第四話 愚者の畢生(一)
2022.10/17 更新分 1/1
・今回は全9話の予定です。
・なお、アンケートで選ばれたキャラのうち1名だけ、執筆が間に合いませんでした。そちらは次回の更新分で本編の前に公開する予定ですので、あらかじめご了承ください。
30年以上も昔の、若かりし頃――サイクレウスの胸には、深甚なる鬱憤ばかりがあふれかえっていた。
その理由は、ただひとつ。伯爵家の当主たる父親と、その後継者たる兄が、あまりに愚鈍であったためである。
その当時、トゥラン伯爵家は他なる伯爵家から一段低く見られていた。宿場町を管理するサトゥラス伯爵家と広大な田畑を管理するダレイム伯爵家は順当に富を築いて宮廷内の勢力を広げていたのに、フワノとママリアの荘園だけを管理するトゥラン伯爵家はそれらの物資をまったく有効に活用できていなかったのだ。
「食事の要たるフワノと果実酒の原料たるママリアは、人の生活に欠かせぬものでありましょう。また、余所の領地においてはこれほどのフワノとママリアを育てることも難しいのだと聞き及びます。我々はフワノとママリアを銅貨の代わりとして、余所の領地との通商に励むべきではないでしょうか?」
サイクレウスがそのように提言しても、父や兄たちは嘲笑うばかりであった。
「フワノとママリアを、銅貨の代わりに? フワノを銅貨の形に焼きあげて、刻印でも打とうというのか? それで通商に応じるような人間がいたならば、確かに我々も莫大な富を築くことができような」
「いえ、そうではなく、物資と物資で取り引きをするのです。それで手にした物資を売りさばけば、相応の富を得られるのですから――」
「それなら、フワノとママリアを売るのと同じ額の銅貨しか得られないではないか。間に余計な取り引きをはさむ分、手間が増えるだけのことだ」
「いえ、もちろん販売の際には利益が出るように価格を調整するのです。物珍しい商品であれば、それでも売れ残ることはないでしょうし――」
「そのようにフワノやママリアを外に売りさばいてしまったら、我々の食事に不便が出てしまうではないか。其方はジェノスの民を飢えさせようというつもりであるのか?」
「いえ、ですからもちろんその前に、荘園の拡張を――」
「荘園を広げるのに、どれだけの費用がかかると思っておるのだ? 人手というものは、地面から勝手に生えのびるものではないのだぞ。何の責任も負わずに便々と暮らしておると、そのように当たり前の話も失念してしまうのであろうかな」
サイクレウスがどれだけ情理を尽くして説得しようと試みても、最後にはそうして嘲弄されるばかりであった。
父や兄には、現状を打破しようという気概がないのだ。多少の損をかぶってでも、より高みを目指そうという心意気がないのだ。たとえ他なる伯爵家より貧しかろうとも、当主の一家は十分に安楽な生活を過ごしているのだから、何も危険な賭けに出る必要はない、と――最初から、怠惰な安寧に埋没してしまっているのだった。
(なんと自堕落で、向上心のないやつらだ。フワノやママリアには大きな価値が秘められているというのに……こいつらは、自分たちの手にある恵みの価値すら理解していないのだ)
しかしサイクレウスがどのように気炎をあげようとも、伯爵家の当主は父であり、その後継者は兄である。どれだけ立派な家に生まれつこうとも、第二子息には何の権限も生じないのだ。サイクレウスには、それが無念でならなかった。
「そのような戯れ言より、其方はさっさと婚儀の相手でも見つくろうがいい。20歳にもなって浮いた話のひとつも持ち上がらぬとは、貴族の恥であるぞ」
「まあ、お前のような器量では、それも難しいのであろうがな。いっそ、伴侶を失った寡婦でも狙ってみてはどうだ? お前の倍ほども年を食った貴婦人であれば、若いというだけで食いついてくるやもしれんぞ」
そのように語る兄は22歳で、翌月に婚儀を控えた身であった。
父や兄はすらりと背が高く、外見だけはいかにも貴族らしい風格を有している。いっぽうサイクレウスは母親に似たのか、並の貴婦人よりも小柄な瘦身矮躯である。また、サイクレウスは貴族の社交というものにさしたる興味を持てなかったため、これでは婚儀の相手など望めるわけもなかった。
(わたしは、トゥラン伯爵家を立て直してみせる。婚儀や伴侶のことなどで思い悩むのは、その後だ。……わたしはまず、この身の力を世に示さなければならないのだ)
そんな憤懣を抱えながら、サイクレウスは父たちのもとから退去した。
そうして回廊を歩いていると、大柄な人影がこちらに近づいてくる。それはサイクレウスの弟である、第三子息のシルエルであった。
「兄君は、また父君たちと不毛な語らいに勤しんでいたのか? 毎日毎日、ご苦労なことだな」
シルエルは兄に負けないぐらい背が高く、しかも南の民のようにがっしりとした体格をしていた。また、18歳という若年であるにも拘わらず、たいそうな剣技を有しているのだ。
ただしその厳つい顔には、内面の酷薄さが隠しようもなくにじみ出ている。シルエルは罪もなき侍女や小姓をいたぶることに悦楽を覚えるような、嗜虐の性であったのだ。また、幼い頃には虫や小鳥をこっそり害していた姿を、サイクレウスは物陰から盗み見ていた。
(こいつが兄でなかったのは、何よりの幸いだ。もしもこいつが、伯爵家の嫡子であったなら……我々も没落の一路を辿るしかなかっただろう)
サイクレウスがひそかにそのように思案していると、シルエルはいっそう酷薄そうに笑った。
「兄君は賢いので、父君たちの愚鈍さが我慢ならないのであろうな。まあ、焦らず時を見ることだ。いずれは偉大なる西方神が、正しき道を示してくれるだろうさ」
シルエルが神を語るなど、片腹痛い話である。
しかし、この暴虐なる弟を怒らせてはならないということを、サイクレウスはこの18年間で思い知らされている。よって、その場においても「そうだな」と短く答えて、逃げるように立ち去ることになった。
兄が魂を返したのは、その数日後のことである。
鍛錬のために中庭でトトスを駆けさせていた兄は、鞍から落ちて首の骨を折ってしまったのだった。
翌月に婚儀を控えていた兄の、突然の訃報である。
兄にすべての期待をかけていた父は失意の底に沈み、婚儀の約定を交わしていた貴婦人は数日ばかりも泣き暮れることになった。
そして、それが契機となったのか、父は病魔に見舞われてしまった。
最初はわずかに熱を出していただけであったのだが、次第にやつれ果てていき、ついには寝台から身を起こすこともできなくなってしまったのだ。ジェノスで一番の医術師にも、それを治癒する手立てはなかった。
「まったくもって、原因がわからないのです。あまりにお気持ちが沈んでしまったため、未知なる病魔を呼び込んでしまったのか……いかなる薬でも、ご当主様の病魔を退けることはかないません」
そうして父が臥せった後は、サイクレウスが当主の代理として執務を果たすことになった。
しかし――それでもなお、父がサイクレウスの言葉を聞き入れることはなかった。
「荘園の拡張など、まかりならん……其方は我の代理として、伯爵家の富を守るのだ……さもなくば、其方の爵位継承権を剥奪してくれるぞ……」
無惨にやつれ果てた顔で、ただその淡い色合いをした目だけをぎらぎらと光らせながら、父はそのように言っていた。
よって、サイクレウスの憤懣はつのるばかりである。兄が死去した今、当主の座を継ぐのは自分であるのに、けっきょく何の権限も与えられないまま、ただ雑務の処理に尽力させられている。これでは腕の悪い傀儡使いの傀儡にでもなったようなものであった。
(けっきょくわたしは、父君の言いなりになるしかないのか。これでは、鞭で打たれて走らされるトトスも同然だ)
だが、そのような生活も長くは続かなかった。
父が病魔に臥してから3ヶ月ほどの日々が過ぎ、銀の月を越えた頃――ついに父も、魂を返すことになったのだ。
「……どうか最後は、家族だけで看取らせてもらいたい」
シルエルが感情を押し殺した声でそのように言いたてると、医術師たちは父の寝所を出ていった。
父はまだかろうじて息をしていたが、寝所にはすでに死臭が満ちているかのようである。寝台の父を見下ろすシルエルはおかしな感じに顔を歪めながら、分厚い肩を小さく震わせていた。
(さしものシルエルも、親に対しては人間らしい情を抱いていたということか)
そんな風に考えるサイクレウスは、まったく気持ちが定まっていなかった。むろん、50歳にもならない内に魂を返そうとしている父のことを哀れに思い、空虚な気分であるのだが――自分が果たして父の死を悲しんでいるのかどうか、まったく判然としなかったのだ。
思えばサイクレウスは、父に愛されていたという実感を持っていなかった。父は自分によく似た兄ばかりに情愛を注ぎ、偏屈なサイクレウスや暴虐なシルエルをはっきりと疎んでいたのだ。幼き頃に母を失って以来、サイクレウスはいずれの家族に対しても深い溝を感じてしまっていた。
それに――父が死去したならば、ついに当主の座はサイクレウスのものである。
今後は父の目を恐れることもなく、好きなように事業を拡大できるのだ。そのように考えると、サイクレウスはどうしようもなく気持ちが昂ってしまい――そして、そんな自分の浅ましさに罪悪感を呼び起こされてしまうのだった。
「父君……父君は、さぞ無念でありましょうな……」
シルエルが床に膝をつき、寝台に横たわる父の顔を覗き込んだ。
父はほとんど土気色の顔で、ひゅうひゅうと頼りない呼吸を繰り返している。もういつその呼吸が止まってもおかしくはないように思えた。
「そもそもの始まりは、兄君の死でありました……あれほどトトスに乗ることが巧みであった兄君が、まさか転落して首を折ってしまうなどとは……誰にも予測できなかった悲運でありましょう」
そのように語るシルエルの身が、いっそう大きく震えていく。今やその逞しい背中が波打つほどの勢いであった。
「ただ……兄君には、何の責任もないことです……トトスが棘のある木の実を踏んで首をのけぞらした際に、たまたま手綱の留め具が外れてしまうなど……いかなる騎手であっても、避けようのない運命でありましょうからな」
「…………」
「しかし……どうして屋敷の中庭に、あのように危険な木の実が落ちていたのか……どうして小姓たちが毎日手入れをしている手綱が、あの日に限って不備であったのか……庭師や小姓をどれだけ罰しても、父君の悲しみを癒やすことはできなかったことでしょうな」
父は虚ろな目で、シルエルの顔を見返している。
そしてサイクレウスは、大きく震える弟の背中に呼びかけることになった。
「シルエルよ。そのような話を蒸し返しても、詮無きことであろう。それよりも、父君に手向けの言葉を届けるがいい」
「これこそが、俺の手向けの言葉であるのだ……このままでは、父君の魂も浮かばれまいからな……」
そのように答えるシルエルの声も懸命に感情を殺しつつ、どうしようもなく震えてしまっていた。
「あと、それに……父君の病魔についてもだ……ジェノスきっての医術師でも太刀打ちできぬ病魔など、聞いた覚えもない。じわじわと肺の力が弱っていき、やがて自力では息をすることもできなくなってしまう病魔など……どうしてあれほど壮健であられた父君が、そのような病魔に見舞われてしまったのであろうな」
「…………」
「ひとつ、考えつくとしたら……それはやはり、シムの毒であろう。シムの毒には未知なるものも多いので、どれだけの知識をおさめた医術師でも解明できぬことはあるのだろうな……3ヶ月ばかりも時間をかけて、わずかずつ毒を盛られていたというのなら、なおさらにだ」
力なく垂れ下がっていた父のまぶたが、ゆっくりと大きく見開かれていく。
それで剥き出しにされた瞳に浮かぶのは――まぎれもなく、恐怖の激情であった。
「父君は何も案ずることなく、神に魂を返すがいい……全能にして寛大なる神々であれば、父君の愚鈍さを責めたてることもあるまいよ……父君の失敗はただひとつ、俺の才覚と執念を見誤ったことだ」
父の瞳が、急速に輝きを失っていった。
そうしてその目が完全に曇ると、シルエルはのそりと身を起こす。
やがてサイクレウスのほうを振り返ったシルエルの顔は――泣いているのではなく、笑っていた。その顔には、魔物のごとき醜悪な笑みが刻まれていたのだった。
「これでトゥラン伯爵家の富と権勢は、我々のものだ! 兄君よ! これからは誰の目をはばかることなく、当主としての力を振るうがいい! この俺が、すべての才覚でもって支えてみせようぞ!」
そうしてシルエルは、狂ったように笑い始めた。
それでサイクレウスは、すべての真実を察することができたのだ。
兄と父は、神々のもたらした命運によって魂を返したのではない。この暴虐なるシルエルが、我が身の欲得のために弑したのである。
そして、その歪んだ願いが成就された瞬間に、サイクレウスの命運も定められてしまったのだった。
◇
サイクレウスは、トゥラン伯爵家の当主として生きることになった。
ただし、神々に祝福された継承ではない。実の弟の策謀による、血塗られた継承である。それはまるで御伽噺で聞くような、醜い権勢争いそのままの様相であった。
しかしサイクレウスは、弟の罪を糾弾することはできなかった。
父や兄の死がシルエルの仕業であるという証拠など、どこにも存在しなかったのだ。そうして勝ち目もないままにシルエルを糾弾したならば、次に魂を返すのはサイクレウスであるはずであった。
「兄君には商売の才覚が、俺には他者を支配する才覚が備わっている。俺たちが力を合わせれば、ジェノス侯爵家よりも大きな富をつかむことがかなおう。兄君の働きに、期待しているぞ」
父の葬儀を終えた後、シルエルは毒々しい笑みとともにそんな言葉を投げかけてきた。
シルエルには、当主の座を担う器量など備わっていない。それで、サイクレウスの存在は殺さずに利用することに決めたのだろう。それに、伯爵家の当主というものには多大な雑務がつきまとうものであるので、それをサイクレウスに押しつけようという魂胆であるようであった。
サイクレウスはシルエルのそういった思惑をすべて呑み込んだ上で、当主としての務めを果たすことになった。
サイクレウスとしては、ずっと背中に刀の切っ先を当てられているような心地であったのだが――もはやその恐怖から脱するには、公務に没頭する他なかったのだ。
シルエルにせっつかれるまでもなく、サイクレウスにはトゥラン伯爵家を再興させるための腹案があった。フワノとママリアの荘園を拡張して、余所の領地との通商に励むのだ。トゥランで育てられるフワノとママリアの品質には定評があったので、商売の成功は約束されているようなものであった。
それにサイクレウスには、誰にも語ったことのない夢想があった。
さまざまな食材を手中にして、この世の誰も味わったことのない美味なる料理を作りあげる――そんな、子供じみた夢想である。
もとよりサイクレウスは、幼少の頃より美食を好む気質であった。
どうして自分がそのような気質に育ったのかは、わからない。ただ、母が読み聞かせてくれる御伽噺や神話の中で、サイクレウスはいつも美味なる料理が登場する場面で胸を高鳴らせていたのだった。
豊穣神マドゥアルの泉にわく生命の美酒というのは、いったいどのような味をしているのか――不死なる獣の丸焼きや、虹を溶かした汁物料理や、口にしただけで翼が生える果実というのは、いったいどれほど美味であるのか――そんな夢想にひたるとき、サイクレウスは何より幸福であったのだ。
ジェノスはフワノやママリアばかりでなく、ダレイムの畑でさまざなま食材が育てられている。しかし、外界にはそれよりも数多くの食材が存在することを、サイクレウスはすでに知っていた。この時代からジェノスは交易の要であったため、東や南やさまざまな領地の行商人を迎え入れることができていたのである。
しかし、ジェノスで食材を売りさばこうとする人間は少なかった。
もともとジェノスには、数多くの食材があふれかえっていたためである。その反面、ジェノスでは鉄具や装飾品や織物などが不足していたため、人々の多くはそちらにばかり注力していたのだった。
(シムの行商人などは荷車にいっぱいの食材を積んでいるというのに、ジェノスでは買いつけようとする人間もいない。まずは、それを買いつけられるだけの富を手中にするのだ)
サイクレウスは文字通り、粉骨砕身の思いで公務に取り組んだ。
実の弟たるシルエルの大罪から目を背けるには、それしか道がなかったのだ。
最初の数年間は、それで問題なかったように思う。
シルエルは絶え間なくサイクレウスの行動をうかがっているようであったが、こちらの公務に口出しをしようとはせず、裏でひそかに己の欲得を満たしていたようであるのだ。
そうして荘園の拡張計画がいよいよ軌道にのってきた頃――父の死から、3年ほどが過ぎた頃合いである。
執務室を訪れたシルエルは酒臭い息を吐きながら、初めてサイクレウスの働きに口をはさんできたのだった。
「荘園を拡張してさらなる富を築きあげようという兄君の思惑も、じょじょに実をつけ始めたようだが……これではあまりに、迂遠に過ぎような。ここはひとつ、大々的な変革を試みるべきではなかろうか?」
「……大々的な変革?」
「荘園の仕事に、奴隷を使うのだ。もっと北方の領地では、そうして大きな富を生んでいるそうだぞ」
にたにたと醜悪な笑みをたたえながら、シルエルはそう言った。
「兄君が荘園を拡張したおかげで、トゥランはずいぶんと領民が増え、税収も上がったように見受けられる。しかしそもそも荘園で働く領民どもに賃金を支払っているのは、我々であるのだ。そこで賃金のいらぬ奴隷を使えば、莫大な富が期待できようさ」
「しかし……奴隷とは、北の民のことであろう? マヒュドラから遠く離れたこのジェノスで、奴隷を買うすべなどはあるまい」
「そこは俺が、話を通しておいた。ジェノスには、さまざまな行商人が訪れるし……それに、宿場町の貧民窟という場所には、数多くの無法者が身を寄せている。存外に、そういった手合いのほうが世知に長けているものであるし、奴隷商人というものにも顔がきくようだぞ」
「其方は……貧民窟などに出入りをしているのか?」
「ふふふ。下賤な場には、下賤な楽しみも多いのでな」
父の没後、シルエルはトゥラン騎士団長の座を襲名している。それは半分がた名誉職のようなものであったが、それでも立場ある人間がそのような場所に出入りすることは許されないはずであった。
「まあとにかく、騙されたと思って奴隷を使ってみるがいい。もうふた月もしたら、何十名かの奴隷が運ばれてくるはずだからな。それでこちらの思惑が当たるようなら、トゥランの荘園を奴隷で埋め尽くしてくれようぞ」
敵対国たるマヒュドラの民をトゥランの地で使役するなど、おぞましい限りである。
しかし柔弱なるサイクレウスが、シルエルに逆らうすべはなかった。
「ところで兄君は、この前の銀の月で24歳になったのであったかな? もうそろそろ、伴侶を娶る時分であろう」
「伴侶? ……そのようなものにかまけているいとまはない」
「まあそう言うな。実は、兄君に相応しき貴婦人を見つくろっておいたのだ。伯爵家の当主たるもの、世継ぎの育成を二の次にはできんからな」
シルエルの眼差しが、サイクレウスの脆弱な心にねっとりとからみついてくる。
それは父と同じく色の淡い茶色の瞳であったが、まったく比較にならぬほどの力感とおぞましさを宿していた。
(こいつは……わたしに当主の座を与えながら、裏からすべて支配しようとしているのだ)
サイクレウスは、そのような思いを新たにすることになった。
そして、自分がそれに逆らえないことも、すでに思い知らされていた。
そうしてサイクレウスは、顔も名前も知らなかった貴婦人と婚儀を挙げることになった。
その貴婦人はサトゥラス伯爵家に縁ある子爵家の令嬢であり、強い意思も個性も備えていなかった。サイクレウスは器量の悪い小男で、気性はいっそう陰気に成り果てていたが、伯爵家の当主であれば文句の言いようもない、という心持ちであったようだ。
サイクレウスは何の感動もなく婚儀を挙げ、初夜を迎え、子を授かった。
だが――不幸なことに、そのお産で伴侶と子はともに魂を返すことになった。それを耳にしたシルエルは、愉快そうに笑っていた。
「これはあの脆弱な女に、兄君の伴侶たる資格がなかったということだな! まあ、あちらの家とはひとまず縁を結ぶことができたし、このように不出来な娘を嫁がせた責任を問うこともできよう。……また時期を見計らって手頃な相手を準備してやるので、兄君は憂いなく公務に励むがいい」
どうやらシルエルにとって、サイクレウスの婚儀というのは盤上遊戯の一手に過ぎないようであった。
そしてサイクレウスも、それは同様である。また、婚儀という名の盤上遊戯に興味のないサイクレウスは、シルエルよりもなお非情なのかもしれなかった。
(わたしは弟の罪を糾弾することもできなかった、卑怯者だ。このような血を後世に残す甲斐などなかろう。……わたしは、わたしのためだけに生きる。トゥラン伯爵家はわたしとともに隆盛し、わたしとともに滅んでしまえばいいのだ)
そうしてサイクレウスは、いっそう公務に没頭することになった。
シルエルの買いつけた奴隷というものは、確かに有用である。奴隷を買いつければ買いつけるほど、伯爵家の富はふくれあがっていった。そのぶん、仕事を失った領民たちがトゥランを去っていくことになったが――そんな話も、もはやサイクレウスの心を痛めることはなかった。
サイクレウスが俗世から目を背けている間に、トゥラン伯爵家の勢力はじわじわと拡大されていく。サイクレウスの計画はいずれも成功し、この頃には少しずつ外来の食材を手中にできるようになっていた。
だが――いささか、いぶかしい点もある。
何もかもが、うまくいきすぎているのだ。
もちろんサイクレウスは勝算あって事業の拡大に取り組んでいるのだが、それらはいずれももっとも速やかな形で成功を収めていた。厄介な商売敵が現れても、奴隷の買いつけに異を唱える人間が現れても、こちらが手を打つ前に消え失せてしまうのだった。
なんとなく、賽の目遊びで常に最適な目が出ているような心地である。
そしてそれは、シルエルのほうも同様であった。シルエルはいつしかトゥラン騎士団から護民兵団へと身を移し、若年の身で大隊長にまで成り上がっていたのだ。
「これ以上の身分を望むには、軍資金が足りておらんな。俺の躍進は兄君の働きにかかっているのだから、その調子で頼むぞ」
シルエルはあの魔物のごとき笑顔で、そのように言い放っていた。
それでサイクレウスは、シルエルが何か暗躍していることを察したのだった。
シルエルは力と権勢を手に入れるために、父や兄を謀殺するような人間であるのだ。
ならば――今もなお、同じ手管で力と権勢を求めているに違いない。そしてそのために、サイクレウスがさらなる富を築きあげることを期待していたのだった。
(けっきょくわたしは、不出来な傀儡に過ぎないのだ……傀儡使いが、父君からシルエルに交代されたに過ぎないのだ)
そんな風に考えると、さしものサイクレウスの心も均衡を失いそうだった。
そして、そんな折――サイクレウスは、その娘と出会ったのである。
それは、隣の領地であるダバッグにまで足をのばした際のことであった。
カロンの肉や乳から派生する食材を優先的に買いつけるため、ダバッグの商会に顔のきく貴族と密談をしていたのだ。その折に、貴族の男がその娘を引き連れていたのだった。
「実は、珍しいものを手に入れましてな。ご伴侶を亡くされたトゥラン伯の無聊をお慰めいたしたく思い、こうして参じさせたのです」
それは、東の生まれの女人であった。
まだ若い、20歳にもなっていないような娘である。黒い肢体に薄物だけを纏っており――そしてその背は、矮小なサイクレウスよりも頭ひとつ分は上回っていた。
「シムの娘……何故そのようなものが、ダバッグの地に?」
「そこはそれ、どうかご内密に。これほど希少な品はなかなかありませんでしょうから、娼館に売り渡す前に味わっていただきたかったのです」
下卑た笑いを浮かべる男のかたわらで、娘はいかなる感情も表していなかった。
もとより東の民というものは、感情を表すことを恥と考えている。しかしその娘は、感情を隠しているというよりも――すべての感情が死に絶えてしまっているように見えた。
サイクレウスは、その娘に耽溺した。
何の感情も持っていない、人形のごとき女――それほど自分に似つかわしい存在はないように思えたのである。
そしてこれは、シルエルの準備した人形ではない。サイクレウスが自らの手でつかみ取った、初めての存在であったのだ。娘が閨の場でも死者のごとき静謐さを保ったことが、サイクレウスをいっそう魅了してならなかった。
そうして、翌朝――サイクレウスは、この娘を銀貨で買いつけることになった。
この娘が他の人間の手に触れられることなど、どうにも我慢できなかったのだ。サイクレウスはありったけの銀貨をはたいてダバッグの郊外にある屋敷までをも買いつけて、そこに娘を囲うことになったのだった。
サイクレウスは、ついに安らぎの場を得ることになったのだ。
それは性根が歪んだ人間の、道理に背いたかりそめの安らぎに他ならなかったが――当時のサイクレウスにとっては、幼き頃に亡くした母の温もりを取り戻したような心地であったのだった。




