灰色の彼方(五)
2022.11/10 更新分 2/2 ・11/11 誤字を修正
・本日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
「それからユンは、ファの家で手ほどきを受けるようになったのですけれど……アスタにきちんと名乗りをあげたのは、わたしの代わりに屋台で働くことが決められてからのようですね」
リィ=スドラの言葉に、アスタは笑顔で「はい」とうなずいた。
「あれはもう、黒の月の終わりに差し掛かってからでしたね。レム=ドムと一緒にスドラの家まで出向くことになって、そこで初めてユン=スドラの名前を聞いたんだと思います」
「まあ、すいぶん細かに覚えておられるのですね」
「はい。そのすぐ後にダン=ルティムの生誕の日があったので、印象に残されていました。……まあそうでなくても、ユン=スドラと初めてきちんと挨拶をさせてもらった、大切な日のことですしね」
そう言って、アスタはいっそう朗らかに笑った。
アスタと初めて絆を結んでから、およそ2年とひと月後――黒の月を越えて、藍の月の半ばに達した頃合いである。場所はスドラ本家の広間であり、ファの両名を迎えて晩餐を食しているさなかのことであった。
その場には、スドラの家人が全員顔をそろえている。ふたりの赤子が誕生し、フォウとランから嫁を取った現在も、晩餐の折にはこうしてすべての家人が本家に集うのだ。人の座る隙間がなくなるまでこの行いをあらためる気はないと、家長のライエルファム=スドラはそのように宣言していた。
「だけどもちろん、俺はその前からユン=スドラの姿を見覚えていましたよ。灰色の髪もその髪型も、森辺では少し珍しいように思っていましたからね。でもその髪型にそんな裏事情があるとは知りませんでした」
「ええ。ユンにはとても似合っているでしょう? それに、せっかくの可愛らしい顔を髪で隠すのはもったいないと、わたしはかねがねそのように考えていたのです。とりわけユンの笑顔というものは、家人に力を与えてくれるものでありましたからね」
「はい。こちらの仕事場でも、それは同様であると思います」
アスタまでそのように言い出すものだから、ユン=スドラは頬を赤らめることになってしまった。
「あの! さっきから、わたしの話ばかりであるように思います! アスタは、スドラの辿ってきた来し方について知りたいと願ってくださったのでしょう?」
「うん。でもやっぱり、俺が一番長い時間をともにしているのは、ユン=スドラだからね。ユン=スドラの色々な話を聞くことができて、とても嬉しく思っているよ」
ユン=スドラはライエルファム=スドラとともに、黒の月の鎮魂祭という場で家族について語ることになった。それでスドラの来し方について興味を抱いたアスタが、こうして時おり晩餐の場に出向いてくるようになっていたのであった。
それで本日は、リィ=スドラや年配の女衆らがあれこれ語ることになったのだが――ミーマの時代までさかのぼってからは、何故だかユン=スドラの存在を中心に据えられてしまったのである。
もちろんかつてミーマの血筋であった3名も、そうまでユン=スドラの過去をわきまえているわけではない。彼らとともに暮らすようになったのは、スドラの本家に迎えられてからであるのだ。しかしまた、ユン=スドラが何度もすべての家族を失って家を転々としていた話はわきまえていたし、何か大きな出来事が起きたときにはいつも同じ場に立ちあっていたのだった。
「もちろんスドラの方々は、誰もが苦しい時代を生き抜いてきたのでしょうけれど……でも、ユン=スドラがどうしてこんなに頼もしいのかは理解できたような気がします」
「はい。もっとも若年であったユンは、もっとも苦しんできたひとりであるのでしょう。その苦しみを乗り越えたユンには、またとない力が備わっているはずです。そしてその頼もしき力に、わたしたちは何度となく救われているのですよ」
「で、ですから、わたしの話はもういいですってば!」
長い前髪を失ったユン=スドラは、手の平で赤くなった顔を覆うことになった。
アスタもリィ=スドラも他の人々も、決してユン=スドラを茶化したりはしていない。誰もが優しげな面持ちで、真情からユン=スドラのことをねぎらってくれており――それでユン=スドラをいっそう気恥ずかしい心地にさせてやまないのだった。
ただそこには、普段以上に温かい空気が満ちている。
2年以上も前から絆を結んできたアスタとアイ=ファを晩餐に迎えることができて、誰もが大いなる喜びを抱いているのだ。
フォウとランから嫁いできた両名とて、その気持ちに変わりはないだろう。フォウやランにはスドラよりも数多くの家人が残されていたが、しかしこちらと同じぐらいの貧しさにあえいでいたのだ。それを救ってくれたファの両名には、言葉では尽くし難いぐらい感謝しているはずであった。
それに――ユン=スドラたちは、ただ感謝しているだけではない。今では誰もが、アスタとアイ=ファの人柄に心をひかれているはずであった。
家長としての厳しい態度の裏に情の深さを隠し持ったアイ=ファも、いつでも太陽のような明るさで人々の心を照らしてくれるアスタも、きわめて好ましい存在である。彼らはただ恩人であるというだけでなく、ひとりの人間として周囲の人々を魅了してやまなかったのだった。
(わたしなんて……アスタに恋情を抱いちゃうぐらいだったもんな)
そんな風に考えると、ユン=スドラは今でも頬のあたりが熱くなってしまう。
しかし、アイ=ファと笑い合うアスタの姿を目にしても、心が痛むことはない。ユン=スドラは、むしろその笑顔を守るために自らの恋情を封殺する決断をしたのだった。
ユン=スドラが何より望むのは、アスタの幸福な生である。
そしてそのために必要であるのは、アイ=ファの存在であるのだ。
だからユン=スドラは心を痛めることなく、アスタとアイ=ファの幸福な行く末を願うことができたし――自らもまた、いつかアスタよりも愛おしいと思える相手と巡りあえるようにと願うことがかなったのだった。
(でも、婚儀なんて20歳になってからでいい。わたしはもっと、かまど番としての修練を積みたい。……こんな我が儘が許されるなんて、なんて幸福なことだろう)
ユン=スドラは、先々月の灰の月で、ついに17歳となった。
それは、アスタが森辺にやってきたときと同じ齢に他ならなかった。
アスタはそのような若年の身で、森辺のさまざまな習わしを覆してみせたのだ。
そうしてスドラの家も、アスタの巻き起こした奔流のうねりに巻き込まれて――今、こうして幸福な時間を過ごすことができている。スドラの滅びを見届ける覚悟であったユン=スドラも、世界を灰色に陰らせていた前髪を切り落とし、これまでとは別なる行く末を追い求めることがかなったのだった。
あの日から、世界は変わらずに光り輝いている。
いや、日を重ねるごとに、その輝きを増しているぐらいだろう。
ユン=スドラがアスタのような存在を目指すことなど、おこがましい限りなのであろうが――しかしユン=スドラは、少しでもアスタを見習いたかった。ただかまど仕事の手際を磨くだけでなく、アスタのように世界を照らす人間になりたいのだ。
なおかつそれは、アスタと出会う前からユン=スドラの心にひそんでいた想いでもあった。
悲しみではなく喜びを重んじて、他者を慈しむ。自らが希望の思いを掲げることで、余人の苦しみをやわらげる。ライエルファム=スドラの教えに従って、ユン=スドラは幼き頃からそのような決意のもとに生きていたのだった。
(だからきっと、わたしはアスタに憧れてしまうんだろう。わたしは、アスタに救われたから……わたしも、誰かを救いたいんだ)
ユン=スドラがそのような思いを馳せていると、チム=スドラが「どうしたのだ?」と声をかけてきた。
「ユンはすっかり、食事の手が止まってしまっているようだぞ。眠いなら、しっかり食べてから眠るがいい」
「いえ、眠いわけではありません。心配してくださって、ありがとうございます」
ユン=スドラが笑顔を返すと、チム=スドラは優しげに目を細めた。そのかたわらでやわらかく微笑んでいるのは、フォウから嫁いできたイーア・フォウ=スドラだ。
それらの家人は、誰もが同じ酒杯で果実酒や茶を口にしている。アスタがバナームという地で買いつけてきた、酒杯である。それは屋台の取り仕切り役を担ったユン=スドラに、アスタが感謝の品として贈ってくれた酒杯であった。
もともとの家人である9名と、新たに嫁いできた2名、そして家長らの間に産まれた双子の赤ん坊にも、同じ酒杯が贈られたのだ。それでまた、スドラの家はアスタの輝きに満たされたような心地であった。
世界は、光り輝いている。
灰色の影の向こう側には、こんなにも輝かしい世界が広がっていたのだ。
そしてこれは、アスタひとりの生み出した輝きではない。アスタの届けた希望の光を、スドラの家人たちが正しい形で受け止めて、同じだけの希望を返したからこそ、共鳴し、調和して、これほどの輝きを生み出したのだろう、と――ユン=スドラは、そのように信じていた。
かつてミーマの家人たちがユン=スドラの思いを受け止めてくれたように、スドラの家人たちはアスタの思いを受け止めることができた。
人の思いとは、そうして受け止めてくれる相手が存在するからこそ、これほどの輝きを生み出すことがかなうのだろう。
光り輝く世界の中で、ユン=スドラはそんな風に思ってやまなかったのだった。




