第六話 ひとかけらの想い(上)
2022.10/23 更新分 1/1
コタ=ルウは、まだ3年と数ヶ月しか生きていない。
よって、思い出などと呼べるものは、まだ手の平ですくえるほどしか持ち合わせていなかった。
さらに言うならば、コタ=ルウは3年と数ヶ月というのがどれだけの時間であるのかも、あまりしっかりとは認識できていない。
現在のコタ=ルウは3歳であり、人は生誕の日を迎えるごとに齢を重ねるのだと聞き及んでいるのだが――どうしても、最初の生誕の日のことは思い出せなかったのだった。
「そりゃあ1歳の頃のことなんて、そうそう覚えちゃいないだろうねぇ。あたしなんて、3歳の頃の話も覚えちゃいないように思うよ」
そんな風に語ってくれたのは、祖母たるミーア・レイ=ルウであった。
ミーア・レイ=ルウは、すでに43歳であるという。3歳のコタ=ルウよりも、40年も長く生きているのだ。コタ=ルウの記憶にある2歳から3歳までの長さを思えば、それは途方もない年月であるように思えてならなかった。
さらに最長老のジバ=ルウなどは、すでに87歳であるという。
ジバ=ルウは、生誕の日を87回も迎えているのだ。その年月を想像しようとすると、コタ=ルウは頭がくらくらしてしまいそうだった。
「だけどねぇ、時間っていうのは同じ長さじゃないのかもしれないよ……いや、世界にとっての時間っていうのは、もちろん同じ長さなんだろうけどさ……人間にとっては、それぞれ違う長さに感じられることもあるようなんだよねぇ……」
ジバ=ルウにそのような言葉を聞かされると、コタ=ルウはいっそうわけがわからなくなってしまう。
するとジバ=ルウは、コタ=ルウが大好きな優しそうな顔で笑ってくれた。
「まだ3歳のコタに、こんな話は難しいだろうねぇ……何かもっと簡単で、楽しい話を考えるとしようか……」
「ううん。コタ、じかんのこと、しりたい。どうしてながさがちがっちゃうの?」
「実際に時間の長さが変わるわけじゃなく、そんな風に感じられるってことだよ……たとえば、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうし、つらい時間は長く感じてしまうだとか……あとはやっぱり、年齢によって感じ方が変わってくるんじゃないのかねぇ……」
「ねんれいで?」
「うん……やっぱり若い頃のほうが、時間が長く感じられるように思うんだよ……0歳から10歳まで、10歳から20歳まで、20歳から30歳までってのは、どれも同じ10年間だけど……年を重ねるにつれて、時間はどんどん早く過ぎていくように感じられるんだよねぇ……」
「じゃあ、としをとったほうが、たのしいの?」
「いや……決してそういうわけじゃなくってね……年を食った人間が、月日の流れを早く感じるのは……新しく覚える物事っていうものが、どんどん少なくなっていくからなのかもしれないねぇ……」
そう言って、ジバ=ルウは何かを懐かしむように目を細めた。
「若い頃っていうのは、覚えなくちゃいけないことがたくさんあって……毎日が、驚きの連続であるんだよ……焼きたてのギバ肉みたいに熱くって、かけすぎたピコの葉みたいに辛みがきいていて……時間がコタの髪みたいに、濃い色合いをしているものなのさ……」
「コタのかみ……」
「うん……それが年を食っちまうと、婆の髪みたいに色が抜けちまって……嬉しい気持ちや苦しい気持ちも、どんどん味気なくなっていって……それで時間が自分のもとに留まることなく、ふわふわと流れすぎていくような感じになっちまうから……毎日が、あっという間に過ぎ去っていくような気持ちになるのかもしれないね……」
「コタ、ジバのかみもすき」
「ありがとうねぇ……」と、ジバ=ルウはコタ=ルウの髪を撫でてくれた。
「でもねぇ……今のあたしは、若い頃みたいに濃い色合いをした時間を過ごしているように感じているんだよ……1年なんて、あっという間だけど……それは味気ないからじゃなく、楽しくてたまらないからそんな風に感じるんじゃないかって……婆は、そんな風に思うんだよね……」
「ジバ、たのしい?」
「うん、楽しいよ……こんな気持ちを思い出させてくれたのは、みんなアスタのおかげなんだよね……」
その言葉に、コタ=ルウは身を乗り出すことになった。
「アスタのおかげ、なんで?」
「うん……コタは覚えちゃいないだろうけど……アスタと出会う前の婆は、生きることがつらくなっちまってたのさ……ルウのみんなは、スンを滅ぼすことを一番に考えていて……喜びの気持ちよりも、憎しみの気持ちを重んじてるみたいに感じられて……それは大事な話なんだろうけど、年を食った婆には、そいつがずいぶんしんどいことのように感じられてねぇ……そんな中、あたしはたくさんの家族を失っちまって……おまけに足腰が弱くなって、大好きな友ともなかなか会えなくなっちまったから……どうしてこんな不味いギバの肉を食ってまで、生き永らえなきゃいけないんだって……そんな思いにとらわれちまったんだよ……」
「まずいギバにく? ギバにくは、おいしいよ?」
「ああ、そうそう……ギバ肉を美味しく食べられるようになったのは、コタがまだ草籠で眠ってた頃……それこそ、1歳になってすぐの頃なんじゃないのかねぇ……それでアスタに美味しい料理を食べさせてもらったあたしは、また生きることが楽しいと思えるようになったんだよ……」
ジバ=ルウのそんな言葉が、コタ=ルウの心に深い理解をもたらした。
しかし幼いコタ=ルウは、それをうまく言葉にすることができない。そうしてコタ=ルウが身をゆすって悩んでいると、ジバ=ルウは「どうしたんだい……?」と頭を撫でてきた。
「うん。コタね、いっさいのころ、あまりおぼえてないの。あかちゃんのころ、おもいだそうとすると……おいしいの」
「うん……? それはつまり……赤ん坊の頃のことを思い出そうとすると……美味しいものを食べた記憶が真っ先に出てくるってことかねぇ……」
「そう!」と、コタ=ルウはジバ=ルウの痩せた腕に取りすがった。
敷物に座したジバ=ルウは、いっそう優しい面持ちでコタ=ルウの頭を撫でてくれる。
「なるほどねぇ……コタは2歳になるまで、お乳を飲んでいたけど……その前から、汁物ぐらいは口にしていたはずだもんねぇ……でも、1歳になってからしばらくは、まだ血抜きをしていないギバの煮汁をすすっていたはずだから……アスタと出会って、いきなり食事が美味しくなったことが、心に焼きつけられたのかもしれないねぇ……」
「それ、いつ?」
「いつ……? ルウ家がアスタから血抜きの技を学んだのは、2年前の緑の月だったから……コタが1歳と4ヶ月ぐらいのことかねぇ……」
コタ=ルウは、いきなり目の前がぱあっと開けたような心地であった。
コタ=ルウの頭の中でもやもやとしていた記憶の断片が、ジバ=ルウの言葉によって綺麗につなぎ合わされたような感覚であったのだ。
それまでのコタ=ルウは、ゆらゆらと水の中に漂っているような気分で日々を過ごしていた。目に映る人間は誰もが愛おしく、とても幸福な心地であったのだが、父と母を除く家族たちの姿を見分けることも難しく、何もかもが曖昧であったのだ。そのようにゆらゆらと生きていたから、最初の生誕の日も覚えていないのだろうと思われた。
それがある日、突如として世界が鮮烈な色彩を帯びた。
いつも通りに口へと運ばれた食事の味わいが、コタ=ルウの世界を一変させたのだ。
それは木匙ですくわれた、一杯の煮汁であった。そのとき舌に触れた木匙の感触までもが、今でもまざまざと残されている。そしてその煮汁を口にした瞬間、ぼやっと霞んでいた母親の姿が明瞭さを増したように感じられた。
「美味しい? たくさん食べて大きくなるのよ、コタ」
そう言って、母は優しく微笑んでいた。
コタ=ルウの身は、母の腕に抱かれている。その温もりも、隣に座している父の顔も、はっきりと覚えている。そして父の向こう側には、祖父と最長老が居並んでいた。
もちろんその頃は、「祖父」や「最長老」という言葉も知らない。それどころか、「母」や「父」という言葉も知らなかったのだ。ただ、まったく見分けのついていなかった大きな人間と小さな人間――祖父と最長老の区別がつくようになったのは、その瞬間からであったのだった。
なおかつコタ=ルウは、「美味しい」や「不味い」という概念も持ってはいない。どのような食事であろうとも、それを口にするときは幸福な心地であった。もっとも幸福であったのは乳を吸っているときであったが、コタ=ルウの身体は煮汁が有している滋養が自分に必要であることを本能で理解していた。
だがしかし、その日の食事はまったく異なる幸福感をコタ=ルウに与えてくれた。
そうしてコタ=ルウはその瞬間、新たな世界で生きることになったのだ。言ってみれば、コタ=ルウはその瞬間に2度目の生誕を迎えたような心地であった。
「アスタ、はじめてきたとき、コタ、ばんさん、たべたの?」
コタ=ルウがそのように問いかけると、ジバ=ルウは笑顔のまま「いや……」と首を横に振った。
「あの日はもう、コタもぐっすり眠っていたし……あの頃のドンダは、アスタのことをまったく信用していなかったから……その料理をコタに食べさせることは許さなかったはずだよ……」
「そっか……」
「うん……だからきっと、コタが初めてアスタの料理を食べたのは……ルティムとミンの婚儀の前に、アスタとアイ=ファがルウの集落に逗留していた頃だろうねぇ……コタは、その頃のことを覚えているのかい……?」
コタ=ルウは「うん」とうなずいてみせた。
正確な日取りなどは、もちろんわからない。ただコタ=ルウはすべての家族を認識できるようになってすぐ、見慣れぬ存在を――すなわち、アスタとアイ=ファを認識することになったのだった。
ただもちろん、コタ=ルウが認識していたのはごくぼんやりとした印象である。
これまで目にした記憶のない人間が2名、家の中にまぎれこんでいる。それが、黒い頭で肌の色の違う人間と、金色のきらきらした頭の人間であるということを認識していたに過ぎなかった。
それを「アスタ」や「アイ=ファ」だと認識したのは――おそらく、何ヶ月も過ぎてからだろう。コタ=ルウには家族が多かったし、時おり家の外に連れ出された際にはさらに数多くの血族と顔をあわせていたのだ。3歳となった現在でも、コタ=ルウはまだ分家の人々の名前を覚えきれていなかった。
それよりも早くファの人間の名前を覚えることになったのは、やはり普段からその名前をたびたび聞かされていたゆえであろう。とりわけルウ本家の女衆は、アスタの名を口にする機会が多かったのだ。
なおかつ、アスタ本人もしょっちゅうルウの集落を訪れていたように記憶している。そしてアスタは他の人々と肌の色が異なるため、コタ=ルウの目にもとまりやすかったのだった。
しかし、その頃のコタ=ルウにとって、アスタというのは遠目にうかがう存在に過ぎなかった。
時には晩餐をともにすることもあったが、まだ2歳にもなっていないコタ=ルウはそういう場で言葉を発する機会もなかった。ただコタ=ルウは美味しい食事を口に運ばれながら、みんなの楽しそうな会話を聞いているだけで幸福な心地であったのだ。
そこでひとつの転機となったのは、雨季というものであった。
雨季というものも、年にいっぺんやってくる。しかもそれは、コタ=ルウの生誕の日に重なることが多いという。だからコタ=ルウが産まれた頃も、最初の生誕の日を迎えた頃も、世界は雨季であったはずだが、コタ=ルウはどちらも記憶に留めていなかった。
そうしてコタ=ルウが初めて認識した、2歳になる直前の雨季――コタ=ルウは、『アムスホルンの息吹』を発症した。
そして同じ頃、アスタも同じ病魔を発症したのだと、後から聞かされることになったのだ。
『アムスホルンの息吹』について、コタ=ルウが覚えていることは少ない。ただ、いきなり身体が動かなくなり、全身が火で炙られているように熱くなり――夢ともうつつともつかない時間をぼんやりと過ごしていただけのことであった。
それはとても苦しい時間であったが、コタ=ルウはずっと母の腕に抱かれていたので幸福な心地でもあった。「いたい」「くるしい」「あつい」「さむい」と泣きじゃくったような覚えもなくはなかったが、それも夢の中の出来事のようにぼんやりとしていた。
そして気づくと、すべての苦しさがコタ=ルウの身から去っていた。
それで真っ赤に染まっていた世界がもとの色彩を取り戻すと――そこに待ち受けていたのは家族の笑顔であったため、コタ=ルウはいっそう幸福な心地であった。ただそのときに、きわめて不吉な言葉が耳に飛び込んできたのだった。
「分家の赤子も熱はひいたっていうし、あとはアスタだけだなー。アスタは年を食ってるから、もっとひでー熱が出るってんだろ?」
「うん。薬は事前に渡しておいたし、家の近い人間が面倒を見てくれてるって話だけど……今回ばかりは、気を抜けないだろうねぇ」
「大丈夫だよ! アイ=ファだってついてるんだし!」
母の手で水を飲まされながら、コタ=ルウはそんな言葉を耳にすることになったのだ。
ただそのときのコタ=ルウはまだ頭がぼんやりしていたので、家族らの言葉もうまく理解できていなかった。そしてコタ=ルウが元気になった頃、アスタが目を覚ましたという言葉を聞かされたのだった。
コタ=ルウとアスタは同じ日に同じ病魔を患い、コタ=ルウは2日で目覚め、アスタは3日で目覚めた。つまりは、そういうことであったようだった。
コタ=ルウが熱でうなされている間、アスタも同じ状態であったのだ。コタ=ルウは何となく、アスタと一緒に大きな苦しみを乗り越えられたような心地で、少し嬉しかった。
そうしてコタ=ルウは2度目の生誕の日を迎え、2ヶ月にもわたる雨季というものを初めてはっきりと認識し――その雨季が明けた頃、ようやくアスタと再会することがかなったのだった。
雨季の間も、アスタの姿をまったく見かけなかったわけではない。ただやっぱり雨季の間はなるべく外に出ないようにと言いつけられていたので、アスタがルウ家のかまどの間にやってきても、なかなかしっかり対面する機会がなかったのだ。
ただし、その頃のコタ=ルウがアスタと向かい合っても、何かが生まれることはなかった。
コタ=ルウはもうアスタの存在をしっかり認識していたが、それは「家族じゃないけど家族と同じぐらい昔からよく知っている人間」というものに過ぎなかったのだ。
もちろんコタ=ルウは、アスタのことを好ましく思っていた。しかしまた、コタ=ルウが好ましく思わない人間など、周囲にひとりもいなかった。コタ=ルウにとってアスタやアイ=ファが少し特別であったのは、ただ「名前を知っている」という一点に尽きるのだろうと思われた。
だからコタ=ルウは何も気にせずに、楽しく日々を過ごしていた。
そしてそのまま、あっという間に1年という日が過ぎてしまったのだった。
その間も、コタ=ルウはたびたびアスタと出くわしている。晩餐をともにすることもあったし、コタ=ルウがかまどの間のそばで遊んでいるときなどは、ときどき美味しいものを分けてもらったりもした。ただ、そういうときもコタ=ルウは家族の手を経由して美味しいものを受け取っていたので、アスタと言葉を交わしたりする機会は生まれなかった。
そうして1年が経過して、コタ=ルウが3歳となり――コタ=ルウには、ルディ=ルウという妹が誕生した。
コタ=ルウが初めてアスタときちんと言葉を交わしたのは、ちょうどその頃のことであった。
その頃のコタ=ルウは、ずっと悲しい気分であった。ルディ=ルウを産んで以来、母親が力を失っていたためである。あれほど元気で、いつもコタ=ルウを幸せな心地にさせてくれていた母親のサティ・レイ=ルウが、歩くこともつらそうにするぐらい弱り果ててしまったのだ。
だからコタ=ルウは、ずっと悲しい気持ちだった。眠るときも母親から引き離されて、父親の腕に抱かれることになった。父のことは母と同じぐらい大好きだったが、母の温もりが失われた悲しさを埋めることはかなわなかった。
そんな中――ルウの血族は、収穫祭を迎えることになった。
ただしコタ=ルウには、収穫祭というものもよくわからない。それは森辺の民にとってとても大事な儀式であるようであったが、5歳になるまでは加わることが許されなかったのだ。
よってその日も、コタ=ルウはずっと家の中で過ごしていた。
朝から夜まで家の中で過ごすしかないので、コタ=ルウにとっては退屈なぐらいである。
それでもこれまでは母や血族の女衆が一緒にいてくれたので、コタ=ルウも不満を抱く理由はなかったのだが――今回は、事情が違っていた。身体の弱っていた母は、長きにわたって寝所にこもっていたのである。家にはたくさんの幼子が集められて、賑やかなことこの上なかったが、コタ=ルウは母のことが心配でずっと悲しい気持ちであったのだった。
「コタは元気がないわねぇ……サティ・レイもじきに目を覚ますだろうから、それまで我慢していてね……」
そんな風に呼びかけてくれたのは、父の妹であるヴィナ・ルウ=リリンである。リリンの家に嫁いだヴィナ・ルウ=リリンとはひさびさに顔をあわせることになったので、本当であればコタ=ルウも嬉しくてたまらないはずであったのだが――それよりも、悲しい気分のほうが上回ってしまっていた。
やがて日が落ちると、家の外はいよいよ騒がしくなってくる。
きっと誰もが楽しい気持ちで、収穫祭というものに臨んでいるのだ。
母はこんなに苦しんでいるのに、他のみんなは楽しく過ごしている。そんな風に考えると、コタ=ルウはますます悲しい気持ちになってしまった。
そこにやってきたのが、リミ=ルウたちである。
収穫祭に加われない幼子たちのために、美味しい菓子を運んできてくれたのだ。
それはコタ=ルウにとって、もっとも嬉しい時間であるはずだった。
だけどやっぱり、その日は悲しい気持ちのほうがまさってしまっていた。
「サティ・レイが起きたら、誰かが知らせてくれるはずだからね。そうしたら、コタも一緒に行こう? それまで、お菓子を食べて待ってるといいよ」
リミ=ルウはそんな風に言ってくれたが、コタ=ルウはとうていそんな気持ちになれなかった。母が苦しくて寝ているのに自分だけが美味しい菓子を食べても、幸せな気分になれるとは思えなかったのだ。
そうしてコタ=ルウが、壁にもたれて膝を抱えていると――ふいに、アスタが声をかけてきたのだった。
「コタ=ルウ。今日は母さんの好きな料理がたくさんあるからね。それを食べたら、きっと母さんは元気になるよ」
アスタもまた、リミ=ルウと一緒にやってきていたのだ。
アスタの隣には、アイ=ファもいる。リミ=ルウの隣には、ターラもいる。しかし自らの悲しみにとらわれていたコタ=ルウは、そんなことにも気づいていなかったのだった。
アスタは敷物に膝をついて、コタ=ルウの顔をじっと見つめている。
アスタとはしょっちゅう顔をあわせていたが、こんな風に間近から向かい合うのも、しっかりと言葉を交わすのも、これが初めてのことのはずであった。
アスタの黒い瞳は、とても心配そうな光をたたえている。
アスタはリミ=ルウや他の家族たちと同じぐらい、自分と母のことを心配してくれているのだ。
だからコタ=ルウは、家族に対するのと同じように言葉を返すことがかなったのだった。
「……かあ、げんきになる?」
するとアスタは、とても優しそうな顔で「うん」とうなずいてくれた。
「元気になるよ。コタ=ルウの母さんは、とても強い人だからね。だから、あとほんのちょっとの辛抱だよ」
アスタの言葉は他の家族と同じぐらいの温かさで、コタ=ルウの悲しみをくるんでくれた。
もちろんそれで、コタ=ルウの悲しみが消えたわけではなかったのだが――コタ=ルウは、とても嬉しかった。家族ではないアスタが家族と同じぐらいコタ=ルウと母のことを心配してくれたのが、嬉しくてたまらなかったのだ。
さらにコタ=ルウは、別なる感情も抱え込んでいた。
これまで遠目にうかがうだけだったアスタが、突如として血肉を備えた存在に変化したような――それこそ、家族と同じぐらい愛おしい存在であるように思えたのである。
そしてその後には、さらなる幸福が待ち受けていた。
しばらくして、母がようやく目覚めると、アスタや他の家族たちがたくさんの料理を掲げてやってきてくれたのだ。
アスタたちの作った料理を食べる母は、とても幸福そうだった。
だからコタ=ルウも、同じぐらい幸福な気持ちであった。
そしてコタ=ルウは、アスタやレイナ=ルウたちが母のためにこれらの料理を準備したのだと知らされることになった。コタ=ルウには今ひとつ理解が及ばなかったのだが、赤子に乳をやる母には食べてはいけない料理というものがたくさんあるらしく――それでアスタたちは、この収穫祭でも母が口にできる料理をたくさん準備してくれたのだという話であった。
だからやっぱり、母がこんなに幸福そうにしているのは、アスタたちのおかげであるのだ。
それでコタ=ルウは、アスタに祝福の牙を捧げることになったのだった。
アスタはとても幸福そうな面持ちで、それを受け取ってくれた。
だからコタ=ルウも、同じぐらい幸福な気持ちであった。
おそらくコタ=ルウとアスタは、この日に初めてひとりの人間として、交流を結ぶことになったのだ。
アスタは家族と同じように母とコタ=ルウのことを心配して、美味しい料理を準備してくれた。それに感謝したコタ=ルウが、アスタに祝福の牙を捧げることになった。コタ=ルウとアスタは他の家族を介するのではなく、直接おたがいの心をぶつけあい――そして、友としての絆を結ぶことになったのである。
もちろん3歳であったコタ=ルウが、そのように難しい言葉で何かを考えたわけではない。
ただその日から、アスタはコタ=ルウにとって家族と同じぐらい大切な存在となったのだった。




