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異世界料理道  作者: EDA
第七十三章 群像演舞~八ノ巻~
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第七話 灰色の彼方(一)

2022.11/7 更新分 1/1 ・11/11 誤字を修正

・今回は全9話です。6話目から新章に入ります。

 ユン=スドラが幼かった頃、世界はいつでも灰色にくすんでいるように感じられた。

 ユン=スドラは灰色の髪をしているため、それが目もとまでかぶさると、世界はいっそう灰色に沈んでいく。しかし前髪を振りやって周囲を見回してみても、くすんだ印象にさしたる変化は見られなかった。


 ユン=スドラは、灰色の世界で生きる灰色の存在である。

 もともと世界は灰色にくすんでおり、ユン=スドラは灰色の存在として生まれ落ちたのだ。それ以外の世界や人生を知らないユン=スドラにとっては、それこそが揺るぎないただひとつの真実だった。


 ユン=スドラが生まれ落ちたのは、スドラの眷族であるミーマの分家の家となる。

 その頃は、ユン=スドラではなくユン=ミーマであったのだ。


 ミーマの家は、本家も分家も貧しかった。親筋の氏族たるスドラもまた、それは同様である。ミーマとスドラの家人たちはいつでも飢えに苦しんでおり、それでユン=ミーマは灰色にくすんだ世界しか目にする機会を得られなかったのだった。


 ただし、ユン=ミーマが生誕したとき、家人の数はずいぶん多かったように記憶している。正確な人数は把握していなかったが、スドラとミーマを合わせて40名ぐらいはいたのではないかと思われた。

 しかしそれは当時の森辺において、決して多い人数ではなかったらしい。森辺の民は80年ほど前にモルガの森に移り住んでからたくさんの同胞を失ってしまったため、一時期はすべての氏族が眷族の家人を親筋の家に取り込んで、氏を守ったという話であったのだ。


「だからミーマも、以前はたくさんの眷族を従える立派な氏族であったのよ。でも、黒き森からモルガの森に移り住むまでに半分の家人を失い、モルガの森に移り住んでからの数十年でまた半分の家人を失い……それで、すべての眷族を親筋たるミーマに迎えることになったの。それでもミーマだけで生きていくことは難しかったから、スドラと血の縁を結ぶことになったというわけね」


 幼きユン=ミーマにそんな言葉を語ってくれたのは、母親代わりに育ててくれたミーマ分家の女衆であった。

 その女衆がどういう血筋であったのか、ユン=ミーマは記憶に留めていない。ただ、ユン=ミーマの両親はどちらもすべての兄弟を失っていたので、それほど血の近い相手ではないはずだった。


 両親は、ユン=ミーマが物心つく前に魂を返している。

 また、ユン=ミーマにはひとりの兄がいたそうだが、そちらも記憶に残されていなかった。

 もちろん祖父母などはとっくに息絶えているし、それで両親の兄弟もすべて魂を返しているのなら、ユン=ミーマにさして血の近い血族は存在しないということであった。

 しかし、当時のミーマとスドラでは、それも珍しい話ではなかったのだ。ユン=ミーマの周囲では、両親のそろっている人間のほうが珍しいぐらいであった。


「だけどわたしたちは、すべての血族を家族のように慈しむべしと教えられているからね。あなたも寂しく思うことはないのよ、ユン」


 ユン=ミーマを育ててくれた女衆はやつれた顔に優しげな微笑をたたえながら、そんな風に言っていた。

 だからユン=ミーマも、温かい気持ちで日々を過ごしていたのだが――母親代わりの女衆も、ユン=ミーマが5歳になる頃には魂を返してしまった。そうすると、世界はいっそう灰色にくすんでしまうのだった。


「あんたも5歳になったから、家の仕事を覚えないとね。まあ、そんなにしんどい仕事をまかせることはないから、無理をせずにひとつずつしっかりと覚えていくんだよ」


 そんな風に言ったのは、母親代わりの女衆よりも年を食った女衆であった。それがどういった血筋の人間であったかは、やはり覚えていない。ユン=ミーマは、その女衆からさまざまな仕事を学ぶことになった。


 ただし、まだ5歳になりたての幼子にこなせる仕事など、たかが知れている。いずれ自分が大きくなったときにしっかり仕事をこなせるように手順を学ぶというのが、幼子の役割であるようだった。

 ギバの毛皮をなめしたり、水場で木皿や装束を洗ったり、水瓶の水を汲んできたり、割られた薪を蔓草でくくったり、蔓草で籠や縄を編んだり、もっと小さな幼子の面倒を見たり――おおよそは、そういった仕事である。何も難しい仕事をまかされることはなかったが、ただ身体を動かすといっそう空腹になってしまうため、それだけが辛かった。


「辛いときには休ませるから、無理をする前に声をあげるんだよ。あんたたちはこれから長きの時を生きて、家を支えていくんだからね」


 女衆は幼いユン=ミーマをそんな風にいたわりながら、たくさんの仕事を手ほどきしてくれた。

 しかし、そんな彼女もユン=ミーマが6歳になる頃には魂を返してしまったのだった。


 ただユン=ミーマは、それを不思議に思う気持ちも持っていなかった。

 遅かれ早かれ、人は魂を返してしまうのだ。ユン=ミーマを最初に育ててくれた女衆も、その次に手ほどきをしてくれた女衆も、きっとユン=ミーマの両親よりは長く生きたのだろうから、何も不思議がる理由はなかった。


 ただ、不思議でなくとも悲しいことに変わりはない。

 親しい相手が亡くなったとき、ユン=ミーマはいつも涙をこぼして悲嘆に暮れることになった。そのたびに、世界はいっそう灰色にくすんでいくようであった。


 それにミーマやスドラには、幼くして魂を返す子供も多かった。

 ユン=ミーマの兄も、そうして魂を返すことになったのだろう。自分よりも幼い子供が魂を返すとき、ユン=ミーマはとても悲しい気持ちだった。そして幼子の親たちが嘆き悲しむ姿を目にすると、いっそう涙が止まらなくなってしまうのだった。


 世界には、幸福と不幸が満ちあふれている。

 大事な家人と過ごすとき、ユン=ミーマは幸福な気持ちであった。新たな赤子が生誕したときや、若い男女が婚儀を挙げたときや、男衆が無事に森から戻ったときときなどは、誰もが幸せそうに微笑んでおり――そうすると、ユン=ミーマもみんなと同じぐらい幸福な心地でいられた。


 だけどやっぱり、世界には幸福よりもたくさんの不幸が渦巻いているように感じられてしまう。大切な家人が魂を返してしまったり、男衆が狩りの仕事で手傷を負ってしまったり、誰かが病魔に見舞われてしまったり、食べるものが尽きてしまったり――そのたびに、世界は灰色にくすんでしまうのだった。


 それでもミーマとスドラの人々は、希望を捨てずに生きている。

 だからユン=ミーマも、絶望せずにいられるのだろう。家人の泣き顔ではなく笑顔を重んじて、その温もりを心のよすがとして、懸命に日々を生きていこうという心持ちになれるのだ。それこそが、ユン=ミーマにとって一番の幸いであったのだった。


「わたしたちがこんな風に心正しく生きていけるのは、みんなスドラの家長のおかげであるのよ」


 ユン=ミーマは、たびたびそんな言葉を聞かされていた。

 スドラの家は少し遠い場所にあるので、ユン=ミーマはスドラの家長というものを数えるほどしか目にしたことがなかったが――ミーマの家人たちは、みんなスドラの家長を心のよすがにしているようであった。


「スドラの先代家長は道を間違えてしまったけれど、今の家長が正しき道を切り開いてくれたの。もしもあのお人がいなかったら……ミーマはスドラと血の縁を絶って、いっそうの貧しさにあえぎながら滅んでいたかもしれないわね」


「ああ、本当にねぇ……なりは小さいけど、立派なお人だよ……この前なんかはこっちの幼子を飢えさせないように、角と牙を分けてくれたしさ……スドラだって、あたしたちと同じぐらい苦しい生活を送っているだろうにねぇ……」


 ギバの角や牙というものは、宿場町という場所でアリアやポイタンと交換できるという話であったのだ。

 そしてすべての女衆は、首から3本の角や牙をさげている。その日、ユン=ミーマはかねてから疑問に思っていたことを口にすることにした。


「それなら、このくびかざりをつかえばいいのに、どうしてつかわないの?」


 すると、一緒に仕事を果たしていた女衆が優しく微笑みながらユン=ミーマの灰色の頭を撫でてきた。伴侶と幼い子供を亡くして、ともに暮らすようになった女衆である。


「これはね、わたしたちの健やかな生を願って、男衆が贈ってくれたものなんだよ。だから、魂を返すその日まで、決して使ってはいけないのさ」


「でも……たべものがなくなると、しんじゃうんでしょ? ユン、みんなにしんでほしくない」


「ああ、ユンは優しい子だねぇ。……でもね、わたしたちは森辺の民として正しく生きていこうと誓ったんだよ。だから、森辺の習わしをないがしろにすることは許されないのさ」


 それでもユン=ミーマが納得できずにいると、別の女衆が声をあげてきた。


「3本の角や牙を売ったって、数日分のアリアとポイタンにしかならないわ。ユンはその後も長きの時を生きていくのだから、そちらを重んじなくてはならないの。数日ばかりの空腹を満たすよりも、長きの年月を健やかに生きるほうが大事でしょう? この首飾りには、家族に健やかな生を送ってほしいという男衆の願いが込められているのだからね」


「でも……ユン、かぞくいないよ?」


 ユン=ミーマがそのように応じると、最初の女衆がいっそう優しげに微笑んだ。


「あんたは赤ん坊だったから、覚えていないんだろうねぇ。……その首飾りは、あんたの父親が贈ったものなんだよ」


「え……ユンの、とうさん……?」


「ああ、そうさ。あんたは顔も覚えてないんだろうけど、あんたの父親はあんたの生誕をちゃんと見届けている。それであんたの健やかな生を願って、その首飾りを贈ったのさ。そんな大切なものは、魂を返すまで大切にしておかないとね」


 そんな風に言いながら、その女衆はユン=ミーマの小さな身体をきゅっと抱きすくめてきた。


「それに……あんたもわたしもすべての家族を失ってしまったけれど、ミーマの血族はみんなわたしたちを家族と同じぐらい慈しんでくれているからね。どうかそれだけは忘れないでおくれよ、ユン?」


 ユン=ミーマは、返事をすることができなかった。突如として心の深い部分を揺さぶられて、泣きじゃくることになってしまったのだ。それでユン=ミーマは返事をする代わりに、その女衆の痩せた身体をめいっぱいの力で抱きすくめてみせたのだった。


 斯様にして、ユン=ミーマの周囲には幸福と不幸が渦巻いている。

 大切な相手の温もりと、それを失う悲しみが、幼いユン=ミーマを育んでいたのだった。


 それから、1年ほどが過ぎ――ユン=ミーマが7歳となった年である。

 その日、ユン=ミーマが暮らす家ではギバ肉だけを煮込んだ鍋で腹を満たしていた。アリアとポイタンを手にすることができず、ピコの葉に漬けておいたギバ肉しか食せるものがなかったのだ。


 ただし、食せるギバ肉が残されていただけ、幸いな話である。ギバ肉さえもが尽きた日には、ピコやリーロの葉を煮込んだ煮汁をすすることになるのだ。なおかつ、森の端でそれらを集めるのはそれなり以上の苦労であるため、おおよそはギバ肉を漬けていたピコの葉や干し肉を燻すのに使ったリーロの葉などを煮込むことになる。ギバの臭みが移ったピコや焦げ目のついたリーロの煮汁など、ユン=ミーマにはただ不快なだけの存在であった。


 それはともかくとして――ユン=ミーマたちがギバ肉だけの晩餐を食していると、戸板が外から叩かれた。

 この家の家長である男衆が緩慢な動きで刀に手をのばしつつ、「何者か?」と声を返す。すると、若い男衆の声がそれに答えた。


「俺はスドラの家人だ。このような夜更けに申し訳ないが、晩餐を食べ終えたならばスドラの集落まで出向いてもらいたい。家長ライエルファムから、重要な話が伝えられるのでな」


「スドラの家長から? 出向くのは、男衆のみでいいのであろうか?」


「いや。5歳に至らぬ幼子と、その面倒を見る女衆の他は、すべて出向いてもらいたい。もちろん、病魔で苦しんでいる家人があるなら、その面倒を見る人間も残してかまわんぞ」


 それだけ伝えて、スドラの男衆は立ち去っていった。

 家長は難しげな面持ちで、家人の姿を見回していく。


「これは、よほどの話であるようだな。晩餐をしっかり腹に収めてから、出向くとしよう」


 こちらの家には5歳に満たない幼子も病人もいなかったので、全員でスドラの集落に出向くことになった。

 ユン=ミーマがスドラの集落まで出向くのは、数ヶ月前の収穫祭以来である。そして、収穫祭ならぬ日にスドラの集落まで出向くのは、これが初めてのことであった。


 男衆は刀をさげ、女衆はギバの脂に火を灯した燭台を手に、暗い夜の道を辿る。女衆のひとりにしっかりと手を握られながら、ユン=ミーマは胸がざわついてやまなかった。こんな夜更けに呼び出されるということは、きっと何か大変な出来事があったのだ。果たしてそれが、幸福な出来事であるのか不幸な出来事であるのか――答えは聞くまでもないように思われた。


「ミーマの家人もそろったようだな。このような遅くに呼び出してしまい、申し訳なかった。しかしこれは一刻も早く伝えておかなければならない話であったので、どうか容赦してもらいたい」


 スドラの集落に到着すると、かがり火の脇にたたずんだ人影がそのように言いたてた。

 女衆のように、小さくて痩せた人影――スドラ本家の家長、ライエルファム=スドラである。ミーマの家人がしきりに褒めたたえるのが、このライエルファム=スドラであった。


 ライエルファム=スドラはただ身体が小さいばかりでなく、老人のように皺くちゃの顔をしている。ミーマでもっとも年老いた人間よりも、よほど皺深い顔である。彼がいまだ35歳にもなっていないと聞いたときには、ユン=ミーマもたいそう驚かされたものであった。


 しかしライエルファム=スドラは、血族でもっとも力のある狩人である。4ヶ月に1度の収穫祭において、彼はすべての力比べで勇者になったこともあるほどであるのだ。とりわけ木登りの素早さなどは太刀打ちできる者もなく、1度として勇者の座を譲ったことがないのだという話であった。


 なおかつ、人々が彼を賞賛するのは、狩人として優れているためではない。彼は誰よりも清く正しい心を持っており、その清廉さと強靭さで血族を導いてくれているのだと、ユン=ミーマは何度となくそんな話を聞かされていた。


 そのライエルファム=スドラが皺くちゃの顔を精悍に引き締めて、広場に集められた血族の姿を見回している。

 そして、その口から語られたのは――やはり、不幸な出来事についてであった。


「実はこのたび、スドラの見習い狩人が魂を返すことになった。そして、その見習い狩人というのは……次代の家長とみなされていた若衆であったのだ」


 ライエルファム=スドラがそのように告げると、あちこちから嘆きの声があげられた。

 スドラの家人たちは、すでにその悲しい報せを伝えられていたのだろう。声をあげているのは、ミーマの家人たちばかりである。しかしスドラの家人たちも、それに負けないほど悲しげな面持ちで目を伏せてしまっていた。


 幼いユン=ミーマにはよくわからない部分も多かったが、このライエルファム=スドラは先代家長たる父の間違いを贖うために、自らは婚儀を挙げることなく、血の近い分家の若衆に家長の座を継がせようとしていたらしい。しかしその若衆は、ちょうどユン=ミーマが生誕した頃に魂を返してしまい――今は、その次に血の近い若衆に期待がかけられていたのだという話であった。


 その若衆が、魂を返してしまったのだ。

 ユン=ミーマはその若衆が誰であったのかも把握していなかったが、周囲の大人たちがのきなみ嘆き悲しんでいたので、同じように悲しむことになった。今は真っ暗なので判然としないが、きっと世界はいっそう灰色にくすんでいるはずであった。


「俺も、心から無念に思っている。しかし……嘆いていても始まらん。ならば、次に血の近い人間を次代の家長とみなすのみだ」


 ライエルファム=スドラは、重々しい声音でそのように宣言した。


「男の子供は絶えてしまったが、まだそちらには若い長姉がいたはずだな?」


 ライエルファム=スドラがそのように呼びかけると、ひとりの女衆が「はい」と進み出た。すらりと背の高い、美しい女衆である。


「では、お前の婿となる男衆が、さしあたっては次代の家長だ。さらにその子が本家の家長を受け継ぐのだから、そのつもりで婿を選び、強い子を生むがいい」


 おそらくこの女衆は、本日魂を返した若衆の姉か何かであるのだろう。まだずいぶんと若そうであったが、しかし大人びた表情をした女衆であった。

 そして、この女衆の言葉が波乱をもたらした。

 彼女は、ライエルファム=スドラに嫁入りしたいと願い出たのだ。


「何を馬鹿な……」と、ライエルファム=スドラは言葉を失ってしまう。

 すると、女衆の父親であるという男衆が進み出た。


「先の月から、リィとはずっとそのことについて語り合っていた。その末に決めたことであるので、どうか了承してもらえないだろうか?」


「お、お前まで何を言っているのだ。17年前の俺の言葉を忘れたわけではあるまい?」


「もちろん、忘れてはいない。しかしこの段に至って、お前のことを不出来な人間と思う血族はひとりとして存在しないはずだ」


 そう言って、その男衆は澄みわたった眼差しで広場の血族たちを見回した。


「スドラとミーマのすべての家人に問う。本家の家長ライエルファム=スドラが伴侶を娶り、子を生すことに、反対する人間はいるか? そして、その子供が次代の家長として我々を導いていくことを、不満に思う人間はいるか?」


 声をあげようとする者はいなかった。

 そして、これまで悲しみに曇っていた顔に、喜びの色が浮かべられていく。ユン=ミーマにとって、それは真っ暗であるはずの世界に光があふれかえっていくような光景に思えてならなかった。


 きっと誰もが、ライエルファム=スドラの幸福を願っていたのだ。

 ユン=ミーマの暮らす家でも、そういった声はたびたびあげられていた。どうしてあんなに立派なライエルファム=スドラが、子を生すことも許されずに生きていかなければならないのか、と――時には、涙がこぼされることさえあったのだ。


 血族の温かい眼差しに囲まれて、ライエルファム=スドラは困惑の面持ちになっている。顔は皺くちゃのままであるのに、何だか幼子のように慌てふためいてしまっているようだ。ライエルファム=スドラのそんな姿を見ていると、彼と言葉を交わしたこともないユン=ミーマでさえ胸が詰まるような思いであった。


 そうしてその場で、ライエルファム=スドラとスドラ分家の女衆――リィ=スドラは婚儀の約定を交わすことになった。

 ユン=ミーマたちはそのさまを見届けてから、ミーマの集落に戻ることになったわけであるが。その道中も、ユン=ミーマは温かい心地のままであった。


 心正しき人間は、幸福になるべきであるのだ。

 ライエルファム=スドラが誰よりも心正しい人間であるというのなら、誰よりも幸福になってほしい。きっと血族のすべてが、そのように願っていたのである。だから誰もが、これほどに嬉しそうな顔をしているのだろうと思われた。


 それからスドラの家で婚儀が挙げられるまでの数日間、ユン=ミーマはずっと安らかな気持ちで過ごすことができた。

 余所の家で病人が出たり、男衆が森で手傷を負ったりと、不幸な出来事にも事欠かなかったが――それもまた、スドラの家に生まれた幸いを上回るほどの不幸ではなかった。灰色にくすんだ世界も、この数日だけはいくぶん明瞭さを増したように感じられたほどであった。


 そうしてやってきた、婚儀の祝宴である。

 スドラやミーマで婚儀を挙げるとき、おおよそはすべての家人がスドラの集落に集められる。このたびはスドラ本家の家長の婚儀であるのだから、もちろんそのように取り計られた。


 夜になり、婚儀の祝宴が始められると、花婿と花嫁があらためて姿を現し、人々に歓声をあげさせる。

 彼らは日中にもミーマの家を訪れて祝福を授かっていたが、かがり火の明かりに照らされる婚儀の衣装はそのときよりもさらに美しく思えてならなかった。


 ライエルファム=スドラは、ギバの頭がついた狩人の衣を肩から掛けている。

 リィ=スドラは、七色に輝く織物で全身を包み込んでいる。

 立派な飾り物などはすべて町で売ってしまった後であったが、それだけの衣装でもふたりは輝くような美しさであった。


「本当に、立派な姿だねぇ……ライエルファム=スドラが婚儀を挙げることができて、本当によかったよ……」


 ユン=ミーマのかたわらにたたずんでいた女衆が、静かな声でそのようにつぶやいた。

 かつて、ユン=ミーマの首飾りが父からの贈り物であるということを教えてくれて――その後に、ユン=ミーマの身を優しく抱きしめてくれた女衆である。

 彼女はユン=ミーマと同じ家で暮らしていたが、ユン=ミーマと同様にすべての家族を失った身だ。齢はまだ30にもなっていないはずであったが、彼女もまた老人のように皺深い顔をしていた。


 現在のユン=ミーマにとって、もっとも親しくさせてもらっているのが彼女である。

 ここ数日、ずいぶん身体の調子が悪そうであった彼女が、今はとても幸福そうな表情で微笑んでいる。それでユン=ミーマも、涙がにじむぐらい幸福な心地でいることができた。


 そして広場に集まった血族も、誰もが喜びの念をあらわにしている。

 ユン=ミーマが産まれた頃よりもずいぶん家人の数が少なくなり、祝宴だというのにアリアやポイタンも少しずつしか準備できていなかったが――それでも、今日という日の喜びをさまたげる理由にはならなかったのだった。


 まだ7歳のユン=ミーマには、婚儀というものがどれだけ幸福な行いであるのかも、よくわからない。

 ただ、集落がこれほどの喜びにわきかえるのを見るのは初めてであったし――草冠の交換や、若い女衆による求愛の舞というものも、これまで以上に厳粛な気持ちで見守ることができた。


「あんたも15歳を過ぎたら、誰かと婚儀を挙げることになるんだからね……その日を楽しみにしているといいよ……」


 そう言って、かたわらの女衆は優しくユン=ミーマの頭を撫でてくれた。


 そうしてミーマの集落に戻ったユン=ミーマは幸福な心地で眠りに落ち、幸福な心地で目を覚ました。

 ユン=ミーマと同じ寝所で眠るのは、伴侶を持たない2名の女衆だ。そのうちの1名が、もっとも親しくしている女衆であった。


「ああ、祝宴の次の朝ってのは、清々しいもんだねぇ。それじゃあ、朝の仕事を始めようか」


 そのように声をあげたのは、もうひとりの女衆である。ユン=ミーマがもっとも心を寄せている女衆は、まだ寝具に身を横たえたままであった。


「おや。いつもは真っ先に起きるのに、珍しいこともあるもんだね。ユン、起こしてあげておくれよ」


 ユン=ミーマは「うん」とうなずいて、その女衆の肩に手をかける。

 しかし、すぐさま手を引っ込めることになった。

 彼女の身が、朝方の水よりも冷たくなっていたのだ。


 もうひとりの女衆が、慌てた様子でその首もとに手の平を押し当てる。

 そして彼女は、悲しそうにうなだれながら首を横に振った。


「やっぱり駄目だったか……最近、調子が悪そうだったものね……でも、スドラの婚儀を見届けられたから、きっと幸福な心地で魂を返せたと思うよ」


 ユン=ミーマは、足もとの床がふたつに裂けたような心地であった。

 その下に広がる暗黒に落ちてしまわないように、戸板を開いて寝所を飛び出す。誰かが声をあげたようだが、それも聞き取ることはできなかった。


 広間には、誰の姿もない。

 ユン=ミーマは敷物の上を走り抜けて、履物も履かずに家の外へと飛び出した。


 世界は、灰色に濁っている。

 それをかきわけるようにして、ユン=ミーマはひたすら走り続けた。

 向かうべき場所があるわけでもない。ただ、その場に留まっていたら暗黒に呑み込まれてしまうという恐怖に衝き動かされてのことであった。


 そんなユン=ミーマの身が、ふいに背後から抱き止められる。

 耳のそばで響いたのは、さきほどの女衆の声であった。


「ユン、ひとりで集落を出てはいけないよ。それに……お前もあの女衆とは、仲良くしてたんだろう? それなら、しっかり弔ってあげないとね」


 その声は、慈愛と優しさに満ちあふれている。

 しかしユン=ミーマは、「はなして……」と答えるばかりであった。


「離さないよ。あたしだって、あんたとは大した血の縁を持っていないけれど……それでも、同じ家で暮らす家族じゃないか。あんたの悲しみは、あたしの悲しみでもあるんだよ」


「……いや」


「何が嫌なんだい?」


「……なかよくなっても、みんなさきにいなくなっちゃう。ユン、もうだれともなかよくしたくない」


「ああ……そんな寂しいことを言わないでおくれよ、ユン」


 温かい腕が、いっそう優しくユン=ミーマの身を抱きすくめてくる。


「そりゃあ仲良くしていた相手と死に別れるのは、つらいことさ。でも、誰とも仲良くしなかったら、余計に寂しい思いをするだけなんだよ。あたしたちはいつ何があってもいいように、今日という日を懸命に生きなければいけないのさ」


「でも……」


「あの女衆だって、ユンと仲良くなれたから、楽しい毎日を送ることができたんだよ。だからきっと、後悔なんてない。それなのに、自分のせいでユンの生が不幸になっちまったら……あの女衆は、悲しくてたまらないはずだよ」


 その身を包む温もりが、ユン=ミーマの恐怖を溶かしていく。

 しかし――そうして恐怖の念が消えていくと、世界はますます灰色に陰っていくかのようであった。


 もしかしたらこの灰色の影は、恐怖や悲しみや絶望をやわらげるための存在なのだろうか。

 では――喜びや嬉しさや希望というものも、同じぐらいぼやけていくのだろうか。

 そうしたら、最後にはいったい何が残るのか。幼いユン=ミーマには、それを想像することも難しかったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 第三十一章手前の資料、登場キャラクター一覧⑧のユン=スドラの説明文も出自は、眷族のリーマ家。となっていますが 眷属のミーマ家。が正確かと思われます。 第六十章、南の使節団の再来③~南の王都…
[良い点] ユン=スドラにこんな悲しい過去があったなんて卑怯やろ・・・続きはよ・・・
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