灰色の彼方(三)
2022.11/9 更新分 1/1 ・11/11 誤字を修正
・明日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
ミーマの氏を捨てた6名は、スドラの家人として生きていくことになった。
すべての家財をスドラの集落に運び込み、先人たちから受け継いだミーマの集落を打ち捨てて、新たな場所で新たな生を送ることになったのだ。
協議の末、両親と子がそろっている3名は空いていた家に家族だけで住み、ミーマの家長であった男衆と幼子はスドラの本家、ユン=スドラは分家に引き取られることになった。
「しかし、11歳の幼子がひとりきりで新たな家の家人になるというのは、あまりに心細かろうかな。ここはやはり、家長らとともに本家で引き取るべきであろうか」
ライエルファム=スドラはそのように言っていたが、ユン=スドラは「いえ」と応じてみせた。
「そちらの分家というのは、女衆の人手が足りていないというのでしょう? でしたらどうか、わたしにとってもっとも相応しい家を選んでもらいたく思います」
もともとユン=スドラが割り振られる予定であった家は、年配の男女と12歳の若衆という顔ぶれであり、翌年からは若衆も森に出ることになるため、家の仕事を果たすのに人手が必要であったようなのだ。
いっぽう本家のほうはライエルファム=スドラとリィ=スドラ、リィ=スドラの妹とその子である6歳の幼子という顔ぶれであり、ミーマの幼子が増えればそれなりに手間もかかろうが、どちらも5歳は過ぎていることであるし、こちらほどの労苦ではないように思われた。
そうしてユン=スドラは、ひとりきりで新たな家の家人に迎えられることになったわけであるが――そちらにも、ミーマと同じく温かい空気が満ちていた。
ただし、年配の男女は夫婦であったが、12歳の若衆に血の繋がりはないらしい。両親を失った若衆と、我が子を失った男女が、身を寄せ合うことになったのだ。やはり夫婦と子供がそろっている一家というのは、スドラでも稀であるようであった。
「あんたたちは1歳しか齢も違わないし、きっと仲良くなれるだろうさ。どうぞこれからよろしくね、ユン」
年配の女衆は穏やかな笑顔で、年配の男衆は柔和な面持ちで、1歳年長の若衆はむっつりとした仏頂面で、ユン=スドラを迎え入れてくれた。どうやらこの若衆は、内面をさらすのが苦手な人柄であるようだ。しかし彼がスドラの家人に相応しい善良な人柄であることは、数日ともに暮らすだけですぐに知ることができた。
「……お前は、同じ家で暮らす家族をすべて失ってしまったそうだな。それはたとえようもない悲しみだっただろうが……お前は、立派だと思う」
ある日、ユン=スドラとふたりきりで語る機会がやってくると、その若衆は仏頂面でそのように言いたてた。
「わたしは何も立派なことなどしていないつもりですが……あなたはどうして、そのように思うのです?」
「それはお前が、年長の家人たちよりも長く生き永らえたからだ。スドラでは早くに魂を返す人間が多いが、年若い人間は年を食った人間よりも長く生きるべきだろう。……俺は父からそのように教わり、それを正しい言葉だと思った。年若い人間は、年長の人間を失う覚悟を持つべきであるのだ」
そうして若衆は、いくぶん口ごもりながらさらに言いつのった。
「だから……たとえ1歳でも年少であるお前は、俺よりも長く生きる責任がある。氏を捨てて、見知らぬ家で暮らすことになり、きっと苦労は多いのだろうと思うが……どうか、強い気持ちで生き抜いてほしい」
彼はそのように堅苦しい言葉で、ユン=スドラの心情をいたわってくれたのだ。
それでユン=スドラは、その若衆を――チム=スドラという名を持つ1歳年長の若衆を、兄のように慕うことがかなったのだった。
そうして翌年からはチム=スドラも森に入るようになり、ユン=スドラは年配の女衆とともに仕事に励み――あっという間に、3年の日が過ぎ去った。
幼かったユン=スドラも、ついに14歳となる年である。ただし、背丈はそれなりにのびていたが、身体は相変わらず痩せ細っている。そして灰色の髪も滋養が足りていないのか、長くのびきる前にささくれて千切れてしまい、今でもだらしなく顔や肩に垂らしたままであった。
また、その3年の間にも数多くの家人が魂を返している。もう片方の分家の家人が、1年にひとりずつ亡くなることになってしまったのだ。あとには年配の女衆と若い女衆しか残されなかったため、その両名はかつてミーマの家人であった3名とともに暮らすことになった。
ミーマの家人を迎え入れてから、スドラは総勢で18名という人数であったのに、これで15名にまで減じてしまった。
そうしてその年もユン=スドラが生誕の日を迎える前に、まずはふたりの家人が魂を返すことになった。雨季になってしばらく苦しい生活が続くなり、本家で暮らしていたふたりの幼子が病魔で身罷ることになってしまったのだ。
幼子には、なるべくアリアやポイタンを与えるように心がけていた。それでもなお、滋養が足りていなかったのだろう。幼子たちの親であった両名――かつてミーマの家長であった男衆と、リィ=スドラの妹にあたる女衆は、ともに泣き崩れることになった。そして弔いの場において、チム=スドラはユン=スドラよりも多くの涙をこぼしているように思えた。
「だから……年若い人間が先に魂を返しては、ならんのだ」
15歳となったチム=スドラは、つい先日に一人前の狩人と認められて、狩人の衣を贈られていた。そんな彼が、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまっていた。
それでユン=スドラは、3年前に彼から聞かされた言葉の重みをいっそう理解できたような気がした。人の生命の重さに変わりはないはずであったが、自分よりも年若い相手を失うとき、人はこれほどの悲しみに見舞われてしまうのだ。
もちろんユン=スドラはこれまでにも何度となく、自分より幼い子供の死を見届けている。しかし自分が13歳という齢に達して、若年ながらも大人に近い立場になったがゆえに、いっそう幼子の死が痛ましく感じられるようになったのだろうか。ミーマから移り住んだ家人の中で最初に魂を返したのが8歳の幼子であったということが、とてつもなく理不尽に思えてならなかったのだった。
そして、それらの幼子たちが魂を返したことにより、ついにスドラでもっとも年若いのはユン=スドラになってしまった。
もしもユン=スドラが魂を返したなら、年長の家人たちはこれほどの悲しみを負うことになるのだ。
だからチム=スドラは、自分よりも長く生きてほしいなどと言ってくれたのだ。
それでユン=スドラは、いっそう強い気持ちで生きていくことを決意したのだった。
だが――幼子たちの死を皮切りに、スドラの家はさらなる悲運に見舞われることになってしまった。
次に魂を返したのは、リィ=スドラの妹にあたる女衆である。彼女は何とか我が子を失った悲しみを乗り越えて、強く生きようと力を尽くしていたが、弱った心につけこまれたかのように病魔を患ってしまい、それから数日であえなく魂を返してしまった。
その次は数ヶ月を置いて、ふたりの男衆である。その片方はミーマの家長であった男衆であり、もう片方はユン=スドラやチム=スドラの父代わりであった男衆であった。この頃のスドラは少しでも危険がないように、すべての狩人が一緒になって仕事を果たしていたのであるが、森の中で飢えたギバに遭遇してしまい、逃げ遅れた両名が森に朽ちることになってしまったのだった。
そしてその数日後には、ユン=スドラたちの母代わりであった女衆が魂を返すことになった。彼女もまた伴侶の死を嘆きながらも懸命に生きようとしていたのだが、薪拾いをしている間に転倒して、足を深く傷つけてしまい――そこから悪い風が入って、呆気なく魂を返すことになってしまったのだ。
その間に灰の月を迎えて、ユン=スドラはついに14歳となり――そしてスドラの家は、わずか1年足らずの間に6名もの家人を失うことになった。
残された家人は、9名のみである。
本家の家長ライエルファム=スドラと、その伴侶であるリィ=スドラ。かつてミーマの家人であった年配の男女と、その子である15歳の若衆。それらの3名とともに暮らしていた、年配の女衆と15歳の女衆。そして、ユン=スドラとチム=スドラ――それが、スドラに残された家人のすべてであった。
「これではもはや、家を分けて暮らす甲斐もあるまい。いささか狭苦しいやもしれないが、すべての人間を本家の家人に迎えたく思う。……そのほうが、より絆を深められるであろうからな」
すべての家人を本家の広間に集めて、ライエルファム=スドラはそのように宣言した。
その皺くちゃの顔には、怖いぐらいの気迫と覚悟がみなぎっている。これだけの悲運に見舞われようとも、ライエルファム=スドラは決して絶望していないのだ。そうだからこそ、ユン=スドラたちも心を強く保てるのだろうと思われた。
しかし――そこで力ない声をあげる者があった。
この3年の間に伴侶と子を失った、年配の女衆である。
「家長……どうかあたしが森に朽ちることを、許してはもらえないでしょうか……?」
「森に朽ちる? 狩人ならぬお前が森に朽ちるとは、どういうことであろうか?」
「あたしみたいな老いぼれが生き残ったって、何にもなりはしません……余計な人間がいなくなれば、そのぶん若い家人にアリアやポイタンを分けることがかなうでしょう……? それならあたしは森に入って、この魂を返したく思います……」
確かにこの女衆はスドラでもっとも年を食った人間であったが、それでもせいぜい45歳ていどであろう。
そして、どれだけ年を食っていたとしても、そのような話が許されるはずもない。ライエルファム=スドラはまったく力を減じない目で、その女衆の弱々しい姿を真っ直ぐに見据えた。
「このスドラに、余計な人間などというものはひとりとして存在しない。馬鹿な考えは捨てて、心正しく生きていくがいい」
「でも……あたしがいなくなったって、女衆は4人も残されます。それなら、仕事で困ることもないでしょう……? あたしは、若い人間に希望を託したいんですよ……」
ライエルファム=スドラは厳しい面持ちのまま目を閉ざし、ゆるゆると首を横に振った。
もちろん誰よりも心正しいライエルファム=スドラであれば、このような願い出を許すこともないだろう。しかしユン=スドラはその短い沈黙に耐えきれなくなって、思わず声をあげることになってしまった。
「そんなのは、駄目です。自ら生命を捨てるなんて……そんなのは、森辺の民にとって正しい道ではありません」
「うん……でもね、若いあんたは知らないだろうけど……昔はそうやって年老いた人間が若い人間のために身を捧げることも、決して珍しい話ではなかったんだよ……」
「それはスドラの先代家長の、間違った教えでしょう? 今の家長であるライエルファムは、すべての家人を等しく慈しむべしと説いてくれたはずです」
そのように語りながら、ユン=スドラは涙をおさえることができなかった。
他の家人らは、真剣きわまわりない面持ちでユン=スドラたちのやりとりを見守ってくれている。
「わたしはその教えに従って、今日まで生きてきました。わたしにとっては、この場にいる全員が大切な家人なんです。そのひとりを犠牲にして生きていくなんて、そんな真似ができるわけありません」
「うん、でもね……」
「母なる森に与えられる運命であるのなら、わたしはそれに耐えてみせます。でも、あなたが自ら魂を返してしまうだなんて……わたしは、決して耐えられません」
ともすれば、ユン=スドラは嗚咽をこぼしてしまいそうだった。
しかしユン=スドラは懸命にそれを呑み下して、さらに言いつのってみせた。
「わたしはこの中で、もっとも年若い人間です。だからわたしは、すべての家人が魂を返す姿を見届ける覚悟でいます。もしもスドラが滅んでしまうのならば、その最後の悲しみはわたしがひとりで受け持ってみせます。だから、どうか……あなたもスドラの家人として、最後まで希望を捨てないでください」
女衆はうつむいて、その皺深い顔に涙をしたたらせた。
すると、しばらくまぶたを閉ざしていたライエルファム=スドラが、光の強い双眸をあらわにする。
「お前をそこまで追い詰めてしまったのは、家長たる俺の不徳であろう。それについては、何度でも詫びさせてもらいたく思うが……もっとも年若いユンが正しき心を育んでくれたことを、嬉しく思っている」
「ええ。ユンは、立派な女衆です」
リィ=スドラが穏やかに微笑みながら、そのように言葉を重ねる。それでユン=スドラは、いっそうの涙をこぼすことになってしまった。
「それにお前は、かつての俺と同じ過ちを犯してしまったのであろうな。……かつて俺はすべての家人を慈しむべしと説きながら、自らの存在をそこから外していた。血族が健やかに過ごせるのであれば、俺などは孤独に朽ちてかまわないと、そのような考えで17年もの歳月を過ごすことになったのだ。それが間違った考えであるということを教えてくれたのは、リィを筆頭とするお前たちであるはずだぞ」
そう言って、ライエルファム=スドラはふいに表情をやわらげた。
その透き通った眼差しが、8名の家人を順番に見回していく。
「俺はスドラの家長として、あらためて進むべき道を示そう。どのような家人も、すべて等しく慈しむべし――そして、自分もその内のひとりであるということを、決して忘れてはならん。情愛の輪を紡ぐには、自分という1本の糸も不可欠のものであるのだからな」
そうしてその日から、ユン=スドラたちは本家の家人に迎えられることになった。
もとの家に置いていた装束や寝具など身の回りのものを携えて、家を移る。たびたびすべての家族を失っていたユン=スドラにとって、それがもう何回目の転居であるのかも判然としなかった。
だが、これでもう家を失うことはない。
ユン=スドラは最後に残された血族とともに、最後の家で暮らすのだ。
そんな風に考えると、ユン=スドラは正体の知れない感情に胸を満たされて、またとめどもなく涙をこぼしてしまったのだった。
◇
それからしばらくは、穏やかに日々が過ぎていったように思う。
9名の家人が同じ家で暮らし、おたがいを慈しみながら、毎日を過ごすのだ。世界は灰色にくすんでいたが、ユン=スドラは最後の居場所に辿り着いたような心地であった。
それに、家人の表情もいくぶん明るくなったように感じられる。自ら魂を返したいなどと言い出した年配の女衆も懸命に日々を生きていたし、誰もが正しく手を取り合って、喜びと苦しみを等分に分かち合えているように思えた。
「まったくもって皮肉な話だが、家人がこうまで少なくなってしまったがゆえに、以前よりも飢えに苦しむことがなくなったようだな」
そのような感慨をこぼしていたのは、チム=スドラであった。
確かに9名の家人が寄り合ってからしばらくは、アリアとポイタンを口にできる日が増えていた。つい数ヶ月前までは、6名の狩人で15名分の収獲をあげる必要があったのだ。それが現在では、4名の狩人で9名分ということになり――それで、わずかばかりに生活が楽になったのだろうと思われた。
「でも、ミーマも最後には9名の家人となり、そのときも4名の狩人で仕事を果たしていましたが、今ほどの収獲をあげることはできていませんでした。これはチムたちがたいそうな力を持つ狩人であるという証なのでしょう」
「俺の力など、微々たるものだ。すべては、家長ライエルファムのおかげであろう。……もちろんそれはギバ狩りについての話であって、俺たちが健やかに生きていけるのはすべての家人あってのことだがな」
そう言って、チム=スドラはしかつめらしくユン=スドラを見つめてきた。
「とりわけ、お前は立派だと思うぞ、ユン。お前はもっとも若年でありながら、自ら魂を返したいなどと言いたてていた家人を思いとどまらせたのだからな」
「いえ、とんでもありません。それこそ、家長ライエルファムあってのことです」
ユン=スドラがそのように答えると、チム=スドラはいくぶんすねた子供のような目つきになった。
「ところで……俺とユンはもう3年以上もともに暮らしているのに、そのよそよそしい口調に変わりはないのだな」
「よそよそしいですか? わたしは年長の家人と暮らす機会が多かったので、こういう口調が身についてしまったようなのです。それに……年の近い相手にだけ気安い口をきくと、年長の相手と差をつけているような心地になってしまうのですよね」
ユン=スドラが真情を込めてそのように応じると、チム=スドラは「そうか」と優しい眼差しになってくれた。
「そうすることでユンがすべての家人を等しく慈しめるというのなら、何も文句はない。そういえば、お前は5歳や6歳の幼子にも丁寧な口をきいていたものな」
「はい。チムのことも年長の家人たちも、幼くして魂を返してしまった子供たちも……わたしは同じように慈しんでいるつもりです」
「うむ。お前の言葉を疑うような人間はいない。ユンが同じスドラの家人であることを、俺は心から嬉しく思っている」
そんな具合に、口の重いチム=スドラもふたりきりの場では遠慮なく真情をさらしてくれるようになっていた。
そうして銀の月を超えて、新たな年を迎えても、スドラの家の平穏なありように変わりはなかった。さらに日が過ぎて雨季を迎えると、ギバの収獲もままならず飢えに苦しむことになったが――それでも、魂を返す人間はいなかった。これだけ長きにわたって魂を返す人間が出なかったのは、ずいぶんひさびさのことであるはずだった。
しかしユン=スドラは、決して気をゆるめてはいなかった。魂を返す人間がいないのは、おそらく幼子が絶えてしまったゆえであるのだ。昨年も、真っ先に魂を返してしまったのはふたりの幼子であったし、そうして我が子を失うと、親たちも気が弱って後を追う機会が増えてしまうのではないかと思われた。
なおかつ、ユン=スドラを除く3名の若衆はいずれも15歳を過ぎていたが、誰も婚儀を挙げようとしない。きっともう、新たな子を作ろうという気持ちが失われてしまったのだろう。すでに年配である夫婦はもちろん、いまだ20歳を過ぎたばかりのリィ=スドラも、ユン=スドラがスドラの家人となってから1度も懐妊していないのだ。
だからやっぱり、スドラでもっとも若年であるのはユン=スドラなのである。
そしてユン=スドラの心には、ライエルファム=スドラらの婚儀を見届けた翌日に、もっとも親しくしていた女衆を失った記憶が深く刻みつけられていた。
どれだけ幸福な心地であろうとも、いつ大きな不幸に見舞われるかわからない。
そしてもっとも若年であるユン=スドラは、スドラの滅びを見届けるという覚悟を片時も忘れたことはなかった。
そうしてさらに日が過ぎて、あとふた月も経てばユン=スドラの生誕の日という頃合いで――大きな変転が訪れた。
青の月の11日。家長会議から戻ったライエルファム=スドラが、いつになく昂揚した面持ちで家に飛び込んできたのである。
「まあ、家長。ずいぶん遅い帰りでしたね。家長会議で何かあったのではないかと心配していました」
「うむ。まさしく、とんでもないことが起きたのだ。まずはすべての家人に聞いてもらいたい」
そうしてライエルファム=スドラは、驚くべき言葉を口にした。
家長会議でスン家の罪が暴かれて、他なる三氏族に族長の座が受け継がれたというのだ。
「さらに俺は、驚くべき話を聞かされた。あの異国の民を招き入れていたファの家が、宿場町の商売で尋常ならざる富を築いていたというのだ」
その異国の民というものに関しては、ユン=スドラもわずかばかり耳にしていた。かつて水場で見かけた、あの美しい少女――女衆の身でありながら狩人の仕事を果たしていたあの女衆が、森の中で出くわした異国の民を家に招き入れたという話であったのだ。
「なおかつ、ファの家長とその異国の民たるかまど番は、すべての森辺の民が同じ手段で富を手にするべきだと申し出ていた。……俺は、その話に賛同しようと思う」
「ちょ、ちょっと待ってください。それはいったい、どういう話なのですか? 森辺の民がどうやって、宿場町で富を築こうというのです?」
そのように反問したのは、チム=スドラである。彼は家長のライエルファム=スドラにだけ、丁寧な口をきくようになっていた。
「ギバの肉と、それで作りあげた美味なる料理というものを、宿場町で売りに出すのだ。ファの家は、いまだ美味なる料理というものしか売りに出していないという話であったが……それでもすでに、10日で白銅貨123枚の富を築いたそうだぞ」
「し、白銅貨123枚? つまり、赤銅貨1230枚ということですか? そんなのは……ギバの角と牙と毛皮でいえば、50頭分の稼ぎではないですか!」
それはつまり、1日で5頭のギバを狩るようなものである。
ユン=スドラも、内心で呆れ返ることになってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってほしい、家長ライエルファムよ。それは本当に、真実であるのでしょうか? ファの人間の妄言に騙されているだけなのでは?」
もうひとりの若い男衆がそのように言いたてると、ライエルファム=スドラは真剣な面持ちのまま「いや」と首を横に振った。
「俺はこの身で、ファの家長や異国のかまど番――ファの家のアスタと語らったのだ。あの両名は、信頼に値する。どうか俺の目を信じてもらいたい」
「それはもちろん、家長の目を疑ったりはしませんが……でもこれまでは、ファの人間に近づかぬようにという取り決めでしたよね?」
「それはファの家が、スン家と悪縁を結んでいたからだ。しかしスン家はすでに滅び、族長筋の座は他なる三氏族に引き継がれた。それで手の平を返してファの家にすがろうというのは、あまりに恥知らずな行いであるかもしれんが……俺はどのような恥を負ってでも、正しき道を選びたく思う。これが間違った判断であったなら、俺がすべての責を負おう。だからどうか、俺を信じてついてきてもらいたい」
ライエルファム=スドラにそうまで言われては、異を唱える人間もいなかった。
そうしてスドラの家はその日から、ファの家と運命をともにすることに相成ったのだった。
◇
それからは、怒涛の勢いで日々が過ぎていった。
まずは家長らが家長会議から戻った日の、翌日である。その日にさっそく、2名ずつの男女がファの家に出向くことになったのだ。
男衆は血抜きに解体、女衆は美味なる料理というものの手ほどきをされるのだという。これは大きな責任のある話であったので、女衆からはリィ=スドラと年配の女衆が選ばれることになった。
「あたしらには、まずその美味なる料理ってやつがよくわからないからねぇ。伴侶が言うには、食べるだけで幸福になれるような料理だっていうけど……アリアとポイタンを口にできるだけで、あたしらは幸福な心地だものね」
そのように語っていたのは、もう片方の年配の女衆だ。かつてはミーマの家人であった、伴侶と子を持つ女衆である。
「でも、家長らがあれほど血相を変えるということは、よほどのものであるのでしょう。まったく想像はつきませんが、手ほどきの成果を楽しみにしたく思います」
そのように応じたのは、ユン=スドラよりひとつ年長の女衆である。今日はこの3名で、家の仕事を片付けなければならなかったのだった。
いっぽう男衆のほうはライエルファム=スドラとチム=スドラがファの家に出向き、残された父子だけで森に仕掛けた罠を見回っている。たったふたりで森に出て危険はないのかと、ユン=スドラはそればかりが気にかかっていた。
家長のライエルファム=スドラは、いつになく昂揚しているように感じられる。
しかし、その熱情が正しく報われるのか――ユン=スドラは、そんな懸念も消せずにいた。ギバの肉や料理を町で売って、豊かな暮らしを手中にするなど、ユン=スドラには夢物語だとしか思えなかったのだ。
ただユン=スドラは、懸念とは異なる胸の高鳴りも覚えていた。
もしも本当に、スドラの家が豊かな暮らしを手中にできるなら――飢えに苦しむことなく、強い力で日々を生きられるようになれれば――それほど幸福な話は他にないはずであった。
(だから、わたしは……希望を持って、それが裏切られるのを怖がっているのかもしれない)
ユン=スドラの世界は、今でも灰色にくすんでいる。
この灰色の澱みが消え去って、世界が鮮烈なる色彩を取り戻すことなど――今のユン=スドラには、想像もつかなかったのだった。
「どうも、遅くなってしまいました。もう晩餐の支度は済んでしまったでしょうか?」
やがてリィ=スドラたちが家に戻ったのは、黄昏刻に差し掛かった頃合いであった。かまどの間に待機していた年配の女衆は、「いえ」と笑顔を返す。
「晩餐の支度なんてすぐにできるから、ぎりぎりまで待とうと思ってましたよ。間に合ったようで、何よりでしたねぇ」
「そうですか。いささか時間がかかってしまうかもしれませんが、今日は手ほどきの成果を口にしてもらいたく思います」
そのように語りながら、リィ=スドラはふたつの包みを台に置いた。
「こちらはポイタンを粉にしたもので、こちらは血抜きというものを施したギバの肉です。フォウやランの狩人がギバを仕留めることができたので、わたしたちも1本の足を授かることがかないました」
そうしてスドラの女衆は、5名がかりで晩餐を仕上げることになったわけであるが――それは何とも、奇妙なひとときであった。
まずは、ギバ肉の扱いである。こちらはこれまでと比較にならないぐらい長い時間、入念に煮込むのだという話であった。
「鍋を煮込むと、あぶくが浮いてくるでしょう? それは灰汁といって、臭みの原因になるそうです。こちらは血抜きをした肉なので、それほど灰汁は出ないという話でしたが……それでも肉の滋養が汁に行き渡るまで、念入りに煮込む必要があるそうです」
さらに、アリアは煮込みすぎると溶け崩れてしまうため、後から鍋に入れるのだという。また、煮込む時間が足りないと、滋養が十分に溶けださないため、どのていどの時間でアリアを鍋に入れるかは、今後も回数を重ねて学ぶしかないという話であった。
そしてそれよりも奇妙であったのは、ポイタンの扱いである。
包みから取り出されたポイタンは、完全に粉になっていた。これは水気がなくなるまで煮込んだポイタンの煮汁を、さらに天日で乾燥させたものであるという。そこに再び水を加えて、煮込むのではなく焼きあげるのだという話であった。
「いったん煮込んだものをからからに干して、そいつにまた水を加えて火にかけるなんて……こいつは、たいそうな手間ですねぇ。それでできあがったものを、別に煮込んでいた肉とアリアの鍋に入れるわけで?」
「いえ。ポイタンはそのまま食するそうです。わたしたちも味見をさせていただきましたが……なんとも奇妙な味わいでした」
「そりゃあこれだけ奇妙な具合に手を加えたら、奇妙な味わいになるんでしょうねぇ」
年配の女衆は、どこか面白がっているような面持ちで仕事に取り組んでいた。
若いほうの女衆は、しきりに小首を傾げている。ユン=スドラも、気持ちはそちらと同様である。ただ、ファの家で手ほどきされたリィ=スドラともうひとりの女衆はまったく迷いのない面持ちであったため、ユン=スドラも彼女たちの言葉を信じるしかなかった。
それから太陽が完全に沈みきった頃、晩餐はようやく完成する。
ギバ肉とアリアの鍋には、リィ=スドラの手によって塩とピコの葉が加えられていた。途中でアリアを入れたのも、最後に味見をしたのも、すべてリィ=スドラである。彼女は家長の伴侶として、この奇妙な晩餐の責任を負おうという覚悟であるのだろう。
そうして鉄鍋や木皿を抱えて母屋の広間に向かってみると、4名の男衆が座して待っている。これほど晩餐の時間が遅れたのに、文句の声をあげる者はいなかった。
「家長、お待たせしました。まだまだ完全な仕上がりとはいかないかと思いますが……それでも何とか、形にはなったかと思います」
「うむ。たった1日の手ほどきで完全な仕上がりを目指せたなら、世話はないからな。まずは血抜きをしたギバ肉と焼いたポイタンの味を確かめられるだけで、十分以上であろうよ」
ライエルファム=スドラは落ち着いた面持ちで、そのように語った。
「では、晩餐を始めたく思うが……普段以上の手間と時間をかけて作りあげた晩餐にそれだけの価値があるかどうか、心して味わってもらいたい」
そのように諭されるまでもなく、家人はみんな神妙な顔をしていた。
そうして、それぞれ晩餐を口にして――家長会議に参じたふたりを除く全員が、大いなる驚きにとらわれることになったのだった。
「これが……血抜きというものを施したギバの肉の味であるのか」
チム=スドラは目をまん丸にして、そのように言っていた。
「確かに肉から、嫌な臭みだけが消えているように感じられる。それでいっそう、肉の味というものがはっきり感じられて……これほど心地好く思えるのだろうか?」
「それに、煮汁もだ! ポイタンを入れていないのでただの湯のように感じられるのに、この煮汁はやたらと心地好く感じられる! 本当にこれは、塩とピコの葉しか入れていないのか?」
もうひとりの若い男衆の言葉に、その母親が「ええ」と応じる。
「こいつは、あたしらが作りあげたんだからね。ギバの足肉とアリア、塩とピコの葉……それ以外には、何ひとつ使っちゃいないよ」
「煮汁に滋養を溶かし出すというのは、こういう意味であったのですか……このために、肉やアリアを長々と煮込んだというわけですね?」
若い女衆の問いかけに、リィ=スドラは穏やかな面持ちで「そうです」と答えた。
「わたしも初めて口にしたので、これがどれほどの仕上がりであるのかは想像するしかないのですが……家長、いかがでしょう?」
「うむ。家長会議で口にしたものと、さほど差はないように感じられる。あちらはあちらで、その場で手ほどきされたスンの女衆が仕上げたものであるのだからな」
そのように語りながら、ライエルファム=スドラは丸く焼きあげられたポイタンを小さく千切った。
「ポイタンはこのようにして、煮汁にひたして食するがいい。そうすれば、ポイタンを煮込んだ汁よりも満足な心地を得られることだろう」
「ああ、本当です! ……町の人間は、こういった料理に銅貨を出しているわけですか?」
「いや。これはファの家のアスタが考案した中で、もっとも簡素な料理であるそうだからな。町で売りに出す際には、もっとさまざまな食材を使っているそうだ」
「うむ。家長会議で出されたミャームー焼きなどという料理は、これまで口にしたこともないような味わいをしていた。あれならば、きっと銅貨を出す人間もいるのだろうと思う」
年配の男衆がそのように言い添えると、その子たる男衆が身を乗り出した。
「これらの晩餐だって、これまで口にしたこともない味わいであるはずだぞ! もっとさまざまな食材を使えば、もっと物凄いものを作りあげられるということか?」
「うむ。これらの仕上がりも十分だと思うが、俺と家長があの場で口にしたのは……とうてい言葉では説明できないような出来栄えだった。俺などは、それこそ頭を殴られたような衝撃を受けることになったのだ」
「そう。俺たちは生命の糧であるギバの肉をこのように仕上げるすべも知らなかった。森辺の民は町の人間と正しい絆を結ばなかったがゆえに、肉の正しい扱い方を学ぶすべがなかったのだろうと、ファの家のアスタはそのように語っていたな。……これがアスタの言う、美味なる料理というものであるのだ」
ライエルファム=スドラは煮汁の木皿を置き、力のある眼差しで家人たちを見回した。
「家長会議にて語られたのは、これらを使って富を築くすべのみであった。しかしアスタはそれ以外にも、美味なる料理というものが森辺の民にさらなる力を与えるのではないかと主張している。美味なる料理によって生きる喜びが増したならば、いっそう強い力で日々を生き抜けるのではないかと、アスタはそのような言葉でルウ家の者たちを説き伏せたのだそうだ。……俺はその言葉を含めて、アスタが正しいのだと信じるに至った。お前たちとも、同じ思いを分かち合うことがかなうだろうか?」
ユン=スドラを除く全員が、力強くうなずいていた。
そして、リィ=スドラが優しげな微笑をユン=スドラに向けてくる。
「ユンは、何を泣いているのでしょう? 何かつらい思いでもさせてしまったでしょうか?」
「いえ……わたしにも、理由がわからないのですけれど……何故だか、涙を止めることができないのです」
そのように答えながら、ユン=スドラは何とか笑ってみせた。
「わたしも家長の言葉に、異論はありません。わたしはまだまだ、何もわかっていないのかもしれませんが……この美味なる料理というものは、わたしたちにかけがえのない力を与えてくれるのだろうと思います」
それが、ユン=スドラの本心であった。
ユン=スドラは気持ちが千々に乱れてしまって、何ひとつ考えがまとまっていなかったのだが――ただひとつ、幸福な心地であることに疑いはなかったのだった。
この美味なる料理というものが森辺の民に何をもたらすのか、それを想像することも難しい。
前髪が顔にかぶさっているためか、世界は灰色にくすんだままである。
しかしそれでも、自分の涙が燭台の火にきらめいているのか――ユン=スドラは、その場にたとえようもない光が満ちあふれているような気持ちであったのだった。




