南の美食家(下)
2022.10/22 更新分 1/1
ダカルマスがひさびさに家族との団欒を楽しんだ日の、翌日である。
公務のために王城の執務室におもむいたダカルマスは、椅子を温める間もなく謁見の間に呼びたてられることに相成った。
そちらで待ちかまえていたのは、王たる父と王子たる兄たちである。
その顔ぶれに、ダカルマスは「これはこれは!」と破顔することになった。
「このように早くから兄弟の全員が居揃うとは、珍しいこともあるものですな! 今日は何か、家族の祝いの日でありましたかな?」
「控えるがいい、ダカルマスよ。王の御前であるぞ」
そのように厳しい声をあげたのは、第二王子である。彼は近衛兵団長という立場であり、王城の規律を守る役割を担っていたのだった。
それを「まあまあ」とたしなめたのは、ひとつ下の第三王子だ。彼の役割は、外務官長であった。
「我々にも公務がありますため、余計な挨拶は省略するべきでしょう。王陛下、よろしくお願いいたします」
「うむ……」と重々しく応じた王は、光の強い緑色の瞳でダカルマスを見据えてくる。すでに70歳を越える老齢でありながら、その気迫には衰える気配もなかった。
「先日の、西の貴族と結んだ通商の約定に関して……其方の釈明を聞かせてもらおう……」
「釈明? わたしは何か、非難を浴びるような失敗をしでかしてしまったでしょうか?」
ダカルマスがそのように答えると、たちまち第二王子が眉をひそめた。
「はぐらかすでない、ダカルマスよ。そのように言葉を濁していると、やましき心があるものと疑われかねんぞ」
「やましいなどとは、とんでもない! 西の貴族との通商というのは、つまりティカトラス殿の一件でありましょう? あれはティカトラス殿が買いつけたミソをコルネリアからこの王都まで運ぶという話に過ぎないのですから、やましさの生じる理由などどこにもありませんでしょう!」
「しかし、公爵家という高い身分にある西の貴族と通商を結ぶのなら、もっと慎重に取り計らうべきではないか、と……王陛下は、そのように仰っているのです」
第三王子の言葉に、ダカルマスはきょとんと目を丸くすることになった。
「それはごもっともなお話ですが……しかしそれは、外務官長たる兄君とわたしの協議によって認可した案件でありますよね?」
「そう。ダカルマスが到着するまでは、わたしがひとりで釈明する立場であったのですよ」
そう言って、第三王子はやわらかく微笑んだ。同じ血筋であっても、この王家の六兄弟は面白いぐらいにそれぞれ気性が違っているのである。
「もとよりティカトラスという御仁は、海路によって我が王都と通商をしているお立場であられました。身もとはこれ以上もなく確かでありますし、商売人としては並々ならぬ才覚を持たれた御仁でありましょう。ですから、心配には及びません。……と、わたしはそのように釈明していたわけですね」
「なるほど! であれば、わたしも全面的に同意いたしますぞ! もとよりわたしと兄君には、等分の責任が生じましょうからな!」
「しかしそれは、ダカルマスの主導によって取り決められた案件であるのだろう?」
そのように声をあげたのは、南の民らしからぬ慎重さと繊細さで知られる第四王子である。彼の役職は、内務官長補佐であった。
「ミソなる食材をコルネリアからこの王都まで運び込み、船の到着まで倉庫にて保管する。……そのように手間のかかる仕事をわずかな賃金で受け持つことに、いったいどれほどの意味があるのか。其方の主導によって取り決められた案件であるのなら、其方が釈明するべきであろうな、ダカルマスよ」
ダカルマスは小さからぬ疑念を抱きつつ、第三王子のほうに目をやった。
しかしそちらは穏やかに微笑むばかりで、無言である。であれば、ダカルマスの責任において釈明するしかなかった。
「確かにこのたびの案件は、さしたる利潤も見込めない内容でありましょう! ただわたしは、ティカトラス殿とのご縁を重んじたく思った次第であります!」
「ティカトラスなる貴族との、縁とは? そちらとは、すでに海路で通商を行っているのであろう?」
「はい! それをさらに発展させることはできないものかと、わたしはそのように思案しております! 何せティカトラス殿というのは役職らしい役職もないままに、おのれの裁量だけで数々の通商を成功させている大人物であられるのですからね! ここでこちらが多少の損をかぶっておけば、のちのち大きな利潤を生み出すことがかなうのではないでしょうか?」
「大きな利潤とは?」
「わたしに思いつけるのは、やはり食材の流通でありますな! 現在においても我々はダーム公爵家と大きな通商を結んでおりますが、それをより発展させられるのではないかと期待しております!」
「また、食材か」と、第二王子が溜息をつく。
しかしダカルマスは、「はい!」と笑顔で応じてみせた。
「わたしもまたティカトラス殿と同じく、役職らしい役職を授かっているわけではありませんからな! 他なる通商に関しては外務官長たる兄君やロブロス殿らにおまかせして、わたしは食材の流通の充実に尽力したく思います!」
「其方とて、間もなく40の齢を数えるのであろう? たとえ末子といえども王子の身で道楽ばかりにうつつを抜かすというのは、感心できたものではあるまい」
「お言葉を返すようですが、わたしが40の齢を数えるまで、あと1年以上は残されておりますぞ! ……まあ、たとえ何歳になろうとも、わたしの気性に変わりはないのでありましょうけれどね!」
「だから、その奔放なる身と口をつつしめと申しておるのだ」
すると、これまで無言であった第一王子がゆったりと声をあげた。
「しかし、こと食材の流通に関しては、ダカルマスの功績が大きいと聞く。……それは事実であろうかな、外務官長よ?」
「ええ。我々がこうまで外来の食材を手にすることがかなったのは、おおよそダカルマスの功績でありましょうね。もちろんゲルドの食材に関しては、ロブロス殿の手腕であったわけですが……それを大きく発展させたのは、やはりダカルマスであろうと思います。外務官長としては忸怩たる思いでありますが、弟の功績を盗窃するわけにもまいりません」
第三王子がそのように応じると、第一王子は「うむ」と首肯した。
第一王子に、役職はない。いずれ王の座を継承する第一王子に、役職などは必要ないのだ。そして長兄たる彼は、この場の誰よりも鷹揚で広き視野を有していた。
「そのダカルマスが利潤を見込めると判じたのなら、まずは行く末を見守るべきであろう。言うまでもなく、西の王都との通商というのは我々にとって肝腎であるのだから……そちらの重要人物であるというティカトラスなる人物とも、入念に絆を深めておくべきであろうな」
「はい! わたしはそのつもりでありますよ!」
第一王子はもうひとたびうなずいてから、父たる王の御意を仰いだ。
「ダカルマスの釈明は、以上のようです。王陛下の懸念は晴らされましたでしょうか?」
「うむ……其方の申す通り、もうしばし推移を見守るといたそう……」
「寛大なるお言葉、ありがとうございます!」
これにて、ダカルマスのお役目は終了であるようであった。
それでダカルマスが退室しようとすると、王がまぶたを閉ざしつつ「ところで、ダカルマスよ……」と呼びかけてくる。
「其方の息女は……間違いなく、復活祭までに戻ってくるのであろうな……? よもや、異国で復活祭を過ごすことにはなるまいな……?」
「はい! 今頃は使節団とともに、ジェノスを出立した頃合いでありましょう! この数ヶ月の鍛錬の成果を、どうぞご期待ください!」
「うむ……厨仕事の腕を上げるために異国に留まろうなどとは、王家の息女にあるまじき奔放さであるが……であればなおさら、それが無駄な所作でなかったということを証し立ててもらわねばな……」
王の声は、これまで通りに重々しい。
ただ、あえてまぶたを閉ざしたのは――おそらく、その瞳に宿った祖父としての情愛を隠したかったのだろう。この場には王子たちばかりではなく、守衛や従者も山ほど控えていたのだ。
(父君はことのほか、デルシェアの身を案じてくれていたからな。まったく、ありがたい限りだ)
そうして今度こそダカルマスが退室すると、すぐさまふたりの兄が追ってきた。外務官長たる第三王子と、最後まで無言をつらぬき通した第五王子である。
「ダカルマスよ、ご苦労であったな! 今日こそ王陛下の雷が落とされるのではないかと、俺はひやひやしていたぞ!」
まずは第五王子が、馬鹿でかい声でそのように呼びかけてくる。彼は兄弟の中で唯一の先祖返りであり、ダカルマスたちよりも頭ふたつ分も背が高い。重量などは、こちらの倍ほどもありそうだ。そんな彼は、王都を外敵から守る防衛兵団長の役職を授かっていた。
「俺が口をはさむとややこしいことになりそうだったので口をつぐんでいたが、これはどういう一幕であったのだ? 外務官長たる兄上がもっと上手い具合に釈明していれば、ダカルマスが呼び出されることもなかったろうに!」
「わたしひとりでは、兄君たちを納得させられないかなと考えたのさ。わたしの期待通り、ダカルマスは的確な言葉で兄君たちを納得させてくれたね」
公務を離れた場では、第三王子も気さくな態度を隠さない。
そこでダカルマスは、謁見のさなかに覚えた疑念を解消させていただくことにした。
「もしや兄君は、わたしに花を持たせようとしてくれたのであろうか? 兄君であれば、あのていどの釈明などお手の物のはずであろう?」
「そんなことはないよ。ただ……どうも近衛兵団長殿は、ダカルマスの力を見くびっているようだからね。ダカルマスはただの道楽者ではないということを、父君や兄君の前で証明してもらいたかったのさ」
「ではやはり、わたしに花を持たせるために無能を演じたということだな」
「業を煮やした兄君たちがお前におかしな役職を押しつけようとしたら、わたしにとってとてつもない損失になってしまうからね。わたしは自分自身のために、最善の手を尽くしたまでさ」
すると、第五王子が愉快げに笑い声を響かせた。
「だったら兄君が、ダカルマスに補佐官の役職でも授けてやればよかろうに! そんな迂遠なやり口は、まったくジャガルの流儀ではなかろう!」
「ダカルマスには自由な立場で、わたしの仕事を支えてもらいたいのだよ。まあ、道楽者よばわりされてしまうダカルマスには、いい迷惑かもしれないがね」
「いやいや! わたしが道楽者であるのは、まぎれもない事実であるからな! わたしは役職など関係なく、今後も美味なる料理のために食材の流通の充実に尽力させていただくよ!」
心から納得したダカルマスは、第五王子とともに笑い声を響かせることになった。
「美味なる料理といえば、今日は婚儀の前祝いだったな。どうせダカルマスも、一枚噛んでいるのだろう?」
「うむ! ジェノス料理の準備を願われたので、こちらの料理番に働いてもらうことに相成った! どうも余所の屋敷では、ジェノス料理の再現も難しいようでな!」
「ジェノス料理か! それはいい! シムの連中は忌々しいが、食材に罪はないからな! またあの香草のきいた料理が供されるように祈っているぞ!」
そうして兄弟たちと別れて執務室に戻ったダカルマスは、ようやく日常を取り戻すことになった。
日中は第三王子から与えられた職務をこなし、夜には美味なる料理を食す。それがダカルマスの日常であるのだ。
なおかつ、兄から与えられる職務というのも、のきなみ食材の流通に関する案件である。確かに最近のダカルマスは、外務官長補佐の名に相応しい働きをしているはずであった。
しかし、役職などはどうでもかまわない。
朝から晩まで食材と料理について頭をいっぱいにさせられる、ダカルマスは今の生活に心からの充足を覚えていたのだった。
◇
そして、その日の夜である。
王城の大広間において、婚儀の前祝いは滞りなく開催されることに相成った。
このたび婚儀を挙げるのは、かつて第一王女であった姉の子息である。姉は王都の端にある侯爵領の領主に嫁いだ身であったが、かつての身分が重んじられて王城での祝宴を許されたのだ。
大広間には200名もの参席者が集められて、大盛況である。
そしてこの場の宴料理を準備したのは、すべてダカルマスの屋敷の料理番たちだ。こういう際にはいつでも市井から調理助手を調達できるように、態勢が整えられている。そうしてダカルマス自身、好きなときに祝宴や試食会を開催しているのだった。
「ああ、ダカルマス。今日もすべての卓が見事な宴料理で埋め尽くされていますわね。あなたが厨を取り仕切ると聞いて、わたくしはずっと胸を躍らせていたのですよ」
そのように声をかけてきたのは、内務官長補佐たる第四王子の伴侶である。第四王子は慎重で繊細な気性であったが、こちらの伴侶はその埋め合わせをするように大らかで陽気であった。
「いえいえ! 厨を取り仕切るのは、あくまで料理番たちですからな! わたしなど、自分ではフワノを焼きあげることもかないません!」
「わたくしだって、それは同様ですわ。そんな真似ができる王族は、きっとあなたの可愛いご息女ただひとりでしょうね」
そんな風に言ってから、その貴婦人は声を低めた。
「ところで……外務官長補佐のお噂はお聞きになられた? どうもあの御方は、あなたに席を奪われるのではないかと疑心暗鬼に陥っておられるそうよ」
「うむ? 外務官長補佐というのは……たしか複数名おられるはずでしたな?」
「ええ。補佐官の筆頭であられる、あの御方よ。ほら、子爵家に婿入りした、ちょっと気難しい感じの――」
「ああ、あの御方でありますか。それはいささか、由々しき問題でありますなぁ」
そうして思案したダカルマスは、ひとつの質問を投げかけた。
「たしかあの御方は、わたしよりも若年であられましたな。ご子息かご息女はおられるのでしょうか?」
「あちらはご伴侶が病弱で、たしかおひとりしかお子を作られなかったはずですわね。まだ10歳ていどのご息女であったかと思いますわ」
「なるほどなるほど! では、こちらもそのように取り計らいましょう!」
ダカルマスは貴婦人にお礼を言って、目当ての人物を探し求めた。
その人物は、すぐに発見する。そのかたわらにすらりとした美しい姿があったので、この賑わいでも目にとまりやすかったのだ。
「おお、ここにいたか! 祝宴を楽しんでおるかな?」
「うん! 2日続けてジェノス料理だから、すっごく楽しいよ!」
それは10歳になるダカルマスの第一子息であり、かたわらの貴婦人は伴侶に他ならなかった。先祖返りの女性は少ないので、ダカルマスの伴侶は人混みでもとても目を引くのだ。
「ちょっとこちらの幼き貴公子をお借りしたいのだが、かまわんだろうかな?」
「あら、また何か企んでいるのですね。どうぞご自由になさってください」
伴侶の温かい笑顔に見送られて、ダカルマスは次なる人物を探し求めた。
今度はいささか難儀であったため、子息とともに大広間を巡る。その人物は、幼き息女とともに大広間を行き来しているさなかであった。
(これは好都合だ)
ダカルマスは、その人物ににっこりと笑いかけてみせた。
「これはこれは、外務官長補佐殿! ひさかたぶりでありますな! 本日の宴料理を楽しんでいただけておりますかな?」
その人物は、ぎょっとした様子でダカルマスに向きなおってくる。恰幅はいいが、いかにも猜疑心の強そうな目つきをした、壮年の男性である。ダカルマスたち兄弟を見てわかる通り、南の民といっても気性は千差万別であるのだった。
「ダ、ダカルマス殿下。どうもおひさしぶりでございます。……さすがダカルマス殿下の育成した料理番たちは、見事な手腕でありますな」
「いえいえ! わたしはただ、才覚ある料理番たちを雇い入れたに過ぎません! あの者たちは自らの尽力によって、才覚を開花させたのですよ!」
そのように語らう父親たちのかたわらで、幼き貴公子と幼き貴婦人も向かい合っている。ダカルマスの子息はにこにこと笑っており、外務官長補佐の息女はもじもじとしていた。
「そちらも幼き貴婦人をお連れなのですな! ご伴侶は、貴婦人がたの語らいをお楽しみに?」
「ああ、いえ、伴侶は身体が弱いもので……無作法なれど、本日も欠席させていただきました」
「そうでしたか! では、幼き貴婦人のために我々が案内役をおつとめいたしましょう! さあさあ、こちらにどうぞ!」
たとえこの人物がダカルマスに反感を抱いていても、王子の言葉に逆らえるわけがない。こういう際には遠慮なく身分を武器にするのが、ダカルマスの流儀であった。
ダカルマスはすべての卓の配置を把握していたので、真っ直ぐ目当ての場所へと向かう。するとそちらでは、見覚えのある大柄な人物が笑い声をあげていた。
「おお、ダカルマスに上の坊主か! こちらには、坊主の好みそうなものがずらりと並べられておるぞ!」
防衛兵団長たる、第五王子である。外務官長補佐はさらなる王子の登場に辟易している様子であったが、ふたりの幼子は瞳を輝かせていた。そこは、菓子の卓であったのだ。
「さあさあ、幼き貴婦人よ! どうぞご賞味あれ! こちらが遥かなるジェノスの名物菓子、ろーるけーきでありますぞ!」
「ろ、ろーるけーき?」と、幼き貴婦人は目をぱちくりとさせる。しかしその瞳の輝きに変わりはなかった。
「ろーるけーきは、すごく美味しいよ! それにね、色んな味がそろってるの! ほらほら、色が違うと味も違うんだよ!」
ダカルマスの子息は美味なる料理に昂揚して、貴公子としての振る舞いを失念してしまったようだ。しかしダカルマスも、この際はたしなめないでおくことにした。
子息の言う通り、卓にはさまざまな色合いをしたロールケーキが並べられている。ダカルマスが持ち帰った帳面を参考に、屋敷の料理番たちが試行錯誤して作りあげた品々である。
料理番たちが学んだのは、この菓子に相応しいやわらかさを持つ生地の作り方と、カロンの乳をクリームというものに加工する方法だ。そしてそれらの生地とクリームはさまざまな食材で味が加えられており、それがこういった華やかなる色合いを生み出しているのだった。
赤はアロウ、青はアマンサ、朱色はワッチ、淡い褐色はラマンパ、黒褐色はギギの葉のチョコレート――それらの4種は、見るからに色合いが異なっている。
さらに、ミンミやラマムなどといった果実は果汁が無色であるため外見上に変化はなかったが、生地には果汁が、クリームには果肉の欠片が練り込まれている。そちらとて、妙なる味わいであることに変わりはなかった。
「これ……どうしてこんなに青い色をしてるの? それに、こっちの黒いのは……まるで焦げてるみたい」
息女がそのように声をあげると、その父親は慌てた様子でそれをたしなめた。
「こ、これ! こちらはダカルマス殿下のご子息であられるぞ! 王家に連なる御方に、はしたない口をきくでない!」
「このようなめでたい場で、堅苦しいことを言うでない! それで言ったら、俺などは一番の無作法者ではないか!」
第五王子が陽気に笑って、大きな手の平を幼き貴公子の頭にあてがった。
「さあ、幼き貴婦人が何か疑問をお持ちのようだぞ! 心してお答えしてやるがいい!」
「うん! あのね、この青いのはアマンサっていう果実を使ってるんだよ! 北の王国、マヒュドラの果実なんだって! それでこっちの黒いのは、シムの香草のギギを使ってるの!」
「シムの香草? ……シムは、こわい」
と、息女はのばしかけていた手を引っ込めてしまう。
すると子息が満面の笑みで、ギギを使ったロールケーキを取り上げた。
「シムが怖くても、ギギは怖くないよ! ほら、こんなに美味しいもん!」
子息はひと口でロールケーキを頬張ると、心から幸福そうに微笑んだ。
それで息女も、おずおずと同じものに手をのばし――そうして、同じ表情を浮かべることになった。
「すごく美味しい……わたし、こんな不思議な味のする菓子は初めて!」
「うん! ギギって不思議な味だよね! ギギの葉はすっごく苦いけど、砂糖とか乳脂とかで甘く仕上げてるんだって!」
そうして幼子たちはきゃあきゃあとはしゃぎながら、さまざまなロールケーキを食し始めた。
きっと幼子たちにとっては、宝の山を目の前にしているような心地であるに違いない。これらの菓子もまた、ダカルマスにとっては十全の完成度ではないのだが――しかし、トゥール=ディンの菓子を知らぬものであれば、至高の存在に思えるはずであった。
「子供というのは、無邪気なものでありますな! ……そして、恥ずかしながらこのわたしも、いつまでたっても子供じみていると叱責される立場であるのです!」
困惑の面持ちでたたずむ外務官長補佐へと、ダカルマスはそのように呼びかけた。
「きっとご存じでありましょうが、わたしは美味なる料理や菓子というものを、心の底から愛しております! それらを口にするために生きていると言っても、決して過言ではないでしょう! ……ゆえに! さまざまな食材の流通の充実に尽力しているわけでありますな!」
「はあ……左様でございますか」
「はい! 美味なる料理や菓子のためには、さまざまな食材が必要であるのです! もちろん塩をふっただけの肉であっても美味なことに変わりはありませんが、食材の数が多ければ多いほど選択肢は広がるのですからな!」
そんな風に講釈を垂れながら、ダカルマスは青いロールケーキを頬張ってみせた。
「うむ! 素晴らしい! このろーるけーきというのはジャガルの食材だけでも作りあげることが可能でありますが、この味わいはアマンサあってのものであるのです! アマンサなくして、青いろーるけーきはありえない! わたしは貪欲な人間でありますため、さまざまな食材でさまざまな料理と菓子を楽しみたいと願っているのです!」
「はあ……」
「ですからわたしは、外務官長補佐という身分に興味はありません! わたしの貪欲さは、美味なる料理と菓子のみに向けられているのです!」
そのひと言で、外務官長補佐は青ざめることになった。
そんな彼に、ダカルマスは心からの笑みを送ってみせる。
「あくまで風聞に過ぎませんが、あなたはわたしが外務官長補佐の座を狙っているのではないかと心配されていると聞き及びました! ですから、それがまったくの杞憂であるということをお伝えしたかったのです!」
「あ、いえ、わたしは……」
「繰り返しますが、わたしが執着しているのは、あくまで美食の存在です! 食材の流通の充実というものは、わたしの願望をかなえるための手段に過ぎないのです! わたしがそれを取り違えたら、大きな悲劇になるやもしれませんからな!」
そうしてダカルマスは、遠きジェノスへと思いを馳せた。
「……補佐官殿は、ジェノスのトゥラン伯爵家の先代当主、サイクレウスなる人物のことをご存じでありましょうかな?」
「は、はい……いちおう第三王子殿下から、ジェノスの情勢については聞き及んでおりますが……」
「サイクレウスという人物もまた、美味なる料理に執着していたものと聞き及んでおります。そのために食材の流通の充実をはかり……それと同時に、食材の独占を目論んだという話でありましたな」
王都の使節団はジェノスの情勢をうかがっていたし、ダカルマスもまた個人的に情報を収集している。そこでダカルマスは、サイクレウスという人物にまつわる悲劇もおおよそ把握することになったのだった。
「執着というのは、恐ろしいものです。美食への執着というのは例が少ないやもしれませんが、富への執着、権勢への執着、美しき異性への執着などを鑑みるに、向上心や情愛というものは、度が過ぎると害毒に変じる恐れがあるのです。美食に執着するわたしも、常に自らを省みる必要があるのでしょう」
「わたしが……権勢に執着している、と……?」
「いえ。あくまで、自身への戒めです。わたしは自分がどれだけ美食というものに執着しているか、その底知れなさを自覚しているつもりでありますからな。そんなわたしが道を踏み間違えたならば、サイクレウスなる人物と同じ悲劇に見舞われる恐れもあるでしょう」
そのように語りながら、ダカルマスは愛する子息の小さな頭に手を置いてみせた。
「幸いなことに、わたしはサイクレウスなる人物の真情が理解できません。わたしは果てしなく美食に執着しておりますが……それはこうして、多くの人々と喜びを分かち合うためであるのです。たったひとりで美味なる料理や菓子をむさぼって、それがどれほど幸福であるのか、わたしにはまったく想像がつかないのです。きっとサイクレウスなる人物には、余人と喜びを分かち合うことのかなわない、深刻な事情がおありだったのでしょうな」
「…………」
「ですがわたしはそこで慢心することなく、常に自分を顧みなければと思っております。わたしが懸命に頭を悩ませるのは、美食のため――そして、その喜びを余人と分かち合うため――わたしは美味なる料理を独占したり、権勢を求めたりしているわけではないのです。そして――この喜びの前には、官職にもつかない道楽者と誹られることなど、何ほどのものでもありません。それよりも、わたしは自由な立場から、自分の喜びを追い求めたく思います」
ダカルマスは子息の頭を撫でてから、口の周りをクリームだらけにした幼き貴婦人へと笑いかけた。
「幼き貴婦人よ、ろーるけーきにはご満足いただけたかな?」
「はいっ! とっても美味しいです!」
「それは何より。……こちらの貴婦人の笑顔もまた、わたしにとってはかけがえのない報酬であるのですよ」
幼き貴婦人に笑顔を返してから、ダカルマスはその父親にも笑いかけてみせた。
「長々と講釈を垂れてしまいましたが、わたしからは以上となります。わたしは外務官長補佐の座など欲してはおりませんし、兄君もまたそのような話は望んでおりません。あなたもどうか目を曇らせず、職務をご全うください」
「は……王子殿下の寛大なお言葉を、心に留め置きたく思います」
外務官長補佐はまだ困惑の面持ちであったが、その目に宿されていた猜疑の光は消えたように思えた。
そして、ぎこちなく笑いながら息女のほうに向きなおる。
「これ、菓子ばかり口にしていたら、身体に毒であろう。もう少し、他なる料理も口にするがいい」
「うん! 甘いお菓子をたくさん食べたから、今度はしょっぱいものが食べたくなっちゃった!」
そうして父娘は、他なる卓へと歩み去っていった。
その背中を見送りながら、第五王子は分厚い肩をすくめる。
「今の一幕は、いったい何であったのだ? 俺にはさっぱり理解できんかったぞ。……まあ、兄君は満足そうな顔つきであるがな」
「兄君?」とダカルマスが視線を巡らせると、どこからともなく第三王子が登場した。
「やあ、ダカルマス。けっきょくお前に手間をかけさせてしまったようだね」
「おやおや。それではやっぱり兄君も、補佐官殿のことを心配しておられたのですな」
「うん。だけどわたしは、余人に心情を伝えるのが苦手でね。こちらは素直に語っているつもりでも、何か裏があるのではないかと勘繰られてしまうのだよ」
「うわははは! あれこれ策謀を巡らせるから、肝心なときに信用を得られんのだろう! 少しは俺たちを見習って、あけっぴろげに生きればよかろうに!」
「それは、適材適所というものだ。きっと我々は気性が違っているからこそ、またとない力で王国を支えることができるだろう。……しかしこのたびは、ダカルマスの力を頼ることになってしまったね」
「まったくかまわんぞ。兄君の力が必要な際には、わたしも存分に頼らせていただくからな」
ダカルマスが笑顔を返すと、第三王子もはにかむように微笑む。それは彼が家族にしか見せない、至極純真な笑顔であった。
そして足もとからは、子息がくいくいと手を引いてくる。
「ねえ。僕もお肉が食べたくなっちゃった。はんばーぐ、あるかなぁ?」
「今日ははんばーぐではなく、肉団子のはずだな! では、そちらの卓を目指すとするか!」
「うん!」と元気に応じる子息とともに、ダカルマスもその場を離れることになった。
大広間には、ざわめきが満ちている。そこにはまぎれもなく喜びの念があふれかえっており――それこそが、ダカルマスの求めるものであるのだった。
(美味なる料理の独り占めなどを目論んだら、このような熱を味わうこともできん。そんなにもったいない話はなかろうよ)
今頃はジェノスでも、さまざまな場所で喜びの念があふれかえっているだろうか。
ダカルマスは、その熱気の中に飛び込める日が待ち遠しくてたまらなかった。




