麗風の会⑤~願い~
2022.12/3 更新分 1/1
「それじゃあ、そろそろ移動しませんか? ただいまご説明した通り、こちらの菓子はいっぺんに食べるよりも他の菓子の合間に食べたほうが効果的でしょうからね」
俺がそのようにうながして、最後の卓に向かうことになった。
最後の卓は大トリに相応しい、トゥール=ディンの菓子である。
そちらにもたくさんの人々が集っていたが、俺たちが近づいても動かない人々がいる。それは、トゥール=ディンにゼイ=ディン、エウリフィアにオディフィア、それにフェルメスにジェムドという顔ぶれであった。
「ああ、アスタ。あなたの手腕も、さきほど味わわさせていただいたわよ。それでまた、トゥール=ディンの菓子が恋しくなってしまったの」
そのように語るエウリフィアのかたわらで、オディフィアが幸福そうにトゥール=ディンの菓子を頬張っている。それを見守るトゥール=ディンとゼイ=ディンが温かな笑顔であるのも、もはや見慣れた光景であった。
「というか、わたくしたちはいまだにカルスとアスタとトゥール=ディンの菓子しか口にしていないのよね。こちらに戻る前に、リミ=ルウやダイアの菓子を味わうべきだったのでしょうけれど……オディフィアがどうしてもと言って、譲らなかったの」
「それはもう、トゥール=ディンの菓子の魅力がなせるわざですね」
俺たちも、トゥール=ディンの手腕を味わわさせていただくことにした。
トゥール=ディンが準備したのは、この半月ていどでついに完成までこぎつけたモンブランケーキである。栗に似たアールを手中にして以来、トゥール=ディンがずっと研究を進めていたひと品であった。
本日の催しの様式に合わせて、こちらのモンブランケーキもきわめて小ぶりに作られている。直径5センチもなさそうな丸くて平べったい生地の上に、アールのクリームがどっさりと積まれているのだ。
また、生地のほうもトゥール=ディンの発案によって、ひとつの工夫が凝らされている。底辺には土台となる揚げ焼きの生地が敷かれて、その上にふわふわのスポンジケーキが重ねられているのだ。それを覆う格好でプレーンの生クリームとアールのクリームがかぶせられており、天辺に甘く煮込んだアールのかけらがちょこんとのせられているわけであった。
表面を覆うアールのクリームは俺の知るモンブランケーキと同じように、細い紐が渦を巻くような形で仕上げられている。この形状のほうが口あたりがいいようだとトゥール=ディンが判断して、外見までもが俺の伝えた通りに再現されることになったのだ。これだけ大量に仕上げるのは相当な苦労であったはずだが、トゥール=ディンはその小さな身体に宿された熱情でもって時間内に仕上げてみせたのだった。
「こ、こ、これは、とてつもなく美味ですね!」
そのモンブランケーキを口にしたカルスは、すっかり目の色を変えてしまっていた。
「い、以前の祝宴でもトゥール=ディン殿はアールをくりーむに仕上げていましたが、それとも比較にならないほどの完成度であるかと思われます! ま、まず、アールのくりーむの出来栄えからして段違いですし、何より、白いくりーむや2種の生地や甘く煮込んだアールとの調和が完璧です!」
「ええ、本当に。僕たちがお届けしたアールをこれほどまでに美味なる菓子に仕立ててくださり、心より光栄に思います」
アラウトが感服しきった面持ちでそのように言葉を添えると、リフレイアもご満悦の表情でそれに続いた。
「本当に、夢のような美味しさですわね。それにきっと、アスタの菓子がいっそう味を引き立てているというのも事実なのでしょう。公正を期すために、他の菓子もアスタの菓子を食してから食べなおさないといけませんわね」
「ええ。それでもきっと、トゥール=ディン嬢の菓子は群を抜いているのでしょう。試食会で優勝したというその手腕を、あらためて痛感させられてしまいました」
アラウトが屈託のない微笑を浮かべると、リフレイアも穏やかな笑顔でそれに応じた。
そして俺のもとには、小さき姫君がちょこちょこと近づいてくる。
「アスタ。どうもありがとう」
「はい。何に対してのお礼でしょうか?」
「アスタのおかしをたべたら、トゥール=ディンのおかしがもっとおいしくなったの。だから、ありがとう」
人形のような無表情でありながら、ただオディフィアの灰色の瞳は星のように輝いている。それで俺も、心からの喜びを授かることができた。
「オディフィアにそのように言ってもらえたら、俺も嬉しいです。こちらこそ、ありがとうございます」
オディフィアは「うん」とうなずくと、最後に俺の手をぎゅっと握りしめてから、またちょこちょことした足取りでトゥール=ディンのもとに戻っていった。彼女も間もなく8歳になるわけだが、その愛くるしさには何の陰りも見られないようだ。
そうして俺がひそやかに満足感を噛みしめていると、淡い紫色の人影がふわりと近づいてくる。優美なる微笑みをたたえた、フェルメスだ。
「本当に、アスタの菓子もトゥール=ディンの菓子も素晴らしい出来栄えでありました。やはりおふたりの手腕というのは、森辺の料理人の中でも際立っているのだろうと思います」
「いえいえ。トゥール=ディンはともかく、俺なんかは邪道ゆえに目立っているに過ぎませんよ」
「他の菓子を引き立てようとした行いが、アスタの菓子を引き立てる結果にもなったわけですね。ともあれ、アスタの発想の素晴らしさに変わりはないかと思われます」
やはりフェルメスは何を解説されるまでもなく、そういった状況を見抜いているようであった。
「本当に、アスタの菓子は美味でした。あれらの菓子を食していると、まるで……アスタの情愛に心をくるまれているような心地であったのです」
「そ、そうですか。過分なお言葉、ありがとうございます」
フェルメスにも喜んでもらえたのなら何よりであるが、こんな恋する乙女のごとき眼差しを向けられると挨拶に困ってしまう。フェルメスというのは女装をしているわけでもないのに、たおやかな貴婦人のごとき美しさであるのだ。そして俺のかたわらでは、もちろんアイ=ファがぶすっとした面持ちでこれらのさまを見守っていたのだった。
「ところで……トゥール=ディンのもんぶらんけーきもリミ=ルウのわふうけーきも、アスタが命名したそうですね。ろーるけーきとの相似からして、それらもすべてアスタの故郷の言葉であるわけですね?」
「ええ。正確には、俺の故郷の異国の言葉ですね」
「はい。アスタと初めてお会いしたときにも、そういった問答を交わしましたね。アスタは故郷の言葉で語っているつもりであるが、外来の言葉だけは意味が通じないようだ、と」
ヘーゼルアイに神秘的な光を宿らせながら、フェルメスはそのように言葉を重ねた。
「これは好奇心でうかがうのですが、菓子でたびたび使われる『けーき』とは、どういう意味なのでしょう?」
「えーと、それはちょっと説明が難しいのですが……こういう生地を使った焼き菓子の総称をケーキというのではないかと思います。トゥール=ディンがよくお出しするガトーショコラという菓子も、俺の故郷ではケーキのひとつと見なされておりましたよ」
「では、『ろーる』に『わふう』に『もんぶらん』というのは?」
「ロールは、巻くという意味ですね。だから、くるくると巻いた形のロールケーキには、その名が与えられたんだと思います。和風は……うーん、なんて説明したらいいんだろう……こちらでも、ジャガル風とかシム風とかいう言い方はするでしょう? 和風の『ふう』は、その風なんです」
俺が語っている間、フェルメスは俺の唇を注視していた。
「『わふう』の『ふう』は、ジャガル風の『風』と同じ意、ということですか。では、『わ』というのは?」
「和は、俺の生まれた日本という国のことを表しています。セルヴァを西の王国と呼び変えるようなものでしょうかね」
「なるほど……では、『もんぶらん』は?」
「モンブランは……たしか、山の名前だったと思います。モンブランケーキはああいうこんもりとした形をしているので、山の名前が与えられたのではないでしょうかね」
俺は幼馴染の玲奈から、そんな風に聞き及んだ覚えがあった。
俺の唇を見つめたまま、フェルメスは「なるほど」と繰り返す。
すると、俺のすぐそばに控えていたアイ=ファが横からぐっと割り込んできた。
「フェルメスは、何に頓着しているのであろうか? あなたは以前、アスタの故郷に興味はないと言っていたはずだが」
アイ=ファの青い瞳には、炯々たる光が宿されている。
そちらに向きなおったフェルメスは、悪戯好きの精霊のように微笑んだ。
「ええ。僕が多大なる興味を寄せているのはこのアムスホルンという世界についてであり、自らが足をのばすこともかなわないアスタの故郷にまでは手が回りません。最初に言った通り、あくまで好奇心にかられてのことです」
「その割には、ずいぶん熱心であったように見受けられるが」
「僕は言語学というものについても研究していた身であったので、学者的探究心をそそられたことは事実です。でも、アスタの故郷について、そうまで深掘りしようという気持ちは持ち合わせておりませんよ」
「そうであれば、幸いであるのだがな。……あなたとの関係が危うくなりかけたのは、ちょうど昨年の復活祭の渦中であったはずだ」
アイ=ファが厳しい声音で言いたてると、フェルメスはその頃を懐かしむように「ああ」と目を細めた。
「トトスの早駆け大会の祝賀会において、僕が秘密裡に『聖アレシュの苦難』の演劇を披露させて……それで、アスタとアイ=ファの信頼を失いかけてしまったのですよね」
「うむ。失念していないのなら、幸いだ」
「失念するなんて、とんでもない。あれは僕にとっても、胸を破られるような苦い記憶です。……その後、ともに太陽神の滅落と再生を見届けることのかなった幸福なる記憶とともに、僕がその一件を失念することはありえません」
そのように語るフェルメスは、実に錯綜した表情を浮かべていた。
小悪魔のような妖艶さと天使のような清廉さの入り混じった、なんとも形容しがたい微笑である。
「僕の気持ちは、あの夜に語った通りです。僕は『星無き民』に対する探究心を押し殺すことはできませんが……それと同時に、アスタと正しく絆を深めたいと願っています。決してアスタの不興を買わないように、僕は強く自分を戒めているつもりです」
「うむ。今のところは、我々もその言葉を疑っているわけではない」
「ありがとうございます。僕も全力で、その信頼に応えたく思っています」
フェルメスがそのように答えたとき、遠からぬ場所から「ええ?」という驚きの声がたちのぼった。
振り返ると、アラウトがラウ=レイに詰め寄っている。しかしラウ=レイのほうは両手に小さなモンブランケーキを掲げながら、きょとんと目を丸くしていた。
「いきなり血相を変えて、どうしたのだ? というか、俺はトゥール=ディンの父と語らっていたのだが」
「も、申し訳ありません。決して盗み聞きをしていたわけではないのですが……明日、ヤミル=レイの弟君が、ドムの氏を授かるのですか?」
「弟ではなく、かつての弟だ。スン本家の人間は、のきなみ血の縁を絶たれているのだからな。例外は、ルティムの母娘のみであろう」
そんな風に答えてから、ラウ=レイは右手の菓子を口に放り入れた。
「ともあれ、かつてスン本家の長兄であったディガが一人前の狩人と認められて、明日の夜に狩人の衣とドムの氏を授かる。それで、トゥール=ディンの父もその場に参ずると聞いたので、狩人の力比べを願っていたのだ。こやつも勇者の名に相応しい力量を持つ狩人であるからな」
「スン本家の長兄……それはあの、『森辺のかまど番アスタ』という傀儡の劇に登場していた、悪辣なる人物のことでありますね?」
「ああ。お前もあの劇を目にしていたのか」
「ええ。ティカトラス殿があの傀儡使いたちを城下町に招き寄せていたため、僕も拝見することがかないました。それで……そのディガという御方はあの劇の通りの悪辣な人柄であったため、次兄の御方ともども、とりわけ重い罰を科されていたのでしょう? それゆえに、いまだ氏なき家人として扱われていたのだと聞き及んでいます」
そのように応じるアラウトは、また鋭い眼差しになっていた。
そしてリフレイアも無言のまま、色の淡い瞳を強くきらめかせている。
「ディガとドッドは、先陣を切って悪さを働いていたからな。しかしもちろん人を殺めたことはないし、ザッツ=スンらの悪行とも無関係だぞ。あやつらが悪行を働いていたのは、森辺の集落と宿場町においてだからな」
「ええ。そういった話もうかがっています。……それだけの罪を働いていたディガという御方が、ついに罪を許されて、ドムの氏を授かるというのですね?」
そうしてアラウトは、いっそう決然とした面持ちで言葉を重ねた。
「ラウ=レイ殿。僕もその場に立ちあわせていただくことは可能でしょうか?」
「わたしも、同じことを考えていたわ」
と、リフレイアも静かな声音でそのように発言した。
ラウ=レイは小首を傾げつつ、左手の菓子も口に放り込む。
「それはつまり、ヤミルに対するのと同じ理由でか?」
「はい。僕はスン本家であった方々と正しく絆を深めたいと願っています。父を殺められた僕と、祖父がそのような大罪を犯したディガなる御方は、一切の恩讐を越えて新たな絆を結ぶべきだと思うのです」
「そして、ザッツ=スンという人らをそそのかしたのは、わたしの父や叔父であるはずよ。わたしもディガという御方が罪を許される場を見届けたいと願うわ」
アラウトもリフレイアも、真剣そのものの表情である。
それを見返しながら、ラウ=レイは「ふむ」とうなずいた。
「であれば、語る相手を間違えているな。族長でもドムの家人でもない俺にどれだけ言葉を重ねても、詮無きことだぞ」
「ええ。まずは、族長代理であられるゲオル=ザザに話を通すべきでしょうね。そして、調停官の補佐役たるポルアースにも立ちあってもらえば、いっそう話は早いでしょう」
そのように言葉を添えたのは、ゆったりと微笑むエウリフィアであった。
アラウトは、「承知しました」と一礼する。
「場を騒がせてしまい、申し訳ありませんでした。さっそくそちらのおふたりに話をうかがおうかと思います。……参りましょう、リフレイア姫」
「ええ」とうなずくリフレイアとともに、アラウトは足早に立ち去った。シフォン=チェルはたおやかに一礼してから主人の後を追い、サイとカルスもあたふたと追従する。
彼らのそんな姿を見届けてから、エウリフィアは我が子へと微笑みかけた。
「きっと森辺の方々が、アラウト殿とリフレイアの願いを退けることはないでしょう。……あなたはもう少しの辛抱よ、オディフィア? 復活祭がやってくるまでには、わたくしたちも森辺の祝宴に招いていただけるという話なのですからね」
オディフィアは「うん」とうなずきながら、トゥール=ディンのほうを見上げた。トゥール=ディンは、慈母のごとき眼差しでそれを見つめ返している。
「これでまた、森辺の民は外界の人間と正しく絆を深められそうですね」
こちらでは、フェルメスがそのように語っていた。
艶然と微笑むフェルメスの顔を、アイ=ファが横目でねめつける。
「エウリフィアとオディフィアは我欲を抑えて親睦の祝宴を待とうという心持ちであるようだが、あなたは遠慮をする気配もないようだな」
「ええ。バナーム侯爵家とトゥラン伯爵家の方々が過去の悪縁を乗り越えるために森辺の集落へとおもむこうというのなら、僕は王都の外交官としてそれを見届けなければなりません。それが僕の、公務ですので」
まったく悪びれた様子もなく、フェルメスはそのように言いたてた。
「人の絆とは、得難いものですね。僕は森辺の方々の菓子を口にしただけでも、そんな思いを新たにすることがかないました」
「ふむ? 菓子が、どうしたと?」
「アスタとリミ=ルウとトゥール=ディンの菓子には、他者への想いというものが感じられてなりませんでした。アスタはアイ=ファのために、リミ=ルウは最長老ジバ=ルウのために、トゥール=ディンはオディフィア姫のために、これらの菓子を考案したのではないでしょうか? 言ってみれば、僕たちはそれらの情愛のおこぼれでこれほどの幸福を授かることになったのでしょう。きっと森辺の民というのは、個人への想いを世界に広げる手腕に長けているのです。アスタたちが他なる料理人と異なっているのは、その一点であるのかもしれませんね」
フェルメスは咽喉で笑い、アイ=ファは口をへの字にした。
そこに、ヤミル=レイを引き連れたラウ=レイがやってくる。
「すっかり長居をしてしまったな! アラウトたちはいなくなってしまったので、次なる卓に向かうとしよう! いっぺんアスタの菓子で塩気を入れてから、リミ=ルウたちの菓子を味わってみたく思うぞ!」
「そうだね。それじゃあ、移動しようか」
麗風の会は、まだまだ折り返しに差し掛かったぐらいであろう。アラウトたちの一幕で、俺はどうしても明日の一件に心を引き寄せられてしまったが――それはこちらの個人的な都合だ。今は同じ場所にいる人々と、同じ喜びを分かち合わなければならないはずであった。
(それで明日は、リフレイアたちと同じ喜びを分かち合えれば幸いだな)
そんな思いを心の片隅に秘めながら、俺は渦巻く嬌声の内側へと足を踏み出すことになった。
日の光がそそぎこまれる紅鳥宮の大広間は、今もなお燦然と輝いており――いつ果てるとも知れぬ賑わいの中に、俺たちをいざなったのだった。




