表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界料理道  作者: EDA
第七十三章 群像演舞~八ノ巻~
1263/1695

     愚者の畢生(二)

2022.10/18 更新分 1/1

 シムの娘を情婦としてからの数年間は、サイクレウスも心の平安をわずかばかりに得ることができた。

 ただし、情婦はダバッグの郊外に住まわせているので、顔をあわせるのは月に1度や2度のこととなる。サイクレウスはこの情婦の存在を決してシルエルに知られてはならないと考えていたので、そうそうおおっぴらに通うこともかなわなかったのだ。


 しかしそれでも、サイクレウスが安らいだ心地でいられるのは、その情婦のそばにいるときだけであった。人形のように表情を動かさず、硝子玉のように虚ろな目をしたその情婦とともにあるときだけ、サイクレウスはすべての鬱屈を忘れることがかなったのだった。


 その頃には荘園の拡張もおおよそ完了し、さまざまな相手と通商を結ぶことができている。奴隷の数を増やすたびにトゥラン伯爵家の財政は潤っていき、サイクレウスはさまざまな食材を手にすることができた。そして、それらを城下町に流通させることで、さらなる富を築くことができた。

 しかし――サイクレウスの心は、まったく満たされていなかった。自分が望む通りに事業を発展させ、他なる伯爵家に匹敵するほどの繁栄を実現し、東や南の物珍しい食材を口にすることもできたというのに――サイクレウスは、空虚な気持ちを払拭することができなかったのである。


 それはもちろん、シルエルの存在ゆえであった。

 サイクレウスがどれだけの栄華を手にしようとも、それはシルエルの思惑に操られた結果なのではないか、と――そんな疑念が、どうしても消え去らないのだ。


 そもそもサイクレウスが当主となったのは、シルエルが父と兄を謀殺したためである。そして、サイクレウスの試みた事業がすべて順調に成功を収めているのも、シルエルが裏で暗躍しているためであるのだ。確かな証はなかったが、どうやらシルエルは非合法な手段でもって、トゥラン伯爵家の邪魔となる存在を処分している様子であったのだった。


 また、奴隷に仕事を奪われたために、トゥランの領民はこれまで以上に貧しくなっているようだと聞き及んでいる。

 サイクレウスがどれだけ尽力しようとも、それはトゥラン伯爵家を繁栄させるだけであり、領民にはまったく還元されていないのだ。もとよりサイクレウスは自分のためだけに力を振るおうと決した身であったが、それでも気持ちが虚ろになっていくのを止めることはできなかった。


 そんなサイクレウスの心を安らがせてくれたのが、シム生まれの情婦の存在であったのだ。

 サイクレウスが何を語り、どのように振る舞おうとも、情婦は心を動かすことがない。そんな情婦とともにあるときだけ、サイクレウスはすべての虚しさを忘れることができた。それはまるで、彼女の空虚がサイクレウスの空虚を相殺しているかのようだった。


 だが――そんな生活は、ものの数年で崩れ去ることになった。

 情婦と出会ってから、3年後。父が魂を返してからは、8年後。サイクレウスが、29歳となった年である。

 情婦が、サイクレウスの子を孕んだのだ。

 そして、それをサイクレウスに告げたとき、情婦の黒い瞳に初めて人間らしい輝きが灯されたのだった。


『私はこの数年間、なんの希望もなく人形のように過ごしておりました。でも……西と東の神々が、私に生きる意味を授けてくださったのです』


 情婦は、東の言葉でそんな風に語っていた。屋敷で雇っている人間が情婦と交流を深められないように、サイクレウスが西の言葉を学ぶことを禁じさせていたのである。


『……其方、産みたい、言うのか?』


 サイクレウスが拙い東の言葉で問いかけると、情婦は『はい』とうなずいた。


『私はこの子を育てるために、すべての力を尽くすとお約束します。ですからどうか、この子を産むことをお許しください』


『……我々、婚儀、挙げていない。その子、不義の子である』


『はい。私もあなたも、おたがいを愛したりはしていませんでした。ですが……おたがいの存在を欲していたのは、事実であるはずです。そうであれば、この子が私たちの歪んだ関係をも正してくれるのではないでしょうか?』


『……其方、我、欲する理由、存在しない』


『いえ。私が生きていると実感できるのは、あなたをお迎えしている間だけでした。それに……私はあなたのおかげで、おぞましい場所に売られずに済んだのです。もしもあなたが、私の身を欲してくださらなかったら……私がこのような喜びを授かることもできなかったに違いありません。だから私はずっと空虚な気持ちでしたが、あなたを憎んだことはありませんし……今では、深く感謝しています』


 東の民は感情を出さないため、そのように語る情婦も人形のように無表情なままである。

 しかし、その切れ長の目には、その口が語る通りの感情が宿されているように思えてならなかった。

 そうして、サイクレウスは――安らぎの場を失うことになったのだった。


 サイクレウスは、他者からの情愛など求めていなかった。だからこそ、人形のように空虚なこの情婦の存在を欲していたのだ。人間としての心を取り戻した人形など、サイクレウスには必要なかったし――自分を愛そうとする人間など、自分を憎悪する人間と同列の存在に他ならなかった。


『……条件、ふたつ、ある』


 よってサイクレウスは、そのように告げてみせた。


『ひとつ。赤子、産まれたならば、父親の正体、明かすこと、許さぬ。ふたつ。赤子、成長したならば、我、道具として使役する。……その条件、了承するならば、産むこと、許そう』


 情婦はそれでも、表情を動かそうとしなかった。

 ただ――その目から、透明な涙をひと筋だけこぼしていた。


『あなたが抱えた空虚というのは、それほどまでに大きかったのですね。でもきっと、この子が産まれたなら――』


『無駄口、不要である。其方、選択するがいい』


 情婦は、子を産むことを選択した。

 そうしてサイクレウスの安らぎの場は、永遠に失われることになったのだった。


 それから1年間、サイクレウスは情婦のもとを訪れなかった。何度か屋敷にまで足を運んだことはあったが、それは不慮の事態で出産が失敗に終わることを期待してのことである。

 しかし――たとえ出産が失敗に終わっても、安らぎの場が蘇ることはないのだろう。情婦はもう、人の心を取り戻してしまったのだ。それは彼女が他なる有象無象と同じ存在に成り下がってしまったことを意味していた。


 そうしてサイクレウスは空虚な気持ちのまま、1年ほどの時間を過ごすことになり――赤子が無事に産まれたと聞いたその年に、奇妙な者たちと邂逅することに相成った。


 ジェノスの名ばかりの領地であるモルガの山麓に住まう、狩人の一族――森辺の民である。

 それまで森辺の民の相手をする役割であった人物が老齢のために身を引くことになり、サイクレウスがその仕事を引き継ぐことになってしまったのだ。


「ふふふ。本来は、別なる人間がその役目を引き継ぐはずであったのだがな。俺が手を回して、兄君が役目を引き継げるように取り計らったのだ。兄君には世話をかけるが、まずは大過なくこの役目を果たしてもらいたい」


 サイクレウスの執務室にやってきたシルエルは、そのように語っていた。


「……どうしてわたしが、そのような役目を? そやつらは、何かトゥラン伯爵家にとって有益な存在であるのか?」


「森辺の狩人というのは、ひとりで10名の兵士を退けられるほどの力量であると聞く。それでいて、森の中に引きこもり、この世の道理を知らぬ蛮族であるらしい。上手く使えば、我々に莫大なる富をもたらしてくれようさ」


 シルエルには、何か算段があるようであった。

 しかし、サイクレウスには関わりのない話である。なおかつ、安らぎの場を失って久しいサイクレウスは、これまで以上に俗世への興味を失っていた。


「しかし、扱い方を間違えれば、こちらを滅ぼす脅威にもなりかねんからな。しばらくは様子を見て、そやつらの扱い方を学ばねばならん。俺は陰から会見のさまを見守らせてもらうので、兄君は決められた通りの手順で相手をしてやるがいいさ」


 それから数日後、サイクレウスは森辺の族長なる人物と対面することになった。

 名前は、ザッツ=スン――野獣のように狂暴そうな、まごうことなき蛮族である。ギバの毛皮を身に纏い、牙や角などを首飾りにしたその男は、人の言葉が通じるとは思えないほどの荒々しい精気をみなぎらせていた。


 数年前のサイクレウスであれば、その魁偉なる姿に怖気をふるっていたかもしれない。

 しかし現在のサイクレウスは空虚な気分に蝕まれて、人間がましい情感も失われかけていた。


「其方が、森辺の族長か。我はトゥラン伯爵家の当主、サイクレウスである。今後は我がジェノス侯の代理人として会見の役目を果たすこととなるので、そのように心得るがよい」


 サイクレウスがそのように伝えると、森辺の族長ザッツ=スンは「ほう……」と黒い火のような目をぎらつかせた。


「これまで我々の相手をしていた老人は、こちらの言葉など耳に入れようともしなかった……そちらは、如何様であろうかな?」


「そちらの言葉とは? 何か申し立てたいことでもあろうか?」


「申し立てたい話など、山積みにされている……そもそもジェノスの貴族というものは、森辺の集落の様相をどれだけわきまえているのだ……? 我々はモルガの豊かな恵みを目の前にしながら、それを収穫することも許されず……今でも多くの民が、貧しさにあえいでいるのだぞ……?」


「ジェノスの宿場町では、ギバの牙や毛皮などを買いつける手はずが整えられているはずであろう。それで貧しさにあえぐということは、其方たちの働きが足りていないのではなかろうかな?」


「生命を賭してギバを狩っている我々の、働きが足りていないと……? 自らの力でギバを狩ることもできぬ石の都の住人が、どの口でそのような妄言を垂れるのだ……?」


 底ごもる声で言いながら、ザッツ=スンは口の端を吊り上げた。まさしく、野獣のごとき笑みである。

 しかし、その狂暴な気配がサイクレウスの心を動かすことはなかった。


「何か申し立てたいことがあるならば、文書で提出するがよい。それが正当な申し出であるかどうかは、こちらで吟味させてもらう」


「文書……? 我々に、文字というものを書き記すすべはない……」


「それでは口頭でうかがう他ないが、あいにく本日は時間がない。また次の会見の日を待つがよい」


 サイクレウスが合図をすると、武官のひとりが褒賞金の包みを手に進み出た。ザッツ=スンの気迫に恐れをなしているのか、真っ青な顔色である。


「こちらが今回の褒賞金である。それを励みに、今後もたゆみなくギバ狩りの仕事を果たすがよい」


 しかしザッツ=スンはサイクレウスをにらみつけたまま、そちらに目をやろうともしない。

 すると、供として控えていた男が思い詰めた面持ちでその腕を取った。


「族長ザッツ=スン、ここは退きましょう。……森辺の民の行く末は、族長の行いひとつにかかっているのです」


 ザッツ=スンはしばらくサイクレウスの姿をねめつけてから、ふいにきびすを返して立ち去っていった。供の男は一礼して褒賞金の包みを受け取り、急いでそれを追っていく。

 そうしてサイクレウスが自分の執務室に舞い戻ると、すぐさまシルエルが姿を現した。


「森辺の民というのは、聞きしにまさる蛮族の群れであるようだな。あのような蛮族の長を前にして、兄君はなかなかの心臓であったではないか」


「……蛮族は、しょせん蛮族であろう。最初から獣と思っていれば、何も怯む理由はない。飢えた番犬を相手にするようなものだ」


「これは頼もしいことだ! ……しかし、あやつらに叛逆されては元も子もない。今後は俺が筋書きを考えてやるので、その通りにあやつらをあしらってやるがいい。その間に、俺があやつらを手駒にする算段をつけてくれようからな」


 シルエルは、魔物のごとき顔で笑う。サイクレウスとしては、そちらのほうがよほど心を脅かされてならなかった。

 きっと腕力やら剣技やらという面では、シルエルよりも森辺の狩人のほうがよほど優れているのだろう。野獣のごとき気迫を有するあのザッツ=スンという男であれば、サイクレウスなど片手でくびり殺せるはずであった。


 しかし、逆に言うならば、サイクレウスより腕力で劣る人間など、この世にそうそう存在しないに違いない。ジェノス城を闊歩する貴族たちでも、それを守る守衛たちでも、城下町でぬくぬくと暮らす者たちでも、貧しさにあえぐトゥランの領民たちでも、荘園で働かされる奴隷たちでも――誰もが、サイクレウスを害せるだけの武力を有しているはずであるのだ。


 だが本来的に、人という存在はさまざまなものに縛られている。

 王国の法や、人としての倫理や――あるいは、他者を傷つけることに対しての後ろめたさや、今の地位を失いたくないという保身の気持ちや、報復に対する恐怖心や――そういったものに手足を縛られて、おのれの鬱屈を抑え込んでしまうものなのである。


 確かにあのザッツ=スンなる蛮族は、野獣のごとき気迫を撒き散らしていた。しかし最後には憤懣の念を押し殺して、サイクレウスの前から立ち去っていった。おのれの激情に従うより、忌々しい運命に従う道を選んだのだ。

 ならば――サイクレウスと同列の存在である。

 サイクレウスが、そのような相手を恐れるいわれはなかった。


(しかし……シルエルは、違う)


 シルエルが恐ろしいのは、虫や小鳥と同じように、肉親を殺せるその気質であった。それほどまでの大罪を犯して、何の罪悪感にとらわれることもない、その魔物じみた本性にサイクレウスは恐怖しているのである。

 なおかつシルエルは、己の罪を覆い隠せる狡猾さまで有している。怒りにまかせて人を殺めるのではなく、逃げ道を確保してから悪事を働くのだ。それが、野獣のごとき森辺の民との決定的な違いであった。


 それでいて、シルエルはそうまで賢いわけでもない。もうじき30歳になろうかという現在においても、どこか子供じみているのだ。そうだからこそ、王国の法や人の倫理というものに縛られることもないのだろう。

 シルエルは、魔物じみた残虐さと、子供じみた愚かさと、俗人そのものの欲望を凝り固めたような存在であり――それがサイクレウスには、何よりも危険な存在に思えてならなかったのだった。


(わたしは、死など恐れない。しかし、もしもわたしがシルエルに逆らったならば、羽をもがれた虫のように弄ばれて、絶望の中で魂を返すことになろう。……あの日の、父君のようにな)


 そうしてサイクレウスは、その後も空虚な日々を過ごすことになった。

 トゥラン伯爵家はいよいよ繁栄していき、ついにはダレイムとサトゥラスの両伯爵家をも凌駕する勢いである。荘園で働く奴隷の人数は数百名にも及び、領民の数は半減することになったが――もはやサイクレウスにとっては、すべて書面の数字の変動に過ぎなかった。トゥラン伯爵家が繁栄すればするほどに、サイクレウスの心は空虚になっていくかのようであった。


 やがてサイクレウスが30代の半ばとなり、先の婚儀から10年ていどが経過すると、新たな伴侶が与えられることになった。シルエル自身は伴侶も娶らずに、屋敷の侍女に手をつけたり貧民窟で悪い遊びをしたりで自由気ままに欲望を満たしている様子であるが、やはり他家との縁を結ぶには婚儀というものが肝要になってくるのだろう。

 しかし、サイクレウスが婚儀を挙げたのちも、子供はなかなか授からない。サイクレウスが仕事にかまけて、ほとんど伴侶の相手をしなかったためである。


 また、ダバッグの秘密の別邸では隠し子が順調に成長しているようであるが、サイクレウスは1度として接見していなかった。別邸そのものには未練がましく通っていたものの、子供とはいっさい顔をあわせないように心がけていたのだ。サイクレウスが望んでいるのはただひとつ、情婦が再び安らぎの場を与えてくれることだけであった。


『子供は、サンジュラと名付けました。言葉の覚えは遅いようですが、とても活発な子供であるので、立派な剣士に育つかもしれません』


 そのように語る情婦は、いつも切なそうにサイクレウスのことを見つめていた。

 サイクレウスがどれだけすげなくあしらおうとも、いつかは報われるものと信じているようである。よって、サイクレウスの心が安らぐことはなかった。


 婚儀を挙げようと、隠し子が育とうと、サイクレウスの心が満たされることはない。

 また、トゥラン伯爵家がどれだけ隆盛しようとも、もはや達成感とは無縁である。

 そんな中で、サイクレウスの心を少しでも慰めてくれるのは――やはり、美味なる料理だけであった。東や南の物珍しい食材で作られる料理を口にするときだけ、サイクレウスは鬱屈を忘れることができた。


 この頃には、物珍しい食材も好きなだけ手にすることができるようになっている。しかしサイクレウスは、可能な限り流通の量を絞っていた。その気になれば、ジェノスの全土に物珍しい食材を行き渡らせて、さらなる富を築くことも可能であるはずであったが――そんな気持ちには、なれなかった。あの東の娘を自分だけのものにしたいと願ったときと同じように、サイクレウスは美味なる料理というものを独占したかった。そのために、名のある料理人はすべて屋敷の料理番に任命し、トゥラン伯爵家に利益をもたらす貴族や料理店にだけ物珍しい食材を流通させるように取り計らったのだった。


(どうせ他なる人間は、別のもので心を満たしているのだ。愛する相手に、やりがいのある仕事に、希望のある未来……だったらこれは、わたしだけの喜びだ。他の人間などに、容易く味わわせてたまるものか)


 サイクレウスは貪欲に、未知なる食材というものを追い求めた。もはやそれだけが、サイクレウスの生きる目的になってしまったかのようだった。


 そうしてさらに数年が過ぎて、サイクレウスが38歳となったとき――ついに、伴侶が懐妊した。

 その翌年に、女児が誕生する。伴侶もずいぶん産後の肥立ちが悪かったようだが、かろうじて魂は返さずに済んでいた。


 しかしそれでも、サイクレウスの心が動くことはなかった。

 伴侶も子供も、すべてはシルエルの企みの結果なのである。産まれた子供も、いずれはシルエルの手駒としてどこかの貴族と婚儀を挙げることになるのだろう。サイクレウスは、そのような存在にかまける気はなかった。


(これが、わたしという存在であるのだ。父や兄を見殺しにするしかなかったわたしは、誰とも関わらずに生きていくべきであるのだ)


 さらに翌年、サイクレウスが40歳となった年である。

 シルエルが、いつになく憤慨した様子でサイクレウスの執務室に駆け込んできたのだった。


「兄君! ジェノス城の連中が、我々に断りもなくバナームとの通商を目論んでいるようではないか! これは、何としたことであるのだ!?」


「……バナームは、自らの力で新たな街道を切り開いたようだな。それで南北の主街道に出ることが可能になり、ジェノスとの通商を計画したのであろう」


「兄君は、指をくわえてそのさまを眺めておったのか!?」


「……バナームは、フワノとママリアの産地で知られる土地であろう。ジェノス侯は、鉄具や織物などを求めて通商を結ぼうとしているのではなかろうかな。そうであれば、我々の利益を損なうことにもなるまい」


「おお! 美食家などを気取っておるくせに、兄君はどこまで迂闊であるのだ!」


 シルエルは、大きな拳で執務の卓を殴打した。


「バナームで育てられるフワノとママリアというのは、トゥランのそれとは色合いも味わいもまったく異なるものであるという評判であるのだぞ! そのようなものがジェノスに出回ったならば、我々が大変な損害を負ってしまうやもしれんではないか!」


「色合いも味わいも異なる、フワノとママリア……? それは、いかなる品であるのであろうか?」


 サイクレウスが思わず身を乗り出すと、シルエルは熾火のように双眸を燃やした。


「そのように呑気なことを語らっている場合ではない! 何がどうあっても、このような通商を結ばせてはならんのだ!」


「しかし……通商の責任者となるのは、バナーム侯爵家の人間であろう? 侯爵家同士の通商であれば、我々に口出しできる余地はあるまい」


 サイクレウスの言葉に、シルエルは魔物のごとき笑みを浮かべた。


「確かにこれだけ大がかりな話では、こちらにも相応の準備が必要であろうな。いよいよあやつらに仕事を任せてみるべきか……いや、森辺の連中はどうにも信用がならん。まずは……《赤髭党》か」


「《赤髭党》? それは……貴族ばかりを狙う盗賊団というやつであろうか?」


「ふふふ。俺もそろそろ、大隊長などという身分に甘んじているのが物足りなくなってきたところだ。ここはひとつ、盛大に運命を切り開いてみせよう」


 そんな言葉を残して、シルエルは執務室を出ていった。

 シルエルのもたらす圧迫感から解放されたサイクレウスは、椅子の背に深くもたれて息をつく。そうすると、ただちに空虚な心地が舞い戻ってきた。


(またシルエルの暗躍によって、何者かの血が流されるようだな……次の犠牲者は、バナームの使節団か)


 しかし、サイクレウスの予測は間違っていた。

 その数日後、シルエル自身が血まみれの姿で屋敷に戻ってきたのである。医術師いわく、刀で額を断ち割られたようだという話であった。


「あやつらは、必ずや俺の手で皆殺しにしてやる! 俺に逆らった愚かさを、骨の髄まで後悔させてくれよう!」


 頭に包帯を巻かれたシルエルは、魔物のごとき笑顔でそのようにがなりたてていた。


「こうなったら、森辺の連中をうまく使うしかない……どれだけ凶悪な蛮族でも、しょせんは蛮族よ! 俺の邪魔をするやつは、魂ごと踏みにじってやるわ!」


 シルエルの狂気を目の当たりにして、サイクレウスは思わず立ちすくんでしまう。

 するとシルエルは、そんなサイクレウスをなぶるように底光りする眼光を突きつけてきた。


「兄君よ……どうか兄君の力でもって、俺を護民兵団の団長に推挙してもらいたい。今のトゥラン伯爵家であれば、ジェノス侯の他に逆らう人間もいなかろう」


「護民兵団の団長に……? しかし、何の理由もなく団長を交代させることなど……」


「大事ない。今の団長殿は、間もなく魂を返すことになろうからな」


 そこからは、暴風雨のように時間が過ぎ去っていった。

 まずは護民兵団の団長が盗賊団と思しき者たちに襲撃されて生命を落とし、シルエルが次なる団長に抜擢され――さらに、バナームの使節団も盗賊団の手にかかって全滅の憂き目にあい――それらの襲撃事件がすべて《赤髭党》の仕業であると断じられ、シルエルの率いる遠征部隊によって捕縛されることになったのだ。


 ジェノスに連行された《赤髭党》の面々は、すぐさま斬首の刑に処されることになった。

 シルエルが、復讐を果たしてみせたのだ。

 たとえおのれの信念に従ってシルエルに逆らおうとも、力が及ばなければこうして破滅することになるのだった。


(察するに……バナームの使節団を襲うために、シルエルは《赤髭党》を手駒にしようと画策し……それに失敗したあげく、刀で斬りつけられたということか。そうして自らの手で復讐を果たすために、森辺の民を使って護民兵団の団長とバナームの使節団を亡き者として……その罪を《赤髭党》になすりつけたのだ)


 シルエルの邪魔となるものは、こうしてすべて破滅した。

 サイクレウスが今も生き永らえているのは、シルエルの罪から目をそらし――自らも手駒となることを肯んじたためであるのだ。


 しかしサイクレウスが、今さらそのような悪徳に心を痛めることはなかった。

 そもそもサイクレウスは、父や兄の謀殺さえをも見逃した身なのである。

 サイクレウスの魂は、その時点で穢れている。

 そうであれば、どれだけの罪を重ねようとも同じことであった。


 そうしてその後は森辺の民を手駒としたシルエルによって、さらなる悪行が重ねられるかと思われたが――モルガの森を抜けてシムに向かおうとしていた商団が襲撃されたのを最後に、ひとまずなりをひそめることになった。

 その理由は、明白である。3ヶ月に1度の接見の日に、森辺の族長の座が息子に受け継がれたと知らされたのだ。


「今後は我が族長として、貴族との会談に臨むことに相成った……どうかこれまでと変わらぬ、安らかなつきあいを願いたい……」


 そのように語る森辺の新たな族長は、ズーロ=スンと名乗っていた。

 父親とはまったく似たところのない、いかにも卑俗な人間である。父親にそっくりの重々しい口調で語ろうとしていたがまったくさまになっておらず、その目にははっきりと怯えの色が宿されていた。

 それに、供の男はこれまでと同一であったが、まだ老齢ではなかろうに白髪だらけの頭となって、死人のように虚ろな目つきになっている。ザッツ=スンが有していた野獣めいた気迫など、こちらの両名には望むべくもないようであった。


「あれではもはや、森辺の民どもも使い物にならんな! まあ、あやつらの後釜には当てがあるので、何も案ずることはない!」


 森辺の民との接見を終えたのち、シルエルはそのように言い放っていた。

 きっとシルエルはその言葉通り、今後も悪行を重ねていくのであろうし――虚言に虚言を重ねてその罪を隠蔽しようとも、魂に刻まれた罪が消えるわけではない。そしてそれは、シルエルの悪行に加担してきたサイクレウスも同様であったのだった。


(森辺の民は、わたしを滅ぼす存在ではなかった。ジェノス侯も、こちらの暗躍に気づいている気配はないし……トゥラン伯爵家の罪を裁けるのは、もはや天上の神々のみであるのやもしれんな)


 ならばサイクレウスはこの魂が天に召されるまで、美食をむさぼる所存である。

 そうして諸々の騒ぎが終息してから、3年後――サイクレウスの伴侶が身罷ることになった。


 産後の肥立ちが悪かった伴侶は、ずっと病がちであったのだ。ダバッグから戻ったサイクレウスが寝所を訪れると、伴侶はすでに冷たくなっており――そして、4歳になった娘がその亡骸に取りすがって泣き伏していたのだった。


「申し訳ありません。我々も手を尽くしたのですが……伯爵様のお帰りまで、ご伴侶のお命をつなぐことはかないませんでした」


 寝所に控えた医術師たちは青い顔でそのように言いたてていたが、サイクレウスは何も感じていなかった。伴侶との間に情愛などは存在しなかったし、そんな自分が死の床に立ちあっても伴侶の心が安らぐとは思えなかったのである。


(シルエルなどに見込まれたのが、不運であったな。しかし……いずれの家に嫁いだとしても、子を生す運命に変わりはない。であれば、これが其方の天命であったのであろうよ)


 サイクレウスがそのように考えていると、寝台に突っ伏していた娘がいきなりつかみかかってきた。

 リフレイアという名を与えた、小さな女児だ。リフレイアはサイクレウスの足もとにしがみつき、涙に濡れた目で見上げてきた。


「かあさま、しんじゃった……とうさま、あいたがってたのに……」


 リフレイアもまた、サイクレウスの父や兄弟と同じように、淡い色合いをした茶色の瞳をしている。

 涙に濡れているためか、それは幼子とも思えぬほど強い輝きをたたえており――そしてそこには、限りない悲哀とサイクレウスを責めるような光がくっきりと宿されていた。


「……取り乱すな。其方は、トゥラン伯爵家の世継ぎであるぞ」


 サイクレウスがそのように呼びかけても、リフレイアは足もとから離れようとしなかった。

 サイクレウスには、為すすべがない。嘆く我が子にどのように振る舞うべきか――その頭を撫でてやるべきなのか、あるいは厳しく叱責するべきなのか、まったく判断がつかなかったのだ。


 そうしてサイクレウスが立ち尽くしていると、目もとを赤くした乳母がリフレイアの身をそっと引き剥がしてくれた。

 リフレイアは乳母の身に取りすがって、再び泣きじゃくる。その泣き声に押し出されるようにして、サイクレウスは伴侶の寝所を出ることになった。


(なんだ……わたしが心を乱す理由などない! 伴侶など、子を産ませるための手駒に過ぎんのだ! 娘など、家を繁栄させるための手駒に過ぎんのだ!)


 サイクレウスは小走りで回廊を抜け、自らの寝所に逃げ込んだ。

 間もなく黄昏刻であるので、室内は薄暗い。そんな中で、普段は見向きもしない姿見がサイクレウスを誘うようにぼんやりと輝いていた。


 ふらふらと歩を進めたサイクレウスはその姿見に映された姿に、愕然とする。

 そこには醜い小男の姿が映しだされていた。

 いまだ43歳という齢にありながら、そのしなびた顔には老人のように皺が寄り、小さな目は毒針のように輝いている。そしてその肌は、まるで死人のように青黒かった。


(わたしは……これほどまでに、醜かったのか……)


 サイクレウスがそのように考えたとき、たとえようもない虚脱感が足もとからたちのぼってきた。

 胃のあたりがじくじくと痛み、手足から力が抜けていく。腹の中身がびくびくと蠕動して、今にも吐いてしまいそうだった。


(ふん……神々が、ついにわたしの罪を裁こうとしているのか……? それなら、好きにするがいい! わたしは魂を召されるその瞬間まで、悦楽をむさぼるのみよ!)


 サイクレウスは半ば倒れ込むようにして椅子に座し、卓上の呼び鈴をつかみ取った。

 鈴の音に呼ばれて、次の間に控えていた小姓が入室してくる。サイクレウスは粘つく舌を動かして、命令を下した。


「晩餐の準備を……今日は、こちらに運ばせるがいい……」


「か、かしこまりました。ですが、その……伯爵夫人のお亡骸は……?」


「そのような雑事に頭を悩ませるのは、従者の役割であろう……それとも其方は、我に亡骸を運ばせようという心づもりであろうかな……?」


「め、滅相もございません! それでは、晩餐をお持ちいたします」


 小姓は恐怖の面持ちで、寝所を後にする。

 それを見送るサイクレウスの心は、空虚そのものである。

 そしてサイクレウスの空虚を埋められるのは、美味なる料理のみであったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ