レム=ドムは皮肉っぽく笑い、アラウトは反応に困った様子で口をつぐむ。
そのとき――街道のほうで、歓声が爆発した。
「おひさしぶりだねェ、ジェノスのみなさんがたァ。鎮魂祭でもお世話になったけど、復活祭でもよろしくお願いいたしますよォ」
歌うような節回しである童女の声音が、歓声の向こう側から響きわたる。
それでもう、すべてを察することができた。《ギャムレイの一座》が、ジェノスに到着したのだ。
屋台に並んでいたお客たちも、驚嘆の面持ちで街道のほうを振り返る。それで一時的に商売がストップされたため、俺も屋台ごしに《ギャムレイの一座》の登場を見届けることになった。
けばけばしい彩色を施された荷車が、街道をゆっくりと南下してくる。その先頭の荷車を引くのは、コモドオオトカゲを思わせるワースの岩蜥蜴だ。
岩蜥蜴の手綱を握るのは仙人のごとき風体をした老人シャントゥで、その右側では褐色の麗人ナチャラが横笛を吹き、左側では吟遊詩人のニーヤが弦楽器をかき鳴らしている。
そしてそれらの姿が、赤い雪のようなものに彩られていた。
荷車の屋根に立った童女のピノが、羽織のような装束の裾をひらめかせながら、小さな真紅の造花を撒き散らしているのだ。
そちらの荷車が通りすぎると、今度は大男ドガの巨体があらわになる。彼が引いているのは、普通のトトスの荷車だ。
さらに、長身痩躯であるディロと、気弱げな素顔をさらしたロロの荷車が続き――その次に、フードつきマントで人相を隠した小さな人影が現れた。
双子のアルンやアミンよりもさらに小さい、華奢な体格である。
まったく顔は見て取れなかったが、これはチル=リムであるに違いなかった。そのかたわらには、同じく人相を隠したディアらしき姿もうかがえたのだ。
その次にはアルンとアミンが杖の先に鳴り物のついた楽器を鳴らしながらふたりで一緒に手綱を引き、最後に小男のザンがしんがりをつとめ――そうして7台から成る《ギャムレイの一座》の荷車は、極彩色の白昼夢のように通りすぎていったのだった。
「……あれが噂に聞く、《ギャムレイの一座》という旅芸人の一団ですか。彼らが森辺の方々と懇意にしており、ギバを見世物にしているというお話は、僕もうかがっています」
どこか茫洋とした声で、アラウトがそのようにつぶやいた。
「何だか僕が想像していた以上に、並々ならぬ雰囲気の方々であられるようですね。まあ、バナームではあまり旅芸人というものを迎える機会もありませんので、余計そのように思えるのかもしれませんけれど……」
「いやいや。俺はそれなりに大陸中を駆け巡っているつもりだが、あれほど素っ頓狂な連中はそうそういないはずですぜ」
ザッシュマは、苦笑まじりの声でそんな風に答えていた。
《ギャムレイの一座》はもう影も形も見えないが、往来には彼らの残した熱気と賑わいがありありと渦巻いている。《ギャムレイの一座》には、それだけの存在感と影響力というものが備わっているのだ。
《ギャムレイの一座》が、ついにジェノスに到着した。
それで俺は、ついに復活祭が始まったのだ、と――まったく理屈もへったくれもなく、そんな感慨を噛みしめることになったわけであった。




