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異世界料理道  作者: EDA
第七十三章 群像演舞~八ノ巻~
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     愚者の畢生(三)

2022.10/19 更新分 1/1

 伴侶を失ったその後も、サイクレウスは美味なる料理に耽溺した。

 日を重ねるごとにサイクレウスの肉体は弱っていくようであったが、医術師に救いを求めようという気持ちにもなれない。その代わりに、サイクレウスはシムの香草で薬膳の料理を仕上げるように命じるばかりであった。


 日中は公務に没頭し、中天と夜に食事を楽しみ、晩餐を食べ終えた後は泥のように眠る。サイクレウスはこれまでそのように生きてきたし、魂を返す瞬間まで同じ日々を繰り返すのだ。それ以外に、サイクレウスが辿るべき道は存在しなかった。


 母を失ったリフレイアは、父親を刺すような目でにらむ子供に育った。しかしそれも、サイクレウスにとっては居心地がいいぐらいである。サイクレウスは大罪人であるのだから、他者からの憎しみこそがもっとも相応しいはずであった。


 そうしてサイクレウスは、幼き我が子を顧みることなく日々を過ごしていたのだが――ある日、ささやかな事件が起きた。執務の合間に食した軽食が、まったく馴染みのない味わいをしていたのだ。

 カロンの乳や乳脂、ジャガルの砂糖やパナムの蜜、それにいくつかの香草を使ったフワノの焼き菓子である。数日前にも同じ外見をした菓子を食していたが、格段に味がよくなっていたのだった。


「こちらの菓子は、新たな食材を加えた様子も見受けられないが……それでどうして、こうまで異なる味わいに仕上げられたのであろうかな……?」


「は、それは……リフレイア様のご要望に応えた結果でございまして……」


 執務室に呼び出された老齢の料理長は、冷や汗を流しながらそのように弁明していた。


「リフレイアの要望とは……? 細かに説明してみせよ……」


「は、はい。これまでの菓子は香草の風味がきつく、乳脂の風味が物足りないというご指摘を受けまして……それで調整を試みたところ、確かに味が向上したように見受けられましたので、伯爵様にもご賞味いただこうと愚考した次第でございます」


 確かにこちらの菓子は、素晴らしい味わいに変じたように感じられる。

 ただサイクレウスは、手放しで賞賛する心づもりにはなれなかった。


「たかだか4歳の幼子に助言を乞おうとは、頼りなきことよな……それに、シムの香草を減らしたならば、そのぶん滋養を損なうことになろう……其方は滋養を損なうことなく、味の向上に努めるように取り計らうべきではなかろうかな……?」


「も、申し訳ございません! 今後も力を尽くすことをお約束いたします!」


 それでサイクレウスは料理長を下がらせたが、胸の奥には別なる感慨も生まれていた。

 どうやらリフレイアはサイクレウスの知らないところで、美食家としての素養を育んでいたようなのである。それはサイクレウスにとって、何か落ち着かない心地にさせられる感慨であった。


(わたしはリフレイアが生誕してより、父として慈しんだ覚えもない……しかしその身には、確かにわたしの血が流れているということか……)


 そしてそれは、トゥラン伯爵家の呪われた血筋でもあるのだ。

 愚鈍なる先代当主と、その長兄――暴虐なる末弟と、脆弱なる次兄――サイクレウスの知る限り、トゥラン伯爵家に真っ当な人間は存在しなかった。それゆえに、サイクレウスは子を生そうという心持ちになれなかったのである。


 しかしサイクレウスにはリフレイアばかりでなく、ダバッグの別邸に隠し子まで存在する。リフレイアより9歳も年長であるその隠し子も、すくすく成長しているものと聞き及んでいた。


(どうしてわたしは、女人に慰めなど求めてしまったのか……やはりわたしの血筋など、後世に残すべきではなかったのだ……)


 サイクレウスは、錆びついた心が頼りなく軋むのを感じた。

 そうしてダバッグにかりそめの用事をこしらえて、別邸へと向かうことに相成ったのだった。


『必要な銅貨、準備する。其方たち、シム、戻るべきであろう』


 サイクレウスがそのように伝えると、情婦はまた無表情のまま透明の涙をこぼした。


『私はすでに、故郷よりもこの地で過ごした時間のほうが上回っています。そしてサンジュラは、この地で生まれ育った西の民であるのです。私の身など、どうなってもかまいませんが……どうかサンジュラだけは、あなたのおそばに置いてあげてください』


『……我、子供、引き取ったならば、道具として、使役する、約束である』


『それでかまいません。子供は、親とともにあるべきなのです。そして親もまた、子供とともにあるべきなのです』


 そう言って、情婦はサイクレウスに取りすがってきた。


『私とあなたの間に、確かな情愛は存在しませんでした。ですがあの子は、まぎれもなくあなたの子供であるのです。どうか子供には、情愛をお授けください。そうすることで、あなたの心も救われるはずであるのです』


 それはサンジュラという隠し子ばかりでなく、リフレイアについてまで語られているような心地であった。

 それでサイクレウスは胸中の鬱屈を晴らすこともできないまま、ジェノスに戻ることになったのだった。


 鬱屈したサイクレウスは、さらに美味なる料理を求めた。

 しかし最近では、屋敷で出される料理にも満足できなくなっている。屋敷の食料庫には目新しい食材があふれかえっているというのに、それを満足に使いこなせる人間が存在しないのだ。屋敷の厨にはジェノス中の名のある料理人をかき集めたつもりであったが、それでも用が足りないようであった。


(かえすがえすも、ダイアなる料理人を獲得できなかったのは痛手であった……まさかこちらが手をこまねいている間に、ジェノス城の料理番に取りたてられてしまうとはな……)


 そうしてサイクレウスが鬱屈している間にも、粛々と時間は流れ過ぎ――伴侶の死から2年ほどが過ぎた頃、思わぬ邂逅が訪れた。ジャガルから高名な料理人を呼びつけてその腕をふるわせているさなか、まったく無名の料理人が屋敷に乗り込んできたのである。


「わたしは、ヴァルカスと申します。美食家として名高いトゥラン伯爵にわたしの料理を味わっていただきたく思うのですが、いかがでありましょうか?」


 サイクレウスは何の期待もなく、そのヴァルカスなる料理人に料理を作らせた。そうして、頭を叩き割られるほどの衝撃を味わわされたのだった。

 ヴァルカスなる料理人は、魔法のような手際で数々の食材を使いこなしてみせた。とりわけシムの香草の扱い方などは、東の民を上回るほどである。どうしてこれほどの腕を持つ料理人が市井に埋もれていたのか、理解に苦しむところであった。


 そうしてサイクレウスは、ヴァルカスなる料理人を料理長に任命することになった。老齢の料理長は、使用人の厨を預かる料理番に格下げである。サイクレウスは、それこそこの世でただひとつの宝を手にしたような心地であった。


 それからほどなくして、また新たな料理人が屋敷に乗り込んできた。それは屋敷の晩餐会にてたいそうな失敗をやらかした料理人の弟子であり、名をティマロといった。

 そのティマロなる料理人に軽食の菓子を作らせてみると――まずまずの腕である。菓子作りだけは不得手にしているヴァルカスと、およそ五分といった力量であった。

 なおかつ、同じ場で菓子を食して味比べに興じたリフレイアは、ティマロにすべての星を捧げていた。6歳となっていよいよ美食家としての片鱗を見せ始めたリフレイアは、ティマロの菓子がたいそうお気に召したようであるのだ。


 それが理由のすべてではないが、サイクレウスはティマロをも召し抱えることになった。それが期待にそぐわないような存在であったなら放逐するだけで事は済むのだから、才覚を感じる料理人はすべて手もとに確保するべきであるのだ。ティマロはたいそう尻込みしている様子であったが、目新しい食材の流通を牛耳っているのはサイクレウスであるのだから、こちらの命令に逆らえるわけもなかった。


 そしてさらに、同じ年――城下町の様子を探らせている人間から、奇妙な話が舞い込んできた。

 市井では、「ジェノスの三大料理人」などというものが取り沙汰されていたようなのである。

 そのうちのひとりはこの屋敷で名をあげたヴァルカスであり、もうひとりはジェノス城の料理長にまで成り上がったダイアであり――最後のひとりは、ミケルなる男であった。


 そのような名は、これまでに聞いた覚えもない。

 しかしヴァルカスの存在とて、サイクレウスはまったく見知っていなかったのだ。ヴァルカスやダイアに並び立つとまで称された料理人であるならば、その腕を確かめずにはいられなかった。


 そうしてサイクレウスはそのミケルなる料理人を屋敷に呼びつけて、料理を作らせた。

 ミケルはサイクレウスとほとんど年齢の変わらなそうな、壮年の男である。西の民としてはそれなりに背が高く、ごつごつとした骨ばった体格をしており、いかにも頑固な職人めいた風貌をしていた。


 そのミケルの力量は――なんとも判別し難かった。

 不出来なことは、まったくない。しかしそのミケルという料理人はサイクレウスと縁のないちっぽけな料理店で働いていたため、目新しい食材というものを扱うすべを有していなかったのだった。


 ただ何か、心を動かされる味わいである。

 この男が自由に食材を扱えるようになったならば、いったいどれだけの料理を作りあげることがかなうのか――そんな期待感をそそられる仕上がりであった。


 よってサイクレウスは、そのミケルなる料理人も召し抱えようと考えた。

 しかしミケルは、礼儀正しい態度を取りつくろいながらそれを拒絶した。


「まことに申し訳ありませんが、自分ごときが伯爵家の料理番を務めるなど分不相応の限りでございます。どうかご容赦をお願いいたしたく存じます」


 口調は丁寧なものであるが、その顔は仏頂面のままである。

 なんとなく――サイクレウスには、それが愉快な心地であった。


(この世には、貴族をも恐れぬ人間もいるというわけか……かつてのザッツ=スンのような武力を携えているなら、いざ知らず……たかだか料理人が、大それたものよ)


 サイクレウスは手を振って、ミケルを屋敷から追い出した。

 もとよりミケルはサイクレウスと縁のない料理店の人間であったため、目新しい食材の流通を差し止めるという脅しも使えない。ならばこの先も永遠に縁を持たぬまま、それぞれ魂を返すばかりである。


 話は、それで終わったはずであった。

 だが――その翌日、シルエルがひさびさに屋敷にやってきたのだった。


「ひさかたぶりだな、兄君よ。最近はまた、数々の料理人を屋敷に雇い入れたそうではないか。これはこの夜の晩餐も楽しみなことだな」


 そのように語るシルエルは、にたにたと不気味に笑っていた。

 幼き頃、虫や小鳥を害していたときと同じ笑み――そして、父を死なせた夜と同じ笑みである。


「しかし、最後のひとりには、すげなく拒まれたという話だな。いまやジェノス侯爵家に迫るほどの力と権勢を得たトゥラン伯爵家に逆らうとは、とんだ恐れ知らずがいたものよ。……今頃は、そやつも己の愚かさを悔いていようよ」


「……其方は、何を言っておるのだ……?」


「トゥラン伯爵家の名誉を汚した人間には、相応の報いが必要だということだ。罪には、罰が必要であろう?」


 サイクレウスは、ここ最近で胸を満たしていたものがするすると流れ落ちていくような心地であった。


「其方は……あのミケルなる料理人を殺めたのであろうか……?」


「そんな簡単に殺めてしまっては、己の罪を悔いるいとまもあるまい。死んでしまえば、苦しみもそこまでなのだからな。まあ、あの身体ではもう刀を握ることもできなかろうから、明日には城下町を追い出されることになろう」


 そうしてシルエルは高笑いを響かせながら、執務室を出ていった。

 サイクレウスは、己の空虚さと対峙する。ここ数ヶ月はシルエルの姿を見ることもなく、ヴァルカスやティマロといった者たちとの出会いもあったため、サイクレウスは何かを見誤っていたのかもしれなかった。


(そう……わたしは、シルエルの影であるのだ。わたしに逆らうということは、シルエルに逆らうのと同義であるのだ。だから、ミケルは……破滅するしかなかったのだ)


 シルエルはこの朝まで、屋敷に姿を見せていなかった。しかし、サイクレウスがヴァルカスたちを雇い入れたことも、ミケルに拒絶されたことも、すべてわきまえている。トゥラン伯爵家というのはシルエルの準備した舞台であり、サイクレウスはそこで踊る傀儡に過ぎないのだった。


 そうしてサイクレウスは、空虚な日常を取り戻し――その翌年、別邸に囲っていた情婦が魂を返した。

 何か厄介な病魔を患ったようだという話は伝え聞いていたが、サイクレウスは別邸を訪れたりもしなかった。それを機会に別邸を売り払い、サンジュラなる隠し子を屋敷に呼び寄せることにした。


 サンジュラは、母親とそっくりの怜悧そうな面立ちをしていた。

 それに、東の民そのものの風貌であるが――その髪と瞳だけは、色の淡い茶色である。サイクレウスとしては、呪われた血筋を受け継がせた罪をまざまざと見せつけられたような心地であった。


 初めてサイクレウスと相対したサンジュラは、反感に満ちみちた眼差しを突きつけてくる。父親の正体は知らされていないはずであるが、よほど愚鈍な人間でない限り察しはつくだろう。そうして彼は、母親の死に目にも姿を現さなかった不義なる父親に怒りを燃やしていたのだった。


(かつてはリフレイアも、そのような目つきでわたしをにらみつけていた……それこそが、もっとも正しい姿であるのだ)


 サイクレウスの胸に去来するのは、そんな思いばかりであった。

 いつかサンジュラやリフレイアがサイクレウスの生命を奪うような事態に至れば、それでかまわない。サイクレウスを滅ぼすことができるのは、忌々しい運命に屈さず、己の激情や信念に従える人間のみであるのだ。もしも自分の血を引く人間がそんな境地に至るのならば、いっそ小気味いいぐらいであった。


 そうしてサンジュラを呼び寄せてからしばらく経つと、またシルエルが獲物のにおいを嗅ぎ当てた猟犬のように屋敷へやってきた。


「兄君は、たいそう腕の立つ東の民を手駒にしたそうだな。よければ俺にも、そやつの力をお貸し願えないだろうか?」


 やはりシルエルは、当然のようにサンジュラの存在を把握していた。


「俺のほうでも、新たな手駒を工面したのだがな。どうにも血の気の多い連中で、仕事を任せる際には監査役の人間が必要であるのだ。それほど手をわずらわせることはなかろうから、よろしく願いたい」


「……仕事とは……? その者たちに、どのような仕事を任せているのだ……?」


 サイクレウスがそのように反問すると、シルエルは魔物のような顔で笑った。


「それはもちろん、ジェノスに仇なす大罪人どもの始末よ。護民兵団の働きだけでは如何ともし難い叛逆者どもを、秘密裡に始末する特殊部隊――とでも言っておけば、その東の民が胸を痛めることにもなるまいよ」


 シルエルはつい先日、《黒死の風》なる死罪人どもを脱走させたようであるのだ。そしてそのような悪行を働くために、護民兵団の副官や数多くの大隊長たちを仲間に取り込んだらしい。森辺の民という手駒を失ってからは、あまり大がかりな悪行を働いていなかったようだが――これからまた、己の欲得のために悪行の限りを尽くそうという心づもりであるのだろう。


 それらをすべてわきまえた上で、サイクレウスはサンジュラを貸し与えることにした。

 サンジュラは、サイクレウスにとっての道具なのである。道具をどのように扱おうとも、誰にも文句を言われる筋合いはないはずであった。


(其方の父は、魂の穢れきった暴虐の徒であるのだ……せいぜい、恨みぬくがいい……それこそが、もっとも正しい道であるのだ……)


 そうしてサイクレウスは、また空虚なる日常に埋没した。

 間もなく父が魂を返した齢に追いつくことになるが、もはやそのような話に感慨を覚えることもない。サイクレウスはどろどろに澱んだ汚泥の中に頭まで浸かりながら、神々に魂を召されるまで己の悦楽を追い求めるばかりであった。

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