⑨滅びの夜
2014.11/16 更新分 1/1
2014.11/17 誤字を修正
「そうら、目を覚ませ、我が同胞たちよ!」
ダン=ルティムの豪快な掛け声とともに、水瓶の水が祭祀堂の内部にぶちまけられた。
それで正気を取り戻した何人かの男衆が、わめき声をあげて飛び起きる。
「何をするか! 貴様、気でも狂ったのか!」
その内のひとりが、鬼の形相で立ち上がった。
が、そのままよろけて、膝をついてしまう。
「うむ? 何だこれは……手足に力が入らぬぞ……?」
「そうであろうが? だから気つけに水を浴びせてやったのだ!」
ダン=ルティムは、愉快そうにガハハと笑った。
そうしている間にも、祭祀堂のあちこちで怒号や驚愕の声があがる。
四方に穿たれた祭祀堂の出入口から、ドンダ=ルウや女衆たちがダン=ルティムと同様の蛮行に励んでいるのだ。
俺とアイ=ファが拉致されてからもうそこそこの時間が経過していたので、メレメレの葉とかいう香草の効能もずいぶん薄れてきていたのだろう。予想していたよりもずいぶんとすみやかに我を取り戻して、各氏族の男衆たちは祭祀堂の中から這いずり出てきた。
「目を覚ました者は、祭祀堂の外に出ろ! そこには異国の毒草の煙が満ちておるぞ! 力のある者は、まだ眠りから覚めぬ者に手を貸してやれ!」
実に楽しげなダン=ルティムの姿を、俺はアイ=ファとともに静かに見守る。
アイ=ファの瞳にも8割がたは正気の光が戻っていたが、まだ足もとはおぼつかなかったので、俺が肩を貸している状態である。
「ルティムの家長よ! 貴様、どういうつもりだ!」
と、祭祀堂の中からまろび出てきた男のひとりが、ダン=ルティムにつかみかかる。
ザザ家の、家長だ。
「どうもこうもない! 理由だったら、お前の敬愛するスン家の人間に聞いてみよ!」
ダン=ルティムは不敵な笑みを浮かべつつ、自分の足もとを指し示す。
そこには、革紐で後ろ手をくくられたディガ=スンがふてくされきった顔つきであぐらをかいていた。
「こやつらは、異国のあやしげな毒草をもちいて俺たちを眠らせて、ファの者たちを害そうと目論んだのだ! お前もスンの眷族であるならば、恥辱をわかちあうがいい!」
「何だと? ……それはまことか、スンの長兄よ!」
野獣のように双眸を燃やし、ザザの家長がディガ=スンに詰め寄る。
ディガ=スンはびくりと肩を震わせてから、無言のままそっぽを向いた。
「この悪行がスン家の総意であるのか否か、これから族長たるズーロ=スンの弁明を聞きに行くのだ! すべての家長は、俺たちとともにその言葉を聞くがいい!」
ザザの家長は、わなわなと肩を震わせている。
そこに、金色の髪をびしょ濡れにしたラウ=レイが姿を現した。
「ダン=ルティム! これはいったい何の騒ぎなのだ!? スン家が、どうしたと?」
「おお、レイの家長か。いよいよスン家がその本性を現したのだ! 事と次第によっては刀を奮うことになるであろうから、しっかりと目を覚ましておけよ!」
と、ダン=ルティムは足もとに置いていた大刀をラウ=レイに差しだした。
ディガ=スンから取り上げた刀である。
男衆たちは、みんな刀をスン家に預けたままでいるのだ。
「馬鹿な! 族長筋に刀を向ける気か、貴様たちは!」
と、たちまちザザの家長が怒りの声をあげる。
ダン=ルティムは、余裕たっぷりにそちらを振り返った。
「たとえ族長筋といえども、掟を破れば裁かれねばならぬ。そうでなくては、森辺の秩序は守れぬであろう。……お前もいいかげんに目を覚ませ、ザザの家長よ」
「しかし……しかし、何故スン家がファの人間を害さねばならぬのだ!? スン家には、そのような真似をする理由がない!」
「だから、その理由を問い質そうとしておるのだ。いきりたつのは族長の弁明を聞いた後でもよかろうよ?」
そうこうしている間に、祭祀堂の中で眠らされていた人々も、あらかた脱出し終えたようだった。
その内の半分ぐらいはまだ夢うつつでぼんやりしていたが、もう半分の、ダン=ルティムの言葉を聞いていた人々は――ふつふつと狩人の眼光を燃やし始めている。
「……これでどうやら全員のようだな」と、暗がりの向こうからドンダ=ルウが近づいてきた。
その双眸も、野獣のごとく燃えさかっている。
「おお、ドンダ=ルウ。あの次兄めらはどうなったのだ?」
「今、ルドと何人かをそちらに向かわせた。本家の前で、合流だ」
「そうか。では、我々も行くとするか」
ダン=ルティムの太い指先が、ディガ=スンの襟首をひっつかむ。
「くそ! 放せ! 族長筋にこのような真似をして、ただで済むと思っているのか!? ザザよ、ジーンよ、何をぼけっとしているのだ! この無礼者どもめを、何とかしろっ!」
「あまり騒ぐな、スン家の長兄よ。今この場で1番頭にきているのは誰だと思っているのだ、お前は?」
半分笑い、半分呆れながら、ダン=ルティムがそう言った。
「それがわからぬと、お前は誰よりも早く同胞の手によってくびり殺されることになると思うぞ?」
「ひっ……」と、ディガ=スンが縮こまった。
ザザやジーンの家長たちの形相にようやく気づいたのだろう。
今この場で1番頭にきているのは、きっと彼らだ。
ドンダ=ルウやダン=ルティムなどは、ついに訪れた決着の刻に昂ぶり、激しているばかりである。
族長筋の尊厳を汚されて、腹の底が焼けただれるような憤怒を味わされているのは――きっとスン家の眷族たちなのだ。
「よし。……氏族の長たちよ、立ち上がれ! 森辺の絆と信頼を踏みにじったスン家の家長に、ルウ家の家長ドンダ=ルウが真意を問い質す! スン家に族長筋たる資格があるか否か、自分たちの目と耳でしかと見極めるがいい!」
ドンダ=ルウの咆哮が、闇夜に轟く。
それで地べたにうずくまっていた男たちも、よろよろと立ち上がった。
狩人の目が、あちこちに光っている。
「……歩けるか、アイ=ファ?」と呼びかけると、アイ=ファはとても不服そうに唇をとがらせていた。
「何とかな。……しかし、アスタやダン=ルティムはすっかり力を取り戻しているのに、どうして私だけが、いまだにこのようなざまなのだ」
何とか自分の足で立ててはいるものの、まだアイ=ファはぐったりと俺の肩にもたれかかったままだった。
「それはきっと、果実酒か何かを飲まされたせいだと思うよ。意識を戻すのには効果的だったかもしれないけど、睡眠薬と酒なんて、普通だったら最悪の組み合わせだからな」
「くそ、ぶざまだ」と、アイ=ファが八つ当たりのように頭をぐりぐりと押しつけてくる。
そのとき、長身の人影が、俺たちの前に立ちはだかった。
ダルム=ルウだ。
そちらもまだ完全には回復しきれていないのか、ルティムの次兄に肩を借りている。
「何だ? また私をぶざまだと笑いに来たのか? ……今日はそちらも大差のない姿であるようだが」
たぶん相当に不機嫌であるらしいアイ=ファは、珍しく自分からそのように挑発的な言葉を吐いた。
ダルム=ルウは、ただギラギラとその双眸を物騒な感じに燃やしている。
ただ、気のせいか、その右頬に刻まれた大きな古傷が、彼の怒りや無念をあらわすかのように、いつも以上に赤く浮きあがっているように感じられた。
「どうも果実酒を大量に飲んでいた者ほど、回復が遅いように感じられますね。私などは一滴も飲めぬ無調法であったためか、水をかけられた瞬間に跳び起きてしまいました」
容姿はガズラン=ルティムに似ているが、もう少し恰幅がよくて父親似のルティム家の次兄が、取りなすようにそう言った。
「では、参りましょう。どのような結末になるかはわかりませんが、この夜でスン家の行く末は大きく変わり果てるはずです」
そうして俺たちは一丸となってスンの本家へと足を踏み出した。
ドンダ=ルウを先頭に、ディガ=スンを引きずったダン=ルティムが続き、その左右を、ラウ=レイたちルウの眷族らが固めている。
一歩遅れて続くのは、ドムやザザの家長たち。
その周囲を囲むのは、きっとその他のスンの眷族たちだろう。
サウティを始めとする小さな氏族の長たちも、もちろん全員がついてきている。
それらの人々の瞳には、ひとしく怒りと不審の火が燃えていた。
本当にスン家が、自分たちの絆を踏みにじるような真似をしたのか?
どうしてそのような蛮行に及んだのか?
あるいは、すべてがファやルウによる狂言なのではないか?
気持ちは、きっとさまざまだろう。
しかし、誰もが怒り狂っている。
異国のあやしげな毒草によって、眠りを強要されていたなどという屈辱的な行為が、狩人たちに許せるはずもない。
そしてそれ以上に、同胞たる人間をかどわかして、その生命を脅かす、などという行為が許せるはずもないのだ。
「よお、遅かったな、親父?」
本家の前では、ルド=ルウたちが待ちかまえていた。
ルド=ルウとシン=ルウ。革紐で手足を縛られたドッド=スンとテイ=スン。
そして――ヤミル=スン。
ヤミル=スンは、昼間と同じ森辺の装束に身を包んでいたが、その髪はぐっしょりと濡れそぼっていた。
水浴びか何かで身を清めたのであろうが、この距離でもうっすらと鉄くさい匂いが感じ取れる。
ヤミル=スンは拘束されておらず、ただ、ルウとルティムの女衆らにしっかりと囲まれていた。
その面には、何の表情も浮かんではいない。
「……聞け、氏族の長たちよ!」と、ドンダ=ルウが再び咆哮をあげた。
「このたびの家長会議において、スン家の家長ズーロ=スンは、ファの家にかまど番を申しつけた! それがあまりに胡散臭い申し出であったため、俺は自分の息子たちにスンの集落を見張らせていたのだ! 事実、スン家は悪逆な真似に及んだのだから、俺を不実と罵る者もおるまい! いたところで、俺はいっこうにかまわんがな!」
誰よりも激しく燃えるドンダ=ルウの双眸が、闇夜にたたずむ同胞たちの姿を見渡していく。
「スン家に一族を導く資格があるか否か、俺はこの夜に見定める心づもりだ! 貴様たちも、心してズーロ=スンの言葉を聞くがいい! 聞いて、己の眷族の行く末を定めよ!」
ついに、ここまで来てしまった。
ズーロ=スンの返答ひとつで、スンとルウは全面戦争に突入してしまうかもしれない。
ザザやジーンがスン家を見捨てれば、森辺を二分するような大きな戦にはならないだろうが――いったい、どうなってしまうのだろう。
ドンダ=ルウはルド=ルウを招き寄せて、その手に握られていた大刀を受け取った。
きっと、テイ=スンとドッド=スンの刀であろう。
もう1本は、ダン=ルティムの手に託される。
たちまち色めきたつスンの眷族たちを、ドンダ=ルウはじろりとにらみつけた。
「スンの人間が刀を抜かぬ限り、俺もこの刀は抜かぬと誓おう! スンの人間が血を求めぬ限り、この夜に血が流れることはない!」
そしてドンダ=ルウは、本家の戸を強く叩いた。
ぎょっとするような手早さで、戸板は内側から、すうっと開かれる。
「……このような夜更けに、何事でありましょうか……?」
感情の欠落した、女衆の声。
美しい女性が、そこに立っていた。
美しいが――腐った魚のような瞳をしている。
褐色の髪。
青い瞳。
泥人形のように表情のない、美しい顔。
年齢は、20代の後半ぐらいであろうか。既婚の証したる一枚布の装束を纏い、髪も短めである。
そして――その足もとには、いつのまにやら姿を消していたツヴァイ=スンが、きわめて不機嫌そうな顔つきでしっかりとしがみついていた。
「貴様たちは、何者だ?」と、ドンダ=ルウが目を細めてその2名の姿を見比べる。
「私は家長ズーロの嫁、オウラ=スン……こちらは私の娘、末妹のツヴァイ=スンです……あの、いったい何事でありましょうか……?」
「俺はルウ家の家長、ドンダ=ルウだ。スンの家長に、ドンダ=ルウが対面を求めていると告げてもらおうか」
「はあ……しかし、今は眠りの刻限でありますが……」
「ほう?」と、ドンダ=ルウは野獣のように笑う。
「悪いが、この夜のズーロ=スンに安穏とした眠りは許されない。本家の長兄と、次兄と、長姉と、分家の男衆、4人もの眷族が森辺の掟を犯したのだ。家長には、眷族の罪を贖う責があろう」
「……はあ……」
まったく心を動かされた様子もなく、オウラ=スンと名乗った女性は生気のない瞳で俺たちの姿を見回していく。
最後に、その澱んだ目が地面に転がされたテイ=スンの姿をとらえ――ほんの少しだけ、ゆらめいた。
灰色の頭を赤く染め、地面に力なく横たわったテイ=スンも、同じような目つきでオウラ=スンの姿を見返している。
「……わかりました……ツヴァイ、家長をここに……」
「いいの、オウラ母さん?」と、ツヴァイ=スンは白目のめだつ大きな目で母親を見上げやる。
「いいのよ……もう、いいの……」
「わかった」と、ツヴァイ=スンは家の中に駆け戻っていく。
やがて、ズーロ=スンが現れた。
末弟の、ミダ=スンを引き連れて。
「いったいどうしたというのだ、ルウの家長よ? このような夜更けに他家を訪れるのは、あまりに非礼ではないか……?」
水にふやけたヒキガエルのような、うすら笑い。
だらしなく弛緩した、顔と身体。
誰よりも数の多い、牙と角の首飾り。
オウラ=スンは横に退いて、ドンダ=ルウの正面を家長に譲った。
ズーロ=スンの後からのそりと出てきたミダ=スンが、「あれえ?」と甲高い声をあげる。
「ディガとドッドだ……ねえ、ディガとドッドが縛られちゃってるんだよ……?」
「ふむ……これはますます非礼な行いであるな……」
「非礼だと? お前はそこの娘から、すでに一通りの話は聞いているのではないか、ズーロ=スンよ?」
そう応じたのは、ダン=ルティムである。
その娘、ツヴァイ=スンは、入口に立ちはだかったミダ=スンの太い足を邪魔そうに蹴り飛ばしてから、再び母親の足に取りすがった。
家長のズーロ=スン。
その嫁である、オウラ=スン。
末妹の、ツヴァイ=スン。
末弟の、ミダ=スン。
ふてくされた顔であぐらをかいた、長兄のディガ=スン。
まだ意識を失ったままであるらしい、次兄のドッド=スン。
そして――ひとり離れた場所で静かに立ちつくす、ヤミル=スン。
すでに老齢であろうと思われる先代家長を除き、ここにスン本家の人間たちが勢ぞろいしていることになる。
アイ=ファに肩を貸した態勢のまま、俺はごくりと生唾を飲み下す。
「話……話というのは、ディガとヤミルが、ファの家長とかまど番に嫁取りと婿取りを申し入れた一件のことであるのかな……?」
ツヴァイ=スンは、そんなことまで盗み聞きしていたのか。
あるいは、ズーロ=スンにとっても既知の行いであったのか。
何にせよ、家長会議に参加したすべての男衆が集結し、ぎらぎらと双眸を燃やしているこの状況で、ズーロ=スンにはまったく怯えた様子もなかった。
「その話ならば、事前にディガたちからも聞いていた……まあ、まさかこのような家長会議の夜にそれを行うとは思ってもいなかったが……」
「ほう。ならば、このたびの悪逆な振る舞いも貴様は容認していたと認めるのか?」
いっそう勇猛に笑いながら、ドンダ=ルウはそう述べたが、ズーロ=スンは「……悪逆?」と、たるんだ首を傾げやった。
「悪逆とは、何のことだ……そのような話に、覚えはないが……?」
「ならば、聞かせてやろう。この痴れ者どもは、異国の毒草をもちいて祭祀堂にいた人間たちを眠らせたあげく、ファの家長とかまど番を腕ずくでかどわかそうとしたのだ。そして、婿取りを断ったかまど番には刀を向け、手足を縛ったファの家長を嬲りものにしようとした。……相違ないな、ファの家長にかまど番よ」
アイ=ファは無言のままうなずき、俺も「はい」と返事をする。
しかし、ズーロ=スンのうすら笑いは消えなかった。
豪胆なのか、鈍いだけなのか――どうしても、後者のように感じられてしまう。
「刀を向けたとはまた穏便でない言い様であるな……いったい誰がそのような不始末を犯したと……?」
「本家の次兄と、その隣りに転がっている分家の男衆だ」
「ふむ……ドッドは、酒精に弱い性であるからな……」
と、ズーロ=スンはいっそう口の端を吊り上げる。
「大事な長姉の婿取りを断られて、つい取り乱してしまったのであろう……まったく申し訳ないことだ……」
「申し訳ないで済むと思うのか、ズーロ=スンよ? 異国人とはいえ、このかまど番はファの家の家人だ。そして、止めに入った俺の息子も、このように手傷を負わされている。ただ刀を抜いただけに留まらず、貴様の息子たちは森辺の同胞の生命を脅かしたのだ!」
頭に包帯代わりの布を巻きつけたルド=ルウが、ちょっぴり不満げに「ちぇっ」と舌を鳴らす。
「宿場町やルティムの祝宴においても、そこの次兄めは刀を抜いた。そして、このたびはついにその刀を同胞に振り下ろしたのだ。こればかりは、頭を下げて許される振る舞いではあるまい?」
「ふむ……では、掟に従って、右腕を差し出すべきだ、とでも……?」
「右腕だけで済む話か、これが?」
いよいよその双眸を業火のごとく燃やしつつ、ドンダ=ルウが壮烈な笑みを浮かべる。
そして、後ろのほうから人垣をかきわけてきた大柄な人物が「その通りだ!」と怒声を張り上げた。
「スンの次兄らは、ただ刀を抜いたのみならず、我々をも毒草で害そうとした! スンとルウを除くすべての森辺の家長に害をなしたのだ! これほどの罪が、右腕1本で済まされるものか!」
それは、サウティの家長であるダリ=サウティであった。
朴訥した顔が、怒りと屈辱で朱に染まっている。
ズーロ=スンは――ほんの少しだけ、眉尻を下げた。
「その毒草とは、何のことであるのかな……祭祀堂にいた人間を眠らせた、と言っていたようだが……?」
「東の国の呪術師から買った、メレメレという香草だそうです。これだけの量を買うのに白銅貨5枚もかかったと自慢げに語っておられましたよ、ご子息たちは」
そう応じたのは、俺だった。
こればかりは、直接に聞いた俺が言うべきだろうと思ったのだ。
「ふむ……それは、人間を眠りに誘う香草である、と……?」
「ええ。その香草を焚いた煙を嗅がせ続ければ、腹を裂いても眠りから覚めることはないそうですよ」
「なるほどな……しかし、ただ人間を眠らせるだけの香草が、毒の名に値するのであろうか……?」
と、ズーロ=スンの目が、初めてしっかりと息子の姿をとらえる。
ディガ=スンは、得たりとばかりに口もとをねじ曲げた。
「メレメレの葉は、苦しみもがく人間を楽に眠らせるための香草だ! 半日ばかりも嗅がせてりゃあ、人間の魂そのものを眠らせる羽目になっちまうらしいが、あれっぽっちの量で毒になることはない! そうでなきゃ、俺たちだって森辺の同胞に嗅がせようだなんて思わねえよ」
「黙れ! 今はそのようなことを取り沙汰しているのではない!」
ダリ=サウティが、激昂しきった声をあげる。
「肝要なのは、お前たちがそのように悪逆な手段をもちいた、ということであろうが!? 我々を騙し、あざむいたあげく、腕ずくでファの人間をかどわかし、無茶な嫁取りを申し入れ、それを断られたら生命を奪う、などと――そのような無法が、森辺で許されるか!」
「そのような真似は、決して許されぬ……ディガよ、お主はいったいどのような心づもりであったのだ……?」
ダリ=サウティの剣幕に青ざめかけていたディガ=スンは、父親の言葉によってまた醜悪な笑顔を取り戻す。
「もちろん、本気で生命を奪う気なんてなかったよ。俺もドッドも酔っ払っていたから、ついつい心にもないことを言っちまっただけさ」
「ふーん? だけど次兄とそこのおっさんは実際に刀を抜いたよな。で、アスタと俺たちを殺そうとした。そこのところは、どんな風に言い訳をするつもりなんだ?」
ルド=ルウの言葉に、ディガ=スンはいっそうにたにたと笑う。
「知らねえなあ。俺はその場にいなかったんだからよお。酔った勢いで刀を抜いちまっただけなんじゃねえかあ?」
「ああ、お前さんは手足を縛ったアイ=ファを嬲りものにしようとして、それに失敗しただけだもんな」
ルド=ルウは憮然と肩をすくめやり、またダリ=サウティが身を乗りだす。
「それとて、刀を抜くのと同じぐらいの禁忌であろう! お前は2年前にも同じ禁忌を破り、今後は2度と同じ過ちを犯さぬと誓った上で許されたのではないか、スンの長兄よ!」
「だ、だから今回は嫁取りの申し入れだって言ってんだろお? そんな風にぎゃんぎゃん責められる覚えはねえよお」
「馬鹿な……毒草で眠らせて、手足を縛り、嬲りものにしようとする、そんな嫁取りの儀など、森辺には存在しない!」
「……へっ。女衆なんてのはどんなに嫌がっても、身体を重ねちまえば言うことを聞くようになるんだよ」
もちろん俺は反射的に足を踏み出しそうになったが、アイ=ファに頭を小突かれてそれを制されてしまった。
「頭に血を昇らせるな。どの道あのような戯言で言い逃れのできるような話ではない」と、低く潜めた声を耳の中に注ぎこまれる。
だけど、本当にそうなのだろうか?
ならば何故、ズーロ=スンもディガ=スンもこのように余裕しゃくしゃくなのだろう。
道理のわかっていなそうなディガ=スンはさておき、己の保身を何よりも重んじていそうなズーロ=スンがこのように笑い続けているのは、不気味だ。
「――おい! 何だ、貴様たちは!」と、そこでいきなり鋭い声があがった。
叫んでいるのは、ラウ=レイである。
俺たちを取り囲んでいた他の男衆たちも、ざわつき始める。
その人垣を、さらに外側から取り囲もうとする集団が現れたのだ。
人数は――30人ばかりもいたであろうか。
この暗がりで、俺の視力では、ただの黒い人影としてしか認識できない。
しかし、この集落で俺たちの他に存在するのは、スンの分家の人間のみである。
だからそれは、分家の人間たちなのだろう。
人数的にも、平仄は合っている。
「ほう……ズーロ=スンよ、貴様は刀によって決着を着けようという心づもりであるのか?」
ドンダ=ルウが、刀の柄に手をかける。
しかし、ズーロ=スンは初めて抑制を失った声でそれに応じた。
「だ、断じてそのようなことはない……このような夜更けに騒ぐから、分家の者どもがいぶかしんで様子を見に来ただけであろう……た、短慮を起こすでないぞ、ルウの家長よ……?」
「ふん、どうだかな」と、ドンダ=ルウは凶悪な感じに口もとを歪ませる。
スンの分家の30人中、男衆は半数ていどであろう。頭数なら、ルウの眷族も負けていない。
しかし、こちらで刀を有しているのは、ドンダ=ルウを筆頭に5名のみだ。
そして、いざ戦端を開いてしまえばドムやザザなどスンの眷族たちがどう動くかもわからないし、おまけにこの場にはルウの女衆たちもそろってしまっている。
この場でまだ情勢も定まっていないうちに荒事になるのは、絶対にまずい。
そんなことは俺以上に熟知しているはずのドンダ=ルウは、ルド=ルウに「おい」と呼びかけた。
「ルド、貴様は女衆のもとに行け。絶対にこちらから手は出すなよ?」
「了解」と、ルド=ルウも狩人の眼光になりつつ、家族のそばに駆け戻っていく。
「さて。それではどのように決着を着けるつもりなのか聞かせてもらおうか、ズーロ=スンよ? まさか、頭を下げるだけでこれほどの罪が許されるなどと思っているわけではあるまいな?」
「うむ……では、あくまでもしきたりに従って罪をつぐなうべしと言うつもりであるのかな、ルウの家長は……?」
と、うすら笑いを復活させて、ズーロ=スンはそう応じた。
「ドッドとテイ=スンは、森辺の同胞を刀で傷つけた。ディガは、女衆を嬲りものにしようとした。本来であれば、ドッドとテイ=スンは己の右腕を差し出すべきであり、ディガは……ディガは、どうなのであろう? けっきょくファの家の家長は純潔を汚されたわけでもないようだが?」
「それはファの家長がたまさかそこの下衆よりも果敢であったというだけだろうが。しきたりを重んじるならば、一物を差し出せ」
ドンダ=ルウは、苛立しげに吐き捨てる。
「そして、こやつらの罪はそれだけではあるまい。森辺の同胞をあざむき、毒草で害した罪は何とするつもりだ?」
「それはこちらが聞きたいぐらいの話であるな。身体の害になるわけでもない香草を焚いた罪とは、いったいいかなる重さであるのか……否、そもそもそれは森辺の掟に反する行為なのであろうか……?」
「同胞をたばかりあざむくのは禁忌だろうが!」
「ディガたちがいつ同胞をたばかったのだ? ……息子たちは、余人に邪魔されず嫁取りの話を進めるために、安楽な眠りを捧げただけであろう……?」
ダリ=サウティが、無言でズーロ=スンに詰め寄ろうとする。
その大きな身体を、ドンダ=ルウが片腕で制する。
「ならば、次兄と分家の男衆の右腕と、長兄の一物を捧げて、罪を贖わせようというつもりなのか、ズーロ=スンよ? 貴様の息子どもに、それほどの気概があるとはとうてい思えんがな」
「いにしえのしきたりを重んずるならば、それが正しき道なのであろう」
ズーロ=スンが、にたーっと笑う。
「しかし、ルウの家長がそのように古いしきたりを重んずるならば……息子たちの罪を問う前に、まず為すべきことがあるのではないのかな……?」
「何だと?」
「ルウの眷族とファの眷族にも、しきたりを守らせるべきであろう、と言うておるのだ……」
そうして、ズーロ=スンの脂っこい目が、俺のほうに差し向けられてきた。
「ファの家のかまど番よ……お主は、我が娘ヤミルに婿取りの申し入れをされたのであろう……?」
俺は無言で、その薄気味悪い笑顔をにらみ返す。
もしかしたら……という不愉快な疑念が、俺の胸を圧迫し始めていた。
もしかしたら、それがこの悪辣なる男の切り札であったのだろうか?
そんな馬鹿げた、くだらない手管が?
「そのとき、もしかしたら、ヤミルはいにしえの儀式に取り組んでいたのではないのかな……ギバの血を己の力とする、いにしえの儀式にな……」
「…………」
「……そうであれば、ヤミルは、裸身であったはずだ……」
「ズーロ=スン、貴様……」と、ドンダ=ルウが地鳴りのような声をあげる。
「そして、ルウの家長よ、お主の息子たちは物陰からこのファの家のかまど番を見守っていたそうだな……ならば当然、窓からでもヤミルの姿を覗き見ていたのではないか……?」
さらにズーロ=スンは、ドンダ=ルウのかたわらにたたずむダン=ルティムのほうにまで目線を飛ばす。
「それに、ルティムの家長よ……お主は、ディガの家の戸を蹴破り、主の案内もなくその内へと踏み込んだそうだな……?」
「それがどうした」とダン=ルティムも憤怒の形相になりつつある。
もう、誰もがズーロ=スンの言わんとしていることを理解しているようだった。
「他家の家に無断で踏み込むのもまた禁忌であろう……ならば、ヤミルの裸身を目にした者は片方ずつの目玉を差し出し、ディガの家に踏み込んだ者は足の指を1本ずつ差し出すべきではないのか……?」
「ふざけるな! ならば2年前にファの家に勝手に踏み込んだそこの下衆めの罪は何とするつもりだ!?」
「だからそれは、我とディガが頭を下げることによって許されたのではないか……もちろん我とて、そのように古いしきたりを重んじて同胞に血を流させるのは本意でない……」
「そういうことか」と、ドンダ=ルウがつぶやいた。
荒ぶる鬼神の笑顔である。
「次兄らの右腕を欲するなら、こちらも目玉と足の指を差し出せと、つまりはそう言いたいのだな、ズーロ=スンよ」
「……むろん、そのように無為な血が流れぬことをこそ、我は望んでいる……」
「何を言っているのだ、貴方は!」と、ダリ=サウティが叫んだ。
「悪逆な真似をはたらこうとしたのはスンの人間だ! ルウやルティムやファの人間は、それに抗ったに過ぎない! それなのに、なぜ目玉や足の指を差し出さねばならぬのか!」
「森辺の掟とは、そういうものだ……しかしこれは、先人たちの定めた古きしきたりであろう……それを愚直に守ることだけが唯一の正しい道ではないと、我は考えている……」
「だから、そういう問題ではなかろう! 我々は、スンの長兄らの恥ずべき行為を許せない、と述べているのだ!」
「恥ずべき行為……しかし実際に、ドッドは誰の生命を奪ってもおらず、ディガは誰の純潔も汚していないではないか……?」
「それはドンダ=ルウも言っていた通り、ファやルウの人間たちが果敢であったからだ! もしも彼らに力がなかったら、許し難い悪行は完遂されていた!」
「完遂されていたならば、ディガたちも生命をもって罪を贖うしかなかったであろうな……」
水掛け論だ。
ダリ=サウティは、怒るのを通りこして、呆然としてしまっていた。
「貴方は正気なのか、族長よ? ……それが貴方の真意であるならば、我々はもう貴方を族長と見なすことはできない」
「ほう? それは何故かな、サウティの家長よ? ……確かにディガやドッドはまだ感情を抑制できぬ未熟者であるが、実際に同胞を殺めたり、女衆を嬲りものにしたわけではない。息子たちが本当にそのような罪を犯そうとしていたかどうかは、誰にもわからぬことではないか……?」
そうしてズーロ=スンは、濁った眼差しでドンダ=ルウを見つめやった。
「見るがいい。ルウの家長は、このような憎悪の目で、我を見ている……もしかしたら、我の生命を脅かそうと考えているのやもしれん……しかし、その手の刀が我の身体に振り下ろされぬ限り、ルウの家長の罪を問うことはできぬであろう……つまりは、そういうことなのだ……」
「そんな言葉は、言い逃れにしか聞こえない! 族長筋として、貴方は森辺の民に規範を示すべきであろう!」
「ふむ……ならば、おたがいに血を流すしかないのであろうかな? ……それはまことに無念なことだ……」
そんな言葉を吐きながら、ズーロ=スンはちっとも無念そうに見えなかった。
もしかしたら――それでもこの男は、本音で語っているのかもしれない。
口先三寸で丸く収めることが不可能なら、ディガ=スンたちの身柄を差し出すしかない、と。
ディガ=スンと、ドッド=スンと、テイ=スンと、ヤミル=スンと――その4名の生命をもって、スン家の安寧を守るつもりなのかもしれない。
そうとでも考えないと辻褄が合わないぐらい、ズーロ=スンは危機感のない顔で笑っていた。
胸のむかつきを抑えながら、その息子たちのほうを盗み見る。
ディガ=スンは、何も理解できていない様子でへらへらと笑っていた。
ドッド=スンは、いまだに意識を失ったままのようだ。
テイ=スンは、濁った瞳で虚空を見つめ、死人のように横たわっている。
ヤミル=スンは、相変わらずの無表情。
俺にとっては、許し難い罪人たちだ。
テイ=スンとヤミル=スンに関しては、少なからず思うところもあるが――それでも、罪は罪である。
だけど、ズーロ=スンにとっては、血をわけた家族なのではないか?
仮にこれがディガ=スンたちの暴走であったとしても、もっと必死に庇おうという心持ちにはなれないのか?
家族の生命よりも、己の安寧が大事なのか?
いったいこの男の濁った瞳に、世界はどのように映っているのだろう。
「……それが貴様の答えなのだな、ズーロ=スンよ」
ドンダ=ルウが、じりっと足場を整える。
それと同時に、今までぼけっと立ちつくしていたミダ=スンが「だめだよ……」と、つぶやいた。
「森辺の民は、森辺の民を傷つけちゃいけないんだよ……?」
つぶやきながら、ミダ=スンがその腰の棍棒に手を伸ばす。
ドンダ=ルウも、大刀の柄に手をかけた。
ズーロ=スンは、いくぶん笑顔を引きつらせつつ、じわじわ後ずさろうとしている。
「……決して私から離れるなよ、アスタ」と、アイ=ファが低くつぶやいた。
俺の首に巻きつけていた右腕をほどき、ほんの少しだけ腰をかがめる。
俺の視界に入るすべての男衆が、臨戦態勢を整えていた。
交渉は――決裂してしまったのだ。
どうあっても、ズーロ=スンは自分の非を認める気はないのだろう。
家族を切り捨ててでも、自分だけは助かろうという心づもりなのだ。
そんな性根が、ドンダ=ルウに許せるはずもない。
たとえ叛逆者の汚名を浴びようとも、「自分から刀は抜かない」という誓いを破ってでも、この場でズーロ=スンを切り捨てるだろう。
それだけの覚悟が、ドンダ=ルウの双眸には灯っていた。
ついに、ぎりぎりの際まで、来てしまったのだ。
俺は、半瞬だけ煩悶し、そして叫んだ。
「待ってください! いにしえの掟を重んずるならば、スン家にはまず真っ先に贖わなくてはならない罪があるのではないのですか!?」
今にも抜刀しかけていたドンダ=ルウの肩が、ぴくりと震える。
「アスタ……?」と不審げに顔を寄せてくるアイ=ファにうなずき返してから、俺はさらに言う。
「俺の記憶では、それは頭の皮を剥がされるぐらいの大罪であったはずです。その罪を贖わない内に他者の罪を問う資格が、あなたたちにあるのですか?」
「何を……何を言っているのだ、お主は……?」
ズーロ=スンのふやけた顔から、ヒキガエルのような笑みが消失していく。
その後に浮かんだ恐怖の表情で、俺は自分の想像が現実であったことを確信できた。
もしかしたら、俺の言葉こそがより多くの血を流させる結果になるかもしれない――そんな思いに背筋を震わせながら、それでも俺は断罪の言葉を叩きつけた。
「俺の言葉を否定したいなら、このスンの本家の食糧庫を見せてください。……俺が要求するのは、それだけです」
その瞬間。
狂ったような哄笑が、爆発した。
ヤミル=スンである。
ルウやルティムの女衆に取り囲まれたヤミル=スンが、咽喉をのけぞらして笑っていた。
「あなたは何を言っているの? どうしてわたしたちが頭の皮を剥がされなくてはならないの? これは、族長筋に対する誹謗だわ!」
「そ、そうだ、誹謗だ! ……己の身の可愛さに、わけのわからないことを言いおって……」
たちまち安堵の表情を取り戻しそうになったズーロ=スンであるが、それはより大きな驚愕と絶望に打ち砕かれることになった。
「許し難い屈辱だわ! わたしたちにそのような誹謗を受けるいわれはない! 嘘だと思うなら、いくらでもその目で確かめてみればいいじゃない?」
「何を言ってるんだ! 気でも違ったのか、ヤミル!?」
そんな風にわめいたのは、ズーロ=スンではなくディガ=スンだった。
その顔も、父親と同じぐらい蒼白になっている。
「どうしたの? みんな何をそんなに青い顔をしているの? わたしたちは、清廉潔白の身でしょう?」
そうして、ギラギラと輝くヤミル=スンの目が、石像のように立ちつくしていたオウラ=スンのほうに向けられる。
「さあ、オウラ! ツヴァイでもいいわ! 食糧庫のかんぬきを開けてあげなさい! そうしてわたしたちの無実を証明するのよ!」
ツヴァイ=スンは、惑乱しきった目つきで母親の顔を見上げやった。
オウラ=スンは、どろりと濁った瞳を、まぶたの裏に隠してしまう。
「そうね……そうするべきなのね、ヤミル……?」
「そうよ! そうするべきなのよ!」
オウラ=スンが、きびすを返そうとした。
そのほっそりとした肩を、ズーロ=スンがわしづかみにする。
「やめろ! いったいお主たちは……お主たちは、どういうつもりなのだ!?」
「……放してください……」
「誰が放すか! そんなことは……家長の我が、絶対に許さぬ!」
ズーロ=スンの太い指先が、妻の肩にめりこんでいく。
オウラ=スンは「ああ……」と悲痛な声をあげ、ツヴァイ=スンは、「何をするんだヨ!」と、わめき声をあげた。
ドンダ=ルウが、足を踏み出す。
しかし、それよりも早く、ミダ=スンの指先が父親の腕をつかみやった。
「だめだよ……家族を傷つけるのも、いけないことなんだよ……?」
めきめきと骨の軋む音色とともに、ズーロ=スンが女のような悲鳴をあげる。
その指先から解放されたオウラ=スンは力なく地面にへたりこみ、ツヴァイ=スンの顔を見つめた。
ほんの少しだけ光が戻り、涙のにじんだ瞳で。
「ツヴァイ……食糧庫のかんぬきを……」
「……わかった」と、ツヴァイ=スンが戸板の向こうに消えていく。
それと同時に、ヤミル=スンがまた悪魔のような笑い声をあげる。
「さあ! その目で確かめるがいいわ! もしもこれであなたの言葉がいわれのない誹謗だと証しだてられたときは、目玉や足の指では済まさないわよ、ファの家のアスタ!」
「何なのだ、あの女衆は? 本当に狂ってしまったのか?」
太い眉をこれ以上ないぐらい不快げに寄せながら、ダン=ルティムが俺を振り返る。
「そして、アスタが何を言っているのかもさっぱりわからん。もしかしたら、あの女衆の策略にはめられてしまったのではないか?」
「いいえ、そうではないと思います。……だったら、ズーロ=スンがあのように取り乱すとも思えないので」
俺は、ドンダ=ルウのほうに目線を転じる。
「食糧庫に行きましょう。スンの分家には注意したほうがいいと思います」
ドンダ=ルウはしばらく無言で俺の顔を見つめやってから、やはり無言のまま、きびすを返した。
ラウ=レイたちルウの眷族がディガ=スンやドッド=スンらを引き起こす。
ディガ=スンは、惚けたように表情を弛緩させてしまっていた。
ドッド=スンは、まだ意識を失ってしまっている。
そして、テイ=スンは――さきほどのオウラ=スンと同じように、固くまぶたを閉ざしていた。
「ミダ=スン。そのままズーロ=スンと一緒に来てもらえますか?」
俺の言葉に、「うん……」と、ミダ=スンは頬肉を震わせる。
「食糧庫がどうしたの……? もう朝までは何も食べちゃいけないんだよ……?」
「そうですね。だから、中身を確認させてもらうだけです」
そうして俺たちは、家の裏手に移動した。
家長会議に参加した男衆、かまどの番の女衆、スンの本家の人間たち、スンの分家の人間たち――総勢で100名以上にも及ぶ大人数である。
まだその大半は何が起きたのかも理解しておらず、無言のまま同胞たちと顔を見合わせている。
そんな俺たちの目の前で――食糧庫の戸板が、内側から開かれた。
地獄のように不機嫌そうな顔をしたツヴァイ=スンが外に出てきて、また母親の足に取りすがる。
ルウの眷族のひとりが、食糧庫の内部に燭台の火をかざした。
「これは――ッ!」と、誰かが驚愕の声をあげる。
そこには、俺が想像していた通りの情景が広がっていた。
色とりどりの果実と野菜。
見たことがあるものもあれば、見たことがないものもある。
戸のない棚にぎっしりと詰め込まれた、それは――
西の都から収穫を禁じられた、モルガの森の恵みに他ならなかった。
「……そういうことだったのか」と、ドンダ=ルウが低くつぶやく。
そして。
オオオオオオ……という詠唱のような声音が、ふいに夜闇を震わせ始めた。
「何だ? 何事だ!?」と、ダン=ルティムが目線を走らせる。
声をあげているのは、いずれもスンの分家の人間たちであるようだった。
男衆も、女衆も、幼い子どもも、老人も――その全員が地面に膝をつき、悲哀に満ちみちた声をあげている。
「お許しください……」
「わたしたちは、禁忌を犯しました……」
「禁忌を犯して、森の恵みを荒らしてしまいました……」
そして、俺たちの目の前でも、オウラ=スンが力なく膝を折っていた。
「これがスン家の罪です……ですが、どうか分家の人間たちには、ご慈悲を……彼らは、本家に定められた邪な掟を守らされていただけなのです……」
オウラ=スンの美しい顔は、涙に濡れていた。
きっと分家の人々も、それは同様だっただろう。
ある者は地面に突っ伏し、ある者は頭をかきむしり、ある者は手近な人間の身体に取りすがり――彼らはいずれも身も世もなく泣きくずれてしまっていた。
「ちょ、ちょっと! あんた、しっかりしなってば!」
慌てふためいた少女の声が、ひときわ高く夜闇に響く。
ララ=ルウである。
そのほっそりとした身体に、さらにほっそりとした少女はすがりつき、泣き声をあげている。
ごめんなさい、ごめんなさい……と。
それはどうやら、ともにギバ・スープをこしらえたトゥール=スンという少女であるようだった。
「馬鹿な……スンの人間の全員が、そんな大きな禁忌を犯していたというのか……?」
ザザの家長が、まるであちこちからあがる慟哭の声に怯えるかのごとくその巨体を震わせながら、力のない声でつぶやいた。
森の恵みを口にする。それは、森辺の民にとって、最大の禁忌のひとつであるのだ。
人間が森の恵みに手をつければ、飢えたギバがよりいっそう町の田畑を襲うことになる。それゆえに、頭の皮を剥ぐ、というほどに重い罰を定められた罪なのだった。
だから、森辺の民たちは、どんなに飢えても森の恵みには手をつけず、己の無力さを嘆きながら死んでいくのだ。
そこまで愚直で、そして清廉な一族が存在するなんて信じられない、と、かつてカミュア=ヨシュはそう言っていた。
それが、森辺の民の、狩人としての誇りなのである。
「わたしたちは、狩人の誇りを汚しました……森辺の誇りを踏みにじりました……許されざる罪人です……」
オウラ=スンと、そして分家の人間たちは、滂沱たる涙を流し続けていた。
しかし。
涙に濡れたその瞳には、はっきりと悲しみの感情が宿っていた。
無念の思いが渦巻いていた。
恥辱の思いが噴きこぼれていた。
それはいずれも負の感情に違いなかったが――しかし、もはや泥人形のように感情の欠落した人間は、ひとりとして存在しなかった。
許し難い罪があばかれると同時に、彼らは解放されたのだ。
スン家の秘密を守るという、重圧から。
いっぽう、ズーロ=スンとディガ=スンは、死人のような顔色になって、がたがたと震えていた。
ドッド=スンは、いまだに目を覚まさず倒れふしている。
ミダ=スンは、きょとんとした目でそんな父と兄たちを見下ろしている。
ツヴァイ=スンは、泣き伏す母親に寄り添って、ぎゅっと唇を噛みしめている。
そして、ヤミル=スンは――
ヤミル=スンは、ルド=ルウとミーア・レイ母さんに左右をはさまれた格好で、俺たちのほうに近づいてきた。
油断なく身がまえるアイ=ファと俺の前で立ち止まり、「これで終わりね……」と、低くつぶやく。
さきほどのまでの狂態が嘘のように、ヤミル=スンは静かな面持ちをしており、その瞳には悲しみとも怒りとも喜びともつかない感情が複雑にからみあっていた。
「アスタ……あなたにひとつだけ言いたいことがあるの」
「何ですか?」
ヤミル=スンは、やっぱり如何なる感情に支配されているのかもわからない感じで、にっと唇を吊りあげて――そして、言った。
「スン家に、滅びをありがとう」