第五話 南の美食家(上)
2022.10/21 更新分 1/1
「お待たせいたしました。本日の晩餐がご準備できました」
そんな言葉が届けられると、食堂に喜びのざわめきが広がった。
屋敷の主人たるダカルマスは、広大なる卓の上座でそれらの賑わいを聞いている。本日は珍しくも祝宴や晩餐会が開かれることもなく、家族だけで食卓を囲むことになったのだ。
卓についている人間の数は、6名。ダカルマスとその伴侶と、ふたりの間に生まれた4名の子供たちだ。その場には、ジェノスに留学している第一息女デルシェアを除くすべての家族が顔をそろえていた。
「今日の晩餐は何かしら。とても楽しみだわ」
「うん。最近は、目新しい料理が多いもんね」
「あら、うちの屋敷で献立に飽きることはないでしょう?」
「それはそうだけど、父様がジェノスから戻ってからはいっそう目新しい献立が増えたからね」
そのような言葉を交わしているのは、13歳になる第二息女と10歳になる第一子息である。まだ6歳である第二子息と3歳である第三息女は、そんな兄姉たちのやりとりをにこにこと笑いながら聞いていた。
王族としてはいささかつつしみに欠ける行いであるかもしれないが、家族だけの場では自由に語らうことを許している。よって、給仕にいそしむ侍女たちも、子供たちの無邪気なふるまいを温かい眼差しで見守ってくれていた。
そうして各人の前に料理の皿が並べられて、次々に蓋が開けられていくと、いっそうの賑わいが広げられた。ダカルマスの伴侶も、「まあ」と喜びの声をあげる。
「とても刺激的な香りね。今日はジェノス料理づくしということかしら?」
「左様にございます。お気に召しましたら幸いに存じます」
卓のそばに控えた屋敷の料理長が、恭しげに一礼する。まだ30歳を過ぎたばかりの齢であるが、ダカルマスが全幅の信頼を置く料理長だ。4名の子供たちも、すっかりはしゃいでしまっていた。
「主菜から副菜までジェノス料理づくしなんて、まるで夢みたいだわ!」
「うん! 僕もジェノス料理は大好き!」
「これもみんな、父様のおかげね! 普通は車でひと月もかかる土地の料理なんて味わえないもの!」
「うん! デルシェア姉様も、今ごろ美味しいジェノス料理を食べてるんだろうなぁ」
「では、せっかくの料理が冷めない内にいただきましょう」
伴侶の言葉を号令として、本日の晩餐が開始された。
ダカルマスもまた南方神に感謝を捧げつつ、食器を手にする。もちろんダカルマスの胸にも、大きな期待と喜びの念が去来していた。
主菜は、シャスカを使ったハンバーグカレー。
副菜は、生春巻きとハッセルバック・チャッチ。
汁物は、クリームシチュー。
いずれも、ダカルマスがジェノスの料理人アスタから調理法を伝え聞いた料理ばかりである。現在もなおデルシェアはジェノスで調理の勉強に励んでいたが、ダカルマスは故郷の人々にジェノス料理の素晴らしさを伝えるべく、主要の料理の調理法を書面に書き記させていただいたのだった。
ダカルマスの屋敷の料理番たちがこれらの料理を再現するには、それなり以上の時間がかけられている。しかし、ダカルマスが帰国してから3ヶ月ていどが経過した現在、これらの料理もあるていどの完成を迎えられたはずであった。
(そう……あくまで、あるていどの完成であるのだ)
シャスカの扱い方などは、もうずいぶん手馴れてきたようである。カレーに使われているシャスカはもちろん、生春巻きで皮に使われているシャスカのほうもジェノスで味わったものと遜色のない仕上がりであった。
ハッセルバック・チャッチに関しても、文句のつけようはないだろう。こちらはチャッチに切れ目を入れて具材をはさみこみ、窯で焼きあげるという簡素な料理であるのだ。まあ、細かな部分では工夫が凝らされているようであったが、ダカルマスの屋敷で働く歴戦の料理番の手にかかれば何ほどのこともなかった。
ただし、ハンバーグカレーに関しては、完全なる再現も望めなかった。そもそもカレーで使用される香草の配分というのはジェノスにおいても秘匿されていたし、なおかつダカルマスもまだジェノスで流通しているシムの香草を全種類買いつけることはできていないのだ。
そしてさらに、ジャガルにはギバ肉が存在しない。
ダカルマスは個人的にギバの干し肉と腸詰肉を買い求めていたが、それはハンバーグに転用できるものではなかった。腸詰肉というのは細かく挽いた肉を腸に詰め込んだものであるので、そのまま皿に添えたほうが手っ取り早いぐらいであろう。
しかしやっぱり、保存のために極限まで水抜きをして香草などを添加した腸詰肉では、趣が異なるものである。それはそれでカレーに調和するように思えたが、ハンバーグカレーとは異なる料理と定義するべきであった。
よって本日のハンバーグカレーにも、腸詰肉は使われていない。こちらはカロンの新鮮な肉を使った、料理番たちの研究と修練の結果であった。
「カロン肉はカロン肉で、ハンバーグに適した肉質であると思いますよ。自分たちはギバ肉にこだわりがあるのでカロン肉を扱うことはほぼありませんが、森辺の民ならぬ方々でしたらご満足いただけるかと思います」
かつてダカルマスは、アスタからそのように聞かされていた。
確かにこちらのカロン肉で仕上げられたハンバーグも、まったく悪いことはない。ギバ肉とはまた異なる魅力を構築することができているだろう。
ただ――ダカルマスは、手放しで満足することはできなかった。
ハンバーグの仕上がりが上出来であっても、そもそもカレーのほうが不完全であるのだ。使用する香草の種類そのものは明かされていたし、カレーに不可欠であるという4種の香草はそろっているはずであったが――しかしやっぱり、ジェノスで口にしたカレーとはまったく異なる仕上がりであったのだった。
それでもダカルマスの屋敷の料理番たちは、満足のいく味わいを実現させるべく力を尽くしてくれた。その甲斐あって、こちらのカレーもある種の完成を迎えたのだろうと思う。足りない香草の代わりにミャームーやケルの根を駆使したこちらの料理は、南の民にとって本来のカレーよりも馴染み深く感じられるのではないかと思えるぐらいであった。
その証拠に、ダカルマスの家族たちは誰もが満足そうにハンバーグカレーを食している。
また、ダカルマスは王城での祝宴や大がかりな晩餐会でもこれらのジェノス料理をお披露目しており――そういった場でも、ハンバーグカレーはきわめて好評であったのだった。
(ただ、やはり……アスタ殿の作りあげるはんばーぐかれーのほうが美味であるということに間違いはないのだろう)
それに、クリームシチューである。
こちらもまた、森辺の料理人が作りあげるクリームシチューとは、まったく異なる仕上がりになっている。ギバ肉の代わりにキミュス肉を使うという差異ばかりでなく、料理の質そのものが違っているように思えるのだ。
もちろんこちらのクリームシチューも、まったく不出来なことはない。
だがやはり、帳面に記された情報だけを頼りに料理を再現するというのは、至難の業であるのだろう。それが異国の目新しい料理となれば、なおさらである。ダカルマスから帳面を受け取った料理番たちは、「なんとも奇妙な調理法でありますな!」と目を剥いていたのだ。
「こちらのかれーなる料理はシムの香草を主体にしているのですから、我々にとって馴染みが薄いのも道理でありましょう。ただ、こちらのくりーむしちゅーというのは……これといって目新しい食材も使われていないのに、たいそう奇妙に思えてなりません」
沈着なる料理長も、当初はそのように言いたてていた。
「熱した乳脂にフワノ粉を投じ、それらが馴染んだらかまどから遠ざけてカロンの乳を加える。それを再び火にかけながら、さらにカロンの乳を加え――と、こういった工程にいかなる意味が込められているものか、書面を目にするだけではとうてい理解に至りません。これはもう実際に手掛けながら、発案者の思惑を突き止めるしかないのでしょう」
そうして料理長たちは試行錯誤を繰り返し、こちらのクリームシチューを作りあげたわけであるが――結果は、この通りである。
決して、不出来なわけではない。
ただし、ジェノスで口にしたクリームシチューとは、まるで別物である。これが、書面の情報のみで再現する料理の限界であるのだろう。
「……父様は、ずいぶん浮かないお顔ですわね?」
第二息女が不思議そうに声をあげると、料理長が申し訳なさそうに一礼した。
「本日も王子殿下にご満足いただける料理をお出しできず、申し訳ない限りでございます」
「いやいや! 何も謝罪には及ばない! 其方はこの王都で一番の料理人であるぞ!」
「でも、ジェノス料理が出された日は、いつも父様は浮かないお顔であるわよね」
「うん。こんなに美味しいのに、不思議だよね」
と、第一子息もいくぶん心配げな眼差しを向けてくる。
ダカルマスが返答に窮していると、伴侶がやわらかく微笑みかけてきた。
「何も言葉を飾る必要はございませんわ。家族の間に、隠し事はなし――それが、わたくしたちの家訓でしょう?」
「……うむ。そうだったな。ついつい家族に心配をかけまいとして、わたしらしからぬ振る舞いに及んでしまったようだ」
そう言って、ダカルマスは大切な家族たちに笑いかけてみせた。
「だが実際、料理に不満があるわけではないのだ! これらの料理は、いずれも素晴らしい出来栄えである! ……ただわたしは、どうしてもジェノスで口にした料理との差異が心に引っかかってしまうのであろう」
「ジェノスで食べた料理とは、そんなに味が違っているの?」
「うむ! まったく違っている! しかしそれは、致し方のないことなのであろう! そもそも同じ料理でも、作り手が別人であれば異なる仕上がりになるのが当然であるのだからな!」
すると、まだ6歳である第二子息が「ふうん」と声をあげた。
「そういえば、ジェノスの料理ではギバのお肉が使われてたんでしょ? それなら、味が違っても当たり前だよね。キミュスの料理にカロンを使ったら、ぜんぜん違う味になると思うもん」
「でも、それ以外は書面の通りに作っているんでしょう? まあ、かれーという料理は香草が足りない上に分量もわからないみたいだから、まったく違う味わいになっているらしいけれど……このくりーむしちゅーでは目新しい食材も使われていないし、ギバ肉ではなくキミュス肉でもまったく問題はないという話なのだから、書面を見るだけで十分なのじゃないかしら?」
第二息女の言葉に、料理長は「いえ」と応じた。
「確かに王子殿下から賜った書面には、事細かに調理法が記されておりましたが……それだけで未知なる料理を完全に再現するのは、不可能なのであろうと存じます」
「何故かしら? 食材の分量だとか、火にかける時間だとか、そういうこともきちんと記されているのでしょう?」
「はい。ですが……たとえば、火加減です。あちらの書面には弱火、中火、強火という言葉でもって火加減までもが指定されておりまして、弱火とはすなわち火の先端が鍋に届く寸前の状態であると定義されておりましたが……火の加減を一定に保つというのは難しいものでありますし、使用する鍋によって加減も異なってくるでしょう。そういった加減を書面のみで伝えるというのは、やはり困難なのであろうと存じます」
「えーっ! 火加減って、そんなに細かく取り決められているものであるの? わたしには、まったく想像がつかないわ!」
「それらの加減は、料理人の感性にゆだねられる部分が多いのであろうと存じます。ゆえに、書面に書ききれない領域というものが存在するのでしょう」
あくまでも穏やかな面持ちで、料理長はそのように言いつのった。
「なおかつ我々は、正しい完成の形を知らぬままに、自分なりの感性で答えを出そうと試みております。たとえば……ご息女様は、ランドルの兎という獣をご存じでありましょうか?」
「ランドルのうさぎ? 知らないわ。神話か御伽噺にでも登場する獣なのかしら?」
「いえ。それは寒冷の厳しい地域に生息する、異国の獣の名となります。耳は長く、色は白く、鼠に似た面立ちであり、後ろ足は跳躍のために発達している――という特徴を備えているそうですが。我々は実物のランドルを目にしたこともないまま、そういった情報だけを頼りにランドルの姿を描こうとしているようなものであるのやもしれません」
料理長の小粋なたとえ話に、第二息女は「まあ」と笑った。
「それは確かに、難儀な話であるのでしょうね。それで実物そっくりに描けるほうが、不思議に思えるほどだわ」
「はい。そうしてランドルの絵を描こうとする人間は、自分なりに調整を施すことになりましょう。耳が長いといっても長すぎては不格好ですし、発達した後ろ足というのもまた同様です。それと同じように、我々も自分なりの感性で火加減や食材の分量などを細かに調整することになり――その結果、本来の答えとはずいぶん異なる答えに辿り着いてしまうのでしょう」
「しかし! 其方の力量は、決してアスタ殿に劣るものではない! 其方は独自の答えに行き着いたが、それは決して間違った答えではないはずだ!」
ダカルマスは断固として、そのように言ってみせた。
「そうであるからこそ、わたしも其方に完全なる再現などは求めていなかった! 他なる料理人の考案した料理をそのまま再現させるなど、其方の才覚を否定するも同然の行いであろうからな!」
「王子殿下の寛大なるお言葉は、心よりありがたく存じます。ですが……そのご期待に応えることのできない我が身を、いっそう口惜しく思います」
「いや、だから――!」
「ですがそれは、我々が正しき答えを知らぬゆえでありましょう。ランドルの姿を目にすれば、正しく描くことが可能になり――そこで初めて、自分なりの調整というものを施すことが可能になるのです」
「つまりそのために、姉様がジェノスで学ばれているということね?」
第二息女の言葉に、料理長は「はい」と微笑んだ。
「長きにわたってジェノスに滞在されたデルシェア姫であれば、アスタなる人物の作法を正しく見定めることがかなうでしょう。ですからわたくしも、デルシェア姫のお帰りを心待ちにしております」
「僕も早く、姉様に会いたい!」
「本当よね! いくら料理のためとはいえ、こんな何ヶ月も異国に留まるなんて奔放に過ぎるわ!」
きゃあきゃあと騒ぐ子供たちに一礼してから、料理長はダカルマスに向きなおってきた。
「ランドルの姿を目にしたならば、わたくしは誰よりも美しき絵を描いてみせましょう。ですから、どうか……デルシェア姫がお帰りになるその日まで、ご容赦を願いたく思います」
「うむ! やはり其方は、わたしが見込んだ料理人であるな! わたしこそ、其方の覚悟と賢明さを見誤っていたことを詫びさせてもらいたく思う!」
ダカルマスは、心よりの笑顔を料理長に届けてみせた。
「ただし! わたしも自分の言葉を取り消すつもりはない! 其方はランドルを目にしたこともないままに、これほど見事な絵を描きあげたのだ! これでランドルを目にしたならば、さぞかし力強い絵を描きあげてくれることであろう!」
すると、まだ3歳である第三息女がきょとんとした顔で視線をさまよわせた。
「ランドルのえ、どこ? わたしも、みてみたい」
「あのね。ランドルの絵というのは、たとえ話よ」
第二息女が手をのばして、妹の小さな頭を撫でる。伴侶や他の子供たちは笑い声をあげ、ようやくもとの賑やかさが蘇ったようであった。
「ただ心配なのは、ジェノスの情勢ですわね。ジェノスは畑に大きな被害が出て、食材が足りていないという状況なのでしょう?」
ひとしきり笑ったのち、伴侶がそのように声をあげた。
「ジェノスは交易が盛んなので、飢える心配はないという話でしたけれど……食材の種類に不足があれば、なかなか勉強も進まないのでしょうね」
「うむ。だからデルシェアも、復活祭を終えたのちはまたすぐさまジェノスに向かいたいと言いたてているわけであるな」
というよりも、デルシェアはもともと復活祭もジェノスで過ごしたいと主張していたのだ。それが無理なら、復活祭を終えた後にまた留学を許してほしいと、使者を通じてそのように懇願してきたのである。
もちろん復活祭を異国で過ごさせることなどは容認できなかったため、デルシェアは使節団とともに一時帰国する手はずになっている。今はもう藍の月の半ばであるので、そろそろジェノスを出立する頃合いであるはずであった。
「姉様が戻ってくるまで、あとひと月かぁ。ひと月も荷車に揺られるなんて、わたしには想像もつかないわ!」
「うん。それにジェノスには、東の民もいっぱいいるんでしょ? 姉様、危ない目にあってないかなぁ」
「大丈夫ですよ。西の領地で諍いを起こすことは、強い禁忌とされていますからね。それに、西の地を訪れる東の民には、温和な人間が多いのでしょう?」
「うむ! 悪名高きゲルドの民すら、礼節をわきまえているようであったからな! まあ、わたしが対面したのは料理番の少女のみだが、ゲルドの貴人というのもそれは同様であるそうだぞ!」
「ロブロス殿のお言葉であれば、信頼に値しますわね。でも、デルシェアがゲルドの民と一緒に調理の勉強をしているだなんて……最初にお話をうかがったときには、目が眩みそうになってしまいましたわ」
そのように語りながら、伴侶は柔和な笑顔である。彼女はいわゆる先祖返りで、紫色の瞳をしており、すらりとした体躯で背も高い。立って並べば、ダカルマスより頭半分以上も長身なほどだ。しかし、性根は頑健でありながら、いつでもたおやかな態度を崩さない、貴婦人の鑑のごとき存在であった。
そんな母親に似ているのは第二息女のみで、まだ13歳であるのに姉のデルシェアよりも長身だ。それに、活発で無邪気な気性であるものの、デルシェアほど奔放な部分は持っていなかった。
(だからやっぱりデルシェアは、わたしに似てしまったのだろうな)
デルシェアは第一息女という身でありながら、調理の修練に明け暮れている。幼い頃から厨に入り浸り、自分でも美味なる料理を手掛けたいと、周囲の人間を困らせていたのだ。
ダカルマスも、当初はデルシェアをたしなめる側であった。そもそもデルシェアが美食に目覚めたのはダカルマスの影響であったのだが、自ら調理に励みたいなどというのは、また別の話であろう。末席中の末席とはいえ、王族の人間が調理にうつつを抜かすなど、まったく例のない話であったのだ。
ただ、デルシェアの熱意は本物であった。王族としてのつとめも決して忘れたりはしないから、どうか厨に立たせてほしい、と――わずか10歳にもならぬ内に、涙ながらに訴えてきたのである。
そうして厨に立たせてみると、デルシェアは速やかに料理人としての才覚を開花させた。幼い内には火を扱うことを禁じていたが、彼女は熱心に料理番の手際を見て学び、それを次々と習得して、ついにはいっぱしの技量を身につけてしまったのだった。
現在のデルシェアは16歳であるので、一人前と呼べるようになったのは13歳ぐらいの折であろう。さらにそれから3年ほどの時間をかけて、彼女はいっぱし以上の腕前に――この、才能ある料理人であふれかえったダカルマスの屋敷において、3本の指に入るほどの料理人に成長を果たしたのだった。
(そして今回の留学によって、デルシェアはさらなる成長を果たすことであろう。うまくいけば、副料理長に迫ることもできるやもしれんな)
そんなデルシェアがジェノスからさまざまな成果を持ち帰り、料理長たちに伝授したならば、いったいどれだけ美味なる料理が生み出されることになるか。そのように想像するだけで、ダカルマスは胸が躍ってやまなかった。
(きっとわたしはそんな期待を抱えているがゆえに、今の料理の出来栄えにいっそう満足がいかぬのだろう)
こちらの料理長の実力は、本物である。そんな彼がジェノス料理の正しき姿を知ったならば、このていどの仕上がりで終わるはずがない。むしろダカルマスは、彼ほどの技量を持つ人間にこのていどの成果を授けることしかできなかった自分に不満を覚えているのであろうと思われた。
(だからわたしは、ジェノスに居残りたいと願うデルシェアのことをたしなめようという気になれなかったのやもしれんな)
アスタを筆頭とするジェノスの料理人たちは、数々の未知なる作法を体得している。
さらに彼らは、料理人としての志も高かった。富や名声のためではなく、ただ美味なる料理で人を幸せな心地にしたい――アスタや森辺の料理人たちは、そのような心意気で調理の仕事に臨んでいるのだ。
いっぽう城下町の料理人ヴァルカスは、芸術家気質の料理人である。あちらはアスタとまったく異なる意味合いで――それでもアスタと同じぐらい純然と、美味なる料理を追求しているのだろう。
そしてゲルドの料理人プラティカは、まるで戦士のごとき気迫と覚悟でもって調理の仕事に取り組んでいる。東の民と手を取り合うことは許されないが、ダカルマスは彼女にもひそかな敬意を抱いていた。
さらに、トゥール=ディンはあのような若年でとてつもない技量を身につけているし、レイナ=ルウの気迫はプラティカに匹敵するほどであるし、ヴァルカスの弟子たちも熱心さでは負けていないし、ダイアは彼女ならではの美意識というものを有しているし、ティマロは気取ったたたずまいの裏に熾火のごとき情念を隠し持っているようであるし――ダカルマスにとってジェノスというのは、宝の山のように思える地であったのだった。
(莫大なる種類の食材に、さまざまな才覚を秘めたる料理人たち……あのような場で修行を積めば、デルシェアもまたとない経験を得ることがかなうだろう)
だからダカルマスはデルシェアの留学を許可したし、その帰りを心待ちにしていた。そして復活祭を終えたならば、今度はダカルマスもともにジェノスへと向かうのだ。
取り残される家族たちには、申し訳ない限りであったが――ダカルマスは目の前に迫った復活祭よりも、来たるべきジェノスへの遠征に胸を弾ませてしまっていたのだった。




