贖罪の儀④~祝いの儀~
2022.12/7 更新分 1/1
やがて太陽は西の果てに没し、世界は藍色の闇に包まれた。
そんな中、ディック=ドムの重々しい声が響きわたる。
「では、祝いの儀式を開始する。……族長グラフ=ザザよ」
ディック=ドムの声に招かれて、グラフ=ザザがゆっくりと進み出た。どうやら狩人の儀式においては、グラフ=ザザが取り仕切るものであるらしい。
俺の周囲では、ドムの血族ならぬ客人たち――ドンダ=ルウやミダ=ルウ、ラウ=レイやヤミル=レイ、スン家の3名に城下町からの7名が立ち並んでいる。その中でも、やはり張り詰めた面持ちをしているのはリフレイアとアラウトであった。
「儀式の火を」
グラフ=ザザの短く重々しい言葉とともに、薪の山に火が灯された。
そしてさらに、腹の底まで響くような太鼓の音が鳴らされる。森辺においても北の集落にしか残されていない、古きよりの習わしだ。ひとたび落雷のごとき音が鳴らされてからは、ドロドロドロ……という、岩の転がるような音色がロールされた。
たちのぼる炎と太鼓の音色が、一種幻想的な雰囲気を作りあげていく。
そんな中、グラフ=ザザがまた短く声をあげた。
「ドムの氏なき家人、ディガをここに」
広場の人垣がふたつに割れて、ディガが通るための道を作った。
ディガはわずかに左足を引きずるようにして、ゆっくりと進み出てくる。その顔は、意外なぐらい落ち着いた表情をたたえていた。
やがてディガが儀式の火の前に到着すると、手ぶらの女衆がその前に進み出る。ディガは古びてすっかり毛のすりきれた狩人の衣を脱ぎ捨てると、それを女衆に手渡した。見習いの狩人が仕事の際に纏うという、借り物の狩人の衣である。
さらに借り物の刀も受け取った女衆は、しずしずと引き下がる。それと入れ替わりで、新たな品々を掲げた3名の女衆が進み出た。
まずはディガの腰に、新たな刀がさげられる。
次は真新しい狩人の衣だ。それこそが、ディガの仕留めたギバの毛皮であるはずであった。
そして最後の女衆が、恭しげな仕草でギバの頭骨を高く掲げる。長身であるディガが腰を屈めると、その頭に頭骨がかぶせられ――それで、ディガの姿が一新されることになった。
それと同時に、北の集落の人々が奇妙な声をあげ始める。
オーウ、オーウ、という重々しい、獣の遠吠えにも似た声である。これもまた、北の集落にのみ残されている、古きからの習わしであるはずであった。
そんな地鳴りのごとき詠唱に包まれて、ディガはこちらに向きなおってくる。
その勇壮な姿に、俺は胸が詰まりそうだった。
ギバの頭骨が加えられたために、いっそう勇壮な姿である。
そしてディガは、そんな勇ましい身なりが似合うほどの立派な体格をしている。また、頭骨の陰に半ば隠されたその顔も、穏やかな表情をたたえたままであり――実に堂々たるたたずまいであった。
「我々は、ここに新たな狩人を得た。母なる森に、感謝を」
それだけ言い残して、グラフ=ザザは退いた。
それと入れ替わりで、ディック=ドムが進み出る。
「引き続き、氏の授与の儀式を執り行う。ディガの新たな家人となる者たちは、前に」
5名の男女が、儀式の火の前に進み出た。その先頭に立つのは、収穫祭の力比べで荷運びの勇士となった、分家の家長だ。ディック=ドムにも負けない大柄の体躯をした、壮年の男衆である。
「今日よりディガは、こちらの分家の正式な家人となる。ドム本家の家長ディック=ドムの名において、ディガにドムの氏を授けよう。今この瞬間から、お前はドム分家の家人、ディガ=ドムだ」
ドムの氏を授かったディガ――あらためディガ=ドムは、ディック=ドムの前で膝を折り、頭を垂れた。
ディック=ドムはそちらに手の平をかざし、さらに重々しい声で宣言する。
「かつてスン本家の長兄ディガ=スンとして数々の悪行を働き、ついにはスンの氏を奪われることになったお前は、今日よりディガ=ドムとして新たな生を歩むことになる。お前の罪は許されたが、かつての過ちを決して忘れることなく、新たな家人たちと正しき生を歩むがいい」
「はい。ドム分家の家人ディガ=ドムは、2度と道を踏み外さないことを母なる森とすべての同胞に誓います」
ディック=ドムは無言で首肯し、ディガ=ドムの前から退いた。
すると分家の家長が野太い声で詠唱をあげながら進み出て、大きな手の平でディガ=ドムの右肩をつかむ。さらに4名の家人たちも、順番に同じ仕草を見せた。
それで儀式が終了したようで、ディガ=ドムがゆっくりと立ち上がる。
その顔は穏やかなままであったが、頬には涙が光っていた。
「ディック=ドムよ。俺がこの場で語ることは許されるだろうか?」
「うむ。何か伝えたいことがあるなら、存分に語るがいい」
「感謝する。……ドムの血族たるザザ、ジーン、ハヴィラ、ダナ、ディン、リッド、およびルティムの家人たちよ。そして、他なる家と城下町から参じてくれた客人たちよ。かつて大きな罪を働いた俺は、今日からディガ=ドムとして正しく生きることを誓う。俺が魂を返すその日まで、この言葉が虚言でないことを厳しい目で見定めてもらいたい」
頬を伝う涙をぬぐおうともしないまま、ディガ=ドムはそのように宣言した。
「そして俺は、この場に集った者たちに……いや、この場に集っていない数多くの者たちにも、感謝の念を伝えたい。俺やドッドやかつてスン本家であった人間が正しき生を取り戻すことがかなったのは、数多くの人々が許しを与えてくれたからだ。それがどれだけかけがえのないことであったか、俺はこの2年と少しで魂の奥深くにまで刻みつけられることになった」
儀式の詠唱を取りやめた人々は、無言でディガ=ドムの言葉を聞いている。
儀式の火を背後に、堂々と立ちはだかったディガ=ドムは、穏やかな声音でさらに言葉を重ねた。
「俺はこの感謝の気持ちを、決して忘れない。そして、俺のように愚かな人間を救ってくれた数多くの人々のために、力を尽くしたく思う。俺は……森辺の民として生まれ落ちたことを、心から幸福に思っている。たとえ明日、森に朽ちることになろうとも、俺の心には一片の悔いもないだろう。俺は森辺の民として正しく生き、正しく魂を返すと誓う。母なる森にも、どうか見守ってもらいたい」
それだけ言って、ディガ=ドムは引き下がった。
新たな家人となった女衆のひとりが静かに微笑みながら手ぬぐいを差し出すと、気恥ずかしそうに笑いながら涙をぬぐう。そのさまを見届けて、グラフ=ザザが声を張り上げた。
「我々は、ここに新たな血族を得た! 祝いの料理で腹を満たし、この日の喜びを分かち合うがいい!」
それで初めて広場の人々が、怒号のごとき歓声をほとばしらせることになった。
俺が万感の思いを込めて息をつくと、アイ=ファが横からひょいっと覗き込んでくる。
「うむ。今日も涙をこぼしてはいないようだな」
「だから、毎回泣いたりはしないって」
俺はそんな風に答えてみせたが、涙がこぼれないのが不思議なぐらい心を揺さぶられていた。とりわけディガ=ドムが最後に語っていた言葉の数々には、深く感じ入ることになったのだ。
そしてその場には、俺以外に涙をこぼしている人々がいた。リフレイアやアラウト、それにミダ=ルウやクルア=スンである。とりわけミダ=ルウなどは大声で泣いてしまわないように口もとを引き結びながら、滝のように涙をこぼしていたのだった。
「……失礼する。客人らもディガ=ドムの敷物に招きたく思うが、いかがであろうか?」
と、ディック=ドムがそのような言葉を投げかけてきた。そのかたわらに控えるのはグラフ=ザザで、やはりこの両名が並ぶとものすごい存在感だ。
「それは願ってもない話だが……こういう際には、血族が優先されるものなのではないだろうか?」
アラウトたちに代わってメルフリードが応じると、ディック=ドムは「大事ない」と鷹揚に応じた。
「血族らはディガ=ドムを祝福するのと同時に、物珍しい客人にも挨拶をしたいと願うだろうからな。ならば、同じ場で過ごしてもらったほうが、面倒も少なかろう」
「承知した。ディック=ドムのはからいに感謝する。……参ろう、アラウト殿」
「はい。ありがとうございます、ディック=ドム殿」
アラウトは涙声で応じつつ、何とか笑顔をこしらえた。
その姿に、ディック=ドムもわずかに口もとをほころばせる。ディック=ドムは寡黙な気性であるために余計な口をきこうとしないが、きっとアラウトやリフレイアが涙をこぼすほどに感じ入っていることを嬉しく思っているのだろう。
そうして俺たちは、儀式の火の真ん前に広げられた敷物へと招かれた。
ディガ=ドムはまだ座しておらず、新たな家人となった5名の人々と語らっている。そしてこちらの接近に気づくと、家長の伴侶と思しき年配の女衆がディガ=ドムにやわらかく微笑みかけた。
「それじゃあ、またのちほどね。あたしたちはこれからずっと同じ家で過ごすことになるんだから、今は他のお人らに席を譲ろうかと思うよ」
「ああ。どうかよろしくお願いする」
「ふふ。家人になったら、そんなかしこまった挨拶も無用だよ」
5名の分家の人々はこちらに会釈をして、立ち去っていった。
ディガ=ドムは手ぬぐいで目もとをぬぐってから、こちらに笑いかけてくる。
「みんな、来てくれたんだな。俺なんかにはかまわず、祝宴を楽しんでくれていいのによ」
「そういうわけにはいくまい。まずは客人たちから、祝いの言葉を受け取るがいい」
厳粛な面持ちをしたディック=ドムにうながされて、まずはアラウトがディガ=ドムの前に進み出た。
「ディガ殿――いえ、ディガ=ドム殿、おめでとうございます。あなたにとってもっとも重要な日をともにすることができて、心から嬉しく思っています」
「ありがとう。……どうしてあんたたちは、初めて顔をあわせた人間のために涙を流せたりするんだろうな」
「それは僕自身にも、わかりません。ただ、胸を揺さぶられてやまないのです」
アラウトが気恥ずかしそうに微笑むと、ディガ=ドムのほうも同じような表情を浮かべた。
すると、目を赤くしたリフレイアも微笑みながら進み出る。
「わたしはきっと、自分にあなたの姿を重ねてしまっているのでしょうね。わたしもあなたを見習って、一人前の人間と認められるように力を尽くすわ」
「何を言ってるんだよ。リフレイアはそんなに若いのに、伯爵家の当主って身分を担ってるんだろう? 俺のほうこそ、ようやくリフレイアの背中が見えてきたところなんだろうと思うよ」
リフレイアは「光栄だわ」と貴婦人の礼をして、引き下がった。
次は、メルフリードが進み出る。
「あらためて、ディガ=ドムの躍進を祝福する。……本当に、2年前とは別人のように立派な姿であるように思う」
「へへ。あの頃の俺は、本当に最低最悪の人間だったからな」
「いや。確かにディガ=ドムは森辺の民らしからぬ弱々しい姿を見せていたが……それでも、族長の座を餌にして懐柔しようというサイクレウスらの甘言を、毅然たる態度ではねのけていた。あの頃から、ディガ=ドムの内には正しき心が育まれていたのだろうと思う」
「ああ、懐かしい話だな。……でもあれだって、前の夜にルウの集落で気合を入れてもらえたからだよ。森辺の同胞が、俺たちの力になってくれたのさ」
メルフリードは慇懃に一礼し、フェルメスに場所を譲る。
フェルメスは、何もかもを見透かしているような眼差しでディガ=ドムを見つめた。
「おめでとうございます、ディガ=ドム。本当にご立派な姿ですね。……ザッツ=スンさえ道を誤らなければ、きっとあなたは次代の族長として力強く同胞を導くこともかなったのでしょう」
「おいおい、とんでもないことを言いださねえでくれよ! ……あんたは知らねえだろうけど、俺の親父のズーロ=スンってのは狩人としての力もからきしだったんだぜ? 俺はドムの立派な狩人たちの導きで、何とかかんとか今日という日を迎えられたのさ」
「ええ。きっとこれこそが、あなたにとっての正しき運命であったのでしょう。回り道をした人間には、その人間ならではの力が育まれるはずです。どうか今後もドムの家人として、正しき道をお進みください」
その後は、サンジュラやサイやジェムドたちが言葉短く祝いの言葉を届けた。
そして、ドンダ=ルウとミダ=ルウが一緒に進み出る。
「貴様はまだまだ、成育のさなかであろう。これより長きの時間を生きて、その身に備わった力のすべてを発揮できるように願っている」
「ああ。ミダ=ルウに負けてられねえもんな」
ディガ=ドムははにかむように笑いながら、かつての弟のほうを見た。
「俺もお前みたいな立派な狩人を目指して、頑張るよ。ドッドのやつだって、すぐに追いついてくるからな」
「うん……ミダも、すごく嬉しいんだよ……?」
「いいかげんに、泣きやめって。こっちだって、必死に涙をこらえてるんだからよ」
ディガ=ドムは陽気に笑いながら、目もとに浮かんだ新しい涙をぬぐった。
ミダ=ルウは滂沱たる涙をこぼしつつ、頬肉を震わせている。
「ディガ=ドムよ! 最後まで立派なたたずまいだったな! さっさと足を治して、狩人の仕事を果たすがいい! 次の機会にはどれだけ腕を上げたか、俺が存分に確かめてやるからな!」
ミダ=ルウたちが引っ込む最中から、ラウ=レイは性急に言いたてる。
ディガ=ドムは楽しそうに、「はは」と笑った。
「血族の血族っていう奇妙な間柄じゃあ、いつその機会が巡ってくるかもわからねえけどな。でも、その日を楽しみにしてるよ」
「うむ! お前ももっと、頻繁にルティムの集落まで出向くといい! ……ヤミルよ、お前も黙りこくってないで、祝いの言葉をかけてやれ!」
「やかましいわね。あなたが倍ほども喋っているのだから、それで十分でしょうよ」
このような際でも、ヤミル=レイはクールな面持ちである。
しかし、ディガ=ドムは満足そうに微笑んでいた。
「俺たち、本当に変わったよな。ミダ=ルウやツヴァイ=ルティムたちも、見違えるほど立派になったけど……一番変わったのはヤミル=レイじゃないかって思ってるよ」
「ふん。あなたにそのような口を叩かれるいわれはないわね。……まあ、性根の腐っていた人間ほど、見違えて見えるということでしょうよ」
ヤミル=レイは皮肉っぽく笑い、ディガ=ドムは子供のように笑う。
きっとかつては、毒蛇のように微笑む姉と醜悪に笑う弟という関係であったのだろう。それに、俺が初めてスンの集落を訪れた時代、彼らは別々の家で暮らしていたのだった。
「ディガ=ドムが正しき運命を取り戻せたことを、祝福する」
「俺たちも、決して過去の過ちを忘れたりはしていない。今後もそれぞれの家で、力を尽くそう」
「……あなたが健やかな行く末を迎えることを、心から願っています」
スン家の3名は、短い言葉にさまざまな思いを込めているようであった。
日中にもしっかりと語らって、絆を結びなおすことができたのだろう。ディガ=ドムも力強く笑いながら、「ありがとう」と言葉を返していた。
それでようやく、俺とアイ=ファの出番である。
俺たちが進み出ると、ディガ=ドムはぱあっと顔を輝かせた。
「ふたりも、本当にありがとうな。こんな日をふたりに見届けてもらえて、心から嬉しく思ってるよ」
「なんだ。まずは私たちが、祝いの言葉をかけるべきであろうが?」
アイ=ファが穏やかな面持ちで応じると、ディガ=ドムは悪戯をたしなめられた弟のような顔で笑った。
「俺にとって、ふたりは特別な存在だからさ。悪さを仕掛けた後ろめたさだとか、それを許されたありがたさだとか……色んな気持ちがごちゃまぜになって、つい気が逸っちまうんだよ」
「ふむ。お前はすべての同胞に、そういった気持ちを抱いているはずだが」
「それはもちろん、その通りだけど……アイ=ファには格別、迷惑をかけただろう? それに、アスタは……根っこの部分で、俺を救ってくれた存在だろうしさ」
「俺がですか? まったく心当たりがないのですが」
俺が驚いて反問すると、ディガ=ドムは「そんなことねえよ」と神妙な顔になった。
「あの家長会議の夜、俺たちの罪が暴かれた後にさ。アスタは町の連中と正しく絆を結ぶべきだって言い張ってたろ? そういう歪みが、スン家をおかしくしたんだってさ。あれで森辺の民は、何が悪くて何が正しいのか、考えなおすことになったんだろうと思う。あのやりとりがなかったら、俺たちは頭の皮を剥がされてたかもしれねえし……俺たちだって、罪を贖おうって気持ちにはなれなかったんじゃねえかって思うんだよな」
そう言って、ディガ=ドムはどこか遠い眼差しになった。
「もちろん俺がそんな考えに至ったのは、ずっと時間が経ってからのことだけどさ。最初の1年ぐらいは、とにかく生き抜くことに必死だったし……最近になって、ようやく色んな物事を考えなおすゆとりが出てきたんだよ。それでいっそう、アスタやアイ=ファに感謝する気持ちが高まってきたってわけさ」
「それは、すべての人間に言えることであろうな。我々はスン家や町の人間を忌避するばかりで、己の行いを顧みることに欠けていた。それで全員が、間違った道に足を踏み出していたのだろうと思う」
「そこで踏み止まって正しい道に戻れたのは、森辺の民の強さだろうと思うよ。俺は余所から来た人間として多少は客観的な視点を持っていたから、みんなに考えるきっかけを与えることができたんだろうと思う」
そうして俺たちが語らっていると、ディック=ドムが「いいだろうか?」と声をかけてきた。
「込み入った話は、腰を据えてからにしてもらいたい。そのために、敷物を準備したのだしな。ディガ=ドムも、そろそろ足を休めたかろう」
「ああ、悪いな。つい熱が入っちまってさ」
ディガ=ドムが屈託のない笑顔を届けると、ディック=ドムも穏やかな表情でうなずいた。彼らのこんな安らかなやりとりも、きっとこの近年で実現したものであるのだろう。
そうして俺たちが敷物に腰を下ろすなり、女衆が大挙してやってきた。きっとみんな、宴料理を届けるタイミングをうかがっていたのだ。そして、その先頭でお盆を掲げていたのは、宴衣装のトゥール=ディンであった。
「ディガ=ドム、おめでとうございます。祝いの料理をお持ちしました」
そのように告げるトゥール=ディンは優しい笑顔であったが、目もとは赤く泣きはらしてしまっている。それに気づいたディガ=ドムは、しみじみと息をついた。
「ありがとう、トゥール=ディン。……そういえば、トゥール=ディンと初めて親しく口をきいたのも、ジーンの男衆に狩人の衣が授けられる祝いの夜だったよな」
「はい。わたしもその日のことを思い出していました。あの夜のディガ=ドムは……ドッドが森で大きな手傷を負ってしまったため、とても力を落としていましたね」
「ああ。めそめそ泣いて、ゲオル=ザザやレム=ドムにも尻を蹴られることになったんだよ。あの頃のことを思い出すと、情けなさで叫びたくなっちまうけど……それも決して忘れちゃならねえんだろうな」
「俺が、どうしたと?」と、トゥール=ディンの頭上からゲオル=ザザが顔を覗かせた。
「まったく、客人の相手に時間をかけおって。血族の人間も祝いの言葉をかける順番を待っているのだから、さっさと腹を満たすがいい。さもなくば、宴料理を口にする前に宴を終えることになるぞ」
「そうは言っても、客人らを無下にはできねえだろう? ……ああ、どれもこれも美味そうだな」
敷物の空いたスペースに、さまざまな宴料理が並べられていく。ドムの血族の女衆の、心尽くしである。ドムとルティムの女衆だけでも立派な宴料理を準備できることは婚儀の祝宴で証明されていたので、そこにトゥール=ディンらの力が加われば、もう盤石であった。
なおかつそこには、レンコンに似たネルッサのギバ肉巻きや、カブに似たドーラのそぼろあんかけ、ギバのロースとドーラやネルッサのミソダレ焼きなど、最新の食材を盛り込んだ料理も含まれている。これこそが、トゥール=ディンらの助力の賜物であろう。北の集落は遠方に位置しているため、どうしても新しい食材の扱い方では後れを取ってしまいがちであったのだった。
「ああ、これらの料理は送別の祝宴でも供されていましたね。僕たちの持ち込んだ食材をこのようにおめでたい席でも使っていただき、光栄に思います」
そうして宴料理を口にしたアラウトがぎょっとしたように目を見開くと、リフレイアが「どうされたのです?」と問いかけた。
「い、いえ。以前の祝宴の際よりも、さらに美味しく感じられるのですが……でも今日は、アスタ殿も宴料理の準備には関わっておられないのですよね?」
「あ、そ、それは、ここ最近でアスタがさまざまな調整を施したためです! け、決してわたしたちの手柄ではありません!」
トゥール=ディンが慌てて声をあげると、アラウトは「そうなのですか」と相好を崩した。
「あの祝宴からまだひと月も経っていないのに、さらなる向上が果たされたわけですね。アスタ殿の手腕にも、それをすぐさま体得できるみなさんの手腕にも、等しく感服いたします」
「まだあれらの食材を手にしてから、日が浅いですからね。それだけ向上の余地が残されていたというだけのことです」
そんな風に応じながら、俺もトゥール=ディンたちの手腕を味わわさせていただいた。
その間にも、血族の人々がひっきりなしにやってきて、ディガ=ドムに祝いの言葉を投げかけていく。確かに主役たるディガ=ドムは、宴料理を口にするのも大変そうな有り様であった。
「ディガ=ドム。今日は忘れられない1日になったな」
と――その何人目かで、ドッドが姿を現した。
ディガ=ドムはほっとした様子で、「ああ」と笑う。
「来てくれたんだな、ドッド。ずっと姿が見えなかったから、ちっとばっかり心配だったんだよ」
「ふふん。俺はお前と違って、こんなことでいじけたりはしないからな」
それはきっと、かつての収穫祭のことを言っているのだろう。あの日はドッドとレム=ドムが勇士の座を獲得し、結果を出せなかったディガ=ドムがひどく気落ちすることになったのだ。
「だからお前も俺なんかに余計な気は回さずに、しっかり胸を張ってくれよ? 俺は今日、お前本人の次に喜んでるつもりなんだからな」
そう言って、ドッドは厳つい顔に純真なる笑みをたたえた。
その目はトゥール=ディンに負けないぐらい、赤くなってしまっている。
「お前をディガ=ドムと呼べることを、心から嬉しく思ってるよ。俺も森に朽ちる前に、絶対に追いついてみせるから……お前は気兼ねなく、新しい家族と正しい道を歩んでくれ」
「ああ。お前だったら、絶対に大丈夫さ。俺が先にギバを仕留めることになったのは、本当に運だけだったんだからよ」
「それこそが、母なる森の思し召しだろ。お前には、それだけの力があったんだよ」
そう言って、ドッドは力強く握った拳をディガ=ドムの胸もとに押しつけた。
彼らはこれまで、ドムの本家や分家を順番に巡って夜を明かしていたのだという。すべての家人と等しく絆を深めるために、そういった措置が取られていたのだ。
しかしこの夜から、ディガ=ドムはひとつの家で暮らし始める。分家の正式な家人と認められて、新たな家族と新たな生を歩むのである。そして森辺では、氏を授かった人間だけが伴侶を迎えることを許されるのだった。
「ふむ。ルウの分家のジーダたちも、いまだ氏は授かっていないが……あれは、森辺の外で生まれた人間だけで新たな分家を作ったという、特別な立場であるからな。いずれ他なるルウの血族と婚儀を挙げて血の縁が結ばれたなら、家人の全員にルウの氏が与えられる。罰として氏を奪われたお前たちとは、おのずと立場が異なるのだろう」
と、旺盛な食欲を満たしていたラウ=レイが、珍しく神妙な面持ちで声をあげた。
「ただ……ここ最近は猟犬のおかげで、ギバと真正面からやりあう機会も減っている。それでシュミラル=リリンも、一人前と認められるのにずいぶん時間がかかったという話であるしな。それで今度はアイ=ファやダリ=サウティらのおかげでギバ狩りの新たな作法というものまで考案されたため、いっそう刀でギバを仕留める機会が減っていくのではないだろうか?」
すると、汁物料理をすすっていたディック=ドムが、うろんげにラウ=レイのほうを振り返った。
「……もしかしてレイの家長は、俺に向けて語っているのであろうか?」
「うむ。こちらの収穫祭で手合わせをした際、ディガとドッドに大きな力の差は感じなかった。ついでに言うなら、お前の妹もな。こやつらは、すでに見習い狩人の域ではないように思えるぞ」
「……だから、すぐさま一人前の狩人であると認めるべきだ、とでも?」
「うむ。さして力量の変わらないディガ=ドムとドッドでそのような差が生じるのは、ずいぶん不公平であるように感じられるからな。氏まで関わってくるならば、なおさらだ」
ディック=ドムは空になった木皿を敷物に下ろし、とても静かな目でラウ=レイを見返した。
「確かにレイの家長の言う通り、自らの手でギバを仕留める機会はますます減っていくのであろうと思う。その行いをもって一人前と認める習わしも、そろそろ見直す時期であるのかもしれん。……ただし、ドッドとレムに関しては、今後も習わしに従ってもらおうと考えている」
「ふむ。何故にそのように考えているのだ?」
「俺もまた、リリンの家長と同じ心持ちであるのだ。……シュミラル=リリンは猟犬を扱う手腕に長けているが、俺たちに比べれば非力であり、刀の扱いも未熟であったと聞き及んでいる。なおかつ、シュミラル=リリンは森辺の外で生まれた人間であったため、より厳しい目でその力を見定めることになったというのであろう? 大罪人であったドッドと、女衆の身で狩人を志すレムには、同じぐらい厳しい目が必要であるはずだ」
そんな風に語りながら、ディック=ドムはドンダ=ルウやアイ=ファのことを見回し――最後に、ドッドの姿を見据えた。
「俺の裁量でドッドやレムを一人前の狩人と認めることは容易いし、おそらくは反発の声があげられることもないだろう。しかし、そこで損なわれるのは、ドッドやレムの誇りであろうと考えている。ディガ=ドムやアイ=ファやシュミラル=リリン、それにジーダといった者たちは、自らの手でギバを仕留め、大いなる誇りを授かったからこそ、胸を張って森辺の狩人だと名乗ることができるのではないだろうか? そして、俺たちは……狩人の誇りこそを、我が身の力にかえているはずだ」
「ああ、その通りだよ。俺はこの場で一人前の狩人だと認められたって、とうてい納得がいかねえさ」
そう言って、ドッドはくしゃっと笑顔を作った。
厳つい狛犬が笑ったような、ユーモラスで魅力的な笑顔である。
「それに、そんな簡単に狩人の衣や氏を授かったら、今日のディガ=ドムみたいな喜びを得ることもできないだろうしよ。そんな無念を俺に与えないでくれて感謝してるぜ、家長ディック=ドム」
「うむ。お前が正しき道を歩めば、いずれ母なる森からギバが遣わされることだろう。たゆみなく心身を鍛えて、その日に備えるがいい」
ディック=ドムは無表情のままであったが、その黒い瞳には深い慈愛と信頼の光がたたえられている。
そのさまを見届けてから、ドンダ=ルウはラウ=レイの頭を引っぱたいた。
「貴様はドムの家長と同じ齢なのであろうが? 同じ本家の家長として、見習うがいい」
「本当にね。わたしが正しい人間に育たないのは、軽はずみに氏を与えた家長の責任なのじゃないかしら」
ヤミル=レイが肩をすくめつつ言葉を添えると、ラウ=レイは「そんなことはないぞ!」と座ったまま地団駄を踏んだ。
「お前に必要であったのは、厳しい試練ではなく他者からの情愛であったのだ! お前はこうして素晴らしい人間に育ったのだから、俺のやりかたは間違っていなかったはずだぞ!」
「もしかしたら、それが真実なのかもしれませんね」
と、あらぬ方向から声があがる。それはアマエビのごときマロールの中華風炒めを食していたフェルメスであった。
「どれほど厳しい試練を与えても、ヤミル=レイは自らの知略だけで乗り越えてしまうことでしょう。そして、そのていどの試練しか与えることのできない相手を、見下してしまうかもしれません。それでは正しい心も育まれなかったことでしょうね」
ヤミル=レイは鋭く目を細めつつ、フェルメスの優美な笑顔をねめつけた。
「ずいぶん知った風な口を叩くのね。そもそも狩人の仕事を果たす男衆と家を守る女衆では、立場が違っているでしょう?」
「同じことですよ。これを狩人でたとえるならば、最初からギバを仕留められるだけの力量を備え持っていたということです。もしもディガ=ドムやドッドが最初からそれだけの力を持っていたならば、狩人として働くことも厳しい試練には成り得ず、結果、正しい心を育むことにも成り得ないでしょう? であれば……情愛で傷ついた心をくるんであげたほうが、よほど近道であるということです」
「そう! 俺たちレイの人間は、情愛でもってヤミルをくるんでやったのだ!」
ラウ=レイはえっへんとばかりに胸をそらし、ヤミル=レイは心から憎たらしそうにフェルメスをにらみ据えた。
「……どうやらあなたも、厳しい試練より情愛が必要な人間であるようね」
「ええ。森辺の方々の情愛深さには、常々救われています」
ヤミル=レイの切れ長の目とフェルメスのヘーゼルアイが、真っ向から視線をぶつけあう。なんだか俺としては、きわめて落ち着かない対立の構図であった。
しかしそこに、アラウトがゆったりとした声音で発言する。
「何にせよ、森辺のみなさんにはいかなる陰りも見られません。みなさんが大きな苦難を乗り越えて、正しき運命を取り戻せたことを、僕は心から喜ばしく思います。……そして僕も、みなさんの情愛深さに救われているひとりであるのです」
どうして同じような言葉でも、こうまで異なる響きに聞こえるのか。俺のほうこそ、アラウトの言葉に救われたような心地であった。
そしてまた、新たな人々が祝いの言葉と祝いの料理を届けてくる。それらの熱気が、ヤミル=レイとフェルメスの間に生じた微妙な空気を吹き飛ばし――その場には、また喜びの情念が熱風のようにわきかえったのだった。




