ひとつなぎの道(四)
2022.10/4 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
(俺の運命も森辺の運命も、常に変転の連続だった。しかしその中でも、もっとも大きな変転であったのは……もしかしたら、こやつらの存在なのかもしれんな)
そのように思案するドンダ=ルウの視線の先には、アイ=ファとアスタの姿があった。
レイの家長と弟を失った年から、およそ3年の後――ドンダ=ルウが44歳となった年である。分家のシーラ=ルウと婚儀を挙げた次兄ダルム=ルウに初めての子が産まれ、それを祝福しているさなかのことであった。
アスタとアイ=ファは何も気づかずに、ダルム=ルウらに祝福の言葉を投げかけている。彼らを呼びつけるためにいったん家を出たドンダ=ルウは、土間に立ったままそれを背後から見下ろしている格好であった。
ドンダ=ルウはこの44年間、常に変転の中で生きてきた。
しかしもっとも大きな変転であったのは、2年と数ヶ月前にこのアスタと出会ったことなのではないかと、ドンダ=ルウはそんな思いに至っていた。
出会った当時のアスタというのは、まごうことなき厄介者であった。この得体の知れない若者は突如としてモルガの森に出現し、よりにもよってファの家に引き取られたという話であったのだ。
しかもファの家はほどなくして、最長老ジバ=ルウに生きる気力を取り戻させるため、美味なる料理を捧げたいなどと申し出てきた。アイ=ファはルウ家と縁を絶ったはずであるのに、末妹リミ=ルウがそのような約定を取りつけてしまったのだ。
その頃のドンダ=ルウの胸中にあふれかえっていたのは、ほとんど敵対心に近い激情であった。
ひとたびはドンダ=ルウの救いの手を払いのけて、リミ=ルウやジバ=ルウとも縁を切ろうとしていたアイ=ファが、今さらそのような話を申し出てきたのだ。ドンダ=ルウにしてみれば、自らと家族の誇りを踏みにじられたような心地であった。
そうしてアスタが準備したのは、ぐちゃぐちゃとやわらかい不気味な料理である。『ハンバーグ』という名を持つその料理は、狩人の魂を穢す毒だとしか思えない存在であった。
しかし――その料理を口にするなり、ジバ=ルウはかつての力を取り戻した。
数年前から足腰が弱り、ついには歯までもが抜け落ち始め、偉大なる最長老もひっそりと魂を返す時を待ちかまえていたはずであるのに、突如として若かりし頃の気力をよみがえらせたのである。
ドンダ=ルウはその功績をもってして、ファの両名を処断しないことにした。
穢れた料理をふるまった罪と、最長老に気力を与えた功績を、相殺させたのだ。その後はまた、ルウに関わりなき存在として切り捨てるつもりであった。
だが――アスタは再び、料理を供したいと申し出てきた。
今度こそ、ドンダ=ルウを満足させるだけの料理を準備してみせると、そのような大口を叩いてきたのである。
それでドンダ=ルウはルティムの家をも巻き込んで、ファの家を処断することにした。ルティムとミンの婚儀の前祝いの晩餐を準備させて、その失敗をあげつらおうと画策したのだ。
ただその行いは、半分がた威嚇に過ぎなかった。スンと悪縁を結んだファがルウをも敵に回したならば、もはや森辺に生きる場所はなくなるはずであるのだ。このように厳しい条件を突きつければ馬鹿な申し出を引っ込めるだろうと、そのように考えた末の行いであった。
しかしアスタとアイ=ファは無謀な申し出を取り下げることなく、ドンダ=ルウの準備した試練をも乗り越えてみせた。
ルウの家長として誰よりも厳格であろうとするドンダ=ルウを、本当に「美味なる料理」などというもので満足させてみせたのである。
あの日の衝撃を、ドンダ=ルウはいまだ忘れていなかった。
アスタの供した料理というものは、本当に素晴らしい出来栄えで――しかもアスタは、ドンダ=ルウの胸に渦巻いていた怒りや不満の念をも正しく理解して、森辺の民にとってもっとも正しい食事というものを考案してみせたのだった。
そしてそれからは、怒涛のように日々が過ぎていった。
ルティムの家と懇意になったアスタたちは婚儀の祝宴の宴料理までをも任されて、ドンダ=ルウの受けた驚きと衝撃をルウの血族のすべてに与えることになった。
さらにその後には、いきなり宿場町で商売をしたいなどと申し出てきた。森辺の民がさらなる豊かさを求めるならば、ギバの肉を商品にするべきだなどと言い始めたのだ。
アスタとアイ=ファであれば、そんな夢想をも実現してみせるかもしれない。
しかしドンダ=ルウは、ルウの家長である。ルウはいずれスンを滅ぼし、森辺の新たな族長筋となるべき立場であるのだ。ドンダ=ルウはルウの家長として、すべての血族に――とりわけ次代の家長たる長兄ジザ=ルウに、誰よりも正しく厳しい姿を見せなければならなかった。
それでドンダ=ルウは、再び厳しい条件を突きつけることになった。
もしもアスタの行いが森辺の民にとって害になるようであれば、右腕をいただく、と――それほどまでに、厳しい条件を出してみせたのだ。
ただこのたびは、威嚇のつもりではなかった。
もちろんアスタたちの覚悟をはかろうという思いはあったものの――彼らであれば、再びドンダ=ルウの準備した試練を力強く乗り越えるのではないかと、そんな期待のほうがまさっていたように思えた。
そうしてアスタたちは、まんまとドンダ=ルウの準備した試練を乗り越えてみせた。
もちろんそれは、持てる力をのきなみ振り絞った結果であったのだろう。こちらで準備したのは女衆の人手だけであったのだから、あとはすべてアスタたちの裁量でもって、屋台の商売などというものを成功させてみせたのだった。
その末に待ち受けていたのが、スン家との対決である。
アスタが途方もない富を生み出す存在であると察知したスン家が、ファの家に魔手をのばそうと企てたのだ。
ルウの血族は、いまだスンの血族を圧倒できるだけの力を手に入れていない。
しかしドンダ=ルウは、すべての力でファの家を支援することに決めた。
また、このたびはファの家を利用してスン家を打倒しようなどと画策したわけではない。それに、ファの家の行いをすべて正しいと認めたわけでもない。屋台の商売というものはいまだ10日ていどしか行われていなかったので、この時点では軽々しく正否を定めることもかなわなかったのだ。
よって、ドンダ=ルウが守ろうとしたのは――ファの家の自由意思である。
ファの家の両名が何を思い、どのような覚悟で現在の行いに及んでいるか、それをすべての氏族に周知させて、全員で正否を見定めさせるべきであると判じたのだ。スン家がそれを妨害しようという心づもりであるならば、刀を取ってでも守るべきであると、ドンダ=ルウはそのように決意したのだった。
(今にして思えば、ずいぶん危うい賭けに出たものだ。アイ=ファもアスタも、あれほど忌々しく思っていた相手であったのにな)
ドンダ=ルウがアスタと出会い、アイ=ファと再会してから、この時点でまだひと月と10日ていどしか経っていない。なおかつ、ドンダ=ルウがアスタの力量を認めて祝福の牙を授けたのは、出会ってから10日以上も過ぎてからのことである。つまりドンダ=ルウは、わずかひと月足らずの間でそれほどの思いを抱え込むことになっていたわけであった。
前回の家長会議から1年ぶりに再会したアイ=ファは、驚くほど大きな成長を果たしていた。ドンダ=ルウはそうまで正確に余人の力量を量ることはかなわないが、それでもこれはルウの血族でも勇者に匹敵する力量ではないかと思えるほどであった。
いっぽうアスタは、生白い若造である。いかにも町の人間らしく、何の力も感じられない。きっと腕力などは、森辺の女衆に劣るほどであっただろう。それで、男衆でありながらかまど仕事に興じるなど、柔弱の極みとしか思えなかった。
しかしアスタは、奇妙な気迫と力感をその内に宿していた。腕力などとは関係なく、アスタは狩人に匹敵するほどの気迫や覚悟を隠し持っていたようなのである。
あるいはそれは、自らの仕事に対する覚悟と誇りであったのだろうか。
ドンダ=ルウたちが狩人としての誇りを力にかえているように、アスタはかまど番としての誇りを力にかえている。つまりは、そういうことなのかもしれなかった。
ともあれ――ファの両名は、スン家の魔手をも打ち破ってみせた。
しかも、スン家が森辺の掟を破り、森の恵みをあさっていたことをも暴いてみせたのである。
ただそれは、ファの両名の力ばかりでなく、ヤミル=レイ――かつてのヤミル=スンの力であったのかもしれない。
ザッツ=スンに次代の族長と見なされていたのは、なんと長姉のヤミル=スンであったのだ。数年前にこちらの長姉ヴィナ=ルウと穏やかならぬ縁を結んだ女衆がここで大きく取り沙汰されることになろうとは、ドンダ=ルウにとっても意想外のことであった。
何にせよ、ヤミル=スンはザッツ=スンから後継者と見なされていた。あのザッツ=スンにそうまで見込まれるぐらい、大層な力を有した女衆であったのだ。
そのヤミル=スンが、おそらくはスン家の滅びを願った。
ザッツ=スンの思惑通りにスン家を導くのではなく、己の裁量でもってスン家を滅ぼそうと画策し――その計略の中に、ルウとファを巻き込んだようなのである。
ともあれ、スン家は滅ぶことになった。
20年ばかりも無念を抱え込むことになったルウの血族は、誰の生命も犠牲にすることなくスン家を滅ぼすことがかなったのだった。
しかしドンダ=ルウは、勝利の美酒に酔いしれることもなかった。スン家の背後には悪辣な貴族の影がちらついていたため、そちらをどうにかしないことには胸をなでおろす気持ちにもなれなかったのだ。
そしてその際にもドンダ=ルウたちに道を指し示したのは、アスタであった。
ただスン家を処断するだけでは、話は終わらない。どうしてスン家がこのような存在に成り果ててしまったのか――それは、ジェノスの貴族や町の人々と正しい関係を築くことができなかったからではないのか――と、一介のかまど番がそのように言いたててきたのである。
ドンダ=ルウは、その言葉に重きを置いた。そして、ザザやサウティとともに新たな族長筋の座を受け継ぎ、ジェノスの悪辣な貴族たち――サイクレウスやシルエルと相対することになったのである。
その後にも、さまざまな変転が相次いだ。集落から逃げ出したザッツ=スンとテイ=スンが大変な騒ぎを巻き起こしたり、謎の存在であったカミュア=ヨシュがいよいよ大きく関わってきたり、アスタがサイクレウスの娘にさらわれたりと、息をつく間もなかったのだ。
その果てに、森辺の民はサイクレウスとシルエルを打倒することがかなった。
そうしてついに、森辺の民の君主たるジェノス侯爵マルスタインと相まみえることになったのである。
そこからは、新たな戦いが始められた。
刀の戦いではなく、頭の戦いである。あるいは、魂の戦いとも言えるだろう。森辺の民の進むべき正しい道は、いずれの方向にのびているか――同胞の全員で、それを見定めることになったのだ。
その道中で、森辺の民はさまざまな相手と絆を深めることになった。
そして、ファの家の提唱する町での商売も正しい行いであると認められ、今後は森辺の同胞のすべてでその行いを果たすことになった。
そしてその合間には、刑場を脱走したシルエルや盗賊団、それに邪神教団などというものを相手取ることになった。それもまた、森辺の民が正しい道に進むための、避けられない戦いであったのだろう。
そしてまだまだ、道は途上である。
町での商売は順調であるし、ジェノスの貴族とも正しい絆を結びつつある。セルヴァの王や王都の貴族というのはいささか厄介な存在であるようだが、今のところはそちらも安定している。しかし、それでもなお、ドンダ=ルウたちは戦いのさなかであるはずであった。
決して道を踏み間違えないように、一歩ずつ慎重に足を踏み出していく。苦難の内容はまったく違っているのであろうが、父たるドグラン=ルウや祖母たるジバ=ルウも、こうして家人を導いてきたのだろう。そして現在のドンダ=ルウは族長として、すべての同胞を正しい道に導かなければならないのだった。
「ドンダ父さんは、いつまで後ろに引っ込んでるの? そんな場所じゃ、赤ちゃんの顔もよく見えないでしょ?」
と――無邪気な声音が、ドンダ=ルウを追憶から呼び起こした。
声の主は、末妹のリミ=ルウである。リミ=ルウはダルム=ルウの腕を抱きすくめつつ、土間のドンダ=ルウに笑いかけていた。
そして、こちらに背を向けていたアイ=ファも、うろんげに振り返ってくる。
「ドンダ=ルウは赤子ではなく、我々の背中を見据えていたようだな。我々はドンダ=ルウの申し出に甘えて、こうして早々に挨拶をすることがかなったのだが……やはり、意に沿わぬ思いもあったのであろうか?」
「うるせえな。そんな思いを抱え込んでまで、貴様らを招き入れる理由などあるか」
ドンダ=ルウが広間に踏み込むと、伴侶のミーア・レイ=ルウがすぐさま座る場所を空けてくれた。
そちらに目でうなずきかけてから、ドンダ=ルウは敷物に座す。そして、シーラ=ルウの腕に抱かれた赤子の姿をあらためて見やった。
ドンダ=ルウにとって、3人目となる孫である。
その赤子は黒褐色の髪をしており、閉ざされたまぶたの下には青い瞳が隠されている。だからというわけではないが、それは誰よりも父たるダルム=ルウに似ているように思えた。
その場に集った家族たちは、みんな慈愛に満ちた眼差しで赤子の姿を見守っている。
その中で、最長老のジバ=ルウはとりわけ温かい眼差しをしていた。
次兄のダルム=ルウは7名の兄弟の中で、もっともドンダ=ルウに似ていると言われていた。ダルム=ルウが産まれた日も、ジバ=ルウは目に涙を溜めながらそのように語っていたのだ。
では――この赤子も、ドンダ=ルウが赤子であった頃とよく似ているのだろうか。
この世でそれを知っているのは、いまやジバ=ルウを筆頭とする老人たちのみである。ジバ=ルウがどのような気持ちで赤子の姿を見守っているのかと考えると、ドンダ=ルウはたいそう落ち着かない気持ちであった。
そしてその場には、最初の孫であるコタ=ルウとその妹のルディ=ルウまで控えている。ルディ=ルウはもちろん草籠で眠ったままであるが、コタ=ルウは眠そうな顔をしながらも懸命に赤子の姿を見つめていた。
20年後や30年後には、これらの赤子や幼子たちがルウの血族を導いていくのだ。
そしてドンダ=ルウは、ジザ=ルウやダルム=ルウらが産まれたときにも、同じような心地でいた。
だからやっぱりジバ=ルウは、今のドンダ=ルウと同じような心地で、かつてのドンダ=ルウやドグラン=ルウの生誕を見守っていたのかもしれなかった。
「では、我々はそろそろ失礼するとしよう。分家の者たちも、挨拶をしたくて気をもんでいるであろうからな」
そんな風に言いながら、アイ=ファは肘でアスタの腕を小突いた。
「うん」とうなずくアスタは、まだ大粒の涙をこぼしている。この柔弱なる若者は、家に入る前からすでに涙目となっていたのだった。
(この2年と少しで、こいつもずいぶん風格が出てきたように思っていたが……こういう際の柔弱さは、まったく成長しておらんようだな)
しかしまた、それもアスタの特性なのであろう。どれほど深く縁を結ぼうとも、ダルム=ルウやシーラ=ルウやその赤子は、アスタにとって血族ならぬ相手であるのだ。そんな相手に対しても、喜びの涙を抑えることができない――アスタはそれだけ情の深い人間であるからこそ、血族ならぬ森辺の民のためにあれほど奮起することができたのかもしれなかった。
そうしてファの両名とシュミラル=リリンが退いた後は、分家の者たちが次々と押しかけてくる。それに、この時間まで居残っていたユン=スドラやトゥール=ディンといった女衆らも、心から幸福そうな面持ちでシーラ=ルウらに祝福を捧げていた。
それらの挨拶をすべて見届けてから、ドンダ=ルウたちは自分の家に戻ることになったわけであるが――安らかな眠りは、半刻も経たない内に叩き壊されることになった。何者かが、母屋の戸板を叩いてきたのである。
「このような夜更けに、申し訳ない。そちらも新たな赤子が産まれたと聞いたので、あるいはまだ起きているかと思ったのだ。……実はこちらでも、ヴィナ・ルウ=リリンの子が無事に産まれたのでな」
そのように告げてきたのは、リリンの若い男衆である。何年か前に、ルティムから婿入りした若者だ。
「ヴィナ・ルウ=リリンらも今頃は寝入っているであろうから、挨拶は明日にお願いしたい。それでは、失礼する」
それだけ告げて、男衆はトトスにまたがり、母屋の前から立ち去っていった。その背中を見届けたのは、ドンダ=ルウと2名の息子たちである。さきほどの男衆はごく控えめに戸板を叩いていたので、眠りを邪魔されたのは狩人たる男衆のみであったのだ。
「まさか、同じ夜にふたりも赤子が産まれるとはなー。他の連中も、叩き起こすか?」
「わざわざ寝入った者たちを起こす意味はあるまい。ただでさえ、とっくに寝入っている刻限であるのだからな」
「じゃ、明日の朝に伝えてやるかー。ちびリミたちがどんだけ仰天するか、楽しみだなー」
そうして翌朝、ドンダ=ルウはリミ=ルウらの騒ぐ声で目覚めることになってしまった。
「えーっ! ヴィナ姉の赤ちゃんまで産まれちゃったの? それなら、すぐ会いに行かないと!」
「でも、トトスはルウルウしか残ってないぜー? 眷族の連中が家に戻るのに使っちまったからなー」
「だったら最初に、アイ=ファに伝えに行こー! アイ=ファたちだって赤ちゃんに会いたいだろうし、あっちにはギルルがいるはずだからね!」
すっかり目が覚めてしまったドンダ=ルウが広間にほうに出向いてみると、すでにリミ=ルウらの姿はなく、サティ・レイ=ルウがひとりで赤子の草籠を揺らしていた。
「おはようございます。家長ドンダは、すでに報せを受けているそうですね。今はリミたちがファの家に向かっていますので、そちらが戻るまでお待ちいただきたいとのことです」
「ふん。気ぜわしいこと、この上ねえな。……リリンの家には、また赤子まで連れていこうという思惑か?」
「はい。ルディやコタにとっては、兄弟の次に血の近い赤子の生誕ですので……なるべく立ちあわせたいと願っています」
母たるサティ・レイ=ルウがそのように考えたのなら、ドンダ=ルウにも文句はない。そうしてドンダ=ルウがルディ=ルウの寝顔を眺めていると、やがて寝所からはジザ=ルウが、玄関からはルド=ルウが現れた。
「よー、親父もジザ兄も起きたんだなー。ルウルウは荷車につなげておいたから、親父たちはそれでリリンの家に向かってくれよ。俺は居残って、アスタたちに拾ってもらうからさー」
「ファの者たちも、やってくるのか? そろそろ屋台の下ごしらえというものを始める刻限であろう?」
「そりゃー赤子の姿を拝んでおかねーと、商売にも手がつかねーって気持ちなんじゃねーの? もうユン=スドラとかが来てたから、取り仕切りの役目をお願いしてたぜー。……こっちでだって、ララやレイナ姉が他の女衆に頼んでたしよー」
そのように語るルド=ルウがにっと白い歯をこぼしたとき、それを突き飛ばす勢いでララ=ルウも駆け込んできた。
「こっちは準備できたから、一刻ぐらいなら抜けられるよ! さっさと出発しよー!」
「荷車は1台だから、乗れる家族は半分ぐらいだぜー? 残る半分は、アスタに拾ってもらうしかねーな」
「それじゃあ、レイナ姉を先に乗せてあげて! レイナ姉が早く戻れば、他の女衆も安心だから!」
ララ=ルウに腕を引っ張られるようにして、ドンダ=ルウらは荷車に乗り込むことになった。ダルム=ルウの家まで出向いていたというミーア・レイ=ルウもコタ=ルウを抱きかかえつつ、それに続いてくる。
「本当にララは、ドグランみたいな迫力が出てきたみたいだね。まあ、あの子はこれから新たな眷族の家長の嫁になる身だし……これぐらいの迫力が、ちょうどいいのかもしれないね」
ドンダ=ルウが「どうだかな」と応じると同時に、ジザ=ルウの運転によって荷車が動き始めた。
そうして荷台に座したドンダ=ルウの膝に、コタ=ルウが取りすがってくる。
「じい。ヴィナも、あかちゃんがうまれたの?」
「ああ。どうやら、そのようだ」
「そっか」とうなずくコタ=ルウは、普段通りのあどけない面持ちである。
コタ=ルウはすでに3歳になっているが、父の弟妹にあたる家の出産をどのように認識しているのか――傍目からは、なかなか見当をつけることもできなかった。
(俺もこの頃には、最初の弟や父ドグランの弟の子などを迎えていたはずだが……さて、どんな心持ちであったかな)
ドンダ=ルウがやたらと追憶に耽ってしまうのは、やはり新たな孫が産まれた影響であるのだろうか。
そんな風に考えながら、ドンダ=ルウはコタ=ルウのやわらかい髪を指先で撫でてみせた。
(こいつが産まれたときのことは、今でもはっきりと覚えている。俺は初めての孫を授かった喜びに打ち震え……そして、喜びの念までもがスン家の打倒には足枷になるのではないかと悶え苦しんでいたのだ)
そしてドンダ=ルウはコタ=ルウが産まれてすぐに、古きの友たるレイの家長と、弟のひとりを失うことになった。
ドンダ=ルウは、そんな悲嘆や葛藤もひた隠しにしていたつもりであったが――どれだけ苦心しようとも、そういった思いはこぼれるものである。
ドンダ=ルウがこの世に生まれ落ちたとき、ルウの集落は燃えるような生命力にあふれかえっていたように思う。
コタ=ルウは、果たしてどのような思いを抱いているのか――ドンダ=ルウは、父ドグラン=ルウや祖母ジバ=ルウのように、確固たる生きざまを見せることができているのか――それを判じるのは、コタ=ルウたちの側であった。
ドンダ=ルウがそんな想念にとらわれている間に、荷車はリリンの家に到着する。
リリン本家の面々と、助力に駆けつけていたティト・ミン=ルウ――それに、新たな家人たる赤子が、ドンダ=ルウたちを出迎えた。
「あらぁ、ずいぶん早くに駆けつけてくれたのねぇ……レイナなんかは、屋台の準備があったんじゃないのぉ……?」
「うん。だけど、商売の終わりまでは待てなかったからさ」
レイナ=ルウは姉のかたわらに膝をつき、その手の赤子を覗き込んだ。
「わあ、シュミラル=リリンにそっくりの髪だね。それにすごく、可愛い顔……これは、女の子でしょう?」
「うん……たったひと晩で、すいぶん顔立ちが落ち着いてきたみたい……」
確かにその赤子は、産まれたてとは思えないほど眉目が整っているように思えた。
すると、ミーア・レイ=ルウはドンダ=ルウの思いを代弁してくれる。
「この子は、赤子の頃のヴィナにそっくりだねぇ。あんたよりは、落ち着いてる感じがするけど……でも、目もとも口もともそっくりなような気がするよ」
「そう……わたしにも、こんなに可愛い時代があったのかしらねぇ……」
「あはは。赤子の頃だけじゃなく、ヴィナ姉は15歳になってすぐにあちこちから婚儀を願われるぐらいの器量だったじゃん」
騒がしい妹たちがまだ到着していないためか、レイナ=ルウが子供のようにはしゃぎながらそのように言いたてた。
そして、ジザ=ルウの手を離れたコタ=ルウが歩み寄り、赤子の顔をそっと覗き込む。その黒く見えるぐらい深みのある青色の瞳には、ずいぶん透き通った輝きがたたえられているように感じられた。
「昨日の夜には、ダルムの子も産まれたそうねぇ……その子と一緒に、コタもこの子の面倒を見てくれる……?」
ヴィナ・ルウ=リリンがそのように呼びかけると、コタ=ルウは赤子を見つめたまま「うん」とうなずいた。
「コタ、めんどうみるよ。とうやじいみたいに」
「ジザ兄やドンダ父さんみたいに……? それはどういう意味かしら……?」
「とうやじいも、あかちゃんのめんどうをみてたんでしょ?」
その言葉に、ジザ=ルウが不思議そうに首を傾げた。
「それはまあ、どのような幼子でも年少の子の面倒を見る機会はあろう。俺などは、下に何人もの弟妹がいたし……分家のディグド=ルウあたりも2歳ほど年少なので、多少は面倒を見た覚えがある。しかしコタが、どうしてそのような話をわきまえているのだ?」
「ジバがおしえてくれた」というのが、コタ=ルウの返答であった。
するとジザ=ルウが、「ああ」と口もとをほころばせる。
「そういえば、俺も幼き頃に最長老から同じような言葉を聞かされた覚えがある。家長ドンダや先代家長ドグランも、そうして幼子の面倒を見てきたのだから、それを見習うように、とな。……もしや、家長ドンダもそうであったのでしょうか?」
ドンダ=ルウが無言でうなずいてみせると、ジザ=ルウはいっそう柔和に微笑んだ。もともと笑っているように見える顔立ちのジザ=ルウであるが、これほどはっきりと笑顔を見せるのは珍しいことである。
「長きを生きてきた最長老だからこそ、三代にわたって同じ教えを施すことがかなうわけだ。事と次第によれば、先代家長のドグランとて同じ教えを施されていたのかもしれないし……そのように考えると、何だか果てしないことのように思えてしまうな」
ドンダ=ルウもまた、目眩のような感覚を覚えることになった。
ドンダ=ルウが産まれてから、44年間――あるいは、父たるドグラン=ルウが産まれてから、66年間――そのような長きにわたって同じ教えを施してきたというのは、確かに物凄い話であるはずであった。
(我々は、そうして同じ道を歩んできた。そしてこれからも、同じ道を歩み続けるのだ……87歳となった最長老も、産まれたばかりの赤ん坊たちも……魂を返す、その瞬間まで)
ドンダ=ルウたち森辺の民は、正しき道を進もうとしている。そしてその道はまだまだ途上であると判じていたが――それも、当然の話であった。この道には、終着点など存在しないのである。
ジバ=ルウたちの切り開いた道をドグラン=ルウたちが受け継ぎ、ドグラン=ルウたちが切り開いた道をドンダ=ルウたちが受け継ぎ――そして、ドンダ=ルウたちが切り開いた道をジザ=ルウたちが受け継ぎ、ジザ=ルウたちが切り開いた道をコタ=ルウたちが受け継ぐ。さらに、コタ=ルウたちが切り開いた道を、その子や孫たちが受け継いでいくのだった。
それは、終わりのない苦難の旅であるのだろうか。
確かにドンダ=ルウたちは、悪辣なるスン家や貴族どもを討ち倒しても、まだまだ息つく間もなく駆け続けている。しかしそれこそが、人の生というものなのかもしれなかった。
コタ=ルウたちがどのような道を進むのか、ドンダ=ルウに見届けることはかなわないだろう。
あるいはジバ=ルウのように長く生きられれば、コタ=ルウやその子や孫の生きざまも見届けられるのかもしれないが――いつか必ず、限界は訪れる。200年や300年もの行く末を見届けることなど、人の身には決してかなわないのである。
しかしその道は、かつてドンダ=ルウたちが切り開いた道の先に存在するのだ。
自分の子や孫や、さらに顔を見ることもできないその先の子孫たちとも、進むべき道は繋がっている。そのように考えれば、どれだけ険しい道のりであっても弱音をこぼす気にはなれなかったし――また、孤独や寂寥を覚える必要もないはずであった。
「し、失礼します! ルウ本家の方々と、ファの両名です! シュミラル=リリンのご一家に、ご挨拶にうかがいました!」
ほどなくして、そんな言葉が戸板の向こうから聞こえてきた。
残りの家族らと、ファの両名――アスタとアイ=ファがやってきたのだ。
ウル・レイ=リリンの手によって扉が開かれると、それらの者たちの姿があらわにされた。その先頭に立つアスタは、また涙目だ。
(本当に、締まらねえ野郎だな)
ドンダ=ルウがそんな風に考えていると、コタ=ルウが膝の上によじのぼってきた。ドンダ=ルウが目をやると、コタ=ルウはあどけなく笑っている。
「じい、うれしそう。……コタも、アスタがすき」
「そいつは、聞き捨てならねえな」
ドンダ=ルウは小声で応じながら、指の先でコタ=ルウの髪をかき回してやった。
ドンダ=ルウの子供たちは、アスタたちと同じ道を進むことになる。そしてドンダ=ルウやコタ=ルウたちも、今は同じ道を歩んでいるのだ。
いずれドンダ=ルウは彼らよりも早く力尽き、コタ=ルウは彼らが力尽きたのちも新たな道を進み続けるのであろうが――今この瞬間は、同じ方向に目をやって、同じ道を突き進んでいるのだった。
この先も、森辺の民の行く末にはさまざまな苦難が待ち受けていることだろう。
年をくった人間は、その苦難のさなかに魂を返すことになるかもしれない。父たるドグラン=ルウや、ドグラン=ルウの弟や、ドンダ=ルウの上の弟や、旧友であったレイの家長たちなどが、スン家の滅びを見届けられなかったように――後世に希望を託すしかない事態もありえるのだ。
しかし、そのような希望を胸に魂を返せるならば、どれだけ幸福なことだろう。
父たるドグラン=ルウたちも、決して不幸ではなかったのだ。父の死去する5年前の齢に追いついたドンダ=ルウは、ようやくその事実を理解できたような心地であった。
(魂を返すその瞬間まで、正しき道を進み続ける。それでようやく、人は後世に希望を託すことがかなうのだ)
そんな風に考えながら、ドンダ=ルウは腰を上げることにした。後続の者たちのために、席を譲ることになったのだ。
アスタにアイ=ファ、リミ=ルウにララ=ルウ――そして、ルド=ルウに背負われたジバ=ルウが広間に踏み入ってくる。
コタ=ルウを抱いたドンダ=ルウは、すれ違いざまにジバ=ルウの顔をうかがった。
ジバ=ルウもまた、ドンダ=ルウのほうをうかがっていた。
大きく垂れさがったまぶたの下には、とても透き通った光がたたえられており――それは、ドンダ=ルウがまだ赤子であった時代と何ら変わらない輝きであるように思えてならなかったのだった。




