灰色の彼方(四)
2022.11/10 更新分 1/2 ・11/11 誤字を修正
ファの家のアスタがもたらした美味なる料理というものが、森辺の民の生活を一変させた。
いささか大仰な物言いであったかもしれないが、ユン=スドラにとってはそれがまぎれもない真実であった。
しかし同時に、それは決して平坦な道ではなかった。ユン=スドラたちが美味なる料理というものを初めて口にした日から、森辺の集落はさまざまな激動に見舞われることになったのだ。
まず、家長会議の数日後には、大罪人として北の集落に囚われていたスン家の家人たちが脱走することになった。そして、その内のひとり――テイ=スンなる男衆は宿場町でアスタを襲い、ライエルファム=スドラの手で討伐されることになったのだった。
それでスン家にまつわる災厄は終わったかに思えたが、その後にはジェノスの貴族にまつわる災厄が待ち受けていた。どうやらスン家の一部の人間は、ジェノスの貴族と結託して悪行を働いていたようなのである。
そうして家長会議の翌月たる白の月には、アスタが貴族の娘にさらわれるという騒ぎも勃発した。そんな話が新たな族長筋たるルウ家から伝えられると、スドラの男衆は誰もが憤激を燃やし――そしてユン=スドラは、目が眩むほどの絶望感を味わわされることになった。
やはりこの世界には、幸福よりも大きな不幸が渦巻いているものなのだろうか。
アスタが森辺にもたらした希望というものは、けっきょく実を結ばないまま砕け散ってしまうのだろうか。
そんな風に考えると、ユン=スドラの世界はいっそう灰色に曇っていった。
しかし――それほどの災厄に見舞われても、アスタが魂を返すことはなかった。
貴族の娘にさらわれた際にも5日ほどで戻ることができたし、その後に行われた城下町での会談においては、ついに貴族の悪行をあばくことがかなったのだ。
そうしてアスタが生きて戻るたびに、ユン=スドラはひそかに喜びの涙を流し、母なる森に感謝の祈りを捧げることになった。
この段階ではまだユン=スドラもアスタの顔すら知らなかった立場であるのに、もはや森辺の民の命運はアスタの存在にかかっているのではないかと、そんな風に思えるほどであったのだ。
「それは決して、大仰な物言いではないのだろうと思うぞ。貴族の悪行を暴いたのは、おおよそカミュア=ヨシュなる町の人間であったようだが……そのカミュア=ヨシュと最初に確かな縁を結んだのも、アスタであるはずなのだからな」
すべての災厄が終息した後、ライエルファム=スドラはそんな風に語っていた。
ともあれ、悪しき貴族たちは罪人として捕らえられたのだ。これでこちらも、ようやく安堵の息をつけるかと思われたが――ファの家だけは、安息と無縁であった。悪しき貴族たちに相応の罰が与えられるかどうかは不明であるし、まだ貴族の手下であった無法者どもが野放しであるということで、ファの家長とアスタはルウの集落で暮らすことになってしまったのである。
「ファの家にはふたりの家人しかなく、家も孤立しているのだからな。すべての決着がつくまでは、ルウの家を頼るしかないのであろうよ」
「だけどファの両名は、アスタを貴族の娘のもとから取り戻して以来、ずっとルウ家で過ごしているのでしょう? そのように長きにわたって、他なる家で暮らさなくてはならないなんて……あまりに、不憫です」
心優しきチム=スドラがそのように言いたてると、ライエルファム=スドラは「そうだな」と穏やかに応じてから言葉を重ねた。
「しかしファの家はふたりの家人しかないのだから、他の家族や血族と引き離されているわけでもない。大事な家人とともにあれるのであれば、どこで暮らそうと大きな変わりはないのやもしれんな」
斯様にして、スドラの家においてはファの家について取り沙汰される機会が多かった。
まあ、それは当然の話であったのだろう。家長会議から貴族との会談まではほんのひと月余りであったが、スドラの家はそれだけの時間でかけがえのない富を手にすることがかなったのである。
まず、ユン=スドラたちが美味なる料理というものを初めて口にした日の翌日から、リィ=スドラは屋台の商売というものを手伝うようになった。中天から昼下がりまでのわずかな時間を捧げるだけで、赤銅貨3枚を手にすることがかなったのだ。それはちょうどギバの牙1本分、アリアであれば15個、ポイタンであれば12個に相当する代価であった。
そしてさらに青の月の終わりには、ファの家にギバの干し肉を売り渡すことになった。東の商人に大量の干し肉を買いつけたいと願われたアスタが、その仕事をスドラや他なる氏族に回してくれたのである。そちらでは、なんと赤銅貨77枚もの代価を授かることになったのだった。
なおかつ、ルウの血族が休息の期間に入ったあかつきには、近在の氏族に商売で使うギバ肉を準備してほしいという話も持ち上がっている。そして現在、ギバ肉は1頭分で赤銅貨12枚という代価であったが、それはあまりに安値すぎるので、10倍ぐらいの値にあらためる予定だと聞かされていた。
「これだけの銅貨があれば、しばらくは飢える心配もない。しかし、決して無駄にはつかわず、まずは必要な薬などを買いそろえるのだ」
ライエルファム=スドラはそのように言っていたし、もちろんスドラの家人たちも最初から同じ気持ちであった。こちらにしてみれば、毎日アリアとポイタンを口にできるだけでありがたい限りであったのである。
それに、スドラの家で不足していたのは、おおよそ薬のみであった。刀や鉄鍋、装束や寝具などといったものは、まだまだ大量に保管されていたのだ。それらはすべて、これまで魂を返した家人たちの遺品であった。
そうして銅貨にゆとりができると、多少ながら余分の食材を買いつけることも許された。どうやらアリアにポイタンというのは人が健やかに生きていくために最低限必要な滋養を含んでいるのみであり、もっとさまざまな食材を口にすれば、もっと力をつけることが可能であるという話であったのだ。
それに家長のライエルファム=スドラは、美味なる料理が生きる喜びを大きくするというアスタの言葉を軽んじていなかった。それで、女衆が美味なる料理の習得に励むことを積極的に支援してくれたのである。
「まず最初に買いつけるべきは、ミャームーとタラパでしょうね。それと果実酒を使いこなせるようになれば、それだけでずいぶんさまざまな料理を手掛けられるようになることでしょう」
そのようにかまど仕事を取り仕切るのは、もちろんリィ=スドラの役割であった。リィ=スドラは屋台で働きながら、さまざまな料理の作り方を手ほどきされることになったのだ。
そうしてスドラの家人たちは、ひと月あまりでさまざまな手腕を身につけることがかなった。
ユン=スドラがもっとも感銘を受けたのは、『タラパ煮込みのハンバーグ』なる料理である。宿場町の屋台においては、これをポイタンの生地ではさみこんだものを売りに出しているという話であったが――初めてその料理を口にした瞬間、ユン=スドラはどうしても涙を抑えられなかったほどであったのだった。
「これは本当に、これまで想像したこともないような味わいだねぇ……これなら、町の人間が銅貨を出すのも納得だよ」
そんな風に言っていたのは、かつて森に朽ちたいと願い出た年配の女衆であった。
「もしもあのとき、家長やユンがたしなめてくれなかったら、あたしはこんな喜びも知らないまま魂を返していたってことだよねぇ。本当に感謝しているよ、ユン」
「いえ。この喜びを分かち合えたことを、わたしも心から嬉しく思っています」
そうしてユン=スドラはその女衆と、涙に濡れた顔で微笑み合うことになったのだった。
そのようにして、スドラの家人たちはこれまで以上に温かな気持ちで日々を過ごすことができるようになっていたのだ。
さらに、美味なる料理を口にするようになってから、スドラの家人たちは明らかに力が増していた。ただ毎日アリアとポイタンを食せるというだけでなく、より強い気持ちで日々を生き抜こうという思いがつのってきたのである。
その果てに見えるのは、希望の光であった。
こうして健やかに生きていけば、スドラも滅びずに済むのではないか――そんな思いが、スドラの家人たちにさらなる力を与えてくれたのだった。
「ただ、アスタの手ほどきを受けられなくなっちまったのが、残念な限りだね。さすがにあたしらも、ルウの家まで出向くのは難しいしさ」
家の仕事を果たしているさなか、そんな風に言い出したのは、かつてミーマであった年配の女衆であった。
アスタがファの家で暮らしていた頃は、年配の女衆が交代で出向いて手ほどきを受けていた。しかし、アスタが貴族の娘にさらわれて、ルウの家で暮らすようになってからは、宿場町の商売を手伝っているリィ=スドラにしか手ほどきされる機会がなかったし――会談の場で貴族の悪行を暴いてからは、屋台の商売そのものが取りやめられることになってしまったのだった。
現在アスタやルウの家人たちは、朝方に宿場町まで出向いて、宿屋の人間にギバの料理と肉を売り渡しているらしい。このひと月の間に、ついに料理ばかりでなくギバ肉を売る筋道も立てられたのだ。それに、行方の知れない無法者どもが捕縛されたのちには必ず屋台の商売を再開させるので、その際にはまたリィ=スドラの力を貸してほしいという言葉が届けられていた。
アスタはどれほどの苦境に見舞われようとも、町の人間と正しき絆を結び、商売を成功させようという目的のために力を尽くしてくれているのだ。
よって、そちらの面ではアスタの力を信じる他なかったのだが――料理の手ほどきを受ける機会が失われてしまった残念さに、変わりはなかった。
「ですが、このひと月でわたしたちの生活はずいぶん様変わりすることになりました。まずはわたしたちも、この新しい生活に慣れるべきでしょう」
女衆のまとめ役であるリィ=スドラは、穏やかかつ毅然とした面持ちでそのように語っていた。
リィ=スドラの言う通り、女衆の果たすべき仕事というものは格段に増えていた。美味なる料理を作りあげるにはこれまでよりもたくさんの薪が必要であったし、ギバの収獲量が上がったため、それを保存するためのピコの葉を準備するのと、それに毛皮をなめす機会も増えたのだ。そこに美味なる料理を作りあげるための修練まで加えると、これまでとは比較にならないほどの忙しさであったのだった。
「まあ、数日にいっぺんぐらいのことなら、ルウの家まで出向くこともできるだろうけど……相手が族長筋となると、少しばかり気が引けちまうよね」
「はい。それにわたしたちは、リィ=スドラの教えを習得するだけで手一杯です。今は新しい手際を学ぶより、これまでに習った手際を磨くことのほうが先決であるように思います」
そのように答えたのは、ユン=スドラより1歳年長の女衆だ。
「ただ……ファの家のアスタというのは、いったいどのような御方なのでしょうね。わたしとユンはまだアスタのお姿を見たことすらないので、とても気になってしまいます。ユンも、そう思うでしょう?」
「はい! わたしたちは、アスタのおかげでこれほどの力をつけることがかなったのですからね!」
ユン=スドラがつい声を大きくしてしまうと、年配の女衆が笑い声をこぼした。
「確かにユンは、元気いっぱいみたいだね。それに、ますます背ものびてきたみたいだし……なんだかずいぶん肉もついてきたみたいじゃないか」
「うんうん。きっとこれまでは、まったく滋養が足りていなかったんだろうねぇ。ユンももうすぐ15歳だし、すっかり女衆らしくなったように思うよ」
もうひとりの年配の女衆がやわらかく微笑みながら、そう言った。
「そういえば……あんたたちは、婚儀を挙げないのかい? きっと今なら、赤子を飢えさせずに済むはずだよ」
「ああ、あたしもそいつは気になってたんだよ。ユンなんて、チムとたいそう仲良くしているだろう?」
「はい。でもチムは、11歳の頃からともに暮らしていた家族です。チムのことは、血を分けた兄のように愛おしく思いますけれど……婚儀というのは、あまり想像がつきません」
「それじゃあ、あたしの子はどうだね? ……いや、そっちも同じことなのかねぇ」
「はい。若い男衆に限らず、わたしはすべての家人を家族だと考えていたので……恋情というのは抱きにくいように思います」
「わたしも、同じ気持ちです」と、若い女衆も賛同の声をあげた。
「もちろん赤子を産まなければスドラが滅んでしまいますので、何とかしたいとは思っているのですが……けっきょくスドラの家人同士で婚儀を挙げても、わたしたちの子や孫の頃には、婚儀の相手がいなくなってしまうでしょう。それでしたら、余所の氏族と血の縁を結べるぐらいの力をつけるべきではないでしょうか?」
「うん、そうだねぇ。……こんな風に子や孫のことを考えられるなんて、何だか夢みたいだよ」
そう言って、年配の女衆は目もとに涙をにじませた。
それから、さらに日は過ぎて――白の月の30日である。
その日、森辺の民の一行が、城下町に向かう手はずになっていた。ジェノスの領主を筆頭とする貴族たちと、親睦の晩餐会というものをともにするためである。
そちらに参席するのは族長筋の人間と、見届け人たるフォウやベイムの家長たち――そして、ファの両名であった。アスタなどは、その晩餐を作りあげる役目を負っているのだという話である。
よってユン=スドラは、その日も強くアスタの無事を祈ることになった。
そしてその翌日、フォウの家人から驚くべき話を聞かされることになったのだった。
「これまで行方のわからなかった無法者どもの所在が、ついに判明したらしい。今日の朝、それを討伐するための兵士たちがジェノスを出立したのだそうだ」
何か大きな出来事が生じた際は、こうしてすべての氏族に伝令が回される手はずになっている。そして、そのように取り計らうことを族長たちに提案したのは、他ならぬライエルファム=スドラであったのだ。
それはともかくとして――フォウの男衆は、さらに驚くべき言葉を口にした。
それはどうやら、病魔に臥せっていた悪しき貴族が罪を告白したがために、無法者どもの所在が知れたようなのであるが。その直前に、悪しき貴族はアスタの料理を口にしていたようなのである。
「アスタに料理を作ってほしいと願い出たのは、悪しき貴族の娘であるからな。そうして娘の情愛に触れたために、悪しき貴族も人間らしい心を取り戻したのではないか、と――族長ドンダ=ルウは、そのように語っていたそうだ」
そんな話を聞かされたユン=スドラは、思わずその男衆に詰め寄ることになってしまった。
「あの、アスタはそれで、いったいどのような料理を作りあげたのでしょうか?」
「うむ? その悪しき貴族はひどく身体が弱っていたため、簡単な汁物料理を出したという話だな。ギバ肉とアリア、塩とピコの葉だけを使った、もっとも簡単な料理であったそうだ」
それは、ユン=スドラたちが初めて口にした美味なる料理であった。
あれと同じものを口にした悪しき貴族が、人間らしい心を取り戻して、おのれの罪を告白したのだ。ユン=スドラは、そこに母なる森の意思を感じてやまなかった。
(どうしてアスタというお人は、いつもそうして大きな運命の変わり目に立ちあっているんだろう。アスタというお人は……いったいどんなお人なんだろう)
そうして時節は、灰の月となり――その5日目に、ファの両名は自らの家に戻ることが許された。ジェノスから出立した兵士たちが、隣の宿場町にひそんでいたという無法者どもをすべて捕縛してみせたのである。
今度こそ、すべての災厄が終息したのだ。
悪しき貴族たちにどのような罰が下されるかはまだ決まっていなかったが、ジェノスの領主たちであれば判断を間違うことはないだろうと、族長らはそのように言っていたらしい。親睦の晩餐会というものを経て、族長らはジェノスの領主が信頼に足る相手であると見なしたようであった。
「アスタたちは、ひと月ていどで自分たちの家に戻ることができたようだな。きっと今頃は、喜びにわきかえっていることであろう」
「ええ。ファの喜びは、俺たちの喜びです」
ライエルファム=スドラやチム=スドラたちは、そんな言葉でファの両名の帰還を寿いでいた。もちろん、ファの両名と面識のないユン=スドラも、同じ気持ちである。
それからほどなくして、ユン=スドラは生誕の日を迎えることになった。
ユン=スドラの、15歳の生誕の日である。スドラでもっとも若年たるユン=スドラも、ついに婚儀を挙げられる齢に達したのだった。
その日の晩餐は、ユン=スドラを除く4名の女衆が作りあげてくれた。その内容は、『タラパ煮込みのハンバーグ』である。しかも、最近になって買いつけられるようになったネェノンやチャッチといった野菜も加えられて、ひときわ豪華に仕上げられていた。
「おめでとう、ユン。どうかこれからも、健やかに過ごしてください。あなたの可愛らしい笑顔は、わたしたちにとってかけがえのない希望であるのです」
リィ=スドラは、そんな言葉でユン=スドラを祝福してくれた。
8名の家人から贈られた花で、ユン=スドラの髪や装束が彩られている。ユン=スドラは幸福なあまり、涙を浮かべずにはいられなかった。
「ありがとうございます。これからもスドラのために力を尽くすことをお約束します」
そうしてユン=スドラは大切な家人たちとともに、祝いの晩餐を口にして――すべての木皿が空になった頃合いで、かねてより心に定めていた言葉をライエルファム=スドラに伝えてみせたのだった。
「あの、家長……実は家長に願い出たい話があるのですが、どうか聞いていただけますか?」
「うむ? もちろんどのような話でも、遠慮なく願い出てもらいたいが……何をそのように思い詰めているのだ?」
「わたしは、ファの家のアスタに料理の手ほどきを願いたいのです」
ユン=スドラは相応の覚悟をもってそのように言いたてたのだが、家人の多くはきょとんとしていた。
「アスタに手ほどきされるのは、リィの役割であろう? ……ああしかし、アスタがファの家に留まっていた際は、お前たちも手ほどきを受けていたのだったな」
年配の男衆の言葉に、その伴侶たる女衆が「ええ」と応じる。
「でも、ファの家まで出向いていたのは年を食った人間だけで、ユンたちはまだアスタの顔すら知らないんですよ」
「なに? そうであったか。それはいささか、意外なことだな」
男衆は血抜きの手ほどきを受けるためにファの家まで出向いていたし、それ以外にもスン家の大罪人が行方をくらました際には全員で護衛役を担っていたのだ。
ライエルファム=スドラは穏やかな面持ちのまま、「なるほど」と首肯した。
「これだけアスタの世話になりながら、顔をあわせたことすらないというのは……お前たちにとって不憫な話であるし、アスタたちに対しては不義理な話であろう。これまで思い至ることができず、家長として申し訳なく思うぞ」
「そ、それではお許しを願えますか?」
「うむ。以前にもそうして何名かの女衆が出向いていたというのなら、家の仕事にも支障はあるまい。今後は年を食った人間だけではなく、全員が交代で出向くといい」
そんな風に言ってから、ライエルファム=スドラはにわかに鋭く目をすがめた。
「ただし……ユンを余所の家に出向かせるならば、身なりを整えさせる必要があろうな」
「み、身なりですか?」
「うむ。お前はこうして15歳になったというのに、髪をだらしなく垂らしたままではないか。それは、森辺の習わしにそぐわぬ行いであるはずだぞ」
「ああ」と笑いを含んだ声をあげたのは、もう片方の年配の女衆であった。
「ユンは髪が弱いようで、無理に髪を結おうとすると、ぶちぶち千切れちまうんですよ。それに、放っておいても先のほうから千切れちまうもんで、この齢になっても肩に届くぐらいの長さなわけですね」
「そういった話は、俺も聞いていた。しかし俺たちはこうして立派な食事を取ることができるようになったのだから、そろそろ髪にも滋養が行き渡ったのではないだろうか?」
「それはそうかもしれませんけれど、どうもユンは髪の流れが特別みたいで、髪を結っていると頭が痛くなっちまうらしいんです。もう少し髪がのびれば、ゆったりくくることもできると思うんですけどねぇ」
「そうか。森辺の習わしにそぐわぬ姿を、余所で見せるべきではなかろうと考えたのだが……そういった事情があるのであれば、致し方あるまいな」
そう言って、ライエルファム=スドラは眼光をゆるめた。
しかしユン=スドラは、「いえ!」と言ってみせる。
「わたしも大恩あるファの方々に、だらしない姿を見せたくはありません! ファの家まで出向くことを許していただけるなら、その間だけでも髪を結おうと思います!」
「しかし、頭が痛んでは修練もままならんのではないか?」
「たとえどのような痛みに見舞われようとも、必ずきちんと仕事を果たしてみせます!」
ライエルファム=スドラはいくぶん困ったような顔をして、かたわらの伴侶を振り返った。
リィ=スドラは優しく微笑みながら身を起こし、ユン=スドラのもとに近づいてくる。
「それではちょっと、髪の様子を確かめてみましょう。頭の花は、いったん外させていただきますね」
ユン=スドラの背後で膝を折ったリィ=スドラが、両手の指でそっと髪を撫で回してくる。ユン=スドラとしては、いささかならず気恥ずかしい心地であった。
「ああ、つむじがこの位置にあって、髪がこのように流れているから……なるほど。これは確かに、いささか物珍しい髪の流れであるようです」
そんな風に語りながら、リィ=スドラはユン=スドラの灰色の髪を上側に持ち上げていった。
「どうでしょう? 何か痛みを感じますか?」
「いえ。上に持ち上げる分には、特に何も感じません」
「普通は下側で結うほうが楽なものなのですが、ユンは頭の横合いで結ったほうが楽なようですね。少々お待ちください」
リィ=スドラのしなやかな指先が、ユン=スドラの灰色の髪を頭の右側にまとめあげていく。それは耳よりも高い位置であり、ユン=スドラには何の痛痒も感じられなかった。
「ふむ。珍妙な頭だな。言葉を飾らずに言わせてもらうが、俺は普通に垂らしていたほうが好ましいように思うぞ」
チム=スドラがそのように言いたてると、リィ=スドラは「そうでしょうか?」とユン=スドラの顔を横から覗き込んできた。
その顔は、灰色にくすんでいる。長い前髪はそのまま残されていたので、ユン=スドラの目もとを覆っているのである。
「なるほど。この前髪が余計であるのかもしれません。いっそ、短く切りそろえてはどうでしょうか?」
「え? 前髪を切ってしまうのですか?」
ユン=スドラが思わず不安げな声をあげてしまうと、リィ=スドラはまた優しげに微笑んだ。
「婚儀を挙げる前の女衆でも、前髪を切りそろえるぐらいは許されています。ユンには何か、前髪を残したい理由でもあるのでしょうか?」
ユン=スドラはしばし煩悶してから、「いえ」と答えてみせた。
「かまいません。この姿が不格好であるのでしたら、どうか望ましい形に整えていただきたく思います」
「では、少し目を閉じていてください」
ユン=スドラがその言葉に従うと、短刀を前髪にあてられている感触が伝わってきた。
そうして少しずつ、頭の前面が軽くなっていく。これまで頬に当たっていた前髪の感触が消え去って、ユン=スドラの胸をひどく騒がせた。
「ああ、いい感じになったと思います。もう目を開けても大丈夫ですよ」
ユン=スドラは呼吸を整えながら、おそるおそるまぶたを開いた。
今は夜であり、燭台の火だけが目の頼りである。だから世界は、薄闇に閉ざされているはずであったが――ユン=スドラには、何もかもが光り輝いているように見えた。
何よりも大切な家人たちの姿も、空になった鉄鍋や木皿も、足もとに敷かれた毛皮の敷物も、四方を囲む壁の木目も――何もかもが鮮明で、彩りに満ちあふれていた。
それらのあまりに輝かしい様相が、たちまち涙に曇っていく。
ユン=スドラは、ずっと頑なに前髪で世界を陰らせていたが――世界を覆う灰色の澱みは、とっくに消え去っていたのだった。
それを確かめるのが怖くて、ユン=スドラはずっと前髪で世界を隠していたのだ。
ユン=スドラはこれほどに幸福な心地で日々を過ごしているのに、いまだ世界が灰色のままであったら、もう魂を返すまでその色合いは変わらないのかもしれない――そんな子供じみた恐怖心にとらわれてしまっていたのである。
「どうしたのです、ユン? とても似合っているように思いますよ」
「うむ。すっかり見違えたぞ。何も珍妙なことはないから、涙をこぼす必要はない」
大切な家人たちの言葉が、ユン=スドラにいっそうの涙をこぼさせる。
もはやそれを止める手立てはなかったので、ユン=スドラは精一杯の思いで笑ってみせた。
「ありがとうございます。わたしはスドラの家人として恥じることなく、仕事を果たしたく思います」
そうしてユン=スドラは15歳の生誕の日に、輝ける世界を取り戻すことができたのだった。




